私は、肩で息をしていた。キーボード叩くって肉体労働なんだな、と思った。

ふと我に返ると、足の先にうそ寒さを感じた。それは腰から背筋を這い上って、すっぽりと私を包んだ。

その嫌悪感を、罪悪感と呼ぶのだと、すぐに気づいた。

全然知らない人なのに、こんなことをしてはいけない。その声は確かに私の中にあるのに、あまりにか細くて、力を持たない。

次の日から、私は、沖田くんを目で追うようになった。

声をかけるなんてできない。近づくことさえ恐れ多い。私の理想の世界と現実をつないでいる、計り知れない存在に対して、私ご時が接触なんてしたくない。

そして、尊いシチュエーションが頭の中に去来するたびに、それをなんの工夫も構成もなくひたすらキーボードを叩き続ける。私自身見たこともなければ聞いたこともない行為を、架空の沖田くんは私のテキストの中で、想像任せにどんどん繰り広げていく。

もしなにか不慮の事故で私がこの世を去ったとして、この文章が遺品整理をしようとした両親の目にでも触れようものなら、私の霊は家を揺るがすような叫び声をあげるだろう。

これから先、どんなに死にたいと思うようなつらいことがあったとしても、このデータを削除するまでは死ねない。そういう意味では、なにより私を強く生かしてくれる特効薬が、沖田くんの妄想だった。

そうこうしているうちに、あっという間に一年は過ぎ、二年生のクラス分けが発表された時は、ひいと思わず悲鳴が漏れた。

廊下に張り出された掲示を何度見返しても、沖田瀬那くんの名前が、私と同じ2-Aのところに書かれている。

すでにその時には、私のテキストファイルは、ロックをかけたフォルダの中に無数にひしめいていた。



……思い出してはみたものの、まったくもって、ろくでもない思い出だった。

まだよく知らない人のことを噂話なんてできないなどと言っておきながら、文字と想像の世界ではとんでもないことをさせている。

「やめなきゃ、こんなこと……」

口に出しても、手は言うことを聞いてくれない。

現実の沖田くんといると、すごく胸が高鳴る。彼の力になってあげたいと思う。

でも、妄想の沖田くんは、私のことを助けてくれる。彼のおかげで生きる意欲が湧いてくる。

後者だけで私は楽しく生きていけるはずなのに、現実の沖田くんと距離を置くことが、私にはできそうもない。

いまだに慣れない自己嫌悪がまた強まってくるのを感じながら、私の閉じた瞼の裏には、今日の沖田くんの笑顔が浮かんでいた。

――衿ノ宮は、男が好きな男なんて、好きになったりしないだろ?

そうだよ。私が夢中なのは、私の想像の中の沖田くんだから。

だから、本物の沖田くんを好きになんてなるわけがない。確かに見た目はとてもかっこいいけど、それだけで人を好きになんてなるわけがない。

彼を好きになるようなことを、私はなにもしたりされたりしていないのだから。

ただ、猛暑の日に、自分の身を挺して友達のひさしになってあげるような優しさを持っていると、あの日知っただけだ。

私ご時を、女子だからという理由で気遣ってくれる性格だと知っただけだ。

それからなぜか、目で追い続けてしまうというだけなのだ。

だからこの気持ちは、きっと勘違いだ。

もしそうでなくても、誰にも明かされない他愛もない感情としてじきに消えていくに違いない、と言い聞かせてきたのだ。

私と沖田くんが現実に接近することなんて、あるわけがないと思っていたから。




沖田くんと待ち合わせをしたのは、期末試験を終えた、七月半ばの土曜日だった。

午前十時、新宿西口、改札を少し出たところ。

「あれ、衿ノ宮早いな。まだ二十分前だぞ。待った?」

そう言って現れた沖田くんは、明るいブルーのサマーニットから白いシャツがのぞき、スキニーパンツ姿で、すらりとした体に色も形もよく似合っていた。キャンパスシューズは紺色で、汚れ一つない。

「ううん、今着いたところ」

なんというテンプレな答えだろうと思いつつ、ほかに返答のしようが浮かばない。

「ウソカノの件、頼んでから少し時間が空いちゃったな。でも期末も終わったし、この時期って開放感あっていいよな。何事もうまくいきそうだ」

テスト期間中はお互い勉強に忙しく、お昼や放課後に時折世間話を少しするくらいだったので、まとまった時間をとって沖田くんと話すのは久しぶりだった。

「今更だけど、本当に私でいいのかな。嘘っぽくない?」