それに対して沖田くんの声は、幾分聞き取りにくかったけれど、どうやら「暑いに決まっているだろう」というようなことを答えたらしい。

起き上がった人が、けらけらと笑った。

「いやー、ひさしになってくれたのか。いいとこあるじゃん、瀬那。じゃあなに、真昼時で太陽が真上にあったら、上から覆いかぶさってくれんのか?」

これに対しては、「そんなわけあるか。もう帰る」みたいなことを答えたようで、沖田くんは文庫本を閉じて歩き出した。

こちらの方へ向かってくるので、私は――なぜか――慌てて校門の方へ向き直った。背中越しに、起き上がったほうの人の声が聞こえてくる。

「まあ待てよ、瀬那。お前って普通にいいやつなのに、クラスだとめちゃくちゃ浮いてるよな? お前がそうしたいなら、この次期生徒会長、神巳一郎(じんみいちろう)様が、クラスに溶け込めるように一肌脱いでもいいんだぜ」

「なに言ってるんだ、お前は」

この時初めて、沖田くんの肉声がはっきりと聞こえた。あきれたような、けれどさらさらと乾いた、春先の風のような声。

そして、乱れた足音と、押し殺したような声がする。

なんだろうと思って、つい振り向いた。

すると、二人の姿はなかった。中庭のたもとの校舎の陰に隠れたんだな、ということは、すぐに分かる。

「お前なあ!」

春の風の声がそう叫びながら、沖田くんは校舎から出てきた。唇を手の甲でぬぐっている。なにを――しだんだろう。

「はっはっは、軽いスキンシップだよ。国によっちゃただの挨拶なのかもしれないぜ」

「しれないのかよ、せめて断言しろよ! まったく……」

毒づきながら、沖田くんは足を速めた。

あっという間に私の横に来て、そのまますれ違いそうになる。私はその時、指が震えて、手に持ったままだったハンドタオルを落としてしまった。

沖田くんは、あ、と言ってかがみ込み、それを拾ってくれた。軽く表面を払ってから、私へ返してくれる。そして小さな声で、

「見えたかな。女の子に変なもの見せてごめん、勘弁してくれな」

と呟いた。

勘弁?

なにを? 見えませんでしたが、なにをしたんですか?

そう訊くことはできなかった。

間近で見た沖田くんの顔は、その辺りの女子よりよほどきれいだった。前髪の奥の目が、夕日の中で一層濃く、その存在を主張していた。

再び歩き出す沖田くんに、もう一人の男子が追いすがろうとして、こちらも私に

「しい」

と口止めのポーズをした。

こちらの人は彫りが深く、顔にメリハリがあって、沖田くんとはタイプの違う美形だった。肩甲骨のあたりまであるオレンジ色の長髪を、縛りもせずに揺らして、あっという間に去っていった。

私は、胸が熱く高鳴っているのを自覚した。

一目散に、家に帰った。

そして買ってもらったばかりのノートパソコンをがばりと開くと、練習したブラインドタッチで猛然と文章をつづり出した。

この時期、既に私はBLにはまっていた。

今まで主に二次元で妄想を繰り広げていた私に、今日の出来事は刺激が強すぎた。

私は、沖田くんのことを、名前、顔、声くらいしか知らない。沖田くんの顔立ちが整っていたこともあって、映画のスクリーンの向こう側にいる人のように、どこかその存在に現実感がなかった。

そのころ私が読んでいたBLはどれも、絵がきれいで、言葉がきれいで、登場人物の心がきれいで、ほとんど私にとっての理想の世界だった。

その世界に、私の想像の沖田くんに足を踏み入れてほしくて、たまらなくなっていた。

学校で孤立している高校生。唯一心を許しているのは、オレンジの髪のちょっと不良っぽい男子。二人は、ええと――そう、幼馴染で、お互いにとても大切な相手。神くんといったか、彼の髪は、実は沖田くんが染めてあげているのだ。神くんは、ほかの人には決して髪を触らせない。特別な、たった一人――沖田くんにしか。

彼らは家に帰ると、必ずどちらかの部屋に行く。これは毎日の習慣。

神くんが、ほかの女子を見ていただろうとか、教師で気になるやつがいるのかとか、沖田くんにちょっかいをかける。

沖田くんは少し赤面しながらすねてみせて、やがて神くんの胸に頭を預け、そして……そして……

「ふ、ふあああああ」と気持ちの悪いため息が私の口から漏れる。

筆が止まる気配はなかった。

気が付くと、真夜中になっていた。そういえばお母さんに、もう寝るわよとあきれた声でドアの向こうから言われたような気がする。