登場人物

 阿良々木 長太郎(50)九九尾村の村主
 阿良々木 綾子(45)その妻
 阿良々木 長一(21)その息子

 阿良々木 次郎(48)長太郎の弟
 阿良々木 やすは(43)その妻
 阿良々木 文次郎(19)その息子
 阿良々木 ふみ(17)その娘
 阿良々木 雄二(15)その息子

 紺野 雪子(38)朔太郎の母
 紺野 朔太郎(19)雪子の息子

 千葉 景虎(20)T大学二回生
 千葉 道山(40)景虎の父
 千葉 苑子(49)道山の妻

 冷泉 誠人(19)T大学二回生
 白峰 瑞樹(19)T大学二回生

 プロローグ
 秋のもみじが綺麗な村。

 夏の終わりと入れ替わるように、秋の訪れが山一面に拡がる。
 こんもりとブロッコリーの大群のように生い茂った緑の葉に混じる赤や紅、橙に黄が非常に風流だった。
「もうすぐだぜ、吊り橋が見えてくるんだ。そこを超えたら九九尾村。俺の育った村だ」千葉景虎は両手を広げ、満面の笑みで振り返った。
「ここまで長かったな」冷泉誠人は額の汗を拭いながら、周囲を見遣る。折り重なる紅葉が揃って手招きしているようだった。
 隣の白峰瑞樹は、一転して涼し気な顔を浮かべている。
 聞けば、日焼けしても赤くなってすぐに白く戻る肌質のようで、陶磁器のような肌理の細かな肌色をしている。長めの髪は黒々と艶めいて、切れ長の黒曜石に映る紅葉たちさえも輝いて見える。
 一方の千葉景虎は、よく日に焼けた小麦色の肌に少し赤みがかった硬そうな髪がツンツンのびている。頬にはそばかすがあり、笑うと綺麗な八重歯が見える。細めだが筋肉質の引き締まった身体に、身長は、百七十五センチを少し超えるくらいの冷泉よりも低い。
 白峰瑞樹は冷泉と同じかほんの少し低いくらいの身長をしていた。触れば引き締まっているのだが、着やせするタイプらしく、ほっそりと女性的である。
 冷泉はさらりと顔にかかってきた髪を指で跳ねのけ、よく乾いた土を踏んだ。
 今回、男三人で旅をするにいたったのには訳がある。
 
 千葉 景虎 殿
 九月九日、九九尾村にて、九つの首を待っております。
 斬首人

 差出人不明の、こんな怪文書が千葉景虎のもとに届いたのは、一週間前のことだった。
 九九尾村というのは、景虎が生まれ育った村のことである。自らの出生の地にまつわる、不気味な予言めいた文書を受け取った景虎は、同じT大学の剣道部の冷泉誠人に相談を持ち掛けたのである。
「おー、見えてきたぞ、吊り橋が」
 景虎の声はよく通る。谷の向こうに走っていったその声は、不思議な歪みをもって幾重にも連なり返って来た。
「うわー、これ何メートルくらいあるの」瑞樹が谷底を覗き込んで暢気な声をあげた。
「百メートルくらいかなぁ。日本一のつり橋が百四十二メートルとかなんとか言っていたから」景虎も膝に手をついてその激流を覗き込む。
「……これ一つしかないんだろう? 村と村の外との連絡口は」冷泉はごくりと喉を鳴らした。
「ないね」
「……そうか」冷泉の背中につつーっと嫌な汗が伝った。
 もしこの吊り橋が使えなくなったら――?
 今までそんなことがなかったから、九九尾村の人達は暮らし続けているわけで。そんな滅多なことあるはずがない。しかし――、これまで遭遇した様々な事件において、犯人はあらゆる方法を駆使して、外界との連絡を絶ってきた。
 そんなことを考えていると、「なんだ? 冷泉。高いところ苦手だったか?」景虎が、冷泉の顔を覗き込んできた。
「いや……」冷泉はつい癖で、眼鏡の蔓を持ち上げる仕草をした。しかし、眼鏡はかけていなかったため、ただこめかみを撫でる形になった。「そうじゃなくて。この吊り橋が使えなくなると、外に出られなくなるなと思ってな」
「そんなこと、村ができて何百年となかったぞ」
「この吊り橋を見ればなんとなく想像つくが」冷泉は吊り橋の年季の入った綱や底板に視線を落とした。
かつて自らの故郷で起きた事件を思い出したのだろう。瑞樹も眉根を寄せて俯いた。「確かに。やっぱり警察に連絡した方がいいんじゃないかな」
「だめだめ。全然取り合ってくんねーんだもんよ」
「そう言っていたけど……」
 景虎も、一度は警察を頼ってみたらしかった。
 谷底から冷たい風が吹き上げる。その射貫くような鋭さに身をぶるりと震わせて冷泉は先を見遣った。


 2


 吊り橋を超えると、そこから村までは歩いて二十分程度の山道だった。
 木陰を縫いながら歩くうちに、村の入口らしき、木の柱が見えてくる。
 その脇に佇む影に気づき、冷泉と瑞樹はぎょっと目を瞠った。
 そこには、九体の古い小さな地蔵が綺麗に並んでいた。
「ああ」二人の反応を見て、景虎は合点の言ったような顔をする。「九九尾地蔵だ。この村の守り神のお地蔵さんだよ」
「くくび地蔵?」と瑞樹。
「そう、九十九の尻尾って書く。それで九九尾地蔵だ。九九尾地蔵にはしっぽがついているんだ」
「へえ」瑞樹は、膝の高さほどの地蔵を覗き込む。地蔵はどれも実に穏やかな顔をしている。正面からでは、尻尾までは見えなかった。
 そのまま、白魚のような手を合わせてお参りをする。睫毛の下に影ができる。冷泉も倣うようにして、隣に腰を下ろして両手を合わせた。
 やがて、三つの影が誰からともなく立ち上がる。
「まず、この村の村長、昔から村の長をやっている阿良々木さんの家にご挨拶だ」言いながら景虎はT字路を向かって左に曲がった。曲がってすぐに、立派な石垣に囲まれた大きな屋敷が見えてくる。
「ここがその……阿良々木さん……のお宅?」瑞樹が石垣の天辺を見上げながら訊いた。肩の上で艶やかな黒髪がさらりと揺れる。
「そ! よくわかったな」
「まぁ……立派な家だから」
 そうするうちに、立派な門構えが見えてくる。大きな木の表札に『阿良々木』と力強くあった。石垣とは違って門構えと、その隙間から見える内装はどこか文明開化頃の日本家屋を思わせる。
 門構えの右に設置されたベルを鳴らせば、カランコロンと洋風な音が鳴った。
「はい」と女性の声に、景虎が名乗り、「どうぞ」と、中へ促される。景虎の手の中で、門構えが悲鳴を上げてゆっくり開いた。
「すごいな」冷泉の口から自然と感想が漏れる。彼の視線の先には、手入れの行き届いた美しい庭園と、小さな池があった。まるまると太った錦鯉が水面でぱくぱくと口を開ける。
 石畳を通った先で、和服を着た女性が立っていた。
「綾子様……わざわざすみません」景虎が慌てたようによそ行きの声を出した。
 綾子と呼ばれた女性は「構いませんよ」と、玄関の扉を柔らかそうな手で開けたまま、にこりともしなかった。目の細い、狐を思わせる女性である。頬はふっくらとしており、黒い長い髪を後ろで結い上げていた。
「例の脅迫状の件で、大学から助っ人に二人来てもらったもので、到着のご挨拶に伺いました」
「そうですか。主人は居間です」
「長一様もご在宅ですか?」
「長一も居間におりますよ」
 キュッキュとよく磨かれた廊下を通って、綾子はすぐ左手の焦げ茶色の引き戸を引いた。格子状に硝子のはまった洒落た扉だった。
「お邪魔します」三人はそれに続く。
「失礼します」と、綾子に続いて景虎が中へ入った。冷泉と瑞樹もそれに続く。「大学の友人で冷泉誠人くんと、白峰瑞樹くんです。例の脅迫状の件で助っ人に来てもらいました」
 一息に景虎はそう告げた。
 入って右手には応接セットのソファと、テレビ、戸棚などがあり、戸棚の上にはレコードがあった。正面には庭に続く大きな窓が二つ連なっている。その右には、洒落た出窓が一つあり、高そうな花瓶に庭に咲いていたのと同じ色の薔薇が飾ってあった。
 ドアから左側に、焦げ茶色の立派な食卓テーブルがあり、上座にあたる位置に眼鏡をかけ、鼻髭を生やした中年の男性が座っていた。
 彼が、この村の当主阿良々木長太郎だろう。痩せ気味の身体に、紺色の和服を着ていた。
「ふむ、子供じゃないか」長太郎は、読んでいた新聞から顔を上げ、額に皺を寄せて、眼鏡の上からぎょろりと目を覗かせる。
景虎が「ええと」と一度手もみをした。「お言葉を返すようですが、それが、この冷泉くんは、これまで何度か殺人事件を解決してきているんです。頼りになるんですよ」
「ふん。殺人事件なんて、縁起でもない」
「あっと、失礼しました」景虎は長太郎に萎縮した表情を向けた。そして、冷泉と瑞樹の方を向き直り、「こちらがご主人の長太郎様、奥様でいらっしゃる綾子様、長男の長一様だよ」と、右手を向けて小さく笑った。
 名前を呼ばれて、長太郎の対面に座っていた青年が読んでいた本から顔を上げる。高校生ぐらいだろうか。黒い髪は清潔そうに整えられている。目の鋭さは、母親に似たのか、それとも父親に似たのか。どちらに似ても鋭い運命だっただろうなぁ、などと冷泉は考えながら腰を折った。
「ただいまご紹介にあずかりました、冷泉誠人です。しばらくの間、お世話になります」
 それに倣って瑞樹も頭をぺこんと下げる。「白峰瑞樹です。よろしくお願いします」
 値踏みするように、老眼鏡の上からじろりと二人を順に見た後、「くれぐれも九九尾様に触れたりしないように」とだけ低く言い残して長太郎は再び新聞へと視線を落としてしまった。
「それは、承知しております」景虎がかしこまって答え、そこで退室となった。
「どこか肩に力の入る家だな」冷泉は外に出てしばらく経った頃にぼそりと口を開く。
「ここの主だからな。なかなか、誰も逆らえないんだよ」景虎は、ふうと額に滲んだ汗を拭いながら答えた。

 4

「次に分家の阿良々木さんの家――村長の弟一家が棲む屋敷にご挨拶だ。ここには三兄妹がいてな、なかなか楽しいところだぜ」
 再び村の入口のT字路にある九九尾地蔵の前を通り、今度は村の西側に移動する。生垣に囲まれた家が見えてきた。
 先ほどの阿良々木長太郎の家と比べると少し小さいが、それでも充分に立派な家だった。年季が入っていることが、屋根や柱、壁の擦れなどからはっきりと見てとれる。
「こちら、僕の大学の友人、冷泉誠人くんと、白峰瑞樹くんです」
「冷泉誠人と申します。しばらくの間、村でお世話になります」冷泉は普段通りの無表情で三十度に頭を下げた。
 瑞樹も慌てて頭を下げ、上げた。「白峰瑞樹です。村の方々にはしばらくお世話になります。よろしくお願いします」
 二人の紹介を、住人たちはそれぞれふんふんと小刻みに顎を引きながら聞いていた。
 大学生組の紹介がひと段落終わると、今度は景虎が二人の方にくるんと向きを変えた。
「こちらがご主人の次郎さん、奥様のやすはさん、そして文次郎とふみと雄二! 三兄妹だ」
 それぞれが呼ばれた順に名乗っていく。次郎は兄の長太郎を少し丸くしたような雰囲気を持っていた。やすははこちらも目の鋭い、冷たい感じの印象を受けた。この土地特有の顔なのだろうか。文次郎は父にも母にも似ておらず、キリッとした軍人のような、実に誠実そうな男だった。妹のふみは、母親によく似た切れ長の色っぽい目をしていた。次男の雄二はまだ中学生とみえ、坊主頭に学生服といった出で立ちだった。
「今日からは、千葉さんのお宅に?」
 宿泊場所を訊かれ、冷泉は「はい」と答える。「千葉さんのお宅にしばらくお邪魔します」
「そう。そしたら、いつかお昼でも食べにいらっしゃいな」やすはが目尻を下げた。
「ありがとうございます」冷泉が、再び三十度に頭を下げる。
「こんな小さな村だ。お客様がくることなんてめったにないのだよ。みんな嬉しいんだ」次郎が、少しおどけたように肩を揺らした。
「あらあら。重い荷物を持ったまま、あんまり長くお引止めするのも野暮よね。文次郎、ふみ、雄二、外まで送ってさしあげて」
 やすはが片方の頬に手をあてて言った。
「やだよ。なんで余所者なんか」声変わりの真っただ中のような、若い声が降ってきて、一同の視線が出所に収束する。雄二だった。
「こら、雄二! ……ごめんなさいね。難しい年ごろで」やすはがおろおろと手を泳がせた。
「いえ」冷泉は至って冷静に、横目で坊主頭の少年を見遣る。
 少年――雄二は、顎を上げて、冷泉たちを小馬鹿にした。
「なんで、俺が余所者なんかを見送らなきゃなんねーんだよ。勝手に帰れ」
 そう言って雄二は、自室があると思われる二階へと消えていった。
「……本当にごめんなさいね」
「いえ、そういうお年頃なのでしょう。僕にもありましたから」
「そう言っていただけると……」
 眉を下げるやすはに一礼をして、冷泉、瑞樹、景虎の順に居間を後にした。


「小さい頃から三兄弟とはよく遊んでんだ」景虎が小声で言った。
「へえ」冷泉は首を右に少し傾けた。
「こんな小さな村でしょう? 村の同年代、全員が遊び相手ですよ」文次郎が、少し謙遜をまじえて肩をすくめた。
「わかる気がします」と、瑞樹。彼も、東北の山奥のほうで育っていた。
「それより、俺ら同級生だぜ! 文次郎も今年で十九! だから敬語はなしでいこうぜ!」先頭を歩いていた景虎が、くるりと向きを変えた。「ふみだけ二つ下だけどな」
「へえ。よろしくね、白峰瑞樹です」瑞樹が手を出すと、ふみは白魚のような真っ白い柔らかそうな手で応じた。
「阿良々木ふみです」
「で、さっきのが雄二な。あいつはふみのさらに二つ下。今年十五の中坊だ」
「そりゃあ、反抗期だね」瑞樹が言った。
「あれは反抗期なんかじゃないんです」
「え?」ふみの言に、瑞樹が訊き返すと、景虎が気まずそうに目を伏せた。
「あの子は昔からそう。カースト制度、ご存じです? ヒンドゥー教の」ふみは艶やかな唇をほんの少し開いて言った。
「え、ええ」
「頂点に阿良々木の本家が、その下には私たち阿良々木の分家が。その下に他の村民が。そのさらに下に村の外の人が。そのうんと下に……ふふ」
「そのまだ下があるの?」瑞樹が興味深そうに首を傾げた。
 しかし、ふみは意味ありげに「ふふふ」と艶っぽく笑うだけで、そのあとむっつりと口を閉ざしてしまった。


 5


 冷泉は、阿良々木家の分家の外観を改めてよく見てみる。錦鯉こそいないが、やはり立派な家だった。
「あれ?」瑞樹が、その側面に近寄った。
 雨戸が外れて立てかけられ、テープで貼り付けてある。
「ああ。雨戸、壊れてんだ」文次郎が言った。「何日か前に、板ごと斧か何かでごりっと外されてな。あれは夜中だった。なんかメキメキ音がしたなと思って次の日の朝来てみたら、父さんと母さんの寝室の雨戸が壊されていたんだ」
「そこだけですか?」雨戸を覗き込もうと、中腰になった冷泉が、文次郎の小麦色をした顔を仰ぎ見る。
「ああ。ここだけ。他の部屋の雨戸は無事だった。ったく、誰か知らねぇけど、変ないたずらするよなぁ」
 文次郎は、弱ったなぁといったように、首筋を掻いた。
「この先は?」冷泉は、分家のさらに西側に続くけものみちを指さした。
「そっちは駄目だ」
 答えた文次郎のあまりに鋭い剣幕に、それを受けた冷泉も、それからとなりにいた瑞樹も目を丸くした。
「ああ、すまん。そっちは、急な崖になっていてな。危ないから絶対に入るなと、小さい頃から刷り込まれているんだ。だからつい」ごめんな、と繰り返す文次郎に、若干の違和感を覚えながらも、冷泉は受け流したのだった。


 6


 文次郎とふみに別れを告げ、しばらく歩いた村の外れに、古い小屋が見えてきた。
 少し近づいてみると、物干し竿に洗濯ものが干してあったり、バケツが転がっていたりと、生活の跡が見て取れる。小屋だと思ったが、誰かが住んでいるらしい。
「最後に、紺野さんの家に行ってみようぜ」
「紺野さん?」瑞樹が問う。
「ああ。そこに見えるだろ? 長太郎さんのお妾さんの家だ」と、景虎は歩きだした。
 その言葉に、冷泉と瑞樹は面食らう。
 景虎も、その反応にはたと気づいて気まずそうに視線を外した。
「昔、雪子さん……お妾さんは阿良々木本家で女中として働いていたんだよ。それで……長太郎さんと……な。当然ながら、綾子さんが激怒したみたいで」そう言って、首筋をぽりぽりと掻く。「そこの子に、朔太郎っちゅう俺らと同い年のやつがいるんだけどな、少しのんびり屋でな。話がかみ合わないこともあるかもしれんが、それとなく合わせてやってくれないか?」
 家は小ぢんまりとした、木製の平屋だった。全体的に木目調で、庭はせいぜいの身長くらいの高さの垣根で仕切られている。よくよく見ると、その庭には如雨露で注いだ程度の川がちょろちょろと流れているようだった。山から湧き出た水の通り道なのだろう。
 その家の奥には小さなセメントづくりの、真四角の建物があった。高さ五メートル近くはあるだろうか。入口だろう、天井に金属製のハッチがついている。山側に接した壁の底の部分に弁があり、山から流れる水をその建物に貯めるような仕組みになっているようだった。ダムというには小さいから、貯水槽といったところだろうか。
 今日は晴天であるから、山から貯水槽へ流れるだろう湧き水もほとんど流れていないようだった。
「おーい、雪子さーん、サクー、景虎ですー! いますかあー?」
「いるよー」朔太郎は、すぐそば、玄関の脇の低木の陰からにゅっと出てきた。
「わ、いたんなら声かけろよなあ」
「気づかなかったんだよ」
「また庭に石並べてたのか」
「違うよ。川を作っていたんだよ」
「どっちでもいいよ」
「よくないよォ。大事なことだよォ」
「よく飽きねぇなぁ」
「おもしろいよォ」と、再び庭にしゃがみこんで、朔太郎は小さな川の岸を作っている。
「ここに水を流すんだ。ミニチュアの渓谷だよォ」
 冷泉と瑞樹がそれをただ黙って見守っていると、景虎がおおきなため息をついて振り向いた。
「こいつが紺野朔太郎。さっき触れたとおり、父親は阿良々木長太郎さんで、母親が紺野雪子さん。少し独特だがすごくいいやつなんで、仲良くしてやってくれなぁ」
「朔太郎さん」冷泉が彼の横にしゃがみこんだ。
 それでも、朔太郎はどこ吹く風と、地面に小石を並べることに執心している。
「よろしく」冷泉が朔太郎の視界の端の方に、剣だこのある手を差し出すと、ようやく頭を上げて、その手を、泥だらけの手を拭こうともせずに掴んだ。
「よろしく」
「僕は冷泉といいます」
「ぼく、朔太郎」朔太郎はそれだけ言った。
「さっきも少し話したが」景虎が、彼らの頭上で言った。「俺ら同い年だぜ。サクは別の学級に通っていたから、ずっとクラスは違ったけど、学年は一緒」
「そうか」冷泉が立ち上がった。
 今度は入れ替わるように、瑞樹が朔太郎と握手を交わしている。
「よかったな、サク。友達増えたぞ」
 その言葉にも、朔太郎は興味がない様子で、ひたすらに庭に小石を並べ続けていた。
 その間、一度たりとも紺野雪子の気配を感じることはなかった。


 7


「さて。あちこち連れまわしたから疲れただろう。次で最後だ。俺ん家な。うちにいる間は遠慮なく過ごしてもらっていいぜ! っていえるほど広い家じゃねぇけど」
「ああ。世話になる」冷泉は旅行鞄から手土産の和菓子を持ち直した。実はこの高温で中身が駄目になってやしないかと、内心ひやひやしていたのだ。
「友達の実家にお世話になるって少し緊張するね」瑞樹がかたい顔で言った。
「去年の俺状態だな」冷泉が言うと、瑞樹は肩をすくめて複雑そうに笑った。去年の夏休みには、冷泉は瑞樹の故郷『四神村』を訪れたのだ。そこで凄惨な事件に巻き込まれ、彼はその真相を突き止めた。その噂はちらほらと大学構内に拡がったが、喧伝するものがいなかったため、そう知れ渡ってはいない。景虎はそのことを知る、数少ない一人だった。
「瑞樹の実家って、でっかかったんだろ? 俺も行ってみたかったな」景虎が気遣うような表情をした。瑞樹の実家は、今ではもう村ごと封鎖され、誰も住むものはいなくなってしまっている。そのため、今では両親の住まうM県S市内のマンションが、瑞樹の実家となっていた。
「ただ古いだけの家だよ。そんなたいしたことはなかったんだ」瑞樹が顔の前で左手を二度振って苦笑した。
「じゃあ、今度は新居のほうに遊びにいかせてもらおっかな。冷泉は行ったことあんだろ?」
「一度だけな」
「どうだった?」
「どうって」
「広かった?」
「広かった。何LDKだったか」
「5LDKだから、普通だよ」瑞樹が困ったように謙遜した。
「でも一階と二階はわかれているんだろ?」景虎が鼻息荒くきいた。
「メゾネットタイプね。まあ、そうだけど」と、瑞樹。
「やべー! 行ってみたい。今度連れていってな!」
「いいよ」瑞樹はにっこりと笑った。「今度、ね」
 森の木がざわめき、鴉が一羽、カァと哭いた。

《プロローグ 了》