八月二十日



 一



その日も小雨が降っていた。

朱野透は、藤川絹代の切迫した声に叩き起こされて目を覚ました。

そういえば、一昨日にも同じ状況があった気がする。寝ぼけているのだろうかとぼやけた瞼を再び閉じようとした瞬間、どんどんと音の波が押し寄せた。

いよいよ夢などではないと飛び起きて、部屋の扉を開ける。目の前にサーベルを握りしめた藤川絹代と、それからその隣に杖を手にした武藤霧子の姿があった。

二人を見比べてから恐る恐る口を開く。

「どうしたんです……?」

 この場に父の姿がないのがとても不気味だった。

「源一郎さんがいないのですよ」

「いない?」

「お部屋にいないのです」

「トイレや洗面所は探しました?」

 尋ねれば、絹代は青い顔でこくこくと小刻みに顎を引いた。

「いらっしゃいません。ゆうべは確かに一緒に床についたのですよ。わたくしは朝までぐっすりと、そう一度もめざめることなく眠っていましたわ。いつもは、源一郎さんが夜中に何度かお小水にいかれるものですから、その度に気づくのですが。今朝は目が覚めたらもうこんな時間で、横にいたはずの源一郎さんのお姿が見えないじゃありませんか」

 透は慌てて腕時計を確認した。時刻は朝の五時半を指していた。

「それどころか、一階の廊下の一番奥の窓が割られて、鍵が開けられていたのです」

「鍵が?」

「そうです。東側の奥の。お風呂場の前です。もう、わたくし怖くなって、源一郎さんの箪笥からマスターキーを拝借して、上階の武藤婦人を起こして――」

「わかりました」透は表情を引き締めた。「今から一部屋ずつ見てまわりましょう。もちろん三人で。いいですね? その前に僕にも武器を取らせてください」

 言って透は隣室のコレクションルームへと足を向ける。ざっと見回したところで目に入った軽い警棒を手にして戻った。

 絹代が深見と透に疑いを向けていることを、透はよく知っていた。現に、真っ先に家人の透を起こすでなく、客人の武藤霧子を起こしにいっているあたり、何よりそのことを雄弁に語っていた。

 そして、透もまた絹代を疑っていた。よって互いに手にした武器は、潜む暴漢への牽制だけでなく、内に潜んだ羊の皮を被った狼への牽制の意味も兼ねていることは言うまでもない。

 透はまず二階から、一部屋一部屋扉を開けていく。どこに誰が隠れているかわからない中でのその作業は、実に神経をすり減らすものだった。しかし、その苦労が実を結ぶことは終ぞなかった。

最後の一部屋となった水谷の部屋を開けた透ががっくりと肩を落とす。

冷たい汗が、ぽたりと地面を濡らした。

「いない……」

「そんな……」絹代が口元に手を当て力なく呻く。「穢さんに続いて源一郎さんまで……」

 透の服の裾を掴んでいた武藤霧子の手が締まり、寝間着代わりのTシャツにぎゅっと皺が寄った。

「考えたくはないが、納屋で見つかった静の例がある。土蔵と鶏小屋と木工室に行ってみましょう。いなければ、水谷さんの例もあります。他のお宅へ……」

 そこで透が小さくよろめき、左手を介して繋がっていた武藤霧子もつられてたたらを踏んだ。

「大丈夫? お顔が真っ青でしてよ」

 背後から絹代に支えられて透は小さく頷いた。

 身体は疲れ果て、胃には穴が開きそうだったが、一方で恐怖という氷に冷やされた頭の芯は恐ろしい程冴えわたっていた。

 東北の中でもより北に位置する四神村の夏の夜明けは早い。朝の五時にもなれば、もう日の光が青々と連なった山並みの向こうに顔を出している。細かな小雨の粒子が朝靄を反射する薄白い中を、傘を片手に三人は連れたって歩いた。屋敷の裏手の土蔵と、それから鶏小屋を順に見てまわる。最後に木工室の扉へとたどり着いた。

「あれ? おかしいな」

透が扉を揺するが、何かに阻まれ開こうとしない。

「中から鍵が掛かっているのかしら?」

 蒼い面の絹代が恐怖に顔を歪めて透の顔を覗き込んでくるのに、透は短く頷き返した。

「ええ、確かに外鍵とは別に、中にも閂があるにはあるんですが……父さん? 父さんいるのですか?」

「こんな時間に変な話ですわ……嗚呼もう絶対に何かあるのですよ」変事を予見した絹代が顔を歪めた。

 扉は外向きの観音開きであり、中で作業をする際、不用意に扉が開かないように閂がしつらえてあった。しかし、こんな早朝にとなると奇妙な話である。

「斧で破りましょう。少し待っていてくれますか?」不安げな表情を浮かべる女性二人を前に、透は納屋へと足を飛ばした。そして、警棒に代わって大ぶりの斧を抱えて戻ってくる。「木片が飛ぶといけないので、下がっていてください」と透は、閂のちょうど真上あたりを目掛けて斧を打ち付け始めた。

ガンッガンッと重い音が響くごとに、絹代と武藤霧子の身体が小さく跳ねる。

 何度目か打ち付けたときに刃先が扉にめり込む音がし、透が足の裏を扉に押し付けて全身の力を使って引き抜いた。そこに、手首が通るくらいの小さい穴があく。透は慎重に中をまさぐり、閂を持ち上げた。

そうして扉が破られた瞬間、絹を切り裂く悲鳴がサイレンのように響き渡った。

 そこはまるで地獄の様相を呈していた。

 朱野源一郎は室内の中央でこちら向きのまま、椅子に縛り付けられていた。そして、頭蓋骨を自らのコレクションである拷問器、頭蓋骨粉砕機に挟まれた状態で絶命していた。……

酸鼻極まるその光景に、透は斧を取り落とし、震える手で扉に縋りついて膝を折った。 体毛という体毛がゾゾゾと逆立ち、心臓が口から飛び出んばかりに暴れまわっている。舌の根が固く凍りついて、言葉も出てこなかった。

 藤川絹代は、ストレスの全てを声で放出するかのごとく、狂ったように高い叫びを連発していた。

 武藤霧子はそんな二人の気配から事態を察したのか、透の陰に取り縋り、震える身体を丸めていた。

「……は、犯人、は、どこへ消えたんだ?」

 透は縺れる舌の奥から、掠れた声を絞り出した。

「きっとあの換気口から逃げたんだわ!」

 絹代が、泣き喚くように部屋の奥の換気口を指さした。

「あの換気口から? 冗談を! 犯人は霧にでも変化したというのですか」

 つられて透も感情的な声になる。もう全てに於いてうんざりだった。

「知らないわよ、でもそれしかないじゃない!」絹代は身体を揺すってヒステリックに叫んだ。

「あんな高いところから? 無理ですよ!」

息を乱しながら、透は宇宙人でも見るような目で換気口を乱暴に指し示した。

古い蔵を改造して作ったこの木工室の広さは二十畳ほど、天井まで高さ五メートルはあろうかというこの部屋に窓はなく、ただ高さ四メートルほどの位置に縦四十センチ、横七十センチほどの鉄製の換気口があるのみである。

 室内には脚立はもちろんのこと、踏み台になるようなものは一切置かれていない。

「どうにかなったのよ!」

「どうやってよじ登ったんです」

「知りませんよ! どうにかして届いたのよ、それしかないでしょう。扉はご覧のありさま、ならばあの窓しかないじゃないの」

「四メートルだなんてバレーボール選手でも届きませんよ。犯人はどんな巨人だと言うのですか」

 普段になく余裕を失った透の熱弁を受け、絹代はますます興奮から顔を赤くした。集団ヒステリーのように、相乗効果で共有する空気に熱が溜まっていく。絹代は泣きっ面で破れた扉に向かって、力いっぱいに開いた掌を振り下ろした。

「それならば、この扉をすり抜けたのだわ! 外から閂を下ろす方法があるのよ!」

「外から内にある閂を下ろすだなんて、そんな馬鹿な……」

 透は喉を詰まらせながらふらつき、しまいには頭を抱えてしまった。

「ああもう! 密室! 密室! また密室ですの! 犯人は呪術を使ってわたくしたちを皆殺しにするつもりなの?!」

 我慢の糸が途切れたのか、絹代は金切り声をあげる。彼女の言うように、木工室は完全な密室を呈していた。

「絹代さん、一度落ち着きましょう」透が乱れた呼吸の合間に言った。酷い汗だった。

「は? 落ち着いていられるものですか! こんな村には一秒たりともいられない! 嗚呼、誰でもいい、早く助けに来てちょうだい!」

 反面教師という言葉がある。取り乱した絹代を前に、いくばくか理性を取り戻したのか、透の目には少し正気が戻って来たようだった。

「絹代さん、理性を失っては犯人の思うつぼです。ひとまず、他の住民と合流しましょう。僕が龍川先生と深見たちを呼んできますから、絹代さんと霧子さんは屋敷に戻って一緒にいてください。決して離れてはいけませんよ」

 身を震わせる二人の女性をかわるがわる見つめ、透が言い聞かせた。武藤霧子は愕然とした表情で、小さく顎を引いた。

 それを確認して、透は気もそぞろといった様子の絹代に向き直った。

「絹代さん、疑心暗鬼になるのはわかります。けれど、霧子さんはアリバイこそ不完全ですが、視力に不安がある以上、犯人足り得ません。彼女のことだけでも信用して、一緒にいてください。いいですね?」

 透の顔に不審げな視線を向けていた絹代だったが、すぐにその目は脇に向いた。透の立つその向こう側、風に煽られ大きく開いた扉の内側を指して、彼女はヒッと喉の閉まった悲鳴を上げた。

――次は虎。

内側には、おどろおどろしい血文字でそう記してあった。

「まあ、次だなんておそろしい! こんなこと、まだ続くというんです? もうたくさん!」

「虎……白峰家で何かあるのか……? とにかく、ちょっと見てきます」

 そう呻く否や、透は弾かれたように斧を手に取り、覚束ない足取りで駆け出した。



 二



 朝靄の中、透は懸命に足を飛ばした。

 恐怖で足は縺れ、喉は引き攣れ、睡眠不足と疲労と極限の緊張状態から淀んだ脳みそは鈍く揺れて、頭が爆発しそうであった。今にも、魔術を使う殺人鬼に足を引っ張られて地獄の底へと引きずり込まれるのではないかと、透は猛獣から追われる兎のように力の限り駆け抜けた。

 途中、右手に赤く爛れた石像が近づいてきたが、目を背け、ひたすら前だけを見つめて疾走した。

 やがて、霧の中に白峰邸がぼうっと浮かんだときには、見慣れた風景にも関わらず、黄泉の入口にでも舞い込んだような錯覚を覚えた。

 門の前で呼び鈴を鳴らして中から人が出るのを待つ。その時間すらももどかしく、忍び寄る恐怖に背中じゅうをなぞられ、急き立てられ、たまらず透は門を開けて押し寄せる高波のように、玄関先へとなだれ込んだ。

「ごめんください! ごめんください! 白峰さん!」

 斧を握りしめ、開いた方の左の拳で力の限り引き戸を叩く。

 しばらくして、近づく足音があってからからと扉が開かれた。

「透さん……まさか、また何か」

「琴乃さん、生きていた……」

 出迎えた琴乃は、膝に手をつきしなしなと脱力する透と、その右手に握られた斧を見てギクリと目を瞠った。

「何があったんです……?」

 怯える琴乃を前に、透は慌てて斧を手から離し、「瑞樹くんは、瑞樹くんは無事ですか」と寄り縋った。

「瑞樹は部屋で寝ているはずだけど、何が――」

「父が殺され、血文字で“次は虎”と」

 それを聞いて、琴乃の顔が一気に青ざめた。すぐに、転がるように階段を駆け上がる。透もそれに続いた。

「瑞樹! 瑞樹!」

 どんどんどんと暗い廊下に鈍い音が響き渡る。

「蹴破りましょう」

 どいてください、と透が琴乃の腕を引いた瞬間、がちゃりと鍵が開き、扉が開いた。中から、寝ぼけ眼の瑞樹がぼんやりと顔を出す。必死の形相の母の隣に、透の姿まで見つけて彼は顔を凍らせた。

「今度は何があったの」

 動揺する瑞樹に、琴乃は顔をくしゃくしゃにして抱きついた。

「もう……びっくりした……よかった……」

 隣の部屋から、同じく事態を飲み込めない様子の冷泉が顔を出す。

「また何かあったのですか」

「父か殺され、その場に“次は虎”の血文字が」

 乱れた呼吸の合間に零れた透の言葉に、抱きつかれた格好のまま、母の背を撫でていた瑞樹がはっと目を見開いた。

「虎……父さんは?」

「秀一さんに何かあったのかもしれない」

瑞樹の言葉に、琴乃は再びサッと顔を蒼くした。

 冷泉は考え込んだ。白峰秀一個人の安否が気になるのももちろんだったが、延いてはこの村に閉じ込められた全員の運命に直結するという点においても非常に気がかりだった。

とはいえ、秀一の死体が発見されるようなことがあればニュースになるだろうから、テレビを通してこの村にも伝わっているはずだった。さらに、警察は白峰秀一の家族と連絡を取ろうとすることだろう。その道中で異変を察して救助に来る可能性が高かった。

しかし、誰も気づかないところに遺体を遺棄されていたらどうだろうか。そんなことになれば、助けが来るのがますます遅くなってしまう。この辺境の村に閉じ込められた面々にとっては、明日村へ帰ってくるのがはっきりしている秀一の存在だけが、約束されている唯一の救いだった。

呆然と立ち尽くす白峰親子を前に、冷泉が口を開いた。

「秀一さんに何かあれば報道されるでしょうから、居間でテレビをつけてみましょう」

冷泉の言葉に促されるように、一同は階下へと流れる。

「テレビをつけるのが怖いわ……」

階段の手すりに縋りつき涙を浮かべる琴乃に、冷泉は左手を差し出した。

「おそらく秀一さんは無事だと思いますよ」

「どういうこと?」琴乃はその手を取って尋ねた。

冷泉は努めて理性的に答える。「犯人が今朝源一郎さんを殺害した後、秀一さんを殺すために村から出る方法があるとは、ちょっと思えません。それがないから、俺たちは閉じ込められているわけで。それこそ、抜け道でもない限りは、殺人鬼も同じ檻の中であるはずです」

 そこで誰からともなく、はたとこの場に一人足りないことに気が付いた。

「深見は……?」

 透の言葉を受け、琴乃は冷泉を押しやってよろめき、降りた階段を左に折れた。それからしなだれかかるように、身体全体で勝手口の引き戸を開く。飛び石の先の、離れの鍵はしっかりと閉まっていた。

「陽介! 陽介!」琴乃は裸足のまま、半狂乱で引き戸を叩いた。

「琴乃さん、これで破りましょう」その背に追いついた透が斧を構えて言った。

声に振り返った琴乃は、透の姿をみとめると、「早く破って! この斧で破って! 早く!」と力任せにその右腕を揺さぶった。

透が斧を打ち付けるたびに、曇り硝子が音を立てて散らばった。透が斧で叩いて大きな罅を入れた箇所を、冷泉が傘の先で突いて割って、硝子を下に落としていく。

瑞樹は琴乃を両手で抱きしめたまま、それらを不安げに見つめていた。

破壊音が一つ響くごとに、心が罅割れ砕けていくような心地だった。

やがて丸く穴が開き、冷泉が中へ腕を差し込んで鍵を開けた。待ち構えていた琴乃は、足の裏が切れるのも気にせず破片が散らばる廊下へ転がり込み、洋間の扉を乱暴に連打する。

「陽介! 陽介いるの陽介!」

 しかして、ノブは簡単に回った。キィィと切なげに音を立てて、扉はゆっくりと開かれる。透は斧を取り落とし、瑞樹は耳を塞ぎ、冷泉は顔を背けた。

「いやああああああ――!」

 琴乃の悲痛な叫びが、呪われた村を引き裂いた。





 部屋中、噎せ返る鉄の匂いで溢れていた。

 照明は煌々と部屋を照らし、丸机には読みかけの本と手帳が、開かれたまま置かれている。

 深見陽介は、こちらを向いて椅子に行儀よく座っていた。

ただ、あるべき場所には首がなかった。

 頭を失った深見陽介は、文字通り物言えぬ躯と化していたのだった。……

 首の断面からは鮮血がしとどに流れ落ち、床は彼の血で赤く染まっていた。奥の壁には、血文字で虎にばってんがされ、横に大きく雀マイナス亀の文字があった。

 廊下に蹲り、ああ、ああと開いた唇からとめどない嘆きを零す琴乃の絶望が、早朝の離れに響き渡る。隣では蒼い顔をした瑞樹が、母の背中を懸命に抱きしめる。まるで彼女の魂が飛んで行かぬよう、きつく引き留めているようだった。

 透は琴乃を瑞樹に預けるように手を離して、ふらふらと室内へ入った。

「深見……」

 血で汚れるのも厭わず向かい合って胸倉を握りしめると、透はそのまま首のない身体を掻き抱いて深く俯き、肩を震わせた。

 辺りを重い沈黙が支配する。ただ琴乃の嘆きと、透のすすり泣く声だけがしんと冷えた廊下をくゆらせた。

「鍵が見当たりませんね」

 一通り廊下と玄関、和室を確認してきた冷泉が、血濡れの洋間へ足を踏み入れた。

 背後に気配を感じ取った透が、ゆらりと顔を上げる。振り向きざまに、隈の色濃い目が冷泉の姿をとらえた。

「冷泉くん」

 焦点の合わない目が何かを訴えていた。彼はもう飽和寸前だ。冷泉は目の前で膝立ちに佇む青年の姿に、ほんの一グラムの負荷で脆く崩れる砂の城のような危うい雰囲気を感じた。

「しっかりしてください、透さん」冷泉は膝を折り、透の顔を覗き込んだ。

「犯人は魔法でも使ったのかな」

「突然何を言い出すんですか」

「父が殺された木工室も、完全な密室だったんだ」

 さて、どうしたものかと、冷泉は背後の瑞樹を振り返った。相変わらず蹲って泣きじゃくる母親の背中を、沈痛な面持ちで抱いた瑞樹と目が合った。

 各々、精神が限界だった。

この村全体が、狂気と絶望に呑み込まれようとしている。

「ああ……龍川先生を呼ばなければならないね。それから、深見を寝かせてあげなきゃ」

 透は突然ふらふらと立ち上がったかと思うと、うわごとのように呟き、悲しそうに笑った。

「大丈夫ですか、透さん」

 冷泉がその腕をつかんで引き留めると、力なくこくりと頭が振れる。

 廊下の小窓を通して仰ぎ見た空は、黒雲がどんより重く垂れさがってきていた。またひと雨くるのかもしれない。

 玄関に視線を戻せば、頼りない足取りをした透が靴をひっかけ外へ出るところだった。砕けた硝子と地面が擦れて、耳障りな音を立てる。一瞬迷うように首を動かした冷泉だったが、瑞樹にその場を頼み、慌てて透の後を追いかけた。



 三



 鶏の哭き声が、晩夏の空を細く切り裂く。

 空は低く垂れ下がり、雨粒が落ちてくるのも時間の問題に思われた。

 龍川医師と小夜を連れて白峰邸へと引き返し、透はその足で朱野邸へと一度戻った。バラバラに散らばって過ごすほうが危ないので、屋敷で待つ武藤霧子と絹代を連れて全員で『白虎の館』に固まろうという話になったためである。

 透が朱野邸に戻ると、屋敷は暗くしんと静まり返っていた。まるで、何年も人の住んでいない屋敷のように、建物全体が沈黙していた。

 薄暗闇の中からいまにも殺人鬼が飛び出してきそうで、透は息を殺して廊下を歩いた。

「絹代さん、絹代さん」

 声を殺して、こつこつと扉を叩く。主のいなくなった部屋に女性が二人身を寄せ合い、進まぬ時間をやり過ごしているのだろう。そう思うと心が痛む。一刻も早く連れて逃げ出したかった。

 なかなか返事がないことに恐怖を覚えた透は慌てて二階へと駆けあがり、東側にある客室の扉を忙しなく叩いた。静の部屋とコレクションルームに挟まれたこの部屋は、武藤霧子が使用しているものだった。

「霧子さん、霧子さんいらっしゃいますか?」

 声を張ると乾ききった喉が割れて、透は小さくむせた。喉も胸もからからに渇いてうまく声が出せない。けれども黙ってしまうと途端に訪れる沈黙が怖かった。体中のあらゆる皮膚の上を無数の毛虫が這いまわるようで、肌が粟立って仕方がない。自分だけを残して世界から人間が消えてしまったような錯覚を覚えて、頭がおかしくなりそうだ。透はともすればその場で叫び出しそうになるのを、胸を拳で叩いて堪え、扉に縋りつく。

 そうしたところで、かちりと慎重に鍵が開く音がして、扉が薄く開かれた。十センチほど開いた扉の隙間から、無表情でじっとりと上目遣いをした武藤霧子と目が合った。

 ほっとして眉を下げた透だったが、すぐに自身に短剣の切っ先が向けられているのに気付き、ギョッと瞠目して二、三歩後ずさる。

「霧子さん……?」

 冷汗が流れ落ち、動揺から頬の筋肉が引き攣って変な笑いが漏れ出た。

 武藤霧子は一体どうしたというのだろうか。まさか、この惨劇は全て武藤霧子が……? 透はぼやけた脳みそを掻きむしる。確かに、目が不自由であることを除けば、武藤霧子には犯行に及ぶだけの時間があった。

透はしなしなと力が抜けたように後ずさり続け、ついに壁へと背中を打ち付けて寄りかかった。

「透さん?」

 唐突に名前を呼ばれ、透の喉がごくりと上下する。

「透さんなのね。突然刃をつきつけるような真似をしてごめんなさい。けれど、許してちょうだいね。誰がやってきたかわからなかったから。自分の身は自分で守らなきゃ」

 どうやら、誰が訪問してきたのか確かめる術を持たななかった武藤霧子は、自衛のために武装していただけらしい。透は気が抜けたようにそのまま床へと座り込んだ。

「いえ……無事でなによりです。ところで、絹代さんはどうしたのです?」

「それがね。あの後お屋敷へ戻ったのだけれど、誰も信用できない、協力もしないと仰って、当面の食料と水を手に、お部屋へ籠って鍵を閉めてしまわれたのよ。外から何度呼ぼうと返事もなく。困り果ててこのお部屋に戻りました」

「そうだったのですね」

 絹代の籠城については、透もつい先ほど目の当たりにしたところだったので、想像に容易かった。

「霧子さん、落ち着いて聞いてくださいね。白峰邸で深見が遺体で発見されました」

 それを聞くなり、武藤霧子は口に手を当てて「まあ」と驚きを示した。

「ええ、ですから、少人数でいると危険なので白峰邸に集まることになったんです。僕はそれを伝えにきたのですが……残念ながら、絹代さんは出てきてくれませんでした」

 透は眉を下げて困惑を示す。

「絹代さんはどうするのです? 置いて行くのですか」

 武藤霧子の問いに、透はうーん、としばし考え込んだ。

「そうですね、そうする他ないでしょうかね。僕たちだけで、白峰邸へ移りましょう。この後も彼女の籠城が解けないようならば、全員でこちらの家に移動していただくしかないですかね……」

「ええ、他にどうしようもないわ。そうしましょう。彼女もご自身の判断で籠城したのですもの。自己責任です」

 武藤霧子は冷たく言い放った。

 そうして、武藤霧子と透は降りしきる雨の中を、二人寄り添うようにして白峰邸へと急いだのだった。





通ると武藤霧子が白峰家の離れに着くと、ちょうど遺体の検分が終わったところだったらしく、廊下の向こうから手を拭いながら戻ってくる龍川医師と鉢合わせになった。

上がり框から廊下に上がったところで、洋間の向こうのふすまが開き、音に気付いたらしい琴乃が和室から顔を出した。血色が悪く寝間着のままであり、一目して休んでいただろうことが窺えた。

そうしたところで、死体発見現場となった洋間から冷泉が出てきた。

「ずいぶんと雨が酷かったようですね」

 彼の言葉通り、外は傘をさしていても足元が濡れるほどの雨風に見舞われていた。

「ちょうど雨に降られてしまって。すみませんが、タオルを貸してはいただけませんか」透は琴乃に願い出、最後は瑞樹に視線を移した。案の定、瑞樹が離れの奥へ駆けて行った。

 透は瑞樹から受け取ったタオルのうち一枚を背後の武藤霧子に手渡して、自らも濡れた身体を拭い始めた。

「絹代さんは部屋に籠ったまま出てきてくれませんでした。このまま絹代さんが呼びかけに応じないようでしたら、申し訳ないですがこちらではなく『朱雀の館』で一晩を過ごしていただくことになるかもしれません」

 しゅんと肩を落とした透に、龍川医師は胸の前で手を振った。

「いえいえ、絹代さんのことがなくても、その、源一郎さんのご遺体を確認せねばなりますまい。一度全員で『朱雀の館』へ移動しましょう」

「すみません、よろしくお願いします」透は深々と一礼した。「……ところで、離れの鍵は見つかったのですか?」

「深見さんの胸ポケットから出てきたそうです」と、龍川に代わって冷泉が答えた。「それから離れの窓、雨戸共に全部見てまわりましたが、しっかりと鍵がおりていました。クレセント錠の摘まみにも傷一つありません。洋間の鍵は開いたままでしたが、玄関の鍵がしまっていたため、この離れそのものが巨大な密室だったと言えますね」

透はエッ、と顔を強張らせた。「窓まで閉まっていたなんて……本当に犯人は煙か何かなのか」額に手を当て、廊下の龍川医師へと向き直った。「先生……深見はいつ頃殺されたのでしょうか」

「死亡推定時刻は今から六時間前後。夜中の二時から四時頃ですな。切断面の出血の具合から、殺害された後に首を切り取られたものとみて間違いないと思われます」

透は目を閉じて頭を振り、「そうでしたか……」と呻くように言った。それから、気丈に顔を起こした。「龍川先生、こんなときに相応しい言葉が見つかりませんが、検分お疲れ様でした」

 彼は頭を下げると、ベッドに寝かされた遺体へとゆっくり歩み寄り、傍らに膝をついて優しく撫ぜた。関節まで硬直がまわってきているようで、その異様な感触をもって透は、改めて彼がもうこの世のものでないことを無情にも突きつけられる。

「早く運び出してやりましょう。これ以上遺体が傷んでしまってはかわいそうだ」

 首のない深見陽介の亡骸は、降りしきる雨のなかすっぽりと毛布に包まれ、若い男三人の手で運び出された。その行列においては、誰も一言も発することなく実にしめやかな行軍となった。



 五



 大雨の中、白い虎の像は赤い涙を流していた。

 誰からともなく、踏み出す足が止まる。

 白虎像は根元からもぎ取られ、代わりに首のない玄武像が転がっていた。

「どういうことだこれは……」透が呻きを漏らした。

 冷泉は一人、胸の内で納得していた。これは深見陽介と武藤霧子の隠し子の“陽介”が同一人物であることを指している。しかし、そのことを皆に伝えるべきか、どのようにして伝えるかは判断に悩むところだった。

「白虎の像が……」

 小夜が琴乃の肩に縋りついて肩を震わせた。大事にしていたペットが傷つけられたような衝撃を受けているようだった。一方の琴乃は顔を背けて、視界に入らないようにしていた。

瑞樹はそれらを順に見遣り、手元へ視線を落とした。毛布は濡れて張りをなくし、首を失った故人の凹凸がくっきり浮かび上がるようになっていた。

「……行きましょう」





 藤川絹代が閉じこもっている玄関横の寝室は隙間なくカーテンが閉ざされていて、外からでも中の様子を確認することができない。一行は裏手に回り、深見の亡骸を抱えた男性陣は、西側の入口から地下階段へと降りていった。そこで女性陣と龍川医師は、男性陣に別れを告げて居間へ入った。小夜の介添えを受けて、白峰琴乃はソファに横になった。硝子を踏んだ足は、今は綺麗にガーゼがあてられていた。

 それらを横目に龍川と武藤霧子は居間を突っ切ってもう一度絹代のいる寝室の扉を叩いてみた。しかし、依然返事はないままだった。

「絹代さんはかたくななようですな」

「食料と水を持って籠ったようなので、本当に救助がくるまで出てこないつもりかもしれませんわ」

 二人がやれやれと居間へ戻って来たところで、地下から昇って来た透とちょうど鉢合わせた。

透は、両手に軍手をはめながらため息をついた。「これだけ頑強に籠城していれば、安全は安全なのでしょうけれどね」

「乱暴なことをぶつぶつ仰っていたので、心配ではあるのですけれどね。『こんな辺鄙な村来るんじゃなかった。金をもらっても願い下げだわ』だなんだって。でも、出ていらっしゃらないのだから、こちらもどうしようもありませんわ」

 その言動によほど思うところがあったのだろう、武藤霧子が珍しく毒のある物言いをするのを受け、透は複雑な面持ちで眉を曇らせた。

それから彼は、冷凍庫からいくつもの氷の塊を台車に乗せて居間を出ていった。これまでも人知れず、こうして地下の即席霊安室に氷を絶やさないようにしていたのであろう。源一郎や絹代がその作業を手伝っていたとは到底思えなかった。水谷亡き後も、黙々と一人で薄暗い地下室に氷を運びつづけていただろう透の姿を想像して、龍川はなんともやるせない気分になった。

地下から若い男衆が戻るのを待って、龍川は木工室にあるという源一郎の遺体の検分に出かけることにした。





屋敷にはすっかり傷心してしまった琴乃と、小夜、武藤霧子と瑞樹が残り、龍川、冷泉、透が木工室へと向かうはこびとなった。屋敷裏手の扉を開けると、早速雨風が廊下へ吹き込み、慌てた三人は示し合わせたように傘を開く。白い雨粒が地面を粟立だせ、ともすればたびたび吹き付ける突風に傘が持って行かれそうになった。

西の裏口から屋敷の裏手に向かいまっすぐ進むと、左手に土蔵が見えてくる。しかし、その扉は開けっ放しになっていて、風に煽られぷらぷら揺れていた。透と龍川が不審そうに顔を見合わせた。

「今朝は鍵なんて開ける暇なかったのに」透の声が自然と震える。

 朱野家の納屋や土蔵は毎朝水谷の手により開錠され、毎晩水谷と透の手により施錠されているとの話だった。毎朝鍵を開けていた水谷ももうおらず、透とて今朝の騒ぎでそれどころではなかったはずだった。

「昨日締め忘れたとかは?」冷泉は速足で土蔵に向かった。

「いや……確かに閉めたと思ったのだけれど……」透が後に続く。

雨風に踊る扉に手を掛けた冷泉だったが、中を覗いた瞬間に短くうめき声をあげて動きを止めた。続いた透が「ああ……あああ」と声を漏らして後ずさる。

異変を察した龍川も恐る恐る近寄り、同じく中を覗き込んだ。

「ひいいい!」龍川は傘を取り落として尻もちをついた。手から離れた傘が、風に煽られ宙を舞う。

それは、血も凍るような不気味な光景だった。

首を括られ、天井の梁から吊るされた和服姿の藤川絹代は、降り注ぐ雨粒を全身に受けて濡れそぼっていた。その両手両足は縄できつく自由を奪われ、今際にもがくことすらかなわなかっただろう。その苦しみと無念を死してなお訴えるように、その身体はぎしぎしと軋みを挙げながら、小さく揺れていた。……

「ま、まだ生きているかもしれん!」

 龍川がその身体を抱えるのに、残る二人も引き攣った顔で応じた。

「どうして……いつ……」透が呻いた。

「部屋に籠っていたのではなかったのか?!」冷泉は訳が分からないと訴えるように語気強く宙に問いかける。

「……駄目か。もう生き返りはせん」龍川が首を左右に振って吐き捨てた。

 透が腰を抜かすように、その場にへたり込んだ。

「けれど、まだ死んでからほとんど経っておらん。十分そこらだろう」龍川が、寝せた遺体の皮膚や顎を確認しながら唸った。

「では、僕らが屋敷に来た頃に?」透が蒼い顔を持ち上げ、不安定な声をあげる。

龍川医師は沈痛に俯いた。「そうとしか考えられませんな」

 冷泉も透も、混乱を抑えきれない様子だった。

「え……それじゃあ、自殺したというのか」

驚愕に顔を歪めた透に、「それはあり得ません」と、冷泉が蔵を見回した。「踏み台になり得そうなものが見当たらない。確かに第三者の手によって吊るされたものに違いありません」

「それに、絹代さんは喉を潰されとるよ。静さん同様に」龍川も遺体の喉元に触れながら静かに言い放つ。「自殺とは考えにくいでしょうな」

 透はそんな二人の言い分を順に目で追ってから、愕然と言った。

「確かに僕らはずっと一緒にいた。全員で深見の遺体を運んだんだ。なのに、その間にこうして絹代さんは殺され、吊るされている。……まさか僕ら以外の人物が隠れているというのか」その声は震え、表情は恐怖に歪んでいた。

冷泉は少し考え込んでから眉間に皺を寄せた。切羽詰まったような表情に見えた。「ちょっと信じられないですけれど、そうとしか考えられませんね。少なくとも、集まって深見さんの遺体を運搬した面々以外に、絹代さんを殺した実行犯がいるのでしょう」

 冷泉が断言するのを受けて、まるで何かが臨界点を超えて溢れたように、突然透は打ち明け始めた。

「冷泉くん、僕はね、絹代さんが犯人じゃないかと疑っていたんだよ。みんなのアリバイを並べて見るに、そうとしか考えられなかったから。外部犯はあり得ない。絶対に村のことをよく知る人間の仕業だという確証があった。僕が山で襲われたときもそうだが、水谷さんが殺されたときだって、霧子さんの通院の習慣を知る人間がその隙をついたようにしか見えなかったから」

「僕もそうですよ。後半部分は全くの同感です。しかし透さん、村に詳しい人間で、なおかつあの場にいなかった人間だったら、まだいるじゃないですか」

 冷泉の助言に、透は恐る恐る喉を震わせた。

「……姿が見えない弟か、白峰秀一さんが犯人だと考えているのか?」

「結論から言えば、その二人に関しては、なくはないという程度です」冷泉は、躊躇いなく言い切った。「まず弟さんに関しては、犯人だと仮定した場合にいくつか無理が生じます。少なくとも透さん襲撃に関しては、弟さんの単独犯を否定できますね。地下牢の外へ出たことがない彼が、この村の複雑な山道を、迷いなく逃げ切るには少し無理があるからです。しかし、水谷さんの日誌により、彼が一度脱走をしたという話が判明しました。このことで、零に近かった可能性が一に跳ね上がりました。ですが、犯人は明らかに武藤さんの通院事情を知っていたということが判明したため、やはり弟さんの単独犯はないと思っています。誰か通院事情を弟さんに伝えた人物がいなければ、弟さん一人では情報を得ようがないですからね」

 暗い顔でふんふん、と小刻みに首を振って聞いていた透が視線を上げた。

「複数犯の可能性を考えれば、遺体を運んだ面々も絹代さんを殺害した実行犯から外れるというだけで、完全なシロではなくなるわけだね」

「そうなりますね。そして白峰秀一さんが犯人である場合、僕たちの頼みの綱である“明日出張から帰って来てトンネルの崩落に気付いた秀一さんが救助を呼んでくれる”という期待が潰えます」冷泉は目を細めた。

 透が髪についた水滴を振り払うように頭を左右に振った。

「それはご免こうむりたいな。これ以上この村に閉じ込められるだなんて、頭がどうにかなりそうだ。そもそも秀一さんを犯人だと仮定した場合、動機が不明すぎるよ。無差別に人を殺して楽しんでいるとしか思えない」

「それも同感です。ですが透さん。この場におらず、動機があり、かつ村に詳しい人物――弟さんと秀一さん以外に、もう一人いるじゃないですか」

 その瞬間、透の顔からスッと温度が消えた。

「……僕を試しているのか?」

「申し訳ありません。そう見えたのなら謝ります」冷泉は殊勝に頭を下げた。「そうではないのですよ。ただ、告発するにはあまりにも謎が解けていなさすぎるので、断言するのが憚られただけです。ならば初めから触れなければいい話ですよね」冷泉は視線を上げて、透の表情を見た。

 透は斜め下の宙を睨んでいた。

「透さんもうすうす勘づいているのではないでしょうか。ただ、認めたくないだけで……」

 透は半ば閉じた目で、もの言いたげに冷泉を見据えた。唇は閉じたままだった。

「絹代さんの検分は終わりましたよ」龍川が顔を上げた。「まったく……こんなこと、いつまで続くのでしょうな」

 龍川が立ち上がったのを確認して、冷泉は言った。

「秀一さん犯人説が残る以上、明日の救出も確実とは言えなくなってきました。密室やアリバイの謎を解いて犯人を拘束し、事件が終わらせる。これくらいしか我々にできそうなことはないですね」

「源一郎さんの遺体発見現場へ急ぎましょう……」龍川が重い溜息をついた。

 土蔵から外を見上げる。鼻髭に細かな水滴がついた。



 六



 土蔵を出て、屋敷の裏手に回ってすぐのところには鶏小屋がある。そこから更に奥へ進んだところ、ちょうど屋敷の真裏に位置するのが、今回事件現場となった木工室だった。裏手はもう山になっている。台座だけになってしまった玄武像の残骸が、こちらを恨めしそうに見つめているようだった。

木工室の扉は無残に打ち砕かれ、穴の開いた左側の戸がきぃきぃと雨風に吹かれて揺れていた。右側の戸は中途半端に開いたところで固定棒が下りている。少々雨水を受けていたものの、その内側にある血文字は、透の証言通り“次は虎”と読めた。

 冷泉は雨に濡れた眼鏡のレンズを、持参した眼鏡拭きで丁寧に拭ってからかけなおす。そして小さく息を吐き中へ踏み入った。隣で龍川医師が「なんと惨い」と嘆きを零した。

 朱野源一郎の頭蓋骨は、彼のコレクションのうちの一つ、頭蓋骨粉砕機のレプリカによって無残にも拉げていた。

「父は頭を潰されて死んだのでしょうか」

 透が震える声で龍川を仰ぐ。どうやら直視することはかなわないらしく、木工室の扉の影に隠れたまま、一向に傘をたたむ気配がない。

「いや、直接の死因は、切断された手首からの失血死ですな」

「では、源一郎氏は頭を潰された状態でしばらく生きていたと?」

 目を剥く冷泉に、龍川は渋い顔で首肯する。その拍子に汗が一粒零れた。

「この拷問器具の可動範囲では、頭蓋を潰すことは難しいでしょう。できることと言えば、せいぜい顎の骨を折る程度のものです。よって元来この器具の目的は、拷問対象を直接死に至らしめるものではなく、頭を潰される恐怖をもって自白を促したり、虐げたりといったところだったと思われます」

 なんと、その見た目だけにとどまらず、仕打ちそのものも大概惨いものだった。頭蓋骨を潰された源一郎は、激しい痛みと死の恐怖の中、手首の先から自らの血液が零れゆく音を聞きながら絶命したというのだ。ぽたりぽたりと血の滴る音を、絶命のカウントダウンとして。……

 部屋の中を見渡すと、向かって右に作業台が一つ、しかしこれはL字金具で足が床に固定されていた。木材を切断する際に動かないようにであろう。がっちりと固定されて動く気配がない。その上には、木製の背もたれのない丸椅子が一つ、逆さに乗っていた。

「確かに密室ですね」

 通気口を見上げて冷泉が呟く。くるりと振り返って逆側から部屋を見回すが、出口になりそうなものは何一つ見当たらなかった。

 そのまままっすぐ歩いて、唯一の出入り口である扉へ近寄ると、閂へと手を伸ばした。一本の横木を、左右の扉にそれぞれある閂鎹へと通して開かないようにする、よくある型のものだった。

「中での作業を風や雨で邪魔されたくないときに、父は閂を使って扉を固定していたんだ」扉の外で壁に寄りかかっていた透が、声を絞り出すように説明した。

その話によれば、扉の錠は外からしか閉めることができないため、内鍵を後付けで作ったということだった。彼の説明を聞きながら冷泉はひとしきり鍵を弄ってみたが、どう転んでも内側からしか開閉することができなさそうである。

「この閂が中から閉められていたというのですね」

 冷泉の問いに、透はこくりと顎を引いた。

「まず、外鍵は絹代さんが持っていたものを僕が受け取って開けた。把手を引いても開かないから、中に父がいるのかと思って声を掛けたよ。けれども声が返ってこないものだから、納屋まで斧を取りに走ったんだ。納屋の鍵は開けたままにしていたから、そこから斧を取ってきて扉に打ち付けて穴を開けた。穴から手を差し込んで、手探りで閂の横木を滑らせて扉を開けると……」そこで透は顔を顰めて黙り込んでしまった。

「なるほど。扉が開かないのを確認したのは、透さんおひとりですか?」

「いや、僕が斧を取って戻ってきたときに、絹代さんが扉をがちゃがちゃしていたよ。霧子さんも隣にいたから、裏は取れると思う」

「そうですか」冷泉は小さく唸った。「扉の隙間を使って糸を通すと言っても、釣り糸や針金なんかでこの重い横木を滑らせるのは不可能ですね」横木には、糸をひっかけるような出っ張りやつまみがなかった。

「糸を通した穴もないね」蒼い顔の透が張りのない声で言った。彼はなおも戸口に身体を預けている。密室の謎に興味はあるものの、とにかく室内の惨状を視界に入れたくないようすだった。

「となると、残るのはあの通気口か」冷泉は振り返って、四メートル頭上にある鉄の長方形を見上げた。「外からあの通気口を見てみましょう。透さん、脚立はありませんか」

「あの高さの脚立はないな……あ、農具倉庫にだったら、大きな脚立があったな。あれならば、ひょっとしたら届くかもしれない」

「農具倉庫があるのですか?」

「ああ。村の中心に畑があって、その傍に共用の倉庫があるんだよ」



 七



 二人が脚立を担いで戻る頃には、雨もだいぶ小降りになっていた。

 木工室の裏手にまわり、透が下で見守る中、冷泉は脚立に足をかけた。脚立は十二尺のもので、上までのぼって跨ると、身長百七十八センチの冷泉は通気口まで楽に手が届いた。かなりの高さであるため相当怖い思いはするが、おそらく村で最も身長が低いであろう百五十センチ程度の小夜であっても、手を伸ばせば届くだろう。

 通気口は、縦四十センチ、高さ七十センチほどの長方形の鉄格子型をしていた。等間隔に鉄の棒が五本刺さっている。だいぶ古いもののようだったが、近ごろ掃除をしたのか蜘蛛の巣や埃もなく綺麗にしていた。そのうち一本を握ってみる。すると驚いたことに、握って捻ると格子が外れた。同じように残る四本も外してみると、鉄格子の通気口が小窓に早変わりする。

 室内で遺体の検分をする龍川医師と目が合うと、医師は目を丸くした。

「冷泉くん。どうやってそんな高いところに」

「脚立を使いました。この鉄格子、外れるようになっていたんです」

 言って冷泉は中を覗き込む。あまりの高さにゾッと体毛が逆立った。ちょっと派手なくしゃみでもすれば、身体は通気口をすり抜け、地面に向かって頭から真っ逆さまであろう。

なるほど、小窓に様変わりした通気口であれば、人一人通り抜けることはできただろう。だが、いかんせん部屋の中から通気口まで昇る手段がない。脚立を中へ持ち込んだところで、人は小窓を通れても全長三メートル半をゆうに超える脚立が通るわけがなかった。

「どうしたものか……」冷泉は頭を掻きながら、地面へ降りた。

下で脚立を支えてくれていた透が傘を差しかけてくれる。「収穫はあった?」

「格子が外れることがわかりました」

「格子が?」

「ええ。ご存知なかったのですか?」

「恥ずかしい話だけど……」

「水谷さんもご存知なかったのでしょうか?」

「さあ、どうだろう」透は首を傾げた。

「握って捻れば、簡単に外すことができます。蜘蛛の巣や埃がなかったことから、水谷さんが最近掃除をしたか、犯人がこの通気口を使って出入りしたかであることがわかります。……後者の場合、犯人は部屋の内側からどのようにして四メートル以上あるあの高さまで昇ることができたのか、皆目見当がつきませんがね」

 脚立を元に戻して木工室の正面へ戻ったところ、ちょうど龍川医師が、検分を終えて外へ出てきた。そのころにはもうすっかり雨が上がり、白い雲の隙間からは時折日の光が顔を出していた。

「源一郎さんの死亡推定時刻は今から七、八時間前といったところだから……ええと」

「およそ夜中の三時頃、深見と同じくらいですね」透が腕時計を見て言った。「どちらが先に殺されたかというのは?」

「さあ、そこまでは。法医学専門の医師が詳しく解剖すればわかるのかもしれませんが、私が外から見てわかる範囲では、ちょっと」

 龍川が口を閉ざしたと同時に小さな沈黙が落ちた。

やがて、何かを思いついたらしい冷泉が視線を上げた。「ところで屋敷のマスターキーは今どこに?」

透がえっと、と黒目を上に向けた。「絹代さんに預けたきりだな。木工室で“次は虎”の血文字を見て白峰邸に急ぐ前に、その場に預けて出たんだ。だから犯人が持ち去っていなければ、二本とも父と絹代さんの部屋にあるんじゃないかな」

 二人のやり取りを聞いていた龍川医師は、なにやらポロシャツの内ポケットを探り始めた。鍵束が二組出てきた。

「鍵束でしたら二つとも、絹代さんの着物の袖から出てきましたよ」

「あ、それです」透が受け取り、その本数を数え始めた。「数も合っています。なくなったものはなさそうですね」



 八



 二人の遺体を地下へと運び込み、三人は居間へと戻った。大時計の針はちょうど十一時を指していた。食欲がある者はだれ一人としていなかったが、全員そろったところで遅い朝食となった。消耗の激しそうな琴乃と透に関して、ベッドで休ませてはどうかとの提案が瑞樹から出たが、極力行動を別にしない方がいいということで、基本的には居間で過ごす取り決めになった。

 そのため、生き残った七人全員が、小学校の教室ほどの空間にひとかたまりになって、進まぬ時間をやり過ごしているのである。

 冷泉の手元には、現在二冊の冊子があった。うち一冊は深見が遺した手帳であり、もう一冊は水谷の部屋から拝借した『執事記録〈三〉』である。

 これをもとに、冷泉はこれまでの事件を整理してみることにした。

 一つ目の事件、電話機爆破については、各家ともに施錠の習慣がないため、忍び込む機会は全員にあったものとする。また、トンネル爆破については、直接着火したものか遠隔か等一切不明である。最後にトンネルの無事を確認したのは、透と深見が通過した八月十八日の十四時頃のことである。

 二つ目の事件、静殺害については、密室トリックの謎が残っている。アリバイがないのは透、琴乃、瑞樹、深見、冷泉、武藤、龍川、小夜、水谷の九名である。

 三つ目の事件、透襲撃については、犯人が逃走経路に明るかったことから、村の地理に詳しいものの犯行かと思われる。アリバイがないのは殺害された源一郎、絹代の二名である。

 四つ目の事件、穢失踪については、透が食事を運んだ十九時から翌朝四時の間に行われたものである。この間、全員が二十分以上一人になった時間が一回以上あるため、全員に犯行の機会があったものと考えられる。

 五つ目の事件、水谷殺害については、足跡トリックおよび密室トリックの謎が残っている。アリバイがないのは源一郎、絹代、深見、瑞樹、小夜の五名である。

 六つ目の事件、源一郎殺害については、密室トリックの謎が残っている。全員アリバイはなし。

 七つ目の事件、深見殺害については、密室トリックの謎が残っている。全員アリバイはなし。

 八つ目の事件、絹代殺害については全員にアリバイがある。

なお、すべての事件において、アリバイがない者の中に穢、秀一が加わる。

また、源一郎殺害と深見殺害の前後は不明であるが、便宜上、発見された順に源一郎、深見の順で番号を振ったものである。

 ここまでを書き出したところで、冷泉は背もたれに上体を預けて小さく息をついた。

 盆に麦茶をのせた瑞樹が、静かに隣の椅子に腰を下ろした。そのうち一つを無言のまま冷泉の前にすすめてくれる。

 遅れて、同じく麦茶の入ったグラスを片手にした透が前の席についた。冷泉の視線がメモから離れたのを確認して、彼は声を差し込んでくる。「何か進展はあった?」

「このうち二つ目、静さん殺害時の密室の絡繰りについては、検討がついています」

「へえ、すごいじゃないか」目を丸くした透が、身を乗り出すように椅子を寄せた。

「透さん、一つ確認したいことがあるんです。以前深見さんと話をした際に、彼は透さんから村を案内してもらったということを言っていたのですが、畑にも行きましたか?」

 唐突な冷泉の質問に、透は「んん」と記憶を弄るように斜め上を見つめた。「ああ、到着したすぐ、通りかかったときに軽く説明はしたかな。案内といえる程しっかりしたものではないけれど、村の簡単な配置と、目に入って来たものに関しての簡単な説明はしたよ。深見の言うところの案内にあたることと言えば、それしか思いつかないな」

 透の返事を受けて、冷泉はじっとメモを眺めて考え込んだ。

やがて、「なるほど、そうですか」唇をきゅっと引き結んで頷いた。「ちょっと確認したいことがあります。少し『玄武の館』へ行ってきます」



 九



『玄武の館』に着くや否や、冷泉は胴体発見現場の地面に何やら足跡をつけ始めた。そのさまを、透と瑞樹が不思議そうに見守っている。

 しばらく前から再び雨が降り始めており、地面は薄い水の膜で覆われていた。

「これは?」透が尋ねる。

視線の先の冷泉は、今度はつけた足跡を箒で消し始めた。

「ええ、これはこのままにして、また後で来ましょう」

 てんで返事になっていなかったが、透はそれ以上追及するのを諦めたようで、黙って冷泉の後についていった。

「ここは、発想の逆転ですよね」十センチ少々しか開かない窓を、何度か確認して冷泉が呟いた。

部屋は、遺体発見当時のままである。しかし当時は深紅の鮮血が飛び散っていた空間も、今では赤黒い文様で汚れた空間へ様変わりしていた。

 初めて遺体発見現場を目にした瑞樹は、始終居心地が悪そうにそわそわしていたが、特に不平を零すこともなく黙って冷泉に付き従っていた。冷泉も、特に気に留めるふうもなくマイペースを貫いていることから、普段の関係性が垣間見えるようだった。

また、冷泉の動線は無駄がなく、どうやら端から確認事項と箇所に目星をつけてきたらしいことが窺えた。

「大丈夫? 外に出とく?」

 あまりに声を発しない瑞樹を心配して透が声を掛けると、瑞樹は小さく首を横に振り、「邪魔したくないんです」と、黒目がちの瞳を遠くの背中に向けた。「それに、彼に丸投げはしたくない。僕も立ち会う義務があると思いますから」

「そっか」

 この事件の究明に関しては、冷泉が自発的にやっていることだと解釈することもできる。もっと意地悪な受け取り方をすれば、好奇心から事件に首を突っ込んでいるともとれるだろう。そしてその場合、瑞樹が無理をして付き合う義務はないのだ。それをそうとは取らない辺りに、二人の関係性と、瑞樹の性格が出ているなあ、などと透が内心呟いていたところ、その心の声を透視したように瑞樹がぽつりと唇を動かした。

「冷泉が、興味本位で事件を混ぜっ返すような人じゃないのは僕も知っていますから。自分以外に適任者がいる状況では、彼は動かないんです。議長やまとめ役なんかも、他に立候補者が誰もいなくて、誰かがやらないと話が進まないという状況や、他者からの推薦がないとやりません。今回だって、陽介くんがあんなことになったから……」瑞樹は悲しそうに透に視線を移した。「事件についてびっしりと書き込まれた陽介くんの手帳を見て、冷泉も思うところがあったのでしょうね。果たしておとなしく警察を待っているだけでいいのだろうか。このままだと全員殺されかねない。そうならないためには、誰かが犯人を止めないといけないから」そして再び、瑞樹は彼方の背中へと視線を戻して黙り込んだ。

 村に関係のない冷泉を巻き込んだという罪悪感もあるだろう。それについては、なにより透が感じていることだった。巻き込まれたどころか、命まで奪われてしまった友人のことを思うと、今でも頭がおかしくなりそうだ。透が巻き込んだわけではないことは重々理解しているつもりでも、あの怪文書が自身の名義で送られていたというだけで、途轍もない罪悪感がのしかかってくるのである。その罪責心から、深見の遺体が発見されてからこちら、透は大事な弟を喪った琴乃の顔を直視することができないでいた。

 やがて、冷泉はすっきりとした顔で廊下に出てきた。

「透さん、しつこいようですが、確認させてください。武藤邸はいつもよく使われる玄関や居間、婦人の私室等の鍵は開けっぱなしにされていた。そして、客間などの空き部屋や納戸等のあまり開閉されない扉の鍵は閉めてられていた。間違いないですね?」

「ああ、僕の知る限りではそうだよ。事件当日も同じだったと霧子さんは言っていたし、玄関の鍵が開いていたことについては、実際に僕もこの目で確認している」

「そういうことならば、密室の説明はつきますね」そう言うと、冷泉はパッと雨粒を散らして傘を開くと、再び裏手の胴体発見現場へと向かった。「思った通りだ。足跡が綺麗に消えている」

 慌てて二人が追いかけると、冷泉はしゃがんで地面をまじまじと眺めていた。彼が言うように、先ほど足跡をつけて箒で消した痕がきれいさっぱりなくなっている。全ての名残を降りしきる雨粒が消してくれたらしかった。

「じゃあ」透が不安げに視線を持ち上げた。

冷泉は晴々と頷きを返した。「ええ。これで二十分も雨に晒されれば痕跡が消えるということがわかりました。犯行時刻が九時四十分から十一時四十分の間まで広がりましたよ」

 その言葉を受けて、透の顔が曇った。

『弟さんと秀一さん以外に、もう一人いるじゃないですか』

脳内に言葉が蘇る。冷泉が辿り着こうとするその先を覆う霧がまたひとつ晴れたことで、透の目にもその片鱗が見えてきていた。

「……密室の謎も?」

「ええ、そちらも。発想の逆転だったのです」



 十



 再び朱野邸に戻り、三人で食卓テーブルを囲った。

「僕はこの連続殺人事件について、朱野家への復讐劇だと解釈しています。そこに深見陽介さんの死が挟まっていることが鍵だと思うんですよね」

 冷泉は札を並べるディーラーのような涼しい仕草で、深見の遺した手帳の一頁を指し示した。その伏し目がちの顔に、透と瑞樹の視線が注がれる。

 冷泉の言う通りだった。静、透、穢の順で狙われたときには、標的は朱野家であるという空気がなんとなく漂った。その後朱野家と血の繋がりのない水谷が殺され、無差別殺人の疑いが一度持ち上がりかけたが、その後源一郎、絹代と続けば、これはもう血縁か否かに限らず、朱野家の関係者が狙われているという考えに着地せざるを得ない。ただ、そこに挟まった深見陽介という札だけが、透と瑞樹の二人には絵柄違いのように浮いて見えていた。

 一方で冷泉の目は『執事記録〈二〉』を捉える。そこに記された深見陽介の出生にまつわる真実を想起して、冷泉は一人点と点を線で結んでいた。そこに記された朱野源一郎の隠し子である“陽介”と深見陽介を同一人物であると仮定すれば、それは朱野家と深見陽介とを繋ぐミッシングリンクとなる。そして白虎像が玄武像にすり替えられたことによって、それは仮説から確信へと変わった。

更に、それは犯人像を絞る際に一助を担っているとさえ言えた。なぜならこの一連の殺人を朱野家への復讐劇であると仮定した場合、犯人は隠蔽された深見陽介の事情までをも知る、至極朱野家に詳しい人物に限定されるからだ。

水谷がそのことを克明に記録していたことは、犯人にとっては誤算だったに違いない。無意識のうちに冷泉は抱き込むようにそのハードカバーの冊子を手元に引き寄せていた。しかし、その途中で彼の指は雷にでも打たれたようにぴたりと止まった。

果たして、そうだろうか。

日誌などなくとも、深見陽介と朱野源一郎の遺体が調べられれば、そのDNAから親子関係は白日の下に晒されるだろう。また、深見家を調べられれば、彼が嫡子でなく養子であることも明らかになる。

それでも犯人は一向に構わなかったとなると、やはり――。

「僕はまた狙われるのだろうか」

 突如透の沈痛なため息が降ってきて、冷泉の思考はそこで中断となった。

「その可能性は充分にあります」

 臆面もなく言い放つ冷泉に、透は苦笑を零した。

「言うね、冷泉くん」

「透さん、よかったら前妻の百合子さんと、松右衛門さんが亡くなったときのことについて、詳しく話を聞かせてもらえないでしょうか」

 その言葉に、ソファで脱力していた龍川医師が無言のまま顔を上げた。

 透は、一瞬遠くを見るような表情を挟み、それから穏やかに冷泉を正面から見据えた。「話って何を聞きたいの?」

「そうですね、ではまずその人となりと亡くなった状況について、おおまかに話していただければ」

「百合子さんは、元々は隣の五藤村で看護師をしていて、時折龍川先生のお手伝いでこの村にも来てくれていたらしい」

 冷泉の目がぴくりと伸縮した。

透は気づくことなく話を続けている。「それが縁で父と懇意になり、僕の母が亡くなった翌年に結婚したんだ。僕と弟が一歳の頃だよ。その四年後に静が産まれた。それから静が九つのとき、つまり今から十年前に他界。亡くなる少し前から体調不良を訴えていたんだけど、回復することなく死んでしまった。死因は多臓器不全ってことになっている」

 冷泉には、佐藤百合子と朱野百合子の関連性を調べるほかに、水谷の日誌と透の話との整合性を確かめる目的があったが、無論そのことを透は知らない。それでもここまでに矛盾はなかった。

「透さんから見て、百合子さんはどんな人でしたか?」

「そうだな」透は視線を落とした。「実の子でない僕に対しても、静と区別することなく愛情を注いでくれた。実母の愛を知らずに育った僕だけれど、寂しい思いをすることはなかったよ。彼女が亡くなった時はあんなに健康そうだった人がこんなに突然死んでしまうんだって、衝撃と喪失感がしばらく抜けなかったな」

 そこまでを黙って聞いていた龍川医師が、突然何度か口を開いては閉じを繰り返し始めた。そして、場の視線が自身に向いたのに気づくと、複雑そうな面持ちで口を挟んできた。

「いや……あのですな。その……亡くなった人のうわさ話をするのもどうかと思いますが」しかし龍川はいざ話すという段になって、透を気にするように忙しなく視線を動かした。

透は、「僕のことは気にせず続けてください」と優しく言った。「それよりも、事件の解明が進展するほうが大事なことなので」

老医師は汗の浮いた額を何度か掌で撫でてから、ようやく口髭を持ち上げた。「それがですな……百合子さんと結婚してからの源一郎さんは、それはもう見違えるように生き生きなりました。それまでご自身のコレクションや和服に執心されているのは知っていましたが、興味の矛先が明らかに変わりました。車を新調したり、百合子さんと一緒にゴルフや旅行に行ったりと。実に夫婦生活を満喫されていたのをよく覚えております」

 龍川はまるで過去の主観に没入しているかのような口ぶりで熱っぽく語った。

これには、透も、「へえ、初耳だなあ」と目を丸くした。「父の再婚前後は、僕はまだ小さかったので写真でしか知ることができないですからね。静が産まれるまでの四年間、父と百合子さんがどのように過ごしていたのかなんて、聞いたことはなかったなあ」

 龍川は透に頷いた。「透さんはそうでしょうな。仮にご両親に聞いたところで、客観的な話は返ってこなかったことでしょう。そして、今から話す内容は、あくまで私自身の主観による客観であることを念頭に聞いていただければと思います。亡くなった人をこんなふうに言うのもどうかと思いますが、共に仕事をしていた者としてわかります。源一郎さんと結婚してから、百合子さんは変わってしまわれた」

「変わった、と仰いますと?」

 冷泉が掘り下げると、龍川は言いにくそうに何度か口をもごつかた。

「何と言いますか。百合子さんは元々素朴そうな女性だったのですがね。結婚してからは良くも悪くも、名家の奥方にふさわしい女性になったといいますか……」少し話過ぎたと感じたのか、龍川医師はそれきりばつが悪そうに口を閉ざしてしまった。

 しばし沈黙が訪れる。

冷泉はじっと場を観察し、齎された情報を舌の上で転がしていた。

やがて食卓の上で指を組んだ自らの手を見つめていた透が、思い立ったように視線を持ち上げて静かに言った。「僕の認識と事実との間に、少し齟齬があったのかもしれないな」

「と、仰いますと」冷泉は食いつくように、上目遣いで透を見据えた。

透は黒目を斜め下へ動かして渋い表情を浮かべた。「いや……憶測でものを言うのは気が進まないけれど、どこかに揉め事の種は転がっていたのかもしれない。父はああいう人だったから恨みを買うのはわかるけれど、もしかしたら百合子さんも……」そこで透は濁したが、聞く者にもその先は大方の予想がついた。「まだ十九の静が殺される動機がわからなかったんだけれど、朱野家そのものへの恨みとなると、根深いものがあるのかもしれないね」と、透は目頭をもんだ。

「松右衛門さんについてはどうです?」

 青白い顔に、苦々しい表情を浮かべる透にも容赦することなく、冷泉は事務的な視線で彼を突き刺した。

「祖父は……父と似たような人だったよ。僕よりも、龍川先生の方が人となりについては的確に把握しているかもしれない」

 少なからず、百合子の前例で衝撃を受けたらしい透がそこで龍川に水を向けたが、龍川は困ったように眉を八の字にして首を左右に振った。

「とんでもない。長くこの村を見ている分、必然的に知っていることが多くなるだけです。あとは歳が近いというだけですな」

「そう仰らずに、僕が知らないことを教えてください。祖父は四神伝説にものすごく傾倒していましたよね」

透の問いかけに、龍川はこくこくと、小刻みに顎を引いて首肯した。「ああ、それなら間違いなく。松右衛門さんは、誰よりも村の伝統を大事にする方でしたからな。それこそ、呪いの子伝説や、四神伝説をそれはもう熱心に信じておられました。この地は四神様が立ち寄ってできた土地であり、四神様が四神にまつわる姓を持つ四家を引き寄せたと」

「呪いの子伝説でしたら、透さんと弟さんが産まれた時にも」冷泉が鋭い声を差し込んだ。

龍川は透から冷泉に顔を移して肯き返す。「ええ。一番恐れおののいて、牢に閉じ込めるよう連呼されていたのが松右衛門さんですな」

「百合子さんとの再婚に関しては、松右衛門さんはどのような立場だったのですか?」

「賛成だったことでしょうな。男やもめは対外的に示しがつかぬと口を酸っぱく仰って、まだかすみさんの四十九日が終わったばかりのころからお見合いの話をされていましたから」

「ご自身の価値観に頑なな方だったのですね。でしたら、例えば……あくまで、例えばの話ですよ。浮気などは言語道断だったでしょうか」

 冷泉はちらりと龍川の反応を窺うように上目遣いに確認する。相手の左眉がぴくりと動くのを見逃さなかった。

「……さあ。どうでしょうな」

 途端に歯切れが悪くなった龍川に、「ああ古風な方でしたら、逆に一夫多妻制には抵抗がなかったりするのでしょうかね」すかさず質問を差し込んだ。

しかし、「そこまでは、私にはわかりかねますな」老医師は、びっしょりと浮かんだ額の汗を拭って黙り込んでしまった。

そんな龍川に見切りをつけるように、冷泉は透へと視線を移した。

「松右衛門氏が亡くなったのは、先月のことでしたね」

「ああ」対して透は落ち着いていた。「井戸の中に落ちて亡くなっているのを、朝、納屋と土蔵の鍵を開けに庭に出た水谷さんが見つけたんだ」

「ご遺体はご覧になりましたか?」

 尋ねると、透は唇を引き結んであからさまに顔を歪めた。

「……酷い有様だったのですね」

「僕と水谷さんと父の三人で井戸から引き揚げた。一目で死んでいるのがわかった、とだけ」

そう言って透は口元を覆った。

「龍川先生もご覧になりました?」冷泉は再び龍川医師に視線を向けた。

反射的に老医師は顎を引く。眼鏡がずり落ちた。「警察と解剖医がくるまでのつなぎをしていましたからな」

「何曜日だったかは覚えておいでですか?」

「日曜日の朝ですな」

「深見さんは、部活の顧問はされていましたよね?」冷泉は何の前振りもなく、今度は透に向き直った。

 唐突な冷泉のキラーパスに、透は一瞬ぽかんとした後で小刻みに頷いた。

「あ……ああ、うん、副顧問をしているという話だったよ。なんでも、教育現場において部活の顧問は若手の役割だって風潮があるらしくて。それでも、毎週日曜日と盆正月は休みだったようだけど」

「なるほど結構。ありがとうございます」

 そう言って冷泉は、パタンと手帳を閉じた。

「犯人の目星はつきました」



 十一



 その言葉に、室内の視線が一気に収束した。

「……誰なの?」

 それまでソファで横になっていた琴乃が、険のある表情で勢いよく身体を起こした。

「……話すべきか否か、迷っています」

 珍しく歯切れの悪い冷泉に噛みつくように、琴乃は唇を震わせた。

「いいから。誰なの」

 その血走った目に炙られ、冷泉は複雑そうな面持ちで自身の手元へ視線を移した。そして、意を決したように視線をあげた。

「こんなことを言うと気分を害されるかもしれませんが、信じるために疑うという言葉がありますね。これもその一環で、仮説を立てて潰していく行為だと思ってご容赦ください」

 一同をぐるりと見回して、異論がないのを確認した冷泉は一つ息を吸いこんだ。

「では。あの首のない亡骸は本当に深見さんのものだったんでしょうか」

 突然の問いかけに、室内には音にならない動揺が広がる。

「深見さんじゃなければ誰だというのかしら」武藤霧子が相変わらずの余裕の笑みで尋ねた。「深見さんがいなくなって、それ以外の人はここにいる。それが全てではなくて?」

「ええ、一見数は合いますね」冷泉はその疑問を目顔で受け止めた。「ですが、これまでと違って、深見さんの遺体には首が見つかっていません。従って、あのご遺体の主をはっきりと深見さんだと断定するには、決め手に欠けると思うのです」

「私たちの知らない誰かが潜んでいて、あの部屋で殺されたとでもいうの?」眦を決した琴乃が、鋭い声で噛みついた。

「いえ、そうではありません、たとえば」冷泉はそこで透をちらりと窺った。

「……弟か」透が眉を顰めて、低く唸る。

「ええ、まだ見つかっていない弟さんの可能性もありますね」冷泉はこともなげに同意を示した。「深見さんと透さんは身長が同じくらいだったように記憶しています。そして、透さんと弟さんが一卵性双生児であれば、弟さんも同じくらいなのではないかと思ったのです。但し育った環境が著しく違うようなので、後天的に体格が違っている可能性はもちろんあります。その辺りはどうだったのですか?」

「きちんと並んで比べたことはないが、まあ、大きく変わらなかったとは思うよ」透は感情を抑えるように目頭を揉み、細く息を吐いた。「けれど、あの遺体が弟のものだとしたら、深見はどこへ消えてしまったというのかい」

「犯人に拉致されているか、もしくは深見さんご自身が犯人であるかですね。前者の場合、わざわざ弟さんの身体を使って深見さんが死んだように見せかけた理由に説明がつかないので、僕は後者だと思っています」

「陽介が犯人だと言うの?!」琴乃が声を荒げた。

辺りにざわめきが広がる。

 様々な感情が入り混じった視線が一気に自身へ注がれることにも臆せず、冷泉はあくまで機械的に応じた。

「ですから、はじめに可能性の一つだと申し上げたはずです」

「冷泉くん、それはない。僕がボウガンで襲われた際に、間違いなく深見は僕の真後ろにいたよ」普段より強い口調で透がきっぱりと断言した。

 収まらぬざわめきや琴乃と透の異議にも動じることなく、冷泉はなおも淡々と答える。

「これだけのトリックを講じている犯人ですよ。ボウガンの自動発射装置くらいお手の物でしょう。例えば、足元に黒い糸を仕掛けておき、そこを通って糸が切れるとトリガーが引かれて矢が発射されるような、ね。透さん、あなたは本当にボウガンを発射した犯人を見たのですか。深見さんが追いかけた影が動くところを本当に見ましたか?」

 静かだが有無を言わさぬ追及の圧力に、透は言葉を詰まらせた。

「それは……、いや、そもそも動機もないだろう。深見が一体、会ったばかりの朱野家に何の恨みがあると言うんだ」

「会ったばかり……本当にそうでしょうか」

「何?」透の表情が、それまで見たこともない厳しいものに変わる。

冷泉は、そんな透すらも淡々と見つめ、「深見陽介さんは、本当の弟さんではない。そうですよね? 琴乃さん」ついに大きな爆弾を投下した。

 琴乃の顔色が一気に青ざめる。大きなショックに呼吸をすることすら忘れてしまったようだった。

「彼は、あなたが十三の頃に白峰家に養子として引き取られた血のつながらない弟です。あなたが産まれて以降、子宝に恵まれなかったご両親は、あなたに婿養子を取らせるつもりだった。しかし、万一そこで男の子が産まれなかった事態に備えて、養子をとったのです。そして、そんな家のいざこざから逃れるべく、あなたは駆け落ち同然にこの村へと嫁いだ。嫁ぎ先であなたが男の子を産んでいることを知ったご両親は、長男の瑞樹を深見家の跡継ぎにしたがったのでしょう。それが叶わないならば、もう一人男の子を産めと要求された。――先日、あなたが僕に話してくれた家庭事情の真相はこうじゃないですか? 琴乃さん」

 蒼い顔をした琴乃は、膝の上で固く震える自身の拳を見つめていた。

「冷泉」広い空間に瑞樹の声が反響する。瑞樹が強張った表情で友の顔を見つめていた。冷泉もそんな彼の双眸をじっと見つめ返す。後には雨粒が窓を叩く音が残った。

 やがて先に視線を外したのは冷泉だった。彼は全体に向き直って唇を開いた。

「深見陽介さんは、七ツ森町の福祉施設から引き取られた子供だったのです。そんな彼の生まれがこの村だったとしたら?」

「ちょっと待ってくれ」その拍子に透が音を立ててふらりと立ち上がった。「そんなことはありえない、僕と同じ年に産まれた子供は弟ただ一人だ。間違いない」

「ええ。透さんがご存知ないのも仕方ありません」驚愕に声を震わす透にも、動じることなく冷泉はあくまで平然と窘めた。「二十四年前の九月、この村で生まれたその日に、福祉施設に預けられた赤ん坊が居ました。そうですよね? 龍川先生」

 今度は龍川が雷に打たれる番だった。

「それが、深見陽介さんだったのですよ。彼の本当の両親は、朱野源一郎さんと、武藤霧子さん」

「嘘よ!」怒涛の雷撃が次に貫いたのは武藤霧子だった。それまで涼しい顔で聞いていた武藤霧子だったが、その瞬間感情を爆発させてその場に立ち上がった。「死んだって! 死産だったって! みんなそう言っていたじゃない!」そう言って龍川の丸まった背中を、霧子は鬼の形相で睨みつけた。

 俯いたまま、額から玉のような汗を流す父の姿を、隣に座る小夜がはらはらと眺めている。

「全部、水谷さんの日誌に書かれていました」冷泉は食卓の上の日誌を掴み、高々と掲げて見せた。

龍川はゆっくりとそれを視界に収め、それから観念したように肩を落とした。

「申し訳ありません、霧子さん……」

 老医師が零した言葉が線香の煙のように立ち上る。その細い声に、武藤霧子は糸が切れたようにその場に崩れ落ちて、さめざめと涙を零し始めた。

そんな霧子の様子を直視できないのだろう、龍川医師は頭を垂れたまま固まってしまった。そんな老医師に、冷泉はぽつりと質問を落とす。

「深見さんがその時の赤ん坊であると、気づいていたのですか?」

「……確証はなかったのですよ。事件が起こるまでは、結び付けることもなかった。それが、私なりに事件のこと、動機やら犯人の正体やらを考え始めてみて、ふと。ああ、あの子も陽介といったな、と。それでも、そう珍しい名前でもないし、結び付けることはありませんでしたよ。もしやと思ったのは、深見さんが殺されてからです。その後『白虎像』が『玄武像』と入れ替わっているのを見て、確信に変わりました」

「だからだったんだな」

 それまで愕然と日誌を眺めていた透が、突然ぽつりと言った。

「だから、とは?」

「いや、初めて深見をこの屋敷に連れてきたときに、水谷さんがやけに感慨深そうにしていたんだ。水谷さんは丁寧な人だったからさ、その時はただ深見のことを歓待してくれているんだろうなと流していたんだけど」

「でしたら、水谷さんは何かしら気づいていたのかもしれませんね」

「この村に連れてくる前にも、深見のことは水谷さんにあれこれ話したからな。そこで勘づいたのかな。いや、もっと……ひょっとしたら、水谷さんは七ツ森町の福祉施設に預けた子供のその後を、ある程度追っていたのかもしれないな」

 すすり泣く声と罪責感と驚愕とで満たされた部屋には、重苦しい空気が立ち込めていた。

 自身の弟の真実を暴かれた者、その息子。自身の過去の隠し事を暴かれた者、その娘。死産とされた自身の子供が実は生きていた者。友人が実は異母兄弟だった者。それぞれが受けた衝撃の重さで、空間の重力が歪んでしまったようだった。

 やがて、透が掠れた声を上げた。

「けれど、仮に深見がその……父と霧子さんの子供だったとしてもだよ? すなわち深見が犯人だとはならないんじゃないか」

「ええ、ですから、再三申し上げたとおりまだこれは仮説の一つにすぎません。ですが、犯行が可能な人物であり、かつ動機がある人物となると、彼しか浮かんでこないのですよ。他にある可能性を全部潰していって残った仮説が深見陽介犯人説であれば、それはもう真実と呼ぶに近いのではないでしょうか」

「そんな横暴な」

「ええ。ですから、他の可能性を潰した場合に、と限定しています。この一連の事件を朱野家への復讐だと仮定した場合、少なくとも、犯人は深見陽介さんと朱野源一郎さんの関係について知っていた人物となるはずです。違いますか?」

 正面から冷泉の刃のような視線に射抜かれ、透は強張った表情で顎を引いた。

「それは……そうだろうね」

 透が同意を示すと、冷泉は、では次のステップですとでも言うように、一つ頷きを返した。

「また後の警察の調べで深見さんと朱野源一郎氏の血のつながりが明らかになった場合、容疑者が朱野家の事情に詳しい人物に絞られることを犯人が予測していなかったとは思えません。これについてはどうですか?」

「ああ、まあ、普通に考えて予測できるだろうね。異論ないよ」

「では、犯人は逮捕されるのが怖くなかったのでしょうか? しかしその場合、密室やアリバイ工作をした理由がわからなくなります。犯人は警察の手から逃れるために数々の工作を施したはずですから。つまり、犯人は“深見さんのものだと思われている首なし死体”と源一郎さんの遺体を調べられることを恐れていなかった。その理由を、透さんはどう予想しますか?」

「……父と深見の血縁関係が判明した場合、容疑者として浮かび上がるのは事情を知っていることを隠しようがない龍川先生だ。ということは、犯人は龍川先生に罪を着せたかったんじゃないか?」

その回答が狙ったものとは違ったのか、冷泉はううん、と小さく唸った。「それも可能性の一つとしてあります。しかし、もう一つあるでしょう」

「もう一つ?」

 怪訝そうに眉根を寄せる透に、冷泉は涼しい顔で爆弾を投げつけた。

「ええ。犯人が深見さんであり、あの首なし死体が全く関係のない第三者のものであるというケースですよ」

「な!」

 その場に稲妻が走り、全員が言葉を失った。

「先ほど僕は、あの首なし死体を行方がわからなくなっている弟さんのものである可能性に触れましたが、深見陽介さんを犯人であると仮定した場合は、第三者の死体である方が有力かもしれませんね。何しろ、深見陽介さんが深見家の嫡子でなく養子であることは調べればすぐにわかることですし、彼の実の両親については表向き不明ということになっているでしょう。源一郎さんと武藤さんの隠し子と、あの日教会に置かれていた嬰児とを結びつけることのできる者はいないと深見さんが考えたとしてもなんら不自然ではありません」

「わ、私がいれば、流石に気づきますよ」龍川が唾を飛ばした。

「そうですね、先生が唯一真相を知る人間です。しかし、先生の口さえ封じてしまえば……」

「なんと!」龍川が目を白黒させた。「私は殺されるところだったというのですか」

「先生はその不安はなかったのですか? 深見さんをあの日の“陽介”だと気づいた瞬間、少しは頭に浮かんだのでは」

 冷泉の言葉に、龍川はあからさまに目を逸らして唇を引き結んだ。これを気に留めることなく、冷泉は全体へ視線を撒いた。

「深見さんによる復讐だと仮定した場合、復讐の対象となるのは朱野家と、遺棄に関わった百合子さん、水谷さん、そして龍川先生です。龍川先生を除けば、今回の被害者と一致しませんか?」

 これに異を唱える者はいなかった。

「龍川先生の口を封じてしまえばもう真相を知る者はこの世にいない。よって深見さんは、全く関係のない、それこそ身寄りのない同じ年頃の人間を拉致して、自身の身代わりにすればそれで事足りると考えたのだと思います」

 反駁を待つように、冷泉は一同をぐるりと視線でなぞったが、反駁どころか言葉を発する者すらいなかった。それを確かめて冷泉は、あくまで無感情に話を続けた。

「“深見陽介”は殺人事件の被害者として処理され、本物の深見陽介は別人として生きていくことになります。戸籍がない状態で生きていくのは難しいでしょうが、戸籍を買うなり、外国へ高飛びするなり方法がないわけではないので」

「深見の家や、勤務先に残った深見の指紋や毛髪と、発見された遺体のものとが合わないんじゃないか?」

 やがて、思考の追いついた透が異を唱えた。しかし、それすらも予期していたかのように冷泉は余裕の態度で応じた。

「そうですね。深見さんが犯人であれば、指紋や毛髪を残すようなことはしていないでしょう。彼のいた東京には住人の痕跡が全くない奇妙な居室と、職員の痕跡が全くない奇妙な職場が残されているはずです。そこで生活していた深見陽介と、首なし死体で発見された深見陽介が別人物であるという証拠は発見されません。ただ、極めて不自然な居室と職場が発見されるだけ。それ以上の証明は不可能でしょうね」

「冷泉くん……秘密を暴いて楽しい……?」

「母さん」瑞樹が窘めるように声を上げる。

冷泉は乱れた髪の隙間から覗く、琴乃の蒼い顔を黙って見つめていた。

「あなたの告発のせいで傷ついた人たちが、これだけ目の前にいるの、わからない?」

 彼女の震える手が指し示す先には、項垂れた龍川と武藤霧子の姿がある。

 それらを背に、涙ながらに声を震わす琴乃の訴えを、冷泉は泰然と受け止めた。

「ええ。非道いことをしていると自覚しています。申し訳ありません。本来ならば、秘密を暴くなんてことはしたくありません。現に、水谷さんの部屋で日誌を見てしまってからも、僕は一切を自分の胸の内に秘めておくつもりで今まで黙っていました。けれども、この三日間だけで五人が殺され、一人が襲われ、一人が行方不明になっています。さらに犯人はまだ捕まっていません。こんな状況で、指をくわえて救助を待っているだけでは、最悪全滅してしまうかもしれません。僕はこれ以上の犠牲を出したくないんです。犯人を暴いて捕まえる。そうすれば、もう殺される恐怖はなくなりますから」

 粛々と告げられるその言葉に、複雑そうな表情を見せた後、琴乃は静かに言った。

「……わかった。貴方が興味本位で村をほじくり返しているようなことを言ってしまってごめんなさい。その仮説とやらを聞かせてちょうだい。あなたの言うように、あの子が犯人なのだったら、あの子の狂気に気づいてあげられなかった私にも責任があるもの」

 そう言って琴乃が寂しそうに首を垂れるのに、透も耐えきれないといった様子で俯いた。傍にいたのに狂気に気が付けなかったというのに当て嵌まるのは何も琴乃だけではない。透もだった。彼も思うところがあったのだろう。

「わかりました。お身内を疑う無礼をご容赦ください」冷泉は深々と頭を下げた。やがて再び現れた彼の顔は、いつもの理性を取り戻していた。「話を戻しますと、何らかの理由で、真実を知ってしまった深見さんは、自身を捨てた朱野源一郎さんとその一族、遺棄に関わった人たちへの復讐を企てたのではないかと考えています。

少し触れましたが、百合子さんや松右衛門氏の死に関しても、この一連の復讐劇の一部なのではないかと考えました。百合子さんが亡くなった件については九年前のことなので、深見さんは当時十四歳。ですから、ひょっとしたら違うかもしれませんが、松右衛門さんに関してはある程度の確信を得ています。

深見さんは勤務先の部活動の副顧問をしていたとのことですが、日曜日と盆、正月は、それもお休みだったそうですね」

 視線を向けられ、透は力なく肯いた。冷泉は続けた。

「松右衛門さんが亡くなったのは日曜日の朝ですから、深見さんが土曜日に東京を経って四神村を目指したのだとしたら、日曜日早朝の犯行は不可能ではありません。これは警察が来た後で深見さんの切符の購入履歴や当時の動線について調べればわかることなので、この辺りで置いておくことにします。

次に、静さん殺害について。この時、深見さんにアリバイがないことは、以前行ったアリバイ検証で明らかになっています。透さん襲撃に関しては、先ほど述べたとおり。糸などを使っての、深見さんの自作自演だったわけですね。この一件は容疑者から外れ、安全圏に滑り込む狙いがあったのではないかと推測します。次に水谷さん殺害ですが、深見さんには十時から十一時まで、一人、白峰家の離れで過ごしていたということでアリバイがありません。この間に深見さんは、水谷さんを殺害し、部屋の内側に両腕を、庭に胴体と頭部を置いてその場から立ち去った」

「ちょっと待って」琴乃が小さく手を挙げた。「あなた、犯人の足跡がなかったから、雨が降り始める十時以前の犯行だと言っていたでしょう? その話はどうなったのかしら」

その質問も、彼の予想の範疇だったのだろう。冷泉は落ち着いた表情で応じた。「それは、先ほど行った『玄武の館』での検証で解決しました。昨朝は十時過ぎから十二時まで雨が降っていました。ついた足跡を箒や、枝葉などで掃いて均しておくだけで、その後降った雨粒がふやかして洗い流してくれます。実際にやってみたところ、二十分そこらで充分に跡形もなく消え去りました」

 怪訝そうに透を見遣る琴乃に、透も間違いないと一つ首肯した。

冷泉はそれらを確認してから、「これで水谷さん殺害の際の深見さんのアリバイはなくなりました」淡々と言い切った。

「ひとついいかな?」今度は透から手が挙がった。「龍川先生の検視だと、死亡推定時刻は十二時頃だと言っていたけれど、冷泉くんの説と矛盾していないかな」

「死亡推定時刻を誤魔化したのですよ」

 その言葉に、龍川医師がぎょっと目を剥いた。

「誤魔化したですと?」

「そう。失礼ですが、龍川先生は何を根拠に、死亡推定時刻を十二時頃だと判断なさったのですか?」

 ここまで来てもなお自らの行った検視結果が蔑ろにされていることに狼狽を隠し切れない龍川医師は、「それは」と前のめりにしろの目立つ口髭を動かした。「血液の凝固具合です。胴体は、深緑色のドラム缶の中にあってかなり蒸されていたため、正確な死亡推定時刻がわからなかったので。部屋に残っていた血液がまだ乾いていなかったため、流れ出してから三十分も経っていないだろうと判断したわけですよ」

 その説明は彼の予想通りだったようで、冷泉は答えを待ち構えていたタイミングで一つ頷いて言った。

「まさしく、そこに犯人の狙いがあったのですね。先生、血液検査などでは、血が固まらないために、試験管の中に何か薬剤が入っていますよね」

 冷泉の言葉を受け、龍川はあっという顔をした。「抗凝固剤か!」

 少年のように膝を打つ老医師に、冷泉は首肯した。

「ええ、仰る通りです。犯人は、部屋に流れ出た血液にそれを混ぜて、死亡推定時刻を誤魔化したのですよ。この村に、精密な検視道具がないことを利用したのですね」

「私は医師とは名ばかりですからなあ」 龍川医師が弱ったように頭を掻いた。そこに嫌味さや卑屈の色はなく、あくまで他意のないもののようだった。

 冷泉は特に慰めるでもなく、部屋全体に視線を戻した。

「以上が、水谷さん殺しにおけるアリバイトリックの全容です。次に源一郎さん殺しと深見さん殺しですが、これはいずれも深夜三時頃のことなので、離れにいた深見さんは抜け出すことが可能です。深見さんがしきりに夜間出歩くことに反対していたのは、このためだったのではないかと推測します」

「確かに深見さんは夜間の移動をひどく危険視しておりましたな……」龍川が無精ひげの伸びた顎を撫でた。早朝から起こされたため、剃るタイミングを逃したのだろう。

「ええ。そして深見さんは廊下の窓を割って侵入。窓枠には泥の痕が残っていましたが、そこから先に足跡はなかったので靴を脱いだのでしょう。靴跡から正体がばれるのを危惧したものと思われます。それから絹代さんに気づかれないように廊下で待機し、源一郎さんがお手洗いに出た瞬間などを狙って襲い、木工室で殺害したのでしょう」

「そういえば」透がぼんやりと言った。「確かに父は、夜間頻尿を患っていて。絹代さんは、いつもは父が夜手洗いにいくたびにベッドの揺れで目を覚ますけれど、今日は気づかずぐっすり眠っていたということを証言していたな」

「それでしたらわたくしも聞いたわ」

 透の証言に、武藤霧子が同調する。普段のどこか余裕のある上品さは失われ、そっけない口調であったが、気にする素振りもなく冷泉は順調だと言わんばかりに小刻みに頭を揺らした。推理の点と点を補完するピースが、こうも都合よく集まるものかとぞくぞくしてしまいそうなペースだろう。

「でしたら、絹代さんに睡眠薬を盛っていた可能性が浮上しますね。より安全に犯行に及ぶことができたことでしょう。ですが、それだといつ一服盛ったのかという謎が出てきますね。これはまたおいおい考えることにしましょう。話を先に進めますが、ここまで何かご質問のある方は?」

 今度は瑞樹が挙手をした。

「虎をバッテンで消して雀マイナス亀と書かれていたあの血文字だけどさ、虎は白虎、亀は玄武、雀は朱雀のことだよね。で、マイナスだと思っていた横棒は父と母を繋ぐ線だった」

「ああ、白虎、すなわち白峰家の縁者だと思われていた深見さんが、実は武藤家、朱野家の血縁者だったことを指しているのだろう」

「うん。でもなんで、わざわざそんなこと……自分の出生を仄めかすことを書いたの?」

「それは、おそらく龍川先生へ恐怖を与えるためじゃないかと思うがな」

「でもさ、それで殺される! って怖くなった先生が全てを話してしまったら、陽介くんは動きづらくなるだけだよね」

 冷泉は確かに、と一度黙り込んだ。

「まあ……見立ての一片だろうから、理屈ではない部分もあるんだと思う」

 瑞樹は腑に落ちない顔で「そんなもんなのかな」と首を傾げた。

「他に質問のある人は?」冷泉はぐるりと見回した。

そして、もう誰も言葉を発するものがいないことを確認すると、次のステップへと足をかけた。

「では進めます。それから、深見さんは身代わりの第三者、もしくはどこかに監禁していた弟さんを殺害し、自身が宿泊している白峰家の離れに首を切って座らせ、血文字を残した。これには、自身を容疑者リストから外し、残りの犯行を行いやすくする目的があったと思います。生存者が減ってくると、当然ながら各人の守りが固くなるうえに、一人一人にかかる嫌疑も深まり、動きづらくなりますからね。また、彼が死んだふりをして行動をしやすくしてきたということは、まだ今後も殺人を続ける意志が彼にあるという証左にもなるかと思います」

 龍川がぶるりと身震いした。

冷泉はそれを横目で見遣ると、構わず続けた。「そして、もし死体が弟さんであった場合には、別の危険が浮上してきますね」

「別の危険?」琴乃が眉を顰めた。

「ええ」冷泉は肯き返した。「警察が到着した後でDNA鑑定をすれば、遺体が弟さんのものであることはわかります。それにも関わらず、入れ替わりのトリックを使ったということはどういうことか。――深見さんは、この場の全員を殺して逃走し、最初からこの村に来ていなかったふうを装うつもりかもしれません」

「な!」

 その場の誰もが息を呑み、言葉を失った。それも無理はないというように冷泉は首を縦に振った。

「村の人間が全滅している。生存者はいない。それだけのことです。深見さんがこの村を訪れたことを知る人間は誰一人として生きていないのですから」

「そんな……乱暴な……」龍川があんぐりと口を開けた。

「乱暴ですね。散々乱暴なことをしてきている犯人です。やりかねませんよ。ですから、僕はそのことを危惧しました。それが、少々強引ですが、僕がここで犯人を探そうと言い出した一番の理由でもあります。早く捕まえなければ、まだ犠牲者が出るのではないか、と不安に駆られたわけですね」

 それまで、耳から入ってくる情報を脳内で処理している最中であるように、ぼんやりと足元見つめていた透が「なるほどね」と視線をあげた。「それはよくわかったけど、死体が弟でなく第三者だった場合、深見はどうやってこの村に第三者を運び入れて、どこに匿っていたんだい?」

「実際に確かめたわけではありませんが、それに関してはそう難しくはないでしょう。敢えて憶測で例を挙げるならば、深夜に車で運び入れて、森の中に匿っていたなどですかね。無論これは一例にすぎません。他にもやりようはあると思いますので」

「後に警察が捜査に入った場合、拉致の痕跡は見つかるだろう。そうなると、この痕跡はなんだという話になるんじゃないかな」

「そうならないために、弟さんを拉致したと考えられます。鑑識に調べられれば、その場に残った糞尿や毛髪などから弟さんとは別の人間が拉致されていたとばれるでしょうから、その前に燃やすなどして人物を特定する材料を隠滅するつもりだったかもしれません。材料さえ隠滅してしまえば、拉致の痕跡自体はあっても不自然ではない。弟さんが居た場所として偽装できますからね」

 納得したという顔にはとても遠かったが、透は唇を引き結んだ。反論が途絶えたところで冷泉は視線を場に返した。

「疑問をぶつけていただくことは大いに歓迎します。反論をぶつければぶつけるほど、それを乗り越えて論はより強固になっていくものですから」と、友への嫌疑を信じたくない透の心境への配慮と、その顔を立てることは忘れない。

 その言葉にも、透が反応を示すことはなかった。

 冷泉は構わず話を進めた。

「では、話を戻しましょう。そうして自らを被害者に見せかけることで、容疑者リストから外れた深見さんでしたが、彼にも予期せぬことが起きていた。そう、絹代さん殺害の時間帯に、偶然ながら残った生存者が一堂に会してしまったわけですね。そのことで、逆に生存者以外に絹代さん殺害の実行犯がいることが証明されてしまったのです。

以上が、深見さんを犯人と仮定した場合の、犯人の動線の全てです。何か異論はありますか?」

 辺りは水を打ったようにしんと静まり返っている。

 それからしばらく、誰も言葉を発する者はいなかった。琴乃などは沈鬱に床を見つめたまま、ぴくりともしない。瑞樹も壁の向こう、どこか遠くを見ているようだった。

やがて、「密室の謎は解けたの?」ここでの沈黙を切り裂いたのも、ようやく言葉を取り戻したらしい透だった。

「半々ですね。水谷さん殺害時の、武藤邸で使われたトリックについては答えが出ています。あと考えるべきは、静さん殺害の納屋と、“深見さん”殺害が行われた白峰邸の離れ、それから源一郎さん殺害の木工室のトリックですね」冷泉は視線を透から外し、ぐるりと全体を一望した。「僕がこうして話したのは、探偵のようにトリックを見抜いて事件の全容を暴くためでなく、犯人を絞ってこれ以上の犠牲者を出さないためです。ですから、ここで大事なのはフーダニットであって、ハウダニットではないのですよ。よって、方法の究明はひとまず置いておいて、深見陽介さんが唯一全ての事件において犯行現場にいることができた人物であるということがわかれば、それでよかった。深見さんが犯人であるならば、外部にさえ注意を向けていれば助かりますから」

「といっても」龍川がため息まじりに言った。「深見くんが犯人か否かに限らず、相手はトンネルを崩落させうるだけの爆発物をもっていますからな。固まっていたら安全だとも言い難いところです」

「龍川先生が仰る通りですね。犯人を特定して縛り上げでもしないことには、真の安全は訪れません」

 誰も異を唱える者はいなかった。やがて沈黙を切り裂くように、透が細長く息を吐いた。

「わかったよ。他の人達を犯人だと仮定すると何かしらに無理が生じ、深見を犯人だと仮定すると筋が通る。よって消去法から深見が犯人である……と冷泉くんが考えていることはよくわかった」透は顔を上げた。

冷泉は正面から対峙する。

「それでも、深見が犯人だというのは、僕は……まだ、呑み込めそうもないや」と、泣き笑いのように表情を崩して再び俯いた透を、琴乃が涙を流しながら見つめていた。

 部屋に立ち込めていた驚愕と冷泉への不満が、いつのまにか微かな安心へと変わっていた。

 依然として犯人の行方と、密室の謎は不明なままだったが、五里霧中の状態から脱却し、一筋の光が見えたというだけで、一同の不安は幾分か薄まったようだった。

 しかし、そんな一同のささやかな安寧を嘲笑うかのように、事態は急転した。



 十二



 朱野穢が変わり果てた姿で見つかったのは、その日の夕方のことだった。

 木工室のトリックについて、何か手掛かりはないかと、冷泉、透、瑞樹の三人が屋敷の裏手を捜索していたところで透が異臭に気づいた。それから、注意深く周囲を探ってみたところ奥の洞穴に横たわる朱野穢の足が見えたのだった。

 朱野穢は両手足を手錠で拘束されたまま、よく研いだブナの太枝で喉を一突きに貫かれたとみえて、辺りは夥しい量の鮮血と噎せ返るような匂いで溢れていた。

洞穴の入口は裏山の斜面の途中にあり、傍には藁や枝葉がこんもりと盛られていた。どうやら、これで入口に蓋をして洞穴の存在を隠していたようである。そのため、先日裏山を捜索した際には、見過ごしてしまったらしかった。

また、洞穴の奥行きは案外深く、中頃には封がされたままの流動食と飲料水の瓶が幾つか転がっていた。そしてその奥からは血まみれの凶器と深見陽介の首が見つかった。……

朱野穢の遺体は死後六~八時間経過しているとみられた。また、手錠が嵌められた両の手首足首からは、手錠を外そうと抵抗したような傷痕は見つからなかった。つまるところ彼が絹代殺害の犯人であるならば、絹代を殺害してそのまま山へ入り、自ら両手両足に手錠をかけて、ブナの枝で喉を貫いて死亡したということになる。実におかしな話だった。

 それが、裏山の三合目のことである。更に裏山を見晴らし丘に向かって昇って行ったところ、ちょうど五合目あたりの細道に、鼈甲の簪が落ちていた。これに関しては、藤川絹代の持ち物だと、のちに透と小夜が証言している。

 この簪はいつ落ちたのか。考えられるのは三通りだった。一つ目は、透を襲撃した犯人が藤川絹代であり、深見の追跡から逃れる際に落ちたものだという説である。二つ目は、翌日源一郎と絹代がトンネルを見に行った際に、『玄武の館』の裏手の緩やかなルートでなく、こちらの険しいルートを通ったという説である。そして三つ目は、犯人が攪乱のために絹代の簪を盗み出し、ここに落としたという説だった。

 このうち二つ目の説は、源一郎と絹代の証言との不一致から否定することができる。よって、真相は一か三に絞られた。





「申し訳ありませんでした」

 冷泉の謝罪する声が居間に響く。座礁した探偵を責め立てる者は誰一人いなかった。

「僕たちも、結局論理的に疑惑を覆すことはできなかったわけだし」

 透の慰めの言葉に、冷泉は頭を上げた。その目に諦めの色は微塵もなかった。

「深見陽介犯人説をリセットして、一から練り直してみましょう」

「その……弟が、犯行に絡んでいたのかな」透が視線を落とす。

「状況的にはそうなります。が、真犯人の手により罪をなすりつけられた可能性もあります」

「僕もそう思う。第一、仮に弟が犯行に関わっていたとしても、一人で全てを完遂できるはずがないんだ。弟は地下牢の外を知らない。だから共犯者がいて、弟を唆して全ての罪を着せたとしか思えない」

「村の地理や各人の習慣について、弟さんに情報を伝えた人間がいるというのですよね」

 冷泉の言葉に、透は黙したまま肯いた。

「けれど、冷泉」白峰瑞樹が真剣なまなざしを向けた。「共犯者は殺人教唆を行っただけで、実行犯は全て弟さんだったとしたら、共犯者が誰なのかを絞ったり、証明をしたりするのは難しくないかな」

「そうなんだよな」冷泉は顎に長い指をあてた。「静さんが殺害される以前に全てを弟さんに入れ知恵していたとしたら、この三日間のアリバイ検証なんて関係なくなりますからね」言いながら冷泉は身体を反転させた。深見の遺した手帳を捲る。左手に見えるソファには草臥れた面々が身体を沈めていた。

「おそらく穢くんに犯行は無理ですよ」

 そこまでじっと黙って議論を見守っていた龍川がソファから背を浮かせた。

「無理とは」

「検視をするときに、彼の手足の筋肉も確かめたのですよ。あの筋量ではせいぜい狭い部屋の中を移動するくらいが関の山でしょうな。重いものを持ち上げたり、ましてや山道を走って成人男性を振り切ったりすることなんか、とても」龍川はゆるゆると首を左右に振って視線を落とした。

「穢さん実行犯説もこれで消えたのか」冷泉が天井を仰ぐ。

「犯人が何人いるかもわからないし」瑞樹がぽつりと落とした。

つられて透が自棄っぽい笑いを零す。「本当だね。それこそ自分以外が全員グルだったりしたら勝てっこないよ」

「まあ、そのとおりですね。極端な話、三人、四人での共犯だったりすれば、アリバイはいくらでも誤魔化せますからね。例えば、僕や瑞樹など顕著でしょう。僕らは多くのケースで一緒にいたためにアリバイが証明されていますから。僕らが共犯だった場合に、アリバイは崩れ去ります」

「白紙に戻ってしまったな」透が窓の外へと視線を投げた。太陽が西の空に傾いている。また長い夜が訪れようとしていた。

「また誰かが死ぬのかな」小夜がぽつりと零した。蝉の大合唱の隙間から、山鳩の声が部屋に染み入ってきた。

透が場をとりなすように明るい声をあげた。「ひとまず、犯人の特定が煮詰まったのだとしたら、明るいうちに密室の謎だけでも解いてみないか?」

 その言葉を皮切りに、若い男衆三人は再び夕暮れが迫る夏空の下へ出て行った。



 十三



 木工室の天井で扇風機がちょうど百回目の旋回を終えた頃、閂の横木に針金を括りつけたまま、冷泉はしばらく固まっていた。だいぶん日が傾き、室内では電気をつけなければかなり薄暗い。気温もだいぶ下がって少々肌寒く感じられるほどであったが、いかんせん室内に籠った血の匂いに対抗するためには扇風機による空気の攪拌が必要不可欠だった。

「やっぱり閂を扉の外側から閉めるのは無理だな」床に落ちたニッパーと針金の束を乱暴に拾い上げて、冷泉は乾いた首筋を掻いた。「となると、やっぱりあの通気口か」

 見上げた先には、先刻外側から確認した鉄格子がある。

「あの格子は取れるんでしょ?」同じく隣で目玉を上げた瑞樹が指さした。「中の犯人の腰に縄を括りつけて、外から共犯者が引き上げるってのはどう?」

「さすがに人一人を持ち上げるのは無理じゃないか?」

「無理か……上まで引き上げて、窓から犯人が出る。そして脚立を使って降りたら脱出ができると思ったんだけどな。……冷泉?」瑞樹は、ある一点を見つめて固まった冷泉の顔を覗き込んだ。

その声にはたと眼球の動きを取り戻した冷泉は、瑞樹の顔を見遣ると口の端を持ち上げて笑った。

「でかしたぞ、瑞樹。そういう使い方をすればもう一つの謎が解ける」





 木工室を出てしばらく、屋敷の東側の側面には古い焼却炉がある。静の殺害現場となった納屋から始まり、屋敷の周りをぐるりと調べていた冷泉が最後に行き着いたのがそこだった。

「透さん、この焼却炉は今でも?」

「ああ。可燃ごみは全部ここで処理しているよ。トンネルが細すぎてゴミ収集車も通れないんだ。不燃ごみや資源ごみは、村全体で集めて月に一度、車で隣の五藤村まで捨てに行っているよ」

灰掻き棒で探ってみると、中は妙にこざっぱりしていた。備え付けの不燃ごみ入れには、煤けた釘が何十とある。

「透さん、最後に五藤村までごみを持って行ったのはいつです?」

「毎月第二日曜日だから……一週間近く前かな」

「一週間か。その間に何か家の大きな改修や、大掃除をしましたか?」

「祖父の遺品整理を少ししたくらいかな」

「その割に、粗大ごみや資源ごみは出なかったみたいですね」

 辺りに釘くらいしかないのを見て、冷泉は不思議がった。

「そうだね、少し手をつけた程度だったからね。あまり捨てるものも出なかったな」

 冷泉は顎に指を置き、少し考え込んだ。

「透さん、カメラを貸していただけませんか?」

「いいけど、現場を記録するの?」

「ええ」

「わかった、ちょっと待っていて」透は快諾すると、屋敷へと駆け出した。

 その背中を目で追った後、冷泉はゆるりと焼却炉に向き直った。

「釘ね……」と、その場にしゃがみ込み、その焦げてでこぼこした表面を指で撫でながら考え込む。

 そうして何本目かの黒い鉄くずを摘まんだところで、その身体が電流でも流れたように小さく跳ねた。その様子に遠くを眺めていた瑞樹も目を丸くして振り返り、恐る恐る顔を覗き込んだ。

「……冷泉?」

「……こっちだったのか。これは収穫だぞ」

「その釘が?」瑞樹は膝に手をつき、冷泉の指先をじっと覗き込んだ。

 その視線にも反応を示すことなく、冷泉は黒焦げた釘のざらざらした表面を指で撫で続ける。このとき冷泉の頭の中には、ある二つの会話が去来していた。

「静さんのケースと同じだったんだ。犯人の思考の傾向が見えてきたぞ」瑞樹が困った顔で首を傾げるのにも構わず、冷泉ははたと目を見張り、立ち上がる。「なるほど。それだったら、電話機爆破にも、深見さん殺害の密室にも説明がつく。あとは」

 待ちきれないとばかりに屋敷を仰ぎ見たところ、ちょうど透が玄関から出てくるのが視界に入った。透が到着するのを待って冷泉は切り出す。

「透さん、龍川先生の家に行ってみたいのですが」



 十四



 日が落ちた東北の山村は、夏でも肌寒さを感じるものである。

 昏い。ただそれだけで、人は本能的な恐怖を煽られ、膨らんだ鬼胎は産毛を逆なでる。

『青龍の館』から人の気配が去ってまだ半日足らずだというのに、その館は長年の孤独を彷彿とさせる静けさに満ちていた。

 立ち合いには、龍川小夜がきていた。

 老父から借りてきた玄関の鍵を使い、小夜自ら封を切る。暗闇の中、居間の時計の針の音だけが、しとしとと足元に絡みつくように耳朶を擽った。

 冷泉は居間に足を踏み入れる。他人の家特有の、生暖かい匂いが鼻腔をかすめる。何度か嗅いだはずなのに、まるで異世界にでも迷い込んだような未視感を覚えた。冷泉は、自らの腕時計を何度か見遣り、それから居間を、診療室を、それから各部屋を隈なく一周した。

 やがて、小夜の部屋の前で足を止めると、一歩後ろの小夜に、扉を開けたままにして、あるものを取ってくるように促す。小夜は小さく頷き室内へ入り、程なくして言われたものを抱えて戻って来た。

 手渡されたそれを確認して、冷泉は力なく目を閉じ天を仰いた。

 遠くで風の音がする。風に吹かれて葉が揺れ、束になってざわめきに変わる。いつしか、蝉しぐれは止んでいた。

 居間に戻ると、ソファに腰かけて待っていた瑞樹と透が無言のまま立ち上がった。

「もう結構です」

 そう言って冷泉が外履きのつま先を鳴らすまで、そう時間は掛からなかった。





 朱野邸に戻った冷泉は、透に断りを入れて源一郎と絹代の寝室へと足を踏み入れた。

「源一郎さんの私物は少ないようですね」

「衣類以外の、例えば書籍や趣味のものなんかは全てコレクションルームに置いているからね」

 ベッドサイドには古めかしいサーベルが転がっていた。藤川絹代が握っていたものだった。

「応戦する暇もなかったのでしょうね」呟いた冷泉を一瞥もすることもなく透は背を向けた。冷泉も気にすることなく室内をひっくり返す。「絹代さんはどのあたりに私物をおいていたのでしょうね」

「さあ……どうだろうな」

 アンティークの茶箪笥の引き出しひとつひとつに手を掛けていったところ、最下段の深い引き出しが二重底になっているのに気付いた。板を持ち上げる。中からは三冊の書籍と中身の入った黒色の小瓶が出てきた。書籍には上から生前贈与、遺言、相続との文字がある。冷泉の肩越しに視線を落とした透は、それらを汚いものを見るような目で瞥見してからふっと鼻で嗤った。

 その時の透の目は、闇夜よりも昏く、井戸の底よりも深く冷たいものだった。





 屋敷に残った七人全員で食事を済ませ、交代で風呂を借りた。風呂は屋敷の東側の端に位置していた。居間からは遠く、見通すことはできない。そのため、一同は一度風呂の前の廊下へと移動することとなった。そこでひとところに集まり、風呂を使う人間だけが脱衣所の中に入る。順番も全てあみだくじで決めて抜かりはなかった。

 そして最後の透が出てきたところで、連れたって居間に戻る。

 昼間、深見陽介の出自が明らかになってからこちら、龍川と琴乃と武藤霧子の間にはどこかぎくしゃくした空気があったが、原因は主に龍川医師によるものだろう。老医師は他の二人に顔向けがならないのか、骨ばった背を丸めて俯いてばかりいた。一方、白峰琴乃は龍川医師云々というよりは深見陽介の死そのものからくる悲しみに打ちのめされているようである。逆に武藤霧子は、若い男衆三人が現場検証から戻る頃には、すっかり平常時の様子を取り戻しているように見えた。

「また今宵も犯人はやってくるのかしら」白峰琴乃が、足元を見つめながらぽつりと零した。その目にみるみる雫が膨らんでくる。

そのまま丸まってしまいそうな背に、瑞樹は細身の手を伸ばして優しく撫でた。「そうならないように、みんなでまとまっているんだからさ」

「どうして昨日からそうできなかったのかしら……」

過ぎたことは仕方ないよ、だなんて、とても言えたものではなかった。何より瑞樹自身が、その後悔に苛まれているのだ。

「陽介……」

 幾度となく足が止まりかける琴乃を、龍川と小夜、それから透が心配そうに振り返る。

「明日になれば父さんが帰ってきて警察を呼んでくれるから。もう一晩の我慢だよ」

 瑞樹が言葉は琴乃に向けながらも、視線で窺いを立ててくる中、冷泉はじっと俯いて口を噤んでいた。

 居間のソファに琴乃を座らせたところで、透が盆を手に寄って来た。「これ、ラベンダーティーなんだけど」瑞樹を前に小声で囁いて、テーブルの上に盆ごと載せる。丸い硝子製のティーポットと、空のカップが三つのっていた。

「ありがとうございます。その……透さんも落ち込んでいらっしゃるときに、いろいろと気を遣わせてしまってすみません」

瑞樹がしゅんとすると、透は構わないよ、というように右手を顔の前で振った。

「うちの食器を使うのは怖いかもしれないけれど、一応使う前に洗剤で流してきたから、よかったら。なんなら、使う前にもう一度洗い流してくれてもいいし、洗剤への毒を疑うなら、予備の新しいものを開けてくれても構わないし」

自嘲気味に肩を竦めて、透は再び台所へと戻っていった。犠牲者のたくさん出た家の食器だから、毒でも塗られているかもしれないと、彼はそう言いたいのだろう。現に夕食の準備の際にも、客も主人も年齢も性別も立場も関係なく、相互監視のもと厳重に注意を払うよう、誰よりも率先して促していたのは透だった。

 武藤霧子が、カップを三つとも表に返して黄金色の液体を均等に注ぎ分けた。うち一つに口をつけて口元を緩めた。深見陽介の出自が明らかになって以来、白峰琴乃と武藤霧子が初めて目を合わせた瞬間だったかもしれない。

「琴乃さん、温まるわよ。小夜ちゃんもどうかしら?」

「ありがとう。でも……」小夜は消え入りそうな声で呟き俯いた。

 隣に座る龍川医師が、眉を八の字にして頭を下げ、「霧子さん申し訳ありませんな。小夜、飲まないのなら、私がもらうよ」と、娘の顔を覗き込んだ。

小夜は幼子のように父親の腕にしがみ付いたまま小さく首を振って額をつけた。肩の上で切りそろえたおかっぱがふるふる揺れる。元々年齢よりも幼く見えるきらいがあったが、誰かの陰でじっと俯くことの多くなった今では、まるで人見知りの小学生のようだった。

 琴乃もカップに手をつける気配がないのに、瑞樹は眉を顰めて低く言った。

「僕たちがこの部屋で一晩を過ごすことは、朝の時点で決まっていたようなものですよね。犯人がそのことを知っているならば、この部屋に何か仕掛けられていたりしないでしょうか」

 その言葉に、各々が目をはっと見開いた。そこにちょうど透が戻って来る。彼はソファと食卓テーブルを見比べ、一人食卓に陣取る冷泉の前の椅子を静かに引いて腰を下ろした。

「何かって」カップを片手に、武藤霧子が小首を傾げた。

「爆弾とか、かね?」

龍川の言葉に、一同ゾッと身を竦める。

透が視線を揺らして動揺を示した。「けれど、朝からずっとこの部屋には誰かしらがいたわけでしょう? 犯人が爆弾を仕掛ける時間なんてなかったんじゃないですか」

「あらかじめ仕掛けていた可能性はあるかもしれないですぞ。現に、電話機はおそらく遠隔で一気に爆破されました」

「確かにおっしゃるとおりですが……ええっと、外部犯ならそれもありえるのかな」徐々に場の空気に感化されたのか、透が不安げに冷泉を窺う。

冷泉は議論に加わる様子もなく、視線をこの場に預けたまま、何やら別のことに思考を飛ばしているようだった。

そんな冷泉の様子に、返答を諦めた透が自答する。「内部犯なら、犯人も死んでしまうかもしれないですし。それに爆弾を気にし始めたら、どの屋敷にだって安全な場所はなくなってしまいませんか? 気にしてもどうすることもできないというか」自らもどうにか安心したいのだろう。どこか引き攣った表情で、懸命に明るい表情を作ろうとしているようだった。

「そうね。この村全体が、今では獲物を捕らえる罠みたいなものだものね」透の気遣いをぶち壊すかのように、武藤霧子が朗々と答えた。

「いやだ、死にたくないよ」小夜がおかっぱを揺らして、父の腕にしがみ付いた。

 水に落とした墨汁がもやもやと広がるがごとく、その場を恐怖が浸食する様を見渡して、冷泉は何かを決心したように視線を上げた。

「すべてを終わらせましょう」

 その一言に、部屋中水を打ったように静まり返る。

「もう恐怖の夜はおしまいです」





「犯人がわかったの?」

 声を震わせる瑞樹に、冷泉は特に当否を示すことなくただ温度のない視線を向けた。

「僕の考えが合っていれば、明日になればおそらく警察がやってきます。そうすれば、最先端の捜査技術を以て犯人はおのずと絞られるでしょう。それを待つのも一つの手かとも考えていました。一度失態を演じた身ですからね。餅は餅屋。やはり素人は出過ぎず、専門家に託すべきかと」昼間の深見陽介犯人説での失敗が響いているのか、冷泉は一転して弱気さをちらつかせた。「けれど、終わる保証はないですからね」

 ナイフのような鋭さを孕んだ視線に横薙ぎに払われて、一同は一回り以上萎縮した。

「陽介を殺した犯人が憎い。本当は八つ裂きにしたい」琴乃が喉から血を絞り出すように訴えた。

それを横目で捉えた透が、一度ゆっくり瞬いた。再び現れた目には、黒い炎が宿って見えた。透は、激情を何かねっとりした膜で覆い隠すように、ごく穏やかな笑みを浮かべて、「聞かせてくれないか?」よく通る声でそう言った。

 みな気持ちは同じようだった。

 冷泉は目を閉じ、何かを腹の底へ落とすように小さく息をついて、瞼を持ち上げた。

「その前に一つお願いが。犯人逆上からの被害を防ぐために、周囲には細心の注意を払っていただくようお願いします」

 一同は、ゾッと背筋を正した後、そわそわと互いを牽制するよう視線を揺らした。視線の波が落ち着くのをじっくりと待った後、冷泉は唄い始めにブレスを入れる歌い手のように短く息を吸った。

「推理ものの創作ではしばしば、名探偵が大衆を前にして事件の真相を明らかにしますね。ですが、先ほどの一件でも僕は身をもって痛感しました。本来、大々的に犯人を追い詰めるものでもないのかもしれない、と。けれど、この事件の真相は、この村の人には知っていてほしいと僕は考えます。その上で、各人がなにを思い、どうするのか」

 冷泉は、そこまで語って一度部屋を見回した。しかし、誰も言葉を発する者はいなかった。ただ、各々がその言葉の持つ重さを、本能的に味わっているようだった。

「前置きはそこまでにして、本題へと移りましょう。時系列になぞるならば、まずは殺人事件の前に起きた、深見さんへの手紙と、電話機爆破についてですね。これを便宜上零番目の事件としましょうか。まず犯人は朱野透さんの名を使って、標的の一人である深見さんに手紙を送って彼をおびき出しました」

「差出人のわからない手紙が届いた時点で怪しんで、深見が来るのを止めるべきだったんだ……」

 透の顔に暗い影が落ちる。その前頭部の滑らかな曲線に、しばらく慮るような視線を加えたのち、冷泉は再び口を開いた。

「まあ、そうして深見さんが巧みな犯人の招集に応じたことにより、演者は揃いました。それから、電話機が爆破されましたね。この村には施錠の習慣がなかったようなので、誰にでも侵入して爆弾を仕掛けることができたと考えられます。こうして犯人は通信手段、すなわち村人が外部へ助けを求めるすべを奪ったわけです。

次にその夜起きた、一番目の静さん殺害と、二番目の透さん襲撃についてですが、これは後程説明します。翌昼に起きた三番目の水谷さん殺害における密室トリックに話を移しましょう。

早速ですが、水谷さんの死体発見現場の様子について龍川先生、説明していただけますか?」

 突然水を向けられ、龍川がたじろいだ。

「え、えっと、そうですな。まず壁に沿うようにして裏庭に胴体が置かれ、その上に緑色のドラム缶、さらにその上に首がのっておりました。そこから壁一枚を挟んだ一階の部屋には切断された腕が無造作に転がっていて、扉の鍵は閉まっておりました。……こんなところでしょうかね」

 緊張した面持ちの龍川に、冷泉は表情を動かすことなく小さく頷いた。

「ありがとうございます。ちなみに透さん、殺害現場はどこだと考えられますか?」

 二人目とあって、ある程度の心構えができていたのか、透はさして驚いた様子もなく応じた。

「腕が見つかった部屋じゃないのかい?」

「なぜそう考えましたか?」

「なぜって……部屋の中が血だらけだったからかな。そこで殺されて、その、遺体をバラバラにされたのかなって」

 基本的にはっきりとした物言いは普段と変わらないが、惨い部分になると小声になるのが、いかにも透らしかった。きっと彼は、学生時代に授業で指名されたときなども、自信の程に関わらず滞りなく自らの考えを述べることのできる生徒だったのだろう。そんな、場にそぐわない思いつきをしたところで、冷泉は小さく咳払いを挟んだ。

「ありがとうございます。仰る通りですね。そのため、僕らはあの部屋を殺害現場だと思い込んでいました」

「え、違うのかい?」

 瞠目する透に、力強く肯くと冷泉は殊更強調するように一音一音を粒立てて言い切った。

「ええ、そう。違ったんです。水谷さんが殺されたのは、室内ではなく裏庭だったんですよ」

 室内の空気が粟立った。龍川は眉間に皺をよせて、眼鏡の蔓に手をかける。場が落ち着くのをじっくり待ってから、冷泉は言葉を続けた。

「犯人はどのようにして頭と胴体を室外へと運び出したのだろうか。そう考えると、この問題はとても難解なものに感じられます。ですが、発想の逆転だったのですね。あらかじめ遺体は裏庭にあって、両腕だけが室内へ投げ込まれた。十五センチしか開かないように設計されている窓からでも、両腕だけならば通ります」

「待ってくれ、じゃああの大量の血痕は?」

 普段穏やかな透が余裕を失う様は珍しい。愕然と目を瞠る透を前に、冷泉は余裕のある表情で朗々と返した。

「あれはおそらく動物の血ですよ」

「動物?」

「野生の烏か猫か、あるいは鶏小屋の鶏かといったところだと思います。透さんも以前、朱野邸に住み着いている猫がいるという話をしてくれましたよね」

透は愕然とした。具体例を聞いたことで想像してしまったらしく、そのまま徐々に視線を下げて顔を蒼くした。

「あらかじめ用意しておいた動物の血液に、以前深見陽介さん犯人説でも話したように、抗凝固剤を混ぜて犯行時刻を誤魔化したわけです。といっても、これは警察が来て本格的に調べられたらすぐにわかることでしょうから、その場の一時しのぎにしかなりませんけれどね。なので、犯行時刻を誤魔化したことにおける犯人の目的は、警察の目を逃れることにではなく、あくまで我々の視線をずらすこと。計画を完遂するまで、犯人像を絞らせないことにあったと考えられます。

逆に、密室を講じた目的に関しては、それ自体で特定の誰かの疑いが晴れるような効果はありません。逆に、唯一鍵を持つ武藤さんに疑いがかかるということもありませんでしたね。彼女にはアリバイがあるわけですから。よって、単なる自己顕示欲からくるものでしょう。

ここまでで何かありますか?」

「割れた植木鉢についてはどういった仕組みですかな?」

 龍川医師がずり落ちた眼鏡を持ち上げて尋ねた。

それへは、「それは後程お話しします」と、簡潔に返し、冷泉はもう一度部屋全体に視線を撒いて頷いた。「では、次にいきましょう。四番目の源一郎さんの事件については、まさに知恵の輪でした。瑞樹、木工室の通気口を見て、何と言ったか覚えているか?」

 指名を受けた瑞樹がきょとんと首を揺らす。「俺が何て言ったか?」

「そう」

「脱出トリックの話?」

「ああ」

「えっと」と瑞樹は唇を舐めた。「まず通気口の柵を外す。中の犯人の腰に縄を括りつけて、外から共犯者が引き上げる。通気口から犯人が出て、柵を元に戻す。それから脚立を使って降りて脱出する、だっけ」

「ありがとう」

 何に対する礼なのか、瑞樹はよくわかっていないような表情のまま頷いた。

「その話を聞いた際、まず僕は人力で人間一人を持ち上げることは不可能だと思って、彼の説を否定したんですね。ですが、すぐさま農具倉庫に手巻きウインチがあったことを思い出しました。あれは災害時の救助などにも使えるもので、本体に貼ってあったラベルシールには最大能力0.5トンとありました。よってウインチを使えば、百キロ未満の人間を持ち上げることなど造作もないことでしょう」

 目の前で自らのアイデアが磨かれていく様を、目を輝かせて眺める瑞樹を前に、冷泉は一つ唇を結んで彼の目を見た。

「ですが、この発想が役に立ったのは源一郎さん殺しではありません」

「えっ」

 急な車線変更に、一同目が丸くなる。

「解けなかった静さん殺害の方法が、この発想により解決したのです」

予期せぬ話のつながりに、冷泉を見つめる六対の目が、同時にぱっと揺れた。

「そういうわけで、源一郎さん殺害については一旦置いておいて、先に静さん殺害についてここで話しましょう。静さんの遺体の状況については、龍川先生、覚えていらっしゃいますか?」

「ああ」二度目の今度は彼の心の準備も整っていたようで、老医師は落ち着いた様子で顎を引いた。「納屋で梁から胴体を吊り下げられて絶命しておりましたな。死因は切断されたことによるショックと失血によるもの。首は足元に転がっていて、殺害される前に喉を潰されていました。出入口の鍵は閉まっていて、出入口のちょうど真反対の壁に小さな通気口が一つあるだけでしたな」

「ありがとうございます。先生がおっしゃる通り、納屋は密室を模したものでした。ですが、これこそ手巻きウインチを使えば説明が可能だったのですね。まず、犯人は助けを求めることができないように静さんの喉を潰し、手足を縛り、胴体をぐるぐる巻きにして納屋の梁から吊るしました」

 瑞樹が透の顔を心配そうに仰ぎ見た。透はその視線に気づくことなく、厳しい表情で机の上に組んだ自らの手を見つめていた。

そんなことはよそに、冷泉の声は容赦なく続く。「それから首に鋭利なワイヤーか、あるいは糸鋸の刃のようなものを巻き、その両端を通気口から長く伸ばして出しておきました。その後、水谷さんと透さんが鍵を閉めに来ますが、当然外から見ただけでは中の異変には気づかない。犯人は彼らが納屋の中までは確認しない習慣を知っていたのでしょう。それから犯人はみんなが寝静まった夜中に戻ってきて、通気口から出していたワイヤーを手巻きウインチに巻き付け、力いっぱいハンドルを回した」

 その瞬間、透は目を閉じて顔を背け、小夜はいやいやと耳を塞いだ。

「0.5トンの力があれば、人間の首をねじ切ることも可能でしょう。こうして、静さんの首は落ち、中では夥しい量の血しぶきがあがりましたが、犯人は一切の返り血を浴びることなく犯行を済ませることができたというわけです」

「じゃあ、このとき使われたワイヤーがまだ手巻きウインチに残っていれば」

 瑞樹が普段にない固い表情で言うのに、冷泉は一つ淡々と肯き返した。

「ああ、処分されている可能性の方が大きいかもしれないが、もしも残っていれば巻き取ったワイヤーにこびりついた分の血液反応が出るだろうな」

「雨の中での作業だったのなら、犯人はずいぶん濡れたことでしょうね」

 今度は武藤霧子が普段通りの、心の奥底の見えない穏やかな口調で問うた。

「犯人はおそらくシャワーキャップか水泳キャップのようなものを被って対策をしたのではないかと思います。濡れた服は着替えれば済むけれど髪は急には乾かないのでですね」

 冷泉の淀みない返答に、武藤霧子は目顔で理解を示して唇を微笑の形に戻した。

そのまま冷泉は室内へと視線を横滑りさせる。白峰母子と龍川医師が視界に入った。呆然とした表情を面に貼り付けて固まっている。その隣に、耳の横に両手を当ててべそをかいた小夜と、背を丸めて俯いた透が続いた。

 それらの光景を胸の奥に落とし込むように一度ゆっくりと瞬きを落とし、冷泉は静かに息を吸った。

「そうして全てを済ませた後、犯人は何気ない顔をして布団にもぐり込み、電話機の爆発が騒ぎを起こすのを待った。以上が、朱野静さん殺害の全容です」

 空気が粘性をもった何か――水飴やコールタールにでも変わってしまったかのような息苦しさに、室内は重く静まり返る。誰も言葉を発する者はいなかった。やがて、一つの衣擦れが静寂を破る。

「じゃあ、納屋の鍵を閉めたときに僕が中を確認していたら、静は死なずに済んだんだね」それまで頭を抱えていた透が、顔を上げて泣き笑いのように声を震わせた。

「そういうことになります」冷泉はあくまで事務的に答える。

柱時計が無機質に、新しい一日の訪れを告げた。

「さて、源一郎さんの事件に話を戻します。木工室の密室も、当初僕はこの手巻きウインチを使ったものだと考えていました。窓枠に縄の擦れた跡はありませんでしたが、これは傷がつかないようにコーティングされた紐を使えば対処可能なのではないか、と思ったのです。しかし、焼却炉を調べたところで考えが変わりました。こちらをご覧ください」と、冷泉はポケットから、透明なビニール袋に入った黒い鉄くずを取り出した。「これは朱野家に隣接する焼却炉の傍の、不燃ごみの箱に入っていた釘の燃え残りです」

「ああ、あのとき拾った」

 瑞樹が目を丸くするのに、冷泉は一つ肯き返して視線を横にずらした。

「そう。透さん、最後にごみを集めたのは六日前だと仰っていましたね」

「ああ、間違いないよ」先刻の衝撃から抜け出せていない様子の透が、芯のない掠れた声で肯いた。

「つまりこの釘の燃え残りは、それ以降に出たものです。そして透さんに尋ねたところ、釘の燃え残りが出るようなものを燃やした事実はなさそうでした」

 冷泉の視線に、透は無言のまま肯き返した。

やまびこのように冷泉も一つ顎を引く。「この釘の出どころがよくわからない以上、事件で発生したものの可能性が高い。釘と木工室、そう考えた時に、僕はある一つのことに思い至りました。踏み台が通気口から通らないのならばバラバラにすればいいのだと」

「え、バラしたの?」

 目を丸くした瑞樹に、冷泉は首肯した。

「通気口の大きさは縦四十センチ、横七十センチです。犯人はそれを通り抜ける大きさの木箱を六つ七つ作り、中心を紐で数珠つなぎにして踏み台にしたのです」そう言って、冷泉は足元の紙袋から木箱に模した、数珠繋ぎのティッシュケースの空箱を取り出して見せた。「実際は足場を作るために上段にいくに従って小さくしたり、崩れないように紐や磁石、ゴムバンドなどは使ったでしょうけどね。犯人はこれを踏み越えて通気口から脱出し、脚立へと飛び移った。そして、外から木箱を手繰り寄せて外へ出し、格子を嵌めなおして自らも脚立を降りた。――そうですよね、朱野透さん」

 その瞬間、一同の視線が朱野透へと注がれた。

 視線の先の朱野透は、まるで彼の周りだけ空間が切り取られているかのごとく静に包まれていた。