第二章 八月十九日



 一



 気がつくと寝入っていたようだ。

 考え事と夢との境目もわからないまま、気づけば朝の九時を過ぎていた。カーテンの隙間から差し込む日差しに擽られて、深見は目を覚ました。目の周りはじんわり重いのに、頭の芯は驚くほどぎんぎんに冴えわたっている。

 深見はベッドの上で自身の掌をぼんやりと眺めた。昨日起きたことがダイジェスト映像のように頭の中で浮かんでは消えていった。

 半袖のTシャツから覗いた二の腕には、山で枝葉にひっかけた小さな傷が幾つかあって、あの凄惨な事件が、長旅の疲れが見せた悪夢などではないことを如実に物語っていた。

 深見は離れで身づくろいを済ませ、母屋の居間に顔を出す。

 台所に変わらぬ琴乃の背中を見つけて、ようやくほっと息をついた。

「あら、陽介おはよう。昨日は疲れただろうから、もう少しゆっくり寝ていてもよかったのに」

「おはよ。四時間も寝れば及第点だよ。それに、みんな起きているのに、自分だけ寝てもいられないし」

 深見は食卓の椅子につき、姉の出してくれた麦茶を一気に飲み干した。その瞬間、草臥れた身体に生の実感が戻ってくる。

姉の言う通り、実に様々なことがあった一日だった。

 四神村に生まれて初めて踏み入れ、夕食会に招かれ、電話機が爆発し、挙句の果てには殺人に襲撃に失踪ときたものだ。それらが全て昨日一日に起きたというのだから、嘘のような話である。

「四時間睡眠で及第点だなんて、学校の先生って激務なのね。そのうち身体を壊すんじゃないか心配だわ。はい、朝ご飯」

「いただきます。あれ、龍川先生たちは?」

「もう帰ったわよ」

 湯気を立てた白米を受け取り、ありがたく手を合わせる。炊き立てのご飯は、すきっ腹にひどくしみた。

 琴乃の話によると、どうやら龍川医師は、朝から武藤婦人の診察があるらしかった。

 こんな事件の最中でも、長年続いているその習慣だけは変わらないらしい。

そういえば、と深見は昨晩のことを思い起こす。今日会う約束を取り付ける際に、透は十一時という遅めの時間を指定してきた。それを深見は、事件のおかげで寝るのが遅くなった分、透も遅くまで寝ていたいのだろうなどと解釈していたが、もしかしたらそうではないのかもしれない。

「そういえば……朱野は毎週武藤さんの通院の送り迎えをしているとか言っていたな」

 深見は、今は亡き静の言葉を思い出して目を細める。

 琴乃は味噌汁椀を食卓に置いて肯いた。湯気がふわりと深見の前髪を撫でる。

「そうそう。武藤さんに関しては、源一郎さんからの引継ぎでね。でも……源一郎さんは通院の送迎までは、さすがにしていなかった気がするわね。確か透さんが武藤さんのお世話をするようになってからよ。いつの間にか通院の送り迎えまでするようになっていたようね」

「朱野らしいな」

 大学時代の透を回想しながら深見がつぶやく。彼は本当に気の利く親切な男だった。

「本当に。透さんったら、本当によく気の付く好青年よねえ。うちに娘がいたらお嫁にもらってほしいくらいだわ」

 琴乃はうふふと口のうちで笑い、自らも対面に腰かけて麦茶を一口すすった。

 そんな彼女の目の下にもうっすらと隈がある。

「ところで静さんのお母さんって、どんな人だったの?」

「百合子さん? そうね……私がこの村に嫁ぐ前のことはよく知らないのだけどね。かすみさんが亡くなった次の年に、この村に嫁いできたって話よ」

「ということは、二十三年前か。元々この辺りの人なの?」

「ええ。結婚する前は隣の五藤村で看護婦をしていたそうよ。時折龍川先生の病院にお手伝いにきていたのが縁で、源一郎さんと懇意になって結ばれたという風に聞いているわ」

「へえ、看護婦さん」

「はっきりした目鼻立ちの快活な人だったかな。成長するごとに、静ちゃんは百合子さんによく似てきていたわね。前妻のかすみさんとは私は会ったことはないのだけど、おとなしそうな女性だったみたいで。じゃあ、百合子さんとは割と正反対だったんだなあって思ったわね」

源一郎は一度妻を亡くしているから、健康そうな女性に惹かれたのかもしれない。

「けれど、そんな百合子さんも病気で……か」

 深見が渋い顔で息をつくと、琴乃も寂しそうに眉根を寄せた。

「まさか、あんなに若くして亡くなるとはね。元気そうだったのに。その頃は静ちゃんもまだ小さくて、本当に可哀そうだったわ」

 深見が食事を終えたあたりで、ちょうど二階から冷泉と瑞樹が連れたっておりてきた。どうやら家じゅうの雨戸を閉めてきたらしい。汚れた手を洗いに洗面所へ直行する二人を見送ってから琴乃が言った。

「瑞樹の提案なのよ。あの子、かなり神経質になっているみたいで」

 その言葉に、深見は昨晩の様子を思い起こした。比べるまでもなく、現状に対して最も抵抗を見せていたのが瑞樹だった。

「あんなことのあとだからな、仕方ないさ。それに雨戸を閉めること自体は良い策だと思うし」

「ええ、侵入者が入ってこられないよう用心するに越したことはないからね」

「警察が来るまでの辛抱だな」

「秀一さんが二十一日には帰ってくるから。そうしたらトンネルが崩れていることに気づいて警察を呼んでくれるはずよ。それまではなんとしてでも自衛しないとね」

 よもや白峰秀一にまで魔の手が迫っているとは思いたくない。

仮にそうであるならば、警察の捜査がこの村にも伸びているはずだ。と、深見は縁起の悪い想像に無理やり蓋をして、残りの麦茶を煽った。



 二



 透との約束を控えた深見が席を立ち、瑞樹が汚れた衣服を着替えるついでにシャワーを浴びて戻るまでの間、居間には冷泉と琴乃が取り残された。

 そこで冷泉は改めて白峰琴乃の顔を正面から見ることになったわけだが、その瞬間、不意に先刻見た光景が脳裏に蘇ってくるのを感じた。咄嗟に小さく頭を振ってその像を掻き消す。水を含ませた絵筆で擦ってぼかされたように、像は脳内でピントを失って消えた。

 しかし、瞼の裏にこびりついた閃光のように、残像は時折顔を出しては冷泉の心を揺さぶってくる。

一枚の写真。白いワンピースを着た人形のように可憐な少女。その顔は冷泉もよく見知っている。

 白峰瑞樹のものだった。





 時刻は一時間程遡る。それは二人が白峰瑞樹の私室の雨戸を閉めていたときのことだった。雨戸を引っぱろうと、冷泉が瑞樹の勉強机と腰高窓の隙間に身体を差し込んだ際、足先に何かが触れて音を立てた。壁に立てかけられたコルクボードを蹴ってしまったようだった。

「あっ」

 瑞樹が声をあげるのと、元の位置に戻そうと冷泉がその板に触れるのはほぼ同時だった。その声に、驚いた冷泉の手が滑り、壁に伏せられていた板がひっくり返る。

 その表面を見た冷泉が、切れ長の目をぎょっと剥いた。

ボードは何度も痛めつけられたように歪んでおり、いくつも穴が開いていた。その表には一枚の写真があり、中心には深々と彫刻刀が突き立てられている。小学校低学年くらいの白いワンピースを着た少女の写真だった。そしてそのボードも、彫刻刀も、写真も。そのいたるところが暗褐色に汚れていた。

冷泉は恐る恐る背後を振り返る。視線の先には、少女によく似た男が立っていた。

湿気を含んだ夏の風に混じって、蝉しぐれが蒸した部屋を満たしていく。

伏し目がちな白峰瑞樹の表情は氷のように冷たく、彼の周囲だけ色も温度も失われたような錯覚を冷泉は受けた。どくりどくりと自らの鼓動だけが耳元でうるさく鳴り響き、背筋がぞくぞくと冷えるのがわかる。目の前にいるのはよく知った友人だというのに、まるで大蛇に睨まれたような心持であった。

張り詰めた静寂を打ち破ったのは瑞樹だった。温度のない瑞樹が一歩二歩と近づく間も金縛りのように動けずにいる冷泉の横を通り過ぎ、ボードを伏せて元あった壁へと立てかけた。

 そして、寂しそうに笑った。

 その顔は、普段の無邪気なものとは違って、世の酸いも甘いも熟知した大人のもののようだった。





 名前を呼ばれて、冷泉は我に返った。

「冷泉くんは、ご家族は?」

 一瞬、遠い異国の言葉でも掛けられたように、冷泉の目が点になる。深い回想に潜っていた意識が浮上するに従い、異国語は日本語の形を成していき、冷泉はその不自然な間を取り繕うようにひとしきり室内に視線を彷徨わせてから徐に口を開いた。

「両親と兄との四人です。といっても、兄も僕も大学から家を出ているので、実家は両親の二人暮らしですが」

「そっか」

 琴乃は食卓テーブルの上で何度か指を組みなおす。妙に落ち着かない空気に背中を擽られる時間がしばらく続いた。やがて琴乃が意を決したように小さく息を吸った。

「冷泉くん、瑞樹の幼少の話、何か聞いた?」

 その問いに冷泉の背筋がぎゅっと引き締まる。ややあって、絞った喉の奥から張り詰めた声が出てきた。

「いえ、詳しいことは何も」

 冷泉には珍しく、不明瞭な声色になった。

「そう。一階に降りてきたときに冷泉くん、何か様子がおかしかったから。もしかしたら何か瑞樹が話したのかなって思ったのだけれど」

 穏やかな琴乃の表情の裏に何かどす黒いものを感じ、不意に冷泉の喉仏が上下する。脳裏には温度を喪った瑞樹の表情が蘇った。

 何かこの家の禁忌へと足を踏み入れようとしているのではないかと、冷泉の背筋が氷の筆で撫でられたように凍る。気心の知れた友人の家だというのに、このときばかりはまるで昔話に出てくる人間に扮した恐ろしい山姥の家に紛れ込んだ小僧のような心持であった。

 やがて、からからに渇いた喉の奥をこじ開けるように、冷泉は掠れた声を捻り出す。

「写真を、見ました」

「写真、小さい頃の?」

 その表情や声から、琴乃の感情は読み取れない。

 冷泉は極力畏れを面に出さないように平静を装うべく、努めてごく落ち着いた声音で返答した。

「申し訳ありません。立ち入ったものを見てしまって。きっと外部の者が軽々しく知って良いものではないですよね」

 その瞬間、琴乃の表情が一気に緩んだ。

「ううん、そうじゃない、違うの」

と、慌てたように顔の前で手を小さく振る琴乃の仕草に、ようやく人らしい温度を感じることができ、それにより張り詰めていた冷泉の緊張も徐々に解けていった。

「あの子が自分からあの頃の写真を見せるなんて、少しびっくりして。それだけ冷泉くんのことを信頼しているのだと思うのよ」

 冷泉が偶然板を蹴ってしまったから瑞樹の意思に関わらず見えてしまっただけで、そこに自身への信頼との関連性はないと、冷泉は一人胸の中でつぶやいた。

「びっくりしたでしょう」

 冷泉は少し間を置いた。そして言葉を選び終わると、ひとつゆっくりと瞬いて視線を真正面へと戻した。

「驚かなかったと言ったら嘘になります」

 琴乃も同じようにひとつ瞬いた。

「よくまっすぐ育ってくれたなって思ってる。親ばかに映るかもしれないけれど、瑞樹にも実家に呼ぶような友達ができて、おばさん安心しているんだ。……あの写真」

と言い淀んで、琴乃は視線を小さく彷徨わせる。詳しい事情を知らない冷泉にも、瑞樹の幼少期に何か人には言い難い事情があるのだろうことは察せられたため、言い淀んだものの指示する先がなんとなく伝わっていることを示すように冷泉は小さく頷いた。すると、琴乃もその意図を受け取ったようで、一つ頷きを返して口を開いた。

「そのことに加えて、こんな村でしょう。同年代の友達も静ちゃんと小夜ちゃんだけだし、一人っ子だから兄弟との交流もないし。高校から急に集団に放り込まれたときに、人との触れあい方がわからなくて、友達ができなかったり、道を外れてしまったりするんじゃないかって心配してた。だから弟か妹か、いた方がいいのかなって思っていたんだけどね。それも結局叶わなくてね」

 兄弟の有無と、社交性に因果関係があるかと言えば、一概には言えないのではないか。そうは思いつつも、話の主軸はそこにないのだろうと、冷泉はひとまず話の先を促すように琴乃の顔をじっと見つめた。琴乃はそれを汲み取ると、長い睫毛を上下させて組んだ指をじっと見つめた。

「亡くなった私の祖父……深見家の先代は、瑞樹に弟が産まれた暁には、白峰家から取り上げて深見家の養子として出迎えるつもりだったのよ。陽介がいるのにまだ跡継ぎが欲しいのかと、正直腹が立ったものだわ。女である私の存在意義も否定されたようで、なんだか空しくもあって。そういった全てがどうしても許せなかった」

 声は震え、目には黒い焔が見えるようだった。はたと我に返って熱の籠った心に水をかけるべく、琴乃は一つ息をついた。

「祖父には祖父の事情があったのでしょうけれど。例えば……そうね、祖父の時代には生まれた子供が無事に成長できる確率も低かったのでしょう。病気や飢えや戦争で大人になれずに亡くなる子供も多かったのよね、きっと。そういう時代に生きた人だから、跡継ぎが一人きりだと不安だったのだろうけど……そういう黒い打算で子供を“つくる”という発想が、どうしても好きになれなかったの。子供は家督を継がせるための道具じゃないわ。そんな母親の心境を察したのかしらね。結局、瑞樹のあとは子供に恵まれることがなかったの。祖父が亡くなってからは、そんなことを言う人もいなくなったのだけれど。私が二人目を望みつつも、一方心の奥底では男の子の誕生を拒んでいたという手前、瑞樹には少しばかり罪悪感があってね。まあ、そういう、大人の事情や村の風習に巻き込んでしまったようで、いろいろと思うところがあったのよ」

 琴乃は、最後は広げすぎた風呂敷を慌てて無理やり畳むようにまくし立てて、誤魔化すように笑顔で締めた。結局、ワンピースの謎は明かされないままだったが、冷泉側から掘り下げるようなことでもあるまい。冷泉は神妙な顔で、ただ友人によく似た夫人の口元をじっと見つめるに徹した。

「私ったら……話がどんどん飛躍しちゃって懺悔まがいのことを。ごめんなさいね、家の事情なんか聞かされて、瑞樹と顔を合わせづらくなっちゃったりはしないかしら?」

「いえ、それはありませんので安心してください」

「そう?」

 困ったように眉を下げて笑う琴乃に、冷泉は正面からきっぱりと言い切る。

「僕は、僕の知る白峰瑞樹くんを好きで友人でいるので。その根っこを知ったところで、何かが変わるものではありません」



 三



 雨粒が傘の布地を叩く音を聞きながら、深見は朱野邸へと足を向けた。目を覚ましたときには白い光が見え隠れしていた空も、次第に雲を厚く垂らし始め、今ではすっかり本降りの雨となっている。

 玄関の呼び鈴を鳴らすよりも早く、突然宙から名前を呼ばれて深見は辺りを見回した。

「ここだよ、深見。ここ、上」

声に導かれて視線を上げれば、二階の窓から透が顔を出している。不用心だなあなどと苦笑いを零す声が幽かに上方から耳に届いた。

「少し待っていて。今玄関を開けるから」

 話によれば、朱野穢の失踪にあたり一家総出で屋敷内とその周辺を捜索していたとのことだった。藤川絹代だけは、昨晩部屋に閉じこもったきり一歩も外に出ていないようだったが。その際、村の中心にある石像が砕かれているのが見つかったとのことで、深見は早速来た道を一度引き返して現場を見にいくことにした。

 菜園の脇の石像は、見る影もなく無残に砕け散っていた。その上には、例に漏れず赤い塗料がしとどにぶちまけてあり、今は表面で白い雨粒が躍っている。

 前情報があったからか、現在が昼で辺りが明るいからか、はたまた慣れからくるものなのか。昨晩ほどの衝撃を感じなくなっている自身の心に、深見は軽い喪失感を覚えた。

「これ……村全体に波及しなければいいけど」

 『朱雀像』に続いて四神全体の象徴である石像が破壊されたことを受け、透が不安の声を漏らす。

「標的がよくわからなくなってきたし、朱野だってまたいつ狙われるかわからないし、どこか一か所に集まった方がいいかもな」

「うん。俺もそう思う。武藤さんはしばらくうちに泊まるように声を掛けてみたところだよ。後はどうにかトンネルを迂回して助けを求められないかなって考えていて」

「それは少し危険じゃないか? うまく山を抜けても谷に突き当たるって朱野、昨日言っていただろ。この雨だと川だって増水しているだろうし。それに、電話やトンネルに爆発物を仕掛けたような犯人だ。どこに罠が仕掛けられているかわかったものじゃないよ。そもそも分散するとそれだけ守りも薄くなるし」

「そうなんだよな……」

深いため息とともに逸早く惨状に背を向けた透を追いかける形で、深見もその場を後にした。

「とにかく、今は弟さんが心配だな。それだけ探しても見つからないなんて、どこに行ってしまったんだろう」

 実のところ深見の中では心配半分、疑い半分という具合だったが、疑惑は隠して気遣いの言葉のみを口にする。それどころか疑心について言ってしまえば、穢だけに収まらないのが本音である。昨晩のアリバイ検証の結果、容疑者は源一郎、絹代、朱野穢の三名に絞れたようなものだったため、深見にとって朱野家は今では魔窟のような認識だった。

 しかし、どんなに怪しかろうと、事情が複雑であろうと、彼らが透にとって家族であることにはかわりないためこのことを話すのは憚られる。それが、いくら透の身の安全のためであってもだ。妹を惨殺され、自らも命を狙われたうえに、家族に容疑がかかっていると知ったときの気持ちを考えたら、とても打ち明ける気にはなれなかった。

「あれからまた狙われたりはしなかったか?」

 深見が問えば、透は一つ肯き返した。

「極力単独行動は避けるように努めていたから。武藤さんの送り迎えのときは仕方がなかったけれど、走って行って帰って来たさ。暴漢も追いつけないくらいにね」

「気を付けろよ」

「ありがとう。深見もね」

 そう言った透のまなざしの柔らかさが、深見の冷えて縮こまった心に染み入るようだった。青い傘の下でも、透の周りだけはほんのり温かい色をしていた。

「しかし、静さんを殺害した犯人は、どうやって納屋から逃げたんだろうな。あ、納屋の中、少し見てもいいか?」

 そう言って深見は、もう目の前まで迫った玄関から視線を外し、納屋へ首を向けた。事件があってからこちら、実際に死体発見現場を目にするのは初めてのことである。

 夏場で遺体も傷みやすいため、静の遺体は、穢が消えてもぬけの殻となった地下牢に隣接する空き部屋に搬送されていた。幸いにも朱野家の大型冷蔵庫には、料理に使う氷の塊が幾つもあったため、今では地下は即席の霊安室と化している。

 これで朱野穢が帰って来た暁には、彼は妹の亡骸の眠る壁一枚を挟んだ空間で警察の到着を待つことになるのだ。想像して、深見は一つ身震いを零した。

 透の承諾を得て、深見は一度納屋の周囲をぐるりとまわってみた。しかし、昨晩の豪雨に加え、今朝の雨である。土はすっかり流され、足跡らしい足跡は何も見つけることができなかった。

そのまま正面の扉に手をかけたところで、深見は隣に立つ透の顔が真っ青なことに気が付いた。慌てて手を引っ込める。

「ご、ごめん。流石に無神経だったよな」

「いや、平気だ」

 ちっとも平気そうでない顔で透は首を振った。しかし続けて、「許せない」と目の前の血文字を見据えたその横顔に、深見の目はぎょっと釘付けになった。

それは視線で納屋を焼き尽くすほどの憎悪に満ちていた。そのあまりの鬼気迫る風貌を前に、犯人が明らかになった暁には、透がその者を八つ裂きにしてしまうのではないかと、深見は沸き立つような畏れを抱かずにはいられなかった。

 昨晩から彼があまりに落ち着いていたため深見も失念してしまっていたが、どこに妹が殺されて平気な兄貴がいようものか。昨晩大嵐の中、白峰邸に助けを求めて現れた際の弱り切った姿が、透本来の姿だったのだと思い知る。

 本当にこの扉を開けてしまっていいのか。深見の喉が不意にごくりと上下する。目の前に聳えるこの一枚の古木戸が、まるで友人の狂気を封印する最後の砦であるかのように感じられ、把手を握る深見の手が小さく震えた。そのまま意を決して、強く力を籠める。

 扉を開けた瞬間、凄惨な光景が視界を揺さぶり、続けてむわっと強い鉄の匂いが胸じゅうに圧し掛かってきた。思わず喉から呻きが漏れ、深見は口元をハンカチで覆った。

 天井には、水鉄砲で噴射したような血痕が広がっており、そこから跳ね返ったようなしみが同心円状に広がっていた。静がこの場所で上向きに吊られたまま首を刎ねられただろうことは、一目でわかる。

 深見はこっそりと横目で透を窺った。透は、何か眩しいものでも眺めるような目でそれらをぼうっと見つめていた。

「静さんが殺害されたのは夜中の一時頃だったか」

 手探りの問いかけに、「ああ」と存外しっかりした声が返ってくるのを受け、深見の声にも徐々に勢いが戻ってくる。

「そのころのアリバイがある人物となると」

「同じ寝室を使っている父と絹代さんだな。あとは……瑞樹くんと冷泉くんは別だったのかな」

「そこの二人は、もうそれぞれの部屋に引っ込んだ後だったみたい」

 言いながら、深見は尻ポケットから小さな手帳を取り出してメモを取り始める。ただの安物のスケジュール帳だが、手持ちのノート類といったらこれしかなかったため事件の整理に使っているものだ。

 深見は静殺害事件と、透襲撃事件の各人のアリバイを表にまとめ、眺めてみた。

 ここで奇妙な事態が浮かび上がってくる。

「ちょっと待て……静さん殺害と、朱野襲撃の両方ともにアリバイのない人間がいないぞ……」

手帳を覗き込んでいた透も、目を丸くした。

「両方ともアリバイがないのは、弟と武藤さんだけだね」

 透が沈鬱な声を漏らす。

「けれど、武藤さんは目に不安があるから犯行が困難で、弟さんは一度も外に出たことがないのならば山道には慣れていないだろう?」

 すかさず、深見は昨晩白峰邸で出た話を持ち出す。透ははっと目を見開いた。

「そうか、霧子さんだけじゃない、弟にも不可能だ」

 自らの弟の嫌疑が晴れたからか、透の表情にほんの少し色が戻ったようだった。しかしすぐに首を傾げて目を瞠る。

「え、だったら誰が……?」

「そう。朱野襲撃の際にアリバイのなかった源一郎さん、絹代さんが、静さん殺害の際には鉄壁のアリバイがあるんだ。二人が共犯関係にでもない限りは……だが」

 深見の説明に、透の瞳孔がみるみる縮まり、唇が戦慄いた。

「まさか……」

 驚愕の事実を打ち消すように首を左右に振る透を前に、深見は居た堪れなくなって目をそらした。父とその愛人が妹を殺害し、自らを襲撃したなど、考えただけで腹の底が混ぜっ返される思いだろう。

「父さんと絹代さんが……? でも、あの人たちだったらやりかねない」

 自らの導いた論が原因とはいえ、突然力が抜けたように呟き始めた透を前に、深見は動揺を禁じえなかった。諦念の色濃くにじんだ透の姿は、見ようによっては自棄にもとれた。

このままでは彼が壊れてしまうのではないかと急に不安になり、深見は自らがつい今しがた話したばかりの論に慌てて布を被せる。

「いや、まだ外部犯の可能性だって」

「その可能性が薄いことは、昨日話したじゃないか。この村のことをよく知る人物の犯行であることは、間違いないと思うよ」

「確かにそうだけど」

「深見、覚えているか? 絹代さんが俺たちに嫌疑を向けてきたときのことを。あの時彼女は、父の財産目当てで俺と深見が静を葬ったのだと言った。つまり、彼女が財産目当てで人を殺すという発想を持つ人物だということは確かなんだよ」

深見の話が呼び水となったように、頑なに言葉を並べ立てる透は、客観的にとても危うく感じられた。深見ははらはらした気持ちで「朱野」とその名を呼んで止めにかかった。透は、それに一つ頷いて正気を示すと、言葉を続けた。

「ただ、父と絹代さんを財産目当ての犯人だと仮定した場合にはおかしな点もある。既に財産は父のものなのだから、子供に渡したくなければ、父と絹代さんが婚姻関係を結んで俺と妹を家から追い出せば事足りる話だもの」

 よくよく聞けば、透の話は最もだった。源一郎と絹代が結託して、子供を亡き者にするその動機が全く思いつかない。

 そこまで考えてはたと深見の動きが止まった。

「なんてことだ」

「深見?」

「所在不明で村の地理に詳しい人物……もうひとりいるじゃないか」

 きょとんと目を丸くした透に、深見はきっぱりと言い放った。

「白峰秀一さんだよ」

 言いながら、ぽっと人のよさそうな義兄の顔が浮かんで、胸の奥がちりりと痛む。

 透は盲点だったとばかりに、顔をはっと強張らせた。

「で、でも秀一さんは出張しているんだろう? 会社の人に尋ねれば一発でわかるよ」

「でも、今は尋ねようがない。外に連絡がつくまでは、その可能性も視野に入れておいたほうがいいと思うんだ」

 深見がそう言い切ったところで、屋敷の二階の窓が開く音がした。

「財産の分け前でも相談しているのかしらね」

 突如降ってきた声に二つの傘が同時に傾く。見上げると、藤川絹代が二階の廊下、西側突き当たりの小窓から顔を覗かせていた。普段は分厚いカーテンが下りている小窓だが、藤川絹代にはわざわざそれを開けてまで話したいことがあるらしい。

「わたくし、旦那様のコレクションルームにサーベルを取りにきたのよ。自分の命は自分で守らないとね」

 こちらには武器があるのだぞという、殺人犯への牽制のつもりだろうか。二人が黙って見上げていると、さも愉快そうに鼻で嗤って、廊下の奥へと消えていった。

「……朝からずっとあんな調子なのか?」

 深見が呆れ交じりに問えば、透は困ったように肯いた。

「静が殺されたときには、自分から俺についてきたんだけどね。その時は、一番腕力の強そうな俺と一緒に行動するのが最も安心できると判断したんじゃないかと思うんだけどさ。ただ、その手にしっかりと鉈を持っていたあたり、相当警戒心が強いのはわかるよね。まあ、俺も絹代さんが犯人だったら怖いからってんで、ずっと視線を切らないように警戒していたぶんお互い様なんだけどさ」

 透からその話を聞いて、絹代が犯人であるか否かに関わらず、彼女は隙あらば透を殺すつもりだったのではないかという一つの仮説が深見の頭に浮かんできた。護身用兼、透を殺すための鉈であったのではないかと。あの時は確か透も護身用に角材を持っていたはずだ。角材片手に絹代を警戒していたとあれば、当時透も既にそのことに思い至った上で牽制していたのかもしれない。

 そう思って透の横顔を窺おうと、視線を恐る恐る持ち上げる。目が合うと、透は何を思ったか無理やり苦笑いのような表情を作った。そして力なく視線を落としてから続けた。

「ただ、その後トンネルの崩落があっただろう。その話を聞いて、俺と深見を犯人だと信じ込んでいるんだろうね。彼女が犯人じゃなければの話だけどさ。とにかく、まるで掌を返したようにつんけんしっぱなしだよ」

「なるほどなあ。なんというか……朱野の言うように、ひどく財産に拘るよな」

 深見が言葉を選んでそう言うと、透はため息交じりに、「俺は正直この家の財産だとか、家督だとかどうだっていい。寧ろ呪いのように忌々しいものだと感じているよ。欲しけりゃくれてやるさ」と、吐き捨てた。そして腕時計を見遣る。「悪いけど、そろそろ武藤さんを迎えに行く時間だ。深見も来る?」

 つられて深見も左手首を持ち上げれば、針は十一時四十分を指していた。迷いなくその誘いに乗ることにする。魔窟に一人取り残されるのは勘弁だった。



 四



 龍川邸に着いた頃には、雨はほとんど上がっていた。

 いつものように診察を終えて、話をしながら透の迎えを待っていた龍川医師と武藤霧子だったが、今日はそこに笑顔はなく、話題も昨日の事件の話題が主だったようだ。そんな武藤霧子の話を聞きながら、三人で『玄武の館』へ向かって歩く頃にはすっかり天気も回復し、白い雲の隙間からは時折光も差すようになっていた。

「では、また夕方頃にお迎えにあがりますから。それと差し出がましいようですが、それまで玄関の鍵はかけておいたほうが安心できるかもしれませんよ」

 透がそう言うと、武藤霧子は一歩下がって手を振る仕草を取る。

「ありがとう、そうしましょう。一人だと心細いから助かるわ」

 武藤霧子が扉の向こうに消えるまで見送って、ようやく透と深見は『玄武の館』を後にした。

 これから昼食を朱野邸で共に摂ることになっている。

「いつも武藤さんは、食事は一人で摂っているのか?」

「基本的にそうだね。今回は警察の助けが来るまでうちで過ごさないか誘ってみたけど。普段は一人で過ごしているみたい」

「なるほど。今回ばかりはな、そうした方がいいもんな。極力一人になるのを避けた方がいいだろうし」

 源一郎と絹代の共犯説が浮上している中、それは果たして本当に安全と言えるのかという思いも深見の中にはあったが、これは胸の内に秘めておく。ひょっとすれば、透も源一郎と絹代を疑うからこそ、それと対抗するために屋敷内の人数を増やそうとしているのかもしれなかった。相手が複数犯となれば、水谷と透の二人で対峙するよりも、三人、四人と頭数が増えるに越したことはない。そこに第三者である武藤霧子の目が加われば、それだけ犯人も手を出しにくくなるからだ。

 そしてそれは、何も源一郎と絹代が犯人だった場合に限った話ではない。別に犯人がいた場合にも、一か所に固まっているほうが手を出しにくいだろうことは確かだった。

やがて、二人が『玄武の館』の敷地を出て小道へ一歩踏み出そうとしたときだった。

「誰か! 誰か来てェ――!」

突然、絹を裂くような声が、背中の向こうから突き刺さった。

どちらともなく、即座に踵を返して走り出す。間違いない。声は『玄武の館』から聞こえてきた。すなわち、たった今しがた送り届けてきたばかりの武藤霧子のものに違いない。

幸いにも二人の脳裏に浮かんだ最悪な予想とは裏腹に、武藤は正面から見て玄関のちょうど左上にあたる、三階の廊下の窓から上体を乗り出すようにして助けを求めていた。

「早く、誰か! 誰かが窓の外に!」

 武藤は乱れる呼吸の合間にそう叫び、身を震わせているようだった。

「霧子さん落ち着いてください! 今助けに行きますから!」

 武藤霧子の大声に、透も負けじと声を張り返して落ち着かせようと試みる。家の外に犯人がいるのならば、それを牽制する意図もあったかもしれない。

 そう思った深見は、「俺もいます! 二人で助けに行きますから!」 と、自らの声も応援に添えた。一人よりも二人の方が、犯人への牽制になるだろう。

「ああ透さん、深見さん! 一階の窓の外に誰かいるの!」

 二人の声を見つけた武藤霧子は、水を得た魚のようにパッと顔を綻ばせた後、再び顔を歪めて助けを請うた。

「今行きますから!」透は大声で叫ぶと、「俺は家の外を見てくるから、深見は中の霧子さんを頼む」短く深見に言い放ち、自らは花壇の杭を一本引き抜いてブンッと縦に振った。振り落とされた泥が、地面にべしゃりと叩きつけられる。それらを鋭い眼光で睨みつけるようにして、透は家の裏側を目掛けて左方向に駆けていった。

 それを見送り、深見もまた一段飛ばしで石段を駆け上がる。続いて玄関の扉を乱暴に揺らしたが、堅い感触に阻まれた。

「武藤さん! 玄関の鍵を投げてください!」

 深見の言葉でハッと気づいた様子の武藤霧子は、廊下から身を乗り出して銀色の鍵を階下へ落とした。それを拾い上げると、深見は再び玄関へと足を飛ばす。ようやく開いた観音開きを右に曲がって階段を二段飛ばしに駆け上がった。

 そうして二階まで昇ったときだった。

「うわあああああ!」

 今度はただ事でない男の悲鳴が、屋敷の裏側から轟いた。

 深見の足が一瞬止まりかける。悲鳴は、間違いなく透の声だった。玄関の裏側の庭で何かが起こったらしい。

行くか戻るか一瞬迷った深見だったが、ひとまず三階まで昇り切る。すると向かって左の廊下の先で、座り込んで震える武藤霧子の姿を見つけた。

「武藤さん! 深見です。もう大丈夫ですから」大声で励ましながら駆け寄り、ゴムのように固まった肩を何度か擦った。そしてすぐさま外の様子を窺おうと、「ちょっとお部屋失礼します」目の前の部屋の扉を開けて、中に入った。

そこは武藤霧子の私室のようだった。うっすらと開いた正面の窓に駆け寄り、縁に両手を突っ張って眼下を見下ろす。

「朱野!」

 声をあげた瞬間、一気に深見の視界が色を失った。

 見下ろしたちょうど真下に、それはあった。

ドラム缶の上にちょこんと乗せられた、水谷執事の生首だった。



 五



 ようやく深見が庭に辿り着いたとき、朱野透はぬかるんだ中に一人尻もちをつき、驚愕と恐怖の絶頂を面に貼り付けて震えていた。

「大丈夫か朱野」

 慌てて駆け寄り抱き起こした透の身体は氷のように冷え、力が入りぎゅっと固まった身体はぶるぶると小さく暴れていた。

 緑色に塗装された小さなドラム缶の上の生首は、変わり果ててはいたものの間違いなく水谷のものだった。

 そして、夢遊病者のようにふらふらと近づいた深見の目に、更に衝撃的な光景が飛び込んできた。

「うわああッ!」

 不意の追い打ちに、深見の全身に雷で撃たれたような衝撃が走る。

それは地獄のような光景だった。

 生首が置かれている窓辺の向こう側、見えた武藤邸の一室の床には夥しい量の鮮血が迸っていた。そしてその中央に、切断された水谷の両腕が転がっていた。

 へばりついた視線を引きはがして視線を目の前のドラム缶へと戻すと、その裾の部分からじわじわと赤い血だまりが広がっている。この中に、おそらく水谷の首と腕を除いた胴体が閉じ込められているのだろう。

 深見は喉元まで心臓がせりあがってくるような感覚に、思わず口元を強く抑える。顎ががくがくと跳ね、舌は冷たく縮こまり、歯がかちかちと硬質な音を立てた。

「ふ、深見……」

 背後から力のない透の声が掛かる。しかし、気持ちの上では振り向いていても、身体が一向に言うことを聞かない。深見の身体は金縛りにあったように、ずっしりと根を張ったまま動いてはくれなかった。

「足跡がない……お、俺たちの足跡以外に、誰の足跡もないんだ」

 その言葉を受けて、ようやく深見はその目玉を動かすことに成功した。そこから、波紋のように顔が、腕が、全身がと順繰りに自由を取り戻していく。

「おかしいよ、ぬかるんでいるのに足跡がないんだ」

 怯えた子供のような口調で訴える透の疑問に、深見は答え得る解を持たなかった。

 深見はぐるりと左右を見回してみる。そこには、透の言うように足跡が二組分しかないのだった。

 そうしたところで、武藤霧子が震えながら三階の窓から顔を覗かせた。

「武藤さん、犯人は本当に外にいたのですか?」

 安心させる言葉を掛けるよりも、現状の説明をするよりも早く、たまらず深見は疑問を投げかける。

 すると武藤霧子はこくこくこくと何度も小刻みに顎を引いて声を震わせた。

「間違いないわ……部屋の扉を開けたとき、外で何かが壊れる音がしたもの」

「あ、あれかな」

 と、透が震えの残る声で指し示す。ドラム缶の脇に、小さな植木鉢が砕けて土が飛び散っていた。

「じゃあ、犯人はどこへ消えたんだ?」

「とりあえず……俺は、龍川先生を呼んでくるから、深見は武藤婦人のところについていてくれないか?」

 少し顔に色の戻って来た透が、ゆっくりとその場に立ち上がる。

 手と、ズボンの尻が泥だらけに汚れていた。それから、その場に取り落とした杭を手に取り、震える足を叱咤しながら、透は屋敷の向こう側へと駆けて行った。





 龍川医師が武藤邸に到着したのは、それから十分と少し後のことだった。

 どういうわけか一緒に冷泉が来ていて、代わりに透の姿はない。冷泉は群青色をしたスクエアフレームの眼鏡をかけてきており、理知的で硬質な印象が更に強調されているように感じられた。現場と遺体を私物のカメラに収める龍川医師に、深見は声を掛ける。

「朱野はどうしたんです?」

「ああ、透さんは小夜を家に一人にするのを心配してくれてですな。小夜を白峰さんの家まで送り届けてからこちらに合流すると仰っていました」

 龍川医師は、滲み出る額の汗を拭いながら水谷の遺体へと手を掛けた。

 深見は思わずそこから目を逸らす。

 確かに、龍川医師が検視のために家を空ければ、その間小夜は一人になってしまう。こんな非常時にでも健在な透の気配りには頭が下がる思いだった。

「しかし、先生もご覧になったでしょう? 足跡は、朱野と俺が現場に来たときのものと、朱野が先生を呼びに行ったときのものしかないんです」

 そう、足跡の怪を龍川医師のカメラに収めてもらうために、深見は敢えてその場から動かなかったのだ。おかげで十分間も惨殺体と向き合うことになったが、とにかくより多くの人にこの不可解を訴えたいという気持ちが強すぎて、それに勝るものはなにもなかったのである。

 そうしたところで、屋敷の周りをぐるりと一周してきたらしい冷泉が角から現れた。

「深見さんの仰るとおり、屋敷の周りには僕と先生の足跡を除いて、あと二組しか認められませんでした。土は、今朝から降った雨のせいでぬかるんでいる。透さんと深見さんの足跡がくっきりとついているように、犯人のものもついていないとおかしいことになりますね」

「そうだろう? 犯人はどこへ消えたんだ」

 深見の熱っぽい訴えに、しかし冷泉は淡々と返す。

「けれど、音がしたからといって、犯人が土の上にいたとは限りませんよ」

「どういうことだ?」

「例えばですが、武藤邸は壁から十歩も歩けばもう山道です」そう言って冷泉は、おもむろに屋敷に背を向け山へ向かって歩き出した。そして、くるりと屋敷を振り返る。「山道は、草木や枯葉や枝が積もっている部分を選んで踏めば、足跡が残りません。犯人はここから、武藤邸に向かって植木鉢を投擲した」と、今度は大きく振りかぶって何かを投げる仕草を取った。「遺体のそばに落ちていた植木鉢はごく小ぶりなものでした。ここから壁までは二十歩。一歩あたり七十五センチと見積もっても十五メートル程度。ソフトボール大の植木鉢を飛ばすのに難しい距離ではないでしょう」

「それはどうだろう」

 間髪入れずついた深見の物言いに、冷泉は驚いたような顔を寄越した。

「無理、でしょうか?」

「壁に植木鉢が当たった形跡がないんだ」

 そう言って深見は植木鉢の落ちている箇所から、すっと上に線を引くように壁を指す。武藤邸の壁は黒っぽいからわかりにくかったが、如何にも何かがぶつかったような形跡は見当たらなかった。

「……よく見ればどこかにはあるのでは?」

 論の腰を折られたことに気を悪くした様子もなく、冷泉はすたすたと壁のほうへと戻ってくる。そして、ざらざらした壁に目を凝らした。

 知識人によくみられる妙にプライドが高い男かと思いきや、それは完全なる思い込みだったらしい。予想よりも毒のない冷泉の反応を前に、深見はほっと胸を撫でおろす。

そんな深見をくるりと振り返り、「本当にないようですね」冷泉は深見の隣に来て屋敷を仰ぎ見た。

そこからちょうど見える三階の武藤霧子の私室では、今も彼女が身を固くして待機しているのだろう。気の毒だから一刻も早く傍に行ってあげたい気持ちは山々だったが、この村において写真を現像する手立てがない以上は、証拠の残っている今のうちに確認しておくことがいくつもある。

「こうなると、犯人が意図的に植木鉢を割ったのか、意図せずに割ってしまったのかわかりませんね」

「確かに植木鉢が割れた、ないし割った方法もよくわからないが、その理由や目的もてんでわからないな。植木鉢を割って存在をアピールすることで犯人が得られたものはなんだろうか。早く遺体を発見させたかった?」

「そのことに何の利点があったというのでしょう」

 目を向けてきた冷泉に、深見は首を傾げて斜め上を見た。

「なんだろう……目的も方法もよくわからないな」

「方法についてはわかるかもしれませんよ。こう、壁に向かって投げたのではなく、ちょうど地面と壁の接触部分に向かって投げれば壁には跡は残らないですよね」

 冷泉はまだ山道からの投擲説を捨てきれないようだ。深見は顎を掻きながら、ううんと唸った。

「可能性としてゼロとは言い切れないけれど、でも十五メートルも先から、一発でそううまく当てられるかな」

「それもそうですね。練習すると言っても、住人に気づかれてはならない。となると、そうそう何度もはできないでしょうし」

「それに、そこまで危険を冒して、植木鉢を投げる必要性があったかといえば、ノーだと思うんだよな。第一、植木鉢は遠投できたとしても、水谷さんの遺体を壁際に並べるときは、流石に近づいていないとおかしいだろう。だから、結局は近づく羽目になるんだよな」

 冷泉はきょとんとフリーズした機械のように固まった。そして、何度か瞬きを繰り返す。

「そうでした。遺体もありますからね。投擲説はなしです。深見さんのおっしゃる通り、どのみち犯人が建物に近づいたことには間違いなさそうですね」

 冷泉はあっさりと認めると、スクエアフレームの眼鏡をはずして徐にレンズを拭い始めた。

 一方深見は尻ポケットから手帳を取り出して、書き込みを始める。

「雨が降り始めたのはいつ頃だったか覚えている?」

「そうですね……雨戸を閉め終わってしばらくしてからなので……十時半頃でしょうか」

「うん、俺も朝食を食べ終わって支度をしている最中だったから、そのくらいだったと記憶している。それで、雨が止んだのがちょうど龍川先生のところに武藤さんを迎えに行った頃だから十二時頃だ。足跡を地面に残さない方法は、雨が降る十時半より前に全てを済ませて立ち去ったか、土の部分を踏まずに済ませたかの二つだ。しかし、底の抜けたドラム缶の中に人間の胴体をねじ込むだなんて芸当、遠隔でできるとは思えない。つまり、後者は否定できるわけだから、犯人は十時半より前に事を済ませてこの場所を去ったということになる。この説に穴はあるか?」

 そこまで検分を進める龍川医師をじっと見つめながら深見の要約を聞いていた冷泉が、何かに思いついたようにはっと口を開いた。

「ドラム缶の内側の地面が濡れているかどうかで、水谷さんの遺体がここに置かれた凡その時間帯がわかるんじゃないですか? 内側が乾いていた場合、遺体が置かれたのは十時半より前になるし、濡れていれば雨が降ったよりも後だとわかります」

「なるほど、それは尤もだ」

 深見は、冷泉の発想力に舌を巻いた。先ほどからの会話の流れを思い起こせばすっかり、冷泉がアイデアを提供し、深見がそれを吟味して体系化するという流れができているように思う。

 早速、深見が先頭に立って龍川医師に歩み寄った。

「龍川先生、ドラム缶の中は濡れていましたか?」

 龍川医師は、皺の刻まれた額の汗を手の甲で拭いながら振り返った。

「これから持ち上げるところでした。よろしければお二人とも、ドラム缶を持ち上げるのを手伝ってくれますまいか」

 二人は老医師に頷き、血だまりを踏まないよう両側からドラム缶を持ち上げる。すると中からはずるりと腕のない水谷の遺体が滑り落ちた。その途端、一気に濃厚な血液の匂いが鼻腔を襲う。

 露わになったことで、遺体の体勢が明らかになった。膝を折り曲げて座らせた身体の上から、底抜けのドラム缶を被せ、その上に首を乗せるという構図で遺体は安置されていたようだ。しかし肝心のドラム缶の内側の地面は、残念ながら溢れるほどに血液が充満していて雨に濡れていたかどうかまではわからなかった。

向かいに立つ冷泉を上目遣いに窺えば、流石に遺体を目の前に強張った表情を貼り付けている。それを見て、深見はこっそり胸を撫でおろした。彼の物事への動じなさが、頼もしさを通り越して少し怖くもあったのだ。

「いつ頃殺されたかわかりますか?」

 深見の問いに、龍川医師は横倒しに崩れた胴体の傍にしゃがみ込んで唸った。

「血液の凝固具合からでは、死後数十分というところですかな。体温と硬直については……遺体が暑いなか日の光を吸収しやすい濃緑色のドラム缶の中に閉じ込められていたせいで、正確な時間はちょっと私の知識ではわかりかねますな」

 と、そこまで聞いたところで深見は妙なことに思い至り、気づけば被せるように声を漏らしていた。

「おいおいおい、ちょっと待ってくれ」

 二人の視線が、深見に突き刺さる。

「死亡推定時刻は十二時頃なのに、雨が降り始めたのは十時半って、どう考えても矛盾してないか?」

「とすれば、どちらかが間違っているのでしょうね」と、冷泉は淡々と呟き、龍川医師に向き直る。「殺害現場はどこでしょうか」

「室内にこれだけの血液が飛び散っていることから、この一階の部屋の中でしょうな。切断面を見るに、鈍器で気絶させた後、鋭利な刃物で腕を一振りと言った具合でしょう。おそらく斧か、鉈か。それが致命傷となったのでしょう。そして死後に、首を落とされたという順でしょうな。後頭部にハンマーのようなもので殴られた痕もありましたよ」

「生きているうちに腕を切断されたと?」

 冷泉の問いに、龍川は眉根を寄せて顎を引いた。

「惨い話ですが、冷泉くんの言う通りでしょうな。死後切断された場合、ここまで血が出ることはまずないでしょうから。逆に生きているうちに首を切断された場合、もっと勢いよく血液は噴き出します。それこそ、静さんのときのように。ですから、水谷さんの死因は腕を切断されたことによるショック死じゃないかと思った次第です」

 そこまでを、静かに手帳に書き留めていた深見が顔を起こし、総括する。

「では、犯人はこの部屋で水谷さんを気絶させて腕を切断。水谷さんが絶命した後、続いて頭部を切断し、腕だけを残して部屋を出た。それから庭に胴体を体育座りさせてドラム缶で蓋をし、上に首を乗せて立ち去ったと。そのすべてを雨が降り始める前、つまりは十時半より前に完遂している、ということですよね」

 そうすると、龍川医師は一旦顔を曇らせて唸った。

「いえ、十時半前に殺されていたとはちょっと思えませんな。状況――その、足跡ですか――を信じれば十時半前の犯行となるのでしょうが、血液の凝固具合を見る限り十二時前後に殺害されたようにしか見えません」

 龍川からの異議の声に、深見は再度メモに視線を落として顎を撫でた。

「となると状況、足跡を正とすれば十時半よりも前。検視、血液の具合を正とすれば十二時前後の犯行となるのですね」

「噛み合いませんね。何かが間違っていることだけは確かです。いずれか、あるいはその両方が犯人による攪乱でしょう」

 冷泉の呟きに、龍川医師は一つ頷きを返して立ち上がった。

「それでは、現場を見てみましょうか」

 雨に濡れた地面が日光に炙られ、湿った空気が蒸発してムシムシとし始めた。屋敷の正面に回ったところで、朱野邸から歩いてくる透が見えた。遅いと思ったら、自宅に寄って水谷が殺害された旨を伝えるついでに、どうやら汚れたズボンを着替えてきたらしい。遅れてきた透も合流して、一階の殺害現場を見る運びとなった。

 武藤邸はおよそ直方体の形をした三階建ての建物である。

 玄関は西向きに作られており、したがって遺体のあった裏側の庭は東向きになる。玄関から入ってすぐ右手、すなわち南側に階段があり、上り下りの手段はその階段のみである。各階ともに玄関の真上、すなわち建物の西側に一本廊下が通っており、東側に部屋があるというシンプルな構造になっていた。

 白い手袋に手指を包んだ龍川医師が、殺害現場となった玄関左手の部屋の扉に手を掛ける。しかし、すぐに固まったままのノブに阻まれた。

「か、鍵が閉まっているですと」

 裏返った老医師の声を受け、一同の顔に動揺が走った。

「またも密室ってことでしょうか」

 冷泉が一歩後ろで扉を眺めながら言う。

「玄関の鍵は開いていたようだったな。診察から戻って家に着いたとき、武藤さんが鍵を取り出す様子はなかったから」

 透が思いついたように口を開いた。

「そうだ。それで朱野が施錠するように勧めたんだもの」

続けて深見が同調したのに、冷泉は首を傾げる。

「いつも開いたままなんです?」

 こんな事件などなくとも、玄関の鍵をかけるくらい当然のことではないのかと彼は言いたいのだろう。

 不思議そうな顔をする冷泉に、透が青白い顔を向けて答えた。

「ああ、冷泉くんは都心部の出身だったっけ。この村に限らず、地方では玄関の鍵をかけないなんて、そう珍しいことでもないんじゃないかな。夏場なんか、網戸のまま寝ることも日常茶飯事だよ」

「危なくないんですか?」

「ううん、こんなどんづまりの村だからなあ。泥棒なんて来ないとみんな無意識でたかをくくっているんだよ。ここら一帯で泥棒となると、だいぶ昔に一度龍川先生の診療所で盗難事件があったくらいじゃないかな」

「へえ。少し恐ろしいような気もしますが」

「そうだね。緩いと言えばそうなのかもしれない。それどころか、腕時計をしている人だってこの村では俺くらいのものだよ。なんというか、おおらかなんだろうね」

 冷泉は信じられないとばかりに目をぱちくりとさせた。

その様子を見て透は穏やかに、「事件直後で物騒だとはいえ、しみついた習慣はなかなか抜けないものなんだろうさ」と言うと、鍵をもらいに、三階の武藤の部屋へと足を飛ばした。





 鍵を受け取り、件の部屋の扉を開けると、お決まりのように濃厚な血の匂いに出迎えられる。そこは閑散とした十五畳ほどの洋室だった。窓際から部屋の中央部に向かって夥しい量の血が噴き出し、その中心に両腕がぞんざいに散らばっている。

「犯人はなぜ両腕だけを残して行ったんでしょうね」

 背中の向こう側で冷泉が呟くのを、深見は窓枠を探りながら聞いていた。龍川医師持参のカメラが奏でるシャッター音を遠くに、深見は注意深く窓を開閉させてみた。

 窓は完全に換気用らしく、十センチ程度まで開くと、それ以上は開かないように設計されていた。試しにその隙間から腕を伸ばしてみる。すると、ちょうど二の腕の途中でつっかえた。成人男性の頭が通らないことは言うまでもなく、赤子でも通り抜けることは不可能だろう。

 視線を下に転ずれば、そこにはドラム缶に乗せられた水谷の遺体がそのままにしてあり、殴られた後頭部の傷まではっきりと見える。深見はぶるりと背筋を震わせて、その場を後にした。

 三人が検分する間、透は部屋の中へは入らず放心したように入口で立ち尽くしていた。昨晩の妹に続いて、今度は執事までが殺されたのだ。その衝撃の大きさは計り知れない。

「犯人と遺体は、どのようにしてこの部屋から出たのだろう」

「これでは、人間の頭や胴体は通りそうにありませんね」

 深見と冷泉が窓際で唸っていると、龍川医師が顔を上げて額の汗を拭った。

「目が不自由になった霧子さんが誤って転落しないよう、ご両親が改築したのですよ。この屋敷の窓は、三階の霧子さんの私室を除いて、全て十五センチ以上は開かないようになっているはずです」

「一部屋だけ違うんですか?」

「ええ。もとは全室とも開かないようにしていたのですけれどね。布団が干せなくて不便だからと、あとから霧子さんが改修させたんですよ。窓を全開できるようにして、五センチ程度の縁をつけたようです。源一郎さんが木工は得意ですから、全部おひとりでやったみたいですよ」

 源一郎の名前が出たことで、無意識的に深見は透へと視線を向けたが、透は心ここにあらずといった様子で、廊下に背中を預けたまま、ぼんやりと宙を眺めていた。



 六



 検視が終わると、深見、透、冷泉の三人は、水谷の遺体を毛布に包んで朱野邸の地下に運び込んだ。それから、交代でシャワーを浴び、深見と冷泉は透の服を借りる。幸い三人とも大きな体格差がないため、問題なく借りることができた。そうした頃には、もう大時計の針は十五時を指していた。昼食を食いっぱぐれていたが、誰も空腹を訴える者はいない。透が出してくれた麦茶は冷たく、肉体労働後の身体に染み渡るようだったが、それと一緒に出された軽食に手を伸ばす者はいなかった。

やがて空間の重さに耐えられなくなったように、透が両手で顔を覆って力なく呻いた。

「しかし、なぜ水谷さんまで……」

 大時計の振り子の揺れる音が虚しく響く。

「無差別殺人なんでしょうか」

 冷泉が誰にともなく視線を左右に振った。

「わからない……ただ、誰でもよかったにしては、殺し方が凝っているし用意周到だ。少なくとも、行き当たりばったりの殺人には見えないな」

 深見が奥歯を噛みしめたところで、突然思い立ったように透が顔を上げた。

「そうだ深見、石像、『玄武の像』はどうなっているんだろう」

今度は深見が身体を揺らす番だった。「そうか……『玄武の像』はどこにある?」

 冷泉だけが取り残されたように、不可解そうな顔で二人を見比べる。そんなことはお構いなしと、まるで示し合わせたかのように成人二人は揃って立ち上がり、居間から外へと駆け出した。少し遅れて、頭に疑問符を浮かべながらも冷泉がそれに続いた。

 透の背中を目で確認しながら、深見は速度を落として冷泉の隣に並んで言った。

「昨日『朱雀の像』が壊されていた話はしただろう? 今朝、村の中心にある『四神像』も同じように壊されていたんだ」

 それを聞いた冷泉が、一瞬足を止めて目を剥いた。深見もそれにあわせて歩調を緩める。しかしすぐに、『朱雀の館』の裏手へと角を曲がった透に後れを取らないよう、慌てて二人で速度を上げた。

「それじゃあ……標的の範囲は朱野家から村全体に拡大したということでしょうか」

「素直に読み取れば、そういう犯人の意思表示に見えるよな。でも、水谷さんは朱野家の執事というだけで、厳密に言えば家人とは言えないと思わないか?」

 深見がそう言ったところで、透の声が届いてきた。

「やられた。『玄武の像』もだ」

 よく通る声を頼りに、二人は木工室を右に折れる。

『朱雀の館』のちょうど真裏に位置する山の麓には小川と呼ぶにはあまりに小ぶりな、湧き水の通り道が一本あった。普段は清水が流れているであろうそのほとりは、今は赤く染まり、蛇が巻き付いた黒い亀の像は無残にも真っ二つに砕かれていた。





 三人は重く口を閉ざしたまま、朱野邸の居間へと戻った。

そうしたところで、龍川医師が武藤霧子を連れて朱野邸へとやってきた。当初の予定では夕食前に透が迎えに行くことになっていたが、事件を受けて時間を早めることになったのだ。犯人も捕まっていないのに、殺人事件のあった屋敷に一人きりでいるなど、たとえ屈強な男であろうと危険であろう。ましてや女性においてはなおさらである。

「予定よりは早いですけれど、お世話になりますわ。あんなことがあった屋敷でしょう。一人でいるのは恐ろしくて」

 武藤霧子が肩を竦めるのに、透は快く頷き返した。

「僕からお誘いしたことですし、遠慮はご無用です。僕としても一緒にいていただけると心強いですから」

「ありがとう。ところで、ご主人と絹代さんはどちらに?」靴の泥を落とし終わった武藤霧子が、辺りを見回す仕草を取った。

「父と絹代さんは、崩落したトンネルをどうにかできないかと山へ向かったまま、まだ戻って来ていないようです。もう家を出て三時間になるのに。先ほど水谷さんが亡くなったことを伝えに一度家に寄ったときにも結局会えず仕舞いで。弟もまだ見つかっていないし……」と透は沈鬱そうに足元に視線を落とす。それから、気を取り直すように二度首を振って、気丈さを面に貼り付けた。「さあ、立ち話もなんですから、中へどうぞ……龍川先生も検分でお疲れのことでしょうし、お茶でもいかがですか」

 透に促されて落ち着いたその空間だったが、当然そこにあるはずの水谷の姿はもうない。そのことに、一同は改めてあの気立ての良い執事がもうこの世にいないのだという現実を突きつけられた。

 室内にどこか湿っぽい空気が立ち込める。そんな澱んだ空気に風穴を開けたのは冷泉の一言だった。

「それにしてもなぜ水谷さんは『玄武の館』で殺され、『玄武像』が壊されていたのでしょうね。見立てになっていないような気がするのですが」

 その言葉を受けて、目を剥いた龍川と武藤霧子に、深見はわかりやすく説明を加えた。それが終わりきるのを待って、冷泉は疑問を重ねた。

「水谷さんと『玄武の館』に何の関連性があったのでしょうか」

「『玄武』の見立てに水谷さんが使われる謂れがないと、そういうことだよな?」

 深見が言い換えるのに、冷泉は「ええ、おかしいと思いませんか?」と首肯した。

 辺りはしんと静まり返る。やがて、なんでもないというように、武藤霧子がくすりと笑いを零した。

「わたくしが犯人でしたら、理由がつくのではないかしらね」

 予想だにしなかったその言葉に、一同ぎょっと目を瞠り、発話者を凝視する。その刺激すらも舌の上で転がすかのように、武藤霧子は笑いを含んだ声で高らかに続けた。

「あら。だって、わたくしが犯人でしたら、『玄武』にまつわる被害者を用意しようがないじゃありませんか。自分を殺すわけにはいきませんもの、ねえ?」

 事も無げにそう言い放った武藤霧子の愉しげな相貌を、男たちは異星人にでも出くわしたかのように唖然と眺めた。

 ただ一人冷泉だけがその電波をとらえたようで、淡々と反応を示した。

「『玄武の館』の住人は武藤霧子さんおひとりですからね」

「ええ、そういうことです。でも、『玄武』だけ被害者がいないのでは不自然でしょう? ですから、それを誤魔化すためのカムフラージュとして『玄武』の被害者役に、どこの家にも属さない水谷さんを利用した、なんてことも考えられますわよね」

「一理ありますね」

「というより、あなた、最初からそう言いたかったんじゃないのかしら」武藤は冷泉に笑いかけた。

「滅相もない」

 しかし顔色一つ変える素振りのない冷泉の反応に、武藤霧子は大袈裟に肩を竦めてみせた。

 その場に過冷却状態の液体のような、張り詰めた空気が漂い始める。誰しもが見えない有刺鉄線を警戒するかのように一切の動きをやめ、部屋はしばし静寂に包まれた。

唯一、それすらも感じる余裕のない様子の龍川が血相を変えて、「その理屈ですと、各屋敷から最低一人ずつは犠牲者が出るということになるではありませんか。勘弁してくだされ、縁起でもない……」と唇を戦慄かせた。

頭を抱える老医師を前に、ようやく流れの把握と思考の整理が済んだらしい深見が、曇った表情で目頭を揉んだ。

「残酷なことを言うようですが、目を背けるわけにもいかないでしょう。……龍川先生、はっきり申し上げますと、犯人が村の象徴を破壊した以上、最悪そのような事態も考えられます。これはいたずらに恐怖心を煽っているのではありません。ですから、俺たちは一か所に集まるか、あるいは他人が信用できないのであれば、各自でしっかりと閉じこもるか、それしかありません。これからどうするのかは、各自でよく考えた方がいいと思いますよ」

 龍川は黙ったまま唇を噛んだ。

「こういった場合、固まる方が安全な気がしますが、相手が爆発物を持っているのが厄介ですね。一か所に集まると最悪全滅の可能性がありそうで」

 この冷泉の発言に、ますます場の空気が凍り付く。

「ずいぶんと恐怖を煽るようなことを言うのね」武藤霧子が目を細めて言った。

「煽っているように見えますか? 事態は深刻です。あらゆる可能性を想定して最善の選択を取らなければ命に関わりますよ」冷泉も負けじと、無感情に言い返す。

これにも、武藤霧子は「へえ」と小首を傾げて、余裕の表情を返して見せた。

「僕は外部の人間だからこんなことを言えるのかもしれませんが。犯人が複数の標的を亡き者にしたい場合、最悪纏めて皆殺しという手を取ってくる可能性もあると思うんです。正直いって、僕はそれが怖いです」

「巻き添えになりたくないと。自分さえ無事ならば、村の住人が殺されるのは厭わないと。そういうことかしら」

「前者は……まあ言葉を選ばなければ、そういうことになるんですかね。後者は解釈に悪意があるとしか思えません。これ以上誰も死なずに済むならば、それに越したことはないに決まっているでしょう」

龍川がハラハラと両手を宙に彷徨わせ、深見が「おいおい」と腰を浮かす。

それとほぼ同時に、「そこまでにしましょう」透がその場に待ったをかけた。「霧子さん、少し言い過ぎです。冷泉くん、霧子さんはご自身の家でああいうことが起きたものですから、少し神経質になっているんだと思う。申し訳ないけれど、矛を収めてはくれないか?」

「……そうね、透さんの言うとおりだわ」

武藤霧子は、にこりと唇を持ち上げると、優雅な所作でゆったりと上半身をソファの背もたれへと預けた。

「感情的になっているつもりはなかったのですが……やはり無神経だったかもしれませんね。申し訳ありません」冷泉は少し戸惑うような表情を滲ませた。

「うん、わかっているよ」透は宥めるように口元を緩めて見せた。

「なかなか話が纏まらないな」

深見ががりがりと頭を掻きながら、困窮した視線を透に向ける。

「俺は一か所に集まる方に賛成だけどな。ただ、冷泉くんの気持ちもわかるし、父や絹代さんがね。すんなり賛成してくれるかどうか」透は難しそうな顔で目元を抑えた。

「ううん、これじゃあ埒があかないな。じゃあ、今後のことはひとまず置くとして、とりあえずこれまでに起きたことを纏めてみませんか?」

 深見の言で、滞り始めた空気にすっと筋道ができる。その瞬間、龍川が何かを思い出したようで、あっと顔を持ち上げた。

「昨日はいろいろあったものですっかり言い忘れていましたがな。その」龍川は気まずそうに、透の顔をちらと窺い見た。「……し、静さんはどうやら殺害される前に喉を潰されていたようなのですよ」

「喉を、ですか?」

 深見の反芻に、龍川はちりめん皺の寄った顎をたぷりと引く。

「だから、助けを求めることもできなかったと思われます。非道なことをするものですよ」

 そのあまりに惨忍な呟きを受けて、顔を覆った両の掌の向こうで、透が息を詰めたのが聞こえてきた。

「そういえば透さん。今日の水谷さん殺しについて、一つ確認したいのですが」

 冷泉の声を受けて、透はようやく手を下ろして色の冴えない面を上げる。

「なんだい」

「武藤さんの家へ着いたのは何時頃でした?」

「……九時四十五分くらいかな。龍川先生のお宅に着いたのが十時少し前くらいだったから。でしたよね? 先生」

「ああ。間違いないですよ。呼び鈴が鳴ったとき、居間の時計が九時五十五分過ぎを指しているのを見ましたから」

 冷泉は一つ頷き、視線を龍川から透に戻した。

「それから透さんは直接朱野邸に戻られたわけですね」

「そうだね。家に着いたのは十時十分頃だったのかな。家についてからは、廊下の窓の鍵がきちんと閉まっているか気になって点検してまわったんだ。その時ちょうど、弟を捜索している父に会ったよ」

 冷泉の質疑をもとに、深見は例の手帳にメモを取った。

 次に冷泉は先ほどのいざこざなど何もなかったかのように、ごく自然な流れで武藤霧子の方へ顔を向けた。

「武藤さんは、透さんが迎えに来るまではどちらに?」

 武藤霧子も特段引きずった様子なく、淡々と質疑に応じる。

「わたくしは朝八時頃に目が覚めてからしばらく自室で過ごしていました。それから、九時過ぎに一階へ降りて、居間でぼんやりしていましたわ。そしたらいつものように透さんが来てくださって一緒に家を出ました」

「玄関の鍵は?」

「夜の間は閉めていて、一階へ降りたときに開けましたわね。ご存知かもしれないけれど、わたくしの家の窓は、大きく開かなくなっているので、窓の鍵はいつも開けっ放しですわ」

「なるほど、ありがとうございます。透さんの話とも一致します。武藤さんと、それから透さんも、その間に不審な人物や物音には気づきませんでしたか?」

 透は長い指を顎に当てて宙をじっと眺めてううん、と唸った。

「気づいたら叫ぶなりなんなりしただろうし、特に何も。各部屋を覗いたわけじゃないから人が隠れていたかどうかまではわからないけど、殺害現場になった部屋も傍を通った時には何も気づかなかった」

「わたくしも、普通に一階は行き来していたはずですけど、何も」

 二人は異口同音にそう答えた。

「いつも窓そのものは開いた状態にしてあるんですか?」冷泉は上目遣いに二人へ視線を配った。

「ええ。換気のために、大雨の時以外は開けていますわ。普段使わない部屋は空気が滞りがちですから」

武藤霧子の返答に一つ頷き、冷泉は透へと視線を移した。「では透さん、最後に水谷さんを見かけたのは?」

「ええっと、朝から一緒に土蔵の鍵を開けたり弟を捜したりしていて、その途中で俺が武藤さんを迎えに出るからって別れたんだ。それが最後だったな。だから……そうだな、家を出たのと同じ九時四十分頃だな」

「では、状況を正とした場合には水谷さんは九時四十分から十時半の間に殺害されたということになりますかね」

「そうなるのかな」透が沈痛な面持ちで、組んだ指に視線を落とした。

「ただなぁ、問題は死亡推定時刻なんだよな」深見が髭の薄い顎を親指で撫でた。

 龍川が、唇は閉じたままでたぷりと首肯した。

深見は虚空を睨んだ。「死亡推定時刻が正しいとなると、犯人は雨が降りはじめた後に、足跡を残さずに水谷さんの遺体を庭に座らせ、ドラム缶を被せて、首をその上に置いたということになる。これは殺害現場の窓さえ開けば可能だが、十五センチと開かない以上、室内に立ち窓を通して胴体と頭を外に移すって方法は取れないんだよなあ……」と、最後は親指で自らの下唇を潰して黙り込んだ。

「ちょうどドラム缶の真上にあたる三階の武藤さんの私室の窓は、十五センチ以上開くんですよね? そこから遺体を吊り下げておろした、というのはどうでしょうか」

 冷泉の思い付きを受けて、武藤霧子が眉を顰めた。

深見はそれをちらと確認して、やや表情に躊躇いを滲ませる。自然と声のトーンが下がった。「血を滴らせずに遺体を運ぶことができるのであれば、その方法も可能なのかな。しかし、一つ大きな問題がある」

「密室状況ですよね」冷泉は項垂れて、固まった肩を解すように吐息をついた。

そう、殺害現場となった部屋は密室だった。

「武藤さんは、家の鍵束ごと持って病院に行かれたんですか? 玄関の鍵を持っていたのは確認できましたが、それ以外の鍵は」

 深見の問いに、武藤霧子は柔和に肯き返した。

「ええ。鍵を分けると探すのが大変だから、全て同じキーホルダーにつけています」

「殺害現場となった部屋の鍵は、いつも閉まっているんです?」

 これにも武藤は肯き、「誤って半開きになった扉にぶつかるのも煩わしいですので、使わない部屋の出入口は鍵を閉めていましたわね。先ほども申しましたとおり、窓の方の鍵は開けっ放しですけれど。十五センチより開かない以上は泥棒さんも出入りできませんからね」悪戯そうに口元を綻ばせた。

 深見は折り曲げた人差し指の第二関節で、顎をぐりぐりと指圧する。

「じゃあ、仮に血を滴らせずに三階から下まで遺体を下ろす方法があったとしても、殺害現場の部屋の鍵を閉めたままで、遺体ごと犯人が通り抜ける方法が必要だということだ」

 議論はそこで暗礁に乗り上げてしまった。

「アリバイの方はどうなんでしょう?」降りた沈黙のヴェールを剥ぎとるべく、冷泉が視線を上げた。「先ほど透さんと武藤さんには聞きましたが、他のみなさんは、九時半から十二時までの間、どのように過ごしていましたか?」

 その問いに、それまで難しそうな顔で頬を弄り回していた深見が、面を上げて口火を切った。

「特に九時四十分から十時半と、十二時前後は何をしていたか、だよな。俺から答えるけど、九時四十分は朝食を食べ終わって姉さんと話していたかな。それから、雨戸を閉めてまわっていたらしい瑞樹と冷泉くんが二階から降りてきて、俺は席を立って部屋へと戻り、瑞樹はシャワーを浴びに浴室に向かったんだよな」

「ええ、間違いありません」これには冷泉が同意を示す。「深見さんが仰るように、僕は龍川先生と小夜さんが白峰邸を出られた後、九時頃から防犯のために雨戸を閉めてまわっていました。瑞樹も一緒だったのでアリバイがありますね」

深見はひとしきりメモを取った後、手帳から顔を上げた。「えっとどこまで話したっけ。部屋に戻った後か。うん、十時頃だな。離れに戻って出かける準備をしていた。んで、十一時前には白峰邸を出て朱野の家に行った、と。そこからは朱野と一緒だったよな」

「ああ。間違いないよ」深見の視線を受け、透は首肯した。「ちなみに俺はさっき言ったことと一部重複するけれど、朝八時頃に目を覚まして、水谷さんと土蔵の鍵開けをしたり、裏の鶏小屋に餌をあげたり、それから弟を捜してまわったりしていた。九時四十分頃に家を出て武藤さんを迎えに行って、龍川先生のところへ行って、そのまま家に帰って来たよ。それから廊下の窓を確認している最中、十時半くらいに父と会った。そしてほどなくして深見が家に尋ねてきて……あとはずっと一緒だったね」

 二人の供述を受けて、冷泉はそれぞれに頷き返した。

「ありがとうございます。でしたら深見さんと透さんには両方ともアリバイがありますよね。ちなみに僕は正午頃、透さんが小夜さんを連れて来るまでは、瑞樹と琴乃さんと一緒にいました。瑞樹は一度シャワーのため九時五十分頃から三十分ほど席を外していますが、その後の瑞樹と琴乃さんのアリバイは証明できます」

 これで武藤霧子、深見、透、冷泉、琴乃のアリバイが証明されることとなった。

 深見はそれぞれを手帳に記録し、残る一人へと視線を上げる。龍川医師は、待ち構えていたように白い髭の毛先から覗く、かさついた唇を開いた。

「私と小夜は、白峰さんのお宅に昨晩泊めてもらったのですがね。昨日の今日だったもので、いつもよりもだいぶ朝寝坊でございましたな。七時頃に起きて冷泉くんや瑞樹くんと一緒に朝食をごちそうになって、朝の九時前にはおいとましました。それから、小夜と一緒に居間で話をしておりましたところ、十時に呼び鈴が鳴り、そこから十二時までは霧子さんに治療を施しておりました」

 深見は出来上がった一覧表を眺めて低く唸った。

「なるほどなあ……」

 この部屋にいない源一郎と絹代、小夜と瑞樹を除いた全員にアリバイが成立していた。

「残すは源一郎さんと絹代さんのアリバイ聴取だな。それ以外だと、瑞樹がシャワーでの離席に見せかけて犯行を行った可能性と、小夜ちゃんが龍川先生の診察の間に家を抜け出して凶行に及んだ可能性は一応残っている。それと……武藤さんが、朱野が来る前に事を済ませていたというケースは……無理か。朱野が九時四十分まで水谷さんと行動を共にしている以上は無理がある。あとは姿の見えない弟さんか、白峰秀一さん犯人説しか残されていないことになるなあ……どうしたものか……」

 深見はふうむ、と手帳から顔を上げてペンの後ろで首筋を掻いた。

深見の独り言が一段落するのを待って、「もう一つ質問なのですがいいでしょうか」と冷泉が小さく手を挙げた。「この村にテレビは朱野邸と白峰邸にしかないのですか?」

「そのはずですよ」

「わたくしは、ラジオの方を愛用していますから」

 龍川と武藤霧子が続けざまに返事をした。

「けれど、それがどうかしたの?」

「いえ、ふと気になったものですから」というと、冷泉は再びむっつりと思考の世界に帰ってしまった。

 しばらくして、沈黙を破るように透がすっと立ち上がった。

「状況の整理はもう大丈夫かな。俺はひとまず、水谷さんの部屋に行ってみようと思う。彼がこの家のマスターキーを管理していたから、それだけでももらいに行かなければ」

 透は沈痛そうに眉根を寄せた。深見が小さく挙手をする。

「俺もついて行っていいかな」

 その申し出に冷泉も便乗し、三人で水谷の私室へと向かうことになった。





 セメント作りの狭い西階段とは違い、中央階段はよく磨かれ年季の入った木の手すりや、壁の絵画にアンティークな間接照明なども相まって全体的に豪奢な造りになっていた。前日に一度通った深見であっても、改めて下から眺めればこんな非常事態にも関わらず、ついついため息が漏れそうになるものである。初めてお目にかかる冷泉であれば、その感慨もひとしおだろう。そう思って隣を窺い見た深見だったが、予想に反して冷泉は特に何か思うふうでもなく、ただ淡々と辺りを観察しているような様子だった。

 そんな二人の客人に、透は説明を始めた。

「一階は、中央階段を挟んで東側に父と絹代さんの部屋があって、西側に居間がある。二階の東側は妹の部屋。間に父のコレクションルームがあって、西側が俺の部屋。三階の東側には水谷さんの部屋があって、それ以外は全て空き部屋になっているよ。ちなみに、祖父が生きている間は、一階の東の角部屋を使っていたんだ。今は空き部屋になっているよ」

 三階にさしかかった辺りで一気に体感温度が上昇する。明るく豪奢な装いの二階までとは違い、そこから先はほんの少しだけ簡素な印象を受けた。おそらく、壁紙の色が違うのと間接照明がないせいだろう。聞くところによれば、三階は代々執事や女中の居室だったとのことで、かつては屋根裏同然だったところを昨年透が改装したらしかった。

「そっか。朱野、建築学専攻だったもんな。すげえな」

「そんなたいしたものじゃないけどね。父の大工趣味のおかげで、幸い道具も揃っていたから」

 そこで深見は、源一郎が武藤邸の窓を改装したという話を思い出す。およそ似ているところのないように見える朱野父子だが、手先の器用さは似ているのかもしれない。

 廊下を東側に突き当たったところで、透は右手の扉のノブに手を掛けた。

 使用人の部屋には鍵がかからないらしく、扉は仰々しく古めかしい音を立てたものの難なく開いた。

 入ってまずむわりとした熱気に出迎えられた。見上げたところ、板一枚隔てればそこはもう屋外といったふうである。夏の日差しに温められた部屋は、雨上がりの湿気も相まってちょっとした温室のようだった。天井は屋根に従い斜めになっている。右手に簡素なベッドがあり、突き当たりには出窓が、そして奥の壁に向かう形で簡素な書き物机と、その左に木製の本棚があった。

 透は、迷わず書き物机へ向かうと、躊躇いがちに引き出しを開けてみる。机は綺麗に整頓されており、一番上の引き出しの缶の中に、屋敷のマスターキーが置いてあった。

「マスターキーは、この一束だけ?」

 深見が覗き込むようにして声を掛けると、「いや、これと父が持つのが一束あるよ」と透はその鍵束をポロシャツの胸ポケットへと滑らせた。

 その間、冷泉は本棚をじっと眺めていた。深見はその隣に移動すると、本棚から一冊手に取ってみる。厚さ三センチはあるかという分厚い冊子であった。表紙をめくると『執事記録〈一〉』との表題がある。どうやら、水谷が克明に記録している日誌のようだった。こういうところからも、故人のマメな性格が窺い知れる。

 何か事件の動機の切れ端でも出てこないものかと、深見はその日誌をめくってみることにした。

 深見が手に取ったものは、その番号が示す通り、水谷が屋敷にきてすぐのところから記録が始まっていた。どうやら水谷家とは、代々朱野家に仕える家系だったようである。亡くなった水谷執事も十八の頃から住み込みで働いているらしかった。

 一方、冷泉は机の一番下の引き出しから出てきた、同じ黒表紙の冊子を食い入るように読んでいた。

そんな言葉を忘れた二人を透は順に眺め、腕時計へ視線を落として言った。

「地下の氷を変えてくるけど、二人はどうする?」

 声に弾かれるように、二対の目が持ち上がる。

一瞬互いの動向を窺うような間を経て、冷泉が先に唇を開いた。「僕はもう少し、日誌を拝見していてもよろしいでしょうか」

 その申し出に、透は一瞬考え込んだ後、再び視線を上げて答えた。

「そうだね……冷泉くんも、深見も。事件究明の鍵を探っているのはわかるけれど、故人のプライベートを探るようなことはほどほどにね」

 透の言葉に、冷泉はこっくりと深く頷き礼を述べた。

一方の深見は少し考えたのち「んじゃあ、俺は手伝うよ」と、『執事記録〈一〉』を棚に戻して透の背中を追いかけた。



 七



 透と深見の気配が遠ざかる。それを背に、出入口の扉は開け広げたままで、冷泉は出窓を少し開けた。これで風の吹き抜ける道ができた。東北の夏の風が、心地よく頬を撫でていく。

 足音が階下へと消えたのを耳に、書き物机の椅子に腰を下ろして手元に視線を戻した。

 その冊子の表題には『執事記録〈二〉』とあった。記録はかすみの妊娠から始まっていた。命が育っていくその様子が、一日一日と鮮明に綴ってあり、水谷がかすみ本人と、かすみの腹の中の命をいかに大事に思っていたかが冊子中から噎せ返らんばかりに香り立っていた。

 また、それから遅れること数か月、何やら武藤霧子も後を追うように妊娠したとのことで、こちらは簡素なメモ書き程度の記録があった。おや、と思い頁を手繰る。武藤霧子が

結婚していたという話は聞いたことがない。そこからいくら捲れど、胎児の父親についての記載は一切なかった。それどころか、武藤霧子の妊娠の話題はそれ以降触れられてすらいない。かすみについては、一日もこぼすことなく触れられているのに対し、あまりに極端な印象を受けたが、水谷は朱野家の執事であって武藤家の執事ではない。となれば、特段おかしなことでもないのかと冷泉は先に読み進めた。

 日付が一九**年の五月に差し掛かると、いよいよかすみの出産も間近とあって、水谷の喜びのボルテージも頂点に近いことが見て取れる。しかし冷泉としては、ここから先の悲劇を知っているだけに、なんともやるせない思いに胸を突かれた。

 双子の誕生とかすみの死が重なった辺りの頁については、インクは滲み、紙面も一度ふやけたものが乾いたようにぱりぱりと固まっていた。それらは執事の絶望の深さと、また記録して以降一度もその頁が読み返されていないという事実を雄弁に伝えてくるものだった。

 その中に気になる記述を見つけて、冷泉の頁を捲る手が止まる。

『奥様は絶望の運命の待つ我が子に命を繋ぎ、唯一の望みを与えた……』

 事務的な記述が多い中、その一文だけが異様に浮かび上がっている。まるで詩の一節のようだ。冷泉はその文を目に焼き付けるように、凝視したのち、再び頁を先へ進める。

記録がようやく平常運転を取り戻しかけた頃、脳天を貫くような一節が現れた。

あまりの驚愕から、冷泉は思わず取り落としそうになる冊子を握り直し、紙面にかぶりつく。



――一九**年、九月**日。雨。武藤霧子さん出産。龍川医師、五藤村の助産婦、佐藤百合子女史立ち合いのもと、元気な男児誕生。

 旦那様、若旦那様より嬰児殺害の指示。霧子さんには死産の旨を伝え、医師、助産婦には口止め料を支払う。医師は固辞。半ば押し付ける形。

 盥の中に嬰児を置き、いざ踏みつぶす段階で殺せなかった私と龍川医師である。布に包み、真夜中に山を幾つか越えた七ツ森町まで車を走らせる。籠に乗せ、龍川医師が受け取った口止め料を添えて、福祉施設の前に置き去りにした。

 名は、陽介と命名。



 最後まで読み進めて、いよいよ冷泉の衝撃が頂点に達する。

 呼吸をするのも忘れて呆然と宙を見つめた。

 果たしてこんな偶然があるものだろうか。深見のことを、琴乃は何度もヨウスケと呼んでいた。そうだ、怪文書の宛名にあった漢字表記も陽介と相違ない。朱野透と深見陽介は大学の同窓生であり同い年、となると――冷泉の脳内にいる連想遊戯の得意な小人が水を得た魚のように仕事を進めだす。そうだ、琴乃が言っていたではないか。深見家は六山市の名士の家系であり、亡くなった琴乃の祖父は瑞樹に弟ができた暁には、深見家の養子として迎える心づもりだったのだと。その理由が、深見陽介の出自にあったのなら……? 事実深見家の姉の琴乃と深見陽介は、かなりの年の差がある。とすれば、跡継ぎに恵まれなかった深見家が養子を取ったとしてもおかしくはない……。

 深見陽介を、武藤霧子の息子である陽介と同一人物であると仮定したところ、現状では特に否定要素たるものもなく、すんなり筋が通るようだった。しかし、同一人物ではないと仮定した際の否定要素があるわけでもない。つまり、そうかもしれないし、全くの偶然かもしれないという域をでるものではなかったが、この奇妙な事件の最中においては、見過ごせるほどの些事とも思えなかった。

いまや冷泉の心臓は早鐘のように忙しなく脈打ち、身体は沸騰するように熱かった。しかし、一方で頭の隅はしんと冷え、仮説を検証しようと記憶の隅という隅まで小人が忙しなく駆け回っているのだった。

 そのとき、遠くから何かすたすたと物音がした。すぐに足音が近づいてきているのだと気づき、冷泉は慌てて日誌を元の引き出しの底へと戻す。そうしたところで、足音の主が廊下から姿を現した。



 八



 直立で入口を見つめたまま、何度も瞬きを繰り返す冷泉の様子を受け、深見は不思議そうに目を丸くした。

「何かあったのか?」

「……いえ」

 彼らしくもなく、冷泉が声をうわずらせて口籠るのを受け、深見は首を傾げた。

「顔色が良くないぞ? ここ屋根裏だけあって、暑いからな」

 と、顔を覗き込んでくる深見の視線から逃れるように、冷泉は一歩後ずさって目を瞬かせ、たどたどしく言葉を紡ぐ。

「改めて亡くなった方の部屋だと思うと、いけないことをしている気になってきて。そんなときに背後から音がしたものだから、少しびっくりしてしまって」

舌が何度も躓いた。

「なるほどな。それは確かに怖いけれど、少し意外だな」

 普段よりワントーン高く滑ったその説明に微笑ましさでも感じたのか、深見は表情を緩めると、感慨深げに主のいなくなった室内をぐるりと見回した。

 その横顔に冷泉は問いかける。

「透さんは?」

「ああ、もう来ると思う。親父さんと絹代さんが帰って来たもんで、龍川先生と顛末を説明していたんだ。水谷さんまで殺されたとなると、やっぱりものすごく驚いていたよ」

 そうしたところで、透がかなり疲れた様子で部屋に入って来た。

「何かあったかい?」

 その言葉に冷泉は内心どきりとした。しかし、何かを気取られた様子はなく、透はそのまま部屋を横切りクローゼットの中を覗き込んだ。中には、さほど多くはない衣服が整然と吊り下がっていた。

「水谷さんは身寄りがないから、遺品のことも考えなくちゃならないね」

 透が寂しそうにそう零して扉を閉めようとしたちょうどそのとき、内棚から白いものがはらはらと零れ落ちた。写真だ。写真は二枚あった。

「これは……」

 冷泉は足元に滑り落ちてきた厚紙を拾い上げる。一枚は若い女性のものだった。良く似合う和服に身を包み、小首を傾げてはにかんでいる。画質から少し古いもののように見えるが、どうやら背景はこの屋敷の居間のようだった。裏返したところ『かすみさん 一九**年六月』と、二十五年前の日付がある。

 深見はこの女性を一度目にしたことがあった。

「かすみさんって」

「うん、母だね」

 問うた深見の方は見ず、亡母を瞳に映したまま透は一つ肯いた。

 もう一枚は、子供用のスーツに蝶ネクタイを締めた三、四歳の黒髪の少年、――朱野透のものだった。どことなく面影があるため、こちらはすぐにわかる。この年頃の子供にしては、ずいぶんと利発そうな顔をしていた。

「どうして水谷さんのクローゼットから……」深見が首を傾げた。

 そんな二人を横目に、冷泉は本棚から日誌のうち一冊を手に取り、ぱらぱらとめくりはじめる。表題には『執事記録〈三〉』とあった。しばらくぱらぱらと捲っていた冷泉だが、やがてその手がある一つの頁で止まる。

その頁だけ、明らかにこれまでの記録の流れとは毛色が違っていた。

「一九**年――八年前の日付ですね」突如として一文を声に出した冷泉に、透が顔を上げた。深見も写真を片手に黒目を持ち上げる。冷泉は流麗な文字列を目で辿った。「三月二十*日、牢、屋敷周辺、村の中全て捜索済。手がかりはなし……何があったのでしょうか。透さん、何かお心当たりはないですか?」

 冷泉に視線で問われ、透は首を傾げて同じ頁を覗き込んだ。「なんだろう……一九**年と言ったら、ちょうど高校に上がる時分か」

長い人差し指で指し示しながら、冷泉は続けて記述を読み上げる。「八月**日、迎えに出向く。これは?」

「牢……捜索……迎え……あ!」透は弾かれたように顔を上げ、冷泉の横顔に瞠った目を向けた。「あった。弟が行方不明になったって電話が東京の下宿先にかかってきたよ。そうそう、あれはちょうど高校に入学してすぐだった」

「それで?」

「うん、『八月**日、迎えに出向く』これだね。そうそう、夏だった。遠くで見つかって迎えに行ったって電話が、確かに父からあったよ。父さんなら詳しいことを知っているはずだよ」





 透の提案から、三人は〈三〉と振られた日誌を携えて居間へと降りた。応接ソファには龍川医師と武藤霧子、源一郎が向かい合って座っていた。

「源一郎さん。水谷さんの私室から出てきたこの日誌の文章に何か思い当たることはありませんか?」

 突き刺すような深見の視線を受け、源一郎は明らかな動揺を示した。絹代は私室へ戻った後らしく姿は見えなかった。

 源一郎は、「あやつめ、最後に余計なものを」などと、しばらく口の内で何かぶつぶつ言った後、濃い溜息を零して徐に口を開いた。「ああ、ちょうど透が高校に上がる頃の話だ。穢がしばらく行方不明になったことがあった。それを指しているのだろう」

「それを知る人物は?」

 前のめりに差し込まれる深見の問いに、源一郎は一拍挟んで地を這うような声を出す。どう答えたものか迷っているのだろう。

「私と水谷と静、それに透にも電話で連絡を入れたから、その四人だ」

「警察には届け出なかったのですか?」

 この深見の質問に、源一郎は何を馬鹿なことをとでも言うように、目をぱちくりとさせて胸を反らした。

「届ける必要があるものか。奴が誰に連れ去られようが、どこで死のうが、我が家には関係のない話だ。呪いを撒き散らさねばそれでよいのだから」

 その場で話を聞いていたすべての者の顔が軽蔑の色に染まる。その軽蔑の意味を勘違いしたのか、源一郎はスイッチが入ったように慌てて声を荒げた。

「隠していたわけじゃないぞ! 穢の呪いが家の外に降りかかったなどということもなかった。穢が行方不明になっている間に村で事件や事故は起きていないのだから、それでいいだろう!」

見当違いな弁解を、額に血管を浮かせ唾を飛ばしながらまくし立てる家主の声が、蒸し暑い居間に空しく響く。

父の醜態を冷たく眺める透の蔑んだ目がひどく印象的だった。深見はそこから視線を引きはがして何度か目を瞬かせると、源一郎に向き直り、気を取り直すように小さく息を吸い込んだ。

「では、この『迎えに出向く』と記載のある日が、弟さんが見つかった日で間違いないですか?」

「日付などはっきりと覚えとらんが、夏だったのは間違いない。だいたいそのくらいだっただろう。あの日は、一本の電話があって水谷が車で迎えにいったんだ。何やら穢がY県の山奥で見つかったと現地の人から連絡を受けたとかで、水谷が二日間ほど家を空けて迎えにいったんだ」

「Y県ですか。地元の方が保護してくれていたのでしょうか」

「水谷の話ではそんなふうだったと記憶している」

 深見はふうむ、と顎に拳をあてた。

「その人たちは、警察には届け出なかったのでしょうか。弟さんの身元はどこでわかったのでしょう。衣服に連絡先のわかるタグか何かをつけていましたか?」その問いから逃れるように、源一郎が目を逸らしたのを、深見は見逃さなかった。「身元の分かるものを所持しているか、口頭で説明するかしか方法はありませんよね。弟さんへの教育はどの程度施されていたのですか」

 畳みかけられて、源一郎は大きな鼻息を漏らしてそっぽを向いた。

「知らん。奴の世話は全部水谷に任せておったからな。百合子が生きているうちは百合子が甲斐甲斐しく世話しておったし。だから、私は奴のことなどほとんど知らんのだ」

源一郎は、まるでふてくされた子供のように、つんと顎を上げて吐き捨てた。

そんな父親をしばらく温度のない視線で眺めていた透だったが、やがて深見に向き直り冷たく言った。「教育なんて一切ないよ。俺や世話人との会話程度だ。一生外へ出すつもりなんてなかったんだろうから、タグもつけてはいなかったんじゃないかな」

なるほど、確かに封印するとはそういうものだ。深見は握りこぶしで顎を潰した。「だとしたら……地元の人は、どうやって弟さんの身元と連絡先を知ることができたのだろう。家出した張本人が口を割ったのかな」

 深見が考え込むのを確認して、冷泉が質問を挟んだ。「弟さんの様子はどうだったんですか? 日誌によれば、発見まで約五か月かかっています。その間行方不明だったのならば、かなり衰弱していたのではないですか?」

 これにも、源一郎は開き直って大声でまくし立てた。

「元々、魂の抜殻のような出来損ないだったからな! 多少は痩せとったのかもしれんが、現地の人だか水谷だか知らんが家に帰ってきたときには綺麗に洗われた状態だったし、まぁよう覚えとらん。いずれにせよ、今回は穢が脱走などしたせいで、村に災厄が降りかかっておるのだ。四神様がお怒りなのだ! ああ、恐ろしい! 一刻も早く捕まえて牢にぶち込まねばならん! ほんに一族の恥さらしめが」

 これ以上は何を訊いても無駄だという空気が辺りを支配し、自然と苦々しい沈黙が落ちた。透などは呆れ果てたように窓の外に視線を投げていた。

「ところで」深見が気を取り直すように、その場にぐるりと視線を撒いた。「これから皆さんはどうしますか? 特に、龍川先生と冷泉くん」

 視線を受け、龍川は困ったように、組んだ両手に視線を落とした。

 龍川の話す気配がないのを横目で確認して、冷泉は躊躇いがちに唇を開いた。「僕個人としては、先ほど言ったように一か所に集まるのも少し不安ではあります。まあ、いずれにせよ琴乃さんと瑞樹の意見も聞かなければなりませんし、一旦白峰邸に戻りますよ。深見さんはどうしますか?」

「俺もそうするよ。荷物も何も持ってきていないしな」

 冷泉と深見のやり取りを控えめに目で追ってから、ようやく龍川は舌を覗かせた。

「そうですね、私も小夜と話をしてみます。二人きりでいるのも不安ですが、夜に外を移動するというのも恐ろしいようで。正直何が正解で、誰を信じて良いのか、皆目見当もつきませんが……」薄くなった額を撫でまわした。

「確かにそうだ。龍川先生の仰るように、夜間の移動は危険かもしれませんね。夜襲された朱野の例もありますし」深見はちらりと透を見遣る。

透は苦い顔で曖昧に視線を下げた。

それらをひとしきりじっと観察していた冷泉が徐に眼鏡をはずした。そして、山裾から微かに漏れる夕日に眼鏡のレンズを透かした。

「集まるとしたら『朱雀の館』に、でよろしいのでしょうか」どうやら汚れが気になるらしい。それがレンズに対する抵抗なのか、はたまた服を貸してくれた透への気遣いなのかは不明だが、シャツの裾で拭かないあたりが、いかにも几帳面そうな冷泉らしいなあ、などと深見は思った。

「私は構わないが」源一郎が尊大に言った。

「ご主人がそう言ってくださるのならば、それが一番じゃないかな。武藤さんと絹代さんもそれがいいでしょうし」

深見が視線を送ると、武藤霧子は唇を弓状に持ち上げた。肯定の意だろう。

それを確認して冷泉が言った。「一つ提案があります」眼鏡は元の位置に戻っていた。「あまり遅くなるとご主人や透さんにも迷惑がかかります。施錠して休むこともできないでしょうからね。ですから、リミットを決めませんか? 透さん、八時くらいまででしたら大丈夫でしょうか」冷泉は、源一郎の顔を一応は立てながらも、実質門番をすることになるであろう透に向かって尋ねた。

「ああ。もう少し遅く……そうだな、十一時くらいまでだったら、来客にも対応できるようにしておくけど、八時でいいの?」

「いえ、あまり遅いと……」冷泉がちらりと深見を見遣る。

深見も、冷泉の意図を察したようで一つ頷きを返して口を開いた。「ああ、朱野の気持ちはありがたいが、十一時は流石に危険だろう。それこそ遠距離から狙われたらなすすべもない」深見は、山で夜襲されたことを引きずっているらしかった。

「狙い撃ちされたら一撃だもんな」これには、透も眉根を寄せて同意を示す。右掌に包まれた左腕には、今も山で射られた裂傷があることだろう。

 透の賛同を得たことで思いが増したようで、深見は語気を強めて提案した。

「だから、完全に日が沈む六時半以前に朱野家への移動を済ませるか、あるいは間に合わない場合、それ以降は下手に動かない方がいいと思うんだ。――そうしませんか?」

 これに逡巡していた龍川が賛同し、元から一か所に集まることに難色を示していた冷泉も反対を示さなかったことで、なし崩し的に方針が決まった。

 そこでちょうど大時計の鐘が五つ鳴ったのを区切りに、深見と冷泉、龍川医師は揃って『朱雀の館』をあとにした。



 九



 湯上りの湿った髪を指で弄りながら、冷泉誠人は深見から聞いた話を反芻していた。

『朱雀の館』からの帰り道、深見は源一郎と交わしたやり取りについて話してくれた。冷泉が一人で水谷の日誌を読み、透が地下の氷の入れ替えを行っている間に、トンネルから帰って来たばかりの源一郎と居間で幾つか話をしたらしい。

深見の話に虚偽や記憶違いがあれば、ともに話を聞いていたという龍川の訂正が入っただろう。従って、冷泉はその話をおよそ信用するに足る情報として扱うことにしていた。

 それよれば、源一郎と絹代は、十二時過ぎにトンネルへ向かう道中で『玄武の館』の横を通ったということだった。その際、特に怪しい人物と遭遇することはなかったらしい。

とはいえ、彼らもまさか『玄武の館』で水谷が殺されているなど思わなかったため、注意深く観察していたわけではない。当然ながら、館の裏手までまわることもしておらず、よって遺体の番をする深見の姿されも目に入らなかったとのことであった。

同じく武藤霧子と朱野透の悲鳴に関しても聞いていないそうなので、時系列的には水谷の遺体が発見されたしばらく後に、彼らは現場付近を通過したという流れになりそうだ。

 この証言により、犯行が行われたと思われる正午前後の時間帯においてアリバイのない人物は源一郎、絹代、瑞樹、小夜、それから姿の見えない穢と出張中で連絡の取れない白峰秀一氏に絞られた。

 この中で一つ目の事件、静殺害においても犯行が可能となるのは源一郎と絹代を除いた瑞樹、小夜、穢、秀一の四名。逆に透襲撃が可能となるのは源一郎、絹代、穢、秀一の四名ということである。

 白峰家の全員が組んでいた場合、犯行は可能になるのではないだろうか。突然恐ろしい思い付きが冷泉の全身を駆け巡った。慌ててその思い付きを消去する。理論上可能というだけで、友人を疑うなどどうかしている。第一動機がわからない。――本当にそうだろうか。朝の写真が脳裏に蘇る。水谷の日誌を開いただけで、埃が山のように出てきたではないか。所詮冷泉は余所者だ。知らないことだらけなのだ。突如として襲ってきた疎外感と孤独に背筋が冷える。冷泉は自身の鼓動が右肩上がりに速くなるのを感じていた。

 気になることはもう一つあった。

『朱雀の館』にて、今後の方針を決める際に、深見は異様に夜出歩くことの危険性を強調してきた。夜に人がうろつくことを嫌がる存在、すなわち誰かに目撃されることを嫌がる存在とは。そう考えた際に浮かぶのは、何も狼から逃げる羊だけではない。

犯人その人だ。

 冷泉は瑞樹の私室のい草ラグの上にごろりと横になった。天井の木目を目でなぞる。裸眼でも案外いけるものだった。水谷の日誌の一文が蘇る。

『名は、陽介と命名』

 朱野源一郎と武藤霧子の隠し子である深見陽介が、どこかで自らの出自を知り、自らを捨てた朱野家と、加担した水谷に復讐を企てたのだろうか。だとしたら、次に危ないのは――。

「龍川先生……?」冷泉はばね人形のように勢いよく起き上がった。

 源一郎と武藤霧子も狙われるのだろうか。遺棄に関与した人間は水谷と龍川と、それから――、佐藤百合子女史。冷泉はラグの網目を睨んだ。ユリコ。その音には聞き覚えがあった。

ユリコ、ユリコ――はっ、と冷泉は目を見開いた。

『百合子が生きているうちは百合子が甲斐甲斐しく世話しておったし』

 源一郎の言葉が蘇る。そうだ、と冷泉は確信した。百合子とは、源一郎の前妻の名前で間違いがない。“陽介”に続いて“百合子”までもがリンクした。この狭い村おいて、これは偶然なのか、否……。

そうしたところで部屋の扉がノックされた。部屋の主の帰還だ。声に従い鍵を開けると、湿った光沢のある黒髪にタオルを載せた白峰瑞樹が顔を出した。そのまま彼は部屋の奥のベッドに向かい、腰かけて丁寧に頭を拭う。その一部始終を何となしに目で追いながら、冷泉はぼんやりと別のことを考えていた。

「なあ、瑞樹」

 自らの名が呼ばれるのに、いつもの人好きのする顔で向き直った瑞樹だったが、ひとたび冷泉の硬い表情を見るや膝を正して向き直った。その顔を正面から見た瞬間、冷泉は自らの腹の芯がじわりと冷えるのを感じ取った。改めて白峰瑞樹の親しみやすさの源はその朗らかな表情にあるのだと思い知らされる。瑞樹は元々凛とした端正な顔立ちをしているため、ひとたび愛嬌のあるその表情が消えると、途端に冷たく、見る者にどこか畏怖の念を抱かせるのだ。

 腹を据えた表情で静謐に待ち構える瑞樹を前に、冷泉はゆっくりと唇を開いた。

「よかったら、朝の写真のこと、聞かせてくれないか?」

 その瞬間、瑞樹の瞳の中の輝きが暗幕を張ったように消えた気がした。朝も見た顔だった。それから、瑞樹は顔ごと視線を逸らして、斜め下へと視線を投げた。その先にはただの白い壁紙があるだけだ。黒曜の眼球には、それ以外に何の像も映ってはいなかった。

 意に反して高鳴る鼓動を意識の片隅で感じ取りながら、冷泉はその横顔を静かな視線で照らし続けた。ややあって、瑞樹が徐に顔を正面へと戻した。一つ長い睫毛が上下する。再び現れた黒曜には、少し輝きが戻っていた。上気して赤く色づいた形の良い唇が、薄らと開かれる。瑞樹の小さく息を吸う音が聞こえた気がした。

「俺ね。九つの時まで女の子として育てられていたんだ」

 俺は実は女の子なんだ、という回答が来ないことは、散々部室で彼の上半身を目にしている冷泉にはわかっていたことだった。そのため、もたらされた回答は予想の範疇だったが、それでも彼のなじんだ文化との乖離は甚だしく、言葉を失うには充分すぎる供述であった。

 しかし、努めてそれを表情には出さなかった。冷泉はその切れ長の目を逸らすことなく、瑞樹をの眼を見つめ続ける。感情を内に隠すのは元来得意だった。

「小さい頃すぐ病気する子供でさ。御覧の通り、今はもう元気なんだけどね」

 殊勝に明るく振舞おうとする瑞樹を見据えて、冷泉は静かに首を縦に振った。それで空元気は不要だと悟ったようで、瑞樹は泣き笑いのような表情を浮かべて強張った口角を緩めた。そして、寂しそうに続けた。

「病弱な男の子は、女の子として育てたら身体が強くなるっていう村の信仰がある。だから、祖母が生きている間はずっと女の子として育てられたんだ。あれは、その頃の写真」瑞樹は視線を勉強机の向こうへと投げた。視線の先には、深く彫刻刀の突き刺さった写真があるはずだった。

 冷泉は唇を固く結んだまま、うん、とゆっくり頷いた。瑞樹はばつが悪そうに視線を逸らした。

「こんなに人数の少ない村だし、それが俺の中の世界の全てだったから、珍しいことだなんて思ってなかったんだよ。村の外の世界を知らなかったから、“普通”が何なのかもわからなかった。だから……信じられないだろうけど、小さい頃は本当に何の疑問も感じていなかったんだよ。だけど中学、高校と成長するごとに、自分がいかに珍しい育ち方をしたかが見えてくるようになって。それでもね、俺は自分の過去を受け入れていたんだよ。特に恥ずかしいとも思ってなかった。俺は俺、人は人だと思っていた、思おうとしていたから。でも」と瑞樹は掌をゆっくりと開いてじっと見つめた。

「ある日、鏡に映った自分の裸の上半身を見た瞬間、突然頭の芯が爆発したんだ。自分が汚らわしいものに思えてきてしまって。衝動を抑えきれなかった。気づいたら鏡は粉々に砕けていて、俺は血だらけの手で自分の写真を貼り付けたあの板に向かって何度も何度も彫刻刀を叩きつけていた」

瑞樹は震える両手を握りしめる。血を吐くような叫びが、部屋を切なく染め上げていく。

「わからない。日に日に男性になっていく自分の身体に、女として育ったことで女性であると誤認したままの自我が、拒否反応を起こしてしまったのか、逆に自身を男であると再確認した自我が、女として育った自身の過去に耐えられなかったのか。いずれにせよ、抑圧された自我が暴走したのだろうけれど、その奥、底の部分が自分でもわからなかった」

 握りしめた左手の拳を右掌でそっと包み込む瑞樹の横顔を、冷泉はただ黙って見つめていた。

「学生服を着るとどうしようもなくもやもやした気分に襲われるのに、一方では女として育った過去を消そうと強い肉体を求めて剣道に打ち込むんだ。訳が分からないだろう?」

 潤んだ黒曜石が二粒、冷泉に向けられる。瑞樹は何かを求めている、そのことはわかるのだが、それが何なのかがどうしてもわからない。何を求めているのか、何と言葉を掛けるべきなのかが見つからなくて、冷泉は唇を硬直させたまま木偶のように立ち尽くした。喉の奥で何色もの糸の混じり合った感情の毛玉がごちゃごちゃと絡み合う。

 白峰瑞樹が、無責任に誰かに答えを委ねたり、むやみに感情をぶつけたりする男でないことは、冷泉もよく知っている。今も、ただ持て余した葛藤を誰かに聞いてほしいだけで、答えそのものは求めてはいないのかもしれない。

それはそうだろう。瑞樹が何年掛かっても出せなくて、煮詰まってしまっている命題だ。部外者である冷泉が容易に即答できる問い、否、軽々しく即答していいような問いであるはずがない。

そう結論づけた冷泉は、命題の是非には触れないことにした。ただ、瑞樹の心の動きそのものを受け入れて、肯定するのだ。

冷泉に全幅の信頼を寄せる一方で、果たしてどのような反応が返ってくるのだろうと緊張する瑞樹の不安が、その強張った身体中から伝わってくるようだった。

冷泉は静かに息を吸った。

「自分でも訳がわからないことだってあるさ。瑞樹はおかしくなんてない……と俺は思う」

「でも、俺は俺が怖いよ、冷泉」

うん、と冷泉は大きく頷いた。「俺が瑞樹を怖いと思わなくても、瑞樹が瑞樹を怖いって思った気持ちは本物だもんな。突然感情の制御がきかなくなったら、びっくりもするよな」

瑞樹は曇った表情で、こくんと幼子のように肯いた。「いつか、他人や自分を傷つけてしまうんじゃないかって、ぞっとした」

冷泉は吸いすぎていた空気を静かにふうう、と吐き出した。前を向く。「俺は人にあれこれ言えるほど立派じゃないから、これは大きな独り言だと思ってくれるか?」この言葉に、瑞樹は口元を緩めてこくりと肯きを示した。

冷泉は敢えて視線を少し下げた。そうすることで心持ち怜悧な眼光が弱まり、柔らかさが増した。「理屈で説明しきれないのが、人の感情というものじゃないかな。だから、感情の在り方としては瑞樹のものは至って健全だと思うよ。聖人君子じゃあるまいし、たまには爆発することだってあるさ」

「冷泉もある?」

「あるよ」と冷泉が表情を緩めれば、瑞樹は少し意外そうに黒目がちの目を丸くした。

「信じられん」

「いや、あるある。瑞樹は自分を傷つけてしまってびっくりしたんだよな。また暴走して、止められなくなったらどうしようかって」

 冷泉自身も知らないような柔和な声が、空気と頭蓋骨を経て鼓膜に届いてくる。それは自身のものとは思えぬような慈愛に満ちた音をしていた。普段人を励ましたり、優しくしたりするような言葉を持ち合わせない冷泉だったが、こと瑞樹に関しては違ったらしい。どうにか相手の求める形で手を差し伸べたいと思っていたのだろう。

 ぎちぎちに固まった泥団子が日光に暖められてほろほろと崩れるように、瑞樹の纏う空気が緩むのが冷泉にも伝わって来た。それを見て、冷泉自身も気づかぬうちに入っていた肩の力が抜けるのがわかった。

 目の前の傷ついた子羊をじっと見つめる。

 一見して気づかなかったが、間違いなく彼も、この閉鎖された村の風習が生んだ犠牲者だった。

 白峰瑞樹は何かに納得するように、二、三度小さく頭を揺らすと、視線を持ち上げた。その黒曜石にはいつもの輝きが戻っていた。

冷泉が静かに天を仰ぐと、瑞樹は遠く何かを懐かしむように目を細めた。

「俺は、誰よりも男らしくありたいんだ。きっと。女として過ごした九年間を埋めたいんだろうな」

 誰にも、写真の中の少女を救うことはできない。それは、冷泉にはもちろんのこと、瑞樹自身にもだ。幽かに部屋に漂う無力感を全身で味わうように、冷泉は深く呼吸を繰り返した。

 その静寂を打ち破ったのは、少女だった男の呟きだった。

「忘れてしまったのかもしれないけれど、透さんが約束してくれたんだよ」

「約束?」と冷泉は天井から顔を戻した。

「そう。ワンピースを着た幼かった俺に、透さんが言ってくれたんだ。大人になったら、透さんと弟さんと小夜と静ちゃんと俺でこの村から出て行こうって」

「ほう」

「それで俺がお父さんとお母さんと別れるのは嫌だってごねたら、じゃあ瑞樹くんのお父さんとお母さんも一緒に行こうかって」

「へえ……また、随分と思い切った話だな」冷泉は今の透の姿から逆算して、少年同士の過去のやり取りを想像してみた。

 瑞樹は過去を懐かしむように、どこか面映ゆそうな表情で続けた。

「うん。それでさ、小夜ちゃんも、お父さんとお母さんと離れるのは嫌だって言うかもよって俺、言ったのね。そしたら、じゃあもうみんな一緒に出て行こうかって。なんというか、まあ、非現実的っちゃそうだけど、昔から透さんは透さんだったなあって思うね」

「透さんは透さんか。なんとなくわかる気もする。小夜さんはその話は知っているのかな」

 冷泉が尋ねると、瑞樹は「さあ、どうかな」と視線を外して複雑そうに口元を緩めた。

「今考えると自らの望まない形で女の子として育てられている男の子を慰めるための冗談だったのかもしれないな、とも思うんだ。それなら小夜は知らないだろうね」

「真実は透さんのみぞ知るだな」冷泉は放り出した自らの足先を、なんとなく眺めた。

 瑞樹の言うように、彼を見ていてどうにもやりきれなくなった透の優しい嘘だったのかもしれない。けれど、冷泉はその言葉を胸の内に呑み込んだ。そんな冷泉に、瑞樹は一つ頷き返してさっぱりとした笑みを零した。

「うん。でも、それでもいいんだ。慰めの嘘だったとしても、俺にとってはちょっとした楽しみになっていたから。当時の俺はこの村が外と比べて、何がどう偏っているのか全然わからなかったから、なんで透さんはそんなことを言うんだろうって不思議だったんだけどね。それでも広い世界に出られるって思うと、なんというか、わくわくした」

「そうか」冷泉は伸ばした足を引き寄せた。踵についた畳の痕を指で撫でる。

透が瑞樹を元気づけるために言った嘘なのであれば、その思惑通りの結果だと言えるだろう。喉の奥に刺さった小骨のようなものを感じながら、冷泉はラグの上で足を組みなおす。そうすると、呼応するように瑞樹もベッドの上の尻の位置を変えた。そして、過去を見つめるようにぼんやりと地面に視線を落とした。

「それだけじゃなくてさ。いつか俺が成長して、自身の生い立ちが“普通”ではなかったと気づいたときにグレないように、心の拠り所になろうとしてくれていたのかもしれないとも思うんだよね」

「『俺だけはこの村の異常さに気づいているぞ』っていう透さんからのメッセージか」

「そう、そんな感じの」

「村に、一人でも話のわかる人間がいるというだけで心強いものな」

 冷泉の言葉に実感がこもる。いつの間にか、先刻抱いた疎外感を思い出していた。

うん、と肯いて瑞樹はベッドの下で足を揃えた。足首を見つめ、曲げては伸ばす。

「もうすぐ外に出られるから、その時まで我慢しようって思えるように。実際に俺が中学生になってその葛藤に直面したときには、透さんは東京に出てしまっていて、直接話はできなかったんだけどさ。だから、合図を残してくれたのかなって、そのとき思った」

「流血事件の頃か」冷泉は窓際に視線を飛ばした。あの場所に眠る写真の上では今でも穴だらけの少女が、温度のない目をこちらに向けているのだろう。

「そう。流血事件の頃」瑞樹も同じように視線を投げた。だが、すぐに自身の足首へと視線を落として、曲げ伸ばしを再開した。「当時の俺にとってあの言葉の存在はある種の救いだったし、透さんはずっと英雄のような存在だったからね。彼はいち早くこの村の異質さに気づいて、今は俺たちを救い出そうとしてくれているんだぞって信じていた」

「英雄なあ」

「そう、英雄。透さんは英雄。俺は英雄の帰りを待つ民衆だった」

瑞樹は真顔でおどけてみせた。

「でも、英雄は反乱をやめてしまったのか」冷泉も真顔でそれに乗った。

瑞樹はまるでその目に映す像を過去から現在へと切り替えるように、ゆっくりと瞬きを落とした。

「そう。透さん、普通に村に戻ってきて、村の一員として過ごしているんだよね。別にそのこと自体は透さんの勝手だし、良いと思うんだけどね」

「何か引っかかるようだな」冷泉は尋ねた。どうやら瑞樹の喉にも小骨が引っかかっているらしい。だが、小骨の輪郭は掴めそうで掴めない。 

瑞樹自身も、どこに小骨が引っかかっているのか良く分かっていないようだった。

「透さんはそれでいいのかなって。なーんかこう、釈然としないというか」

 瑞樹は揃えた膝頭を見つめて唇を尖らせた。つられて冷泉も自身の膝頭に視線を落とした。

「ふむ」

「透さん自身が少年時代に『脱出』という発想を持っていたことは間違いないんだよ。村への反発心がなければ出ない発想でしょ」

「そうだな」

「そう」瑞樹は力強く首肯した。「で、俺はもう脱出はいいんだよ。村の外を知るに従って、この村の異質さを知ったけれど、それでも親子の縁を切ってまで家出しようとか、透さんの代わりにみんなを連れて村から出ようとかまでは思ってないから。大学を卒業したら村を出ようとは思っているけど、両親がこの村に住み続けるのなら帰省はするだろうし。でも透さんは? 本当に納得したのかな」

「透さんも瑞樹と同じように、外に出て見識が拡がったり、大人になって現実が見えるようになったりするにつれて、考えが変わったのかもしれないぞ」

 冷泉がそう言うと、瑞樹は「いやあ、それはどうかな」と首を捻った。「透さんの場合は俺とは違うじゃない」

「ほう」

 冷泉は眉をぴくりと動かして、ベッドに向かって座りなおした。小骨の片鱗が見えてきたかもしれない。

その仕草に冷泉の聞く意欲を感じ取った瑞樹もまた、姿勢を正して向き直った。

「だってさ、俺の場合はこの村からの足枷はもう解かれているじゃない。俺が女装という足枷をつけられていたのは過去の話で、今はもう無いもの。つまり、今の俺はこの村から齎される不利益がないから、村への反発心が薄れていった。結果、相対的に現状維持の気持ちが上回ったんだ。でも透さんは違うじゃない?」

「ああ。そういうことか。透さんの足枷は、まだ残っているもんな」

 冷泉のこの言葉を待っていたように、瑞樹は食いつき気味に「そう、それ」と肯いた。「透さんは、弟さんを地下牢に奪われたままでしょ。問題は何も解決していないじゃない。なのに、村への不満や反発はどこに消えたのか、それが疑問なんだよ」

いつになく熱く語る瑞樹を見据えて、冷泉はぽつりと落とした。

「今も昔も、誰よりもこの村に反発を抱いているのは、透さんかもしれないな」