探偵〇〇〇〇シリーズ《一》 四神村殺人事件

四神村殺人事件



おもな登場人物

朱雀邸

 朱野松右衛門(享年七八)――『朱雀の館』の前・当主。

 朱野源一郎(五二)――『朱雀の館』の現・当主。松右衛門の長男。

 朱野かすみ(享年二四)――その妻。二十四年前、透と穢を産んですぐ他界。

 朱野透(二四)――源一郎とかすみの長男。一卵性双生児。

 朱野穢(二四)――源一郎とかすみの次男。一卵性双生児。

 朱野百合子(享年三五)――源一郎の後妻。十年前に他界。

 朱野静(十九)――源一郎と百合子の長女。

 藤川絹代(四三)――源一郎の現・愛人。

 水谷(五〇)――朱雀の館の執事。勤続三十二年。



玄武邸

 武藤霧子(四二)――『玄武の館』の当主。



白虎邸

 白峰秀一(四三)――『白虎の館』の当主。

 白峰琴乃(三七)――その妻。深見陽介の姉。

白峰瑞樹(十八)――その長男。県外の大学一年生。

 深見陽介(二三)――中学の理科教師。琴乃の弟。朱野透と大学の同期。

 冷泉誠人(十八)――瑞樹と同じ大学の友人。大学一年生。



青龍邸

 龍川清三(六三)――『青龍の館』の当主。村の眼医者。

 龍川夫人(享年四五)――その妻。三年前に他界。

 龍川小夜(十八)――その一人娘。地元の大学一年生。

















プロローグ



 朱野松右衛門翁逝去の報が村を揺らしたのは、その年の七月も末のことだった。

 じりじり肌を蒸し焼きにする、湿った暑さの前触れに照らされた朝、家の敷地内にある堀井戸の底から、その変わり果てた躯は引き上げられた。

 よく冷えた井戸水を全身にずっしりと吸ったその躯は重く、成人した男二人掛かりでもなお引き上げるのにはたいそうな骨折りを強いられた。そうしてようやく白日のもとに晒された老体は、釣瓶と綱とに雁字搦めに逆吊りされて、それはもう、見たものの毛穴を氷漬けにするほどにひどく無残な有様だったという。





第一章 八月十八日



 一



 前略

 ずいぶんとご無沙汰しています。お変わりなくお過ごしでしょうか?

 本年七月、祖父・朱野松右衛門が永眠いたしました。

 そして問題はそれからです。

祖父の怪死が、村に降りかかる呪いのほんの序章であるという差出人不明の怪文書が届きまして、こうして稀有な縁のある深見君に相談差し上げた次第であります。

 同じ村に住む者として、君の姉君も危険に晒されている以上は、黙っておくこともできますまい。

 ただの悪戯ならば良いのですが……。

君の都合の良い日――夏休みにでも一度村に様子を見に来てはくれないでしょうか。

 久しぶりに会って話がしてみたいものです。

草々



 一九**年 八月二日

 朱野透

 深見陽介様



 深見陽介はその奇妙な手紙を三つ折りに畳み、ため息とともに上着の内ポケットへしまい込んだ。

 ローカル線の車窓から見える景色は至極長閑である。

緩徐に車体を揺らす鈍行電車の開け放たれた窓から、盛夏の日差しに温められたぬるい風が吹き込んでは、短い前髪を擽って過ぎていく。

車内に目を転ずれば、家族連れやら若者のグループやらの姿がまばらに車内を温めていた。始発からしばらくこそ、夏休み特有の大混雑に見舞われていたものだったが、列車は駅に着くたびに客を吐き出し続け、終点に近づいた今では、首を伸ばせば隣の車両が透けてみえる。辺りは心地よい静けさを取り戻していた。

風にはためいた上着を撫で正せば、そこには封書の分だけ厚みが感じられる。

 この手紙を受け取ってすぐ、深見はまず差出人である朱野透の自宅へと電話を入れた。ワンコール目で出た執事らしき男性の声に取り次がれたのち、どこか懐かしい、耳触りの良い落ち着いた声が電話口に出た。軽い挨拶を交わして、深見は早速本題を切り出した。しかし、返って来たのは予想だにしない反応だった。

 彼は、手紙など送っていないというのである。

 驚いた深見が手紙の内容を要約して話しても、一向に心当たりがないと首を傾げるばかりで埒が明かない様子であった。

 では、松右衛門翁が亡くなったのも嘘なのかと尋ねれば、そちらは事実であるようで、ますます不気味さが増すばかりである。

 その日はそれで受話器を置いた深見であったが、書状の内容からしてどこか不穏なものを感じずにはいられない。まるで背筋に百足、奥歯に銀紙の気分である。そこで、今度は姉の白峰琴乃へと電話をかけてみることにした。

書状に出てきた姉君とは、まさにこの白峰琴乃を指していた。彼女は、今年二十四歳になる陽介の、十三歳の離れた姉にあたる。もうかれこれ二十年前に、朱野透の住む四神村の旧家の一つ、白峰家へ嫁いでいって、翌年息子を一人授かった。そして、その息子も今年で十九になる。なお、深見が四神村へ赴いたことはこれまで一度もないため、顔を合わせることといえば、琴乃が深見家の本家である実家に帰省した折に限られていたが、それでも盆と正月には本家で顔を合わせる程度の間柄は保たれていた。

その姉の住む白峰家の電話番号を深見は諳んじ、要約して事を話した。すると、やはりこちらも内容に心当たりはないとのことである。しかし、誰かが明確な意図をもって深見に書状を寄越したという事実が消えるわけではない。それも、四神村の事情――朱野松右衛門翁の怪死や透と深見との関係性、白峰家と深見との関係性――に精通した人物の仕業である。そこに何かしらの作為があることには間違いがないのだ。

そう思うと、とても見てみぬふりをする気にはなれなかった。そういうわけで、深見陽介はちょうどお盆時期に差し掛かることもあり、勤め先の中学校からもらった短い夏休みを利用して、挨拶がてら四神村を尋ねることにしたのであった。

 その旨を朱野透にも連絡したところ、きっかけが不穏であるだけに不安げではあるものの、およそ一年半ぶりの再会をたいそう喜んでくれた。それから、交通の便の悪い村だからと、最寄りのバス停留所まで出迎えにきてくれることになったのである。

 ローカル線の普通電車を終点で下車し、一日二本のバスに乗り継いで揺られること二時間。七ツ森町の由緒ある教会と隣接する福祉施設を通り、それから深見の本家のある六山市の市街地を素通りして、そのはずれで下車する。そうしたところで、不意によく通る声が背中を叩いた。

「深見」

 朱野透の声だ。振り返れば太陽の下、一年半前とさして変わらない懐かしい顔が、数尺向こうで輝いていた。まっすぐした清潔そうな黒髪が、東北の夏の湿った風に揺れている。少し日に焼けただろうか。色白の印象の濃かった肌は、ほんの少しばかり色味を増して実に健康そうに見えた。大学卒業後は家業を手伝うときいていたが、具体的なことについて深見は何も知らされていない。よく日に当たるようなことをしているのだろうか。しかして、凛とした目元が印象的な、なかなかの美丈夫であることに変わりはなかった。

「うわぁ久しぶりだなあ、朱野。迎えにきてくれてありがとうな」

 深見が白い歯を見せて、隣の肩を二度叩くと、朱野透もつられたように白い歯を零した。

「深見こそ、遠いところを来てくれてありがとう。まさか卒業一発目の再会場所が四神村になるなんて、思ってもみなかったよ」

言って朱野透は半身を翻し、一歩踏み出した。言外についてくるように促された深見もその影を追う。からっとした日差しは中天に向かい、やや東の空から垂直に大地を照らしていた。

「久しぶりだな。朱野の運転は」

「あ、深見、運転してみる? 東京じゃ運転する機会もそうそうないだろ。だいぶ鈍っているんじゃないか?」

 悪戯そうに顔の横で鍵を掲げた透に、深見は破顔一笑して目の前の青いシャツをはたいた。

「無茶言うな、遭難する気か」

 視界に入る山という山はどれも、どこに道があるのかもわからないほど青葉で丸々と生い茂っていた。

「……なんだか、B級サバイバル映画の導入みたいだな」

「やだよ、俺主人公だろ? それで、朱野が山の中で突然いなくなる流れじゃん」

「主人公と一緒に山に迷い込んですぐに消える友人役か。それで、中盤あたりに敵に洗脳されて出てくるのな」

「そうそう、それで俺、泣きながら朱野を倒すの」

「え、俺倒されちゃうの? 正気に戻してくれるんじゃないんだ」

「あ、そっち? そっちね。『目を覚ませよ、俺ら友達だろ』って肩掴んで揺さぶるのか」

 洋画の吹き替えよろしく大袈裟な抑揚をつける深見に、透は白い歯を零す。

その反応に機嫌よく頬を持ち上げると、深見は続けた。「そっちルートなら、正気に戻った朱野と二人でボスを倒す流れだな。……一気に熱血王道っぽくなったぞ」

「B級サバイバル映画が、B級少年漫画になっちゃったなぁ」

透がくだらなさそうに笑うのを受け、深見も喉の奥で笑った。

「でも学生の頃はレンタカーを借りて、行ったことないような場所にもよく遊びに行っていたな」

「懐かしいな……」透はしみじみと、胸の奥底にあるものを一気に吐き出したような密度の高い声を落とした。

その声に深見は、視線で友の横顔をなぞった。目の前の彼は、ずっと遠くにある綺麗なものに思いを馳せるような澄んだ目で稜線を眺めていた。

「荷物はトランクでいい?」

 やがて歩き出した透が指すところを見れば、そこには一台の軽自動車が停車していた。田舎の山奥の未舗装の道を通るのに普通車は大きすぎるため、この辺りで見かける自動車と言えば軽自動車がほとんどである。

深見は言われるがままに、差し出された彼の手に荷物を預け、それからこんがりとよく照らされた助手席へ乗り込んだ。

「疲れただろう。ゆっくりくつろいでくれと言うには狭いけれど、村に着くまで楽にしてくれたらいいよ。もうしばらくは車の中だから」そう茶目っ気混じりに言って、朱野透は手際よく車を滑らせた。

彼の纏う空気独特の心地さに身体を浸らせ、懐かしさに深見は口元をほっと緩める。車がスピードに乗るに従って、窓から飛び込む風が柔らかく頬を撫でていった。

 深見陽介と朱野透は大学の同期生にあたる。

 教育学部生である深見に対し、透は理工学部生と、学部こそ違ったが、様々な学部の生徒が入り混じる教養科目の第二外国語の授業で、偶々席が隣になったのが始まりだった。

 話をしてみれば、気が合うどころか、驚くことに互いの故郷が目と鼻の先だというのだから、数奇な縁である。……

 車窓から移り変わる田舎景色に引きずられるように、深見の記憶は自然と隣に座る男との出会いの場面へと巻き戻されていた。

 小川を跨いだ小さな石橋を渡ると、こんもりと茂ったブロッコリーの大群のような深い緑の山々と、その隙間を彩る果樹園に囲まれた風景に出迎えられる。先ほど通ったバスの通る市街地から、長閑なここら田園地帯までを含んだ六山市というのが、深見陽介の故郷だった。

そして、深見家というのは元々ここら一帯の領主であり、祖父の代からはこの市の市会議員を務めているといった家系である。例に漏れず、深見陽介もまた父の地盤を継ぐ者として、当然の如く、溢れんばかりの両親からの期待を受けて育てられてきたのだが、残念なことに陽介自身はそういった権力やら何やらには全く興味が持てなかった。更に輪をかけて不運なことに、陽介は深見の本家の長男であるばかりでなく、きょうだいは十三も年の離れた姉が一人きり。唯一のいとこもまた女である。そのため、深見家の跡継ぎの期待は、幼少より陽介ただ一人に注がれて育ってきた。陽介が政治に興味のある人間であればさぞかし恵まれた環境だっただろう。しかし幼少から政治の表側はもちろん、その裏側まで見て育った陽介はだいぶ食傷気味で、俺にはできない、あれは親父だからできることだと背を向けるばかりであった。

そうした圧力から逃れるように、東京の大学へと進学した先で出会ったのが、朱野透という男なのである。それも、聞けばその故郷は、深見の故郷六山市から車で数時間、五藤村を挟んで隣に位置する四神村という小集落らしいではないか。

 故郷から逃れるために上京したとはいえ、深見だって別段己のルーツそのものへの嫌悪があるわけではない。寧ろ人の溢れかえる東京において同郷の者と出くわしたことに、純粋な親近感を覚えるほどであった。

ところが、接点はそれだけにとどまらなかった。

同郷というだけで、親近感を覚えるには充分だったが、偶然とは重なるもので、その四神村とは深見の姉の琴乃の嫁ぎ先でもあったのだ。

 そこから二人の距離が縮まるのは早かった。話が弾み、そして卒業して離れた今でも、多忙な合間を縫ってぽつぽつと連絡を取り合っていた。

「しばらく白峰さんの家で過ごすんだってな。うちに泊まってくれてもよかったのに」

深見が白峰家に滞在する旨を透に電話したところ、水臭いじゃないか、ならば車で迎えに行くよと、透は出迎えを買って出てくれた。バスも通らぬ奥まった村ゆえ、その申し出がいかに有難かったかは言うまでもない。

「手紙が気になったのもそうだけどさ。朱野のお爺さんに、その、お線香もあげたいし、それにたまには姉さんの顔も見たいなって思っていたところだったしさ。四神村にも行ってみたかったし……そういう切欠にはなったんだよ。甥っ子もちょうど里帰りしているみたいだし」

「瑞樹くんか。昨日帰ってきたみたいだよ。友達も一緒に泊まりにきているみたい」

「え、彼女?」

「ふふ、男の子だよ」

なんだと落胆する深見を見て、朱野透はおかしそうに肩を揺らした。

 白峰瑞樹は、深見にとって姉の息子にあたる。この春から東北M県の国立大学に通っていた。深見が彼と最後に会ったのは今年の正月だ。深見は両親から、県外への就職を認める代わりに、盆と正月には必ず帰省するように口酸っぱく言われているため、自由の代償として帰省を欠かしたことがなかった。これは姉一家も同様らしく、年に二回の本家への挨拶を欠かさない。

車窓からゆるりと流れる景色の中に学生服の少年をみとめ、深見の頭の内に、或るひとつの影が姿を現す。今年の正月に見た白峰瑞樹だ。半年ぶりに会った甥は、まだ華奢さが抜け切れていなかったそれまでに比べ、背も伸びて少し逞しくなっているようだった。それでも姉に似て、黒目がちの涼やかな目元をした中性的な印象は変わらなかったが。

車が滑るような屈曲を三度繰り返すと、景色は一転して深緑に包まれた。駅から見て六山市より郊外は、深見にとって足を踏み入れたことのない領域だった。

田園地帯は、左右に青々とした雑木林の間をくぐる未舗装の山道へと景色を変えている。

山を幾つか越えた先に五藤村、そのまた先に四神村という村があるのだと話には聞いていたが、なにぶん言ってしまえばどん詰まりの辺鄙な村ゆえ行く用事も目的もない。あるのは子供特有の幽かな冒険心だけだったが、それを満たすためだけに赴くには遠く、またどこか不気味だった。生い茂った細い道のずっと向こうにあるのだという村を想像すれば、未知への恐怖からだろうか、行ったら二度と戻れないような気さえしていたものだ。

そんな感慨などよそに、車は未知なる道へと轍を延ばしていく。

山道を車で走ること一時間。昼食を挟んで、五藤村という錆びた標識を横目に更に走ること更に一時間。渓谷に架かった長い橋で渡ってすぐのところに、軽自動車がようやく離合できるくらいの古いトンネルが現れた。日の光が数十年は届いていないのではないかと思しき湿っぽく黒ずんだ壁面は苔蒸し、枯れた蔦が幾重にも垂れ下がっている。

「このトンネルを超えた先が、四神村だよ」と、透は右手で窓を閉め、慎重にトンネルの中へと車体を滑らせた。

 しかしてそこは、まるでトンネルとは名ばかりの、真っ暗な洞穴だった。

 車のヘッドライトだけが行く手の数歩先を照らす。その向こうは完全な闇だった。

 深見は思わず窓のクローズボタンを連打した。

 窓が完全に閉まりきると車外の音が遮断され、一気に無音が押し寄せる。鼓膜が圧迫され、外界から隔絶されたような気分になった。

 車窓から見える景色は、ただただ闇一色である。

 ヘッドライトが照らす二つの黄色い円と、それ以外の闇と。その二色だけが世界の全てだった。ともすれば前進しているのか、はたまた後退しているのかさえわからなくなってくる。

 窓は閉めきっていて暑いはずなのに、車内はひんやりと冷たく背筋を這うような寒気がした。まるで鍾乳洞の中のようである。

 時間感覚さえわからなくなりそうだ。

 ぞっとした恐怖を覚え、深見は車内のデジタル時計へと目を転じた。黒い画面に浮かび上がった薄緑色のそれは十三時四十四分を指している。ごくりと唾液を飲み込む音が車全体に響いた気がした。

「酔った? 大丈夫?」

 急に口数の減った深見を不審に思ったのだろう、透が不安そうな表情を浮かべたのが気配でわかった。

「いや……」深見は小さく咳をした。安心させようと、努めて明るい声を出そうとしたものの声が掠れてしまったのだ。慌てて水筒の水を口に含む。ほんの少し体温が戻るような気がした。「ずいぶん暗いトンネルだなと思って」

「ああ、だいぶ古いトンネルだからね。改修しなきゃいけないんだろうけどさ。けれど、村へ繫がる唯一の道だから、ここを封鎖して改修すると行き来できなくなっちゃうんだ。だから補強してやり過ごしているみたい」

「え、他に道はないの?」深見はギョッと透を見遣った。暗闇にぼうっと浮かんだ横顔は、見慣れた透のものというよりも、全くの別人のそれに見えた。朧げに揺れるそれは、まるで血の通わぬ蝋人形のようで、ますます背筋が寒くなる。

 そんな深見の心境など知る由もない透は、真っ白な横顔のまま、一つ瞬きを落として仄白い唇を開いた。「ああ。山林を抜けてきても、最終的には村をぐるりと囲んだ深い谷に突き当たるみたい」

「トンネルの前に渡った渓谷か」

「うん、それ。あれが難所で、橋がないと渡れない。だから、例えばトンネルが崩れるようなことがあると完全に閉じ込められるんだ」

「閉じ……」

 思わず言葉を失う深見を宥めるように透は付け加えた。

「でも大丈夫だよ。古くても頑丈だから、崩れるなんてことないさ。それこそ、人為的に壊しでもしない限りはね」



 二



 トンネルを抜けると、そこは雑木林だった。

 脇に木の生えていないスペースがあり、中ごろに一台の軽自動車が泊めてある。その隣に並んたところで、車は止まった。

 外に出て深見は思い切り伸びをした。

 しばらくぶりの外気はひんやりと冷たい。幾重にも生い茂った木枝に遮られ、年中日光が届かないのだろう。辺りは苔蒸し、湿った落ち葉が重なっていた。その底には、更に前に落ちたと思しき木の葉が積み重なって腐葉土化している。

 ぐるりと周囲を見渡す深見に倣うように、透もまた視線を巡らせてから言った。

「これは龍川先生の車、その向こう側にはいつも白峰さんの車が止まっているのだけれど、今はご主人が使っているみたいだね」

 白峰家の主人とは、深見の義理の兄にあたる白峰秀一を指している。

「ああ、そういえば秀一さんは昨日から出張だって姉さんが言っていたな。二十一日には帰るって言っていたから……三日後か」

「そっか。深見は二泊できるんだっけ?」

「そう」

「なら、ちょうど会えないのか」

 透がトランクから取ってくれた荷物を受け取り、深見はああ、と肯いた。「と言っても、今年の正月にも会えてはいるし、割とよく会ってはいるんだよね」

 例年だと盆にも会っているのだが、今夏は深見がお盆休みを後ろにずらしたせいでまだ帰省が済んでおらず、従って白峰一家とも会えていなかった。

「実家にはこの後で寄るの?」

「ああ。四神村に二泊して、実家に一泊してから東京に帰る予定」

「そっか」透は曖昧に笑い、それ以上深く話を広げることをしなかった。

気を遣わせたのなら申し訳ないと思う一方で、そういうところが深見が朱野透という男を心地よく感じる理由だった。

 喋りながら登る山道は、運動不足の身には鈍くこたえる。息が上がっているのがばれたら恰好がつかぬと懸命に堪えながら登った先は、見晴らしの良い小高い丘になっていた。高台に生えた木々の隙間から村全体が見下ろせる。

 降り注ぐ蝉の声に全身を包まれる。烏が一羽、低く哭いて飛び立った。

 眼下に広がるそれは異様な光景に映った。

 よく見る寂れた山村のイメージとは違う、ある種人工的な美しささえ感じられた。

 視認できる家屋は四軒だった。まず村全体に描かれた正三角形の頂点に一軒ずつ。それから、そのうち一軒の奥にもう一軒あり、それで計四軒である。その周りは果てしなく続く深い森、連なる山々が見渡す限りどこまでも続いていた。

 足を止め食い入るように見つめる深見の様子に、透も隣で足を止めて言った。

「一番奥に見える一軒が、龍川先生の『青龍の館』。先生は自宅で眼医者をやっているんだ。その手前が深見のお姉さんが住む『白虎の館』、右手前が俺の家『朱雀の館』、左手前が武藤さんという女性が住む『玄武の館』」

 深見の視線が、耳なじみの良い透の説明に従って動く。

「四神村の名の通り、それぞれの館は中国神話の四神がモチーフにされているんだ。四神は方角を司る霊獣だから、本来なら東西南北に一軒ずつ配置されるのだろうけれど、現実はご覧の通り。歪な配置をしているだろう?」

「言われてみれば」深見は言葉を濁した。透の言う通り、屋敷の配置はお世辞にも四方を模しているとは言い難かった。

「江戸末期頃までは白峰家、武藤家、朱野家の三軒を交えた十数軒が暮らしている集落で、村の名前も館の名前も特にはついてなかったんだってさ。それが徐々に家が途絶えたり、他所へ流れていったりしてしまって、ついに三軒だけになってしまった。そこに外部からやってきた医師の龍川家が加わった偶然から、住人たちがまるで四神のようだ、四神の導きだと言い出して、東西南北と真ん中に石碑を建てて拝み始め、それぞれの家を四神にまつわるよう改築して四神の館と呼び始めた。それで四神村と住民たちが呼んでいただけだったんだけど、いつからか通称になり、気づけば正式名称になっていたって話だよ。つまるところ、『四神』なんてのは、無理やりの後付けなんだ。こじつけで歪な信仰に浸っている村なんだよ」

 その言いぐさに、にじみ出る透の苛立ちのようなものを感じ取り、深見は思わず隣の透の顔を窺った。が、そこにあるのはいつもと変わらない朱野透の涼やかな顔だった。

「それじゃあ、村へ降りようか」





一度登った斜面を、村を淵取るように時計回りに緩く下っていく。木々に遮られて翳った淵とは違い、村の中心部は盛夏の日差しに照らされて白くまばゆく浮かび上がって見えた。

そうしてしばらく降りたところで、右前方に一つ目の館が近づいてきた。

「そうそう。四神を祭った石碑があるって話したの、覚えている?」

「ああ覚えているよ」

「あれが、その石碑のうちの一つ」透は向かって左を指し示した。

なるほど生い茂った木々の隙間に青緑色をした人工物が見える。近寄ってみれば、成人男性の胸ほどの高さをした石像だった。

「これが東方を司る『青龍像』」

 透の説明を背に、深見は目を細めて日陰に座したその像を覗き込む。よく知る龍と比べると、どこか歪な印象を受けた。

「あれ、龍ってこんな風だっけ。角とか、思っていたより派手なんだな」

 龍の頭には、トナカイのような角が左右に三本ずつ生えていた。そして風化を差し引いても、身体もまだら模様でごつごつしている。

「ああ、よくいわれる龍とは違うよね。それは鹿の角だよ。これ以外にも青龍は、馬の首、魚の鱗、蛇の尾をもつと言われているらしい」

「へえ、じゃあこれは蛇の模様だったのか」深見は青龍像のまだら模様をまじまじと眺めた。指で触れようと伸ばしかけたが、寸でのところで引っ込めた。

そうしたところで、頭の後ろから透の声が降ってきた。

「五行説では木に対応するとされているから、こんな木々の麓に建てたんだろうね」

心地よい言葉を背に、深見は縮こまった首を解すようにぐるりと辺りを見まわす。透の言うように、寸分先は足場も見えないような深い藪だ。そのまま村の中央へ身体を反転させると、深緑の庇を抜けたすぐに一つ目の館が静かに聳え立っていた。

 黒っぽい外観の三階建ての洋館だった。

 村の中心に向かって玄関があるようで、二人が歩いている山道からでは裏側を見ることしかできない。洋館の周りは小麦色の土になっており、それを囲むように三方向に花壇が拵えてあった。

「これは『玄武の館』。今は武藤霧子さんっていう女性が一人で住んでいる。かつては武藤婦人のご両親も一緒に住んでいたらしいけど、もう三十年も前に亡くなったんだって。俺が生まれた頃にはもう霧子さんが一人で住んでいたよ」

「一人でかあ。立派なお屋敷だなあ」深見は息を漏らして屋敷を見上げた。ところどころに蔦の這った、年代を感じる洋館だった。

 広い屋敷に一人で住むのはどのような気持ちなのだろうか。

 普段六畳一間のワンルームに住んでいると、もっと広い家に住みたい気持ちがわいてくるものだが、人里離れた村の屋敷に一人で住むのと一体どちらがましだろう。

 とても口に出しては言えないことなので、それらを胸に仕舞込んで深見は建物を見上げた。三階の窓越しに人影が動くのがちょうど目に入る。長い黒髪を後ろで纏め、色付きの眼鏡に黒の衣服を纏った色白の女性だった。あれが武藤婦人なのだろう。顔はこちらを向いているようだが反応がない。

「霧子さん、こんにちは」

 透が声を張ると、ようやく影はこちらに気づいたようで窓を開けてにこりと笑った。

「こんにちは。その声は、透さんかしら」

「武藤さんはね、小さい頃に病気に罹ってから目が不自由なんだ」透は、視線はそのまま小声で深見にそう囁くと、再び窓に向かって声を投げかけた。「はい、透です。隣にいるのが深見陽介くん。僕の大学の友人で、白峰琴乃さんの弟さんです」

「まあ、はじめまして深見さん。わたくしは武藤霧子と申します。琴乃さんにも透さんにもいつもよくしてもらっているのよ」

 明るい屋外からだと暗い室内は見え難い。三十年前まで親子三人で住んでいたということは、三十歳は過ぎているはずだが、年齢の読めない女性だった。どこか浮世離れした上品な物腰が印象的である。

「はじめまして、深見陽介です。こちらこそ姉がお世話になっています。この昨年の春から、東京で中学の数学教師をしています」

「まあ、先生なのですね。立派だわ。そういえば瑞樹ちゃん……いえ、もう瑞樹くんと呼ばなきゃね。彼もお友達を連れてきていたわね。村が明るくなるようで嬉しいわ」

「そうですね。普段閉じた村の中で過ごしていると、ちょっとした変化やお客さんが嬉しくてさ」前半は武藤霧子に、後半は深見に宛てて透は言った。そして再び霧子に向かって声を張る。「では霧子さん、また夜にお会いしましょう。お迎えにあがりますので」

「透さん、いつもありがとうね。楽しみにしているわ」と、右手を上げると、武藤霧子は慣れた手つきで窓を閉め、部屋の奥へと消えていった。

 それら一部始終を見送ってようやく透は深見へと向き直った。「夜の会食は武藤さんも来るよ」

 今晩、深見は朱野家で夕飯をご馳走になることになっていた。

「村の人全員来るんだって? すごいな」

「村の外からお客人が来ることなんて、滅多にないからさ。みんな嬉しいんだよ。村人全員といっても四軒しかないしね。いっそみんなに声を掛けてみようって話になってさ」

 『玄武の館』を離れるとすぐに『白虎の館』の影が大きくなってきた。歩いて一、二分といったところだろう。右手に視線を転ずれば、菜園を挟んだ向こうにもう一つ館の屋根部分が見える。丘の上で受けた説明を思い出す限り、あれが透の住む『朱雀の館』だろう。残る一軒『青龍の館』だけは、『白虎の館』の影になって、今いる場所からでは見えそうになかった。

「そろそろ石像の二つ目が見えてくるよ」

「四方と中央で、五つあるんだっけ」

「うん。あれが中央に建てたっていう石像」

 透が右手を指し示した先、三角形を形作る玄武、白虎、朱雀の館のちょうど中心辺りに白いトーテムポールのような石像が見えた。

「へえ、あれが」

「ああ。その向こうが菜園だよ。往年よりはだいぶ縮小されたけれど、かつての自給自足の名残だね。明治初期頃まではもっと多くの家屋があって、畑だらけだったみたい。今でも、ある程度の野菜だったら自給自足できるよ」

 ふと黄色い菜の花を背景に、モンシロチョウがふわふわと飛ぶさまが見えたようだった。

 瞬きをすれば、そこには天に両手を伸ばしたひまわりが戻っていた。それから何度瞬きしても変わらず、太陽の化身が心地よさそうに揺れている。大きな飛蝗がちちちと羽根を鳴らして飛んでいった。

 パノラマに広がる異国のような景色を前に、姉はこんな村に嫁いだのかと、深見の心内に突如として感慨深い思いがよぎる。

 この隔絶された村で、姉や透は日常を送っているのだ。

 深見が授業をし、部活動の指導を行い、時にネオンに囲まれた街で居酒屋をはしごしたり、ぴかぴかに磨かれたガラスと無数の商品が所狭しと立ち並ぶ陳列棚に囲まれて買い物をしたり、満員電車に揺られて帰宅しているときに、彼らはこの時の止まったような村で日々を送っているのだ。……

 透はそのまま東京に就職しようとか、理工学系の知識を活かせる仕事に就きたいとかは思わなかったのだろうか。都会至上主義を謳うつもりなどなかったが、ふと、そんな思いが深見の胸にこみ上げてきた。

 大学時代よりも日に焼けた顔、若干筋肉のついた精悍な身体を見れば、彼にとってこの村での生活が充実したものだということは想像がつく。田舎に帰り、両親の望んだ職に就くことは、深見にとって耐え難い苦痛であったわけだが、同じように透にとっても苦痛であるとは限らないのだ。ひょっとしたら彼にとっては、それこそが幸せなのかもしれない。

透の現状を目の当たりにしたことで、深見の心の中でひしめき合う親の言いなりを覆したという解放感と、親の期待に背いているという小さな罪悪感がむくむくとその存在を主張し始めた。田舎に戻り、六山市議会議員である父親の秘書として経験を積み、ゆくゆくは地盤を継ぐことが求められている。しかし、深見はその意に反して我を通し、東京で就職してしまった。そんな自らの葛藤が首を擡げているのに無理やり蓋をするように、深見は視線を石像から引きはがす。

数歩先で、横向きに待つ透の柔和な視線がこちらを温かく照らしていた。



 三



 『白虎の館』は、二階建ての母屋と平屋造りの離れの二棟から成り立つ屋敷だった。

呼び鈴を鳴らせば、スピーカー越しにどうぞと姉の声が返ってくる。傍にある石造りの柱と柱に渡された金属の門を開ければ、ぎぎぎという古めかしい音が鳴った。続く飛び石を渡ったあたりで玄関の扉が開き、見慣れた女性が顔を出す。

「いらっしゃい。遠いところをよく来てくれたわね」

 深見の姉の白峰琴乃だった。

 黒目がちで、普通にしていてもほんのりと笑っているような目をしている。肩まであるゆるくウェーブのかかった髪を、上品な髪飾りで一つに纏めていた。特別美人だとは言わないが、我が姉ながら上品で綺麗だと思う。深見は小さなころから、この十三も年の離れた姉に淡い憧れを抱いていた。物心ついたときにはもう姉は高校生だったし、卒業と同時にお嫁に行ってしまったため、一緒に暮らした記憶は五歳で止まっていたが、そのことが寧ろ姉の神秘性を高めているのかもしれない。

 深見にとっての『家』とは息苦しい場所だったため、好きな相手と結ばれて円満に家を出て行った姉は、ある種のヒーローのようなものだった。また、深見に対する親からのプレッシャーが強まったのも深見が小学校に進学する時分からのことだったため、姉のいた五歳までの記憶は、今はなき幸せだった頃の家庭の記憶として、無性に慕情を掻き立ててくるものだという側面もあった。

 そしてまさに今、深見は憧れの姉の幸せの象徴を目の当たりにしているのだ。

 玄関に足を踏み入れれば、軽く目がちかちかした。明るい屋外から室内へと入ったためであろう。一歩後ろから透がついてきて後ろ手に扉をしめた。

「透さん、お迎えありがとうね。主人がちょうど出払っているものだから助かったわ」

「いえ、とんでもない。僕にとっても大事なお客さんですから」

 透の余所行きの声を背に、深見はぐるりと視線で弧を描く。玄関だけで、深見の東京のワンルームがすっぽり収まるような広さがあった。上がり框から右手に進めば、離れに繫がる渡り廊下がある。正面には二階へ繫がる木造りの階段が伸び、左手には居住空間が広がっているようだった。

「陽介の泊まる部屋は離れに用意しているわ。三部屋あるから後で好きなところを選んでね」

「ありがとう。瑞樹と友達はどこを使うの?」

「瑞樹は母屋の二階のあの子が使っていた部屋をそのまま、お友達の冷泉くんはその隣に」

「そうか。なら、俺は離れでちょうど良かったな。男同士、積もる話もあるだろうし」

深見がにやりと頬を持ち上げると、琴乃は片頬に手を当てうふふと笑った。

「そんなやんちゃな感じじゃなかったわ。上品ないい子よ」

「まあ、あの瑞樹の友達だもんな。そんな感じはする」

 白峰瑞樹に、粗野な子とつるむイメージはなかった。口数が少なそうな瑞樹の友達と言えば、おのずと似た類の人間が予想されるものだ。

「お外は暑かったでしょう。透さんもお茶でもどうかしら」

「姉弟水入らずの時間に水を差すのも申し訳ないですが……そうですね、お言葉に甘えまして、少しお邪魔します」

 琴乃に従い、二人は白峰家の中に案内される。よく冷えた麦茶が火照った身体に染み渡った。お茶菓子には、深見の東京土産の果物ゼリーがあがった。

「瑞樹は?」

 邸内から人の気配がしないことを受けて、深見はきょろきょろと首を動かす。

「今は龍川先生のお宅にお邪魔しているの。そろそろ帰ってくる頃じゃないかしら」

「龍川さんって……ええっと、眼医者だっけ? ものもらいか何かできたの?」

深見が目を丸くして問えば、「ああ、違う違う」と、琴乃は笑った。「小夜ちゃんっていう同級生がいるから、遊びに行ってるのよ。彼女も今年から市内の看護学校に通っているのだけれどね。夏の間はこっちに帰ってきているの」

 琴乃の説明に相槌を打ちながら、透も言葉を加える。

「この村には学校がないんだ。中学までは隣の五藤村にある分校に通うんだけれど、高校以降はどうしても村から離れることになるんだよ」

「透さんは高校から東京よね」

「ええ。どうしても学びたい分野が東京の大学にしかなかったんです。それで、その大学に入るために、どうしてもこの高校に通いたいって思う学校があって、父に無理を言って進学させてもらったんですよね」

「小さい頃から優秀だったものね。学びを追求しての進学だもの。素晴らしいことだわ」

「やりたいことをやらせてもらえる環境に感謝ですね」

 透が高校から上京していたことは聞いていたが、その理由までは聞いたことがなかったため、深見は興味深く耳を傾けた。

 言葉通り、学びを追求するために親元を遠く離れて東京まで出たのだとしたら、それは生半可な思いではないだろう。そして透は、実際にその思いのとおり、希望の大学への入学を成就させている。はたして、彼はそれで満足できたのだろうか。本当は理工学関係に就職したかったのではなかろうかという思いが、再び深見の頭を去来する。

 そうしたところで透の澄んだ目とかち合った。柔和そうに微笑みかけられる。

「じっと見つめてどうしたの?」

 そう清純な目で首を傾げられたら、どうも気がそれてしまう。深見も口元を緩めると、前のめりに椅子を引いて姿勢を崩した。

「いやあ、今まで別々に知っていた人たち同士が実は知り合いだったってだけでびっくりなのに、目の前で会話しているものだからさ。なんだか不思議だなと思って。俺の知っている姉さんと、俺の知っている朱野のはずなのに、揃うとなんだかいつもと違う人同士を見ている気分」

「そうよね。陽介は、私と透さんが会話しているところは初めてだものね」

「そうそう」

「言われてみれば、確かに新鮮かもしれない」と、透も思考を巡らすように宙に視線を投げる。

「でも、私にとってもそうよ。透さんと陽介のことはそれぞれよく知っているけれど、二人が揃っているのは初めてだわ。透さんもそうよね」

「そうなりますね」

「そっか。確かに、俺だけじゃないか」

 説明されて、深見は照れ臭そうに笑った。そんな深見を慈しむように、透も柔らかく笑う。この、小学校の先生や養護教諭、修道女を彷彿とさせる慈母のような笑みは、透の懐の深い人となりがよく表れていると深見は思っていた。

「いやでも、言いたいことはわかるよ。深見から聞いて知ってはいたけれど、こうして揃っていると琴乃さんと深見って姉弟なんだなあって納得するっていうか。どこか似ているよね。それぞれの世界が繋がった感じがするのが面白いなあって」

「私にとっては、透さんの砕けた口調も新鮮よ。いつも丁寧な振る舞いばかり目にしているものだから。同年代の男の子相手だとこうなるのね」

「俺は?」

「陽介は実家でいつも砕けているでしょう」

「あ、そっか……え、じゃあ、朱野って実家でも行儀よくしてんの?」

 深見が尋ねた瞬間、少し場の空気が凍ったようだった。

 一瞬の沈黙を経て、透が引き継ぐように口を開く。

「まあ……そうだな。うちは少し、特殊だから」

 そう口籠る透と、曖昧に笑って誤魔化す琴乃を前に、深見はどこか不穏なものを感じ取らずにはいられなかった。

 そんな折、ぎぎぎと門の開く古めかしい音に続いて、玄関の扉がからからと滑る軽やかな音が聞こえてきた。続いてひとつの足音が近づき、ほどなくして影が現れる。

「ただいま……やっぱり来てた。いらっしゃい、陽介くん、透さん」

 白峰瑞樹だ。琴乃に似た黒目がちの眼と、父の秀一に似た涼やかな面立ちは健在だった。

「こんにちは瑞樹くん。お邪魔しています」透は柔和に首を傾げた。

深見は椅子の背に腕を載せて背後を振り返った。「瑞樹、久しぶり。びっくりしたか?」あまりに嬉しそうに名前を呼ばれたもので、深見からも自然と笑みが零れ落ちる。

「靴があったからわかったよ。会うの楽しみにしてたんだから」

「なんだ、そうか。しかし身長伸びたな。立ったらもう変わらないぞ」深見は立ってみせた。隣に立った甥っ子の頭は、百七十五センチ近くはあるだろう深見のものとあまり変わらない位置にあった。「剣道はまだ続けてんの?」

「うん。大学の剣道部で週に三回。今日泊まりにきている冷泉ともそこで知り合ったんだよ」

「部活の友達か。いいな。ところで、その冷泉くんは?」

「もうすぐ来ると思う。靴の泥を落としてから来るって、あ、来た」と、瑞樹は背後を振り返った。

鴨居をくぐって瑞樹の背後から長身が姿を現した。

「こんにちは、お邪魔しています。冷泉誠人と申します」

 冷泉と名乗るその男は、怜悧そうな声でそう言って、綺麗に畳んだハンドタオルをジーンズの尻ポケットに差し込み会釈をした。清潔そうな黒髪は、ミディアムショートに切りそろえられている。切れ長の目と理知的な面立ちのせいか、どことなく年齢以上に落ち着いた印象を与える青年だった。

「冷泉くん、はじめまして。瑞樹の伯父にあたる深見陽介です。都内で中学の数学教師をしています」

 彼の持つ雰囲気に呑まれてか、深見もつい、語尾が敬語になってしまう。

 二人が歩み寄り握手をする横で、透がおもむろに立ち上がった。

「じゃあ、僕はこの辺りでお暇しようかな。琴乃さん、お茶ご馳走様でした。深見もお土産美味しかったよ、ありがとう。では、また夜に」

 家へと戻る透を見送った足で、深見はそのまま離れへと案内された。

 本家の廊下の、東側のつきあたりに簡素な鍵がかかった引き戸があり、そこをからからと開けた先には飛び石が続いていた。スリッパから下駄に履き替え、飛び石へと降りる。飛び石に屋根はなく、数歩進んだところでもう離れの玄関部分に行き当たった。

 琴乃は鍵を開けると、そのまま深見に手渡した。「この離れの鍵は陽介に渡しておくけど、一本しかないから出かけるときは母屋の玄関の鍵置きに戻しておいてね。中は好きに使っていいわよ」

 からからからと引き戸の滑る涼しい音が、しんと静まり返った木造建築に響き渡る。

 人の気配の全くない建物だ。

 足を踏み入れると、体温が幾分か下がったような気がした。

 上がり框を昇ると、まっすぐ廊下が伸びていた。廊下の途中で手前に開き戸が一つ、その奥にふすまが二つ見える。これが先ほど言っていた三部屋の入口だろうことは見て取れた。

「手前が板張りの洋間、奥の二部屋が和室になっているけれど、どこを使う?」

「じゃあ、洋間にしようかな」

 深見が答えると、手前の洋間のドアを開けた琴乃から、中へと促される。

 中は六畳ほどの明るい洋室だった。向かって右側にベッドがあり、正面にクリーム色のカーテンのかかった腰高窓が一つ。その手前にテーブルと一人掛けのソファが一脚並んでいる。

 人の気配がないとはいえ、まったく黴や埃の匂いは感じられない。日頃からこまめに掃除されていることが窺えた。

「つきあたりの扉が洗面所とトイレ。お風呂は母屋のものを使ってちょうだいね。靴は不便だったら、離れに置いておいて、母屋からは下駄を使ってくれても構わないから」

「何からなにまでありがとう」

 深見が説明の一つ一つを咀嚼するように頷きを落とし、最後に礼を言うと、琴乃は「では、ごゆっくり」と笑顔を零して去っていった。

 パタパタパタとスリッパの音が次第に遠ざかる。やがて届いた、引き戸の奏でる軽やかな音色を耳に、深見はようやく一息ついた。荷物を床に下ろし、上着をハンガーにかけて吊る。それからベッドにごろりと横になった。掌からちゃりんと離れの鍵が零れ落ちる。

 ずいぶんと遠いところへ来た気分だった。

 住み慣れた実家がここから車で一時間半の場所にあるというのに、まるで遠い異国の秘境にいるようだ。

腹の底からわくわくとした熱が突き上げてくるのを感じ、深見はがばりと勢いよく身体を起こす。遠い昔に抱いた冒険心と恐ろしさにようやく決着をつけた気分だった。自分は今、あのときなし得なかった冒険を十五年越しに成就させているのだ。

それと同時にあるひとつの思考が浮かんできた。

もし、あのとき――小学生の時分に、恐怖感に冒険心が打ち勝ち、この四神村へと足を運んでいたとすれば、ひょっとしたらその時点で朱野透少年との出会いを果たしていたかもしれない。

目と鼻の先で、それぞれがそれぞれの年表に足跡を刻んでいたのだと思うと、不思議な感覚に見舞われた。

けれども、深見はまだその一部を垣間見たにすぎない。

 向かうのはこれからだ。あの朱野透が十五年の時を過ごした家へと。



 四



 夕刻に向かうにつれて、空には雲が目立ちはじめた。

 そして、どこからともなく涼しい風が肌をさらっていく。

 盛夏のひまわりをぼんやりと見つめながら、深見は大きく息を吸いこんだ。

 田舎の澄んだ空気と、日の光に炙られた土が蒸発する風が混ざり合う、懐かしい匂いがした。

 排気ガスでくすんだ肺が徐々に浄化されていくようだ。

 白峰邸を出て、右手に視線を向ければ、そこには盲目の武藤霧子の住む『玄武の館』が見える。先ほど裏手から見たのとは逆に、向日葵越しの玄関が綺麗に見えた。

 家を建てた時、霧子はまだ生まれてはいなかったのだろう。

 目の不自由な婦人の住む家ではあるが、玄関は庭よりも高くなっており、扉の前には二段の石段があった。その玄関を中心に、左右対称に窓が三つずつついている。二階、三階も同じような作りだった。

 瓦屋根に和式住宅の『白虎の館』とは違い、『玄武の館』は小樽や横浜にありそうなモダンな洋館だった。社会科の教科書の文明開化の項の挿絵に出てきそうな外観をしている。

 そこから視線を左上に滑らせれば、少し見上げたところに丘が見える。

 先ほど、透と共にこの村を一望したあの小高い丘だ。

 そこから再び視線を下げて左へ転ずれば、そこには『朱雀の館』が鎮座していた。

 『白虎の館』からだと、丘に阻まれるため辛うじて屋根部分が見える程度だった全景が、近づくごとに露わになる。

 『朱雀の館』は全体的に赤みがかった外観をしており、これまで見た三軒の中で一番大きかった。レンガを積み上げたような外壁をした三階建ての洋館である。家の周囲は女性の背丈ほどの石壁でぐるりと囲まれていた。その石壁が一部途切れた箇所にビニールハウスが隣接しており、その横には農具倉庫がある。時折吹き始めた突風で開いてしまったのか、扉がゆらゆらと揺れており、その隙間から中の様子が垣間見えた。

近づいてみれば、農業用一輪車や、業務用サーキュレーター、手巻きウインチなど様々な器具が陳列されている。その奥には工具箱や端材など、大工道具一式も見える。鍵がかかっていないのは一見して不用心にも思えるが、この長閑な村においてわざわざ農具や工具を盗むような人もいないためだろう。

 ついでとばかりに、深見はその開き戸をしっかりと閉めて道へと戻る。

 道の向こう側、村をぐるりと囲む山の一角へ視線を転じたところで、不意に一体の石像と目が合った。白黒の虎の形をしている。『青龍像』とは違って今度はよく知る虎の外見しており、一見して『白虎像』だろうことがわかった。台座は古い金属でできているようで、錆びてくすんだ色をしている。また『青龍像』の対角線上に位置することから、素直に考えればこの『白虎像』は西方を司っているだろうことが窺えた。

 それから一分もしないうちに『朱雀の館』の門へと辿り着いた。

 門の前で呼び鈴を鳴らせば、品の良い老齢の声が歓迎してくれる。その声に言われるままに鉄の門をくぐれば、左手の突き当たりには四畳ほどの納屋が、右手の突き当たりには年代を感じる焼却炉があった。その手前、庭の花壇には白いアーチが掛かっていて、周りを彩る桃色の薔薇も相まって欧風の屋敷によく映える。降り注ぐ蝉しぐれがなければ、ここが現代日本だということを忘れてしまいそうだった。

それらを目で楽しみながらふらふらと通り過ぎ、建物の方へ足を進める。改めて見上げれば、実に立派な屋敷である。生い茂る木々を背にした、聳え立つ要塞のようだった。

初めての場所を訪れたとき特有の好奇心から、ついきょろきょろとしてしまう深見だったが、数段高い場所から玄関扉を背にぐるりと一周見渡したところで、こげ茶色の木製扉が観音開きに放たれた。

「いらっしゃい」

長い腕を支え棒にした透の笑顔が深見を出迎える。

 どうやらシャワーを浴びたらしく、微かに黒髪が湿って落ち着いた様はどこか幼く見えた。

 中は土足とのことで、泥落としで靴の土を払ったらそのまま足を踏み入れて良いらしい。

 どうぞと促された深見がどぎまぎしながら中へ入ると、老齢の執事がたわやかに頭を下げて迎え入れた。先ほどの呼び鈴の声の主は彼だろう。

「こちら、うちに住み込みでお世話をしてくれている執事の水谷さん。彼は僕の大学時代の友人で深見陽介くんです」

 透の紹介に合わせて、深見は軽く頭を下げた。

「深見陽介と申します。二日間、この村でお世話になります」

深見の顔を見るや否や、水谷は花が咲いたように明るい笑みを零し、恭しく頭を下げる。

「そうですか、あなたが……お会いしとうございました。お話は透さんからよく伺っております」

 人生初めてお目にかかる執事という人種からの礼遇に、深見はすっかり舞い上がってしまい、あたふたしながらぎこちなく笑みを返した。そんな年齢にそぐわぬ無邪気さを拭いきれない深見にも、歓待の相好を崩すことなく、水谷は目じりに皺を寄せて言った。

「遠いところからよくお越しくださいました、深見様。水谷と申します。御用の際にはなんなりとお申し付けください」

「水谷さんはね、俺が生まれるうんと前からうちで働いてくれているんだ。家のことならなんでも知っているから、わからないことがあったら訊くといいよ」

透に紹介された水谷は、「もったいないお言葉です、透さん」と謙遜して笑う。

「しかし……すごいお屋敷だな。外国の城に迷い込んだようだ」

 感嘆の息を漏らしながら、深見は改めてぐるりと辺りを見渡した。

 高い天井に、小洒落た硝子細工の照明、木の階段、赤い絨毯、壁にかかった剥製、レイピアのレプリカ、壺……視界に入るどれもが、映画やドラマで見る金持ちのイメージそのものだった。

 素直な感想だったつもりのその言葉に、透は困ったような笑いを零す。豊かであることに、あまり良い思いを持っていないような反応だった。

「こんな田舎だし土地だけはあるからなあ。一人で整備してくれている水谷さんには頭が上がらないんだよ」

 どうぞ、と居間へ促された深見だったが、どうしても気になっていたことが一つあった。

「おじいさんにお線香、上げてもいい?」

 深見の申し出に、「あー」と透は視線を逸らしながら、眉を八の字にした。「ごめん、うちは仏教じゃないから線香はないんだ。心遣いありがとう」

 気遣いを折るようで心苦しかったのだろう、すまなそうにする透だったが、深見は友人の知らなかった一面に感興を覚えることこそあれど、気を悪くするなどあるはずないと胸の前で手を振って返す。

 仏教でないとなると、朱野家はキリスト教なのだろうか。キリスト教においては、礼拝対象は神だけであり、死者へ手を合わせることはしないのだと聞いたことがある。

 そうしたところで透に案内された居間は、二十畳はありそうな大きな部屋だった。本物などほぼお目にかかったことがないため真贋こそわからなかったが、居間の床は白い大理石風の石で一面覆われていた。

「まあ」

 聞こえてきた声に深見は顔を上げる。奥から顔を出した着物姿の女性と目が合った。年の頃は四十を越えたあたりだろうか。艶やかな黒髪をきっちりと結い上げ、蛇のような三白眼をしている。全体的に、どこか能面のような無感情さを覚えた。

「こちら、藤川絹代さん」

 透の紹介を受けると、藤川絹代は温度のない目でじろりと深見を一瞥した。その視線から排他的な印象を受け、深見はじわりと芽生えた居心地の悪さを奥歯で噛み潰す。

「こちら、先日話しました僕の友人の深見陽介くんです」

 例のごとく透が紹介するのに合わせて、深見も一礼を返す。藤川絹代は、なおもじろりと値踏みするような冷たい視線を貼り付けたまま、形だけの目礼を寄越してきた。

 そうしたところで、扉の開く音と共に背後からもう一つ足音が近づいてきた。

「やあ。君が深見くんかね。よくきてくれた。話は聞いているよ。透が世話になって。東京で教師をしているそうじゃないか。現役で教員採用試験に受かるだなんて素晴らしい」

 居間の入口から姿を現したのは、茶色の着流しに身を包んだ、がっしりとした体躯の中年男性だった。黒い髪を後ろになでつけ、黒縁眼鏡に口髭をたくわえた様は、どこか厳格そうな印象を受ける。

「こちらが僕の父」

「深見陽介と申します。わたくしのほうこそ透くんにはよくしてもらっております。今晩は夕食会にお招きいただきありがとうございます。こちら、心ばかりのものですが」

 そう言って深見が紙袋から取り出した東京土産の菓子を渡すと、「いやあ、気を遣ってくれてすまないね。おい、絹代。お茶と一緒にお出ししてくれ」至極ご満悦といったふうに源一郎は、藤川絹代を呼びつけて包みを手渡した。

絹代はしおらしくそれらを受け取ると、台所へと消えていった。

 その様子を受けて、深見の中で一つの下世話な考えが生まれる。

かつて透から、母親が他界しているという話は聞いていたが、この藤川絹代はひょっとしたら内縁の妻のような位置づけなのかもしれない。

そう考えると、透から絹代についての明確な紹介がなかったのも頷けた。後妻であれば、苗字は朱野になるだろうし、透も養母と紹介するだろう。また、身なりや絹代の透に対する振る舞いから、使用人でないことも明らかだった。

ここまで閃いてしまったところで、他人の家のことをむやみに詮索するものではないと、深見は慌てて首を振る。台所では、藤川絹代が表情一つ変えずにお茶を淹れていた。

 このとき深見は、透が自身の家庭を特殊だと言っていた、その片鱗を垣間見た気がしていたが、これがそのほんの一角にすぎないことをまだ知る由もなかった。





 源一郎と絹代とを交えたお茶は、どこか息苦しいものがあって、正直なところ深見にとって居心地のよいものではなかった。時代錯誤な男尊女卑と、典型的なレッテル主義の固まりである源一郎と、その源一郎の一歩後ろで追従を繰り返す藤川絹代の相手は、職業柄多彩な保護者たちを相手にする深見でさえも、感歎するほどである。明治時代にでもタイムスリップしたかのようだ。失礼ながら、透は毎日このような相手と寝食を共にしているのかと思うと、同情の念さえ沸いてくるものがあった。

 その空気を察したのか、透が、「そろそろ部屋にいこうか」と、提案したのだが、それが深見にとって鶴の一声だったのは言うまでもない。

 二人は連れたって席を立った。

 先ほど入った玄関側とは反対の扉から居間を出ると、渋い焦げ茶色の板張りの廊下に出た。まず右手にトイレがあり、その奥に階段がある。先ほどの玄関ホールから続く広い階段とは違い、人ひとりが通れるくらいの狭い階段だった。それが二階と、それから地下に続いている。

 突きあたりは勝手口になっており、窓の外を見遣れば二、三メートル向こう側に先ほど庭から見かけた納屋が見えた。

 透が二階へ続く階段に一段足を掛けたところで、深見は地下へ続く階段を見下ろして言った。「地下もあるんだ」

「ああ」透は振り返って、段に乗せていた足を引っ込めた。「地下はね、普段はあまり行き来しないんだけどね」

「そんなもんなんだな。シェルターとかありそう」

「さすがにないよ」透は楽しそうに肩を揺らした。

 透の部屋は、二階に上ってすぐの角部屋だった。狭い階段は二階までで行き止まりになっている。

「三階へ昇るには中央階段を使うんだよ。三階は使用人の部屋だから、行くことはないだろうけど」

廊下の窓にはロールアップカーテンが下りていた。

「西日が眩しくてね」透が困ったように笑った。山裾に沈む夕日の絶景も、毎日となると流石に飽きるものらしい。

 細い廊下を二つ折れて透の私室に案内される。南向きの窓の外は小さなバルコニーが部屋ごとにあり、見下ろすと真下に納屋が、その奥にビニールハウスと農具倉庫が見える。そこから更に向こう側へと視線をのばすと、ひまわりや木々の先に白峰邸の瓦屋根の一部が覗いていた。

 大学時代、透の下宿先を訪れた際にも物の少ない部屋だと思ったものだが、案内された透の部屋も似たような簡素な部屋だった。

「どうぞ、座って」

 深見をソファに促すと、透は書き物机の備え付け椅子を向かい合うように置きなおして自らも腰を下ろした。

「お邪魔します。お、ソファふかふか。なんかすごいな、日本じゃないみたい」

「ふふ。深見が楽しそうでよかった。唯一雨が心配だけど」

 透の言葉を受けて、深見も窓の外へ視線を向ける。厚い雲が垂れ下がり、先程に増して風が強くなっているようで、木々がゆさゆさと重そうな枝葉を揺らしていた。

「雨降るのかな」

「台風が来ているようだからな。大陸の方にそれるみたいだけど、この様子だと夜は大雨になるかもね。夕食会が終わるまでは本降りにならなければいいけども」

「まずいな、俺傘持ってきてないや」

「それは貸すから心配いらないよ」笑ってくるりと深見に向き直ると、透は悪戯そうな笑みのまま続けて言った。「びっくりしたでしょ」

 何がと言われずとも主語に察しはついたものの、深見は反応に困ってしまった。曖昧に口を開閉させる。

そんな深見を助けるように透は続けた。

「うちの父親、ああいう人だからさ。周囲に気を遣わせるんだ。夕食会のときももしかしたら大変かもしれないけど、俺も割って入るようにするからさ。それから……なんとなく察しはついているとは思うけど、絹代さんとは内縁関係のようなものだと思ってもらえれば。これは、さすがに居間では言いにくくて黙っていたけれど」

「そっか」深見はあまり重くならないように口角をあげた。「下に弟と妹がいるって言っていたっけ」

「ああ、うん」透は曖昧に零して、視線を泳がせた。「双子の弟と、五つ下に妹がいる。母は、俺と弟を産んですぐに亡くなったから、俺らと妹とは母親が違うんだよね。妹の母――百合子さんっていうんだけど、その人も十年前に病気で亡くなって。しばらくは父も独りだったんだけど、二年くらい前から絹代さんと……」

「そっか」これは想像以上に複雑そうだと、深見は透の言葉を丁寧に脳内で整理する。「弟さんと妹さんもこの家に?」

 深見が問うと、透は一度唇を閉じ、改めて口を開いた。

「ああ。妹の静は、高校を卒業して今は家にいるよ。来年の春には結婚して出て行っちゃうけど」

「へえ、それはおめでたいな」

「これが妹」と透が本棚から取り出したアルバムには、雅やかな透とは少し毛色の違う、派手な顔つきの女性が笑っている写真があった。

「へえ!」深見は思わず感嘆の声をあげる。

「それから、これが俺の母」

 アルバムのページをひとつ前に戻すと、品のある和装の女性が椅子に座って微笑んでいた。隣には紋付き袴姿の、若かりし源一郎が仁王立ちしている。

「綺麗な人だな」

 深見がそう言うと、透は面映ゆそうに顔を綻ばせた。

「実際に会った記憶はないんだけどね」

「朱野と似ている」柔和そうな目元がそっくりだった。「朱野はお母さん似なんだな」と深見が言うと、透は至極嬉しそうに頷いて、ぽつりぽつりと話し始めた。

「母は大学を卒業してすぐにここに嫁いだらしいから、この写真は二十二歳くらいなのかな。今の俺より若いんだよ。二十四で亡くなっているからさ。この年で、親の年齢を追い越してしまったんだ」と寂しそうに笑う透にかける言葉が、深見には見つからなかった。

 そうして透はパタンとアルバムを閉じ、丁寧に元の棚へと仕舞いこむ。

「弟さんも家にいるのか?」

 そう問われて一瞬、透の表情が能面のように固まるのを深見は見た。透がこの能面になるのを、この村に来て深見は何度か見ていた。知る限り、東京では見ることのなかった表情だ。

透はすぐにいつもの表情を取り戻してこっくりと肯いた。

 窓硝子を雨粒が叩く軽妙な音が一つ、二つ響いたかと思うと、次第に束となって押し寄せる。

 雨が降り始めたようだった。

「あ、家にいるんだ。会って話がしてみたいな。同い年だし」

 はしゃぐ深見を前に、透は何度か唇を噛んで、視線を逸らした。

「それはできない」

「え」

「弟は――」

 そのとき一閃の稲光が、部屋を白く呑み込んだ。



 五



「これも和室に仕舞う分?」冷泉誠人は、物干し竿から敷布団を引きずり降ろして振り向いた。

縁側の上から白峰瑞樹が両手を広げて肯くのに、布団を抱えて歩み寄りバトンパスをした。渇いた土に、木製の下駄の音が涼やかに響く。

 冷泉誠人と白峰瑞樹は、午前中に『白虎の館』の離れの庭に干していた布団を、連携して取り込んでいた。だんだんと西の空が暗くなってきたので、慌てて庭に出てきたのだ。

 中途半端に作られた生垣の割れた向こうに、『青龍の館』がよく見える。青銅色を基調にした、横に長い家だ。ぼんやり見上げていたそのとき、二階の窓硝子が開き、中から龍川小夜が顔を出した。

 互いに目が合い、びっくりしたように目を丸くする。冷泉は小夜を見つめたままだったが、小夜は動揺したように目をあちらこちらに向けて俯いた。そして、そろそろと窺うように視線を冷泉の方に戻す。その一連の挙動が初々しくて、冷泉は柄になく緩みそうになる口元を右手で押さえた。

そんなところに、「何してんの」突然背後から瑞樹の声が降ってきたものだから、冷泉は、それはもう柄になく泡を食って振り返った。いつの間にか、縁側から降りて近くに来ていたらしい。

「いや……」と、何がいやなのかよくわからないまま冷泉が呟きながらそろそろと小夜を振り返れば、視線の先で小夜が口元に揃えた両手をあてて小さく肩を揺らしていた。

「小夜ちゃんに見とれていたんだろ」

 隣から瑞樹のじっとりとした目線が刺さる。

「違うから」と、反射的に勢いよく否定してしまったものの、このままだと小夜に失礼にあたると思い直した冷泉は、慌てて小声で付け加えた。「いや、小夜さんは確かに、魅力的だと思うけど」

「小夜ちゃんは駄目だからね」

「だぁから、違う」

「ふふ、わかってるって」瑞樹は少女のように肩を揺らして笑った。彼の癖だ。白峰瑞樹は人見知りだから大抵の人には見せないが、親しくなれば悪戯っ子のような一面を見せてくれる。多分に茶目っ気のある性格だが、引き時はわきまえている男だ。

「駄目って……付き合っている人がいるのか?」

同じく少女のような小夜を見上げながら、少し意外だと冷泉は小さく尋ねた。この自然に囲まれた村で過ごすと、みんな少女のような天真爛漫な性格に育つのかもしれない。

「いや、まあ、好きな人がいるんだよ、小夜ちゃんには」

 瑞樹がらしくなく濁すのに、冷泉はこれ以上の追及も野暮そうだと「そうか」と返すにとどめた。

 龍川小夜は、おかっぱ頭の小柄な体躯をしている。瑞樹に輪をかけたような人見知り気質のようで、昨日始めて会った時には「はい」か「いいえ」くらいしか声を聴いていないのではないかというほどだった。同じ空間に、互いの共通の友人である瑞樹がいなければ、とても会話が成り立つとは思えない。そのくらい初心な印象を冷泉は抱いた。

「小夜ちゃん、今ひまー? また少し遊びに行ってもいいー?」瑞樹が間延びした声を投げた。これも絶対に大学の構内では聞けない声量だ。小夜のおかっぱ頭がこくりと揺れるのを確認するやいなや、瑞樹は冷泉を振り返って目を輝かせた。「行こうよ。夕食会までまだ時間あるし。俺持って行きたいものがあるんだ」

 そう言って、瑞樹は物干し竿に二枚残ったシーツを乱暴に引っ張り込むと、下駄を脱ぎ捨てて足早に縁側から和室へとのぼっていった。すぐさま、手ぶらで戻って来て縁を降り、母屋の方へ駆けていく。鍵はかけなくていいのだろうか。思わず、鍵の開いたままの硝子戸を二度見して、冷泉も後に続く。都会育ちの冷泉からすれば、窓や玄関の施錠をしないだなんて無防備に思えたが、この村ではそれが当たり前なのだろう。昨日、今日と二度龍川家を訪れたときにも、閉じた玄関の鍵の外れる音はしなかった。

 先に自宅へと戻った瑞樹に続いて、冷泉は『白虎の館』の玄関の戸をからからと開けて中へ入る。扉を閉めたことで蝉の合唱が遠のき、かわって二階で足音が動くとたとたという音が耳に届いてきた。それに続いて『ちょっと瑞樹、何ばたばたしてんのー』と、台所から笑いを含んだ琴乃の声がする。琴乃は、今晩の夕食会の差し入れの準備があるらしい。

 冷泉が木の下駄からスニーカーへと靴を履き替え、上がり框へと腰を下ろしたところで、麦茶の入ったグラスを盆にのせた琴乃が廊下へと出てきた。

「お布団ありがとうね冷泉くん。助かったわ」

 渡された冷たいグラスに、「いただきます」と礼を述べて冷泉は口をつける。香ばしい麦の香りが慕情を掻き立てた。「せっかくの男手ですので、何かあれば使ってください」

「頼もしいわね。お客様をこき使ってしまって悪いけど、それじゃあ遠慮なく」

 琴乃が悪戯そうに笑うのにつられて、冷泉も白い歯を零す。

「少しでも泊めていただくお礼ができたら幸いです」

 そうしたところで、足音を立てて瑞樹が下りてくる。

「ちょっと小夜ちゃんのところに行ってくるね」

「あら、また行くの? 五時半にはここを出るから、それまでには戻ってきてね」

 その言葉に腕時計を見遣ると、針は午後三時半を回ろうとしていた。



 六



 村の最南端に位置する龍川家の敷地の向こう側、森の中にそれは静かに鎮座していた。

『朱雀像』である。

 両翼を広げた鳥の形をした赤い石像だった。周囲の雑草は綺麗に刈り取られ、ぽっかりと、そこだけスポットライトのように日の光が当たっている。上空を見れば、生い茂った木々の枝がその上空だけは丸く切り抜いたように剪定され、常に翳らないような工夫が施されているようだった。それらを横目に見遣りつつ、冷泉と瑞樹は『青龍の館』の玄関へと向かった。

 龍川家はこの村の四つの『館』の中で、最も庶民的な造りをしている家屋だった。

 細長い直方体型の一階の東側半分に、立方体型の二階がちょこんと乗っている。そのちょこんと乗った二階の一角に、龍川小夜の部屋があった。

 学習机がそのまま残った部屋の中央に、丸い絨毯と木のちゃぶ台がある。その上で、汗をかいた三つのグラスのうちの一つがからんと音を立てた。

改めて冷泉はぐるりと部屋を見回す。女子の部屋に入るなど、もう何年振りだろうか。そう意識した途端に、カッと体の芯が熱くなるようだった。

この部屋には時計がない。聞けば、小夜は秒針の音が苦手で、小さいころから私室に時計を置いたことがないらしかった。

勉強机の脇では、一つの包みを挟んで瑞樹と小夜が額を突き合わせている。

「透さんからもらった時計、壊れたって言っていたからさ」瑞樹の手元には、置時計の空箱があった。

すぐ隣では、小夜の華奢な指がデジタル時計を物珍しそうに撫でまわしている。「ありがとう」小夜は不器用にはにかんだ。

そんな小夜の笑顔に、瑞樹はごく幸せそうな表情を返した。

 その時計は、先日仙台の量販店で購入したものだった。買い物に付き合ったときには、自室の時計でも買い替えるのだろうと冷泉も深くは考えなかったが、どうやら彼女への土産だったようだ。

 会話に出てきた透というのは、先ほど白峰邸を訪れた朱野透のことだろう。先ほどから交わされている話から推測するに、秒針の苦手な小夜のためにと、透は彼女が小学生だった時分に時計を贈ったらしい。そして、その時計がどうやらずいぶん前に壊れてしまっていたようだった。

 欲しければ自分で買いに行けばいいのに、なぜ放っといたのだろう? そう考えた瞬間、冷泉の頭の中に一つの考えが浮かび上がった。

――好きな人がいるんだよ、小夜ちゃんには。

 瑞樹の声が蘇る。ああ、そういうことねと緩んだ口元を右手の甲で押さえて、冷泉は勉強机に視線を向けた。

とすれば、どうやら瑞樹は気づいていないらしい。先ほどの口ぶりから、小夜の想い人の正体は知っているはずなのに、時計を買い替えない小夜の行動の裏には気がついていないようだ。それとも、瑞樹は気づいたうえで、敢えて透に宣戦布告を叩きつけているのだろうか? それはそれで面白いと、再び緩みそうになる口元を咳払いで誤魔化して、冷泉はもぞもぞと胡坐を組みなおした。

「このボタンで時刻を合わせられるんだ。えっと……」と顔を上げた瑞樹は何かを探すように視線を彷徨わせる。見れば二人とも腕時計をしていないようだ。

「三時五十五分」

 冷泉が左手首を持ち上げて時刻を読み上げると、笑顔とともに「さすが冷泉」と瑞樹の囃し立てる声があがる。「でも、電源が入らないねえ……あ、まだ電池が入ってないのか。あはは、うっかりしてた」そう言って瑞樹は暢気に笑った。どうやら電池は付属していなかったらしい。

「一階に行けばあるよ、きっと。夕食会の後でお父さんに聞いてみる」ありがとうね、瑞樹くんと、小夜ははにかんだ。

 そのまま冷泉は窓の外へ視線を移す。だいぶ空が近くなり、辺りは湿っぽく暗くなり始めていた。

「降り出す前に帰ろうか」

 どちらともなく腰を浮かして、部屋を出る。瑞樹の目的は果たせたようだし、これ以上長居する理由もないだろう。

「また後でね」

 玄関先でいいと言ったにも関わらず、健気にも小夜は外に出て二人を見送ってくれた。二人が白峰邸の影に隠れて見えなくなるまで、小夜はずっと小さな白い手を振り続けていた。



 七



「すごい稲光だったね。しばらく降るのかな」

顔を上げた透は、一転、普段通りの柔和な表情を取り戻していた。それから窓に視線を移し、腕時計と見比べる。

正直、深見にとっては天気よりも透の話の続きが気になって仕方がなかったが、「そろそろ時間かな。風が出ないうちに、霧子さんを迎えにいかなきゃ」しきりに時間を気にする様子の透を前に、続きを乞うタイミングを完全に見失ってしまった。

 そこで深見は、先ほどの『玄武の館』での会話を思い出す。そういえば透は窓越しの武藤霧子に対し、夜の食事会の前に迎えに行くようなことを言っていたようだ。

合点がいったと透の後を追って部屋を出たところで、不規則な足音が耳に入った。

「あ」

 足音の主は中央の階段をまさに今降りようとしているところだった。すぐに、声に気づいて振り返る。そして深見の姿を視界に入れるや否や、そのままUターンしてこちら側へと歩いてきた。

「わあ、お兄ちゃんのお友達の! 深見さんですよね。はじめまして、透の妹の静です」

 朱野静は、さも嬉しそうに破願一笑してみせた。初めて話の通じそうな家人と会ったとあって、深見は心が軽くなるのを自覚して歩み寄る。

「ああ、妹さん。はじめまして、深見陽介です。よろしく」

静の派手な顔立ちと茶色い巻き髪は写真で見たままだったが、動くとそこに天真爛漫さが加わり、少しだけ幼い印象が上乗せされた。怪我でもしているのか、片足を少し引きずって歩いているようだ。深見が一瞬視線を下げたのに気付いたのか、静は軽い口調で笑って言った。

「あ、この足ですか? 何年か前に、二階のベランダで洗濯物を干していたら、板が腐っていてですね。そこを踏んで落ちちゃって、少し怪我が残っちゃったんですよ。でも、もう痛くはないから、気にしないでくださいね」

「そっか、それは大変だったね……お大事に」

 深見が眉尻を下げると、静は至って明るく「ありがとう」と礼を述べた。

「静も居間に降りるの?」

「うん。夜の支度を手伝わないと。ふりだけでもね」

「ふりね」と透は笑う。二人だけで通じ合う何かは、兄妹の仲の良さを感じさせるものがある。

「うそうそ、真面目に手伝うよ。大事なお客様に喜んでもらわなきゃ」ね、と静は深見に満面の笑みを向けた。そして、すぐに透に向き直って首を傾げる。「お兄ちゃんたちは?」くるくるとよく表情の変わる子だ。

透はそんな妹の頭を視線で撫でるようにして答えた。「今から武藤さんを迎えに出るところだったんだ。深見はどうする?」

 透という触媒の欠けた深見では、見ず知らずの人達が溢れるこの家に残ったところで時間を持て余すこと必至である。

深見がうーんと迷っていると、「ついてきてくれてもいいし、俺の部屋でゆっくりしていてもいいよ。父のコレクションルームにはいくつか本もあるけれど」と、透は自室の隣に位置する目の前の扉を押し開けて明かりをつけた。

 身を引いた透と入れ替わる形で深見は中を覗いてみる。玄関の延長よろしく、物珍しい調度品が所狭しと並んでいた。絵画に始まり、剥製、硝子細工、分厚い書籍、メイス、ボウガン、レイピア、サーベル、甲冑……一見、種々雑多な印象を受けるが、よくよく見ればやや中世の武器類が目立つようにも感じられる。

 深見がそれらを物珍しそうに一望したところで、静の声がその背を叩いた。

「深見さん、お兄ちゃんを待っている間よかったら居間で私とお話ししませんか? お兄ちゃんの普段の様子とか教えてください」

「それもいいね。俺も家での朱野の話聞きたいな」

 深見が笑顔で食いつくと、透もつられたように笑みを浮かべて言った。

「おいおい二人とも、あまり余計なこと言うんじゃないよ」白い歯を見せたまま、透は腕時計に視線を落とした。「じゃあ、ちょっと行ってくるね。深見はゆっくりしていて」

「わーい」と子供っぽく喜びを表す静に、透は「あまりお客様を困らせちゃあ駄目だよ」と悪戯そうに釘を刺し、「じゃあ行ってくる」と階下へと急いだ。

その背を見送りに玄関まで出た二人を、振り返ってもう一度手を振った後、透は傘を一本余分に手にして風雨の中を駆けだした。やがてその背中も、すぐに白い雨筋に隠れて見えなくなった。



 八



 居間には、手際よく夜の準備を進める水谷の姿があった。

 忙しそうにしている傍で呑気に歓談するのは少し気が引けるかと、躊躇いが生まれた深見は隣の静を横目で窺うが、無論彼女に動じる様子はない。

「水谷さん、手伝いに来ましたよ」

 そうだ。彼女は手伝いにきたのだ。となると手持無沙汰な浮雲は深見ただ一人になる。深見は自身の浅慮を後悔して一歩後ずさった。しかし、そんな深見の心境など静が知る由もなく、名前を呼ばれて手招きされ、いよいよ部屋から出られる気配ではなくなった。

 静の声を聞きつけて、台所の奥から水谷が顔を出した。口髭から覗いた唇を綻ばせる。

「いつも助かります、静さん」

「花嫁修業ですから」

 どうやら、静が家のことを手伝うのはそう珍しいことではないらしい。

 二人の会話を部屋の入口付近に突っ立ったまま聞いていると、静に部屋の奥へと促された。

「本日の主役が、何を突っ立っていらっしゃるんですか。こっちでお喋りしましょ。あのお髭の人は、執事の水谷さん。もうお会いになりましたか?」

 そのままカウンターに一番近い席へと通される。

「うん。来たときに」

 ちらりと目で窺った先で、水谷がにこりと会釈をするのに、深見もぺこりと返した。

「あら、そうだったんですね。深見さんはそこで私たちの話し相手になってください。お紅茶とコーヒーはどちらがお好きですか?」

「いやあ、なんだか俺だけ座っているのも悪いなあって」眉を八の字にしながら、深見は紅茶を選んだ。

「そう仰らずにどーんと寛いでいてください。話し相手が増えて、私も水谷さんも嬉しいばかりなので。それが深見さんのお仕事ってことでどうでしょう?」

「じゃあお言葉に甘えて」

「自分だけ寛ぐのが居心地悪いだなんて、深見さんの未来のお嫁さんは羨ましい限りですね、水谷さん」

「そうですね。お人柄が滲み出ているようです」

「ええ。そういうさりげない部分に本性って出るものですよね。今ではだいぶ家事を手伝ってくれる殿方も増えたっていいますけれど、やっぱりまだまだ少数派ですもの」

 静はティーセットをテーブルに並べながらどうぞと言った。砕けた口調とは裏腹に、その所作のひとつひとつからは育ちの良さが滲み出ている。

「いただきます……このお茶すごくおいしいよ。俺からすれば、静さんの未来の旦那さんが羨ましいな」

「やだ、深見さんったらお上手なんですから。茶葉がいいだけですよ」

静がはにかんだところで、外で風が啼いた。その音に、三人の視線が窓の外へと集まった。

「風が出て参りましたね」水谷が鼻髭を揺らした。

「武藤婦人、あまり濡れなければいいけれど」静は心配そうに頬に手を当てる。

「送迎はいつも朱野が?」深見は先刻の会話を回顧して尋ねた。

「もとはと言えば、お父様が天涯孤独の身になった武藤婦人を不憫に思って、何かとお世話をするようになったのが始まりみたいなんですけどね。お兄ちゃんが大学から戻ってきてからは、それを引き継ぐって自分から」

「へえ、そうなんだ」

「武藤婦人は週に一度、決まった曜日と時間に龍川先生のところへ眼の検診に行っているんですけれど、その時の送迎もお兄ちゃんがしているんですよ。お兄ちゃんも率先してやっていることだと伝わってくるし、武藤婦人もそんなお兄ちゃんのこと、とても信頼しているみたいだし」

静が最後のグラスを磨き終わったところで、ちょうど居間の柱時計が五つ鐘を打った。その音に導かれるように一同が顔を上げる。

「少し小降りになってきたのかな」

 外は日暮れに加え、嵐の前特有の黒い雲も相まってかなり視界が悪くなっているようだった。

そうしてしばらくしたところで、玄関の呼び鈴が鳴り白髪に口ひげを蓄えた老紳士と、小柄で華奢なおかっぱの少女が連れたって現れた。今まで紹介を受けた中から逆算すれば、彼らが龍川親子だろうことが予想されたが、外見では親子というより祖父と孫のような印象を受けた。

「ごめんください。本日はお招きいただきありがとうございます。ご挨拶したいのですが、ご主人は」

「龍川先生に小夜ちゃん、いらっしゃいませ。いやだわ。お父様ったらまだ自室にいて。呼んで参りますのでどうぞおかけになってお待ちくださいね」

 静が部屋を出るのと同時に、アイスティーをお盆に乗せた水谷がやってくる。

 良く冷えたグラスを受け取りながら、龍川医師は深見のもとに近づくと、草臥れた中折れ帽を胸に押し当てて、人のよさそうなゆったりした口ぶりで言った。

「わたくしは、この村で開業医をやっております龍川清三と申します。もうかれこれ四十年近くなりますかな。あなたが琴乃さんの弟君という――」

「はい、深見陽介と申します。日頃から姉がお世話になって」

 つられて立ち上がった深見も、ぺこりと頭を下げる。年配者に自己紹介となると、プライベートでもつい格式ばったものになってしまうのが社会人の悲しき性だろうか。

 龍川医師は、年季の入ったらくだ色のジャケットの襟をぴんと引っ張ると、右掌を顔の前で振った。

「いやいや何をおっしゃる。唯一のお隣さんということで、なにかと世話になっておるのはわたくしどものほうですぞ。こちらが一人娘の小夜です」

「こんにちは」

 小夜は鈴の音のような声で小さく頭を下げた。頬の下で切りそろえた黒髪が揺れる。高校を卒業したばかりだと聞いていたが、それよりも幾分か幼く感じられた。

「いやあ、この年になっても人見知りがなかなかなおらなくてですな。静さんや瑞樹くんとは同い年なのですが、まるでしっかりした姉兄と引っ込み思案な妹のようですよ」

「それもひとつの個性ですよ。どちらがいいというものではないと思いますよ。よろしくね、小夜ちゃん」

 そう言って深見に顔を覗き込まれると、小夜は視線を泳がせながら面映ゆそうに不器用な笑顔を浮かべた。

 大時計の針が五時半を指す頃に、大きな包みを手にした白峰琴乃がやってきた。

 だいぶ雨脚が強まっているらしく、共に来た瑞樹や冷泉などはズボンの裾の色がほんのり変わってしまっている。室内に扇風機でもついていればじきに乾きそうなものだが、あいにくこの村の空調整備率は芳しくないらしく、訪れた二軒ともに開け放った窓からの通気で暑さをしのいでいる様子だった。防犯上、窓や玄関の施錠が必要不可欠である都会と違って、田舎ではそのようなものなのだろうか。現に六山市にある深見の実家においても、晴れた日などは、開け放った窓から心地の良い冷気が吹き込んできたものだ。更に山奥深くに位置する空気の良いこの村では、なおのこと自然の風でも充分に過ごしやすいことだろう。

 しかしながら、残念なことに今日は荒天である。朱野家の豪奢な窓ガラスは、一つ残らずぴったりと締め切られていた。天井に備え付けられているシーリングファンが、気休め程度に回っているだけである。

 白峰琴乃は、応接机に朱野源一郎と龍川医師の姿をみとめると、土産物のワインと大きな箱を家主へ手渡していた。そのまま一言二言挨拶を交わしている。やがて、その輪から外れて、白峰瑞樹と冷泉誠人の二人が深見の座るテーブルへとやってきた。深見の向かいには一仕事を終えた朱野静が、その隣には少し肩に力の入った様子の龍川小夜が座っている。

「やあ。さっきぶりだな。雨酷かった?」深見は右手をあげた。

「雨もだけど、風がね、結構出てきて」瑞樹はしきりにハンドタオルでズボンの裾を拭っている。その隣で冷泉も涼しい顔で濡れた箇所にタオルハンカチを押し付けていた。

ハンカチ所持率百パーセントだなんて、品の良い男どもだなどと深見が感心していたところで、テーブルの下に潜るようにして足元を拭っていた瑞樹が、顔を上げてきょろきょろと首を回した。

「透さんは?」

「お兄ちゃんは、武藤婦人をお迎えにあがっているよ。もうそろそろじゃないかな」

 静の声につられて一同視線を外に向けたところで、ちょうど居間の扉が開いた。

 透と武藤霧子だ。黒い丈長のワンピースを着ている武藤霧子だったが、そう雨に降られた様子もなく、また透のズボンの裾も元の色を保ったままだった。

「霧子さんこんにちは。あいにくの雨ですが、お越しいただきありがとうございます。濡れませんでした?」

 静がフレアスカートをはためかせて歩み寄るのに、自然と他の面々が続く。武藤霧子は機嫌よく唇を弓なりに綻ばせて肯いた。

「ええ、大丈夫よ。透さんがちょうど小降りのときを見計らってくれて」

ね、と水を向けられた透が控えめに笑ったところで、「あ」と背後から声があがった。

反射的にモーゼの十戒よろしく人の波がぱっかりと開いた。その最後尾では、冷泉誠人が赤褐色の壺を片手に不自然な体制で立っていた。

すぐ傍で、「ご、ごめんなさい」と小夜が顔を蒼くしているところを見るに、棚の上の調度品に小夜がぶつかり、転がり落ちそうになったところで冷泉が受け止めた流れだろう。流石剣道部の反射神経だといったところだろうか。

 受け止めた壺を両手で棚に戻す冷泉の脇から、小夜が恐る恐る手を添えた。その強張った横顔を、冷泉が不思議そうに眺めている。

そんな構図を前に、武藤霧子が品のある笑みを湛えて言った。「たいそうな骨董品ですものね」

「見るからに高級そうですもんね」と、顔を引きつらせた深見も続く。

「何百万、何千万の世界よ」

「えっそんなに?」

 目を丸くする深見に、透は困ったような笑みを向けた。

「人が通る場所に置いておくのが悪いんだよ。二人とも、怪我はない?」

 透の柔らかな問いかけに、冷泉は「ありません」ときっぱり返し、小夜はふるふるとおかっぱ頭を揺らす。その答えにほっと一つ頷くと、透はさあと部屋の中心を掌で示した。

 人波に従う深見を目掛けて近づいてきた瑞樹が、周囲に気づかれないようそっと耳打ちした。

「陽介くんも気をつけてね。源一郎さんの逆鱗に触れると大変なことになるから」



 九



水谷が各人にグラスを配り始めるのに合わせ、集まった面々が自然と中心へと流れる。

 そうしたところで、家主の朱野源一郎がもの言いたげに立ち上がり、咳払いを一つ零した。自然と一同の視線が集中し、雑音が波のようにしんと引いていく。源一郎はその空気を舌の上で転がすようにゆったりと辺りを見渡してから、おもむろに腫れぼったい唇を開いた。

「みなさんにグラスは行き渡りましたかな」

太いバリトンが、地鳴りのように響き渡る。紋付き袴の家主は、客人が思い思いにグラスを胸の前で掲げてみせる様を満足げに確認し、大きく胸を膨らませた。

「本日はお足元の悪い中お集まりいただきありがとうございます。こうしてこの村の全員が一堂に会すのも久方ぶりですな。亡父の葬儀の際には突然の不幸ということもあり全員は揃うことはかないませんでしたから。まあ、湿っぽい話はこれまでにしましょう。今宵は嬉しいことに村の外からお客様がみえています。どうぞ皆さんごゆるりとお寛ぎください」

 やがて源一郎の乾杯の音頭を皮切りに食事会ははじまった。が、この村の全員という言葉に、深見は強い違和感を覚える。

朱野透の弟の姿がないではないか。

 シャンパングラスを片手にこっそりと隣の透の横顔を窺えば、特段気にする様子もなく普段通りの涼しい顔をしていた。

 それから一時間ほど歓談したところで、深見の疑問は解消されることになる。透は腕時計を確認して深見に小声で言った。

「しばらく出てくるね」

「どこへ?」

「弟の食事の時間なんだ。持っていってくるよ」

「病気か何か?」

 尋ねると、透は一瞬の間をおいて、「まあ、そんなようなものかな」曖昧に肯いた。

「そっか。弟さんが病気だというのに、俺たちばかり悪いな」

「気遣いありがとう。でも、深見は気にせず楽しんでいて」

 そう言うと、透はなるべく人に気づかれないよう場を気遣いながら、裏口側の扉を静かに開けた。深見も見送りがてら一歩二歩後を追う。開いた扉の隙間から、一匹の猫と目が合った。

隣から、「まぁた入り込んだんだな」と透の困ったような声があがる。「何匹かうちに棲みついちゃって。父さんが動物を好きじゃないから、なくなく追い払っているんだけれどね。居心地がいいみたいでなかなか離れてくれないんだよね」

「へえ。朱野が引き寄せてんのかもな」

 大学の構内で不思議なくらい透がよく動物に懐かれていた光景が浮かんできて、深見は思わず笑みを零す。透にも伝わったようで、彼も横目でにやりと笑った。

「さ、父さんに見つかると大変だから、もうお行き」そう言って裏口の扉を薄く開けた透の腕に飛沫が走り、隙間から雨粒が降り込んできた。「この雨の中追い払うのも酷だけどね。父に見つかって棒で追い払われるよりはね」透は寂しそうな目で猫を見送った。

「弟さんのところへは、裏口から行くの?」

「ああ、そうじゃないよ。裏口から外を通って台所に行くんだ。食事を取ってこなくちゃ」

 居間で盛り上がっている人たちの目に触れないための配慮らしかったが、ここでも弟の存在自体に蓋をするような感じがして、深見は妙な違和感を覚えた。





「このアイスボールは透兄さんが削ったものなのよ」

「へえ」静の説明を受けて深見はグラスを高く翳して下から覗き込む。真球状に丁寧に磨かれ、琥珀色の液体にその身を委ねる氷は、照明の光を反射してまるで高級な水晶のようだった。「これ磨くのって塊からだろ? 器用なんだな」

 隣へ笑いかければ、透は面映ゆそうに目線を下げる。

「ナイフや小刀は得意なんだ」

「へえ、彫刻とかもやるのか?」

「いや」透はないないというように小さく笑う。「そんなお洒落なものじゃないよ。単に田舎育ちだから、小刀片手に枯れ木を使った仕掛けだの、秘密基地だの作ってたってだけさ。自然のものがおもちゃだったんだよ」

「あら、お兄ちゃんにもそんなやんちゃな年ごろがあったのね」

静が目を丸くして、嬉しそうに顔の前で手を叩いた。

「そういえば瑞樹くんも器用だったわよね」

「そうなの?」

意外なところで出てきた甥っ子の名前に、深見もまた目を丸くする。

「そう。瑞樹くん、小さい頃おとなしかったじゃないですか。あたしなんか、男の子と一緒にやれ冒険だ、鬼ごっこだって走り回っていましたけど、瑞樹くんは何か彫って小夜ちゃんによくプレゼントしていて。木彫りのクマとか!」

「へえ」

 幼い頃の瑞樹と、傷の残った静の足を順に思い浮かべて、深見は少し表情を翳らせた。

「今でもあるんじゃないかな。ホラお兄ちゃん、あったよね? あまりに上手だったからお兄ちゃんが褒めて、防腐剤だかニスだか塗って仕上げたらどうだって言い出してさ」

「ああ、木工室でやったんだっけ」

「そうそれ」静は深見に向き直る。「うちに木工室があるんですけど、そこで」

「木工室まであるの?」

「父の趣味なんですよ。骨董品だの彫刻だのコレクションするだけでは飽き足らず、自分でも作り始めちゃったんです。古い蔵をリフォームした木工室なんですけどね、家の裏にあるんで明日にでも行ってみます?」

「へえ、それは面白そうだな」と頬を緩めたところで、深見はふと催して腰を浮かせた。「と、盛り上がって来たところだけど、ちょっと花摘みに」

「場所わかる?」との透の言葉に肯いて、屋敷に着いた際に受けた説明の記憶を頼りに、裏口側から居間を出る。出てすぐ右手にトイレの扉があり、その先には地下へと降りる階段があった。その更に向こう側には、二階へ続く昇りの階段がある。

 そこから視線を少し左に移せば、先刻猫を逃した裏口の扉の向こう側に、ぼんやりと納屋が見えた。日が沈み天気の崩れた今となっては視界も悪く、夕刻見たときとはかなり印象が違って見える。

 それらを順々に見渡したときだった。

 かん、かん、と。

 何かを強く叩くような金属音が不意に鼓膜を叩いた。

 深見は慌てて音のした方へ視線を向ける。どうやら、地下からのようだった。

 鎮まるどころか、次第に強まるその音に、深見は何やら毛穴を刺すような恐ろしいものを感じ、思わず地下階段へと一歩踏み出していた。

 そこで背後の扉がガチャリと開く音がした。

「そこで何をしている!」

 突然襲い掛かった背後からの鋭い声に、深見はわっと驚き二、三段たたらを踏んでくだり落ちる。それ以上の転落は、手すりを支えにすんでのところで免れた。

「どうなさいましたか旦那様……ああ! いけません、深見様」

 まず主の大声に驚いた水谷が、続いてその後ろから透が姿を現した。

 それ以外の人々に関しては、変わらず談笑を続ける声が居間から微かに漏れ聞こえている。

「ちょっと父さん、いきなり怒鳴るなんて失礼ですよ。怪我はないか? 深見」

 事態を察するや否や、透は慌てて深見に駆け寄った。

「ああ……ごめん。音にびっくりして」

 深見が眉尻を下げたところで、また階下からカンという音が一つ響いた。

 透は深見の向こう側、地下の底へと目を遣り「ああ」と口籠ると、再び深見に視線を戻して肩に手をやった。

「父が大きな声を出してしまって申し訳ない。父さん、深見は音に驚いて足を滑らせただけです。他所の家を勝手に見て回るような人じゃありませんから」

 おそらく、普段透が源一郎に対して歯向かうことなどないのだろう。いつになく厳しい口調で対峙する息子に、源一郎は見るからにたじろいでいるようだった。

 そんな父親を尻目に、透は表情を緩めて振り返ると、

「僕の部屋に行こうか、深見。傷の手当てをしよう」

「手当てでしたらわたくしが」

「水谷さんは、他の人たちへのおもてなしがあるでしょう。ここは僕に任せてください」

 一歩前へ出た水谷をやさしく制した透に、「傷……? 俺、怪我は」と狼狽える深見だったが、これに透が小さく首を振って目で合図を送る。

 それで怪我をしたというのはこの場を中座する口実だと悟り、慌てて深見も話を合わせた。

「ああ、そうしようかな。ご主人、失礼を働き申し訳ありませんでした」

 そうして頭を下げれば、ようやく我に返ったようで主人の声のトーンが下がった。

「こちらこそ、怒鳴りつけるような真似をして申し訳なかった。じゃあ透、お客様の手当ては頼んだぞ」

 羽織を翻して離れていく源一郎の背後から、いつの間にかその場にいたらしい絹代がちらりと一瞥して去っていった。

「深見様、大変失礼致しました。透さんの大切なご友人にこのようなことを……申し訳ありません」

「元はと言えば、足元をよく見ずに歩いていた俺が悪いですから」

 互いに向かい合って頭を下げ合う水谷と深見を前に、透は毅然と言った。

「よく確認せずに怒鳴りつけた父が悪いんです。水谷さんは、これ以上深見が父から叱責されないよう、守ろうとしてくれたんですよね」それから深見の腕を取って段を昇る。「では、僕たちは少し中座しますから、あまり騒ぎにならないようにお願いできますか?」

「もちろんでございます」



 十



 無言の背中に圧を感じる。速足で進む透の背中を追いかけながら、深見は自らの鼓動が乱れ打つのを感じた。つい数時間前の道のりと同じはずなのに、まったくの別世界のように感じられる。

 自室の奥に深見を促し、扉を閉めたところで透がほっと息をついたのがわかった。振り返った透は、いつもの柔和な顔をしていてそこで深見もようやく肩の力を抜くことができる。

 そうして視線と視線で互いの安堵を確かめ合ったところで、穏やかな面はそのまま、透は信じられないことをさらりと言った。

「地下には、弟が監禁されているんだ」

 稲光、そして遅れて稲妻が轟く。窓ガラスがびりびりと震えた。

 もたらされた単語の意味そのものはもちろん知っていた。しかし、その全容が理解できずに深見は言葉を失う。

「監禁って」

「うん、家の事情で地下室に閉じ込めている」

「……病気っていうのは」

「ごめん、半分嘘をついた」

 透は至極すまなそうに視線を落とした。病気というのは口実だったらしい。しかし監禁されている弟に食事を与えてくるだなんて口にすれば、深見も混乱していただろうから、あの場で事情を濁すのは致し方ないことに思えた。

「半分というのは、弟はもうだいぶ弱っていて……ね。地下に牢屋があるんだ。そこに弟は閉じ込められていてあの音は、その……弟が時折食器や道具を金属の棚に打ち付けて音を鳴らすんだ。だから父はあんな過剰に」

 開示された非現実的な事実に困惑する深見だったが、少しずつ与えられるピースにより徐々に奇妙な出来事同士が繋がってきていることもまた事実だった。なにより、透が冗談を言っているようには見えない。

 何から尋ねればよいのかすらわからないほど話が見えてこなかったが、深見は手探りで指に触れた札からひとつずつ捲っていく。

「いつから?」

「……もう、生まれたときから」

 これは、興味本位などでいたずらに掘り下げてはいけない話だ。そう深見は本能的に受け取った。けれど、透が深見を実家へ招くにあたって、どこかでこのことが露呈する可能性について、全く考えなかったとは思えない。事故的に知られることの容認どころか、ひょっとしたら打ち明けたがっている可能性もあるのではないか。その場合、彼がその心の澱を吐き出せるか否かは、全て深見の対応にかかっていると言えた。

そう肌で感じ取った深見の背筋は自然と伸び、身体はまっすぐに透の方へ向き直っていた。

「……どういうことだい」

 と、尋ねる声のトーンも自然と低くなる。深見がその目をじっと見つめると、やがて透は感情に蓋を落とすようにひとつふうと息を吐き、静かに答えた。

「四神村には、古くからの言い伝えがあるんだ。男同士の双子は、家を喰らい合う。後から産まれた子は、先に産まれた子と家そのものの幸を喰らい尽くす悪魔の化身、忌み子だから殺せ、って。難産で危険な状態にあった母に、お前は忌み子を産んだから、今から片方を殺しますだなんてとても言えないから、祖父母と父は片方を死産だったことにしたらしいんだけどね」

「殺すとか、死産って……? でも弟さんは生きているんだよな」

「うん。生きている。歪んだ気遣いも空しく、母は俺たちを産んだその日に死んでしまったから。母体が死んだ場合、今度は忌み子を殺したら駄目なんだってさ。忌み子が母体を地獄へ引きずり落としたと信じられていて、その状態で忌み子を殺したら逆恨みで一族もろとも地獄へ道連れにされる。だから、地下の奥深くに封印しろ……と、言い伝えられているそうだ。

昔は深い枯れ井戸の底や、深い洞窟の奥底に牢を作って閉じ込めていたらしいんだけどね。……弟は地下牢に。人権もなにもない。非道い仕打ちだよな」

 そこまで淡々と話をしていた透が、そこで顔を曇らせ、話を切った。

 何か声を掛けたいのは山々だったが、深見にはふさわしい言葉が見つからない。

 あまりにも奇怪すぎて、うまく呑み込めないと言うのが正直なところだった。

「……ちょっと、信じられないだろ?」

 唖然とした深見の様子を眺めて、透は自嘲を露わに笑った。

「そんな村なんだよ、ここは」

 沈んだ空気に、雨粒が硝子を叩く音が響く。

 透の言う“特殊”の闇がまた一つ深まってしまった。深見はまっすぐに透を見つめて言った。

「話してくれてありがとう」

「いや……礼を言うのは俺のほうだ。こんな話、聞かされても困っただろう」

 すまんと頭を下げる透は、きっと視線にいたたまれなくなったのだろうと、深見はひとつ視線を自らの手元に外した。

「あまりにも、その、俺の知る文化とかけ離れすぎていて驚いた。でも、朱野の話は信じるよ。宗教は自由だし、ご家族のことを悪く言うようだけど、でもこれって、虐待じゃないか……村の人達はこのこと、知っているんだよね?」

「もちろん。過去には他の家に双子が産まれた例も伝わっているみたいだし。村の人からすれば、虐待でも異様でもなんともない、当然のこととして扱われているんだろうさ」

「知っていて黙っているのか……」

 自身の姉の顔を思い浮かべて、深見は猛烈なおぞましさに襲われた。よく知るはずの姉が、突然遠い理解の届かない存在に思えてきて、不意に身震いがこぼれ落ちる。

 その顛末を察したのか、透が宥めるような口調で言った。

「村の人だけじゃない。俺だって同罪だよ」

「朱野」

「俺だって、知っているのに通報もせずに見過ごしている。こうして君に打ち明けて、自分の弟を村の奇妙な慣習に奪われた被害者のように振舞っているけれど、弟から見れば俺もれっきとした加害者の一角に変わりないはずだよ」

 透は小さく声を絞り出した。そのトーンは音としては、あくまで穏やかな体をなしていたが、その内側に耳を傾けたとき、深見は目の前の透の全身から血が滲みだすような錯覚を覚えずにはいられなかった。

「悪魔は俺たちのほうさ」

 雨脚は留まるところを知らない。次第に風が強まり、雨粒が窓を叩く音の向こうに笛の音のような声が混じりはじめた。

「弟さんの名前は?」

「穢ってみんなは呼んでいる。穢っていう字は、人名漢字として使えないからただの蔑称、あだ名のようなもので、便宜上つけた名前は他にあるんだけどね。その名前で呼んだら取り憑かれるだの、呪い殺されるだので、呼んじゃいけないことになっている」

「呪いだなんだは俺の自己責任ってことでいいから、本来の名前を呼んじゃ駄目なのかな。教えてくれよ」

 そう問えば、突然透が一瞬泣きそうな顔を浮かべたのがわかった。そして涙を誤魔化すためか、んーと短く唸ってから答えた。

「呼んでいるところを見つかると面倒だから。深見が弟を慮ってちゃんとした名前で呼ぼうとしてくれているのはわかっているんだけど、深見に迷惑がかかるのは辛いから教えられない。ごめん。心からありがとう」

 そう言って、透は深々と頭を下げた。

 確かに、本当の名前を聞いてしまったら、深見はもう穢という蔑称を呼ぶことはできないだろう。そして、深見が本当の名前を呼んでいるところが知られたら面倒なことになるということも、先ほど見た透の父親の様子や、これまでの話を聞けば至極説得力のある話だった。

透の立場と心境を慮ると、胸の奥がツンと痛んだ。



 十一



 九時を過ぎたころに会はお開きになり、それから各々家路についた。少し早い締めとなったが、それも悪天候を慮ってのものである。ほろ酔いのまま白峰家へと戻った深見は、その足で風呂を借り、十一時をまわる頃には床についていた。

 思い起こせば実に濃厚な一日だった。東京の下宿を発ったのが、何日か前のことのように遠く霞んでみえる。重い瞼を閉じると、五分と経たぬうちに深い眠りの底へと落ちていった。

 そしてそれは深夜一時過ぎのことだった。

 深見は夢の向こう側で響く、カラカラという涼やかな音に揺り動かされて目を覚ました。何やら部屋の外が騒がしい。パタパタパタという慌てた足音に続いて、扉が乱雑にノックされた。

「陽介、陽介!」

 琴乃の声だ。

 その声が尋常にはない色を含むのを受けて、深見は慌てて身体を起こす。

 扉を開けると、寝巻に上掛けといった格好で、姉が目の前に立っていた。傘を差す余裕もなかったのだろう。髪は乱れ、全身に雨粒を纏っている。

「どうした?」

「それが――」

 齎された説明に深見はぎょっと目を瞠ると、一目散に駆け出した。

 雨粒をかき分け母屋へ入るとすぐに、薄暗い居間から瑞樹が不安そうな顔で出てきた。普段は騒ぎ立てる子ではないのだが、今はおろおろと狼狽えているのが見て取れる。

 甥を安心させるべく、深見は一つ力強く頷いて肩に手を置く。

「ブレーカーは?」

 言いながら大股で居間へと踏み入れた。焦げ臭さが一層強まる。

 中では、電話台の傍で冷泉が懐中電灯を片手にしゃがみ込んでいた。深見の声を受けて、暗闇の中でその影が動く。

「ブレーカーは落としました」

「ありがとう……しかし」

 と、深見は顔を険しく歪めて辺りを見回す。

 電話機が、周辺を巻き込んで弾け飛んでいた。

 深見の後ろから、琴乃が恐る恐る顔を覗かせる。

「陽介も床には気をつけてね。破片が落ちているかもしれないから」

 誰かがしゃがみ込む気配に視線を向ければ、どこかからもう一台懐中電灯を見つけてきたらしい瑞樹が、黙々と地面の破片を拾い始めていた。

「電話、壊れてるの?」

琴乃が声を震わせる。

「木っ端みじんだよ」

 深見は辺りに散らばった破片の一つを摘まみ上げた。

「雷が落ちたのかしら」

「そうならば、他の電化製品もやられているんじゃないですかね」

 眉を顰めて冷泉が唸った。薄明りに照らされた端正な顔に、不審と懐疑の色が滲んでいる。

「じゃあ……これはなんだって言うの……何もないのに、突然こんな爆発なんてするものかしら」

「……念のため、玄関と窓の鍵を確認してきます。侵入者がいたらまずいですので」

 そう言うや否や、冷泉は部屋を出て行った。

 背後では相変わらず、瑞樹が黙々と電話機の破片を古新聞の上に積み上げている。

「ひとまず明日ご近所の電話を借りて、警察に被害届を出しておこうか。車も貸してもらえそうならば新しい電話機も買いに行こう」

「そうね……ブレーカーは元に戻しても大丈夫かしら? 冷蔵庫が止まったままだと中身が駄目になっちゃう」

「壊れたのは電話機だけみたいだし、電源は抜いてあるから復旧させても大丈夫じゃないかな」

 深見の言葉を受け、破片を集めていた瑞樹は黙って立ち上がると配電盤へと向かった。

 電化製品が一斉に復旧の音を鳴らす。特に何も異変はないようで、姉弟は顔を見合わせてほっと胸を撫でおろした。

「驚いたわ……階下でバァンみたいな大きい音がして……びっくりして部屋を出たら瑞樹と冷泉くんも廊下に出ていたの。それから、二人が先導してくれて下に降りて。焦げ臭い匂いの元を辿ってここに行き着いたのよ」

「母さん……これ。爆発物が仕掛けられていたのかも」

 そう言って瑞樹が、懐中電灯である破片を照らして見せる。

「電話機の破片じゃないようなものもいくつかあるから」

「え、爆発物って、そんな馬鹿な」

 深見も眉根を寄せて破片に目を凝らした。

 悪戯にしては洒落にならなさすぎる。嫌がらせにしても、こんな狭い村で誰がそんなことをするというのか。それとも、閉ざされた狭い村だからこそ、かえってどろどろした人間関係があるものなのだろうかと、ひとしきり深見が唸ったところで、冷泉の足音が戻ってきた。

「一階も二階も、開いていた窓は施錠してきました。玄関の鍵は閉まっていたし、……私室の中までは流石に確認していませんが、廊下に人の潜んでいる気配はありません」

 剣道部らしく、護身用として傘を手に家の中を巡回してきたらしい。

「みなさんも私室に戻られる際には、念のため押し入れやクローゼットの中は確認した方がいいかもしれませんね」

 冷泉が眉を顰めたところで、玄関の呼び鈴が深夜の来客を告げた。

 奇妙な時刻の来訪者に、一同ぎょっと目を剥き、顔を見合わせる。

なにか首筋に冷たいものが当てられた気持ちだった。

やがて呼び鈴の音は、玄関の戸を叩く音へと変わる。

電話機の爆破に、真夜中の来訪者にと立て続けの異常事態とあって、全員の思考が一瞬凍ったようだった。扉を開けるべきだという理性を押しやって、迫りくるものに対する生理的な恐怖が居座り、正常な思考を麻痺させていく。

 ややあって、恐慌状態からいちはやく抜けたらしい冷泉が玄関へと足を向けた。それが催眠術を解く合図だったかのように、深見、瑞樹とそれに従った。

「白峰さん、白峰さん」

 玄関へ近づくにつれ、雨音の手前に人の声が聞こえてくる。引き戸越しに聞こえてきたのはよく知る声だったため、巨大な警戒心から一転、深見は冷泉を縫うようにして錠前へと手を伸ばす。ほぼ同時に琴乃の「開けてさしあげて」という声が背中を押した。

 深見が錠を持ち上げると、そこには全身を雨に濡らした客人の姿があった。



 十二



 ようやく深い眠りに落ちた頃のことである。

「透さん、起きてくださいな、透さん」

 部屋の扉が叩かれる音に起こされ、透は重い体を起こした。

 室内の時計を見遣れば、午前一時二十八分を指し示している。

 その間もこんこんとひっきりなしに扉が鳴るのに、大股で扉へ向かい、「どうかしたんですか?」と外へ顔を出せば、珍しく少し困ったように眉根を寄せた絹代が、寝間着姿のまま立っていた。

「大変なんですよ。奇妙なことが起きたのです。一階へきてください」

「何かあったんです? まさか父さんに何か……」

「いえ、旦那様はお元気でいらっしゃいます」

 絹代の話は要領を得ないものだったが、焦眉の急を要するらしいと話を聞くのは後にして、とりあえず透は絹代に従うことにした。自身よりもひとまわり小さな背中が東を向いたところで透は尋ねた。

「静も起こしますか?」

「旦那様の御申しつけは透さんを起こしてくるようにとのことだったので、お任せしますわ」

 そこで透は足を止めた。

「任せるって言われても。何があったんです?」

絹代も足を止めて振り返る。

「それが、どう申したらよいものか。電話機がいきなり爆発したみたいなのですよ」

「え?」

 しんとした静寂の中、硝子越しの嵐の声だけが不気味に響いた。

「何かが破裂するような音がしたんで、旦那様と見に行ってみれば、居間の電話機が弾け飛んだようになっていて」

「じゃあ静は後だ。ひとまず下へ降りてみましょう」

 透は、中央階段に向いたつま先を翻し、西階段へと急いだ。狭く冷たい灰色の階段を一段飛ばしに下っていく。踊り場を折れたとき、目の前の窓に一閃の稲妻が走った。遅れてばりばりという重い音が腹の底を抉る。一階へ降り、左に見える居間の扉へ向かおうとしたところで、再び空が光り、辺りが白く照らされた。

その瞬間、靴底から電流を流されたように全身ががちりと固まった。

 遅れて、背後で絹代がひっと息を呑む音が鼓膜を叩いた。

 不規則に明滅する稲光に照らされた先で、何かがこちらを見ていた。

 再び廊下は暗闇に戻る。

 階段を降りようと踏み出す足がぎくしゃくと強張り、金縛り状態で無理やり身体を動かすときのような鈍い軋みが全身を刺した。

 透が手探りで廊下の電灯を点けると、今度は漏れ出る光に淡く照らされ、再びそれは闇に浮かび上がった。

 ――呪。

 それは納屋の扉に、赤く書きなぐられていた。

 辛うじて形をとどめたその文字はたしかに呪と読める。風雨にさらされ崩れた赤い文字が、でかでかとこちら側を睨みつけていた。

「血?!」

 絹代が引き攣った声を挙げる。

「いや」

 短く言って、透は傘も持たずに外へ出た。

 強い雨風に、その身体は瞬く間に色を変える。

「これはたぶんペンキです。この雨だ、血だったらもっと流されているでしょう」

 扉に近づき一つ撫でた透は、廊下に立ち尽くす絹代を振り返る。

「絹代さん、水谷さんを起こして納屋の鍵をもらってきてください。静も起こした方がいい。僕はこのことを父に伝えてきます」

 透は、緊張と恐怖から固まっている様子の絹代の身体をほぐすべく、その肩にやさしく手を置いてそう言った。そして全身ずぶ濡れなのも構わず、居間へと足を向ける。

 背中の向こうで、草履の音が二階へ上がっていくのを確認すると、透は一つ息をついて居間の扉を開けた。

「おお、透。ずいぶん遅かったじゃないか――」

 小言を言いかけた口が止まった。全身水浸しな透の姿を見て、源一郎はぎょっと瞠目する。

「納屋の扉に悪戯書きがされているんです」

「悪戯書きだと?」

 透は苦いものを噛んだような顔で肯き、「でかでかと赤いペンキで。それから電話機が壊されたって?」と、電話台の傍に膝をついた。

「ああ。お手上げだ。派手にやられておる」

「破片があちこち飛んでいますね」

「修理できるか?」

「これは……」唸りながら透は検分する。「さすがに難しそうです」

「そうか」

 理工学部修了者の言葉に、源一郎は素直に肩を落とした。

「一体誰が……」

「村の誰かだろうか」

「そんな、まさか」

 源一郎のつぶやきに、透ははっと目を瞠る。先ほどまで一堂に会していた面々の顔が浮かんでは消えた。先祖の頃から身を寄せ合って生きてきたも同然のこの村の人間を疑うのは気が引ける。弟に対する非道な仕打ちも、裏を返せば村そのものを守るためのまじない、異様なまでの集団存続への愛が歪んだもののはずだ。一人の忌み子を生贄に、悪魔から村を守っている集団なのだ。それほどまでに村への愛に殉ずる人間が、はたしてその関係を揺るがすようなことをするだろうか。

「納屋を見てくるぞ。鍵を水谷からもらってこい」

「絹代さんに頼んであります。そろそろじゃないですかね」

 そうして二人が裏口に繫がる廊下へ出たころ、ちょうど絹代と傘を手に下げた水谷が連れたっておりてくるところだった。

 凶行を初めて目にした家主と執事は、目を剥き、息を呑む。

「全くどこのどいつだ、こんな! 中は悪戯されちゃおらんだろうな」

 やがて我を取り戻した源一郎は、真っ赤な額に青筋を浮かべると、水谷から納屋の鍵をひったくって勢いよく裏口の戸を開けた。隙間から、雨粒が勢いよく降り込む。

 構わず源一郎がづかづかと出て行くのに、慌てて水谷がその背を追って傘を差しかけた。

 無骨な指が錠前を外し、重い扉が手前へと開かれる。真夜中の納屋は、ぽっかりと暗い洞穴のように口を開けた。

 水谷が暗い内部へと懐中電灯の矛先を向ける。

 内部が映し出された瞬間、一同、頭部を巡る血が一気に凍った。

 ひっと、最後尾で短い悲鳴が上がる。

 天井から、真っ赤に染まった首のない女の死体が吊り下がっていた。

 白いネグリジェを赤く染めたその華奢な身体は、外の雨粒に呼応するかのように生温かな鮮血を滴らせて揺れていた。……

「うわあああっ」

 先頭で源一郎がたたらを踏んで後ずさり、水谷にぶつかって鍵を落とした。家主を支える水谷も、もはや縋りついているというに近い。それらの後ろで風雨に晒されているのも忘れたように透が立ち尽くし、最後尾の絹代は、屋敷の扉にしがみついて呆然と硬直していた。

「く、首……首が」

「しし、静……静ァ!」

 二人が叫ぶのは同時だった。

 水谷の持つ傘が突然意志を持ったように跳ね、源一郎が恰幅のいい身体を揺さぶり転がる首に飛びついた。

 首は、吊られた死体の足元に上を向いて転がっていた。魂の抜ける瞬間を切り取ったような惨たらしく醜い表情だった。

「なんてことだ……」

 源一郎の血を吐くような嘆きは、暗闇に吸い込まれて消えた。

「け、警察……警察を呼びましょう」いち早く自我を取り戻した透が、室内に引き返そうとして「ああ」と嘆く。「電話は使えないんだった……白峰さんのところに行ってみます。非常識な時刻だけれど緊急事態だ。事情を話して電話を借りてみます」

 娘の生首を抱き呆然自失といった様子の源一郎は、息子の言葉を外国語でも聞くかのようにきょとんと眺めるだけだった。

「付近に犯人がいるかもしれないので、よかったらどなたかついてきてはくれませんか? 単独で行動するのは流石に」

 透の申し出に名乗り出たのは、意外な人物だった。

「では、わたくしが」

 幾分か我を取り戻したらしい絹代が手を上げるのを、透は目顔で確認して、「その前に……静を下に」と納屋の中へ足を踏み入れた。血に汚れるのも厭わず、吊られた妹の亡骸を持ち上げて下ろそうと試みるも、やがて諦めたように手を離す。そして、端に立てかけられていた角材を二本手に取りそのうち一本を絹代に手渡した。

「縄が固くておろせませんでした。犯人がまだ近くにいてもおかしくありませんから、用心のため、絹代さんもこれを。父さんも水谷さんも、くれぐれも用心してください。電話を借りたらすぐに戻ってきますので」

 絹代はしばらく手渡された角材を能面のようにじっと眺めて、「でしたらわたくし、こちらがいいわ」と、何かに思い至ったように、納屋の中へ踏み入り、立てかけられた鉈を手に取った。そして、すぐさま鮮血の臭気を厭うように着物の袖で口元を覆い、そそくさと外へ引き返す。

「玄関を通って、傘を取ってから行きましょう、透さん。さあ。早く警察を呼ばなければ」



 十三



 玄関先で数時間ぶりに対面した透は、まるで濡れ鼠だった。

 背後で傘をさす絹代の右手に、光るものを見つけた琴乃が短く息を呑む。

 目の前の透に視線を戻して目を凝らせば、寝間着の胸部分から腹にかけて赤黒いしみが滲んでいる。その透の右手にも濡れそぼって色の変わった角材が握られていた。

「こんな夜中にお騒がせしてまことに申し訳ありません。緊急事態なんです。電話を貸していただけないでしょうか」

 ともすれば震えそうになるのを我慢しながら、透は毅然と言った。

「え、あ、それ血か? お、おい朱野怪我してんのか」

 ようやく喉元を通った言葉はそれだった。深見は恐々と、透の全身をなめるように見回す。

「いや、俺の血じゃないんだ」

 どこかぼうっと蕩けた様子の透が首を振る。その顔は雨に濡れて冷えただけでは説明がつかぬほど酷く青白く、まるで血の通っていない蝋人形のようだった。

 深見はそんな透を中へと招き入れる。その際に触れた身体は氷のように冷え切って震えていた。

 瑞樹がぱたぱたと廊下を駆けていく音が遠ざかる。

「電話、それが今電話がね」

「緊急事態って、何があった?」

 ほぼ同時に口を開いた琴乃と深見を交互に見やりながら、透は悲痛に顔を歪めた。

「静が……何者かに……」

 突然気が緩んだように息を乱し始めた透の後を引き継ぎ、後ろから絹代が淡々と言った。

「殺されていたんですよ」

 その言葉に一同は唖然と目を瞠った。そんなことはお構いなしと絹代は言葉を続ける。

「警察を呼んで一刻も早く殺人鬼を捕まえてもらわなければ、わたくしたちの命に関わります。奥様、お電話を拝借しても?」

そのときバスタオルを手にした瑞樹が戻ってきた。冷えた透の身体にタオルを羽織らせながら深見が心配そうに顔を覗き込むと、「ごめん、もう大丈夫」と透は正気を取り戻して顎を引いた。

「殺されたですって? ……まさかそんな……静ちゃんが……いえ、けれどどうしましょう。それが、うちの電話機が壊れて使えないんですよ」

「どういうことですの?」

「さっき急に爆発して、それで今、家じゅう起きて大騒ぎしていて」

「まさか……」絹代は何かに思い至ったように息を呑んだ。「我が家の電話機も爆発しましたのよ。そうしたところで静さんの遺体が納屋で見つかったものですから……おたくのお坊ちゃん方は全員ご無事で?」

 と、玄関の中をじろじろ検分するように見回す。

「全員います。出張中の主人にだけ連絡が取れないでいるけれど……大丈夫かしら」

 琴乃がそわそわし始めるのを、瑞樹が肩を抱いて励ました。

 深見は腹の底から冷たい何かが膨れ上がるのを、唾を飲んで押し込み、声に力を籠める。

「龍川さんの家にいってみよう」

「ええ、それがいいでしょう」

 それを待ったようにすぐさま同意を示した冷泉誠人と目を合わせて頷き合う。まるで示し合わせたようなタイミングだった。もしかしたら、彼もちょうど同じことを言おうとしていたのかもしれない。

「こうなれば電話機の爆発も人為的なものに違いない。いよいよ気味が悪いぞ」





 透の案内で、深見は初めて龍川の家を訪れた。

 延々と続く深い森を背景に暗闇に浮かんだ『青龍の館』は、青銅色を基調にした横に長い家屋だった。生垣に隠れた向こう側に、石に縁どられた小さな池が、その隣には大きな鶏小屋が見える。一方向を除いて山に囲まれたその屋敷は、昼間は蝉の大合唱に包まれるに違いなかった。

 辺りは傘の厚い布地を怒涛の水の塊が叩く乱暴な音と、水の束が突き刺さる白で包まれている。そのずっと向こう側、広がる暗闇の中に違和感を見つけた深見が小さく声をあげた。つられて透も目を凝らす。

「あそこ……何か変じゃないか?」

 深見が懐中電灯を向けた先、白く粟立つ地面の隙間に二人の視線は釘付けになった。目を凝らすが、月の光の届かない荒天下の暗さに加え、空気中を大量に横切る雨の矢に阻まれて思うように見ることができない。

「まさか……『朱雀像』が……」

 その中でも何かを捉えたらしく、吸い込まれるように山の方へと足を向けた透の、寝間着の張りついた背中を追って深見も駆け出した。

 木々が見守る中、ぼんやりとした光の輪の中心で、砕かれた朱色の鳥の像が無残にも息絶えていた。その周り一帯にばら撒かれた赤い液体を、降りしきる雨粒が真白く粟立てている。まるで、像が血を流して倒れているようだった。

 気づけば深見は懐中電灯を握った拳で口元をぎゅっと抑えていた。それに伴い、映し出された惨状は元の闇を取り戻す。それが催眠解除の合図であったかのように、隣で固まっていた透の肩が、続いて首が動いた。日頃涼し気な目元が、これでもかとばかりに見開かれていた。

「お、同じだ……」

「同じ?」

「静の……納屋の扉と同じだ」

「どういうことだ」

「静が殺されていた納屋にもあったんだ……赤い血文字のような悪戯書きが……」

「なんだって……ッ」

 揃って尻に火でもついたかのように、二人は無言のまま来た道を引き返した。八畳ほどの平屋の診療棟の脇を通り過ぎ、二階建ての居住部分と思しき玄関の呼び鈴を狂ったように打ち鳴らす。扉の磨り硝子越しに見れば、一階の奥の方からぼんやりと明かりが漏れているようだった。

 その光景を受け、深見は脳内にあるひとつの恐ろしい思いつきが沸き立つのを感じずにはいられなかった。が、必死に蓋をして平静を保つ。そんなことあってはならない。

しかして、その思いつきは顔を出した龍川医師の言葉によって、無念にも現実となった。

「うちの電話機が、この雷のせいか駄目になってしまってですな」



 十四



「この様子じゃ、武藤さんの家もどうだか……」

 思わず口をついて出た自らの言葉に、深見ははっとしてすぐ隣にある透の顔を窺い見た。

 目の下に隈を浮かべてげっそりとした透は、それでも心配をかけまいと笑みを浮かべようとしているようだったが、うまくいかずに泣き笑いのようになっている。

「俺も同じことを思っていたから大丈夫だよ」

 龍川家を後にした二人は、龍川親子を引き連れて一度白峰家に戻り、事の顛末を説明した。琴乃はたいそう衝撃を受けていたが、瑞樹と冷泉を傍につかせて待機を続けてもらうことにした。また、龍川医師は静の遺体の様子を確かめるとのことで、小夜を白峰家の待機の輪に加え、絹代と共に朱野家へ向かった。

 そうして深見と透が、武藤家へと向かう運びとなったわけである。

 望みの全ては武藤家に託された。

 風雨は変わらず激しさを留め、数メートル先の視界もおぼつかない。傘をさしてもささずとも、もはや大差ないような塩梅であった。

「こんなことに巻き込んでしまってごめんな、深見」

「朱野のせいじゃないだろ」

「でも……いや、まさかこんなことになるなんて……」

「家族や友達が変なことに巻き込まれているんだ。寧ろ傍についていられるほうが安心するさ」

 深見がそう言うと、透は再び消え入りそうな声でごめんと零した。

 酷く怯えた様子の武藤霧子が玄関から出てきた時に、二人は事態の全てを悟った。

「隣村へ行くしかない。俺と深見とで車を出そう」

 電話が使えないのならば、そうする他あるまい。二人は、一旦武藤霧子を連れて朱野家へと戻ることにした。

 朱野家の居間は、暗く淀んだ空気が充満していた。訊けば、納屋で龍川医師が現場を荒らさぬ程度に遺体を検分しているとのことである。護衛のために、その傍には水谷がついているとのことだった。

 深見と透が代わる代わる事の顛末を話して聞かせると、絹代は身をぶるりと震わせ、また源一郎はわなわなと震え出し、顔を紅潮させて声を荒げた。

「それじゃあ、連絡をつけようがないじゃあないか!」

 それから、再び呪いだ、何故こんなことにとぶつぶつ繰り返しながら、頭を抱え込んでしまう始末だった。

「感情的になったところで何も変わりません。僕と深見でこれから五藤村へ行ってみますから。電話を借りられないか家々をあたってみます。住人が起きてくれなかったら、六山市の派出所まで行ってみますよ。遅くとも夜明け頃には警官を連れて戻ってこられると思いますから、父さんはお風呂にでも浸かって身体を温めてください」

 透の言うように、源一郎の寝間着は血に汚れて酷い有様だった。柱時計の針は深夜二時半を指している。

 それから車の鍵を手に、二人は連なって夜の山を登ることとなった。

 昼に下ったときには勾配のなだらかな丘だと感じたが、真っ暗な風雨の中を殺人鬼におびえながら傘をはためかせて上るとなると、一転して急勾配の山のように感じられるものだ。二人はただ黙々と、時折恐怖を紛らわすように声を掛け合いながら、ひたすらに前へと足を運び続けた。

「見えたぞ……」

 先導する透が、達成感と安堵の滲んだ声をあげた。

 つい半日前に乗ってきたばかりの軽自動車を、懐中電灯の光の輪っかが、雨粒を乱反射しながらぼんやりと映し出す。

頼みの綱が視界に入ったことで力を取り戻した二人は、水を得た魚のように足早に駆け出した。

「なんてことだ……」

 しかして、車体を支えていたはずのタイヤは全て張りを失い、ぺちゃんこに萎びてしまっていた。それだけでなく、

「深見!」

透の声に振り返った深見は、目に入った絶望的な光景に思わず叫びを漏らした。

「ああ! トンネルが!」

 懐中電灯の光の先には絶望的な光景が広がっていた。村の外へと通じたはずのトンネルの入り口は、こちら側から崩れて瓦礫に埋まっていた。……

 角材と傘をその場に取り落とし、透はふらふらと崩れたトンネルに駆け寄った。素手でセメント片や鉄骨を持ち上げようと何度か力を入れ、やがて力尽きたようにその場にへたり込む。

 背後から深見が近寄り、傘を差しかけた。

 そのまましばらく呆然と時が過ぎていった。

「そんな……」

 目の前の瓦礫の山を、透はうつろな目で見つめている。

 深見の頭の中で、閉じ込められたの七文字が壊れたオルゴールのように鳴り狂う。その恐怖と絶望に身体は固く冷たく凍りつき、目の前がざーっと昏くなった。

 雷や豪雨で崩れたものだろうか。それとも、いよいよトンネルが寿命を迎えて崩落したとでも。……否、深見の脳内に、これまで見た、弾けた四つの電話機と赤い池の上に浮かぶ砕けた石像の姿が蘇る。あれと目の前の崩落が無関係だとは、とても思えなかった。

 これは明らかに人為的なものだ。

更に状況をよくよく分析してみれば、恐ろしい事態に思い当たる。そう、トンネルが四神村側から崩れているということは、崩落を起こした犯人はこちらから爆薬を仕掛け、点火したということにならないだろうか。

つまり、犯人と一緒に村に閉じ込められたかもしれないのだ。

 ここまで考えて、深見は眼下の透を窺った。

 瓦礫の前にしゃがみ込んだ透の目は、もはや何の像も結んでいないように見えた。

 今は動転しているにしても、平静を取り戻した透であればこのことに気づかないはずはない。傷心している今、態々それを言葉にして傷に塩を塗るのはやめておこうと、深見は口を噤む。

 果たして、爆破の犯人と、静を殺した犯人は別々なのか、それとも同一人物なのか、それもまた問題だった。

 爆破の犯人と、静を殺した犯人が別にいたとしても気持ち悪いことに変わりはなかったが、同一である場合には最悪な事態が予想される。

すなわち、殺人がまだ続く可能性があるということだ。

静を殺して犯人の目的が達成されたのであれば、犯人はそのまま逃走すれば済む話だろう。何も電話機を壊して外部との連絡手段を断ったり、唯一の連絡口であるトンネルを爆破して犯人もろとも閉じこもったりする必要などない。

つまり、退路を断ったということは、獲物に逃げられないようにするため――すなわち、殺すべき獲物がまだ村に残っているということにはならないか。

 そこまで考えて、深見はぶるりと身を震わせた。

 今になって、事の発端となった怪文書の文面が蘇る。――朱野松右衛門の怪死が、村に降りかかる呪いのほんの序章である――これが預言書、否、犯人の声明文だったのかもしれないと思えば、降りしきる雨粒が自らの肌を突き破る無数の針のように感じられた。





 再び雨脚が強まり、何度も傘を取られそうになりながら、二人は転がるようにして森を抜ける。妙に現実感のないふわふわした心持だった。

そして丘を通り過ぎ、下り坂へとさしかかった頃のことである。土砂降りの雨の筋を横切り、一陣の矢が背後から横切った。

 深見は慌てて背後を振り返る。透が左腕を抑えて唖然と膝をついていた。傘越しに左腕を射られたらしい。

 腹の底から突き上げるような恐怖に襲われながら、深見はぎくしゃくとその場に伏せた。そして、すぐさまその傍へと這い寄った。

「大丈夫か、怪我は」

 言いながら、首だけを持ち上げてきょろきょろと矢の飛んできた方向を探す。真っ白く突き刺さる雨の筋に阻まれて、目を開けているのも大変なほどである。白んだ視界の隅に、辛うじて人影の動いたのを捉えて、深見は手元の角材を投げつけた。人影は慌てて、崖を反対方向へと駆けおりていく。

「逃げたぞ」

「俺はかすり傷だから、追って」

 透をこの場に置いていくのは危険ではないかと少し迷った深見だったが、あの影さえ捕まえてしまえば、村の全員の安全が戻ってくるのだ。迷うことはない、と一目散に今下ってきたばかりの斜面を駆け上っていく。

 これまで深見たちは、『玄武の館』の近くに降りる緩やかな道を通ってトンネルへと行き来していたが、どうやらもう一本『朱雀の館』の方面に下る道も存在するらしい。影を追ったことで、はじめて深見はそのことに気づかされた。

 しかし、雨の中、いつ電池の切れてもおかしくなさそうな懐中電灯の心もとない光ひとつを頼りに道を選んで駆け下りるのは至難の業だと言えた。おかげで何度もぬかるみに足を取られ、滑って転んで泥だらけである。

そうしてしばらく追いかけたところで深見は暴漢を見失い、なくなく透のもとへと引き返すこととなった。

 戻る途中、とある木の麓で深見はボウガンと幾つかの矢を拾った。先ほど暴漢を追いかける際には、追うことに夢中で気が付かなかったらしい。それらを証拠品として拾い集め、透のもとへ辿り着いた頃には雨も幾分か小降りになっていた。

 深見の姿を視認した透が、傘を手に駆け寄ってきた。深見が取り落とした傘だった。

「ごめん、取り逃がした……大丈夫か?」

 深見の言葉に、透は首を縦に振った。

「ちょっと掠っただけだ。深見は? かなり泥だらけだけど」

 と、透は心配そうに泥だらけの深見のズボンを払うが、乾いた泥と違って全く落ちる気配がない。今になって擦りむいた肘や膝がじくじく痛みを連れてきて、痛いやら悔しいやらで深見は顔を顰めて毒づいた。

「少し滑っただけだ。くっそ、捕まえられれば安心できたのに」

「深見はこの辺の山道に慣れていないし、雨は強いしぬかるんでいるし仕方ないよ……」 言いながら、透の顔がみるみる青ざめていった。「え、いや、待て。相手がこの村の山道に慣れているとなると……」

 そう言ったところで、透は驚愕に目を見開き、言葉を失ったようだった。

 堪らず深見もごくりと唾を飲み込む。渇ききった喉がささくれのように痛んだ。

 村の地理に詳しい人間となると、怪しいのは村の住人ということになるではないか。

 深見は背筋がぞっと冷え、全身に鳥肌が立つのを覚えた。

「俺たちが通った『玄武の館』の裏手に降りるなだらかな道とは別に、『朱雀の館』の裏手から伸びる険しい道も存在はするんだ。けれど、お客さんの案内の際にはもちろん、夜間や、こんな足元の悪い日にはまず間違いなく使う者はいない」

「じゃあ……」

「……あまり言いたくはないが、村の住人には気を付けた方がいいね」

 その一言は、深見の脳天に甚大な雷を落とした。

まるで背水の陣ではないか。

「信頼できる人間には伝えるべきだけど、これもむやみに言わない方がいいのかもしれない。伝えた相手が犯人だったら、どう相手を刺激するかわからない」

 透がぽつりとそう零す。そのまま、転がっていた穴の開いた傘を拾い上げて乱暴に束ねた。

 いつの間にか雨は小降りになっていた。

「信頼できる人間か」

「そう。俺が信頼できるのはもう深見だけだ」

 そう言い放ったときの透の顔が、深見には忘れられない。

それは品性と富に恵まれた透にはおよそ似つかわしくない、諦念と自棄に満ちた、世捨て人のような顔だった。

「行こう」

 雨を厭わず先に進む背中に傘を差しかけるべく、深見はその孤独な背中を追いかけた。



 十五



 朱野邸に戻ると、執事の水谷がバスタオルを手に二人を出迎えてくれた。

 左腕の傷を見るや、血相を変えて目を白黒させた執事に、透はなんでもないと気丈に返す。そのまま居間へと通され、温かい紅茶を手渡された。いつの間にか喉がからからに渇いていたようで、少し熱いにも関わらず深見は一気に飲み干してしまった。

 源一郎と武藤霧子はそれぞれ部屋で休んでおり、絹代は浴室にいるらしい。

残った老紳士二人が控えめながら期待のまなざしを向けてくるのに、深見はたまらず目を逸らす。そうか。当然ながら、彼らはまだ知らないのだ。これから自身がこの部屋に絶望をまき散らす執行人役になると思えば、なんとも心が重苦しかった。

「それで、救助は……」

 ついに待ちきれなかった龍川が、そわそわと切り出した。その言葉が今では棘のように痛い。透と何度か目配せをして、深見は小さく息を吸った。

「残念ながら車はタイヤを全て潰されていて、トンネルは崩落していました」

「え?」

 龍川の腰が浮き、水谷の手が止まる。

 深見は、それ以上は何も言えずに、ただ渋面で首を振った。

「じ、じゃあ、我々は、その……閉じ込められたんですか?」

 龍川がまるでこの世の終わりを目にしたような形相で声を裏返す。深見も透も、沈痛に俯くことがやっとだった。水谷は暗鬱と救急箱を抱く腕に力を入れ、龍川は気が抜けたようにソファに崩れた。

 隣では、水谷がかいがいしく透の左腕に手当てを施している。当初は怪我をしたと聞いた龍川が慌てて駆け寄ったものの、幸いにも傷は透の申告通り皮膚を掠った程度で、縫うようなものではなかったらしい。すぐに処置者は水谷へと変わっていた。深見と透、それぞれを中心とした大理石の床に、じわじわと水たまりが拡がっていくのを、深見は遮光フィルターでもかかった気分で他人事のように見つめていた。

 時計の針は、三時過ぎを指している。

 緊急事態にも関わらず、明るさと人の気配への安心からか、だんだんと自身の心に落ち着きが戻っていくのを、深見は不思議な心持で見つめていた。

一方机を挟んだ目の前では、すっかり消耗した様子の龍川医師がぐったりと柔らかなソファに身を埋めている。

「トンネルまで崩れちゃあ打つ手はありませんな……」

 身体中の澱をかき集めて吐き出したような、深いため息混じりの嘆きが深夜の居間に溶けて消えた。

「は? トンネルが崩れたですって?」

 突然もたらされた鋭い声に、鈍化していた空気が一瞬で引き締まる。振り返ると、そこには絹代の姿があった。いつから聞いていたのやら、まだ湿り気の残る髪を簡易に一つにまとめ上げ、居間の入口に立っている。

 上がりかけた心拍を抑えながら、深見は低い声で説明した。

「四神村側の入口が奥も見えない程に崩れていました。瓦礫も、見るからに動かせそうにありません。おそらく、何かの爆発物によるものじゃないかと」

「あなたがやったのではなくて?」

 絹代からの予想だにしない応答に、深見はぎょっと目を剥いた。

 隣で聞いていた透が憮然と声を挙げる。

「それは、どういう意味ですか?」

静かだが、怒りが漏れるのを抑えきれないといった様子だった。しかしそんな透の圧にも素知らぬ様子の絹代は、まるで物わかりの悪い生徒を説き伏せるかのように、呆れを含ませて零した。

「言葉通りの意味ですよ。余所者が来た途端に災いが連続しているでしょう。村の電話機が全て壊され、静さんは首を切って吊るされて、石像は壊され、車のタイヤは潰されて、今度はなんです? トンネルが崩落した? 全部、深見さんが来てから起こったことじゃあありませんか」

 蛇のような絹代の口から次々と言葉が飛んできて刺さるのに、深見は毒に当てられたように視界が昏く歪んだ。

「言いがかりはやめてください」透がいつになく強い口調で絹代に噛みつく。「友人を余所者だなんだって。今すぐ訂正して、深見に謝ってください」

「断りますわ」

「深見は、ずっと僕と一緒にいたんですよ。その目を盗んでトンネルに細工なんてできるわけがないでしょう」

 透の言葉にも馬耳東風といった様子で、絹代は悪びれもせずに淡々と切り返す。

「でしたら透さんも仲間なのでしょう。この家の財産を独り占めにするために、静さんを亡き者にする計画を企てた。そうだとしたら全て成り立ちますわね」

 今度は透が眩暈を覚える番だった。絹代の話があまりに暴論すぎて、思わずあんぐりと言った様子である。

「財産目当てに妹を殺すだなんて……それに可能性を挙げ始めると、絹代さんご自身だって、いえ、それだけでなく村の誰しもが容疑者たり得てしまいますよ。可能性の一つとして挙げるならまだしも……深見、例の手紙は持ってきているよな?」

「ああ。鞄の中だけれど」

 酷い眩暈と、遅れてやってきた疲労を押しのけて、やっとのことで深見が返事をすると、透は力強く頷いて絹代へ向き直った。

「もとはと言えば、僕名義で深見のもとに怪文書が届いたのが事の発端なんです」透は怪文書について、掻い摘んで説明を加えた。「だから、その怪文書のせいで深見はこの村に招かれたんです。絹代さん、あなたの言葉を借りるならば、深見が災いを連れてきたんじゃない、深見は既にこの村にあった災いから呼ばれたんですよ」

「だから何だと言うのです? それらも全てあなた方が仕込んだことかもしれないではありませんか」

 三白眼をこれでもかと見開き、得意げに顎を持ち上げる絹代を前に、透は項垂れ一つ息を吐いて顔を起こした。

「もういいです。ここでいがみ合っていても埒があきません。あなたがそう思うのなら勝手にしてください。ですが、僕の友人を愚弄したことは許しませんからね」

「許さなくとも結構ですよ。殺人鬼のいる村に閉じ込められたのだから、自らの身は自らで守らないといけませんからね。あなた方も、寝首を掻かれぬよう注意なさることですよ。ご自身が犯人であるならば関係ありませんけどね」

 と、気味の悪い笑みを残して、絹代は居間を出て行った。

 辺りに重苦しい空気が立ち込める。

 それを破ったのは透だった。

「深見、本当に申し訳ない。彼女の身内でもないのに悪く言うのもどうかと思うが、ああいう人なんだ」

 それに、龍川の慰めが続いた。

「絹代さんが一人でああ言っているだけで、誰も貴方がたが犯人だなんて思ってないから、気に病むことはないですよ」

それらをじっくりと胸の中に落とし込むと、深見は小さく息を吸いこみ、「なんというか……お前もたいへんだな」鉛でも詰まったように重く動かなかった喉をこじ開けて、ようやくそれだけを言った。わが身に降りかかったあまりの理不尽に、透への同情が禁じ得ない。自身と透の潔白は、深見自身が誰よりも知っていた。それにボウガンのことだってある。そうだ、と深見は右手のボウガンをじっと見つめた。

「これ、山の中で見つけたんです。トンネルからの帰り道に、後ろから襲われて」

 両手で胸の前に掲げながらそう言えば、老紳士ふたりはぎょっと目を剥いた。

「なんと! その傷は矢で射られたものだったのですか? 枝かそれこそ瓦礫の鉄骨か何かで引っかけたものだとばかり……」

「ええ。後ろから狙われたようで。でも傘が身代わりになってくれました。深見がすぐに気づいて、犯人を追いかけてくれたんだけど」

 そこで透の視線を感じた深見が話を引き継ぐ。

「視界が悪くて見失ってしまいました。その道すがらこれを拾ったんです」

「これ、父のコレクションのボウカンですよね」

 続けざまに透が尋ね、水谷を見上げた。

「ええ、間違いございません。二階のコレクションルームに飾っているものと同じものです。似たものを戻られた深見様が抱えていらっしゃるので、気になってはおりましたが、わたくしはてっきり自衛のために持っていかれたのかとばかり」深見が手渡したボウガンをまじまじと眺めて水谷は何度も首を縦に振った。「静さんの次は透さんを亡き者にしようだなどと、一体誰がそのような酷いことを」

 水谷の嘆きを受けて、透が言った。

「日中はもちろん夕食会の間も、玄関の鍵も開けっ放しでしたし、二階のコレクションルームは玄関の正面の中央階段をまっすぐ昇ればすぐです。内部犯、外部犯問わずボウガンを入手することは可能でしょうね」

 透と深見にはもう一つの情報があったが、透がここでは伏せるようなので深見も特に触れないことにする。

 透は老紳士二人の反応を窺うように一望してから口を開いた。

「ですから、犯人を絞るとなると、山で僕たちを襲うことができた人間を絞るほかないでしょうね。とはいえ、頭のおかしな外部の人間の仕業かもしれませんし、少ない村の住人が、互いに疑心暗鬼になってバラバラになると、それこそ犯人の思うつぼだと思うのであまりいいことだとは思いませんが」

「透さんのおっしゃる通りです。軽はずみに犯人を探すようなことを口走ってしまいお恥ずかしい限りです。ですが、龍川先生に関しましては、わたくしずっとお傍におりましたので、犯人でないことは自信をもって証明いたします」

 その言葉を受けて龍川医師が、深々と座り込んでいたソファから身体を起こして言った。

「私もご遺体に向かって検分しておりましたが、水谷さんがいなくなったら流石に気づいたと思いますよ。お恥ずかしい話ですが、なにぶん暗闇からいつ暴漢が戻ってくるかとひやひやしておりましたもので。辺りの動きには、これ以上にないくらいに気を配っていたはずですから」

 龍川の背中が再びソファに沈んだところで、がちゃりと居間の扉が開き、バスローブ姿の源一郎が姿を現した。

「何やらトンネルが通れなくなっているそうじゃないか」

 寝室に戻った絹代から聞いたのだろう。問い詰められる前にと各自で詳細を説明すれば、源一郎は額に汗を浮かべて動揺を示した。

「ああ、呪いだ……四神様がお怒りだ……大変なことになってしまった……。先生、静の方はどうでしたか」

「はあ、それが妙なことがございまして」

 龍川医師が片眉を持ち上げる。

「まず、静さんのご遺体は、納屋の天井の梁から、両腕を∞の字にたすき掛けされた状態で吊るされておりました。首は何か糸鋸のようなもので切断され、血液はまだ固まっておらず、硬直も進行していませんでした。殺害されたのはおよそ夜中の一時前後かと思われます。これ以上の詳しいことは、専門家じゃないと難しいですな」そこで龍川医師は、額に手を当てて俯いた透を慮るように一拍おいた。それから場を一度ぐるりと見回して小さく胸を膨らませる。「不可解なのはここからです。納屋には奥に一つ換気用の小窓がございますな。拳一つ分が入るほどの。こちらに鍵はありません。これは確か、人間の通り抜けどころか、人の頭も通らない大きさなので必要がないからでしたな。そして、出入り口の鍵はしっかりと閉められていた。これは間違いないですな?」

「間違いない。鍵は水谷から受け取り、私が開けた」

 源一郎に呼応して、水谷も肯く。

「わたくしもしっかりと見ておりましたが、間違いなく鍵は閉まっておりました」

 そうしたところで、深見が小さく息を呑んだ。

「じゃあ……犯人は一体どこから出たのでしょうか」

 その声に一同も、はっとした表情を見せる。

 目を見開いて驚きを示す深見に、龍川医師は大きく肯き返した。

「ええ。そうなのです。犯人の脱出口が見当たらないわけですよ」

「最後に鍵がかかっているのを確認したのはいつです?」

 この深見の問いには、水谷が小さく手を挙げた。

「朝わたくしが開錠いたしまして、夜にわたくしと透さんが鍵を掛けました。納屋と土蔵に関しましては、毎日そのようにしております」

「間違いないよ」と透が蒼い顔を持ち上げる。

一つ頷いた深見は水谷に向き直り、「もう少し正確な時刻はわかりますか?」と投げかけた。

「昨晩は夕食会がありましたのでいつもより少し遅く、そうですね二十二時を過ぎたくらいでしょうか。二十二時半に近かったかもしれません」

「そうですか」と、深見は一度背もたれに深く腰掛けた。「では、静さんの姿を最後に見かけたのは?」

「わたくし……でしょうか」

 これにもまた水谷が手を挙げる。

「夕食会の食器を一緒に洗って片づけました。それから静さんは二階の自室にあがり、わたくしは透さんと外の見回りに出ましたので、……そうですね、二十二時過ぎでしょうか」

「これも間違いないよ。静は、僕と水谷さんに挨拶をして、中央階段から二階にのぼっていった」

 透は苦しそうな声で言い終わると、目を閉じて小さく胸を上下させた。

「なるほど。状況を整理してみると、静さんは二十二時過ぎから深夜の一時の間に連れ去られ、殺害された。――あ、龍川医師、殺害現場は納屋だと思いますか?」

「まあ、おそらくそうでしょうな。大量の血液が天井から壁から、あちこちに飛んでおりましたから。これは、頸動脈を破られた際に噴き出したものと思われますな」

「じゃあ、犯人は大量の返り血を浴びた可能性が高いですね」

 と、深見が言ったところで、源一郎が苦言を呈した。

「ちょっと待ってくれ。四神様の呪いなのだろう? あるいは頭のおかしな侵入者の仕業かだ。なぜ君はそんな取り調べのようなことを」

 深見と透は一つ目配せをする。

 犯人が村の地理をよく知る人間である可能性が高いということを知る深見、透と、それ以外の者との間で認識に齟齬があるのだ。深見にしてみれば、村民の誰が疑わしく、誰が潔白なのかをより早く正確に分別したいという気持ちがある。

しかし一方で透が言うように、むやみに疑心暗鬼を煽って村民を分断させたり、犯人を刺激したりするのが危険なことも理解ができる。

 深見はどう説明したものかと一瞬押し黙り、考えが纏まるのを待って慎重に口を開いた。

「お言葉ですが源一郎さん、これは呪いなどではない。紛れもない人間による犯行ですよ。そして、犯人が頭のおかしな人物だということにも、少し疑問がありますね。現に犯人は、静さん殺害の際に密室という状況を作り上げています。それから、朱野……いえ透君を襲うために屋敷に侵入してボウガンを盗み出しているところからも、計画的であることが窺えます。そういうところから僕にはどうも、行き当たりばったりの変質者の犯行に見えないんですよね」

 そこでまた源一郎がボウガンで襲われたとはなんだと騒ぎ立てたので、深見と水谷が説明を加えた。

 それらをじっくり黙って聞いていた透が、やがて思い立ったようにぽつりと言葉を落とした。

「ところで弟は無事なんでしょうか」

 一同がはっとする。音が空間へ浸透しきるのを待つかのような、不自然な間が生まれた。

 皆、透の言葉で初めて気ついた様子だった。朱野穢などと蔑称で呼ばれる青年は、いないことが当たり前なのだということを、深見は改めて思い知らされる。

 透はその場の反応をぐるりと冷めた目で見まわし、すっくと立ち上がって居間を出て行った。深見も後から追いかける。昨晩、深見が叱責を受けた地下階段だ。段の途中に下り行く透の頭が見えた。その後を追い、深見も段に足を掛ける。一段おりるごとに、ひんやりと温度が下がるようだった。中で一つ折れた先に、頑強そうな金属の扉があった。扉の脇のフックから透が鍵を取って回すと音もたてずに扉は開いた。

 立派な扉に反してその鍵の管理がずさんなことに驚かされる。だが、おそらくは鍵の目的は中の穢が脱走しないことにあるのだろう。中に大事なものがあるわけではないので、鍵が盗まれたり、侵入者に入り込まれたりしたとしても、穢を閉じ込めさえできれば問題はないのだ。中にいる穢がたとえその侵入者に襲われようと。――その推論はのちに聞いた話により、確証に変わることとなるのだが――なんとも非道な話だった。

 階段の上から、今まさに地下へと足を踏み入れんとする深見を見下ろす気配があったが、もう誰も咎める者はいなかった。

 地下は鍾乳洞のようにひんやりと冷たく、独特の籠った匂いに満ちていた。

 薄暗いセメント塗りの廊下の先に、扉を前にした透の姿がある。

 向かって右は一面がセメント作りの壁になっていて、突き当りは行き止まりになっている。扉は一枚だけだった。

 扉の下部には牢屋よろしく、食器の受け渡し口の小窓があった。透は一度深見の姿を認めて戸惑う反応を示したが、構わずこんこんこん、と三つノックをして、

「夜中にごめん。透だけど」

 と、中に声を掛けた。中から反応が返ってくる気配はない。先ほど手に取った鍵のうち一本を選んで、ドアノブに差し込み開錠する。

 扉を押し開け、中を見るなり透は仰天した。

「大変だ――!」

 中はもぬけの殻だった。



 十六



 朱野穢がいなくなった。

 その報せは疲弊した面々に追い打ちをかけるに充分すぎる出来事だった。

「穢が呪いを呼び込んだのだ! 奴を早く捕らえて牢にぶち込まねばならん!」

半狂乱に喚き散らす源一郎の声は、さながら頭上で鳴り響く銅鑼の音のようだ。容赦なく疲れ切った精神を削り取っていく。しかし、もうこの場に昂った狂信者を宥める余力を持つ者は誰一人いなかった。

 この後総出で屋敷を隈なく探したものの穢の姿は見つからず、大時計が四時を報せたところで、一旦解散して休むこととなった。

 深見と龍川は朱野邸に一泊していくことを薦められたが、白峰邸に残してきた家族のことがあるからと断り、騒ぎに目を覚ました武藤霧子と共に各々が一旦住まいへと帰ることになった。

深見は、透と翌日の昼に朱野邸で会う約束を取り付け、屋敷を後にした。

 そのころには雨は止んでいたものの、見上げれば雲が激しく流れていくのが見て取れる。東の空が明るみ始める前には床に就けることを祈りながら、三人はそれぞれに疲れた身体を引きずって歩いた。

 武藤霧子を家に送り届け、深見と龍川が白峰邸に戻ると、居間には明かりがついていた。

 冷泉と瑞樹が交代で起きていたらしく、一階の和室では琴乃と小夜が並んで穏やかな寝息を立てている。

 そうしたところで仮眠を取っていた冷泉が目を覚まし、入れ替わりに龍川医師が客間で休むことになった。せっかく寝付いた小夜を起こして家へ帰ることもないだろうとの瑞樹の提案である。

それから居間でこれまであったことを時系列順に説明していると、次いで琴乃が起きてきた。どうやら夢と現実をうとうと行き来していたらしい。

「じゃあ、僕らは殺人鬼とともに、この村に閉じ込められたわけですね」冷泉が事務的に反芻したところで、辺りに沈痛な空気が漂った。そこで一瞬気遣うような表情を見せた冷泉だったが、黙り込んだ琴乃と瑞樹の顔を順に窺った後、深見を見据えて低い声で言い放った。「おそらく犯人はこの村の人間でしょう」

 その言葉に、琴乃は信じられないというように口に両手を当てて首を二、三度横に振る。

深見は身を乗り出して、胸いっぱいに息を吸いこんだ。

「君もそう思うかい?」

 弟よ、おまえもそれを言うのかという姉からの視線が、深見の側頭部をはたく。深見は構うことなく冷泉の両の目を熟視してその言葉に耳を傾けた。

「ぬかるんで視界も悪い中、迷いなく険しい山道を逃げ切ったというのもありますし、第一ボウガンのありかを犯人は知っていた可能性が高いですよね。いつ盗まれたかにもよりますが、もしも夕食会の最中に盗まれたのならば、屋敷をうろついていてもおかしくない人間だということになりませんか」

 冷泉の意見は、深見の見解と一致していた。

「そんな、それじゃあ……」

 琴乃が嘆くのに、深見は暗い面持ちで肯き返す。

「あの時俺たちを襲うことができた人物はかなり限られる。まずこの家にいた姉さんと瑞樹、冷泉くん、小夜ちゃんは除外される。それから龍川医師と水谷さんも一緒にいたようなものだから除外。残るのが浴室にいたという源一郎氏、自室に籠っていたという藤川絹代さん、それから客間で休んでいた武藤婦人、それから――」

「朱野穢さん、ですね」と冷泉。

「そう。姿をくらました朱野の弟さん。この四人に絞られる」

 深見の説明に、冷泉は肯いた。琴乃は頬を両の掌で挟んで俯き、瑞樹は視線を伏せて何か考え込んでいるようすである。

「ただし、朱野の弟が実行犯の場合は、背後で手引きした者……共犯者がいるのは間違いないと思うんだよな。実際に見てきたが、弟さんの地下牢は個室の鍵と、階段に出るための鍵の二つによって厳重にロックされていた。あれは鍵なしで通れるものじゃない。けれども、鍵の保管については杜撰だった。朱野家に入ることができる人間であれば、誰しもが手に入れて、彼を解放することができたと思うよ」

「つまり、誰かが朱野穢を手引きして匿い、透さんを襲撃させたということですね」

「そういうことになるね」

「しかし、共犯の可能性を言い出すと、アリバイのある人間も透さん襲撃の実行犯ではないというだけで完全にシロではなくなりますね」

 冷泉が唸るのに合わせて深見も黙り込む。そこが頭の痛いところだった。

 無音に絵具を垂らすように、琴乃がぽつりと声を挙げた。

「共犯者がいたとしても、穢さんが人殺しや襲撃を実行できるものかしら」

「どういうこと?」

 深見が尋ねると、琴乃は苦々しく表情を曇らせた。

「だって、ずっと地下に閉じ込められているのでしょう。そんな穢さんに山の道順を覚える機会があるものかしら。仮に地図を書いて事前に渡していて、コレクションルームのボウガンも共犯者が盗んで渡したのだとしても、そもそも幽閉で弱っている足で走って逃げ切れるとは思いづらいじゃない」

 そう言われてみればそうだった。深見と冷泉はそれぞれに肯き返す。

「まあ、地下で鍛えていた可能性もなくはないが。こればかりは、実際に朱野弟に会ってみないことにはわからないな。姉さんは会ったことはないの?」

「ないわよ。私だけでなく、おそらく朱野家の人以外は会ったことがないんじゃないかしらね」

「そうか……」

 深見は残念そうに肩を落とした。

「まあ、それよりもっと実行が困難そうなのは武藤婦人だろうな。アリバイがないというが、視力に不安があるのだから、朱野襲撃の手段にわざわざボウガンでの狙撃は選ばないだろう。それに、いくら道順を知っていたところで山道を駆け下りるのは難しいと思うし。実行犯からは除外していいんじゃないかな」

 深見が問えば、異論なしという肯きが二つ返ってきた。

 自らを置き去りにして纏まりかけているその場の空気に動揺を示すように、瑞樹だけが揺らいだ視線を向けてくる。

「え、待ってよ。陽介くんや冷泉も、母さんまで、なに落ち着いて探偵みたいなことしているの? おかしいよ」

 瑞樹は言いながら、ますます恐慌を膨らませているようだった。目を剥き、興奮から声を震わせる甥っ子を前に、深見は何度か唇を開閉させる。

「うん。いや」と、唇を何度か巻き込んで彼は言った。「これを言うとますます動揺するかもしれないんだけどさ、トンネルを壊して俺らを閉じ込めたということはさ、まだ事件が終わっていないんじゃないかって、俺はそれが怖いんだよね」

 いい機会だと、深見は透と山で話したことを説明した。この場にいる面々を信用しているからこそのことだった。

衝撃的な見解に、言葉を失う琴乃と瑞樹だったが、冷泉だけは細く息を吐いて一つ肯き、深見の目を見つめ返してきた。

「僕も同じように思います。……そうならなければいいとは思いますけれどね」

 賛同が推進力となったのか、深見の声にも力が漲る。

「だから、俺は一刻も早く犯人候補を絞って、これ以上の被害を防ぎたいし、姉さんや君たちを守りたいんだ」

 そう言って深見は瑞樹へと視線を投げた。瑞樹はまだ消化しきれていないような曇った顔をしていたが、気持ちと主旨は伝わったようで、これ以上異を唱えることはなかった。

「動機の面はどうでしょうか。朱野兄妹が被害に遭ったこと、『呪』の血文字、加えて『朱雀像』が壊されていたとなると、朱野家への恨みを持つ人間の仕業のように思えますが」

 冷泉の視線を受けた琴乃は、そこでようやく我を取り戻したようだった。ショックから一気に疲れを感じたのだろうか、しばらく宙を眺めてから少し芯のよれたような声で言った。

「透さんと静さんが狙われたとなると……安直だけど、やっぱり財産目当てということになるのかしら。穢さんは狙われた側なのか、犯人側なのかよくわからないけれど」

「朱野と静さんがいなくなって得をするのは、朱野弟ただ一人ってことになるのかね」

深見は頭の後ろに手を組んで背もたれに体重をかけた。椅子が軋みをあげ、慌てて姿勢を正す。

 冷泉は顎に指を当てて、上目遣いに視線を投げた。

「藤川絹代さんは?」

「あの人は、籍は入れていないようだから相続権はないだろう。それこそ遺言書でもない限りは」

「遺言書ですか……」

 秘密を漏らすのは本意でなかったが、事態が事態なだけに致し方ない。昼間に透から聞いた家庭の事情を深見が掻い摘んで話すと、冷泉は考え込むように口を噤んだ。

 その様子を見比べていた琴乃が、突然何かに思い至ったように「あっ」と口を開いた。

「姉さん?」

 一度に三対の視線を受けた琴乃は逡巡の色を滲ませる。

「いえね、あくまで噂だから」

「聞かせてよ。こんな事態だもの、情報は多いに越したことはない」

 それでも少し迷っていたようだが、やがて琴乃は意を決したように膝の上の拳を解いた。

「亡くなった龍川先生の奥様から聞いた話なんだけれどね。当時十五年前と言っていたから、今からだと二十五年近く前になるのかしら。私もまだこの家に嫁いでいない頃のことよ。執事の水谷さんが雷雨の真夜中に、隠れるようにして何かを抱えて村の外へ車を走らせたことがあったんだって」

「二十五年前か。一体何を運び出したんだろう」

 天を仰いだ深見の喉笛を眺めながら、琴乃はやや首を傾げた。

「それははっきり教えてくれなかったんだけど、その頃からなんですって。源一郎さんが武藤さんの世話をかいがいしく焼くようになったのは。それまではどこか不自然というか、寧ろ白々しいくらいだったみたいよ」

「水谷さんの不可解な行動に、源一郎氏と武藤さんの関係か」

 深見の反芻に琴乃は、んー、と同意とも唸りともつかない声を漏らすと、脱力するように食卓に視線を落とした。

「今回の事件と関係があるかはわからないけれどね」

「ねえ……もう五時だよ。そろそろ休んだほうがいいんじゃない」

 疲れの滲む母の様子を案じた瑞樹が、自身も眠そうな、力の抜けた声を上げた。各々が同意し、ここで一度話を切り上げて自室として宛がわれた部屋で休む流れとなった。

第二章 八月十九日



 一



 気がつくと寝入っていたようだ。

 考え事と夢との境目もわからないまま、気づけば朝の九時を過ぎていた。カーテンの隙間から差し込む日差しに擽られて、深見は目を覚ました。目の周りはじんわり重いのに、頭の芯は驚くほどぎんぎんに冴えわたっている。

 深見はベッドの上で自身の掌をぼんやりと眺めた。昨日起きたことがダイジェスト映像のように頭の中で浮かんでは消えていった。

 半袖のTシャツから覗いた二の腕には、山で枝葉にひっかけた小さな傷が幾つかあって、あの凄惨な事件が、長旅の疲れが見せた悪夢などではないことを如実に物語っていた。

 深見は離れで身づくろいを済ませ、母屋の居間に顔を出す。

 台所に変わらぬ琴乃の背中を見つけて、ようやくほっと息をついた。

「あら、陽介おはよう。昨日は疲れただろうから、もう少しゆっくり寝ていてもよかったのに」

「おはよ。四時間も寝れば及第点だよ。それに、みんな起きているのに、自分だけ寝てもいられないし」

 深見は食卓の椅子につき、姉の出してくれた麦茶を一気に飲み干した。その瞬間、草臥れた身体に生の実感が戻ってくる。

姉の言う通り、実に様々なことがあった一日だった。

 四神村に生まれて初めて踏み入れ、夕食会に招かれ、電話機が爆発し、挙句の果てには殺人に襲撃に失踪ときたものだ。それらが全て昨日一日に起きたというのだから、嘘のような話である。

「四時間睡眠で及第点だなんて、学校の先生って激務なのね。そのうち身体を壊すんじゃないか心配だわ。はい、朝ご飯」

「いただきます。あれ、龍川先生たちは?」

「もう帰ったわよ」

 湯気を立てた白米を受け取り、ありがたく手を合わせる。炊き立てのご飯は、すきっ腹にひどくしみた。

 琴乃の話によると、どうやら龍川医師は、朝から武藤婦人の診察があるらしかった。

 こんな事件の最中でも、長年続いているその習慣だけは変わらないらしい。

そういえば、と深見は昨晩のことを思い起こす。今日会う約束を取り付ける際に、透は十一時という遅めの時間を指定してきた。それを深見は、事件のおかげで寝るのが遅くなった分、透も遅くまで寝ていたいのだろうなどと解釈していたが、もしかしたらそうではないのかもしれない。

「そういえば……朱野は毎週武藤さんの通院の送り迎えをしているとか言っていたな」

 深見は、今は亡き静の言葉を思い出して目を細める。

 琴乃は味噌汁椀を食卓に置いて肯いた。湯気がふわりと深見の前髪を撫でる。

「そうそう。武藤さんに関しては、源一郎さんからの引継ぎでね。でも……源一郎さんは通院の送迎までは、さすがにしていなかった気がするわね。確か透さんが武藤さんのお世話をするようになってからよ。いつの間にか通院の送り迎えまでするようになっていたようね」

「朱野らしいな」

 大学時代の透を回想しながら深見がつぶやく。彼は本当に気の利く親切な男だった。

「本当に。透さんったら、本当によく気の付く好青年よねえ。うちに娘がいたらお嫁にもらってほしいくらいだわ」

 琴乃はうふふと口のうちで笑い、自らも対面に腰かけて麦茶を一口すすった。

 そんな彼女の目の下にもうっすらと隈がある。

「ところで静さんのお母さんって、どんな人だったの?」

「百合子さん? そうね……私がこの村に嫁ぐ前のことはよく知らないのだけどね。かすみさんが亡くなった次の年に、この村に嫁いできたって話よ」

「ということは、二十三年前か。元々この辺りの人なの?」

「ええ。結婚する前は隣の五藤村で看護婦をしていたそうよ。時折龍川先生の病院にお手伝いにきていたのが縁で、源一郎さんと懇意になって結ばれたという風に聞いているわ」

「へえ、看護婦さん」

「はっきりした目鼻立ちの快活な人だったかな。成長するごとに、静ちゃんは百合子さんによく似てきていたわね。前妻のかすみさんとは私は会ったことはないのだけど、おとなしそうな女性だったみたいで。じゃあ、百合子さんとは割と正反対だったんだなあって思ったわね」

源一郎は一度妻を亡くしているから、健康そうな女性に惹かれたのかもしれない。

「けれど、そんな百合子さんも病気で……か」

 深見が渋い顔で息をつくと、琴乃も寂しそうに眉根を寄せた。

「まさか、あんなに若くして亡くなるとはね。元気そうだったのに。その頃は静ちゃんもまだ小さくて、本当に可哀そうだったわ」

 深見が食事を終えたあたりで、ちょうど二階から冷泉と瑞樹が連れたっておりてきた。どうやら家じゅうの雨戸を閉めてきたらしい。汚れた手を洗いに洗面所へ直行する二人を見送ってから琴乃が言った。

「瑞樹の提案なのよ。あの子、かなり神経質になっているみたいで」

 その言葉に、深見は昨晩の様子を思い起こした。比べるまでもなく、現状に対して最も抵抗を見せていたのが瑞樹だった。

「あんなことのあとだからな、仕方ないさ。それに雨戸を閉めること自体は良い策だと思うし」

「ええ、侵入者が入ってこられないよう用心するに越したことはないからね」

「警察が来るまでの辛抱だな」

「秀一さんが二十一日には帰ってくるから。そうしたらトンネルが崩れていることに気づいて警察を呼んでくれるはずよ。それまではなんとしてでも自衛しないとね」

 よもや白峰秀一にまで魔の手が迫っているとは思いたくない。

仮にそうであるならば、警察の捜査がこの村にも伸びているはずだ。と、深見は縁起の悪い想像に無理やり蓋をして、残りの麦茶を煽った。



 二



 透との約束を控えた深見が席を立ち、瑞樹が汚れた衣服を着替えるついでにシャワーを浴びて戻るまでの間、居間には冷泉と琴乃が取り残された。

 そこで冷泉は改めて白峰琴乃の顔を正面から見ることになったわけだが、その瞬間、不意に先刻見た光景が脳裏に蘇ってくるのを感じた。咄嗟に小さく頭を振ってその像を掻き消す。水を含ませた絵筆で擦ってぼかされたように、像は脳内でピントを失って消えた。

 しかし、瞼の裏にこびりついた閃光のように、残像は時折顔を出しては冷泉の心を揺さぶってくる。

一枚の写真。白いワンピースを着た人形のように可憐な少女。その顔は冷泉もよく見知っている。

 白峰瑞樹のものだった。





 時刻は一時間程遡る。それは二人が白峰瑞樹の私室の雨戸を閉めていたときのことだった。雨戸を引っぱろうと、冷泉が瑞樹の勉強机と腰高窓の隙間に身体を差し込んだ際、足先に何かが触れて音を立てた。壁に立てかけられたコルクボードを蹴ってしまったようだった。

「あっ」

 瑞樹が声をあげるのと、元の位置に戻そうと冷泉がその板に触れるのはほぼ同時だった。その声に、驚いた冷泉の手が滑り、壁に伏せられていた板がひっくり返る。

 その表面を見た冷泉が、切れ長の目をぎょっと剥いた。

ボードは何度も痛めつけられたように歪んでおり、いくつも穴が開いていた。その表には一枚の写真があり、中心には深々と彫刻刀が突き立てられている。小学校低学年くらいの白いワンピースを着た少女の写真だった。そしてそのボードも、彫刻刀も、写真も。そのいたるところが暗褐色に汚れていた。

冷泉は恐る恐る背後を振り返る。視線の先には、少女によく似た男が立っていた。

湿気を含んだ夏の風に混じって、蝉しぐれが蒸した部屋を満たしていく。

伏し目がちな白峰瑞樹の表情は氷のように冷たく、彼の周囲だけ色も温度も失われたような錯覚を冷泉は受けた。どくりどくりと自らの鼓動だけが耳元でうるさく鳴り響き、背筋がぞくぞくと冷えるのがわかる。目の前にいるのはよく知った友人だというのに、まるで大蛇に睨まれたような心持であった。

張り詰めた静寂を打ち破ったのは瑞樹だった。温度のない瑞樹が一歩二歩と近づく間も金縛りのように動けずにいる冷泉の横を通り過ぎ、ボードを伏せて元あった壁へと立てかけた。

 そして、寂しそうに笑った。

 その顔は、普段の無邪気なものとは違って、世の酸いも甘いも熟知した大人のもののようだった。





 名前を呼ばれて、冷泉は我に返った。

「冷泉くんは、ご家族は?」

 一瞬、遠い異国の言葉でも掛けられたように、冷泉の目が点になる。深い回想に潜っていた意識が浮上するに従い、異国語は日本語の形を成していき、冷泉はその不自然な間を取り繕うようにひとしきり室内に視線を彷徨わせてから徐に口を開いた。

「両親と兄との四人です。といっても、兄も僕も大学から家を出ているので、実家は両親の二人暮らしですが」

「そっか」

 琴乃は食卓テーブルの上で何度か指を組みなおす。妙に落ち着かない空気に背中を擽られる時間がしばらく続いた。やがて琴乃が意を決したように小さく息を吸った。

「冷泉くん、瑞樹の幼少の話、何か聞いた?」

 その問いに冷泉の背筋がぎゅっと引き締まる。ややあって、絞った喉の奥から張り詰めた声が出てきた。

「いえ、詳しいことは何も」

 冷泉には珍しく、不明瞭な声色になった。

「そう。一階に降りてきたときに冷泉くん、何か様子がおかしかったから。もしかしたら何か瑞樹が話したのかなって思ったのだけれど」

 穏やかな琴乃の表情の裏に何かどす黒いものを感じ、不意に冷泉の喉仏が上下する。脳裏には温度を喪った瑞樹の表情が蘇った。

 何かこの家の禁忌へと足を踏み入れようとしているのではないかと、冷泉の背筋が氷の筆で撫でられたように凍る。気心の知れた友人の家だというのに、このときばかりはまるで昔話に出てくる人間に扮した恐ろしい山姥の家に紛れ込んだ小僧のような心持であった。

 やがて、からからに渇いた喉の奥をこじ開けるように、冷泉は掠れた声を捻り出す。

「写真を、見ました」

「写真、小さい頃の?」

 その表情や声から、琴乃の感情は読み取れない。

 冷泉は極力畏れを面に出さないように平静を装うべく、努めてごく落ち着いた声音で返答した。

「申し訳ありません。立ち入ったものを見てしまって。きっと外部の者が軽々しく知って良いものではないですよね」

 その瞬間、琴乃の表情が一気に緩んだ。

「ううん、そうじゃない、違うの」

と、慌てたように顔の前で手を小さく振る琴乃の仕草に、ようやく人らしい温度を感じることができ、それにより張り詰めていた冷泉の緊張も徐々に解けていった。

「あの子が自分からあの頃の写真を見せるなんて、少しびっくりして。それだけ冷泉くんのことを信頼しているのだと思うのよ」

 冷泉が偶然板を蹴ってしまったから瑞樹の意思に関わらず見えてしまっただけで、そこに自身への信頼との関連性はないと、冷泉は一人胸の中でつぶやいた。

「びっくりしたでしょう」

 冷泉は少し間を置いた。そして言葉を選び終わると、ひとつゆっくりと瞬いて視線を真正面へと戻した。

「驚かなかったと言ったら嘘になります」

 琴乃も同じようにひとつ瞬いた。

「よくまっすぐ育ってくれたなって思ってる。親ばかに映るかもしれないけれど、瑞樹にも実家に呼ぶような友達ができて、おばさん安心しているんだ。……あの写真」

と言い淀んで、琴乃は視線を小さく彷徨わせる。詳しい事情を知らない冷泉にも、瑞樹の幼少期に何か人には言い難い事情があるのだろうことは察せられたため、言い淀んだものの指示する先がなんとなく伝わっていることを示すように冷泉は小さく頷いた。すると、琴乃もその意図を受け取ったようで、一つ頷きを返して口を開いた。

「そのことに加えて、こんな村でしょう。同年代の友達も静ちゃんと小夜ちゃんだけだし、一人っ子だから兄弟との交流もないし。高校から急に集団に放り込まれたときに、人との触れあい方がわからなくて、友達ができなかったり、道を外れてしまったりするんじゃないかって心配してた。だから弟か妹か、いた方がいいのかなって思っていたんだけどね。それも結局叶わなくてね」

 兄弟の有無と、社交性に因果関係があるかと言えば、一概には言えないのではないか。そうは思いつつも、話の主軸はそこにないのだろうと、冷泉はひとまず話の先を促すように琴乃の顔をじっと見つめた。琴乃はそれを汲み取ると、長い睫毛を上下させて組んだ指をじっと見つめた。

「亡くなった私の祖父……深見家の先代は、瑞樹に弟が産まれた暁には、白峰家から取り上げて深見家の養子として出迎えるつもりだったのよ。陽介がいるのにまだ跡継ぎが欲しいのかと、正直腹が立ったものだわ。女である私の存在意義も否定されたようで、なんだか空しくもあって。そういった全てがどうしても許せなかった」

 声は震え、目には黒い焔が見えるようだった。はたと我に返って熱の籠った心に水をかけるべく、琴乃は一つ息をついた。

「祖父には祖父の事情があったのでしょうけれど。例えば……そうね、祖父の時代には生まれた子供が無事に成長できる確率も低かったのでしょう。病気や飢えや戦争で大人になれずに亡くなる子供も多かったのよね、きっと。そういう時代に生きた人だから、跡継ぎが一人きりだと不安だったのだろうけど……そういう黒い打算で子供を“つくる”という発想が、どうしても好きになれなかったの。子供は家督を継がせるための道具じゃないわ。そんな母親の心境を察したのかしらね。結局、瑞樹のあとは子供に恵まれることがなかったの。祖父が亡くなってからは、そんなことを言う人もいなくなったのだけれど。私が二人目を望みつつも、一方心の奥底では男の子の誕生を拒んでいたという手前、瑞樹には少しばかり罪悪感があってね。まあ、そういう、大人の事情や村の風習に巻き込んでしまったようで、いろいろと思うところがあったのよ」

 琴乃は、最後は広げすぎた風呂敷を慌てて無理やり畳むようにまくし立てて、誤魔化すように笑顔で締めた。結局、ワンピースの謎は明かされないままだったが、冷泉側から掘り下げるようなことでもあるまい。冷泉は神妙な顔で、ただ友人によく似た夫人の口元をじっと見つめるに徹した。

「私ったら……話がどんどん飛躍しちゃって懺悔まがいのことを。ごめんなさいね、家の事情なんか聞かされて、瑞樹と顔を合わせづらくなっちゃったりはしないかしら?」

「いえ、それはありませんので安心してください」

「そう?」

 困ったように眉を下げて笑う琴乃に、冷泉は正面からきっぱりと言い切る。

「僕は、僕の知る白峰瑞樹くんを好きで友人でいるので。その根っこを知ったところで、何かが変わるものではありません」



 三



 雨粒が傘の布地を叩く音を聞きながら、深見は朱野邸へと足を向けた。目を覚ましたときには白い光が見え隠れしていた空も、次第に雲を厚く垂らし始め、今ではすっかり本降りの雨となっている。

 玄関の呼び鈴を鳴らすよりも早く、突然宙から名前を呼ばれて深見は辺りを見回した。

「ここだよ、深見。ここ、上」

声に導かれて視線を上げれば、二階の窓から透が顔を出している。不用心だなあなどと苦笑いを零す声が幽かに上方から耳に届いた。

「少し待っていて。今玄関を開けるから」

 話によれば、朱野穢の失踪にあたり一家総出で屋敷内とその周辺を捜索していたとのことだった。藤川絹代だけは、昨晩部屋に閉じこもったきり一歩も外に出ていないようだったが。その際、村の中心にある石像が砕かれているのが見つかったとのことで、深見は早速来た道を一度引き返して現場を見にいくことにした。

 菜園の脇の石像は、見る影もなく無残に砕け散っていた。その上には、例に漏れず赤い塗料がしとどにぶちまけてあり、今は表面で白い雨粒が躍っている。

 前情報があったからか、現在が昼で辺りが明るいからか、はたまた慣れからくるものなのか。昨晩ほどの衝撃を感じなくなっている自身の心に、深見は軽い喪失感を覚えた。

「これ……村全体に波及しなければいいけど」

 『朱雀像』に続いて四神全体の象徴である石像が破壊されたことを受け、透が不安の声を漏らす。

「標的がよくわからなくなってきたし、朱野だってまたいつ狙われるかわからないし、どこか一か所に集まった方がいいかもな」

「うん。俺もそう思う。武藤さんはしばらくうちに泊まるように声を掛けてみたところだよ。後はどうにかトンネルを迂回して助けを求められないかなって考えていて」

「それは少し危険じゃないか? うまく山を抜けても谷に突き当たるって朱野、昨日言っていただろ。この雨だと川だって増水しているだろうし。それに、電話やトンネルに爆発物を仕掛けたような犯人だ。どこに罠が仕掛けられているかわかったものじゃないよ。そもそも分散するとそれだけ守りも薄くなるし」

「そうなんだよな……」

深いため息とともに逸早く惨状に背を向けた透を追いかける形で、深見もその場を後にした。

「とにかく、今は弟さんが心配だな。それだけ探しても見つからないなんて、どこに行ってしまったんだろう」

 実のところ深見の中では心配半分、疑い半分という具合だったが、疑惑は隠して気遣いの言葉のみを口にする。それどころか疑心について言ってしまえば、穢だけに収まらないのが本音である。昨晩のアリバイ検証の結果、容疑者は源一郎、絹代、朱野穢の三名に絞れたようなものだったため、深見にとって朱野家は今では魔窟のような認識だった。

 しかし、どんなに怪しかろうと、事情が複雑であろうと、彼らが透にとって家族であることにはかわりないためこのことを話すのは憚られる。それが、いくら透の身の安全のためであってもだ。妹を惨殺され、自らも命を狙われたうえに、家族に容疑がかかっていると知ったときの気持ちを考えたら、とても打ち明ける気にはなれなかった。

「あれからまた狙われたりはしなかったか?」

 深見が問えば、透は一つ肯き返した。

「極力単独行動は避けるように努めていたから。武藤さんの送り迎えのときは仕方がなかったけれど、走って行って帰って来たさ。暴漢も追いつけないくらいにね」

「気を付けろよ」

「ありがとう。深見もね」

 そう言った透のまなざしの柔らかさが、深見の冷えて縮こまった心に染み入るようだった。青い傘の下でも、透の周りだけはほんのり温かい色をしていた。

「しかし、静さんを殺害した犯人は、どうやって納屋から逃げたんだろうな。あ、納屋の中、少し見てもいいか?」

 そう言って深見は、もう目の前まで迫った玄関から視線を外し、納屋へ首を向けた。事件があってからこちら、実際に死体発見現場を目にするのは初めてのことである。

 夏場で遺体も傷みやすいため、静の遺体は、穢が消えてもぬけの殻となった地下牢に隣接する空き部屋に搬送されていた。幸いにも朱野家の大型冷蔵庫には、料理に使う氷の塊が幾つもあったため、今では地下は即席の霊安室と化している。

 これで朱野穢が帰って来た暁には、彼は妹の亡骸の眠る壁一枚を挟んだ空間で警察の到着を待つことになるのだ。想像して、深見は一つ身震いを零した。

 透の承諾を得て、深見は一度納屋の周囲をぐるりとまわってみた。しかし、昨晩の豪雨に加え、今朝の雨である。土はすっかり流され、足跡らしい足跡は何も見つけることができなかった。

そのまま正面の扉に手をかけたところで、深見は隣に立つ透の顔が真っ青なことに気が付いた。慌てて手を引っ込める。

「ご、ごめん。流石に無神経だったよな」

「いや、平気だ」

 ちっとも平気そうでない顔で透は首を振った。しかし続けて、「許せない」と目の前の血文字を見据えたその横顔に、深見の目はぎょっと釘付けになった。

それは視線で納屋を焼き尽くすほどの憎悪に満ちていた。そのあまりの鬼気迫る風貌を前に、犯人が明らかになった暁には、透がその者を八つ裂きにしてしまうのではないかと、深見は沸き立つような畏れを抱かずにはいられなかった。

 昨晩から彼があまりに落ち着いていたため深見も失念してしまっていたが、どこに妹が殺されて平気な兄貴がいようものか。昨晩大嵐の中、白峰邸に助けを求めて現れた際の弱り切った姿が、透本来の姿だったのだと思い知る。

 本当にこの扉を開けてしまっていいのか。深見の喉が不意にごくりと上下する。目の前に聳えるこの一枚の古木戸が、まるで友人の狂気を封印する最後の砦であるかのように感じられ、把手を握る深見の手が小さく震えた。そのまま意を決して、強く力を籠める。

 扉を開けた瞬間、凄惨な光景が視界を揺さぶり、続けてむわっと強い鉄の匂いが胸じゅうに圧し掛かってきた。思わず喉から呻きが漏れ、深見は口元をハンカチで覆った。

 天井には、水鉄砲で噴射したような血痕が広がっており、そこから跳ね返ったようなしみが同心円状に広がっていた。静がこの場所で上向きに吊られたまま首を刎ねられただろうことは、一目でわかる。

 深見はこっそりと横目で透を窺った。透は、何か眩しいものでも眺めるような目でそれらをぼうっと見つめていた。

「静さんが殺害されたのは夜中の一時頃だったか」

 手探りの問いかけに、「ああ」と存外しっかりした声が返ってくるのを受け、深見の声にも徐々に勢いが戻ってくる。

「そのころのアリバイがある人物となると」

「同じ寝室を使っている父と絹代さんだな。あとは……瑞樹くんと冷泉くんは別だったのかな」

「そこの二人は、もうそれぞれの部屋に引っ込んだ後だったみたい」

 言いながら、深見は尻ポケットから小さな手帳を取り出してメモを取り始める。ただの安物のスケジュール帳だが、手持ちのノート類といったらこれしかなかったため事件の整理に使っているものだ。

 深見は静殺害事件と、透襲撃事件の各人のアリバイを表にまとめ、眺めてみた。

 ここで奇妙な事態が浮かび上がってくる。

「ちょっと待て……静さん殺害と、朱野襲撃の両方ともにアリバイのない人間がいないぞ……」

手帳を覗き込んでいた透も、目を丸くした。

「両方ともアリバイがないのは、弟と武藤さんだけだね」

 透が沈鬱な声を漏らす。

「けれど、武藤さんは目に不安があるから犯行が困難で、弟さんは一度も外に出たことがないのならば山道には慣れていないだろう?」

 すかさず、深見は昨晩白峰邸で出た話を持ち出す。透ははっと目を見開いた。

「そうか、霧子さんだけじゃない、弟にも不可能だ」

 自らの弟の嫌疑が晴れたからか、透の表情にほんの少し色が戻ったようだった。しかしすぐに首を傾げて目を瞠る。

「え、だったら誰が……?」

「そう。朱野襲撃の際にアリバイのなかった源一郎さん、絹代さんが、静さん殺害の際には鉄壁のアリバイがあるんだ。二人が共犯関係にでもない限りは……だが」

 深見の説明に、透の瞳孔がみるみる縮まり、唇が戦慄いた。

「まさか……」

 驚愕の事実を打ち消すように首を左右に振る透を前に、深見は居た堪れなくなって目をそらした。父とその愛人が妹を殺害し、自らを襲撃したなど、考えただけで腹の底が混ぜっ返される思いだろう。

「父さんと絹代さんが……? でも、あの人たちだったらやりかねない」

 自らの導いた論が原因とはいえ、突然力が抜けたように呟き始めた透を前に、深見は動揺を禁じえなかった。諦念の色濃くにじんだ透の姿は、見ようによっては自棄にもとれた。

このままでは彼が壊れてしまうのではないかと急に不安になり、深見は自らがつい今しがた話したばかりの論に慌てて布を被せる。

「いや、まだ外部犯の可能性だって」

「その可能性が薄いことは、昨日話したじゃないか。この村のことをよく知る人物の犯行であることは、間違いないと思うよ」

「確かにそうだけど」

「深見、覚えているか? 絹代さんが俺たちに嫌疑を向けてきたときのことを。あの時彼女は、父の財産目当てで俺と深見が静を葬ったのだと言った。つまり、彼女が財産目当てで人を殺すという発想を持つ人物だということは確かなんだよ」

深見の話が呼び水となったように、頑なに言葉を並べ立てる透は、客観的にとても危うく感じられた。深見ははらはらした気持ちで「朱野」とその名を呼んで止めにかかった。透は、それに一つ頷いて正気を示すと、言葉を続けた。

「ただ、父と絹代さんを財産目当ての犯人だと仮定した場合にはおかしな点もある。既に財産は父のものなのだから、子供に渡したくなければ、父と絹代さんが婚姻関係を結んで俺と妹を家から追い出せば事足りる話だもの」

 よくよく聞けば、透の話は最もだった。源一郎と絹代が結託して、子供を亡き者にするその動機が全く思いつかない。

 そこまで考えてはたと深見の動きが止まった。

「なんてことだ」

「深見?」

「所在不明で村の地理に詳しい人物……もうひとりいるじゃないか」

 きょとんと目を丸くした透に、深見はきっぱりと言い放った。

「白峰秀一さんだよ」

 言いながら、ぽっと人のよさそうな義兄の顔が浮かんで、胸の奥がちりりと痛む。

 透は盲点だったとばかりに、顔をはっと強張らせた。

「で、でも秀一さんは出張しているんだろう? 会社の人に尋ねれば一発でわかるよ」

「でも、今は尋ねようがない。外に連絡がつくまでは、その可能性も視野に入れておいたほうがいいと思うんだ」

 深見がそう言い切ったところで、屋敷の二階の窓が開く音がした。

「財産の分け前でも相談しているのかしらね」

 突如降ってきた声に二つの傘が同時に傾く。見上げると、藤川絹代が二階の廊下、西側突き当たりの小窓から顔を覗かせていた。普段は分厚いカーテンが下りている小窓だが、藤川絹代にはわざわざそれを開けてまで話したいことがあるらしい。

「わたくし、旦那様のコレクションルームにサーベルを取りにきたのよ。自分の命は自分で守らないとね」

 こちらには武器があるのだぞという、殺人犯への牽制のつもりだろうか。二人が黙って見上げていると、さも愉快そうに鼻で嗤って、廊下の奥へと消えていった。

「……朝からずっとあんな調子なのか?」

 深見が呆れ交じりに問えば、透は困ったように肯いた。

「静が殺されたときには、自分から俺についてきたんだけどね。その時は、一番腕力の強そうな俺と一緒に行動するのが最も安心できると判断したんじゃないかと思うんだけどさ。ただ、その手にしっかりと鉈を持っていたあたり、相当警戒心が強いのはわかるよね。まあ、俺も絹代さんが犯人だったら怖いからってんで、ずっと視線を切らないように警戒していたぶんお互い様なんだけどさ」

 透からその話を聞いて、絹代が犯人であるか否かに関わらず、彼女は隙あらば透を殺すつもりだったのではないかという一つの仮説が深見の頭に浮かんできた。護身用兼、透を殺すための鉈であったのではないかと。あの時は確か透も護身用に角材を持っていたはずだ。角材片手に絹代を警戒していたとあれば、当時透も既にそのことに思い至った上で牽制していたのかもしれない。

 そう思って透の横顔を窺おうと、視線を恐る恐る持ち上げる。目が合うと、透は何を思ったか無理やり苦笑いのような表情を作った。そして力なく視線を落としてから続けた。

「ただ、その後トンネルの崩落があっただろう。その話を聞いて、俺と深見を犯人だと信じ込んでいるんだろうね。彼女が犯人じゃなければの話だけどさ。とにかく、まるで掌を返したようにつんけんしっぱなしだよ」

「なるほどなあ。なんというか……朱野の言うように、ひどく財産に拘るよな」

 深見が言葉を選んでそう言うと、透はため息交じりに、「俺は正直この家の財産だとか、家督だとかどうだっていい。寧ろ呪いのように忌々しいものだと感じているよ。欲しけりゃくれてやるさ」と、吐き捨てた。そして腕時計を見遣る。「悪いけど、そろそろ武藤さんを迎えに行く時間だ。深見も来る?」

 つられて深見も左手首を持ち上げれば、針は十一時四十分を指していた。迷いなくその誘いに乗ることにする。魔窟に一人取り残されるのは勘弁だった。



 四



 龍川邸に着いた頃には、雨はほとんど上がっていた。

 いつものように診察を終えて、話をしながら透の迎えを待っていた龍川医師と武藤霧子だったが、今日はそこに笑顔はなく、話題も昨日の事件の話題が主だったようだ。そんな武藤霧子の話を聞きながら、三人で『玄武の館』へ向かって歩く頃にはすっかり天気も回復し、白い雲の隙間からは時折光も差すようになっていた。

「では、また夕方頃にお迎えにあがりますから。それと差し出がましいようですが、それまで玄関の鍵はかけておいたほうが安心できるかもしれませんよ」

 透がそう言うと、武藤霧子は一歩下がって手を振る仕草を取る。

「ありがとう、そうしましょう。一人だと心細いから助かるわ」

 武藤霧子が扉の向こうに消えるまで見送って、ようやく透と深見は『玄武の館』を後にした。

 これから昼食を朱野邸で共に摂ることになっている。

「いつも武藤さんは、食事は一人で摂っているのか?」

「基本的にそうだね。今回は警察の助けが来るまでうちで過ごさないか誘ってみたけど。普段は一人で過ごしているみたい」

「なるほど。今回ばかりはな、そうした方がいいもんな。極力一人になるのを避けた方がいいだろうし」

 源一郎と絹代の共犯説が浮上している中、それは果たして本当に安全と言えるのかという思いも深見の中にはあったが、これは胸の内に秘めておく。ひょっとすれば、透も源一郎と絹代を疑うからこそ、それと対抗するために屋敷内の人数を増やそうとしているのかもしれなかった。相手が複数犯となれば、水谷と透の二人で対峙するよりも、三人、四人と頭数が増えるに越したことはない。そこに第三者である武藤霧子の目が加われば、それだけ犯人も手を出しにくくなるからだ。

 そしてそれは、何も源一郎と絹代が犯人だった場合に限った話ではない。別に犯人がいた場合にも、一か所に固まっているほうが手を出しにくいだろうことは確かだった。

やがて、二人が『玄武の館』の敷地を出て小道へ一歩踏み出そうとしたときだった。

「誰か! 誰か来てェ――!」

突然、絹を裂くような声が、背中の向こうから突き刺さった。

どちらともなく、即座に踵を返して走り出す。間違いない。声は『玄武の館』から聞こえてきた。すなわち、たった今しがた送り届けてきたばかりの武藤霧子のものに違いない。

幸いにも二人の脳裏に浮かんだ最悪な予想とは裏腹に、武藤は正面から見て玄関のちょうど左上にあたる、三階の廊下の窓から上体を乗り出すようにして助けを求めていた。

「早く、誰か! 誰かが窓の外に!」

 武藤は乱れる呼吸の合間にそう叫び、身を震わせているようだった。

「霧子さん落ち着いてください! 今助けに行きますから!」

 武藤霧子の大声に、透も負けじと声を張り返して落ち着かせようと試みる。家の外に犯人がいるのならば、それを牽制する意図もあったかもしれない。

 そう思った深見は、「俺もいます! 二人で助けに行きますから!」 と、自らの声も応援に添えた。一人よりも二人の方が、犯人への牽制になるだろう。

「ああ透さん、深見さん! 一階の窓の外に誰かいるの!」

 二人の声を見つけた武藤霧子は、水を得た魚のようにパッと顔を綻ばせた後、再び顔を歪めて助けを請うた。

「今行きますから!」透は大声で叫ぶと、「俺は家の外を見てくるから、深見は中の霧子さんを頼む」短く深見に言い放ち、自らは花壇の杭を一本引き抜いてブンッと縦に振った。振り落とされた泥が、地面にべしゃりと叩きつけられる。それらを鋭い眼光で睨みつけるようにして、透は家の裏側を目掛けて左方向に駆けていった。

 それを見送り、深見もまた一段飛ばしで石段を駆け上がる。続いて玄関の扉を乱暴に揺らしたが、堅い感触に阻まれた。

「武藤さん! 玄関の鍵を投げてください!」

 深見の言葉でハッと気づいた様子の武藤霧子は、廊下から身を乗り出して銀色の鍵を階下へ落とした。それを拾い上げると、深見は再び玄関へと足を飛ばす。ようやく開いた観音開きを右に曲がって階段を二段飛ばしに駆け上がった。

 そうして二階まで昇ったときだった。

「うわあああああ!」

 今度はただ事でない男の悲鳴が、屋敷の裏側から轟いた。

 深見の足が一瞬止まりかける。悲鳴は、間違いなく透の声だった。玄関の裏側の庭で何かが起こったらしい。

行くか戻るか一瞬迷った深見だったが、ひとまず三階まで昇り切る。すると向かって左の廊下の先で、座り込んで震える武藤霧子の姿を見つけた。

「武藤さん! 深見です。もう大丈夫ですから」大声で励ましながら駆け寄り、ゴムのように固まった肩を何度か擦った。そしてすぐさま外の様子を窺おうと、「ちょっとお部屋失礼します」目の前の部屋の扉を開けて、中に入った。

そこは武藤霧子の私室のようだった。うっすらと開いた正面の窓に駆け寄り、縁に両手を突っ張って眼下を見下ろす。

「朱野!」

 声をあげた瞬間、一気に深見の視界が色を失った。

 見下ろしたちょうど真下に、それはあった。

ドラム缶の上にちょこんと乗せられた、水谷執事の生首だった。



 五



 ようやく深見が庭に辿り着いたとき、朱野透はぬかるんだ中に一人尻もちをつき、驚愕と恐怖の絶頂を面に貼り付けて震えていた。

「大丈夫か朱野」

 慌てて駆け寄り抱き起こした透の身体は氷のように冷え、力が入りぎゅっと固まった身体はぶるぶると小さく暴れていた。

 緑色に塗装された小さなドラム缶の上の生首は、変わり果ててはいたものの間違いなく水谷のものだった。

 そして、夢遊病者のようにふらふらと近づいた深見の目に、更に衝撃的な光景が飛び込んできた。

「うわああッ!」

 不意の追い打ちに、深見の全身に雷で撃たれたような衝撃が走る。

それは地獄のような光景だった。

 生首が置かれている窓辺の向こう側、見えた武藤邸の一室の床には夥しい量の鮮血が迸っていた。そしてその中央に、切断された水谷の両腕が転がっていた。

 へばりついた視線を引きはがして視線を目の前のドラム缶へと戻すと、その裾の部分からじわじわと赤い血だまりが広がっている。この中に、おそらく水谷の首と腕を除いた胴体が閉じ込められているのだろう。

 深見は喉元まで心臓がせりあがってくるような感覚に、思わず口元を強く抑える。顎ががくがくと跳ね、舌は冷たく縮こまり、歯がかちかちと硬質な音を立てた。

「ふ、深見……」

 背後から力のない透の声が掛かる。しかし、気持ちの上では振り向いていても、身体が一向に言うことを聞かない。深見の身体は金縛りにあったように、ずっしりと根を張ったまま動いてはくれなかった。

「足跡がない……お、俺たちの足跡以外に、誰の足跡もないんだ」

 その言葉を受けて、ようやく深見はその目玉を動かすことに成功した。そこから、波紋のように顔が、腕が、全身がと順繰りに自由を取り戻していく。

「おかしいよ、ぬかるんでいるのに足跡がないんだ」

 怯えた子供のような口調で訴える透の疑問に、深見は答え得る解を持たなかった。

 深見はぐるりと左右を見回してみる。そこには、透の言うように足跡が二組分しかないのだった。

 そうしたところで、武藤霧子が震えながら三階の窓から顔を覗かせた。

「武藤さん、犯人は本当に外にいたのですか?」

 安心させる言葉を掛けるよりも、現状の説明をするよりも早く、たまらず深見は疑問を投げかける。

 すると武藤霧子はこくこくこくと何度も小刻みに顎を引いて声を震わせた。

「間違いないわ……部屋の扉を開けたとき、外で何かが壊れる音がしたもの」

「あ、あれかな」

 と、透が震えの残る声で指し示す。ドラム缶の脇に、小さな植木鉢が砕けて土が飛び散っていた。

「じゃあ、犯人はどこへ消えたんだ?」

「とりあえず……俺は、龍川先生を呼んでくるから、深見は武藤婦人のところについていてくれないか?」

 少し顔に色の戻って来た透が、ゆっくりとその場に立ち上がる。

 手と、ズボンの尻が泥だらけに汚れていた。それから、その場に取り落とした杭を手に取り、震える足を叱咤しながら、透は屋敷の向こう側へと駆けて行った。





 龍川医師が武藤邸に到着したのは、それから十分と少し後のことだった。

 どういうわけか一緒に冷泉が来ていて、代わりに透の姿はない。冷泉は群青色をしたスクエアフレームの眼鏡をかけてきており、理知的で硬質な印象が更に強調されているように感じられた。現場と遺体を私物のカメラに収める龍川医師に、深見は声を掛ける。

「朱野はどうしたんです?」

「ああ、透さんは小夜を家に一人にするのを心配してくれてですな。小夜を白峰さんの家まで送り届けてからこちらに合流すると仰っていました」

 龍川医師は、滲み出る額の汗を拭いながら水谷の遺体へと手を掛けた。

 深見は思わずそこから目を逸らす。

 確かに、龍川医師が検視のために家を空ければ、その間小夜は一人になってしまう。こんな非常時にでも健在な透の気配りには頭が下がる思いだった。

「しかし、先生もご覧になったでしょう? 足跡は、朱野と俺が現場に来たときのものと、朱野が先生を呼びに行ったときのものしかないんです」

 そう、足跡の怪を龍川医師のカメラに収めてもらうために、深見は敢えてその場から動かなかったのだ。おかげで十分間も惨殺体と向き合うことになったが、とにかくより多くの人にこの不可解を訴えたいという気持ちが強すぎて、それに勝るものはなにもなかったのである。

 そうしたところで、屋敷の周りをぐるりと一周してきたらしい冷泉が角から現れた。

「深見さんの仰るとおり、屋敷の周りには僕と先生の足跡を除いて、あと二組しか認められませんでした。土は、今朝から降った雨のせいでぬかるんでいる。透さんと深見さんの足跡がくっきりとついているように、犯人のものもついていないとおかしいことになりますね」

「そうだろう? 犯人はどこへ消えたんだ」

 深見の熱っぽい訴えに、しかし冷泉は淡々と返す。

「けれど、音がしたからといって、犯人が土の上にいたとは限りませんよ」

「どういうことだ?」

「例えばですが、武藤邸は壁から十歩も歩けばもう山道です」そう言って冷泉は、おもむろに屋敷に背を向け山へ向かって歩き出した。そして、くるりと屋敷を振り返る。「山道は、草木や枯葉や枝が積もっている部分を選んで踏めば、足跡が残りません。犯人はここから、武藤邸に向かって植木鉢を投擲した」と、今度は大きく振りかぶって何かを投げる仕草を取った。「遺体のそばに落ちていた植木鉢はごく小ぶりなものでした。ここから壁までは二十歩。一歩あたり七十五センチと見積もっても十五メートル程度。ソフトボール大の植木鉢を飛ばすのに難しい距離ではないでしょう」

「それはどうだろう」

 間髪入れずついた深見の物言いに、冷泉は驚いたような顔を寄越した。

「無理、でしょうか?」

「壁に植木鉢が当たった形跡がないんだ」

 そう言って深見は植木鉢の落ちている箇所から、すっと上に線を引くように壁を指す。武藤邸の壁は黒っぽいからわかりにくかったが、如何にも何かがぶつかったような形跡は見当たらなかった。

「……よく見ればどこかにはあるのでは?」

 論の腰を折られたことに気を悪くした様子もなく、冷泉はすたすたと壁のほうへと戻ってくる。そして、ざらざらした壁に目を凝らした。

 知識人によくみられる妙にプライドが高い男かと思いきや、それは完全なる思い込みだったらしい。予想よりも毒のない冷泉の反応を前に、深見はほっと胸を撫でおろす。

そんな深見をくるりと振り返り、「本当にないようですね」冷泉は深見の隣に来て屋敷を仰ぎ見た。

そこからちょうど見える三階の武藤霧子の私室では、今も彼女が身を固くして待機しているのだろう。気の毒だから一刻も早く傍に行ってあげたい気持ちは山々だったが、この村において写真を現像する手立てがない以上は、証拠の残っている今のうちに確認しておくことがいくつもある。

「こうなると、犯人が意図的に植木鉢を割ったのか、意図せずに割ってしまったのかわかりませんね」

「確かに植木鉢が割れた、ないし割った方法もよくわからないが、その理由や目的もてんでわからないな。植木鉢を割って存在をアピールすることで犯人が得られたものはなんだろうか。早く遺体を発見させたかった?」

「そのことに何の利点があったというのでしょう」

 目を向けてきた冷泉に、深見は首を傾げて斜め上を見た。

「なんだろう……目的も方法もよくわからないな」

「方法についてはわかるかもしれませんよ。こう、壁に向かって投げたのではなく、ちょうど地面と壁の接触部分に向かって投げれば壁には跡は残らないですよね」

 冷泉はまだ山道からの投擲説を捨てきれないようだ。深見は顎を掻きながら、ううんと唸った。

「可能性としてゼロとは言い切れないけれど、でも十五メートルも先から、一発でそううまく当てられるかな」

「それもそうですね。練習すると言っても、住人に気づかれてはならない。となると、そうそう何度もはできないでしょうし」

「それに、そこまで危険を冒して、植木鉢を投げる必要性があったかといえば、ノーだと思うんだよな。第一、植木鉢は遠投できたとしても、水谷さんの遺体を壁際に並べるときは、流石に近づいていないとおかしいだろう。だから、結局は近づく羽目になるんだよな」

 冷泉はきょとんとフリーズした機械のように固まった。そして、何度か瞬きを繰り返す。

「そうでした。遺体もありますからね。投擲説はなしです。深見さんのおっしゃる通り、どのみち犯人が建物に近づいたことには間違いなさそうですね」

 冷泉はあっさりと認めると、スクエアフレームの眼鏡をはずして徐にレンズを拭い始めた。

 一方深見は尻ポケットから手帳を取り出して、書き込みを始める。

「雨が降り始めたのはいつ頃だったか覚えている?」

「そうですね……雨戸を閉め終わってしばらくしてからなので……十時半頃でしょうか」

「うん、俺も朝食を食べ終わって支度をしている最中だったから、そのくらいだったと記憶している。それで、雨が止んだのがちょうど龍川先生のところに武藤さんを迎えに行った頃だから十二時頃だ。足跡を地面に残さない方法は、雨が降る十時半より前に全てを済ませて立ち去ったか、土の部分を踏まずに済ませたかの二つだ。しかし、底の抜けたドラム缶の中に人間の胴体をねじ込むだなんて芸当、遠隔でできるとは思えない。つまり、後者は否定できるわけだから、犯人は十時半より前に事を済ませてこの場所を去ったということになる。この説に穴はあるか?」

 そこまで検分を進める龍川医師をじっと見つめながら深見の要約を聞いていた冷泉が、何かに思いついたようにはっと口を開いた。

「ドラム缶の内側の地面が濡れているかどうかで、水谷さんの遺体がここに置かれた凡その時間帯がわかるんじゃないですか? 内側が乾いていた場合、遺体が置かれたのは十時半より前になるし、濡れていれば雨が降ったよりも後だとわかります」

「なるほど、それは尤もだ」

 深見は、冷泉の発想力に舌を巻いた。先ほどからの会話の流れを思い起こせばすっかり、冷泉がアイデアを提供し、深見がそれを吟味して体系化するという流れができているように思う。

 早速、深見が先頭に立って龍川医師に歩み寄った。

「龍川先生、ドラム缶の中は濡れていましたか?」

 龍川医師は、皺の刻まれた額の汗を手の甲で拭いながら振り返った。

「これから持ち上げるところでした。よろしければお二人とも、ドラム缶を持ち上げるのを手伝ってくれますまいか」

 二人は老医師に頷き、血だまりを踏まないよう両側からドラム缶を持ち上げる。すると中からはずるりと腕のない水谷の遺体が滑り落ちた。その途端、一気に濃厚な血液の匂いが鼻腔を襲う。

 露わになったことで、遺体の体勢が明らかになった。膝を折り曲げて座らせた身体の上から、底抜けのドラム缶を被せ、その上に首を乗せるという構図で遺体は安置されていたようだ。しかし肝心のドラム缶の内側の地面は、残念ながら溢れるほどに血液が充満していて雨に濡れていたかどうかまではわからなかった。

向かいに立つ冷泉を上目遣いに窺えば、流石に遺体を目の前に強張った表情を貼り付けている。それを見て、深見はこっそり胸を撫でおろした。彼の物事への動じなさが、頼もしさを通り越して少し怖くもあったのだ。

「いつ頃殺されたかわかりますか?」

 深見の問いに、龍川医師は横倒しに崩れた胴体の傍にしゃがみ込んで唸った。

「血液の凝固具合からでは、死後数十分というところですかな。体温と硬直については……遺体が暑いなか日の光を吸収しやすい濃緑色のドラム缶の中に閉じ込められていたせいで、正確な時間はちょっと私の知識ではわかりかねますな」

 と、そこまで聞いたところで深見は妙なことに思い至り、気づけば被せるように声を漏らしていた。

「おいおいおい、ちょっと待ってくれ」

 二人の視線が、深見に突き刺さる。

「死亡推定時刻は十二時頃なのに、雨が降り始めたのは十時半って、どう考えても矛盾してないか?」

「とすれば、どちらかが間違っているのでしょうね」と、冷泉は淡々と呟き、龍川医師に向き直る。「殺害現場はどこでしょうか」

「室内にこれだけの血液が飛び散っていることから、この一階の部屋の中でしょうな。切断面を見るに、鈍器で気絶させた後、鋭利な刃物で腕を一振りと言った具合でしょう。おそらく斧か、鉈か。それが致命傷となったのでしょう。そして死後に、首を落とされたという順でしょうな。後頭部にハンマーのようなもので殴られた痕もありましたよ」

「生きているうちに腕を切断されたと?」

 冷泉の問いに、龍川は眉根を寄せて顎を引いた。

「惨い話ですが、冷泉くんの言う通りでしょうな。死後切断された場合、ここまで血が出ることはまずないでしょうから。逆に生きているうちに首を切断された場合、もっと勢いよく血液は噴き出します。それこそ、静さんのときのように。ですから、水谷さんの死因は腕を切断されたことによるショック死じゃないかと思った次第です」

 そこまでを、静かに手帳に書き留めていた深見が顔を起こし、総括する。

「では、犯人はこの部屋で水谷さんを気絶させて腕を切断。水谷さんが絶命した後、続いて頭部を切断し、腕だけを残して部屋を出た。それから庭に胴体を体育座りさせてドラム缶で蓋をし、上に首を乗せて立ち去ったと。そのすべてを雨が降り始める前、つまりは十時半より前に完遂している、ということですよね」

 そうすると、龍川医師は一旦顔を曇らせて唸った。

「いえ、十時半前に殺されていたとはちょっと思えませんな。状況――その、足跡ですか――を信じれば十時半前の犯行となるのでしょうが、血液の凝固具合を見る限り十二時前後に殺害されたようにしか見えません」

 龍川からの異議の声に、深見は再度メモに視線を落として顎を撫でた。

「となると状況、足跡を正とすれば十時半よりも前。検視、血液の具合を正とすれば十二時前後の犯行となるのですね」

「噛み合いませんね。何かが間違っていることだけは確かです。いずれか、あるいはその両方が犯人による攪乱でしょう」

 冷泉の呟きに、龍川医師は一つ頷きを返して立ち上がった。

「それでは、現場を見てみましょうか」

 雨に濡れた地面が日光に炙られ、湿った空気が蒸発してムシムシとし始めた。屋敷の正面に回ったところで、朱野邸から歩いてくる透が見えた。遅いと思ったら、自宅に寄って水谷が殺害された旨を伝えるついでに、どうやら汚れたズボンを着替えてきたらしい。遅れてきた透も合流して、一階の殺害現場を見る運びとなった。

 武藤邸はおよそ直方体の形をした三階建ての建物である。

 玄関は西向きに作られており、したがって遺体のあった裏側の庭は東向きになる。玄関から入ってすぐ右手、すなわち南側に階段があり、上り下りの手段はその階段のみである。各階ともに玄関の真上、すなわち建物の西側に一本廊下が通っており、東側に部屋があるというシンプルな構造になっていた。

 白い手袋に手指を包んだ龍川医師が、殺害現場となった玄関左手の部屋の扉に手を掛ける。しかし、すぐに固まったままのノブに阻まれた。

「か、鍵が閉まっているですと」

 裏返った老医師の声を受け、一同の顔に動揺が走った。

「またも密室ってことでしょうか」

 冷泉が一歩後ろで扉を眺めながら言う。

「玄関の鍵は開いていたようだったな。診察から戻って家に着いたとき、武藤さんが鍵を取り出す様子はなかったから」

 透が思いついたように口を開いた。

「そうだ。それで朱野が施錠するように勧めたんだもの」

続けて深見が同調したのに、冷泉は首を傾げる。

「いつも開いたままなんです?」

 こんな事件などなくとも、玄関の鍵をかけるくらい当然のことではないのかと彼は言いたいのだろう。

 不思議そうな顔をする冷泉に、透が青白い顔を向けて答えた。

「ああ、冷泉くんは都心部の出身だったっけ。この村に限らず、地方では玄関の鍵をかけないなんて、そう珍しいことでもないんじゃないかな。夏場なんか、網戸のまま寝ることも日常茶飯事だよ」

「危なくないんですか?」

「ううん、こんなどんづまりの村だからなあ。泥棒なんて来ないとみんな無意識でたかをくくっているんだよ。ここら一帯で泥棒となると、だいぶ昔に一度龍川先生の診療所で盗難事件があったくらいじゃないかな」

「へえ。少し恐ろしいような気もしますが」

「そうだね。緩いと言えばそうなのかもしれない。それどころか、腕時計をしている人だってこの村では俺くらいのものだよ。なんというか、おおらかなんだろうね」

 冷泉は信じられないとばかりに目をぱちくりとさせた。

その様子を見て透は穏やかに、「事件直後で物騒だとはいえ、しみついた習慣はなかなか抜けないものなんだろうさ」と言うと、鍵をもらいに、三階の武藤の部屋へと足を飛ばした。





 鍵を受け取り、件の部屋の扉を開けると、お決まりのように濃厚な血の匂いに出迎えられる。そこは閑散とした十五畳ほどの洋室だった。窓際から部屋の中央部に向かって夥しい量の血が噴き出し、その中心に両腕がぞんざいに散らばっている。

「犯人はなぜ両腕だけを残して行ったんでしょうね」

 背中の向こう側で冷泉が呟くのを、深見は窓枠を探りながら聞いていた。龍川医師持参のカメラが奏でるシャッター音を遠くに、深見は注意深く窓を開閉させてみた。

 窓は完全に換気用らしく、十センチ程度まで開くと、それ以上は開かないように設計されていた。試しにその隙間から腕を伸ばしてみる。すると、ちょうど二の腕の途中でつっかえた。成人男性の頭が通らないことは言うまでもなく、赤子でも通り抜けることは不可能だろう。

 視線を下に転ずれば、そこにはドラム缶に乗せられた水谷の遺体がそのままにしてあり、殴られた後頭部の傷まではっきりと見える。深見はぶるりと背筋を震わせて、その場を後にした。

 三人が検分する間、透は部屋の中へは入らず放心したように入口で立ち尽くしていた。昨晩の妹に続いて、今度は執事までが殺されたのだ。その衝撃の大きさは計り知れない。

「犯人と遺体は、どのようにしてこの部屋から出たのだろう」

「これでは、人間の頭や胴体は通りそうにありませんね」

 深見と冷泉が窓際で唸っていると、龍川医師が顔を上げて額の汗を拭った。

「目が不自由になった霧子さんが誤って転落しないよう、ご両親が改築したのですよ。この屋敷の窓は、三階の霧子さんの私室を除いて、全て十五センチ以上は開かないようになっているはずです」

「一部屋だけ違うんですか?」

「ええ。もとは全室とも開かないようにしていたのですけれどね。布団が干せなくて不便だからと、あとから霧子さんが改修させたんですよ。窓を全開できるようにして、五センチ程度の縁をつけたようです。源一郎さんが木工は得意ですから、全部おひとりでやったみたいですよ」

 源一郎の名前が出たことで、無意識的に深見は透へと視線を向けたが、透は心ここにあらずといった様子で、廊下に背中を預けたまま、ぼんやりと宙を眺めていた。



 六



 検視が終わると、深見、透、冷泉の三人は、水谷の遺体を毛布に包んで朱野邸の地下に運び込んだ。それから、交代でシャワーを浴び、深見と冷泉は透の服を借りる。幸い三人とも大きな体格差がないため、問題なく借りることができた。そうした頃には、もう大時計の針は十五時を指していた。昼食を食いっぱぐれていたが、誰も空腹を訴える者はいない。透が出してくれた麦茶は冷たく、肉体労働後の身体に染み渡るようだったが、それと一緒に出された軽食に手を伸ばす者はいなかった。

やがて空間の重さに耐えられなくなったように、透が両手で顔を覆って力なく呻いた。

「しかし、なぜ水谷さんまで……」

 大時計の振り子の揺れる音が虚しく響く。

「無差別殺人なんでしょうか」

 冷泉が誰にともなく視線を左右に振った。

「わからない……ただ、誰でもよかったにしては、殺し方が凝っているし用意周到だ。少なくとも、行き当たりばったりの殺人には見えないな」

 深見が奥歯を噛みしめたところで、突然思い立ったように透が顔を上げた。

「そうだ深見、石像、『玄武の像』はどうなっているんだろう」

今度は深見が身体を揺らす番だった。「そうか……『玄武の像』はどこにある?」

 冷泉だけが取り残されたように、不可解そうな顔で二人を見比べる。そんなことはお構いなしと、まるで示し合わせたかのように成人二人は揃って立ち上がり、居間から外へと駆け出した。少し遅れて、頭に疑問符を浮かべながらも冷泉がそれに続いた。

 透の背中を目で確認しながら、深見は速度を落として冷泉の隣に並んで言った。

「昨日『朱雀の像』が壊されていた話はしただろう? 今朝、村の中心にある『四神像』も同じように壊されていたんだ」

 それを聞いた冷泉が、一瞬足を止めて目を剥いた。深見もそれにあわせて歩調を緩める。しかしすぐに、『朱雀の館』の裏手へと角を曲がった透に後れを取らないよう、慌てて二人で速度を上げた。

「それじゃあ……標的の範囲は朱野家から村全体に拡大したということでしょうか」

「素直に読み取れば、そういう犯人の意思表示に見えるよな。でも、水谷さんは朱野家の執事というだけで、厳密に言えば家人とは言えないと思わないか?」

 深見がそう言ったところで、透の声が届いてきた。

「やられた。『玄武の像』もだ」

 よく通る声を頼りに、二人は木工室を右に折れる。

『朱雀の館』のちょうど真裏に位置する山の麓には小川と呼ぶにはあまりに小ぶりな、湧き水の通り道が一本あった。普段は清水が流れているであろうそのほとりは、今は赤く染まり、蛇が巻き付いた黒い亀の像は無残にも真っ二つに砕かれていた。





 三人は重く口を閉ざしたまま、朱野邸の居間へと戻った。

そうしたところで、龍川医師が武藤霧子を連れて朱野邸へとやってきた。当初の予定では夕食前に透が迎えに行くことになっていたが、事件を受けて時間を早めることになったのだ。犯人も捕まっていないのに、殺人事件のあった屋敷に一人きりでいるなど、たとえ屈強な男であろうと危険であろう。ましてや女性においてはなおさらである。

「予定よりは早いですけれど、お世話になりますわ。あんなことがあった屋敷でしょう。一人でいるのは恐ろしくて」

 武藤霧子が肩を竦めるのに、透は快く頷き返した。

「僕からお誘いしたことですし、遠慮はご無用です。僕としても一緒にいていただけると心強いですから」

「ありがとう。ところで、ご主人と絹代さんはどちらに?」靴の泥を落とし終わった武藤霧子が、辺りを見回す仕草を取った。

「父と絹代さんは、崩落したトンネルをどうにかできないかと山へ向かったまま、まだ戻って来ていないようです。もう家を出て三時間になるのに。先ほど水谷さんが亡くなったことを伝えに一度家に寄ったときにも結局会えず仕舞いで。弟もまだ見つかっていないし……」と透は沈鬱そうに足元に視線を落とす。それから、気を取り直すように二度首を振って、気丈さを面に貼り付けた。「さあ、立ち話もなんですから、中へどうぞ……龍川先生も検分でお疲れのことでしょうし、お茶でもいかがですか」

 透に促されて落ち着いたその空間だったが、当然そこにあるはずの水谷の姿はもうない。そのことに、一同は改めてあの気立ての良い執事がもうこの世にいないのだという現実を突きつけられた。

 室内にどこか湿っぽい空気が立ち込める。そんな澱んだ空気に風穴を開けたのは冷泉の一言だった。

「それにしてもなぜ水谷さんは『玄武の館』で殺され、『玄武像』が壊されていたのでしょうね。見立てになっていないような気がするのですが」

 その言葉を受けて、目を剥いた龍川と武藤霧子に、深見はわかりやすく説明を加えた。それが終わりきるのを待って、冷泉は疑問を重ねた。

「水谷さんと『玄武の館』に何の関連性があったのでしょうか」

「『玄武』の見立てに水谷さんが使われる謂れがないと、そういうことだよな?」

 深見が言い換えるのに、冷泉は「ええ、おかしいと思いませんか?」と首肯した。

 辺りはしんと静まり返る。やがて、なんでもないというように、武藤霧子がくすりと笑いを零した。

「わたくしが犯人でしたら、理由がつくのではないかしらね」

 予想だにしなかったその言葉に、一同ぎょっと目を瞠り、発話者を凝視する。その刺激すらも舌の上で転がすかのように、武藤霧子は笑いを含んだ声で高らかに続けた。

「あら。だって、わたくしが犯人でしたら、『玄武』にまつわる被害者を用意しようがないじゃありませんか。自分を殺すわけにはいきませんもの、ねえ?」

 事も無げにそう言い放った武藤霧子の愉しげな相貌を、男たちは異星人にでも出くわしたかのように唖然と眺めた。

 ただ一人冷泉だけがその電波をとらえたようで、淡々と反応を示した。

「『玄武の館』の住人は武藤霧子さんおひとりですからね」

「ええ、そういうことです。でも、『玄武』だけ被害者がいないのでは不自然でしょう? ですから、それを誤魔化すためのカムフラージュとして『玄武』の被害者役に、どこの家にも属さない水谷さんを利用した、なんてことも考えられますわよね」

「一理ありますね」

「というより、あなた、最初からそう言いたかったんじゃないのかしら」武藤は冷泉に笑いかけた。

「滅相もない」

 しかし顔色一つ変える素振りのない冷泉の反応に、武藤霧子は大袈裟に肩を竦めてみせた。

 その場に過冷却状態の液体のような、張り詰めた空気が漂い始める。誰しもが見えない有刺鉄線を警戒するかのように一切の動きをやめ、部屋はしばし静寂に包まれた。

唯一、それすらも感じる余裕のない様子の龍川が血相を変えて、「その理屈ですと、各屋敷から最低一人ずつは犠牲者が出るということになるではありませんか。勘弁してくだされ、縁起でもない……」と唇を戦慄かせた。

頭を抱える老医師を前に、ようやく流れの把握と思考の整理が済んだらしい深見が、曇った表情で目頭を揉んだ。

「残酷なことを言うようですが、目を背けるわけにもいかないでしょう。……龍川先生、はっきり申し上げますと、犯人が村の象徴を破壊した以上、最悪そのような事態も考えられます。これはいたずらに恐怖心を煽っているのではありません。ですから、俺たちは一か所に集まるか、あるいは他人が信用できないのであれば、各自でしっかりと閉じこもるか、それしかありません。これからどうするのかは、各自でよく考えた方がいいと思いますよ」

 龍川は黙ったまま唇を噛んだ。

「こういった場合、固まる方が安全な気がしますが、相手が爆発物を持っているのが厄介ですね。一か所に集まると最悪全滅の可能性がありそうで」

 この冷泉の発言に、ますます場の空気が凍り付く。

「ずいぶんと恐怖を煽るようなことを言うのね」武藤霧子が目を細めて言った。

「煽っているように見えますか? 事態は深刻です。あらゆる可能性を想定して最善の選択を取らなければ命に関わりますよ」冷泉も負けじと、無感情に言い返す。

これにも、武藤霧子は「へえ」と小首を傾げて、余裕の表情を返して見せた。

「僕は外部の人間だからこんなことを言えるのかもしれませんが。犯人が複数の標的を亡き者にしたい場合、最悪纏めて皆殺しという手を取ってくる可能性もあると思うんです。正直いって、僕はそれが怖いです」

「巻き添えになりたくないと。自分さえ無事ならば、村の住人が殺されるのは厭わないと。そういうことかしら」

「前者は……まあ言葉を選ばなければ、そういうことになるんですかね。後者は解釈に悪意があるとしか思えません。これ以上誰も死なずに済むならば、それに越したことはないに決まっているでしょう」

龍川がハラハラと両手を宙に彷徨わせ、深見が「おいおい」と腰を浮かす。

それとほぼ同時に、「そこまでにしましょう」透がその場に待ったをかけた。「霧子さん、少し言い過ぎです。冷泉くん、霧子さんはご自身の家でああいうことが起きたものですから、少し神経質になっているんだと思う。申し訳ないけれど、矛を収めてはくれないか?」

「……そうね、透さんの言うとおりだわ」

武藤霧子は、にこりと唇を持ち上げると、優雅な所作でゆったりと上半身をソファの背もたれへと預けた。

「感情的になっているつもりはなかったのですが……やはり無神経だったかもしれませんね。申し訳ありません」冷泉は少し戸惑うような表情を滲ませた。

「うん、わかっているよ」透は宥めるように口元を緩めて見せた。

「なかなか話が纏まらないな」

深見ががりがりと頭を掻きながら、困窮した視線を透に向ける。

「俺は一か所に集まる方に賛成だけどな。ただ、冷泉くんの気持ちもわかるし、父や絹代さんがね。すんなり賛成してくれるかどうか」透は難しそうな顔で目元を抑えた。

「ううん、これじゃあ埒があかないな。じゃあ、今後のことはひとまず置くとして、とりあえずこれまでに起きたことを纏めてみませんか?」

 深見の言で、滞り始めた空気にすっと筋道ができる。その瞬間、龍川が何かを思い出したようで、あっと顔を持ち上げた。

「昨日はいろいろあったものですっかり言い忘れていましたがな。その」龍川は気まずそうに、透の顔をちらと窺い見た。「……し、静さんはどうやら殺害される前に喉を潰されていたようなのですよ」

「喉を、ですか?」

 深見の反芻に、龍川はちりめん皺の寄った顎をたぷりと引く。

「だから、助けを求めることもできなかったと思われます。非道なことをするものですよ」

 そのあまりに惨忍な呟きを受けて、顔を覆った両の掌の向こうで、透が息を詰めたのが聞こえてきた。

「そういえば透さん。今日の水谷さん殺しについて、一つ確認したいのですが」

 冷泉の声を受けて、透はようやく手を下ろして色の冴えない面を上げる。

「なんだい」

「武藤さんの家へ着いたのは何時頃でした?」

「……九時四十五分くらいかな。龍川先生のお宅に着いたのが十時少し前くらいだったから。でしたよね? 先生」

「ああ。間違いないですよ。呼び鈴が鳴ったとき、居間の時計が九時五十五分過ぎを指しているのを見ましたから」

 冷泉は一つ頷き、視線を龍川から透に戻した。

「それから透さんは直接朱野邸に戻られたわけですね」

「そうだね。家に着いたのは十時十分頃だったのかな。家についてからは、廊下の窓の鍵がきちんと閉まっているか気になって点検してまわったんだ。その時ちょうど、弟を捜索している父に会ったよ」

 冷泉の質疑をもとに、深見は例の手帳にメモを取った。

 次に冷泉は先ほどのいざこざなど何もなかったかのように、ごく自然な流れで武藤霧子の方へ顔を向けた。

「武藤さんは、透さんが迎えに来るまではどちらに?」

 武藤霧子も特段引きずった様子なく、淡々と質疑に応じる。

「わたくしは朝八時頃に目が覚めてからしばらく自室で過ごしていました。それから、九時過ぎに一階へ降りて、居間でぼんやりしていましたわ。そしたらいつものように透さんが来てくださって一緒に家を出ました」

「玄関の鍵は?」

「夜の間は閉めていて、一階へ降りたときに開けましたわね。ご存知かもしれないけれど、わたくしの家の窓は、大きく開かなくなっているので、窓の鍵はいつも開けっ放しですわ」

「なるほど、ありがとうございます。透さんの話とも一致します。武藤さんと、それから透さんも、その間に不審な人物や物音には気づきませんでしたか?」

 透は長い指を顎に当てて宙をじっと眺めてううん、と唸った。

「気づいたら叫ぶなりなんなりしただろうし、特に何も。各部屋を覗いたわけじゃないから人が隠れていたかどうかまではわからないけど、殺害現場になった部屋も傍を通った時には何も気づかなかった」

「わたくしも、普通に一階は行き来していたはずですけど、何も」

 二人は異口同音にそう答えた。

「いつも窓そのものは開いた状態にしてあるんですか?」冷泉は上目遣いに二人へ視線を配った。

「ええ。換気のために、大雨の時以外は開けていますわ。普段使わない部屋は空気が滞りがちですから」

武藤霧子の返答に一つ頷き、冷泉は透へと視線を移した。「では透さん、最後に水谷さんを見かけたのは?」

「ええっと、朝から一緒に土蔵の鍵を開けたり弟を捜したりしていて、その途中で俺が武藤さんを迎えに出るからって別れたんだ。それが最後だったな。だから……そうだな、家を出たのと同じ九時四十分頃だな」

「では、状況を正とした場合には水谷さんは九時四十分から十時半の間に殺害されたということになりますかね」

「そうなるのかな」透が沈痛な面持ちで、組んだ指に視線を落とした。

「ただなぁ、問題は死亡推定時刻なんだよな」深見が髭の薄い顎を親指で撫でた。

 龍川が、唇は閉じたままでたぷりと首肯した。

深見は虚空を睨んだ。「死亡推定時刻が正しいとなると、犯人は雨が降りはじめた後に、足跡を残さずに水谷さんの遺体を庭に座らせ、ドラム缶を被せて、首をその上に置いたということになる。これは殺害現場の窓さえ開けば可能だが、十五センチと開かない以上、室内に立ち窓を通して胴体と頭を外に移すって方法は取れないんだよなあ……」と、最後は親指で自らの下唇を潰して黙り込んだ。

「ちょうどドラム缶の真上にあたる三階の武藤さんの私室の窓は、十五センチ以上開くんですよね? そこから遺体を吊り下げておろした、というのはどうでしょうか」

 冷泉の思い付きを受けて、武藤霧子が眉を顰めた。

深見はそれをちらと確認して、やや表情に躊躇いを滲ませる。自然と声のトーンが下がった。「血を滴らせずに遺体を運ぶことができるのであれば、その方法も可能なのかな。しかし、一つ大きな問題がある」

「密室状況ですよね」冷泉は項垂れて、固まった肩を解すように吐息をついた。

そう、殺害現場となった部屋は密室だった。

「武藤さんは、家の鍵束ごと持って病院に行かれたんですか? 玄関の鍵を持っていたのは確認できましたが、それ以外の鍵は」

 深見の問いに、武藤霧子は柔和に肯き返した。

「ええ。鍵を分けると探すのが大変だから、全て同じキーホルダーにつけています」

「殺害現場となった部屋の鍵は、いつも閉まっているんです?」

 これにも武藤は肯き、「誤って半開きになった扉にぶつかるのも煩わしいですので、使わない部屋の出入口は鍵を閉めていましたわね。先ほども申しましたとおり、窓の方の鍵は開けっ放しですけれど。十五センチより開かない以上は泥棒さんも出入りできませんからね」悪戯そうに口元を綻ばせた。

 深見は折り曲げた人差し指の第二関節で、顎をぐりぐりと指圧する。

「じゃあ、仮に血を滴らせずに三階から下まで遺体を下ろす方法があったとしても、殺害現場の部屋の鍵を閉めたままで、遺体ごと犯人が通り抜ける方法が必要だということだ」

 議論はそこで暗礁に乗り上げてしまった。

「アリバイの方はどうなんでしょう?」降りた沈黙のヴェールを剥ぎとるべく、冷泉が視線を上げた。「先ほど透さんと武藤さんには聞きましたが、他のみなさんは、九時半から十二時までの間、どのように過ごしていましたか?」

 その問いに、それまで難しそうな顔で頬を弄り回していた深見が、面を上げて口火を切った。

「特に九時四十分から十時半と、十二時前後は何をしていたか、だよな。俺から答えるけど、九時四十分は朝食を食べ終わって姉さんと話していたかな。それから、雨戸を閉めてまわっていたらしい瑞樹と冷泉くんが二階から降りてきて、俺は席を立って部屋へと戻り、瑞樹はシャワーを浴びに浴室に向かったんだよな」

「ええ、間違いありません」これには冷泉が同意を示す。「深見さんが仰るように、僕は龍川先生と小夜さんが白峰邸を出られた後、九時頃から防犯のために雨戸を閉めてまわっていました。瑞樹も一緒だったのでアリバイがありますね」

深見はひとしきりメモを取った後、手帳から顔を上げた。「えっとどこまで話したっけ。部屋に戻った後か。うん、十時頃だな。離れに戻って出かける準備をしていた。んで、十一時前には白峰邸を出て朱野の家に行った、と。そこからは朱野と一緒だったよな」

「ああ。間違いないよ」深見の視線を受け、透は首肯した。「ちなみに俺はさっき言ったことと一部重複するけれど、朝八時頃に目を覚まして、水谷さんと土蔵の鍵開けをしたり、裏の鶏小屋に餌をあげたり、それから弟を捜してまわったりしていた。九時四十分頃に家を出て武藤さんを迎えに行って、龍川先生のところへ行って、そのまま家に帰って来たよ。それから廊下の窓を確認している最中、十時半くらいに父と会った。そしてほどなくして深見が家に尋ねてきて……あとはずっと一緒だったね」

 二人の供述を受けて、冷泉はそれぞれに頷き返した。

「ありがとうございます。でしたら深見さんと透さんには両方ともアリバイがありますよね。ちなみに僕は正午頃、透さんが小夜さんを連れて来るまでは、瑞樹と琴乃さんと一緒にいました。瑞樹は一度シャワーのため九時五十分頃から三十分ほど席を外していますが、その後の瑞樹と琴乃さんのアリバイは証明できます」

 これで武藤霧子、深見、透、冷泉、琴乃のアリバイが証明されることとなった。

 深見はそれぞれを手帳に記録し、残る一人へと視線を上げる。龍川医師は、待ち構えていたように白い髭の毛先から覗く、かさついた唇を開いた。

「私と小夜は、白峰さんのお宅に昨晩泊めてもらったのですがね。昨日の今日だったもので、いつもよりもだいぶ朝寝坊でございましたな。七時頃に起きて冷泉くんや瑞樹くんと一緒に朝食をごちそうになって、朝の九時前にはおいとましました。それから、小夜と一緒に居間で話をしておりましたところ、十時に呼び鈴が鳴り、そこから十二時までは霧子さんに治療を施しておりました」

 深見は出来上がった一覧表を眺めて低く唸った。

「なるほどなあ……」

 この部屋にいない源一郎と絹代、小夜と瑞樹を除いた全員にアリバイが成立していた。

「残すは源一郎さんと絹代さんのアリバイ聴取だな。それ以外だと、瑞樹がシャワーでの離席に見せかけて犯行を行った可能性と、小夜ちゃんが龍川先生の診察の間に家を抜け出して凶行に及んだ可能性は一応残っている。それと……武藤さんが、朱野が来る前に事を済ませていたというケースは……無理か。朱野が九時四十分まで水谷さんと行動を共にしている以上は無理がある。あとは姿の見えない弟さんか、白峰秀一さん犯人説しか残されていないことになるなあ……どうしたものか……」

 深見はふうむ、と手帳から顔を上げてペンの後ろで首筋を掻いた。

深見の独り言が一段落するのを待って、「もう一つ質問なのですがいいでしょうか」と冷泉が小さく手を挙げた。「この村にテレビは朱野邸と白峰邸にしかないのですか?」

「そのはずですよ」

「わたくしは、ラジオの方を愛用していますから」

 龍川と武藤霧子が続けざまに返事をした。

「けれど、それがどうかしたの?」

「いえ、ふと気になったものですから」というと、冷泉は再びむっつりと思考の世界に帰ってしまった。

 しばらくして、沈黙を破るように透がすっと立ち上がった。

「状況の整理はもう大丈夫かな。俺はひとまず、水谷さんの部屋に行ってみようと思う。彼がこの家のマスターキーを管理していたから、それだけでももらいに行かなければ」

 透は沈痛そうに眉根を寄せた。深見が小さく挙手をする。

「俺もついて行っていいかな」

 その申し出に冷泉も便乗し、三人で水谷の私室へと向かうことになった。





 セメント作りの狭い西階段とは違い、中央階段はよく磨かれ年季の入った木の手すりや、壁の絵画にアンティークな間接照明なども相まって全体的に豪奢な造りになっていた。前日に一度通った深見であっても、改めて下から眺めればこんな非常事態にも関わらず、ついついため息が漏れそうになるものである。初めてお目にかかる冷泉であれば、その感慨もひとしおだろう。そう思って隣を窺い見た深見だったが、予想に反して冷泉は特に何か思うふうでもなく、ただ淡々と辺りを観察しているような様子だった。

 そんな二人の客人に、透は説明を始めた。

「一階は、中央階段を挟んで東側に父と絹代さんの部屋があって、西側に居間がある。二階の東側は妹の部屋。間に父のコレクションルームがあって、西側が俺の部屋。三階の東側には水谷さんの部屋があって、それ以外は全て空き部屋になっているよ。ちなみに、祖父が生きている間は、一階の東の角部屋を使っていたんだ。今は空き部屋になっているよ」

 三階にさしかかった辺りで一気に体感温度が上昇する。明るく豪奢な装いの二階までとは違い、そこから先はほんの少しだけ簡素な印象を受けた。おそらく、壁紙の色が違うのと間接照明がないせいだろう。聞くところによれば、三階は代々執事や女中の居室だったとのことで、かつては屋根裏同然だったところを昨年透が改装したらしかった。

「そっか。朱野、建築学専攻だったもんな。すげえな」

「そんなたいしたものじゃないけどね。父の大工趣味のおかげで、幸い道具も揃っていたから」

 そこで深見は、源一郎が武藤邸の窓を改装したという話を思い出す。およそ似ているところのないように見える朱野父子だが、手先の器用さは似ているのかもしれない。

 廊下を東側に突き当たったところで、透は右手の扉のノブに手を掛けた。

 使用人の部屋には鍵がかからないらしく、扉は仰々しく古めかしい音を立てたものの難なく開いた。

 入ってまずむわりとした熱気に出迎えられた。見上げたところ、板一枚隔てればそこはもう屋外といったふうである。夏の日差しに温められた部屋は、雨上がりの湿気も相まってちょっとした温室のようだった。天井は屋根に従い斜めになっている。右手に簡素なベッドがあり、突き当たりには出窓が、そして奥の壁に向かう形で簡素な書き物机と、その左に木製の本棚があった。

 透は、迷わず書き物机へ向かうと、躊躇いがちに引き出しを開けてみる。机は綺麗に整頓されており、一番上の引き出しの缶の中に、屋敷のマスターキーが置いてあった。

「マスターキーは、この一束だけ?」

 深見が覗き込むようにして声を掛けると、「いや、これと父が持つのが一束あるよ」と透はその鍵束をポロシャツの胸ポケットへと滑らせた。

 その間、冷泉は本棚をじっと眺めていた。深見はその隣に移動すると、本棚から一冊手に取ってみる。厚さ三センチはあるかという分厚い冊子であった。表紙をめくると『執事記録〈一〉』との表題がある。どうやら、水谷が克明に記録している日誌のようだった。こういうところからも、故人のマメな性格が窺い知れる。

 何か事件の動機の切れ端でも出てこないものかと、深見はその日誌をめくってみることにした。

 深見が手に取ったものは、その番号が示す通り、水谷が屋敷にきてすぐのところから記録が始まっていた。どうやら水谷家とは、代々朱野家に仕える家系だったようである。亡くなった水谷執事も十八の頃から住み込みで働いているらしかった。

 一方、冷泉は机の一番下の引き出しから出てきた、同じ黒表紙の冊子を食い入るように読んでいた。

そんな言葉を忘れた二人を透は順に眺め、腕時計へ視線を落として言った。

「地下の氷を変えてくるけど、二人はどうする?」

 声に弾かれるように、二対の目が持ち上がる。

一瞬互いの動向を窺うような間を経て、冷泉が先に唇を開いた。「僕はもう少し、日誌を拝見していてもよろしいでしょうか」

 その申し出に、透は一瞬考え込んだ後、再び視線を上げて答えた。

「そうだね……冷泉くんも、深見も。事件究明の鍵を探っているのはわかるけれど、故人のプライベートを探るようなことはほどほどにね」

 透の言葉に、冷泉はこっくりと深く頷き礼を述べた。

一方の深見は少し考えたのち「んじゃあ、俺は手伝うよ」と、『執事記録〈一〉』を棚に戻して透の背中を追いかけた。



 七



 透と深見の気配が遠ざかる。それを背に、出入口の扉は開け広げたままで、冷泉は出窓を少し開けた。これで風の吹き抜ける道ができた。東北の夏の風が、心地よく頬を撫でていく。

 足音が階下へと消えたのを耳に、書き物机の椅子に腰を下ろして手元に視線を戻した。

 その冊子の表題には『執事記録〈二〉』とあった。記録はかすみの妊娠から始まっていた。命が育っていくその様子が、一日一日と鮮明に綴ってあり、水谷がかすみ本人と、かすみの腹の中の命をいかに大事に思っていたかが冊子中から噎せ返らんばかりに香り立っていた。

 また、それから遅れること数か月、何やら武藤霧子も後を追うように妊娠したとのことで、こちらは簡素なメモ書き程度の記録があった。おや、と思い頁を手繰る。武藤霧子が

結婚していたという話は聞いたことがない。そこからいくら捲れど、胎児の父親についての記載は一切なかった。それどころか、武藤霧子の妊娠の話題はそれ以降触れられてすらいない。かすみについては、一日もこぼすことなく触れられているのに対し、あまりに極端な印象を受けたが、水谷は朱野家の執事であって武藤家の執事ではない。となれば、特段おかしなことでもないのかと冷泉は先に読み進めた。

 日付が一九**年の五月に差し掛かると、いよいよかすみの出産も間近とあって、水谷の喜びのボルテージも頂点に近いことが見て取れる。しかし冷泉としては、ここから先の悲劇を知っているだけに、なんともやるせない思いに胸を突かれた。

 双子の誕生とかすみの死が重なった辺りの頁については、インクは滲み、紙面も一度ふやけたものが乾いたようにぱりぱりと固まっていた。それらは執事の絶望の深さと、また記録して以降一度もその頁が読み返されていないという事実を雄弁に伝えてくるものだった。

 その中に気になる記述を見つけて、冷泉の頁を捲る手が止まる。

『奥様は絶望の運命の待つ我が子に命を繋ぎ、唯一の望みを与えた……』

 事務的な記述が多い中、その一文だけが異様に浮かび上がっている。まるで詩の一節のようだ。冷泉はその文を目に焼き付けるように、凝視したのち、再び頁を先へ進める。

記録がようやく平常運転を取り戻しかけた頃、脳天を貫くような一節が現れた。

あまりの驚愕から、冷泉は思わず取り落としそうになる冊子を握り直し、紙面にかぶりつく。



――一九**年、九月**日。雨。武藤霧子さん出産。龍川医師、五藤村の助産婦、佐藤百合子女史立ち合いのもと、元気な男児誕生。

 旦那様、若旦那様より嬰児殺害の指示。霧子さんには死産の旨を伝え、医師、助産婦には口止め料を支払う。医師は固辞。半ば押し付ける形。

 盥の中に嬰児を置き、いざ踏みつぶす段階で殺せなかった私と龍川医師である。布に包み、真夜中に山を幾つか越えた七ツ森町まで車を走らせる。籠に乗せ、龍川医師が受け取った口止め料を添えて、福祉施設の前に置き去りにした。

 名は、陽介と命名。



 最後まで読み進めて、いよいよ冷泉の衝撃が頂点に達する。

 呼吸をするのも忘れて呆然と宙を見つめた。

 果たしてこんな偶然があるものだろうか。深見のことを、琴乃は何度もヨウスケと呼んでいた。そうだ、怪文書の宛名にあった漢字表記も陽介と相違ない。朱野透と深見陽介は大学の同窓生であり同い年、となると――冷泉の脳内にいる連想遊戯の得意な小人が水を得た魚のように仕事を進めだす。そうだ、琴乃が言っていたではないか。深見家は六山市の名士の家系であり、亡くなった琴乃の祖父は瑞樹に弟ができた暁には、深見家の養子として迎える心づもりだったのだと。その理由が、深見陽介の出自にあったのなら……? 事実深見家の姉の琴乃と深見陽介は、かなりの年の差がある。とすれば、跡継ぎに恵まれなかった深見家が養子を取ったとしてもおかしくはない……。

 深見陽介を、武藤霧子の息子である陽介と同一人物であると仮定したところ、現状では特に否定要素たるものもなく、すんなり筋が通るようだった。しかし、同一人物ではないと仮定した際の否定要素があるわけでもない。つまり、そうかもしれないし、全くの偶然かもしれないという域をでるものではなかったが、この奇妙な事件の最中においては、見過ごせるほどの些事とも思えなかった。

いまや冷泉の心臓は早鐘のように忙しなく脈打ち、身体は沸騰するように熱かった。しかし、一方で頭の隅はしんと冷え、仮説を検証しようと記憶の隅という隅まで小人が忙しなく駆け回っているのだった。

 そのとき、遠くから何かすたすたと物音がした。すぐに足音が近づいてきているのだと気づき、冷泉は慌てて日誌を元の引き出しの底へと戻す。そうしたところで、足音の主が廊下から姿を現した。



 八



 直立で入口を見つめたまま、何度も瞬きを繰り返す冷泉の様子を受け、深見は不思議そうに目を丸くした。

「何かあったのか?」

「……いえ」

 彼らしくもなく、冷泉が声をうわずらせて口籠るのを受け、深見は首を傾げた。

「顔色が良くないぞ? ここ屋根裏だけあって、暑いからな」

 と、顔を覗き込んでくる深見の視線から逃れるように、冷泉は一歩後ずさって目を瞬かせ、たどたどしく言葉を紡ぐ。

「改めて亡くなった方の部屋だと思うと、いけないことをしている気になってきて。そんなときに背後から音がしたものだから、少しびっくりしてしまって」

舌が何度も躓いた。

「なるほどな。それは確かに怖いけれど、少し意外だな」

 普段よりワントーン高く滑ったその説明に微笑ましさでも感じたのか、深見は表情を緩めると、感慨深げに主のいなくなった室内をぐるりと見回した。

 その横顔に冷泉は問いかける。

「透さんは?」

「ああ、もう来ると思う。親父さんと絹代さんが帰って来たもんで、龍川先生と顛末を説明していたんだ。水谷さんまで殺されたとなると、やっぱりものすごく驚いていたよ」

 そうしたところで、透がかなり疲れた様子で部屋に入って来た。

「何かあったかい?」

 その言葉に冷泉は内心どきりとした。しかし、何かを気取られた様子はなく、透はそのまま部屋を横切りクローゼットの中を覗き込んだ。中には、さほど多くはない衣服が整然と吊り下がっていた。

「水谷さんは身寄りがないから、遺品のことも考えなくちゃならないね」

 透が寂しそうにそう零して扉を閉めようとしたちょうどそのとき、内棚から白いものがはらはらと零れ落ちた。写真だ。写真は二枚あった。

「これは……」

 冷泉は足元に滑り落ちてきた厚紙を拾い上げる。一枚は若い女性のものだった。良く似合う和服に身を包み、小首を傾げてはにかんでいる。画質から少し古いもののように見えるが、どうやら背景はこの屋敷の居間のようだった。裏返したところ『かすみさん 一九**年六月』と、二十五年前の日付がある。

 深見はこの女性を一度目にしたことがあった。

「かすみさんって」

「うん、母だね」

 問うた深見の方は見ず、亡母を瞳に映したまま透は一つ肯いた。

 もう一枚は、子供用のスーツに蝶ネクタイを締めた三、四歳の黒髪の少年、――朱野透のものだった。どことなく面影があるため、こちらはすぐにわかる。この年頃の子供にしては、ずいぶんと利発そうな顔をしていた。

「どうして水谷さんのクローゼットから……」深見が首を傾げた。

 そんな二人を横目に、冷泉は本棚から日誌のうち一冊を手に取り、ぱらぱらとめくりはじめる。表題には『執事記録〈三〉』とあった。しばらくぱらぱらと捲っていた冷泉だが、やがてその手がある一つの頁で止まる。

その頁だけ、明らかにこれまでの記録の流れとは毛色が違っていた。

「一九**年――八年前の日付ですね」突如として一文を声に出した冷泉に、透が顔を上げた。深見も写真を片手に黒目を持ち上げる。冷泉は流麗な文字列を目で辿った。「三月二十*日、牢、屋敷周辺、村の中全て捜索済。手がかりはなし……何があったのでしょうか。透さん、何かお心当たりはないですか?」

 冷泉に視線で問われ、透は首を傾げて同じ頁を覗き込んだ。「なんだろう……一九**年と言ったら、ちょうど高校に上がる時分か」

長い人差し指で指し示しながら、冷泉は続けて記述を読み上げる。「八月**日、迎えに出向く。これは?」

「牢……捜索……迎え……あ!」透は弾かれたように顔を上げ、冷泉の横顔に瞠った目を向けた。「あった。弟が行方不明になったって電話が東京の下宿先にかかってきたよ。そうそう、あれはちょうど高校に入学してすぐだった」

「それで?」

「うん、『八月**日、迎えに出向く』これだね。そうそう、夏だった。遠くで見つかって迎えに行ったって電話が、確かに父からあったよ。父さんなら詳しいことを知っているはずだよ」





 透の提案から、三人は〈三〉と振られた日誌を携えて居間へと降りた。応接ソファには龍川医師と武藤霧子、源一郎が向かい合って座っていた。

「源一郎さん。水谷さんの私室から出てきたこの日誌の文章に何か思い当たることはありませんか?」

 突き刺すような深見の視線を受け、源一郎は明らかな動揺を示した。絹代は私室へ戻った後らしく姿は見えなかった。

 源一郎は、「あやつめ、最後に余計なものを」などと、しばらく口の内で何かぶつぶつ言った後、濃い溜息を零して徐に口を開いた。「ああ、ちょうど透が高校に上がる頃の話だ。穢がしばらく行方不明になったことがあった。それを指しているのだろう」

「それを知る人物は?」

 前のめりに差し込まれる深見の問いに、源一郎は一拍挟んで地を這うような声を出す。どう答えたものか迷っているのだろう。

「私と水谷と静、それに透にも電話で連絡を入れたから、その四人だ」

「警察には届け出なかったのですか?」

 この深見の質問に、源一郎は何を馬鹿なことをとでも言うように、目をぱちくりとさせて胸を反らした。

「届ける必要があるものか。奴が誰に連れ去られようが、どこで死のうが、我が家には関係のない話だ。呪いを撒き散らさねばそれでよいのだから」

 その場で話を聞いていたすべての者の顔が軽蔑の色に染まる。その軽蔑の意味を勘違いしたのか、源一郎はスイッチが入ったように慌てて声を荒げた。

「隠していたわけじゃないぞ! 穢の呪いが家の外に降りかかったなどということもなかった。穢が行方不明になっている間に村で事件や事故は起きていないのだから、それでいいだろう!」

見当違いな弁解を、額に血管を浮かせ唾を飛ばしながらまくし立てる家主の声が、蒸し暑い居間に空しく響く。

父の醜態を冷たく眺める透の蔑んだ目がひどく印象的だった。深見はそこから視線を引きはがして何度か目を瞬かせると、源一郎に向き直り、気を取り直すように小さく息を吸い込んだ。

「では、この『迎えに出向く』と記載のある日が、弟さんが見つかった日で間違いないですか?」

「日付などはっきりと覚えとらんが、夏だったのは間違いない。だいたいそのくらいだっただろう。あの日は、一本の電話があって水谷が車で迎えにいったんだ。何やら穢がY県の山奥で見つかったと現地の人から連絡を受けたとかで、水谷が二日間ほど家を空けて迎えにいったんだ」

「Y県ですか。地元の方が保護してくれていたのでしょうか」

「水谷の話ではそんなふうだったと記憶している」

 深見はふうむ、と顎に拳をあてた。

「その人たちは、警察には届け出なかったのでしょうか。弟さんの身元はどこでわかったのでしょう。衣服に連絡先のわかるタグか何かをつけていましたか?」その問いから逃れるように、源一郎が目を逸らしたのを、深見は見逃さなかった。「身元の分かるものを所持しているか、口頭で説明するかしか方法はありませんよね。弟さんへの教育はどの程度施されていたのですか」

 畳みかけられて、源一郎は大きな鼻息を漏らしてそっぽを向いた。

「知らん。奴の世話は全部水谷に任せておったからな。百合子が生きているうちは百合子が甲斐甲斐しく世話しておったし。だから、私は奴のことなどほとんど知らんのだ」

源一郎は、まるでふてくされた子供のように、つんと顎を上げて吐き捨てた。

そんな父親をしばらく温度のない視線で眺めていた透だったが、やがて深見に向き直り冷たく言った。「教育なんて一切ないよ。俺や世話人との会話程度だ。一生外へ出すつもりなんてなかったんだろうから、タグもつけてはいなかったんじゃないかな」

なるほど、確かに封印するとはそういうものだ。深見は握りこぶしで顎を潰した。「だとしたら……地元の人は、どうやって弟さんの身元と連絡先を知ることができたのだろう。家出した張本人が口を割ったのかな」

 深見が考え込むのを確認して、冷泉が質問を挟んだ。「弟さんの様子はどうだったんですか? 日誌によれば、発見まで約五か月かかっています。その間行方不明だったのならば、かなり衰弱していたのではないですか?」

 これにも、源一郎は開き直って大声でまくし立てた。

「元々、魂の抜殻のような出来損ないだったからな! 多少は痩せとったのかもしれんが、現地の人だか水谷だか知らんが家に帰ってきたときには綺麗に洗われた状態だったし、まぁよう覚えとらん。いずれにせよ、今回は穢が脱走などしたせいで、村に災厄が降りかかっておるのだ。四神様がお怒りなのだ! ああ、恐ろしい! 一刻も早く捕まえて牢にぶち込まねばならん! ほんに一族の恥さらしめが」

 これ以上は何を訊いても無駄だという空気が辺りを支配し、自然と苦々しい沈黙が落ちた。透などは呆れ果てたように窓の外に視線を投げていた。

「ところで」深見が気を取り直すように、その場にぐるりと視線を撒いた。「これから皆さんはどうしますか? 特に、龍川先生と冷泉くん」

 視線を受け、龍川は困ったように、組んだ両手に視線を落とした。

 龍川の話す気配がないのを横目で確認して、冷泉は躊躇いがちに唇を開いた。「僕個人としては、先ほど言ったように一か所に集まるのも少し不安ではあります。まあ、いずれにせよ琴乃さんと瑞樹の意見も聞かなければなりませんし、一旦白峰邸に戻りますよ。深見さんはどうしますか?」

「俺もそうするよ。荷物も何も持ってきていないしな」

 冷泉と深見のやり取りを控えめに目で追ってから、ようやく龍川は舌を覗かせた。

「そうですね、私も小夜と話をしてみます。二人きりでいるのも不安ですが、夜に外を移動するというのも恐ろしいようで。正直何が正解で、誰を信じて良いのか、皆目見当もつきませんが……」薄くなった額を撫でまわした。

「確かにそうだ。龍川先生の仰るように、夜間の移動は危険かもしれませんね。夜襲された朱野の例もありますし」深見はちらりと透を見遣る。

透は苦い顔で曖昧に視線を下げた。

それらをひとしきりじっと観察していた冷泉が徐に眼鏡をはずした。そして、山裾から微かに漏れる夕日に眼鏡のレンズを透かした。

「集まるとしたら『朱雀の館』に、でよろしいのでしょうか」どうやら汚れが気になるらしい。それがレンズに対する抵抗なのか、はたまた服を貸してくれた透への気遣いなのかは不明だが、シャツの裾で拭かないあたりが、いかにも几帳面そうな冷泉らしいなあ、などと深見は思った。

「私は構わないが」源一郎が尊大に言った。

「ご主人がそう言ってくださるのならば、それが一番じゃないかな。武藤さんと絹代さんもそれがいいでしょうし」

深見が視線を送ると、武藤霧子は唇を弓状に持ち上げた。肯定の意だろう。

それを確認して冷泉が言った。「一つ提案があります」眼鏡は元の位置に戻っていた。「あまり遅くなるとご主人や透さんにも迷惑がかかります。施錠して休むこともできないでしょうからね。ですから、リミットを決めませんか? 透さん、八時くらいまででしたら大丈夫でしょうか」冷泉は、源一郎の顔を一応は立てながらも、実質門番をすることになるであろう透に向かって尋ねた。

「ああ。もう少し遅く……そうだな、十一時くらいまでだったら、来客にも対応できるようにしておくけど、八時でいいの?」

「いえ、あまり遅いと……」冷泉がちらりと深見を見遣る。

深見も、冷泉の意図を察したようで一つ頷きを返して口を開いた。「ああ、朱野の気持ちはありがたいが、十一時は流石に危険だろう。それこそ遠距離から狙われたらなすすべもない」深見は、山で夜襲されたことを引きずっているらしかった。

「狙い撃ちされたら一撃だもんな」これには、透も眉根を寄せて同意を示す。右掌に包まれた左腕には、今も山で射られた裂傷があることだろう。

 透の賛同を得たことで思いが増したようで、深見は語気を強めて提案した。

「だから、完全に日が沈む六時半以前に朱野家への移動を済ませるか、あるいは間に合わない場合、それ以降は下手に動かない方がいいと思うんだ。――そうしませんか?」

 これに逡巡していた龍川が賛同し、元から一か所に集まることに難色を示していた冷泉も反対を示さなかったことで、なし崩し的に方針が決まった。

 そこでちょうど大時計の鐘が五つ鳴ったのを区切りに、深見と冷泉、龍川医師は揃って『朱雀の館』をあとにした。



 九



 湯上りの湿った髪を指で弄りながら、冷泉誠人は深見から聞いた話を反芻していた。

『朱雀の館』からの帰り道、深見は源一郎と交わしたやり取りについて話してくれた。冷泉が一人で水谷の日誌を読み、透が地下の氷の入れ替えを行っている間に、トンネルから帰って来たばかりの源一郎と居間で幾つか話をしたらしい。

深見の話に虚偽や記憶違いがあれば、ともに話を聞いていたという龍川の訂正が入っただろう。従って、冷泉はその話をおよそ信用するに足る情報として扱うことにしていた。

 それよれば、源一郎と絹代は、十二時過ぎにトンネルへ向かう道中で『玄武の館』の横を通ったということだった。その際、特に怪しい人物と遭遇することはなかったらしい。

とはいえ、彼らもまさか『玄武の館』で水谷が殺されているなど思わなかったため、注意深く観察していたわけではない。当然ながら、館の裏手までまわることもしておらず、よって遺体の番をする深見の姿されも目に入らなかったとのことであった。

同じく武藤霧子と朱野透の悲鳴に関しても聞いていないそうなので、時系列的には水谷の遺体が発見されたしばらく後に、彼らは現場付近を通過したという流れになりそうだ。

 この証言により、犯行が行われたと思われる正午前後の時間帯においてアリバイのない人物は源一郎、絹代、瑞樹、小夜、それから姿の見えない穢と出張中で連絡の取れない白峰秀一氏に絞られた。

 この中で一つ目の事件、静殺害においても犯行が可能となるのは源一郎と絹代を除いた瑞樹、小夜、穢、秀一の四名。逆に透襲撃が可能となるのは源一郎、絹代、穢、秀一の四名ということである。

 白峰家の全員が組んでいた場合、犯行は可能になるのではないだろうか。突然恐ろしい思い付きが冷泉の全身を駆け巡った。慌ててその思い付きを消去する。理論上可能というだけで、友人を疑うなどどうかしている。第一動機がわからない。――本当にそうだろうか。朝の写真が脳裏に蘇る。水谷の日誌を開いただけで、埃が山のように出てきたではないか。所詮冷泉は余所者だ。知らないことだらけなのだ。突如として襲ってきた疎外感と孤独に背筋が冷える。冷泉は自身の鼓動が右肩上がりに速くなるのを感じていた。

 気になることはもう一つあった。

『朱雀の館』にて、今後の方針を決める際に、深見は異様に夜出歩くことの危険性を強調してきた。夜に人がうろつくことを嫌がる存在、すなわち誰かに目撃されることを嫌がる存在とは。そう考えた際に浮かぶのは、何も狼から逃げる羊だけではない。

犯人その人だ。

 冷泉は瑞樹の私室のい草ラグの上にごろりと横になった。天井の木目を目でなぞる。裸眼でも案外いけるものだった。水谷の日誌の一文が蘇る。

『名は、陽介と命名』

 朱野源一郎と武藤霧子の隠し子である深見陽介が、どこかで自らの出自を知り、自らを捨てた朱野家と、加担した水谷に復讐を企てたのだろうか。だとしたら、次に危ないのは――。

「龍川先生……?」冷泉はばね人形のように勢いよく起き上がった。

 源一郎と武藤霧子も狙われるのだろうか。遺棄に関与した人間は水谷と龍川と、それから――、佐藤百合子女史。冷泉はラグの網目を睨んだ。ユリコ。その音には聞き覚えがあった。

ユリコ、ユリコ――はっ、と冷泉は目を見開いた。

『百合子が生きているうちは百合子が甲斐甲斐しく世話しておったし』

 源一郎の言葉が蘇る。そうだ、と冷泉は確信した。百合子とは、源一郎の前妻の名前で間違いがない。“陽介”に続いて“百合子”までもがリンクした。この狭い村おいて、これは偶然なのか、否……。

そうしたところで部屋の扉がノックされた。部屋の主の帰還だ。声に従い鍵を開けると、湿った光沢のある黒髪にタオルを載せた白峰瑞樹が顔を出した。そのまま彼は部屋の奥のベッドに向かい、腰かけて丁寧に頭を拭う。その一部始終を何となしに目で追いながら、冷泉はぼんやりと別のことを考えていた。

「なあ、瑞樹」

 自らの名が呼ばれるのに、いつもの人好きのする顔で向き直った瑞樹だったが、ひとたび冷泉の硬い表情を見るや膝を正して向き直った。その顔を正面から見た瞬間、冷泉は自らの腹の芯がじわりと冷えるのを感じ取った。改めて白峰瑞樹の親しみやすさの源はその朗らかな表情にあるのだと思い知らされる。瑞樹は元々凛とした端正な顔立ちをしているため、ひとたび愛嬌のあるその表情が消えると、途端に冷たく、見る者にどこか畏怖の念を抱かせるのだ。

 腹を据えた表情で静謐に待ち構える瑞樹を前に、冷泉はゆっくりと唇を開いた。

「よかったら、朝の写真のこと、聞かせてくれないか?」

 その瞬間、瑞樹の瞳の中の輝きが暗幕を張ったように消えた気がした。朝も見た顔だった。それから、瑞樹は顔ごと視線を逸らして、斜め下へと視線を投げた。その先にはただの白い壁紙があるだけだ。黒曜の眼球には、それ以外に何の像も映ってはいなかった。

 意に反して高鳴る鼓動を意識の片隅で感じ取りながら、冷泉はその横顔を静かな視線で照らし続けた。ややあって、瑞樹が徐に顔を正面へと戻した。一つ長い睫毛が上下する。再び現れた黒曜には、少し輝きが戻っていた。上気して赤く色づいた形の良い唇が、薄らと開かれる。瑞樹の小さく息を吸う音が聞こえた気がした。

「俺ね。九つの時まで女の子として育てられていたんだ」

 俺は実は女の子なんだ、という回答が来ないことは、散々部室で彼の上半身を目にしている冷泉にはわかっていたことだった。そのため、もたらされた回答は予想の範疇だったが、それでも彼のなじんだ文化との乖離は甚だしく、言葉を失うには充分すぎる供述であった。

 しかし、努めてそれを表情には出さなかった。冷泉はその切れ長の目を逸らすことなく、瑞樹をの眼を見つめ続ける。感情を内に隠すのは元来得意だった。

「小さい頃すぐ病気する子供でさ。御覧の通り、今はもう元気なんだけどね」

 殊勝に明るく振舞おうとする瑞樹を見据えて、冷泉は静かに首を縦に振った。それで空元気は不要だと悟ったようで、瑞樹は泣き笑いのような表情を浮かべて強張った口角を緩めた。そして、寂しそうに続けた。

「病弱な男の子は、女の子として育てたら身体が強くなるっていう村の信仰がある。だから、祖母が生きている間はずっと女の子として育てられたんだ。あれは、その頃の写真」瑞樹は視線を勉強机の向こうへと投げた。視線の先には、深く彫刻刀の突き刺さった写真があるはずだった。

 冷泉は唇を固く結んだまま、うん、とゆっくり頷いた。瑞樹はばつが悪そうに視線を逸らした。

「こんなに人数の少ない村だし、それが俺の中の世界の全てだったから、珍しいことだなんて思ってなかったんだよ。村の外の世界を知らなかったから、“普通”が何なのかもわからなかった。だから……信じられないだろうけど、小さい頃は本当に何の疑問も感じていなかったんだよ。だけど中学、高校と成長するごとに、自分がいかに珍しい育ち方をしたかが見えてくるようになって。それでもね、俺は自分の過去を受け入れていたんだよ。特に恥ずかしいとも思ってなかった。俺は俺、人は人だと思っていた、思おうとしていたから。でも」と瑞樹は掌をゆっくりと開いてじっと見つめた。

「ある日、鏡に映った自分の裸の上半身を見た瞬間、突然頭の芯が爆発したんだ。自分が汚らわしいものに思えてきてしまって。衝動を抑えきれなかった。気づいたら鏡は粉々に砕けていて、俺は血だらけの手で自分の写真を貼り付けたあの板に向かって何度も何度も彫刻刀を叩きつけていた」

瑞樹は震える両手を握りしめる。血を吐くような叫びが、部屋を切なく染め上げていく。

「わからない。日に日に男性になっていく自分の身体に、女として育ったことで女性であると誤認したままの自我が、拒否反応を起こしてしまったのか、逆に自身を男であると再確認した自我が、女として育った自身の過去に耐えられなかったのか。いずれにせよ、抑圧された自我が暴走したのだろうけれど、その奥、底の部分が自分でもわからなかった」

 握りしめた左手の拳を右掌でそっと包み込む瑞樹の横顔を、冷泉はただ黙って見つめていた。

「学生服を着るとどうしようもなくもやもやした気分に襲われるのに、一方では女として育った過去を消そうと強い肉体を求めて剣道に打ち込むんだ。訳が分からないだろう?」

 潤んだ黒曜石が二粒、冷泉に向けられる。瑞樹は何かを求めている、そのことはわかるのだが、それが何なのかがどうしてもわからない。何を求めているのか、何と言葉を掛けるべきなのかが見つからなくて、冷泉は唇を硬直させたまま木偶のように立ち尽くした。喉の奥で何色もの糸の混じり合った感情の毛玉がごちゃごちゃと絡み合う。

 白峰瑞樹が、無責任に誰かに答えを委ねたり、むやみに感情をぶつけたりする男でないことは、冷泉もよく知っている。今も、ただ持て余した葛藤を誰かに聞いてほしいだけで、答えそのものは求めてはいないのかもしれない。

それはそうだろう。瑞樹が何年掛かっても出せなくて、煮詰まってしまっている命題だ。部外者である冷泉が容易に即答できる問い、否、軽々しく即答していいような問いであるはずがない。

そう結論づけた冷泉は、命題の是非には触れないことにした。ただ、瑞樹の心の動きそのものを受け入れて、肯定するのだ。

冷泉に全幅の信頼を寄せる一方で、果たしてどのような反応が返ってくるのだろうと緊張する瑞樹の不安が、その強張った身体中から伝わってくるようだった。

冷泉は静かに息を吸った。

「自分でも訳がわからないことだってあるさ。瑞樹はおかしくなんてない……と俺は思う」

「でも、俺は俺が怖いよ、冷泉」

うん、と冷泉は大きく頷いた。「俺が瑞樹を怖いと思わなくても、瑞樹が瑞樹を怖いって思った気持ちは本物だもんな。突然感情の制御がきかなくなったら、びっくりもするよな」

瑞樹は曇った表情で、こくんと幼子のように肯いた。「いつか、他人や自分を傷つけてしまうんじゃないかって、ぞっとした」

冷泉は吸いすぎていた空気を静かにふうう、と吐き出した。前を向く。「俺は人にあれこれ言えるほど立派じゃないから、これは大きな独り言だと思ってくれるか?」この言葉に、瑞樹は口元を緩めてこくりと肯きを示した。

冷泉は敢えて視線を少し下げた。そうすることで心持ち怜悧な眼光が弱まり、柔らかさが増した。「理屈で説明しきれないのが、人の感情というものじゃないかな。だから、感情の在り方としては瑞樹のものは至って健全だと思うよ。聖人君子じゃあるまいし、たまには爆発することだってあるさ」

「冷泉もある?」

「あるよ」と冷泉が表情を緩めれば、瑞樹は少し意外そうに黒目がちの目を丸くした。

「信じられん」

「いや、あるある。瑞樹は自分を傷つけてしまってびっくりしたんだよな。また暴走して、止められなくなったらどうしようかって」

 冷泉自身も知らないような柔和な声が、空気と頭蓋骨を経て鼓膜に届いてくる。それは自身のものとは思えぬような慈愛に満ちた音をしていた。普段人を励ましたり、優しくしたりするような言葉を持ち合わせない冷泉だったが、こと瑞樹に関しては違ったらしい。どうにか相手の求める形で手を差し伸べたいと思っていたのだろう。

 ぎちぎちに固まった泥団子が日光に暖められてほろほろと崩れるように、瑞樹の纏う空気が緩むのが冷泉にも伝わって来た。それを見て、冷泉自身も気づかぬうちに入っていた肩の力が抜けるのがわかった。

 目の前の傷ついた子羊をじっと見つめる。

 一見して気づかなかったが、間違いなく彼も、この閉鎖された村の風習が生んだ犠牲者だった。

 白峰瑞樹は何かに納得するように、二、三度小さく頭を揺らすと、視線を持ち上げた。その黒曜石にはいつもの輝きが戻っていた。

冷泉が静かに天を仰ぐと、瑞樹は遠く何かを懐かしむように目を細めた。

「俺は、誰よりも男らしくありたいんだ。きっと。女として過ごした九年間を埋めたいんだろうな」

 誰にも、写真の中の少女を救うことはできない。それは、冷泉にはもちろんのこと、瑞樹自身にもだ。幽かに部屋に漂う無力感を全身で味わうように、冷泉は深く呼吸を繰り返した。

 その静寂を打ち破ったのは、少女だった男の呟きだった。

「忘れてしまったのかもしれないけれど、透さんが約束してくれたんだよ」

「約束?」と冷泉は天井から顔を戻した。

「そう。ワンピースを着た幼かった俺に、透さんが言ってくれたんだ。大人になったら、透さんと弟さんと小夜と静ちゃんと俺でこの村から出て行こうって」

「ほう」

「それで俺がお父さんとお母さんと別れるのは嫌だってごねたら、じゃあ瑞樹くんのお父さんとお母さんも一緒に行こうかって」

「へえ……また、随分と思い切った話だな」冷泉は今の透の姿から逆算して、少年同士の過去のやり取りを想像してみた。

 瑞樹は過去を懐かしむように、どこか面映ゆそうな表情で続けた。

「うん。それでさ、小夜ちゃんも、お父さんとお母さんと離れるのは嫌だって言うかもよって俺、言ったのね。そしたら、じゃあもうみんな一緒に出て行こうかって。なんというか、まあ、非現実的っちゃそうだけど、昔から透さんは透さんだったなあって思うね」

「透さんは透さんか。なんとなくわかる気もする。小夜さんはその話は知っているのかな」

 冷泉が尋ねると、瑞樹は「さあ、どうかな」と視線を外して複雑そうに口元を緩めた。

「今考えると自らの望まない形で女の子として育てられている男の子を慰めるための冗談だったのかもしれないな、とも思うんだ。それなら小夜は知らないだろうね」

「真実は透さんのみぞ知るだな」冷泉は放り出した自らの足先を、なんとなく眺めた。

 瑞樹の言うように、彼を見ていてどうにもやりきれなくなった透の優しい嘘だったのかもしれない。けれど、冷泉はその言葉を胸の内に呑み込んだ。そんな冷泉に、瑞樹は一つ頷き返してさっぱりとした笑みを零した。

「うん。でも、それでもいいんだ。慰めの嘘だったとしても、俺にとってはちょっとした楽しみになっていたから。当時の俺はこの村が外と比べて、何がどう偏っているのか全然わからなかったから、なんで透さんはそんなことを言うんだろうって不思議だったんだけどね。それでも広い世界に出られるって思うと、なんというか、わくわくした」

「そうか」冷泉は伸ばした足を引き寄せた。踵についた畳の痕を指で撫でる。

透が瑞樹を元気づけるために言った嘘なのであれば、その思惑通りの結果だと言えるだろう。喉の奥に刺さった小骨のようなものを感じながら、冷泉はラグの上で足を組みなおす。そうすると、呼応するように瑞樹もベッドの上の尻の位置を変えた。そして、過去を見つめるようにぼんやりと地面に視線を落とした。

「それだけじゃなくてさ。いつか俺が成長して、自身の生い立ちが“普通”ではなかったと気づいたときにグレないように、心の拠り所になろうとしてくれていたのかもしれないとも思うんだよね」

「『俺だけはこの村の異常さに気づいているぞ』っていう透さんからのメッセージか」

「そう、そんな感じの」

「村に、一人でも話のわかる人間がいるというだけで心強いものな」

 冷泉の言葉に実感がこもる。いつの間にか、先刻抱いた疎外感を思い出していた。

うん、と肯いて瑞樹はベッドの下で足を揃えた。足首を見つめ、曲げては伸ばす。

「もうすぐ外に出られるから、その時まで我慢しようって思えるように。実際に俺が中学生になってその葛藤に直面したときには、透さんは東京に出てしまっていて、直接話はできなかったんだけどさ。だから、合図を残してくれたのかなって、そのとき思った」

「流血事件の頃か」冷泉は窓際に視線を飛ばした。あの場所に眠る写真の上では今でも穴だらけの少女が、温度のない目をこちらに向けているのだろう。

「そう。流血事件の頃」瑞樹も同じように視線を投げた。だが、すぐに自身の足首へと視線を落として、曲げ伸ばしを再開した。「当時の俺にとってあの言葉の存在はある種の救いだったし、透さんはずっと英雄のような存在だったからね。彼はいち早くこの村の異質さに気づいて、今は俺たちを救い出そうとしてくれているんだぞって信じていた」

「英雄なあ」

「そう、英雄。透さんは英雄。俺は英雄の帰りを待つ民衆だった」

瑞樹は真顔でおどけてみせた。

「でも、英雄は反乱をやめてしまったのか」冷泉も真顔でそれに乗った。

瑞樹はまるでその目に映す像を過去から現在へと切り替えるように、ゆっくりと瞬きを落とした。

「そう。透さん、普通に村に戻ってきて、村の一員として過ごしているんだよね。別にそのこと自体は透さんの勝手だし、良いと思うんだけどね」

「何か引っかかるようだな」冷泉は尋ねた。どうやら瑞樹の喉にも小骨が引っかかっているらしい。だが、小骨の輪郭は掴めそうで掴めない。 

瑞樹自身も、どこに小骨が引っかかっているのか良く分かっていないようだった。

「透さんはそれでいいのかなって。なーんかこう、釈然としないというか」

 瑞樹は揃えた膝頭を見つめて唇を尖らせた。つられて冷泉も自身の膝頭に視線を落とした。

「ふむ」

「透さん自身が少年時代に『脱出』という発想を持っていたことは間違いないんだよ。村への反発心がなければ出ない発想でしょ」

「そうだな」

「そう」瑞樹は力強く首肯した。「で、俺はもう脱出はいいんだよ。村の外を知るに従って、この村の異質さを知ったけれど、それでも親子の縁を切ってまで家出しようとか、透さんの代わりにみんなを連れて村から出ようとかまでは思ってないから。大学を卒業したら村を出ようとは思っているけど、両親がこの村に住み続けるのなら帰省はするだろうし。でも透さんは? 本当に納得したのかな」

「透さんも瑞樹と同じように、外に出て見識が拡がったり、大人になって現実が見えるようになったりするにつれて、考えが変わったのかもしれないぞ」

 冷泉がそう言うと、瑞樹は「いやあ、それはどうかな」と首を捻った。「透さんの場合は俺とは違うじゃない」

「ほう」

 冷泉は眉をぴくりと動かして、ベッドに向かって座りなおした。小骨の片鱗が見えてきたかもしれない。

その仕草に冷泉の聞く意欲を感じ取った瑞樹もまた、姿勢を正して向き直った。

「だってさ、俺の場合はこの村からの足枷はもう解かれているじゃない。俺が女装という足枷をつけられていたのは過去の話で、今はもう無いもの。つまり、今の俺はこの村から齎される不利益がないから、村への反発心が薄れていった。結果、相対的に現状維持の気持ちが上回ったんだ。でも透さんは違うじゃない?」

「ああ。そういうことか。透さんの足枷は、まだ残っているもんな」

 冷泉のこの言葉を待っていたように、瑞樹は食いつき気味に「そう、それ」と肯いた。「透さんは、弟さんを地下牢に奪われたままでしょ。問題は何も解決していないじゃない。なのに、村への不満や反発はどこに消えたのか、それが疑問なんだよ」

いつになく熱く語る瑞樹を見据えて、冷泉はぽつりと落とした。

「今も昔も、誰よりもこの村に反発を抱いているのは、透さんかもしれないな」



八月二十日



 一



その日も小雨が降っていた。

朱野透は、藤川絹代の切迫した声に叩き起こされて目を覚ました。

そういえば、一昨日にも同じ状況があった気がする。寝ぼけているのだろうかとぼやけた瞼を再び閉じようとした瞬間、どんどんと音の波が押し寄せた。

いよいよ夢などではないと飛び起きて、部屋の扉を開ける。目の前にサーベルを握りしめた藤川絹代と、それからその隣に杖を手にした武藤霧子の姿があった。

二人を見比べてから恐る恐る口を開く。

「どうしたんです……?」

 この場に父の姿がないのがとても不気味だった。

「源一郎さんがいないのですよ」

「いない?」

「お部屋にいないのです」

「トイレや洗面所は探しました?」

 尋ねれば、絹代は青い顔でこくこくと小刻みに顎を引いた。

「いらっしゃいません。ゆうべは確かに一緒に床についたのですよ。わたくしは朝までぐっすりと、そう一度もめざめることなく眠っていましたわ。いつもは、源一郎さんが夜中に何度かお小水にいかれるものですから、その度に気づくのですが。今朝は目が覚めたらもうこんな時間で、横にいたはずの源一郎さんのお姿が見えないじゃありませんか」

 透は慌てて腕時計を確認した。時刻は朝の五時半を指していた。

「それどころか、一階の廊下の一番奥の窓が割られて、鍵が開けられていたのです」

「鍵が?」

「そうです。東側の奥の。お風呂場の前です。もう、わたくし怖くなって、源一郎さんの箪笥からマスターキーを拝借して、上階の武藤婦人を起こして――」

「わかりました」透は表情を引き締めた。「今から一部屋ずつ見てまわりましょう。もちろん三人で。いいですね? その前に僕にも武器を取らせてください」

 言って透は隣室のコレクションルームへと足を向ける。ざっと見回したところで目に入った軽い警棒を手にして戻った。

 絹代が深見と透に疑いを向けていることを、透はよく知っていた。現に、真っ先に家人の透を起こすでなく、客人の武藤霧子を起こしにいっているあたり、何よりそのことを雄弁に語っていた。

 そして、透もまた絹代を疑っていた。よって互いに手にした武器は、潜む暴漢への牽制だけでなく、内に潜んだ羊の皮を被った狼への牽制の意味も兼ねていることは言うまでもない。

 透はまず二階から、一部屋一部屋扉を開けていく。どこに誰が隠れているかわからない中でのその作業は、実に神経をすり減らすものだった。しかし、その苦労が実を結ぶことは終ぞなかった。

最後の一部屋となった水谷の部屋を開けた透ががっくりと肩を落とす。

冷たい汗が、ぽたりと地面を濡らした。

「いない……」

「そんな……」絹代が口元に手を当て力なく呻く。「穢さんに続いて源一郎さんまで……」

 透の服の裾を掴んでいた武藤霧子の手が締まり、寝間着代わりのTシャツにぎゅっと皺が寄った。

「考えたくはないが、納屋で見つかった静の例がある。土蔵と鶏小屋と木工室に行ってみましょう。いなければ、水谷さんの例もあります。他のお宅へ……」

 そこで透が小さくよろめき、左手を介して繋がっていた武藤霧子もつられてたたらを踏んだ。

「大丈夫? お顔が真っ青でしてよ」

 背後から絹代に支えられて透は小さく頷いた。

 身体は疲れ果て、胃には穴が開きそうだったが、一方で恐怖という氷に冷やされた頭の芯は恐ろしい程冴えわたっていた。

 東北の中でもより北に位置する四神村の夏の夜明けは早い。朝の五時にもなれば、もう日の光が青々と連なった山並みの向こうに顔を出している。細かな小雨の粒子が朝靄を反射する薄白い中を、傘を片手に三人は連れたって歩いた。屋敷の裏手の土蔵と、それから鶏小屋を順に見てまわる。最後に木工室の扉へとたどり着いた。

「あれ? おかしいな」

透が扉を揺するが、何かに阻まれ開こうとしない。

「中から鍵が掛かっているのかしら?」

 蒼い面の絹代が恐怖に顔を歪めて透の顔を覗き込んでくるのに、透は短く頷き返した。

「ええ、確かに外鍵とは別に、中にも閂があるにはあるんですが……父さん? 父さんいるのですか?」

「こんな時間に変な話ですわ……嗚呼もう絶対に何かあるのですよ」変事を予見した絹代が顔を歪めた。

 扉は外向きの観音開きであり、中で作業をする際、不用意に扉が開かないように閂がしつらえてあった。しかし、こんな早朝にとなると奇妙な話である。

「斧で破りましょう。少し待っていてくれますか?」不安げな表情を浮かべる女性二人を前に、透は納屋へと足を飛ばした。そして、警棒に代わって大ぶりの斧を抱えて戻ってくる。「木片が飛ぶといけないので、下がっていてください」と透は、閂のちょうど真上あたりを目掛けて斧を打ち付け始めた。

ガンッガンッと重い音が響くごとに、絹代と武藤霧子の身体が小さく跳ねる。

 何度目か打ち付けたときに刃先が扉にめり込む音がし、透が足の裏を扉に押し付けて全身の力を使って引き抜いた。そこに、手首が通るくらいの小さい穴があく。透は慎重に中をまさぐり、閂を持ち上げた。

そうして扉が破られた瞬間、絹を切り裂く悲鳴がサイレンのように響き渡った。

 そこはまるで地獄の様相を呈していた。

 朱野源一郎は室内の中央でこちら向きのまま、椅子に縛り付けられていた。そして、頭蓋骨を自らのコレクションである拷問器、頭蓋骨粉砕機に挟まれた状態で絶命していた。……

酸鼻極まるその光景に、透は斧を取り落とし、震える手で扉に縋りついて膝を折った。 体毛という体毛がゾゾゾと逆立ち、心臓が口から飛び出んばかりに暴れまわっている。舌の根が固く凍りついて、言葉も出てこなかった。

 藤川絹代は、ストレスの全てを声で放出するかのごとく、狂ったように高い叫びを連発していた。

 武藤霧子はそんな二人の気配から事態を察したのか、透の陰に取り縋り、震える身体を丸めていた。

「……は、犯人、は、どこへ消えたんだ?」

 透は縺れる舌の奥から、掠れた声を絞り出した。

「きっとあの換気口から逃げたんだわ!」

 絹代が、泣き喚くように部屋の奥の換気口を指さした。

「あの換気口から? 冗談を! 犯人は霧にでも変化したというのですか」

 つられて透も感情的な声になる。もう全てに於いてうんざりだった。

「知らないわよ、でもそれしかないじゃない!」絹代は身体を揺すってヒステリックに叫んだ。

「あんな高いところから? 無理ですよ!」

息を乱しながら、透は宇宙人でも見るような目で換気口を乱暴に指し示した。

古い蔵を改造して作ったこの木工室の広さは二十畳ほど、天井まで高さ五メートルはあろうかというこの部屋に窓はなく、ただ高さ四メートルほどの位置に縦四十センチ、横七十センチほどの鉄製の換気口があるのみである。

 室内には脚立はもちろんのこと、踏み台になるようなものは一切置かれていない。

「どうにかなったのよ!」

「どうやってよじ登ったんです」

「知りませんよ! どうにかして届いたのよ、それしかないでしょう。扉はご覧のありさま、ならばあの窓しかないじゃないの」

「四メートルだなんてバレーボール選手でも届きませんよ。犯人はどんな巨人だと言うのですか」

 普段になく余裕を失った透の熱弁を受け、絹代はますます興奮から顔を赤くした。集団ヒステリーのように、相乗効果で共有する空気に熱が溜まっていく。絹代は泣きっ面で破れた扉に向かって、力いっぱいに開いた掌を振り下ろした。

「それならば、この扉をすり抜けたのだわ! 外から閂を下ろす方法があるのよ!」

「外から内にある閂を下ろすだなんて、そんな馬鹿な……」

 透は喉を詰まらせながらふらつき、しまいには頭を抱えてしまった。

「ああもう! 密室! 密室! また密室ですの! 犯人は呪術を使ってわたくしたちを皆殺しにするつもりなの?!」

 我慢の糸が途切れたのか、絹代は金切り声をあげる。彼女の言うように、木工室は完全な密室を呈していた。

「絹代さん、一度落ち着きましょう」透が乱れた呼吸の合間に言った。酷い汗だった。

「は? 落ち着いていられるものですか! こんな村には一秒たりともいられない! 嗚呼、誰でもいい、早く助けに来てちょうだい!」

 反面教師という言葉がある。取り乱した絹代を前に、いくばくか理性を取り戻したのか、透の目には少し正気が戻って来たようだった。

「絹代さん、理性を失っては犯人の思うつぼです。ひとまず、他の住民と合流しましょう。僕が龍川先生と深見たちを呼んできますから、絹代さんと霧子さんは屋敷に戻って一緒にいてください。決して離れてはいけませんよ」

 身を震わせる二人の女性をかわるがわる見つめ、透が言い聞かせた。武藤霧子は愕然とした表情で、小さく顎を引いた。

 それを確認して、透は気もそぞろといった様子の絹代に向き直った。

「絹代さん、疑心暗鬼になるのはわかります。けれど、霧子さんはアリバイこそ不完全ですが、視力に不安がある以上、犯人足り得ません。彼女のことだけでも信用して、一緒にいてください。いいですね?」

 透の顔に不審げな視線を向けていた絹代だったが、すぐにその目は脇に向いた。透の立つその向こう側、風に煽られ大きく開いた扉の内側を指して、彼女はヒッと喉の閉まった悲鳴を上げた。

――次は虎。

内側には、おどろおどろしい血文字でそう記してあった。

「まあ、次だなんておそろしい! こんなこと、まだ続くというんです? もうたくさん!」

「虎……白峰家で何かあるのか……? とにかく、ちょっと見てきます」

 そう呻く否や、透は弾かれたように斧を手に取り、覚束ない足取りで駆け出した。



 二



 朝靄の中、透は懸命に足を飛ばした。

 恐怖で足は縺れ、喉は引き攣れ、睡眠不足と疲労と極限の緊張状態から淀んだ脳みそは鈍く揺れて、頭が爆発しそうであった。今にも、魔術を使う殺人鬼に足を引っ張られて地獄の底へと引きずり込まれるのではないかと、透は猛獣から追われる兎のように力の限り駆け抜けた。

 途中、右手に赤く爛れた石像が近づいてきたが、目を背け、ひたすら前だけを見つめて疾走した。

 やがて、霧の中に白峰邸がぼうっと浮かんだときには、見慣れた風景にも関わらず、黄泉の入口にでも舞い込んだような錯覚を覚えた。

 門の前で呼び鈴を鳴らして中から人が出るのを待つ。その時間すらももどかしく、忍び寄る恐怖に背中じゅうをなぞられ、急き立てられ、たまらず透は門を開けて押し寄せる高波のように、玄関先へとなだれ込んだ。

「ごめんください! ごめんください! 白峰さん!」

 斧を握りしめ、開いた方の左の拳で力の限り引き戸を叩く。

 しばらくして、近づく足音があってからからと扉が開かれた。

「透さん……まさか、また何か」

「琴乃さん、生きていた……」

 出迎えた琴乃は、膝に手をつきしなしなと脱力する透と、その右手に握られた斧を見てギクリと目を瞠った。

「何があったんです……?」

 怯える琴乃を前に、透は慌てて斧を手から離し、「瑞樹くんは、瑞樹くんは無事ですか」と寄り縋った。

「瑞樹は部屋で寝ているはずだけど、何が――」

「父が殺され、血文字で“次は虎”と」

 それを聞いて、琴乃の顔が一気に青ざめた。すぐに、転がるように階段を駆け上がる。透もそれに続いた。

「瑞樹! 瑞樹!」

 どんどんどんと暗い廊下に鈍い音が響き渡る。

「蹴破りましょう」

 どいてください、と透が琴乃の腕を引いた瞬間、がちゃりと鍵が開き、扉が開いた。中から、寝ぼけ眼の瑞樹がぼんやりと顔を出す。必死の形相の母の隣に、透の姿まで見つけて彼は顔を凍らせた。

「今度は何があったの」

 動揺する瑞樹に、琴乃は顔をくしゃくしゃにして抱きついた。

「もう……びっくりした……よかった……」

 隣の部屋から、同じく事態を飲み込めない様子の冷泉が顔を出す。

「また何かあったのですか」

「父か殺され、その場に“次は虎”の血文字が」

 乱れた呼吸の合間に零れた透の言葉に、抱きつかれた格好のまま、母の背を撫でていた瑞樹がはっと目を見開いた。

「虎……父さんは?」

「秀一さんに何かあったのかもしれない」

瑞樹の言葉に、琴乃は再びサッと顔を蒼くした。

 冷泉は考え込んだ。白峰秀一個人の安否が気になるのももちろんだったが、延いてはこの村に閉じ込められた全員の運命に直結するという点においても非常に気がかりだった。

とはいえ、秀一の死体が発見されるようなことがあればニュースになるだろうから、テレビを通してこの村にも伝わっているはずだった。さらに、警察は白峰秀一の家族と連絡を取ろうとすることだろう。その道中で異変を察して救助に来る可能性が高かった。

しかし、誰も気づかないところに遺体を遺棄されていたらどうだろうか。そんなことになれば、助けが来るのがますます遅くなってしまう。この辺境の村に閉じ込められた面々にとっては、明日村へ帰ってくるのがはっきりしている秀一の存在だけが、約束されている唯一の救いだった。

呆然と立ち尽くす白峰親子を前に、冷泉が口を開いた。

「秀一さんに何かあれば報道されるでしょうから、居間でテレビをつけてみましょう」

冷泉の言葉に促されるように、一同は階下へと流れる。

「テレビをつけるのが怖いわ……」

階段の手すりに縋りつき涙を浮かべる琴乃に、冷泉は左手を差し出した。

「おそらく秀一さんは無事だと思いますよ」

「どういうこと?」琴乃はその手を取って尋ねた。

冷泉は努めて理性的に答える。「犯人が今朝源一郎さんを殺害した後、秀一さんを殺すために村から出る方法があるとは、ちょっと思えません。それがないから、俺たちは閉じ込められているわけで。それこそ、抜け道でもない限りは、殺人鬼も同じ檻の中であるはずです」

 そこで誰からともなく、はたとこの場に一人足りないことに気が付いた。

「深見は……?」

 透の言葉を受け、琴乃は冷泉を押しやってよろめき、降りた階段を左に折れた。それからしなだれかかるように、身体全体で勝手口の引き戸を開く。飛び石の先の、離れの鍵はしっかりと閉まっていた。

「陽介! 陽介!」琴乃は裸足のまま、半狂乱で引き戸を叩いた。

「琴乃さん、これで破りましょう」その背に追いついた透が斧を構えて言った。

声に振り返った琴乃は、透の姿をみとめると、「早く破って! この斧で破って! 早く!」と力任せにその右腕を揺さぶった。

透が斧を打ち付けるたびに、曇り硝子が音を立てて散らばった。透が斧で叩いて大きな罅を入れた箇所を、冷泉が傘の先で突いて割って、硝子を下に落としていく。

瑞樹は琴乃を両手で抱きしめたまま、それらを不安げに見つめていた。

破壊音が一つ響くごとに、心が罅割れ砕けていくような心地だった。

やがて丸く穴が開き、冷泉が中へ腕を差し込んで鍵を開けた。待ち構えていた琴乃は、足の裏が切れるのも気にせず破片が散らばる廊下へ転がり込み、洋間の扉を乱暴に連打する。

「陽介! 陽介いるの陽介!」

 しかして、ノブは簡単に回った。キィィと切なげに音を立てて、扉はゆっくりと開かれる。透は斧を取り落とし、瑞樹は耳を塞ぎ、冷泉は顔を背けた。

「いやああああああ――!」

 琴乃の悲痛な叫びが、呪われた村を引き裂いた。





 部屋中、噎せ返る鉄の匂いで溢れていた。

 照明は煌々と部屋を照らし、丸机には読みかけの本と手帳が、開かれたまま置かれている。

 深見陽介は、こちらを向いて椅子に行儀よく座っていた。

ただ、あるべき場所には首がなかった。

 頭を失った深見陽介は、文字通り物言えぬ躯と化していたのだった。……

 首の断面からは鮮血がしとどに流れ落ち、床は彼の血で赤く染まっていた。奥の壁には、血文字で虎にばってんがされ、横に大きく雀マイナス亀の文字があった。

 廊下に蹲り、ああ、ああと開いた唇からとめどない嘆きを零す琴乃の絶望が、早朝の離れに響き渡る。隣では蒼い顔をした瑞樹が、母の背中を懸命に抱きしめる。まるで彼女の魂が飛んで行かぬよう、きつく引き留めているようだった。

 透は琴乃を瑞樹に預けるように手を離して、ふらふらと室内へ入った。

「深見……」

 血で汚れるのも厭わず向かい合って胸倉を握りしめると、透はそのまま首のない身体を掻き抱いて深く俯き、肩を震わせた。

 辺りを重い沈黙が支配する。ただ琴乃の嘆きと、透のすすり泣く声だけがしんと冷えた廊下をくゆらせた。

「鍵が見当たりませんね」

 一通り廊下と玄関、和室を確認してきた冷泉が、血濡れの洋間へ足を踏み入れた。

 背後に気配を感じ取った透が、ゆらりと顔を上げる。振り向きざまに、隈の色濃い目が冷泉の姿をとらえた。

「冷泉くん」

 焦点の合わない目が何かを訴えていた。彼はもう飽和寸前だ。冷泉は目の前で膝立ちに佇む青年の姿に、ほんの一グラムの負荷で脆く崩れる砂の城のような危うい雰囲気を感じた。

「しっかりしてください、透さん」冷泉は膝を折り、透の顔を覗き込んだ。

「犯人は魔法でも使ったのかな」

「突然何を言い出すんですか」

「父が殺された木工室も、完全な密室だったんだ」

 さて、どうしたものかと、冷泉は背後の瑞樹を振り返った。相変わらず蹲って泣きじゃくる母親の背中を、沈痛な面持ちで抱いた瑞樹と目が合った。

 各々、精神が限界だった。

この村全体が、狂気と絶望に呑み込まれようとしている。

「ああ……龍川先生を呼ばなければならないね。それから、深見を寝かせてあげなきゃ」

 透は突然ふらふらと立ち上がったかと思うと、うわごとのように呟き、悲しそうに笑った。

「大丈夫ですか、透さん」

 冷泉がその腕をつかんで引き留めると、力なくこくりと頭が振れる。

 廊下の小窓を通して仰ぎ見た空は、黒雲がどんより重く垂れさがってきていた。またひと雨くるのかもしれない。

 玄関に視線を戻せば、頼りない足取りをした透が靴をひっかけ外へ出るところだった。砕けた硝子と地面が擦れて、耳障りな音を立てる。一瞬迷うように首を動かした冷泉だったが、瑞樹にその場を頼み、慌てて透の後を追いかけた。



 三



 鶏の哭き声が、晩夏の空を細く切り裂く。

 空は低く垂れ下がり、雨粒が落ちてくるのも時間の問題に思われた。

 龍川医師と小夜を連れて白峰邸へと引き返し、透はその足で朱野邸へと一度戻った。バラバラに散らばって過ごすほうが危ないので、屋敷で待つ武藤霧子と絹代を連れて全員で『白虎の館』に固まろうという話になったためである。

 透が朱野邸に戻ると、屋敷は暗くしんと静まり返っていた。まるで、何年も人の住んでいない屋敷のように、建物全体が沈黙していた。

 薄暗闇の中からいまにも殺人鬼が飛び出してきそうで、透は息を殺して廊下を歩いた。

「絹代さん、絹代さん」

 声を殺して、こつこつと扉を叩く。主のいなくなった部屋に女性が二人身を寄せ合い、進まぬ時間をやり過ごしているのだろう。そう思うと心が痛む。一刻も早く連れて逃げ出したかった。

 なかなか返事がないことに恐怖を覚えた透は慌てて二階へと駆けあがり、東側にある客室の扉を忙しなく叩いた。静の部屋とコレクションルームに挟まれたこの部屋は、武藤霧子が使用しているものだった。

「霧子さん、霧子さんいらっしゃいますか?」

 声を張ると乾ききった喉が割れて、透は小さくむせた。喉も胸もからからに渇いてうまく声が出せない。けれども黙ってしまうと途端に訪れる沈黙が怖かった。体中のあらゆる皮膚の上を無数の毛虫が這いまわるようで、肌が粟立って仕方がない。自分だけを残して世界から人間が消えてしまったような錯覚を覚えて、頭がおかしくなりそうだ。透はともすればその場で叫び出しそうになるのを、胸を拳で叩いて堪え、扉に縋りつく。

 そうしたところで、かちりと慎重に鍵が開く音がして、扉が薄く開かれた。十センチほど開いた扉の隙間から、無表情でじっとりと上目遣いをした武藤霧子と目が合った。

 ほっとして眉を下げた透だったが、すぐに自身に短剣の切っ先が向けられているのに気付き、ギョッと瞠目して二、三歩後ずさる。

「霧子さん……?」

 冷汗が流れ落ち、動揺から頬の筋肉が引き攣って変な笑いが漏れ出た。

 武藤霧子は一体どうしたというのだろうか。まさか、この惨劇は全て武藤霧子が……? 透はぼやけた脳みそを掻きむしる。確かに、目が不自由であることを除けば、武藤霧子には犯行に及ぶだけの時間があった。

透はしなしなと力が抜けたように後ずさり続け、ついに壁へと背中を打ち付けて寄りかかった。

「透さん?」

 唐突に名前を呼ばれ、透の喉がごくりと上下する。

「透さんなのね。突然刃をつきつけるような真似をしてごめんなさい。けれど、許してちょうだいね。誰がやってきたかわからなかったから。自分の身は自分で守らなきゃ」

 どうやら、誰が訪問してきたのか確かめる術を持たななかった武藤霧子は、自衛のために武装していただけらしい。透は気が抜けたようにそのまま床へと座り込んだ。

「いえ……無事でなによりです。ところで、絹代さんはどうしたのです?」

「それがね。あの後お屋敷へ戻ったのだけれど、誰も信用できない、協力もしないと仰って、当面の食料と水を手に、お部屋へ籠って鍵を閉めてしまわれたのよ。外から何度呼ぼうと返事もなく。困り果ててこのお部屋に戻りました」

「そうだったのですね」

 絹代の籠城については、透もつい先ほど目の当たりにしたところだったので、想像に容易かった。

「霧子さん、落ち着いて聞いてくださいね。白峰邸で深見が遺体で発見されました」

 それを聞くなり、武藤霧子は口に手を当てて「まあ」と驚きを示した。

「ええ、ですから、少人数でいると危険なので白峰邸に集まることになったんです。僕はそれを伝えにきたのですが……残念ながら、絹代さんは出てきてくれませんでした」

 透は眉を下げて困惑を示す。

「絹代さんはどうするのです? 置いて行くのですか」

 武藤霧子の問いに、透はうーん、としばし考え込んだ。

「そうですね、そうする他ないでしょうかね。僕たちだけで、白峰邸へ移りましょう。この後も彼女の籠城が解けないようならば、全員でこちらの家に移動していただくしかないですかね……」

「ええ、他にどうしようもないわ。そうしましょう。彼女もご自身の判断で籠城したのですもの。自己責任です」

 武藤霧子は冷たく言い放った。

 そうして、武藤霧子と透は降りしきる雨の中を、二人寄り添うようにして白峰邸へと急いだのだった。





通ると武藤霧子が白峰家の離れに着くと、ちょうど遺体の検分が終わったところだったらしく、廊下の向こうから手を拭いながら戻ってくる龍川医師と鉢合わせになった。

上がり框から廊下に上がったところで、洋間の向こうのふすまが開き、音に気付いたらしい琴乃が和室から顔を出した。血色が悪く寝間着のままであり、一目して休んでいただろうことが窺えた。

そうしたところで、死体発見現場となった洋間から冷泉が出てきた。

「ずいぶんと雨が酷かったようですね」

 彼の言葉通り、外は傘をさしていても足元が濡れるほどの雨風に見舞われていた。

「ちょうど雨に降られてしまって。すみませんが、タオルを貸してはいただけませんか」透は琴乃に願い出、最後は瑞樹に視線を移した。案の定、瑞樹が離れの奥へ駆けて行った。

 透は瑞樹から受け取ったタオルのうち一枚を背後の武藤霧子に手渡して、自らも濡れた身体を拭い始めた。

「絹代さんは部屋に籠ったまま出てきてくれませんでした。このまま絹代さんが呼びかけに応じないようでしたら、申し訳ないですがこちらではなく『朱雀の館』で一晩を過ごしていただくことになるかもしれません」

 しゅんと肩を落とした透に、龍川医師は胸の前で手を振った。

「いえいえ、絹代さんのことがなくても、その、源一郎さんのご遺体を確認せねばなりますまい。一度全員で『朱雀の館』へ移動しましょう」

「すみません、よろしくお願いします」透は深々と一礼した。「……ところで、離れの鍵は見つかったのですか?」

「深見さんの胸ポケットから出てきたそうです」と、龍川に代わって冷泉が答えた。「それから離れの窓、雨戸共に全部見てまわりましたが、しっかりと鍵がおりていました。クレセント錠の摘まみにも傷一つありません。洋間の鍵は開いたままでしたが、玄関の鍵がしまっていたため、この離れそのものが巨大な密室だったと言えますね」

透はエッ、と顔を強張らせた。「窓まで閉まっていたなんて……本当に犯人は煙か何かなのか」額に手を当て、廊下の龍川医師へと向き直った。「先生……深見はいつ頃殺されたのでしょうか」

「死亡推定時刻は今から六時間前後。夜中の二時から四時頃ですな。切断面の出血の具合から、殺害された後に首を切り取られたものとみて間違いないと思われます」

透は目を閉じて頭を振り、「そうでしたか……」と呻くように言った。それから、気丈に顔を起こした。「龍川先生、こんなときに相応しい言葉が見つかりませんが、検分お疲れ様でした」

 彼は頭を下げると、ベッドに寝かされた遺体へとゆっくり歩み寄り、傍らに膝をついて優しく撫ぜた。関節まで硬直がまわってきているようで、その異様な感触をもって透は、改めて彼がもうこの世のものでないことを無情にも突きつけられる。

「早く運び出してやりましょう。これ以上遺体が傷んでしまってはかわいそうだ」

 首のない深見陽介の亡骸は、降りしきる雨のなかすっぽりと毛布に包まれ、若い男三人の手で運び出された。その行列においては、誰も一言も発することなく実にしめやかな行軍となった。



 五



 大雨の中、白い虎の像は赤い涙を流していた。

 誰からともなく、踏み出す足が止まる。

 白虎像は根元からもぎ取られ、代わりに首のない玄武像が転がっていた。

「どういうことだこれは……」透が呻きを漏らした。

 冷泉は一人、胸の内で納得していた。これは深見陽介と武藤霧子の隠し子の“陽介”が同一人物であることを指している。しかし、そのことを皆に伝えるべきか、どのようにして伝えるかは判断に悩むところだった。

「白虎の像が……」

 小夜が琴乃の肩に縋りついて肩を震わせた。大事にしていたペットが傷つけられたような衝撃を受けているようだった。一方の琴乃は顔を背けて、視界に入らないようにしていた。

瑞樹はそれらを順に見遣り、手元へ視線を落とした。毛布は濡れて張りをなくし、首を失った故人の凹凸がくっきり浮かび上がるようになっていた。

「……行きましょう」





 藤川絹代が閉じこもっている玄関横の寝室は隙間なくカーテンが閉ざされていて、外からでも中の様子を確認することができない。一行は裏手に回り、深見の亡骸を抱えた男性陣は、西側の入口から地下階段へと降りていった。そこで女性陣と龍川医師は、男性陣に別れを告げて居間へ入った。小夜の介添えを受けて、白峰琴乃はソファに横になった。硝子を踏んだ足は、今は綺麗にガーゼがあてられていた。

 それらを横目に龍川と武藤霧子は居間を突っ切ってもう一度絹代のいる寝室の扉を叩いてみた。しかし、依然返事はないままだった。

「絹代さんはかたくななようですな」

「食料と水を持って籠ったようなので、本当に救助がくるまで出てこないつもりかもしれませんわ」

 二人がやれやれと居間へ戻って来たところで、地下から昇って来た透とちょうど鉢合わせた。

透は、両手に軍手をはめながらため息をついた。「これだけ頑強に籠城していれば、安全は安全なのでしょうけれどね」

「乱暴なことをぶつぶつ仰っていたので、心配ではあるのですけれどね。『こんな辺鄙な村来るんじゃなかった。金をもらっても願い下げだわ』だなんだって。でも、出ていらっしゃらないのだから、こちらもどうしようもありませんわ」

 その言動によほど思うところがあったのだろう、武藤霧子が珍しく毒のある物言いをするのを受け、透は複雑な面持ちで眉を曇らせた。

それから彼は、冷凍庫からいくつもの氷の塊を台車に乗せて居間を出ていった。これまでも人知れず、こうして地下の即席霊安室に氷を絶やさないようにしていたのであろう。源一郎や絹代がその作業を手伝っていたとは到底思えなかった。水谷亡き後も、黙々と一人で薄暗い地下室に氷を運びつづけていただろう透の姿を想像して、龍川はなんともやるせない気分になった。

地下から若い男衆が戻るのを待って、龍川は木工室にあるという源一郎の遺体の検分に出かけることにした。





屋敷にはすっかり傷心してしまった琴乃と、小夜、武藤霧子と瑞樹が残り、龍川、冷泉、透が木工室へと向かうはこびとなった。屋敷裏手の扉を開けると、早速雨風が廊下へ吹き込み、慌てた三人は示し合わせたように傘を開く。白い雨粒が地面を粟立だせ、ともすればたびたび吹き付ける突風に傘が持って行かれそうになった。

西の裏口から屋敷の裏手に向かいまっすぐ進むと、左手に土蔵が見えてくる。しかし、その扉は開けっ放しになっていて、風に煽られぷらぷら揺れていた。透と龍川が不審そうに顔を見合わせた。

「今朝は鍵なんて開ける暇なかったのに」透の声が自然と震える。

 朱野家の納屋や土蔵は毎朝水谷の手により開錠され、毎晩水谷と透の手により施錠されているとの話だった。毎朝鍵を開けていた水谷ももうおらず、透とて今朝の騒ぎでそれどころではなかったはずだった。

「昨日締め忘れたとかは?」冷泉は速足で土蔵に向かった。

「いや……確かに閉めたと思ったのだけれど……」透が後に続く。

雨風に踊る扉に手を掛けた冷泉だったが、中を覗いた瞬間に短くうめき声をあげて動きを止めた。続いた透が「ああ……あああ」と声を漏らして後ずさる。

異変を察した龍川も恐る恐る近寄り、同じく中を覗き込んだ。

「ひいいい!」龍川は傘を取り落として尻もちをついた。手から離れた傘が、風に煽られ宙を舞う。

それは、血も凍るような不気味な光景だった。

首を括られ、天井の梁から吊るされた和服姿の藤川絹代は、降り注ぐ雨粒を全身に受けて濡れそぼっていた。その両手両足は縄できつく自由を奪われ、今際にもがくことすらかなわなかっただろう。その苦しみと無念を死してなお訴えるように、その身体はぎしぎしと軋みを挙げながら、小さく揺れていた。……

「ま、まだ生きているかもしれん!」

 龍川がその身体を抱えるのに、残る二人も引き攣った顔で応じた。

「どうして……いつ……」透が呻いた。

「部屋に籠っていたのではなかったのか?!」冷泉は訳が分からないと訴えるように語気強く宙に問いかける。

「……駄目か。もう生き返りはせん」龍川が首を左右に振って吐き捨てた。

 透が腰を抜かすように、その場にへたり込んだ。

「けれど、まだ死んでからほとんど経っておらん。十分そこらだろう」龍川が、寝せた遺体の皮膚や顎を確認しながら唸った。

「では、僕らが屋敷に来た頃に?」透が蒼い顔を持ち上げ、不安定な声をあげる。

龍川医師は沈痛に俯いた。「そうとしか考えられませんな」

 冷泉も透も、混乱を抑えきれない様子だった。

「え……それじゃあ、自殺したというのか」

驚愕に顔を歪めた透に、「それはあり得ません」と、冷泉が蔵を見回した。「踏み台になり得そうなものが見当たらない。確かに第三者の手によって吊るされたものに違いありません」

「それに、絹代さんは喉を潰されとるよ。静さん同様に」龍川も遺体の喉元に触れながら静かに言い放つ。「自殺とは考えにくいでしょうな」

 透はそんな二人の言い分を順に目で追ってから、愕然と言った。

「確かに僕らはずっと一緒にいた。全員で深見の遺体を運んだんだ。なのに、その間にこうして絹代さんは殺され、吊るされている。……まさか僕ら以外の人物が隠れているというのか」その声は震え、表情は恐怖に歪んでいた。

冷泉は少し考え込んでから眉間に皺を寄せた。切羽詰まったような表情に見えた。「ちょっと信じられないですけれど、そうとしか考えられませんね。少なくとも、集まって深見さんの遺体を運搬した面々以外に、絹代さんを殺した実行犯がいるのでしょう」

 冷泉が断言するのを受けて、まるで何かが臨界点を超えて溢れたように、突然透は打ち明け始めた。

「冷泉くん、僕はね、絹代さんが犯人じゃないかと疑っていたんだよ。みんなのアリバイを並べて見るに、そうとしか考えられなかったから。外部犯はあり得ない。絶対に村のことをよく知る人間の仕業だという確証があった。僕が山で襲われたときもそうだが、水谷さんが殺されたときだって、霧子さんの通院の習慣を知る人間がその隙をついたようにしか見えなかったから」

「僕もそうですよ。後半部分は全くの同感です。しかし透さん、村に詳しい人間で、なおかつあの場にいなかった人間だったら、まだいるじゃないですか」

 冷泉の助言に、透は恐る恐る喉を震わせた。

「……姿が見えない弟か、白峰秀一さんが犯人だと考えているのか?」

「結論から言えば、その二人に関しては、なくはないという程度です」冷泉は、躊躇いなく言い切った。「まず弟さんに関しては、犯人だと仮定した場合にいくつか無理が生じます。少なくとも透さん襲撃に関しては、弟さんの単独犯を否定できますね。地下牢の外へ出たことがない彼が、この村の複雑な山道を、迷いなく逃げ切るには少し無理があるからです。しかし、水谷さんの日誌により、彼が一度脱走をしたという話が判明しました。このことで、零に近かった可能性が一に跳ね上がりました。ですが、犯人は明らかに武藤さんの通院事情を知っていたということが判明したため、やはり弟さんの単独犯はないと思っています。誰か通院事情を弟さんに伝えた人物がいなければ、弟さん一人では情報を得ようがないですからね」

 暗い顔でふんふん、と小刻みに首を振って聞いていた透が視線を上げた。

「複数犯の可能性を考えれば、遺体を運んだ面々も絹代さんを殺害した実行犯から外れるというだけで、完全なシロではなくなるわけだね」

「そうなりますね。そして白峰秀一さんが犯人である場合、僕たちの頼みの綱である“明日出張から帰って来てトンネルの崩落に気付いた秀一さんが救助を呼んでくれる”という期待が潰えます」冷泉は目を細めた。

 透が髪についた水滴を振り払うように頭を左右に振った。

「それはご免こうむりたいな。これ以上この村に閉じ込められるだなんて、頭がどうにかなりそうだ。そもそも秀一さんを犯人だと仮定した場合、動機が不明すぎるよ。無差別に人を殺して楽しんでいるとしか思えない」

「それも同感です。ですが透さん。この場におらず、動機があり、かつ村に詳しい人物――弟さんと秀一さん以外に、もう一人いるじゃないですか」

 その瞬間、透の顔からスッと温度が消えた。

「……僕を試しているのか?」

「申し訳ありません。そう見えたのなら謝ります」冷泉は殊勝に頭を下げた。「そうではないのですよ。ただ、告発するにはあまりにも謎が解けていなさすぎるので、断言するのが憚られただけです。ならば初めから触れなければいい話ですよね」冷泉は視線を上げて、透の表情を見た。

 透は斜め下の宙を睨んでいた。

「透さんもうすうす勘づいているのではないでしょうか。ただ、認めたくないだけで……」

 透は半ば閉じた目で、もの言いたげに冷泉を見据えた。唇は閉じたままだった。

「絹代さんの検分は終わりましたよ」龍川が顔を上げた。「まったく……こんなこと、いつまで続くのでしょうな」

 龍川が立ち上がったのを確認して、冷泉は言った。

「秀一さん犯人説が残る以上、明日の救出も確実とは言えなくなってきました。密室やアリバイの謎を解いて犯人を拘束し、事件が終わらせる。これくらいしか我々にできそうなことはないですね」

「源一郎さんの遺体発見現場へ急ぎましょう……」龍川が重い溜息をついた。

 土蔵から外を見上げる。鼻髭に細かな水滴がついた。



 六



 土蔵を出て、屋敷の裏手に回ってすぐのところには鶏小屋がある。そこから更に奥へ進んだところ、ちょうど屋敷の真裏に位置するのが、今回事件現場となった木工室だった。裏手はもう山になっている。台座だけになってしまった玄武像の残骸が、こちらを恨めしそうに見つめているようだった。

木工室の扉は無残に打ち砕かれ、穴の開いた左側の戸がきぃきぃと雨風に吹かれて揺れていた。右側の戸は中途半端に開いたところで固定棒が下りている。少々雨水を受けていたものの、その内側にある血文字は、透の証言通り“次は虎”と読めた。

 冷泉は雨に濡れた眼鏡のレンズを、持参した眼鏡拭きで丁寧に拭ってからかけなおす。そして小さく息を吐き中へ踏み入った。隣で龍川医師が「なんと惨い」と嘆きを零した。

 朱野源一郎の頭蓋骨は、彼のコレクションのうちの一つ、頭蓋骨粉砕機のレプリカによって無残にも拉げていた。

「父は頭を潰されて死んだのでしょうか」

 透が震える声で龍川を仰ぐ。どうやら直視することはかなわないらしく、木工室の扉の影に隠れたまま、一向に傘をたたむ気配がない。

「いや、直接の死因は、切断された手首からの失血死ですな」

「では、源一郎氏は頭を潰された状態でしばらく生きていたと?」

 目を剥く冷泉に、龍川は渋い顔で首肯する。その拍子に汗が一粒零れた。

「この拷問器具の可動範囲では、頭蓋を潰すことは難しいでしょう。できることと言えば、せいぜい顎の骨を折る程度のものです。よって元来この器具の目的は、拷問対象を直接死に至らしめるものではなく、頭を潰される恐怖をもって自白を促したり、虐げたりといったところだったと思われます」

 なんと、その見た目だけにとどまらず、仕打ちそのものも大概惨いものだった。頭蓋骨を潰された源一郎は、激しい痛みと死の恐怖の中、手首の先から自らの血液が零れゆく音を聞きながら絶命したというのだ。ぽたりぽたりと血の滴る音を、絶命のカウントダウンとして。……

 部屋の中を見渡すと、向かって右に作業台が一つ、しかしこれはL字金具で足が床に固定されていた。木材を切断する際に動かないようにであろう。がっちりと固定されて動く気配がない。その上には、木製の背もたれのない丸椅子が一つ、逆さに乗っていた。

「確かに密室ですね」

 通気口を見上げて冷泉が呟く。くるりと振り返って逆側から部屋を見回すが、出口になりそうなものは何一つ見当たらなかった。

 そのまままっすぐ歩いて、唯一の出入り口である扉へ近寄ると、閂へと手を伸ばした。一本の横木を、左右の扉にそれぞれある閂鎹へと通して開かないようにする、よくある型のものだった。

「中での作業を風や雨で邪魔されたくないときに、父は閂を使って扉を固定していたんだ」扉の外で壁に寄りかかっていた透が、声を絞り出すように説明した。

その話によれば、扉の錠は外からしか閉めることができないため、内鍵を後付けで作ったということだった。彼の説明を聞きながら冷泉はひとしきり鍵を弄ってみたが、どう転んでも内側からしか開閉することができなさそうである。

「この閂が中から閉められていたというのですね」

 冷泉の問いに、透はこくりと顎を引いた。

「まず、外鍵は絹代さんが持っていたものを僕が受け取って開けた。把手を引いても開かないから、中に父がいるのかと思って声を掛けたよ。けれども声が返ってこないものだから、納屋まで斧を取りに走ったんだ。納屋の鍵は開けたままにしていたから、そこから斧を取ってきて扉に打ち付けて穴を開けた。穴から手を差し込んで、手探りで閂の横木を滑らせて扉を開けると……」そこで透は顔を顰めて黙り込んでしまった。

「なるほど。扉が開かないのを確認したのは、透さんおひとりですか?」

「いや、僕が斧を取って戻ってきたときに、絹代さんが扉をがちゃがちゃしていたよ。霧子さんも隣にいたから、裏は取れると思う」

「そうですか」冷泉は小さく唸った。「扉の隙間を使って糸を通すと言っても、釣り糸や針金なんかでこの重い横木を滑らせるのは不可能ですね」横木には、糸をひっかけるような出っ張りやつまみがなかった。

「糸を通した穴もないね」蒼い顔の透が張りのない声で言った。彼はなおも戸口に身体を預けている。密室の謎に興味はあるものの、とにかく室内の惨状を視界に入れたくないようすだった。

「となると、残るのはあの通気口か」冷泉は振り返って、四メートル頭上にある鉄の長方形を見上げた。「外からあの通気口を見てみましょう。透さん、脚立はありませんか」

「あの高さの脚立はないな……あ、農具倉庫にだったら、大きな脚立があったな。あれならば、ひょっとしたら届くかもしれない」

「農具倉庫があるのですか?」

「ああ。村の中心に畑があって、その傍に共用の倉庫があるんだよ」



 七



 二人が脚立を担いで戻る頃には、雨もだいぶ小降りになっていた。

 木工室の裏手にまわり、透が下で見守る中、冷泉は脚立に足をかけた。脚立は十二尺のもので、上までのぼって跨ると、身長百七十八センチの冷泉は通気口まで楽に手が届いた。かなりの高さであるため相当怖い思いはするが、おそらく村で最も身長が低いであろう百五十センチ程度の小夜であっても、手を伸ばせば届くだろう。

 通気口は、縦四十センチ、高さ七十センチほどの長方形の鉄格子型をしていた。等間隔に鉄の棒が五本刺さっている。だいぶ古いもののようだったが、近ごろ掃除をしたのか蜘蛛の巣や埃もなく綺麗にしていた。そのうち一本を握ってみる。すると驚いたことに、握って捻ると格子が外れた。同じように残る四本も外してみると、鉄格子の通気口が小窓に早変わりする。

 室内で遺体の検分をする龍川医師と目が合うと、医師は目を丸くした。

「冷泉くん。どうやってそんな高いところに」

「脚立を使いました。この鉄格子、外れるようになっていたんです」

 言って冷泉は中を覗き込む。あまりの高さにゾッと体毛が逆立った。ちょっと派手なくしゃみでもすれば、身体は通気口をすり抜け、地面に向かって頭から真っ逆さまであろう。

なるほど、小窓に様変わりした通気口であれば、人一人通り抜けることはできただろう。だが、いかんせん部屋の中から通気口まで昇る手段がない。脚立を中へ持ち込んだところで、人は小窓を通れても全長三メートル半をゆうに超える脚立が通るわけがなかった。

「どうしたものか……」冷泉は頭を掻きながら、地面へ降りた。

下で脚立を支えてくれていた透が傘を差しかけてくれる。「収穫はあった?」

「格子が外れることがわかりました」

「格子が?」

「ええ。ご存知なかったのですか?」

「恥ずかしい話だけど……」

「水谷さんもご存知なかったのでしょうか?」

「さあ、どうだろう」透は首を傾げた。

「握って捻れば、簡単に外すことができます。蜘蛛の巣や埃がなかったことから、水谷さんが最近掃除をしたか、犯人がこの通気口を使って出入りしたかであることがわかります。……後者の場合、犯人は部屋の内側からどのようにして四メートル以上あるあの高さまで昇ることができたのか、皆目見当がつきませんがね」

 脚立を元に戻して木工室の正面へ戻ったところ、ちょうど龍川医師が、検分を終えて外へ出てきた。そのころにはもうすっかり雨が上がり、白い雲の隙間からは時折日の光が顔を出していた。

「源一郎さんの死亡推定時刻は今から七、八時間前といったところだから……ええと」

「およそ夜中の三時頃、深見と同じくらいですね」透が腕時計を見て言った。「どちらが先に殺されたかというのは?」

「さあ、そこまでは。法医学専門の医師が詳しく解剖すればわかるのかもしれませんが、私が外から見てわかる範囲では、ちょっと」

 龍川が口を閉ざしたと同時に小さな沈黙が落ちた。

やがて、何かを思いついたらしい冷泉が視線を上げた。「ところで屋敷のマスターキーは今どこに?」

透がえっと、と黒目を上に向けた。「絹代さんに預けたきりだな。木工室で“次は虎”の血文字を見て白峰邸に急ぐ前に、その場に預けて出たんだ。だから犯人が持ち去っていなければ、二本とも父と絹代さんの部屋にあるんじゃないかな」

 二人のやり取りを聞いていた龍川医師は、なにやらポロシャツの内ポケットを探り始めた。鍵束が二組出てきた。

「鍵束でしたら二つとも、絹代さんの着物の袖から出てきましたよ」

「あ、それです」透が受け取り、その本数を数え始めた。「数も合っています。なくなったものはなさそうですね」



 八



 二人の遺体を地下へと運び込み、三人は居間へと戻った。大時計の針はちょうど十一時を指していた。食欲がある者はだれ一人としていなかったが、全員そろったところで遅い朝食となった。消耗の激しそうな琴乃と透に関して、ベッドで休ませてはどうかとの提案が瑞樹から出たが、極力行動を別にしない方がいいということで、基本的には居間で過ごす取り決めになった。

 そのため、生き残った七人全員が、小学校の教室ほどの空間にひとかたまりになって、進まぬ時間をやり過ごしているのである。

 冷泉の手元には、現在二冊の冊子があった。うち一冊は深見が遺した手帳であり、もう一冊は水谷の部屋から拝借した『執事記録〈三〉』である。

 これをもとに、冷泉はこれまでの事件を整理してみることにした。

 一つ目の事件、電話機爆破については、各家ともに施錠の習慣がないため、忍び込む機会は全員にあったものとする。また、トンネル爆破については、直接着火したものか遠隔か等一切不明である。最後にトンネルの無事を確認したのは、透と深見が通過した八月十八日の十四時頃のことである。

 二つ目の事件、静殺害については、密室トリックの謎が残っている。アリバイがないのは透、琴乃、瑞樹、深見、冷泉、武藤、龍川、小夜、水谷の九名である。

 三つ目の事件、透襲撃については、犯人が逃走経路に明るかったことから、村の地理に詳しいものの犯行かと思われる。アリバイがないのは殺害された源一郎、絹代の二名である。

 四つ目の事件、穢失踪については、透が食事を運んだ十九時から翌朝四時の間に行われたものである。この間、全員が二十分以上一人になった時間が一回以上あるため、全員に犯行の機会があったものと考えられる。

 五つ目の事件、水谷殺害については、足跡トリックおよび密室トリックの謎が残っている。アリバイがないのは源一郎、絹代、深見、瑞樹、小夜の五名である。

 六つ目の事件、源一郎殺害については、密室トリックの謎が残っている。全員アリバイはなし。

 七つ目の事件、深見殺害については、密室トリックの謎が残っている。全員アリバイはなし。

 八つ目の事件、絹代殺害については全員にアリバイがある。

なお、すべての事件において、アリバイがない者の中に穢、秀一が加わる。

また、源一郎殺害と深見殺害の前後は不明であるが、便宜上、発見された順に源一郎、深見の順で番号を振ったものである。

 ここまでを書き出したところで、冷泉は背もたれに上体を預けて小さく息をついた。

 盆に麦茶をのせた瑞樹が、静かに隣の椅子に腰を下ろした。そのうち一つを無言のまま冷泉の前にすすめてくれる。

 遅れて、同じく麦茶の入ったグラスを片手にした透が前の席についた。冷泉の視線がメモから離れたのを確認して、彼は声を差し込んでくる。「何か進展はあった?」

「このうち二つ目、静さん殺害時の密室の絡繰りについては、検討がついています」

「へえ、すごいじゃないか」目を丸くした透が、身を乗り出すように椅子を寄せた。

「透さん、一つ確認したいことがあるんです。以前深見さんと話をした際に、彼は透さんから村を案内してもらったということを言っていたのですが、畑にも行きましたか?」

 唐突な冷泉の質問に、透は「んん」と記憶を弄るように斜め上を見つめた。「ああ、到着したすぐ、通りかかったときに軽く説明はしたかな。案内といえる程しっかりしたものではないけれど、村の簡単な配置と、目に入って来たものに関しての簡単な説明はしたよ。深見の言うところの案内にあたることと言えば、それしか思いつかないな」

 透の返事を受けて、冷泉はじっとメモを眺めて考え込んだ。

やがて、「なるほど、そうですか」唇をきゅっと引き結んで頷いた。「ちょっと確認したいことがあります。少し『玄武の館』へ行ってきます」



 九



『玄武の館』に着くや否や、冷泉は胴体発見現場の地面に何やら足跡をつけ始めた。そのさまを、透と瑞樹が不思議そうに見守っている。

 しばらく前から再び雨が降り始めており、地面は薄い水の膜で覆われていた。

「これは?」透が尋ねる。

視線の先の冷泉は、今度はつけた足跡を箒で消し始めた。

「ええ、これはこのままにして、また後で来ましょう」

 てんで返事になっていなかったが、透はそれ以上追及するのを諦めたようで、黙って冷泉の後についていった。

「ここは、発想の逆転ですよね」十センチ少々しか開かない窓を、何度か確認して冷泉が呟いた。

部屋は、遺体発見当時のままである。しかし当時は深紅の鮮血が飛び散っていた空間も、今では赤黒い文様で汚れた空間へ様変わりしていた。

 初めて遺体発見現場を目にした瑞樹は、始終居心地が悪そうにそわそわしていたが、特に不平を零すこともなく黙って冷泉に付き従っていた。冷泉も、特に気に留めるふうもなくマイペースを貫いていることから、普段の関係性が垣間見えるようだった。

また、冷泉の動線は無駄がなく、どうやら端から確認事項と箇所に目星をつけてきたらしいことが窺えた。

「大丈夫? 外に出とく?」

 あまりに声を発しない瑞樹を心配して透が声を掛けると、瑞樹は小さく首を横に振り、「邪魔したくないんです」と、黒目がちの瞳を遠くの背中に向けた。「それに、彼に丸投げはしたくない。僕も立ち会う義務があると思いますから」

「そっか」

 この事件の究明に関しては、冷泉が自発的にやっていることだと解釈することもできる。もっと意地悪な受け取り方をすれば、好奇心から事件に首を突っ込んでいるともとれるだろう。そしてその場合、瑞樹が無理をして付き合う義務はないのだ。それをそうとは取らない辺りに、二人の関係性と、瑞樹の性格が出ているなあ、などと透が内心呟いていたところ、その心の声を透視したように瑞樹がぽつりと唇を動かした。

「冷泉が、興味本位で事件を混ぜっ返すような人じゃないのは僕も知っていますから。自分以外に適任者がいる状況では、彼は動かないんです。議長やまとめ役なんかも、他に立候補者が誰もいなくて、誰かがやらないと話が進まないという状況や、他者からの推薦がないとやりません。今回だって、陽介くんがあんなことになったから……」瑞樹は悲しそうに透に視線を移した。「事件についてびっしりと書き込まれた陽介くんの手帳を見て、冷泉も思うところがあったのでしょうね。果たしておとなしく警察を待っているだけでいいのだろうか。このままだと全員殺されかねない。そうならないためには、誰かが犯人を止めないといけないから」そして再び、瑞樹は彼方の背中へと視線を戻して黙り込んだ。

 村に関係のない冷泉を巻き込んだという罪悪感もあるだろう。それについては、なにより透が感じていることだった。巻き込まれたどころか、命まで奪われてしまった友人のことを思うと、今でも頭がおかしくなりそうだ。透が巻き込んだわけではないことは重々理解しているつもりでも、あの怪文書が自身の名義で送られていたというだけで、途轍もない罪悪感がのしかかってくるのである。その罪責心から、深見の遺体が発見されてからこちら、透は大事な弟を喪った琴乃の顔を直視することができないでいた。

 やがて、冷泉はすっきりとした顔で廊下に出てきた。

「透さん、しつこいようですが、確認させてください。武藤邸はいつもよく使われる玄関や居間、婦人の私室等の鍵は開けっぱなしにされていた。そして、客間などの空き部屋や納戸等のあまり開閉されない扉の鍵は閉めてられていた。間違いないですね?」

「ああ、僕の知る限りではそうだよ。事件当日も同じだったと霧子さんは言っていたし、玄関の鍵が開いていたことについては、実際に僕もこの目で確認している」

「そういうことならば、密室の説明はつきますね」そう言うと、冷泉はパッと雨粒を散らして傘を開くと、再び裏手の胴体発見現場へと向かった。「思った通りだ。足跡が綺麗に消えている」

 慌てて二人が追いかけると、冷泉はしゃがんで地面をまじまじと眺めていた。彼が言うように、先ほど足跡をつけて箒で消した痕がきれいさっぱりなくなっている。全ての名残を降りしきる雨粒が消してくれたらしかった。

「じゃあ」透が不安げに視線を持ち上げた。

冷泉は晴々と頷きを返した。「ええ。これで二十分も雨に晒されれば痕跡が消えるということがわかりました。犯行時刻が九時四十分から十一時四十分の間まで広がりましたよ」

 その言葉を受けて、透の顔が曇った。

『弟さんと秀一さん以外に、もう一人いるじゃないですか』

脳内に言葉が蘇る。冷泉が辿り着こうとするその先を覆う霧がまたひとつ晴れたことで、透の目にもその片鱗が見えてきていた。

「……密室の謎も?」

「ええ、そちらも。発想の逆転だったのです」



 十



 再び朱野邸に戻り、三人で食卓テーブルを囲った。

「僕はこの連続殺人事件について、朱野家への復讐劇だと解釈しています。そこに深見陽介さんの死が挟まっていることが鍵だと思うんですよね」

 冷泉は札を並べるディーラーのような涼しい仕草で、深見の遺した手帳の一頁を指し示した。その伏し目がちの顔に、透と瑞樹の視線が注がれる。

 冷泉の言う通りだった。静、透、穢の順で狙われたときには、標的は朱野家であるという空気がなんとなく漂った。その後朱野家と血の繋がりのない水谷が殺され、無差別殺人の疑いが一度持ち上がりかけたが、その後源一郎、絹代と続けば、これはもう血縁か否かに限らず、朱野家の関係者が狙われているという考えに着地せざるを得ない。ただ、そこに挟まった深見陽介という札だけが、透と瑞樹の二人には絵柄違いのように浮いて見えていた。

 一方で冷泉の目は『執事記録〈二〉』を捉える。そこに記された深見陽介の出生にまつわる真実を想起して、冷泉は一人点と点を線で結んでいた。そこに記された朱野源一郎の隠し子である“陽介”と深見陽介を同一人物であると仮定すれば、それは朱野家と深見陽介とを繋ぐミッシングリンクとなる。そして白虎像が玄武像にすり替えられたことによって、それは仮説から確信へと変わった。

更に、それは犯人像を絞る際に一助を担っているとさえ言えた。なぜならこの一連の殺人を朱野家への復讐劇であると仮定した場合、犯人は隠蔽された深見陽介の事情までをも知る、至極朱野家に詳しい人物に限定されるからだ。

水谷がそのことを克明に記録していたことは、犯人にとっては誤算だったに違いない。無意識のうちに冷泉は抱き込むようにそのハードカバーの冊子を手元に引き寄せていた。しかし、その途中で彼の指は雷にでも打たれたようにぴたりと止まった。

果たして、そうだろうか。

日誌などなくとも、深見陽介と朱野源一郎の遺体が調べられれば、そのDNAから親子関係は白日の下に晒されるだろう。また、深見家を調べられれば、彼が嫡子でなく養子であることも明らかになる。

それでも犯人は一向に構わなかったとなると、やはり――。

「僕はまた狙われるのだろうか」

 突如透の沈痛なため息が降ってきて、冷泉の思考はそこで中断となった。

「その可能性は充分にあります」

 臆面もなく言い放つ冷泉に、透は苦笑を零した。

「言うね、冷泉くん」

「透さん、よかったら前妻の百合子さんと、松右衛門さんが亡くなったときのことについて、詳しく話を聞かせてもらえないでしょうか」

 その言葉に、ソファで脱力していた龍川医師が無言のまま顔を上げた。

 透は、一瞬遠くを見るような表情を挟み、それから穏やかに冷泉を正面から見据えた。「話って何を聞きたいの?」

「そうですね、ではまずその人となりと亡くなった状況について、おおまかに話していただければ」

「百合子さんは、元々は隣の五藤村で看護師をしていて、時折龍川先生のお手伝いでこの村にも来てくれていたらしい」

 冷泉の目がぴくりと伸縮した。

透は気づくことなく話を続けている。「それが縁で父と懇意になり、僕の母が亡くなった翌年に結婚したんだ。僕と弟が一歳の頃だよ。その四年後に静が産まれた。それから静が九つのとき、つまり今から十年前に他界。亡くなる少し前から体調不良を訴えていたんだけど、回復することなく死んでしまった。死因は多臓器不全ってことになっている」

 冷泉には、佐藤百合子と朱野百合子の関連性を調べるほかに、水谷の日誌と透の話との整合性を確かめる目的があったが、無論そのことを透は知らない。それでもここまでに矛盾はなかった。

「透さんから見て、百合子さんはどんな人でしたか?」

「そうだな」透は視線を落とした。「実の子でない僕に対しても、静と区別することなく愛情を注いでくれた。実母の愛を知らずに育った僕だけれど、寂しい思いをすることはなかったよ。彼女が亡くなった時はあんなに健康そうだった人がこんなに突然死んでしまうんだって、衝撃と喪失感がしばらく抜けなかったな」

 そこまでを黙って聞いていた龍川医師が、突然何度か口を開いては閉じを繰り返し始めた。そして、場の視線が自身に向いたのに気づくと、複雑そうな面持ちで口を挟んできた。

「いや……あのですな。その……亡くなった人のうわさ話をするのもどうかと思いますが」しかし龍川はいざ話すという段になって、透を気にするように忙しなく視線を動かした。

透は、「僕のことは気にせず続けてください」と優しく言った。「それよりも、事件の解明が進展するほうが大事なことなので」

老医師は汗の浮いた額を何度か掌で撫でてから、ようやく口髭を持ち上げた。「それがですな……百合子さんと結婚してからの源一郎さんは、それはもう見違えるように生き生きなりました。それまでご自身のコレクションや和服に執心されているのは知っていましたが、興味の矛先が明らかに変わりました。車を新調したり、百合子さんと一緒にゴルフや旅行に行ったりと。実に夫婦生活を満喫されていたのをよく覚えております」

 龍川はまるで過去の主観に没入しているかのような口ぶりで熱っぽく語った。

これには、透も、「へえ、初耳だなあ」と目を丸くした。「父の再婚前後は、僕はまだ小さかったので写真でしか知ることができないですからね。静が産まれるまでの四年間、父と百合子さんがどのように過ごしていたのかなんて、聞いたことはなかったなあ」

 龍川は透に頷いた。「透さんはそうでしょうな。仮にご両親に聞いたところで、客観的な話は返ってこなかったことでしょう。そして、今から話す内容は、あくまで私自身の主観による客観であることを念頭に聞いていただければと思います。亡くなった人をこんなふうに言うのもどうかと思いますが、共に仕事をしていた者としてわかります。源一郎さんと結婚してから、百合子さんは変わってしまわれた」

「変わった、と仰いますと?」

 冷泉が掘り下げると、龍川は言いにくそうに何度か口をもごつかた。

「何と言いますか。百合子さんは元々素朴そうな女性だったのですがね。結婚してからは良くも悪くも、名家の奥方にふさわしい女性になったといいますか……」少し話過ぎたと感じたのか、龍川医師はそれきりばつが悪そうに口を閉ざしてしまった。

 しばし沈黙が訪れる。

冷泉はじっと場を観察し、齎された情報を舌の上で転がしていた。

やがて食卓の上で指を組んだ自らの手を見つめていた透が、思い立ったように視線を持ち上げて静かに言った。「僕の認識と事実との間に、少し齟齬があったのかもしれないな」

「と、仰いますと」冷泉は食いつくように、上目遣いで透を見据えた。

透は黒目を斜め下へ動かして渋い表情を浮かべた。「いや……憶測でものを言うのは気が進まないけれど、どこかに揉め事の種は転がっていたのかもしれない。父はああいう人だったから恨みを買うのはわかるけれど、もしかしたら百合子さんも……」そこで透は濁したが、聞く者にもその先は大方の予想がついた。「まだ十九の静が殺される動機がわからなかったんだけれど、朱野家そのものへの恨みとなると、根深いものがあるのかもしれないね」と、透は目頭をもんだ。

「松右衛門さんについてはどうです?」

 青白い顔に、苦々しい表情を浮かべる透にも容赦することなく、冷泉は事務的な視線で彼を突き刺した。

「祖父は……父と似たような人だったよ。僕よりも、龍川先生の方が人となりについては的確に把握しているかもしれない」

 少なからず、百合子の前例で衝撃を受けたらしい透がそこで龍川に水を向けたが、龍川は困ったように眉を八の字にして首を左右に振った。

「とんでもない。長くこの村を見ている分、必然的に知っていることが多くなるだけです。あとは歳が近いというだけですな」

「そう仰らずに、僕が知らないことを教えてください。祖父は四神伝説にものすごく傾倒していましたよね」

透の問いかけに、龍川はこくこくと、小刻みに顎を引いて首肯した。「ああ、それなら間違いなく。松右衛門さんは、誰よりも村の伝統を大事にする方でしたからな。それこそ、呪いの子伝説や、四神伝説をそれはもう熱心に信じておられました。この地は四神様が立ち寄ってできた土地であり、四神様が四神にまつわる姓を持つ四家を引き寄せたと」

「呪いの子伝説でしたら、透さんと弟さんが産まれた時にも」冷泉が鋭い声を差し込んだ。

龍川は透から冷泉に顔を移して肯き返す。「ええ。一番恐れおののいて、牢に閉じ込めるよう連呼されていたのが松右衛門さんですな」

「百合子さんとの再婚に関しては、松右衛門さんはどのような立場だったのですか?」

「賛成だったことでしょうな。男やもめは対外的に示しがつかぬと口を酸っぱく仰って、まだかすみさんの四十九日が終わったばかりのころからお見合いの話をされていましたから」

「ご自身の価値観に頑なな方だったのですね。でしたら、例えば……あくまで、例えばの話ですよ。浮気などは言語道断だったでしょうか」

 冷泉はちらりと龍川の反応を窺うように上目遣いに確認する。相手の左眉がぴくりと動くのを見逃さなかった。

「……さあ。どうでしょうな」

 途端に歯切れが悪くなった龍川に、「ああ古風な方でしたら、逆に一夫多妻制には抵抗がなかったりするのでしょうかね」すかさず質問を差し込んだ。

しかし、「そこまでは、私にはわかりかねますな」老医師は、びっしょりと浮かんだ額の汗を拭って黙り込んでしまった。

そんな龍川に見切りをつけるように、冷泉は透へと視線を移した。

「松右衛門氏が亡くなったのは、先月のことでしたね」

「ああ」対して透は落ち着いていた。「井戸の中に落ちて亡くなっているのを、朝、納屋と土蔵の鍵を開けに庭に出た水谷さんが見つけたんだ」

「ご遺体はご覧になりましたか?」

 尋ねると、透は唇を引き結んであからさまに顔を歪めた。

「……酷い有様だったのですね」

「僕と水谷さんと父の三人で井戸から引き揚げた。一目で死んでいるのがわかった、とだけ」

そう言って透は口元を覆った。

「龍川先生もご覧になりました?」冷泉は再び龍川医師に視線を向けた。

反射的に老医師は顎を引く。眼鏡がずり落ちた。「警察と解剖医がくるまでのつなぎをしていましたからな」

「何曜日だったかは覚えておいでですか?」

「日曜日の朝ですな」

「深見さんは、部活の顧問はされていましたよね?」冷泉は何の前振りもなく、今度は透に向き直った。

 唐突な冷泉のキラーパスに、透は一瞬ぽかんとした後で小刻みに頷いた。

「あ……ああ、うん、副顧問をしているという話だったよ。なんでも、教育現場において部活の顧問は若手の役割だって風潮があるらしくて。それでも、毎週日曜日と盆正月は休みだったようだけど」

「なるほど結構。ありがとうございます」

 そう言って冷泉は、パタンと手帳を閉じた。

「犯人の目星はつきました」



 十一



 その言葉に、室内の視線が一気に収束した。

「……誰なの?」

 それまでソファで横になっていた琴乃が、険のある表情で勢いよく身体を起こした。

「……話すべきか否か、迷っています」

 珍しく歯切れの悪い冷泉に噛みつくように、琴乃は唇を震わせた。

「いいから。誰なの」

 その血走った目に炙られ、冷泉は複雑そうな面持ちで自身の手元へ視線を移した。そして、意を決したように視線をあげた。

「こんなことを言うと気分を害されるかもしれませんが、信じるために疑うという言葉がありますね。これもその一環で、仮説を立てて潰していく行為だと思ってご容赦ください」

 一同をぐるりと見回して、異論がないのを確認した冷泉は一つ息を吸いこんだ。

「では。あの首のない亡骸は本当に深見さんのものだったんでしょうか」

 突然の問いかけに、室内には音にならない動揺が広がる。

「深見さんじゃなければ誰だというのかしら」武藤霧子が相変わらずの余裕の笑みで尋ねた。「深見さんがいなくなって、それ以外の人はここにいる。それが全てではなくて?」

「ええ、一見数は合いますね」冷泉はその疑問を目顔で受け止めた。「ですが、これまでと違って、深見さんの遺体には首が見つかっていません。従って、あのご遺体の主をはっきりと深見さんだと断定するには、決め手に欠けると思うのです」

「私たちの知らない誰かが潜んでいて、あの部屋で殺されたとでもいうの?」眦を決した琴乃が、鋭い声で噛みついた。

「いえ、そうではありません、たとえば」冷泉はそこで透をちらりと窺った。

「……弟か」透が眉を顰めて、低く唸る。

「ええ、まだ見つかっていない弟さんの可能性もありますね」冷泉はこともなげに同意を示した。「深見さんと透さんは身長が同じくらいだったように記憶しています。そして、透さんと弟さんが一卵性双生児であれば、弟さんも同じくらいなのではないかと思ったのです。但し育った環境が著しく違うようなので、後天的に体格が違っている可能性はもちろんあります。その辺りはどうだったのですか?」

「きちんと並んで比べたことはないが、まあ、大きく変わらなかったとは思うよ」透は感情を抑えるように目頭を揉み、細く息を吐いた。「けれど、あの遺体が弟のものだとしたら、深見はどこへ消えてしまったというのかい」

「犯人に拉致されているか、もしくは深見さんご自身が犯人であるかですね。前者の場合、わざわざ弟さんの身体を使って深見さんが死んだように見せかけた理由に説明がつかないので、僕は後者だと思っています」

「陽介が犯人だと言うの?!」琴乃が声を荒げた。

辺りにざわめきが広がる。

 様々な感情が入り混じった視線が一気に自身へ注がれることにも臆せず、冷泉はあくまで機械的に応じた。

「ですから、はじめに可能性の一つだと申し上げたはずです」

「冷泉くん、それはない。僕がボウガンで襲われた際に、間違いなく深見は僕の真後ろにいたよ」普段より強い口調で透がきっぱりと断言した。

 収まらぬざわめきや琴乃と透の異議にも動じることなく、冷泉はなおも淡々と答える。

「これだけのトリックを講じている犯人ですよ。ボウガンの自動発射装置くらいお手の物でしょう。例えば、足元に黒い糸を仕掛けておき、そこを通って糸が切れるとトリガーが引かれて矢が発射されるような、ね。透さん、あなたは本当にボウガンを発射した犯人を見たのですか。深見さんが追いかけた影が動くところを本当に見ましたか?」

 静かだが有無を言わさぬ追及の圧力に、透は言葉を詰まらせた。

「それは……、いや、そもそも動機もないだろう。深見が一体、会ったばかりの朱野家に何の恨みがあると言うんだ」

「会ったばかり……本当にそうでしょうか」

「何?」透の表情が、それまで見たこともない厳しいものに変わる。

冷泉は、そんな透すらも淡々と見つめ、「深見陽介さんは、本当の弟さんではない。そうですよね? 琴乃さん」ついに大きな爆弾を投下した。

 琴乃の顔色が一気に青ざめる。大きなショックに呼吸をすることすら忘れてしまったようだった。

「彼は、あなたが十三の頃に白峰家に養子として引き取られた血のつながらない弟です。あなたが産まれて以降、子宝に恵まれなかったご両親は、あなたに婿養子を取らせるつもりだった。しかし、万一そこで男の子が産まれなかった事態に備えて、養子をとったのです。そして、そんな家のいざこざから逃れるべく、あなたは駆け落ち同然にこの村へと嫁いだ。嫁ぎ先であなたが男の子を産んでいることを知ったご両親は、長男の瑞樹を深見家の跡継ぎにしたがったのでしょう。それが叶わないならば、もう一人男の子を産めと要求された。――先日、あなたが僕に話してくれた家庭事情の真相はこうじゃないですか? 琴乃さん」

 蒼い顔をした琴乃は、膝の上で固く震える自身の拳を見つめていた。

「冷泉」広い空間に瑞樹の声が反響する。瑞樹が強張った表情で友の顔を見つめていた。冷泉もそんな彼の双眸をじっと見つめ返す。後には雨粒が窓を叩く音が残った。

 やがて先に視線を外したのは冷泉だった。彼は全体に向き直って唇を開いた。

「深見陽介さんは、七ツ森町の福祉施設から引き取られた子供だったのです。そんな彼の生まれがこの村だったとしたら?」

「ちょっと待ってくれ」その拍子に透が音を立ててふらりと立ち上がった。「そんなことはありえない、僕と同じ年に産まれた子供は弟ただ一人だ。間違いない」

「ええ。透さんがご存知ないのも仕方ありません」驚愕に声を震わす透にも、動じることなく冷泉はあくまで平然と窘めた。「二十四年前の九月、この村で生まれたその日に、福祉施設に預けられた赤ん坊が居ました。そうですよね? 龍川先生」

 今度は龍川が雷に打たれる番だった。

「それが、深見陽介さんだったのですよ。彼の本当の両親は、朱野源一郎さんと、武藤霧子さん」

「嘘よ!」怒涛の雷撃が次に貫いたのは武藤霧子だった。それまで涼しい顔で聞いていた武藤霧子だったが、その瞬間感情を爆発させてその場に立ち上がった。「死んだって! 死産だったって! みんなそう言っていたじゃない!」そう言って龍川の丸まった背中を、霧子は鬼の形相で睨みつけた。

 俯いたまま、額から玉のような汗を流す父の姿を、隣に座る小夜がはらはらと眺めている。

「全部、水谷さんの日誌に書かれていました」冷泉は食卓の上の日誌を掴み、高々と掲げて見せた。

龍川はゆっくりとそれを視界に収め、それから観念したように肩を落とした。

「申し訳ありません、霧子さん……」

 老医師が零した言葉が線香の煙のように立ち上る。その細い声に、武藤霧子は糸が切れたようにその場に崩れ落ちて、さめざめと涙を零し始めた。

そんな霧子の様子を直視できないのだろう、龍川医師は頭を垂れたまま固まってしまった。そんな老医師に、冷泉はぽつりと質問を落とす。

「深見さんがその時の赤ん坊であると、気づいていたのですか?」

「……確証はなかったのですよ。事件が起こるまでは、結び付けることもなかった。それが、私なりに事件のこと、動機やら犯人の正体やらを考え始めてみて、ふと。ああ、あの子も陽介といったな、と。それでも、そう珍しい名前でもないし、結び付けることはありませんでしたよ。もしやと思ったのは、深見さんが殺されてからです。その後『白虎像』が『玄武像』と入れ替わっているのを見て、確信に変わりました」

「だからだったんだな」

 それまで愕然と日誌を眺めていた透が、突然ぽつりと言った。

「だから、とは?」

「いや、初めて深見をこの屋敷に連れてきたときに、水谷さんがやけに感慨深そうにしていたんだ。水谷さんは丁寧な人だったからさ、その時はただ深見のことを歓待してくれているんだろうなと流していたんだけど」

「でしたら、水谷さんは何かしら気づいていたのかもしれませんね」

「この村に連れてくる前にも、深見のことは水谷さんにあれこれ話したからな。そこで勘づいたのかな。いや、もっと……ひょっとしたら、水谷さんは七ツ森町の福祉施設に預けた子供のその後を、ある程度追っていたのかもしれないな」

 すすり泣く声と罪責感と驚愕とで満たされた部屋には、重苦しい空気が立ち込めていた。

 自身の弟の真実を暴かれた者、その息子。自身の過去の隠し事を暴かれた者、その娘。死産とされた自身の子供が実は生きていた者。友人が実は異母兄弟だった者。それぞれが受けた衝撃の重さで、空間の重力が歪んでしまったようだった。

 やがて、透が掠れた声を上げた。

「けれど、仮に深見がその……父と霧子さんの子供だったとしてもだよ? すなわち深見が犯人だとはならないんじゃないか」

「ええ、ですから、再三申し上げたとおりまだこれは仮説の一つにすぎません。ですが、犯行が可能な人物であり、かつ動機がある人物となると、彼しか浮かんでこないのですよ。他にある可能性を全部潰していって残った仮説が深見陽介犯人説であれば、それはもう真実と呼ぶに近いのではないでしょうか」

「そんな横暴な」

「ええ。ですから、他の可能性を潰した場合に、と限定しています。この一連の事件を朱野家への復讐だと仮定した場合、少なくとも、犯人は深見陽介さんと朱野源一郎さんの関係について知っていた人物となるはずです。違いますか?」

 正面から冷泉の刃のような視線に射抜かれ、透は強張った表情で顎を引いた。

「それは……そうだろうね」

 透が同意を示すと、冷泉は、では次のステップですとでも言うように、一つ頷きを返した。

「また後の警察の調べで深見さんと朱野源一郎氏の血のつながりが明らかになった場合、容疑者が朱野家の事情に詳しい人物に絞られることを犯人が予測していなかったとは思えません。これについてはどうですか?」

「ああ、まあ、普通に考えて予測できるだろうね。異論ないよ」

「では、犯人は逮捕されるのが怖くなかったのでしょうか? しかしその場合、密室やアリバイ工作をした理由がわからなくなります。犯人は警察の手から逃れるために数々の工作を施したはずですから。つまり、犯人は“深見さんのものだと思われている首なし死体”と源一郎さんの遺体を調べられることを恐れていなかった。その理由を、透さんはどう予想しますか?」

「……父と深見の血縁関係が判明した場合、容疑者として浮かび上がるのは事情を知っていることを隠しようがない龍川先生だ。ということは、犯人は龍川先生に罪を着せたかったんじゃないか?」

その回答が狙ったものとは違ったのか、冷泉はううん、と小さく唸った。「それも可能性の一つとしてあります。しかし、もう一つあるでしょう」

「もう一つ?」

 怪訝そうに眉根を寄せる透に、冷泉は涼しい顔で爆弾を投げつけた。

「ええ。犯人が深見さんであり、あの首なし死体が全く関係のない第三者のものであるというケースですよ」

「な!」

 その場に稲妻が走り、全員が言葉を失った。

「先ほど僕は、あの首なし死体を行方がわからなくなっている弟さんのものである可能性に触れましたが、深見陽介さんを犯人であると仮定した場合は、第三者の死体である方が有力かもしれませんね。何しろ、深見陽介さんが深見家の嫡子でなく養子であることは調べればすぐにわかることですし、彼の実の両親については表向き不明ということになっているでしょう。源一郎さんと武藤さんの隠し子と、あの日教会に置かれていた嬰児とを結びつけることのできる者はいないと深見さんが考えたとしてもなんら不自然ではありません」

「わ、私がいれば、流石に気づきますよ」龍川が唾を飛ばした。

「そうですね、先生が唯一真相を知る人間です。しかし、先生の口さえ封じてしまえば……」

「なんと!」龍川が目を白黒させた。「私は殺されるところだったというのですか」

「先生はその不安はなかったのですか? 深見さんをあの日の“陽介”だと気づいた瞬間、少しは頭に浮かんだのでは」

 冷泉の言葉に、龍川はあからさまに目を逸らして唇を引き結んだ。これを気に留めることなく、冷泉は全体へ視線を撒いた。

「深見さんによる復讐だと仮定した場合、復讐の対象となるのは朱野家と、遺棄に関わった百合子さん、水谷さん、そして龍川先生です。龍川先生を除けば、今回の被害者と一致しませんか?」

 これに異を唱える者はいなかった。

「龍川先生の口を封じてしまえばもう真相を知る者はこの世にいない。よって深見さんは、全く関係のない、それこそ身寄りのない同じ年頃の人間を拉致して、自身の身代わりにすればそれで事足りると考えたのだと思います」

 反駁を待つように、冷泉は一同をぐるりと視線でなぞったが、反駁どころか言葉を発する者すらいなかった。それを確かめて冷泉は、あくまで無感情に話を続けた。

「“深見陽介”は殺人事件の被害者として処理され、本物の深見陽介は別人として生きていくことになります。戸籍がない状態で生きていくのは難しいでしょうが、戸籍を買うなり、外国へ高飛びするなり方法がないわけではないので」

「深見の家や、勤務先に残った深見の指紋や毛髪と、発見された遺体のものとが合わないんじゃないか?」

 やがて、思考の追いついた透が異を唱えた。しかし、それすらも予期していたかのように冷泉は余裕の態度で応じた。

「そうですね。深見さんが犯人であれば、指紋や毛髪を残すようなことはしていないでしょう。彼のいた東京には住人の痕跡が全くない奇妙な居室と、職員の痕跡が全くない奇妙な職場が残されているはずです。そこで生活していた深見陽介と、首なし死体で発見された深見陽介が別人物であるという証拠は発見されません。ただ、極めて不自然な居室と職場が発見されるだけ。それ以上の証明は不可能でしょうね」

「冷泉くん……秘密を暴いて楽しい……?」

「母さん」瑞樹が窘めるように声を上げる。

冷泉は乱れた髪の隙間から覗く、琴乃の蒼い顔を黙って見つめていた。

「あなたの告発のせいで傷ついた人たちが、これだけ目の前にいるの、わからない?」

 彼女の震える手が指し示す先には、項垂れた龍川と武藤霧子の姿がある。

 それらを背に、涙ながらに声を震わす琴乃の訴えを、冷泉は泰然と受け止めた。

「ええ。非道いことをしていると自覚しています。申し訳ありません。本来ならば、秘密を暴くなんてことはしたくありません。現に、水谷さんの部屋で日誌を見てしまってからも、僕は一切を自分の胸の内に秘めておくつもりで今まで黙っていました。けれども、この三日間だけで五人が殺され、一人が襲われ、一人が行方不明になっています。さらに犯人はまだ捕まっていません。こんな状況で、指をくわえて救助を待っているだけでは、最悪全滅してしまうかもしれません。僕はこれ以上の犠牲を出したくないんです。犯人を暴いて捕まえる。そうすれば、もう殺される恐怖はなくなりますから」

 粛々と告げられるその言葉に、複雑そうな表情を見せた後、琴乃は静かに言った。

「……わかった。貴方が興味本位で村をほじくり返しているようなことを言ってしまってごめんなさい。その仮説とやらを聞かせてちょうだい。あなたの言うように、あの子が犯人なのだったら、あの子の狂気に気づいてあげられなかった私にも責任があるもの」

 そう言って琴乃が寂しそうに首を垂れるのに、透も耐えきれないといった様子で俯いた。傍にいたのに狂気に気が付けなかったというのに当て嵌まるのは何も琴乃だけではない。透もだった。彼も思うところがあったのだろう。

「わかりました。お身内を疑う無礼をご容赦ください」冷泉は深々と頭を下げた。やがて再び現れた彼の顔は、いつもの理性を取り戻していた。「話を戻しますと、何らかの理由で、真実を知ってしまった深見さんは、自身を捨てた朱野源一郎さんとその一族、遺棄に関わった人たちへの復讐を企てたのではないかと考えています。

少し触れましたが、百合子さんや松右衛門氏の死に関しても、この一連の復讐劇の一部なのではないかと考えました。百合子さんが亡くなった件については九年前のことなので、深見さんは当時十四歳。ですから、ひょっとしたら違うかもしれませんが、松右衛門さんに関してはある程度の確信を得ています。

深見さんは勤務先の部活動の副顧問をしていたとのことですが、日曜日と盆、正月は、それもお休みだったそうですね」

 視線を向けられ、透は力なく肯いた。冷泉は続けた。

「松右衛門さんが亡くなったのは日曜日の朝ですから、深見さんが土曜日に東京を経って四神村を目指したのだとしたら、日曜日早朝の犯行は不可能ではありません。これは警察が来た後で深見さんの切符の購入履歴や当時の動線について調べればわかることなので、この辺りで置いておくことにします。

次に、静さん殺害について。この時、深見さんにアリバイがないことは、以前行ったアリバイ検証で明らかになっています。透さん襲撃に関しては、先ほど述べたとおり。糸などを使っての、深見さんの自作自演だったわけですね。この一件は容疑者から外れ、安全圏に滑り込む狙いがあったのではないかと推測します。次に水谷さん殺害ですが、深見さんには十時から十一時まで、一人、白峰家の離れで過ごしていたということでアリバイがありません。この間に深見さんは、水谷さんを殺害し、部屋の内側に両腕を、庭に胴体と頭部を置いてその場から立ち去った」

「ちょっと待って」琴乃が小さく手を挙げた。「あなた、犯人の足跡がなかったから、雨が降り始める十時以前の犯行だと言っていたでしょう? その話はどうなったのかしら」

その質問も、彼の予想の範疇だったのだろう。冷泉は落ち着いた表情で応じた。「それは、先ほど行った『玄武の館』での検証で解決しました。昨朝は十時過ぎから十二時まで雨が降っていました。ついた足跡を箒や、枝葉などで掃いて均しておくだけで、その後降った雨粒がふやかして洗い流してくれます。実際にやってみたところ、二十分そこらで充分に跡形もなく消え去りました」

 怪訝そうに透を見遣る琴乃に、透も間違いないと一つ首肯した。

冷泉はそれらを確認してから、「これで水谷さん殺害の際の深見さんのアリバイはなくなりました」淡々と言い切った。

「ひとついいかな?」今度は透から手が挙がった。「龍川先生の検視だと、死亡推定時刻は十二時頃だと言っていたけれど、冷泉くんの説と矛盾していないかな」

「死亡推定時刻を誤魔化したのですよ」

 その言葉に、龍川医師がぎょっと目を剥いた。

「誤魔化したですと?」

「そう。失礼ですが、龍川先生は何を根拠に、死亡推定時刻を十二時頃だと判断なさったのですか?」

 ここまで来てもなお自らの行った検視結果が蔑ろにされていることに狼狽を隠し切れない龍川医師は、「それは」と前のめりにしろの目立つ口髭を動かした。「血液の凝固具合です。胴体は、深緑色のドラム缶の中にあってかなり蒸されていたため、正確な死亡推定時刻がわからなかったので。部屋に残っていた血液がまだ乾いていなかったため、流れ出してから三十分も経っていないだろうと判断したわけですよ」

 その説明は彼の予想通りだったようで、冷泉は答えを待ち構えていたタイミングで一つ頷いて言った。

「まさしく、そこに犯人の狙いがあったのですね。先生、血液検査などでは、血が固まらないために、試験管の中に何か薬剤が入っていますよね」

 冷泉の言葉を受け、龍川はあっという顔をした。「抗凝固剤か!」

 少年のように膝を打つ老医師に、冷泉は首肯した。

「ええ、仰る通りです。犯人は、部屋に流れ出た血液にそれを混ぜて、死亡推定時刻を誤魔化したのですよ。この村に、精密な検視道具がないことを利用したのですね」

「私は医師とは名ばかりですからなあ」 龍川医師が弱ったように頭を掻いた。そこに嫌味さや卑屈の色はなく、あくまで他意のないもののようだった。

 冷泉は特に慰めるでもなく、部屋全体に視線を戻した。

「以上が、水谷さん殺しにおけるアリバイトリックの全容です。次に源一郎さん殺しと深見さん殺しですが、これはいずれも深夜三時頃のことなので、離れにいた深見さんは抜け出すことが可能です。深見さんがしきりに夜間出歩くことに反対していたのは、このためだったのではないかと推測します」

「確かに深見さんは夜間の移動をひどく危険視しておりましたな……」龍川が無精ひげの伸びた顎を撫でた。早朝から起こされたため、剃るタイミングを逃したのだろう。

「ええ。そして深見さんは廊下の窓を割って侵入。窓枠には泥の痕が残っていましたが、そこから先に足跡はなかったので靴を脱いだのでしょう。靴跡から正体がばれるのを危惧したものと思われます。それから絹代さんに気づかれないように廊下で待機し、源一郎さんがお手洗いに出た瞬間などを狙って襲い、木工室で殺害したのでしょう」

「そういえば」透がぼんやりと言った。「確かに父は、夜間頻尿を患っていて。絹代さんは、いつもは父が夜手洗いにいくたびにベッドの揺れで目を覚ますけれど、今日は気づかずぐっすり眠っていたということを証言していたな」

「それでしたらわたくしも聞いたわ」

 透の証言に、武藤霧子が同調する。普段のどこか余裕のある上品さは失われ、そっけない口調であったが、気にする素振りもなく冷泉は順調だと言わんばかりに小刻みに頭を揺らした。推理の点と点を補完するピースが、こうも都合よく集まるものかとぞくぞくしてしまいそうなペースだろう。

「でしたら、絹代さんに睡眠薬を盛っていた可能性が浮上しますね。より安全に犯行に及ぶことができたことでしょう。ですが、それだといつ一服盛ったのかという謎が出てきますね。これはまたおいおい考えることにしましょう。話を先に進めますが、ここまで何かご質問のある方は?」

 今度は瑞樹が挙手をした。

「虎をバッテンで消して雀マイナス亀と書かれていたあの血文字だけどさ、虎は白虎、亀は玄武、雀は朱雀のことだよね。で、マイナスだと思っていた横棒は父と母を繋ぐ線だった」

「ああ、白虎、すなわち白峰家の縁者だと思われていた深見さんが、実は武藤家、朱野家の血縁者だったことを指しているのだろう」

「うん。でもなんで、わざわざそんなこと……自分の出生を仄めかすことを書いたの?」

「それは、おそらく龍川先生へ恐怖を与えるためじゃないかと思うがな」

「でもさ、それで殺される! って怖くなった先生が全てを話してしまったら、陽介くんは動きづらくなるだけだよね」

 冷泉は確かに、と一度黙り込んだ。

「まあ……見立ての一片だろうから、理屈ではない部分もあるんだと思う」

 瑞樹は腑に落ちない顔で「そんなもんなのかな」と首を傾げた。

「他に質問のある人は?」冷泉はぐるりと見回した。

そして、もう誰も言葉を発するものがいないことを確認すると、次のステップへと足をかけた。

「では進めます。それから、深見さんは身代わりの第三者、もしくはどこかに監禁していた弟さんを殺害し、自身が宿泊している白峰家の離れに首を切って座らせ、血文字を残した。これには、自身を容疑者リストから外し、残りの犯行を行いやすくする目的があったと思います。生存者が減ってくると、当然ながら各人の守りが固くなるうえに、一人一人にかかる嫌疑も深まり、動きづらくなりますからね。また、彼が死んだふりをして行動をしやすくしてきたということは、まだ今後も殺人を続ける意志が彼にあるという証左にもなるかと思います」

 龍川がぶるりと身震いした。

冷泉はそれを横目で見遣ると、構わず続けた。「そして、もし死体が弟さんであった場合には、別の危険が浮上してきますね」

「別の危険?」琴乃が眉を顰めた。

「ええ」冷泉は肯き返した。「警察が到着した後でDNA鑑定をすれば、遺体が弟さんのものであることはわかります。それにも関わらず、入れ替わりのトリックを使ったということはどういうことか。――深見さんは、この場の全員を殺して逃走し、最初からこの村に来ていなかったふうを装うつもりかもしれません」

「な!」

 その場の誰もが息を呑み、言葉を失った。それも無理はないというように冷泉は首を縦に振った。

「村の人間が全滅している。生存者はいない。それだけのことです。深見さんがこの村を訪れたことを知る人間は誰一人として生きていないのですから」

「そんな……乱暴な……」龍川があんぐりと口を開けた。

「乱暴ですね。散々乱暴なことをしてきている犯人です。やりかねませんよ。ですから、僕はそのことを危惧しました。それが、少々強引ですが、僕がここで犯人を探そうと言い出した一番の理由でもあります。早く捕まえなければ、まだ犠牲者が出るのではないか、と不安に駆られたわけですね」

 それまで、耳から入ってくる情報を脳内で処理している最中であるように、ぼんやりと足元見つめていた透が「なるほどね」と視線をあげた。「それはよくわかったけど、死体が弟でなく第三者だった場合、深見はどうやってこの村に第三者を運び入れて、どこに匿っていたんだい?」

「実際に確かめたわけではありませんが、それに関してはそう難しくはないでしょう。敢えて憶測で例を挙げるならば、深夜に車で運び入れて、森の中に匿っていたなどですかね。無論これは一例にすぎません。他にもやりようはあると思いますので」

「後に警察が捜査に入った場合、拉致の痕跡は見つかるだろう。そうなると、この痕跡はなんだという話になるんじゃないかな」

「そうならないために、弟さんを拉致したと考えられます。鑑識に調べられれば、その場に残った糞尿や毛髪などから弟さんとは別の人間が拉致されていたとばれるでしょうから、その前に燃やすなどして人物を特定する材料を隠滅するつもりだったかもしれません。材料さえ隠滅してしまえば、拉致の痕跡自体はあっても不自然ではない。弟さんが居た場所として偽装できますからね」

 納得したという顔にはとても遠かったが、透は唇を引き結んだ。反論が途絶えたところで冷泉は視線を場に返した。

「疑問をぶつけていただくことは大いに歓迎します。反論をぶつければぶつけるほど、それを乗り越えて論はより強固になっていくものですから」と、友への嫌疑を信じたくない透の心境への配慮と、その顔を立てることは忘れない。

 その言葉にも、透が反応を示すことはなかった。

 冷泉は構わず話を進めた。

「では、話を戻しましょう。そうして自らを被害者に見せかけることで、容疑者リストから外れた深見さんでしたが、彼にも予期せぬことが起きていた。そう、絹代さん殺害の時間帯に、偶然ながら残った生存者が一堂に会してしまったわけですね。そのことで、逆に生存者以外に絹代さん殺害の実行犯がいることが証明されてしまったのです。

以上が、深見さんを犯人と仮定した場合の、犯人の動線の全てです。何か異論はありますか?」

 辺りは水を打ったようにしんと静まり返っている。

 それからしばらく、誰も言葉を発する者はいなかった。琴乃などは沈鬱に床を見つめたまま、ぴくりともしない。瑞樹も壁の向こう、どこか遠くを見ているようだった。

やがて、「密室の謎は解けたの?」ここでの沈黙を切り裂いたのも、ようやく言葉を取り戻したらしい透だった。

「半々ですね。水谷さん殺害時の、武藤邸で使われたトリックについては答えが出ています。あと考えるべきは、静さん殺害の納屋と、“深見さん”殺害が行われた白峰邸の離れ、それから源一郎さん殺害の木工室のトリックですね」冷泉は視線を透から外し、ぐるりと全体を一望した。「僕がこうして話したのは、探偵のようにトリックを見抜いて事件の全容を暴くためでなく、犯人を絞ってこれ以上の犠牲者を出さないためです。ですから、ここで大事なのはフーダニットであって、ハウダニットではないのですよ。よって、方法の究明はひとまず置いておいて、深見陽介さんが唯一全ての事件において犯行現場にいることができた人物であるということがわかれば、それでよかった。深見さんが犯人であるならば、外部にさえ注意を向けていれば助かりますから」

「といっても」龍川がため息まじりに言った。「深見くんが犯人か否かに限らず、相手はトンネルを崩落させうるだけの爆発物をもっていますからな。固まっていたら安全だとも言い難いところです」

「龍川先生が仰る通りですね。犯人を特定して縛り上げでもしないことには、真の安全は訪れません」

 誰も異を唱える者はいなかった。やがて沈黙を切り裂くように、透が細長く息を吐いた。

「わかったよ。他の人達を犯人だと仮定すると何かしらに無理が生じ、深見を犯人だと仮定すると筋が通る。よって消去法から深見が犯人である……と冷泉くんが考えていることはよくわかった」透は顔を上げた。

冷泉は正面から対峙する。

「それでも、深見が犯人だというのは、僕は……まだ、呑み込めそうもないや」と、泣き笑いのように表情を崩して再び俯いた透を、琴乃が涙を流しながら見つめていた。

 部屋に立ち込めていた驚愕と冷泉への不満が、いつのまにか微かな安心へと変わっていた。

 依然として犯人の行方と、密室の謎は不明なままだったが、五里霧中の状態から脱却し、一筋の光が見えたというだけで、一同の不安は幾分か薄まったようだった。

 しかし、そんな一同のささやかな安寧を嘲笑うかのように、事態は急転した。



 十二



 朱野穢が変わり果てた姿で見つかったのは、その日の夕方のことだった。

 木工室のトリックについて、何か手掛かりはないかと、冷泉、透、瑞樹の三人が屋敷の裏手を捜索していたところで透が異臭に気づいた。それから、注意深く周囲を探ってみたところ奥の洞穴に横たわる朱野穢の足が見えたのだった。

 朱野穢は両手足を手錠で拘束されたまま、よく研いだブナの太枝で喉を一突きに貫かれたとみえて、辺りは夥しい量の鮮血と噎せ返るような匂いで溢れていた。

洞穴の入口は裏山の斜面の途中にあり、傍には藁や枝葉がこんもりと盛られていた。どうやら、これで入口に蓋をして洞穴の存在を隠していたようである。そのため、先日裏山を捜索した際には、見過ごしてしまったらしかった。

また、洞穴の奥行きは案外深く、中頃には封がされたままの流動食と飲料水の瓶が幾つか転がっていた。そしてその奥からは血まみれの凶器と深見陽介の首が見つかった。……

朱野穢の遺体は死後六~八時間経過しているとみられた。また、手錠が嵌められた両の手首足首からは、手錠を外そうと抵抗したような傷痕は見つからなかった。つまるところ彼が絹代殺害の犯人であるならば、絹代を殺害してそのまま山へ入り、自ら両手両足に手錠をかけて、ブナの枝で喉を貫いて死亡したということになる。実におかしな話だった。

 それが、裏山の三合目のことである。更に裏山を見晴らし丘に向かって昇って行ったところ、ちょうど五合目あたりの細道に、鼈甲の簪が落ちていた。これに関しては、藤川絹代の持ち物だと、のちに透と小夜が証言している。

 この簪はいつ落ちたのか。考えられるのは三通りだった。一つ目は、透を襲撃した犯人が藤川絹代であり、深見の追跡から逃れる際に落ちたものだという説である。二つ目は、翌日源一郎と絹代がトンネルを見に行った際に、『玄武の館』の裏手の緩やかなルートでなく、こちらの険しいルートを通ったという説である。そして三つ目は、犯人が攪乱のために絹代の簪を盗み出し、ここに落としたという説だった。

 このうち二つ目の説は、源一郎と絹代の証言との不一致から否定することができる。よって、真相は一か三に絞られた。





「申し訳ありませんでした」

 冷泉の謝罪する声が居間に響く。座礁した探偵を責め立てる者は誰一人いなかった。

「僕たちも、結局論理的に疑惑を覆すことはできなかったわけだし」

 透の慰めの言葉に、冷泉は頭を上げた。その目に諦めの色は微塵もなかった。

「深見陽介犯人説をリセットして、一から練り直してみましょう」

「その……弟が、犯行に絡んでいたのかな」透が視線を落とす。

「状況的にはそうなります。が、真犯人の手により罪をなすりつけられた可能性もあります」

「僕もそう思う。第一、仮に弟が犯行に関わっていたとしても、一人で全てを完遂できるはずがないんだ。弟は地下牢の外を知らない。だから共犯者がいて、弟を唆して全ての罪を着せたとしか思えない」

「村の地理や各人の習慣について、弟さんに情報を伝えた人間がいるというのですよね」

 冷泉の言葉に、透は黙したまま肯いた。

「けれど、冷泉」白峰瑞樹が真剣なまなざしを向けた。「共犯者は殺人教唆を行っただけで、実行犯は全て弟さんだったとしたら、共犯者が誰なのかを絞ったり、証明をしたりするのは難しくないかな」

「そうなんだよな」冷泉は顎に長い指をあてた。「静さんが殺害される以前に全てを弟さんに入れ知恵していたとしたら、この三日間のアリバイ検証なんて関係なくなりますからね」言いながら冷泉は身体を反転させた。深見の遺した手帳を捲る。左手に見えるソファには草臥れた面々が身体を沈めていた。

「おそらく穢くんに犯行は無理ですよ」

 そこまでじっと黙って議論を見守っていた龍川がソファから背を浮かせた。

「無理とは」

「検視をするときに、彼の手足の筋肉も確かめたのですよ。あの筋量ではせいぜい狭い部屋の中を移動するくらいが関の山でしょうな。重いものを持ち上げたり、ましてや山道を走って成人男性を振り切ったりすることなんか、とても」龍川はゆるゆると首を左右に振って視線を落とした。

「穢さん実行犯説もこれで消えたのか」冷泉が天井を仰ぐ。

「犯人が何人いるかもわからないし」瑞樹がぽつりと落とした。

つられて透が自棄っぽい笑いを零す。「本当だね。それこそ自分以外が全員グルだったりしたら勝てっこないよ」

「まあ、そのとおりですね。極端な話、三人、四人での共犯だったりすれば、アリバイはいくらでも誤魔化せますからね。例えば、僕や瑞樹など顕著でしょう。僕らは多くのケースで一緒にいたためにアリバイが証明されていますから。僕らが共犯だった場合に、アリバイは崩れ去ります」

「白紙に戻ってしまったな」透が窓の外へと視線を投げた。太陽が西の空に傾いている。また長い夜が訪れようとしていた。

「また誰かが死ぬのかな」小夜がぽつりと零した。蝉の大合唱の隙間から、山鳩の声が部屋に染み入ってきた。

透が場をとりなすように明るい声をあげた。「ひとまず、犯人の特定が煮詰まったのだとしたら、明るいうちに密室の謎だけでも解いてみないか?」

 その言葉を皮切りに、若い男衆三人は再び夕暮れが迫る夏空の下へ出て行った。



 十三



 木工室の天井で扇風機がちょうど百回目の旋回を終えた頃、閂の横木に針金を括りつけたまま、冷泉はしばらく固まっていた。だいぶん日が傾き、室内では電気をつけなければかなり薄暗い。気温もだいぶ下がって少々肌寒く感じられるほどであったが、いかんせん室内に籠った血の匂いに対抗するためには扇風機による空気の攪拌が必要不可欠だった。

「やっぱり閂を扉の外側から閉めるのは無理だな」床に落ちたニッパーと針金の束を乱暴に拾い上げて、冷泉は乾いた首筋を掻いた。「となると、やっぱりあの通気口か」

 見上げた先には、先刻外側から確認した鉄格子がある。

「あの格子は取れるんでしょ?」同じく隣で目玉を上げた瑞樹が指さした。「中の犯人の腰に縄を括りつけて、外から共犯者が引き上げるってのはどう?」

「さすがに人一人を持ち上げるのは無理じゃないか?」

「無理か……上まで引き上げて、窓から犯人が出る。そして脚立を使って降りたら脱出ができると思ったんだけどな。……冷泉?」瑞樹は、ある一点を見つめて固まった冷泉の顔を覗き込んだ。

その声にはたと眼球の動きを取り戻した冷泉は、瑞樹の顔を見遣ると口の端を持ち上げて笑った。

「でかしたぞ、瑞樹。そういう使い方をすればもう一つの謎が解ける」





 木工室を出てしばらく、屋敷の東側の側面には古い焼却炉がある。静の殺害現場となった納屋から始まり、屋敷の周りをぐるりと調べていた冷泉が最後に行き着いたのがそこだった。

「透さん、この焼却炉は今でも?」

「ああ。可燃ごみは全部ここで処理しているよ。トンネルが細すぎてゴミ収集車も通れないんだ。不燃ごみや資源ごみは、村全体で集めて月に一度、車で隣の五藤村まで捨てに行っているよ」

灰掻き棒で探ってみると、中は妙にこざっぱりしていた。備え付けの不燃ごみ入れには、煤けた釘が何十とある。

「透さん、最後に五藤村までごみを持って行ったのはいつです?」

「毎月第二日曜日だから……一週間近く前かな」

「一週間か。その間に何か家の大きな改修や、大掃除をしましたか?」

「祖父の遺品整理を少ししたくらいかな」

「その割に、粗大ごみや資源ごみは出なかったみたいですね」

 辺りに釘くらいしかないのを見て、冷泉は不思議がった。

「そうだね、少し手をつけた程度だったからね。あまり捨てるものも出なかったな」

 冷泉は顎に指を置き、少し考え込んだ。

「透さん、カメラを貸していただけませんか?」

「いいけど、現場を記録するの?」

「ええ」

「わかった、ちょっと待っていて」透は快諾すると、屋敷へと駆け出した。

 その背中を目で追った後、冷泉はゆるりと焼却炉に向き直った。

「釘ね……」と、その場にしゃがみ込み、その焦げてでこぼこした表面を指で撫でながら考え込む。

 そうして何本目かの黒い鉄くずを摘まんだところで、その身体が電流でも流れたように小さく跳ねた。その様子に遠くを眺めていた瑞樹も目を丸くして振り返り、恐る恐る顔を覗き込んだ。

「……冷泉?」

「……こっちだったのか。これは収穫だぞ」

「その釘が?」瑞樹は膝に手をつき、冷泉の指先をじっと覗き込んだ。

 その視線にも反応を示すことなく、冷泉は黒焦げた釘のざらざらした表面を指で撫で続ける。このとき冷泉の頭の中には、ある二つの会話が去来していた。

「静さんのケースと同じだったんだ。犯人の思考の傾向が見えてきたぞ」瑞樹が困った顔で首を傾げるのにも構わず、冷泉ははたと目を見張り、立ち上がる。「なるほど。それだったら、電話機爆破にも、深見さん殺害の密室にも説明がつく。あとは」

 待ちきれないとばかりに屋敷を仰ぎ見たところ、ちょうど透が玄関から出てくるのが視界に入った。透が到着するのを待って冷泉は切り出す。

「透さん、龍川先生の家に行ってみたいのですが」



 十四



 日が落ちた東北の山村は、夏でも肌寒さを感じるものである。

 昏い。ただそれだけで、人は本能的な恐怖を煽られ、膨らんだ鬼胎は産毛を逆なでる。

『青龍の館』から人の気配が去ってまだ半日足らずだというのに、その館は長年の孤独を彷彿とさせる静けさに満ちていた。

 立ち合いには、龍川小夜がきていた。

 老父から借りてきた玄関の鍵を使い、小夜自ら封を切る。暗闇の中、居間の時計の針の音だけが、しとしとと足元に絡みつくように耳朶を擽った。

 冷泉は居間に足を踏み入れる。他人の家特有の、生暖かい匂いが鼻腔をかすめる。何度か嗅いだはずなのに、まるで異世界にでも迷い込んだような未視感を覚えた。冷泉は、自らの腕時計を何度か見遣り、それから居間を、診療室を、それから各部屋を隈なく一周した。

 やがて、小夜の部屋の前で足を止めると、一歩後ろの小夜に、扉を開けたままにして、あるものを取ってくるように促す。小夜は小さく頷き室内へ入り、程なくして言われたものを抱えて戻って来た。

 手渡されたそれを確認して、冷泉は力なく目を閉じ天を仰いた。

 遠くで風の音がする。風に吹かれて葉が揺れ、束になってざわめきに変わる。いつしか、蝉しぐれは止んでいた。

 居間に戻ると、ソファに腰かけて待っていた瑞樹と透が無言のまま立ち上がった。

「もう結構です」

 そう言って冷泉が外履きのつま先を鳴らすまで、そう時間は掛からなかった。





 朱野邸に戻った冷泉は、透に断りを入れて源一郎と絹代の寝室へと足を踏み入れた。

「源一郎さんの私物は少ないようですね」

「衣類以外の、例えば書籍や趣味のものなんかは全てコレクションルームに置いているからね」

 ベッドサイドには古めかしいサーベルが転がっていた。藤川絹代が握っていたものだった。

「応戦する暇もなかったのでしょうね」呟いた冷泉を一瞥もすることもなく透は背を向けた。冷泉も気にすることなく室内をひっくり返す。「絹代さんはどのあたりに私物をおいていたのでしょうね」

「さあ……どうだろうな」

 アンティークの茶箪笥の引き出しひとつひとつに手を掛けていったところ、最下段の深い引き出しが二重底になっているのに気付いた。板を持ち上げる。中からは三冊の書籍と中身の入った黒色の小瓶が出てきた。書籍には上から生前贈与、遺言、相続との文字がある。冷泉の肩越しに視線を落とした透は、それらを汚いものを見るような目で瞥見してからふっと鼻で嗤った。

 その時の透の目は、闇夜よりも昏く、井戸の底よりも深く冷たいものだった。





 屋敷に残った七人全員で食事を済ませ、交代で風呂を借りた。風呂は屋敷の東側の端に位置していた。居間からは遠く、見通すことはできない。そのため、一同は一度風呂の前の廊下へと移動することとなった。そこでひとところに集まり、風呂を使う人間だけが脱衣所の中に入る。順番も全てあみだくじで決めて抜かりはなかった。

 そして最後の透が出てきたところで、連れたって居間に戻る。

 昼間、深見陽介の出自が明らかになってからこちら、龍川と琴乃と武藤霧子の間にはどこかぎくしゃくした空気があったが、原因は主に龍川医師によるものだろう。老医師は他の二人に顔向けがならないのか、骨ばった背を丸めて俯いてばかりいた。一方、白峰琴乃は龍川医師云々というよりは深見陽介の死そのものからくる悲しみに打ちのめされているようである。逆に武藤霧子は、若い男衆三人が現場検証から戻る頃には、すっかり平常時の様子を取り戻しているように見えた。

「また今宵も犯人はやってくるのかしら」白峰琴乃が、足元を見つめながらぽつりと零した。その目にみるみる雫が膨らんでくる。

そのまま丸まってしまいそうな背に、瑞樹は細身の手を伸ばして優しく撫でた。「そうならないように、みんなでまとまっているんだからさ」

「どうして昨日からそうできなかったのかしら……」

過ぎたことは仕方ないよ、だなんて、とても言えたものではなかった。何より瑞樹自身が、その後悔に苛まれているのだ。

「陽介……」

 幾度となく足が止まりかける琴乃を、龍川と小夜、それから透が心配そうに振り返る。

「明日になれば父さんが帰ってきて警察を呼んでくれるから。もう一晩の我慢だよ」

 瑞樹が言葉は琴乃に向けながらも、視線で窺いを立ててくる中、冷泉はじっと俯いて口を噤んでいた。

 居間のソファに琴乃を座らせたところで、透が盆を手に寄って来た。「これ、ラベンダーティーなんだけど」瑞樹を前に小声で囁いて、テーブルの上に盆ごと載せる。丸い硝子製のティーポットと、空のカップが三つのっていた。

「ありがとうございます。その……透さんも落ち込んでいらっしゃるときに、いろいろと気を遣わせてしまってすみません」

瑞樹がしゅんとすると、透は構わないよ、というように右手を顔の前で振った。

「うちの食器を使うのは怖いかもしれないけれど、一応使う前に洗剤で流してきたから、よかったら。なんなら、使う前にもう一度洗い流してくれてもいいし、洗剤への毒を疑うなら、予備の新しいものを開けてくれても構わないし」

自嘲気味に肩を竦めて、透は再び台所へと戻っていった。犠牲者のたくさん出た家の食器だから、毒でも塗られているかもしれないと、彼はそう言いたいのだろう。現に夕食の準備の際にも、客も主人も年齢も性別も立場も関係なく、相互監視のもと厳重に注意を払うよう、誰よりも率先して促していたのは透だった。

 武藤霧子が、カップを三つとも表に返して黄金色の液体を均等に注ぎ分けた。うち一つに口をつけて口元を緩めた。深見陽介の出自が明らかになって以来、白峰琴乃と武藤霧子が初めて目を合わせた瞬間だったかもしれない。

「琴乃さん、温まるわよ。小夜ちゃんもどうかしら?」

「ありがとう。でも……」小夜は消え入りそうな声で呟き俯いた。

 隣に座る龍川医師が、眉を八の字にして頭を下げ、「霧子さん申し訳ありませんな。小夜、飲まないのなら、私がもらうよ」と、娘の顔を覗き込んだ。

小夜は幼子のように父親の腕にしがみ付いたまま小さく首を振って額をつけた。肩の上で切りそろえたおかっぱがふるふる揺れる。元々年齢よりも幼く見えるきらいがあったが、誰かの陰でじっと俯くことの多くなった今では、まるで人見知りの小学生のようだった。

 琴乃もカップに手をつける気配がないのに、瑞樹は眉を顰めて低く言った。

「僕たちがこの部屋で一晩を過ごすことは、朝の時点で決まっていたようなものですよね。犯人がそのことを知っているならば、この部屋に何か仕掛けられていたりしないでしょうか」

 その言葉に、各々が目をはっと見開いた。そこにちょうど透が戻って来る。彼はソファと食卓テーブルを見比べ、一人食卓に陣取る冷泉の前の椅子を静かに引いて腰を下ろした。

「何かって」カップを片手に、武藤霧子が小首を傾げた。

「爆弾とか、かね?」

龍川の言葉に、一同ゾッと身を竦める。

透が視線を揺らして動揺を示した。「けれど、朝からずっとこの部屋には誰かしらがいたわけでしょう? 犯人が爆弾を仕掛ける時間なんてなかったんじゃないですか」

「あらかじめ仕掛けていた可能性はあるかもしれないですぞ。現に、電話機はおそらく遠隔で一気に爆破されました」

「確かにおっしゃるとおりですが……ええっと、外部犯ならそれもありえるのかな」徐々に場の空気に感化されたのか、透が不安げに冷泉を窺う。

冷泉は議論に加わる様子もなく、視線をこの場に預けたまま、何やら別のことに思考を飛ばしているようだった。

そんな冷泉の様子に、返答を諦めた透が自答する。「内部犯なら、犯人も死んでしまうかもしれないですし。それに爆弾を気にし始めたら、どの屋敷にだって安全な場所はなくなってしまいませんか? 気にしてもどうすることもできないというか」自らもどうにか安心したいのだろう。どこか引き攣った表情で、懸命に明るい表情を作ろうとしているようだった。

「そうね。この村全体が、今では獲物を捕らえる罠みたいなものだものね」透の気遣いをぶち壊すかのように、武藤霧子が朗々と答えた。

「いやだ、死にたくないよ」小夜がおかっぱを揺らして、父の腕にしがみ付いた。

 水に落とした墨汁がもやもやと広がるがごとく、その場を恐怖が浸食する様を見渡して、冷泉は何かを決心したように視線を上げた。

「すべてを終わらせましょう」

 その一言に、部屋中水を打ったように静まり返る。

「もう恐怖の夜はおしまいです」





「犯人がわかったの?」

 声を震わせる瑞樹に、冷泉は特に当否を示すことなくただ温度のない視線を向けた。

「僕の考えが合っていれば、明日になればおそらく警察がやってきます。そうすれば、最先端の捜査技術を以て犯人はおのずと絞られるでしょう。それを待つのも一つの手かとも考えていました。一度失態を演じた身ですからね。餅は餅屋。やはり素人は出過ぎず、専門家に託すべきかと」昼間の深見陽介犯人説での失敗が響いているのか、冷泉は一転して弱気さをちらつかせた。「けれど、終わる保証はないですからね」

 ナイフのような鋭さを孕んだ視線に横薙ぎに払われて、一同は一回り以上萎縮した。

「陽介を殺した犯人が憎い。本当は八つ裂きにしたい」琴乃が喉から血を絞り出すように訴えた。

それを横目で捉えた透が、一度ゆっくり瞬いた。再び現れた目には、黒い炎が宿って見えた。透は、激情を何かねっとりした膜で覆い隠すように、ごく穏やかな笑みを浮かべて、「聞かせてくれないか?」よく通る声でそう言った。

 みな気持ちは同じようだった。

 冷泉は目を閉じ、何かを腹の底へ落とすように小さく息をついて、瞼を持ち上げた。

「その前に一つお願いが。犯人逆上からの被害を防ぐために、周囲には細心の注意を払っていただくようお願いします」

 一同は、ゾッと背筋を正した後、そわそわと互いを牽制するよう視線を揺らした。視線の波が落ち着くのをじっくりと待った後、冷泉は唄い始めにブレスを入れる歌い手のように短く息を吸った。

「推理ものの創作ではしばしば、名探偵が大衆を前にして事件の真相を明らかにしますね。ですが、先ほどの一件でも僕は身をもって痛感しました。本来、大々的に犯人を追い詰めるものでもないのかもしれない、と。けれど、この事件の真相は、この村の人には知っていてほしいと僕は考えます。その上で、各人がなにを思い、どうするのか」

 冷泉は、そこまで語って一度部屋を見回した。しかし、誰も言葉を発する者はいなかった。ただ、各々がその言葉の持つ重さを、本能的に味わっているようだった。

「前置きはそこまでにして、本題へと移りましょう。時系列になぞるならば、まずは殺人事件の前に起きた、深見さんへの手紙と、電話機爆破についてですね。これを便宜上零番目の事件としましょうか。まず犯人は朱野透さんの名を使って、標的の一人である深見さんに手紙を送って彼をおびき出しました」

「差出人のわからない手紙が届いた時点で怪しんで、深見が来るのを止めるべきだったんだ……」

 透の顔に暗い影が落ちる。その前頭部の滑らかな曲線に、しばらく慮るような視線を加えたのち、冷泉は再び口を開いた。

「まあ、そうして深見さんが巧みな犯人の招集に応じたことにより、演者は揃いました。それから、電話機が爆破されましたね。この村には施錠の習慣がなかったようなので、誰にでも侵入して爆弾を仕掛けることができたと考えられます。こうして犯人は通信手段、すなわち村人が外部へ助けを求めるすべを奪ったわけです。

次にその夜起きた、一番目の静さん殺害と、二番目の透さん襲撃についてですが、これは後程説明します。翌昼に起きた三番目の水谷さん殺害における密室トリックに話を移しましょう。

早速ですが、水谷さんの死体発見現場の様子について龍川先生、説明していただけますか?」

 突然水を向けられ、龍川がたじろいだ。

「え、えっと、そうですな。まず壁に沿うようにして裏庭に胴体が置かれ、その上に緑色のドラム缶、さらにその上に首がのっておりました。そこから壁一枚を挟んだ一階の部屋には切断された腕が無造作に転がっていて、扉の鍵は閉まっておりました。……こんなところでしょうかね」

 緊張した面持ちの龍川に、冷泉は表情を動かすことなく小さく頷いた。

「ありがとうございます。ちなみに透さん、殺害現場はどこだと考えられますか?」

 二人目とあって、ある程度の心構えができていたのか、透はさして驚いた様子もなく応じた。

「腕が見つかった部屋じゃないのかい?」

「なぜそう考えましたか?」

「なぜって……部屋の中が血だらけだったからかな。そこで殺されて、その、遺体をバラバラにされたのかなって」

 基本的にはっきりとした物言いは普段と変わらないが、惨い部分になると小声になるのが、いかにも透らしかった。きっと彼は、学生時代に授業で指名されたときなども、自信の程に関わらず滞りなく自らの考えを述べることのできる生徒だったのだろう。そんな、場にそぐわない思いつきをしたところで、冷泉は小さく咳払いを挟んだ。

「ありがとうございます。仰る通りですね。そのため、僕らはあの部屋を殺害現場だと思い込んでいました」

「え、違うのかい?」

 瞠目する透に、力強く肯くと冷泉は殊更強調するように一音一音を粒立てて言い切った。

「ええ、そう。違ったんです。水谷さんが殺されたのは、室内ではなく裏庭だったんですよ」

 室内の空気が粟立った。龍川は眉間に皺をよせて、眼鏡の蔓に手をかける。場が落ち着くのをじっくり待ってから、冷泉は言葉を続けた。

「犯人はどのようにして頭と胴体を室外へと運び出したのだろうか。そう考えると、この問題はとても難解なものに感じられます。ですが、発想の逆転だったのですね。あらかじめ遺体は裏庭にあって、両腕だけが室内へ投げ込まれた。十五センチしか開かないように設計されている窓からでも、両腕だけならば通ります」

「待ってくれ、じゃああの大量の血痕は?」

 普段穏やかな透が余裕を失う様は珍しい。愕然と目を瞠る透を前に、冷泉は余裕のある表情で朗々と返した。

「あれはおそらく動物の血ですよ」

「動物?」

「野生の烏か猫か、あるいは鶏小屋の鶏かといったところだと思います。透さんも以前、朱野邸に住み着いている猫がいるという話をしてくれましたよね」

透は愕然とした。具体例を聞いたことで想像してしまったらしく、そのまま徐々に視線を下げて顔を蒼くした。

「あらかじめ用意しておいた動物の血液に、以前深見陽介さん犯人説でも話したように、抗凝固剤を混ぜて犯行時刻を誤魔化したわけです。といっても、これは警察が来て本格的に調べられたらすぐにわかることでしょうから、その場の一時しのぎにしかなりませんけれどね。なので、犯行時刻を誤魔化したことにおける犯人の目的は、警察の目を逃れることにではなく、あくまで我々の視線をずらすこと。計画を完遂するまで、犯人像を絞らせないことにあったと考えられます。

逆に、密室を講じた目的に関しては、それ自体で特定の誰かの疑いが晴れるような効果はありません。逆に、唯一鍵を持つ武藤さんに疑いがかかるということもありませんでしたね。彼女にはアリバイがあるわけですから。よって、単なる自己顕示欲からくるものでしょう。

ここまでで何かありますか?」

「割れた植木鉢についてはどういった仕組みですかな?」

 龍川医師がずり落ちた眼鏡を持ち上げて尋ねた。

それへは、「それは後程お話しします」と、簡潔に返し、冷泉はもう一度部屋全体に視線を撒いて頷いた。「では、次にいきましょう。四番目の源一郎さんの事件については、まさに知恵の輪でした。瑞樹、木工室の通気口を見て、何と言ったか覚えているか?」

 指名を受けた瑞樹がきょとんと首を揺らす。「俺が何て言ったか?」

「そう」

「脱出トリックの話?」

「ああ」

「えっと」と瑞樹は唇を舐めた。「まず通気口の柵を外す。中の犯人の腰に縄を括りつけて、外から共犯者が引き上げる。通気口から犯人が出て、柵を元に戻す。それから脚立を使って降りて脱出する、だっけ」

「ありがとう」

 何に対する礼なのか、瑞樹はよくわかっていないような表情のまま頷いた。

「その話を聞いた際、まず僕は人力で人間一人を持ち上げることは不可能だと思って、彼の説を否定したんですね。ですが、すぐさま農具倉庫に手巻きウインチがあったことを思い出しました。あれは災害時の救助などにも使えるもので、本体に貼ってあったラベルシールには最大能力0.5トンとありました。よってウインチを使えば、百キロ未満の人間を持ち上げることなど造作もないことでしょう」

 目の前で自らのアイデアが磨かれていく様を、目を輝かせて眺める瑞樹を前に、冷泉は一つ唇を結んで彼の目を見た。

「ですが、この発想が役に立ったのは源一郎さん殺しではありません」

「えっ」

 急な車線変更に、一同目が丸くなる。

「解けなかった静さん殺害の方法が、この発想により解決したのです」

予期せぬ話のつながりに、冷泉を見つめる六対の目が、同時にぱっと揺れた。

「そういうわけで、源一郎さん殺害については一旦置いておいて、先に静さん殺害についてここで話しましょう。静さんの遺体の状況については、龍川先生、覚えていらっしゃいますか?」

「ああ」二度目の今度は彼の心の準備も整っていたようで、老医師は落ち着いた様子で顎を引いた。「納屋で梁から胴体を吊り下げられて絶命しておりましたな。死因は切断されたことによるショックと失血によるもの。首は足元に転がっていて、殺害される前に喉を潰されていました。出入口の鍵は閉まっていて、出入口のちょうど真反対の壁に小さな通気口が一つあるだけでしたな」

「ありがとうございます。先生がおっしゃる通り、納屋は密室を模したものでした。ですが、これこそ手巻きウインチを使えば説明が可能だったのですね。まず、犯人は助けを求めることができないように静さんの喉を潰し、手足を縛り、胴体をぐるぐる巻きにして納屋の梁から吊るしました」

 瑞樹が透の顔を心配そうに仰ぎ見た。透はその視線に気づくことなく、厳しい表情で机の上に組んだ自らの手を見つめていた。

そんなことはよそに、冷泉の声は容赦なく続く。「それから首に鋭利なワイヤーか、あるいは糸鋸の刃のようなものを巻き、その両端を通気口から長く伸ばして出しておきました。その後、水谷さんと透さんが鍵を閉めに来ますが、当然外から見ただけでは中の異変には気づかない。犯人は彼らが納屋の中までは確認しない習慣を知っていたのでしょう。それから犯人はみんなが寝静まった夜中に戻ってきて、通気口から出していたワイヤーを手巻きウインチに巻き付け、力いっぱいハンドルを回した」

 その瞬間、透は目を閉じて顔を背け、小夜はいやいやと耳を塞いだ。

「0.5トンの力があれば、人間の首をねじ切ることも可能でしょう。こうして、静さんの首は落ち、中では夥しい量の血しぶきがあがりましたが、犯人は一切の返り血を浴びることなく犯行を済ませることができたというわけです」

「じゃあ、このとき使われたワイヤーがまだ手巻きウインチに残っていれば」

 瑞樹が普段にない固い表情で言うのに、冷泉は一つ淡々と肯き返した。

「ああ、処分されている可能性の方が大きいかもしれないが、もしも残っていれば巻き取ったワイヤーにこびりついた分の血液反応が出るだろうな」

「雨の中での作業だったのなら、犯人はずいぶん濡れたことでしょうね」

 今度は武藤霧子が普段通りの、心の奥底の見えない穏やかな口調で問うた。

「犯人はおそらくシャワーキャップか水泳キャップのようなものを被って対策をしたのではないかと思います。濡れた服は着替えれば済むけれど髪は急には乾かないのでですね」

 冷泉の淀みない返答に、武藤霧子は目顔で理解を示して唇を微笑の形に戻した。

そのまま冷泉は室内へと視線を横滑りさせる。白峰母子と龍川医師が視界に入った。呆然とした表情を面に貼り付けて固まっている。その隣に、耳の横に両手を当ててべそをかいた小夜と、背を丸めて俯いた透が続いた。

 それらの光景を胸の奥に落とし込むように一度ゆっくりと瞬きを落とし、冷泉は静かに息を吸った。

「そうして全てを済ませた後、犯人は何気ない顔をして布団にもぐり込み、電話機の爆発が騒ぎを起こすのを待った。以上が、朱野静さん殺害の全容です」

 空気が粘性をもった何か――水飴やコールタールにでも変わってしまったかのような息苦しさに、室内は重く静まり返る。誰も言葉を発する者はいなかった。やがて、一つの衣擦れが静寂を破る。

「じゃあ、納屋の鍵を閉めたときに僕が中を確認していたら、静は死なずに済んだんだね」それまで頭を抱えていた透が、顔を上げて泣き笑いのように声を震わせた。

「そういうことになります」冷泉はあくまで事務的に答える。

柱時計が無機質に、新しい一日の訪れを告げた。

「さて、源一郎さんの事件に話を戻します。木工室の密室も、当初僕はこの手巻きウインチを使ったものだと考えていました。窓枠に縄の擦れた跡はありませんでしたが、これは傷がつかないようにコーティングされた紐を使えば対処可能なのではないか、と思ったのです。しかし、焼却炉を調べたところで考えが変わりました。こちらをご覧ください」と、冷泉はポケットから、透明なビニール袋に入った黒い鉄くずを取り出した。「これは朱野家に隣接する焼却炉の傍の、不燃ごみの箱に入っていた釘の燃え残りです」

「ああ、あのとき拾った」

 瑞樹が目を丸くするのに、冷泉は一つ肯き返して視線を横にずらした。

「そう。透さん、最後にごみを集めたのは六日前だと仰っていましたね」

「ああ、間違いないよ」先刻の衝撃から抜け出せていない様子の透が、芯のない掠れた声で肯いた。

「つまりこの釘の燃え残りは、それ以降に出たものです。そして透さんに尋ねたところ、釘の燃え残りが出るようなものを燃やした事実はなさそうでした」

 冷泉の視線に、透は無言のまま肯き返した。

やまびこのように冷泉も一つ顎を引く。「この釘の出どころがよくわからない以上、事件で発生したものの可能性が高い。釘と木工室、そう考えた時に、僕はある一つのことに思い至りました。踏み台が通気口から通らないのならばバラバラにすればいいのだと」

「え、バラしたの?」

 目を丸くした瑞樹に、冷泉は首肯した。

「通気口の大きさは縦四十センチ、横七十センチです。犯人はそれを通り抜ける大きさの木箱を六つ七つ作り、中心を紐で数珠つなぎにして踏み台にしたのです」そう言って、冷泉は足元の紙袋から木箱に模した、数珠繋ぎのティッシュケースの空箱を取り出して見せた。「実際は足場を作るために上段にいくに従って小さくしたり、崩れないように紐や磁石、ゴムバンドなどは使ったでしょうけどね。犯人はこれを踏み越えて通気口から脱出し、脚立へと飛び移った。そして、外から木箱を手繰り寄せて外へ出し、格子を嵌めなおして自らも脚立を降りた。――そうですよね、朱野透さん」

 その瞬間、一同の視線が朱野透へと注がれた。

 視線の先の朱野透は、まるで彼の周りだけ空間が切り取られているかのごとく静に包まれていた。

 十五



「この一連の殺人事件を起こした犯人は、朱野透さん、あなたですね」

 その摘発に、各人が思い思いに最大級の驚愕を載せた表情で朱野透を見つめた。

「嘘」場が衝撃に支配されている中、誰よりも早く声をあげたのは、龍川小夜だった。「透さんが……? 嘘よ、まさかそんなわけ」

「突然何を言いだすんだい、冷泉くん」

不安定に揺れるか細い声が遮られる。蒼い顔を持ち上げた透は、愕然と唇を震わせた。

「釘の燃え残りを見つけた瞬間、僕は思い出しました。まず一つ『玄武の館』の窓枠を改修したのが、源一郎さんであるということ。そして、もう一つが朱野邸の三階を改修したのが透さんであるということです。聞けば建築学科卒というじゃないですか。それだけの専門知識に、住まいの改修ができるほどの腕があれば、踏み台くらいお手の物でしょう。また、普段からそういうことをしていたのであれば、木工室に籠って大工作業をしていても怪しまれることはありません。以上、技術面、環境面の両面から考えて、この踏み台のトリックを使った犯人に相応しいのはあなたしかいません」

「ちょっと待ってください」おかっぱ頭を揺らして横から反駁を示したのは、驚くことにこれも龍川小夜だった。「そんなの他の人にだってできるでしょう。あなたの言っていることは暴論でしかないわ」

 龍川小夜の豹変にも臆することなく、冷泉は淀みなく弁を返す。

「この狭い村です。自室で金槌を打ち鳴らしたならば、音を誰かが聞いているでしょう」

「そんな強引な理由で人を犯人扱いするだなんて……。一人になる時間だって皆さんあります。それに冷泉くんの言うように、村では無理だとしても、場所さえ選ばなければ他の人にだってできます。村の外で木箱を作って、村の中へ運ぶことだってできるじゃないですか」

 人が変わったような龍川小夜の流暢な熱弁を、その場の誰しもが目を丸くして見つめていた。冷泉もまた意表を突かれたうちの一人であったが、そんなことは面に出さず横目で朱野透を窺い見ていた。

そんな冷泉の目の前に、自身の論を差し挟むように、龍川小夜がその横顔に念を押した。

「透さんが犯人なわけありません」

「どうなんですか? 透さん」

 臆面もなく問いかける冷泉を、透は正面から穏やかに睨み返した。

「君の話は、仮説の域を出ていないよ」

 空中で視線と視線がぶつかり合う。

 薄氷のごとく張り詰めた空気が、しばらく真夜中の居間を支配した。

やがて、「わかりました」冷泉はふっと諦めたように力を抜いた。「認めてくれないようですので、話を進めましょう」

 朱野透は眉一つ動かさずにただ一つ、ゆっくりと瞬きを落とした。

冷泉は人形のような涼しい顔で、ただじっとその一連を見つめ、そしてふいっと視線を全体に移した。

「次に五番目の深見さんの事件です。ここまでお話ししたトリックが凝っていたので、つい難しく考え過ぎていましたが、犯人がわかってしまえばこちらは至ってシンプルな心理トリックでした。まず深見陽介さんを殺害する際、犯人である透さんは離れの呼び鈴を鳴らして堂々と玄関から入りました。例えば……そうですね、少し相談があるだとか、誰かがまた襲われただとか、あるいは犯人がわかったかもしれないだとか、それらしい口実を使ったのではないでしょうか。そして部屋に招き入れてくれた深見さんを殺害。その後、玄関の鍵を閉めて出ました」

「へ? 普通に出たのですか」

 両眉を持ち上げる龍川に、冷泉は肯き返して言った。

「ええ。普通に。彼が仕掛けたのはここからです。それから、琴乃さんや僕たちを巻き込んで、遺体を発見させ、密室状況を確認させます。その混乱に乗じ、深見さんの亡骸に縋りつくふりをして胸ポケットへ鍵を滑らせ、あたかもずっとそこにあったかのように見せかけたのです」

「まさか、そんな単純な」

「そう、龍川先生の仰るとおり、ごく単純なことだったのですよ。静さんの事件では、透さん――まぁ犯人だったのですが――、彼と水谷さんが納屋の中まで確認しなかったことが仇となったと僕は言いましたが、この事件では防犯のために僕たちが母屋の雨戸を閉めていたことが、かえって仇となってしまいました。雨戸は外敵だけでなく、光や音も遮断します。これに深見さん発の夜間出歩き禁止令も加わりましたね。これらによって透さんは母屋から気づかれる心配もなく、犯行を完遂できたのです」

今度は琴乃が嘆く番だった。ぎゅっと目を瞑り、そんなまさかと震える母親を、瑞樹が固く抱いて励ました。

「あの時、僕らは互いの行動を見ていたはずです。鍵を深見さんの胸ポケットに入れることができたのも透さん、あなたしかいませんね」

 目の奥までを射抜くような冷泉の視線の先で、顔色一つ変えることなく黙って話を聞いていた透だったが、念を押されると間髪入れずにラリーを返した。

「冷泉くん、それもただの仮説だよ」

「そうでしょうか」

「ああ。それだと前件を固定して後件を導いているだけじゃないか。命題『AならばB』は成り立つ。つまり、僕を犯人だと仮定すればそのトリックが使われたというのは君の言うとおり正しいだろうね。けれど、対偶は? 『BでないならばAでない』つまり、そのトリックが使われていないならば、僕は犯人ではない。こっちは無視するつもりかい」先程までの動揺から一転、透はあたかも論理ゲームを楽しむかのごとく、流暢な反駁を講じてみせた。「間違いなくそのトリックが使われたという証拠はあるの?」

「それ以外に考えられません。現段階で伝えられることはそれだけです」

 冷泉が淡々と断じるのに、透もごく穏やかな口調で返した。

「君が解けていないだけで、別の方法があるんだよ。そうじゃなきゃおかしいからね」

「いいでしょう。まだあなたが認めないというのなら、それでもかまいません」

「わかった、いいよ。僕も黙って君の話を聞いてみようか」

 透はゆったりと椅子に座りなおすと、食卓の上で指を組んでみせた。

 挑発めいたその態度に一瞥を加えると、冷泉は短く息を吸いこんだ。「余裕でいられるのも今のうちですよ」言って視線を全体に戻す。「透さんが犯人だとわかってしまえば、あとは水谷さん殺しのアリバイ崩しだけでした。龍川先生、先生は腕時計をしていませんね?」

「あ、ああ、していませんな」

またも突然水を向けられた龍川が、居眠りをしていた学生のように身体をびくりと固くした。

「ありがとうございます。以前、ほかならぬ透さんが仰っていましたね。この村は防犯意識や時間におおらかであり、腕時計をしているのも透さん自身と父の源一郎さんくらいのものだと」

「ああ、言った」透は悠々と顎を引く。

冷泉は鋭い一瞥を加えて視線を場に戻した。「その、この村特有のおおらかさを、透さんは利用したのです。透さんは夕食会の最中、弟さんに食事を持って行くふりをして龍川先生の家に忍び込み、居間の時計を十五分ほど進めておいた」

「ええ?」全く気付かなかったふうな龍川が動揺を示し、隣の小夜を見遣る。

視線を受けた小夜も、ふるふると首を横に振って驚愕を滲ませていた。「そんなはずないわ。私もお父さんだって、そんなこと思わなかったもの」

「ええ、気が付かないのも無理はありません。この村でテレビがあるのは朱野家と白峰家だという話でしたね。テレビの時刻表示でもあれば別でしょうが、十五分程度の誤差ならば気づかないのも無理はありませんから」

 小夜はそれでもまだ信じられないように、目を丸くしたまま宙を見つめている。犯人摘発からこちら、龍川小夜はまるで感情を覆いつくしていた透明な膜を取り払いでもしたように、情動に溢れた表情をするようになっていた。

そんな小夜に向けて、瑞樹は時折痛みを堪えるように唇を噛みしめながら、何度も視線を送っていた。

そんな住民たちの様子を順に目で追った後、冷泉は透に向き直った。

「あのとき透さんはこう言いました。九時四十五分に武藤邸に着き、九時五十五分に龍川邸に到着した。それから、十時二十分に自宅に着き、しばらくして雨が降り始めたことに気づき、窓を閉めていたところで源一郎さんと絹代さんに会ったと。間違いありませんね?」

「そうだね」

 薄らと笑みを浮かべて肯定する透に続いて、龍川医師と武藤霧子も思い思いに首を縦に揺らした。それらを丁寧に確認して、冷泉は唇を開いた。

「正しくは、それぞれ十五分ずつ早かったのですよ。つまり、透さんは九時三十分に武藤邸に着き、九時四十分に龍川邸に到着した。龍川邸を出てから、透さんには十時三十分頃源一郎さんと絹代さんに会うまでの間のアリバイがありません」

「それじゃあ、その間に」

 愕然と呟く龍川に、冷泉は一つ肯き返した。

「ええ、その空白の五十分間に透さんは水谷さんを殺害し、密室を作り上げたのです」

「では、わたくしと龍川先生は、アリバイ作りの片棒を担がされたのですね」

 ショックを受けた様子の龍川医師とは対照的に、武藤霧子はあくまで淡々と事態を要約した。

冷泉は前髪を小指で梳いて肯いた。「そうなりますね。もしかしたら、透さんが源一郎さんから武藤さんの手助け役を引き継いだのも、このトリックのためだったのではないでしょうか。深見さんの遺したメモに書かれていましたが、源一郎さんは武藤さんの身の回りの手助けはしていたものの、通院の送迎まではしていなかったようですね。ですから、この送迎の習慣自体、水谷さん殺しのアリバイトリックのために透さんが時間をかけて築き上げたものだったのではないかと思っています」

「まあ」

 武藤霧子がほとんど驚いていないような表情で、形だけの感嘆の声をあげた。

「それから、遺体が発見された後、龍川先生のところへ検視を頼みにきたのも透さんでしたね」

「そうでしたな」龍川医師が難しい顔で唸った。

「そのとき、先生に透さんはなんと言いましたか?」

「『僕は小夜ちゃんを連れて白峰邸まで送り届けるから、先生は先に行ってくれ』と。……ああ、なんてことだ!」

 額を拳で抑えた龍川医師に、冷泉は肯いた。

「そうです。先生がお気づきの通り、そのときに小夜さんを居間で待つ時間を使って、透さんは龍川家の居間と、診療室の時計の針を元に戻したのですよ。小夜さんは私室に時計を置いていないそうなので、気づくこともありませんね」

「そんなの――」

 小夜は勢いよく頭を上げたものの、言葉が続かず呑み込んだ。

同時に、「ああ……なんということだ……」龍川医師は喉を絞って深い呻き声を漏らした。

 冷泉はそれら父子其々の反応にも動じることなく、無機質に続ける。

「それから、武藤さんが三階の私室の扉を開けた瞬間、地面で植木鉢が割れる音がしたということでしたね。この仕掛けについてですが、こちらも簡単なものです。まず、丸い植木鉢を窓の縁に置きますね。そして書道用の文鎮の中央に長いゴムを巻き、文鎮を窓の外に出したまま、窓を五センチほどのところまで閉めます。ゴムのもう片端には結び目を作り、思い切り伸ばして部屋の扉に挟んで閉めます。これで仕掛けの完成です。あとは武藤さんが帰宅して私室の扉を開けるだけで、ゴムは飛んでいき、植木鉢はゴムに叩かれて落ちます。文鎮も重いので、ゴムごとそのまま落下しますね。後には何も残りません。犯人が死体発見後に文鎮とゴムを回収すれば、トリックの完成です」

「まあ」武藤霧子が感心したように、口に片手をあてて何度か頷いた。

「武藤さんが、帰宅した際に部屋で誰かの気配を感じたのは、このゴムが飛んでいくときの空気の揺れや音だったのでしょうね」

「わたくし、誰かがいるとびっくりして思わず廊下に逃げてしまったけれど、実は誰もいなかったのね」

 あくまで慎みを崩さずに事態をかみ砕く武藤霧子に、冷泉はひとつ肯きを示して、透へと向き直った。

「深見さん犯人説が潰えた以上、この仕掛けで発生したゴムと文鎮を回収できるのも透さんしかいません。このことについて何かありますか?」

 透はなおも熱弁を振るう冷泉をまっすぐ正面から見据え、泰然と振舞った。

「それも僕を犯人だと仮定した場合に限って成り立つというだけの話だよね。仮説の一つとしては、とても良くできた話だと思うよ」

 相好を崩さない透の微笑みを浴びて、何かが刺激されたらしい。らしくなく感情的になった冷泉は、好戦的に口端を持ち上げて対峙した。

「あなた、僕が確固たる証拠を握っていることに気づいていますよね」

 透はただじっと冷泉を見据えたま、あたかも何も聞こえていないかのような無反応を決め込んだ。

「なぜです? 逃げられないのはわかっているでしょうに」

 状況から相手を追いつめているのは確実に冷泉の方であるはずなのに、心理的にはまるで逆だった。妙に心拍が高鳴り、無性に身体が熱い。

 透はなおも飄々と、肘を立てて組んだ手の甲の上に顎を載せたまま答えない。

 真夏だというのに、部屋は毛穴中が刺されるようなゾクゾクした緊張感で包まれていた。

「いいでしょう。まだ続けるというのですね」

 そう言って、冷泉は何かを振り払うように一つ咳をした。

「六番目の絹代さんの事件に関しては、こうですね。僕と別れて『朱雀の館』に戻った透さんは、その足で絹代さんが立てこもっている寝室へと向かった。そして絹代さんを、量を調整した薬を嗅がせて静かにさせ、静さんにしたのと同じように喉を潰して、土蔵に運び出した。それから、両手両足を縛りつけて蔵に転がし一旦冷凍庫へ戻ると、作っておいた氷の柱を運び出したのです。そしてマスターキーを着物の袖に放り込み、首を括って天井の梁から吊り下げ、彼女の身体を氷の柱の上に立たせた。このとき、既に絹代さんは体の感覚を取り戻していたことでしょう。意識や感覚がないままでは氷の柱に立つことができず、即座に首が絞まってしまいますからね。そうなれば、せっかくのアリバイトリックが成立しなくなります。薬が切れた絹代さんはさぞかし慌てたことでしょうね。朝の涼しい時間帯とはいえ、八月です。氷はみるみる解けて足場がなくなっていく。やがて、踏み台は溶けてなくなり、身体を支える足場を失った絹代さんは宙づりになり、首が絞まって亡くなった。透さんが蔵の入口を開けっ放しにしていた理由のひとつに、死体の発見を早めるためだということがあるのは間違いないでしょう。けれど、もう一つあったのですね」

「氷の解けた痕跡を隠すため、だわね」

 武藤霧子が艶やかに唇を動かした。

「ええ、おっしゃる通りです」冷泉は肯き返した。「このとき、ちょうど風が出てきて雨が降り始めました。蔵の扉が開いていれば、蔵の中が濡れていても、雨が降り込んだものと誤魔化すことができます。一つ、死体の発見を早めるため。二つ、蔵の地面が濡れていることをカムフラージュするため。その二つの目的のために、蔵の入口は大きく開け放たれていたのです。――ここまでで透さん、何かありますか?」

 小夜が心配そうに透に視線を送った。そのことには、透も気づいていることだろう。しかし、透は寧ろ視線を一身に受けている現状を楽しんですらいるように、悠然と佇んでいた。

「犯人である僕は、冷凍庫の氷の柱とやらが、他の人間に見つかったらどうするつもりだったのだろうね」

「即席霊安室の管理を、源一郎さんや絹代さんがするようには思えません。よって水谷さんが亡くなってからは朱野家の冷凍庫を開閉する人間があなた以外にいたとは考えにくいです」

「氷を使うのは、何も遺体の管理だけじゃないよね。食事の際に冷凍庫に用があったかもしれないだろう」

「ええ、それでも無問題です。あなたはアイスボールを作る趣味があるのでしょう。あれは氷の塊から作るものだと聞きました。ならばことを起こす前に柱を見られたとしても、なんとでも誤魔化すことはできたはず。というより……これは憶測でしかありませんが、このトリックのカムフラージュのために、あなたはアイスボール作りという趣味を始めたのではないかと僕は思っています。まあ、そうでなかったとしても、あなたはこの日のために、普段から様々な形の氷の塊を入れるようにしていたのではないですか?」

 淀みない冷泉の言を受け、透はごく機嫌よさそうに目を細めて微かに首を傾けた。

「僕がボウガンで襲われた話はどう説明するんだい? 深見犯人説で君が話した、糸をひっかけて発射するとかいうせこい装置を使ったとでもいうのかな。でもさ、冷泉くん。その場合、深見が追いかけた犯人っていうのは何だったんだろうね」

 悠揚迫らぬ透の様相に、冷泉の毅然とした態度での応戦が続く。

「いえ、深見さんが犯人であればそれしかないと考えましたが、今は違います。あれは、絹代さんの仕業だったのです」

「絹代さんの?」小夜が鸚鵡返しに言った。

「ええ。ですから、透さんが起こした一連の連続殺人と、透さん襲撃は全くの別個のものだったわけです。実際に深見さんが犯人を追いかけ、帰り際にボウガンと矢を発見していること、絹代さんの簪が落ちていたことからも、そうと考えるのが妥当でしょう。絹代さんが凶行に及んだ動機についても、あくまで推測に過ぎませんが、ヒントは得ています。――絹代さんの私物からこういうものが見つかりました」と言って冷泉は、箪笥の底から見つけた三冊の書籍を、応接机の上に並べて見せた。「ご覧の通り、相続や生前贈与、遺言について書かれた本です。この幾つかの頁に、源一郎さんからいかに財産を奪い取るかを画策したメモが挟まっていました」

 今度は、万年筆で殴り書きされた紙片を何枚か、書籍の隣に並べる。

 ソファに座っていた面々が一斉に、首を伸ばした。

「このメモからも絹代さんが源一郎さんの財産を狙っていたことが窺えます。このことから推察するに、絹代さんは静さんが殺害されたのを受けて閃いた。このまま透さんも死亡すれば、もしかしたら源一郎さんの財産が自分のものになるのではないかと考えたのではないかと思われます。透さんと静さんが亡くなれば、おのずと源一郎さんの財産の相続権は、源一郎さんが誰よりも忌み嫌う朱野穢さん一人のものになります。そうなれば、穢さんに相続させるよりは絹代さんに相続させようと、その旨の遺言書を書いてくれるかもしれない。そう絹代さんは目論んだのです。そして静さんが変死した今ならば、静さん殺害の犯人に、透さん殺害の罪も被せることができる。その考えのもと、絹代さんは透さんを襲ったのです」

 小夜は小さな両手で口元を覆ったまま、唖然と冷泉を凝望した。

 その視線にも動じることなく、冷泉はこれまで通りただ滔々と言葉を続ける。

「その後外部への連絡が断たれたことと、静さん、水谷さんと立て続けに殺害され、穢さんも失踪したことを受けて、彼女は焦り出します。これはいよいよ急がないと透さんどころか源一郎さんも殺されてしまうかもしれない、と考えたわけですね。そうなると、源一郎さんの財産をもらう手立てがなくなってしまいますから。それで、透さん深見さん共犯説を頑なに主張し、源一郎さんと透さんを分断した上で、二人きりで部屋に立てこもり、遺言書を書かせようと試みていたと。こういうことだと思います」

「なるほど、絹代さんは絹代さんで、透さんを亡き者にして源一郎さんの財産を自分のものにしようと企んでいたのですな」龍川医師は、ふむふむと何度も首を縦に揺らした。

「そういうことです。そして、これは憶測にしかなりませんが、これまで揃った材料から考えるに、二年前に静さんを階段から突き落とした犯人というのも絹代さんだったのではないかと思っています」

「ああ……あれも……いやあ、おそろしい……」

 龍川医師はなおも神妙な顔で頷いて、白い鼻髭の端を何度も指で引っ張った。

「ちなみに、透さんがトンネルに爆発物を仕掛けたタイミングは、深見さんを白峰邸に送り届けてから、深見さんが朱野邸を訪れるまでの一時間の間でしょうね。深見さんが朱野邸を訪れた時、透さんはお風呂上りだったと深見さんは手帳に遺しています。それから、各家の電話機に仕掛けた爆発物は、先ほども言った通りですね。それこそ施錠する習慣のないこの村においては、忍び込んで悪戯するなど造作もないことでしょう。以上が、朱野透さん犯人説ですが、何か指摘はありますか?」

 誰も言葉を発するものはいなかった。

 その場の興味が透の反応へと向いているのは歴然であるが、誰しもが自然と透を直視するのを避けているようだった。したがって、まるで盗み見でもするかのように一様に顔を伏せたまま、横目でちらちらと窺う気配で溢れかえる。

「朱野透犯人説に矛盾はないよ。仮説としては、本当に良くできた話だ」透はふっと力を抜くように能面のような笑みを浮かべた。「しかし、他の人を犯人だと仮定しても同じような作り話が出来上がりそうだ。それでもここまで僕が犯人だと言い切るということは、君はその証拠とやらにずいぶんと自信があるようだな」

 透の口ぶりは、醜く言い逃れをする犯人というよりは、愛弟子の成長を喜ぶ師のような温かみをどこかに感じさせるものだった。そのせいで、冷泉は授業中に教師から質問されているかのような妙な錯覚を受ける。

 けれども、彼はすぐさま我を取り戻して、静かに事を進めた。足元から紙袋を引き寄せる。一瞬、何かを考え込むようにその包みをじっと見つめたまま動きを止めたが、やがて、「これです」と、中から角ばったものを取り出した。「小夜さんの部屋にあった時計です」

 その瞬間、小夜は「やめて」と小さく叫び、透は力を抜くようにふっと笑った。それは諦念とも、満足とも取れた。

 それから彼の顔は表情を失い、視線はテーブルの天板で止まった。

 辺りの空気が粟立つ。透、小夜、冷泉を除いた面々は、皆一様に合点がいかない表情を浮かべながらも、それぞれが何かの終焉を感じ取っているようだった。

 殺人鬼の白旗を冷泉はしっかりと受け止めた。それは、熱い酸が心にじわじわとしみ込んでくるような不思議な感覚だった。これ以上の追及は不要どころか、ともすれば過剰攻撃かもしれない。しかし、一度包みを解いた以上は関係者にその中の全てを示すことが筋であると、ただ責務を全うすべく言葉を続けた。

「これは瑞樹が小夜さんに贈ったデジタル時計です。先ほど小夜さんの部屋で尋ねたことをもう一度問います。小夜さんはこの時計の時刻を、いつ、何を参考にして合わせましたか?」

 小夜は、温度を失った透の横顔を縋るように見つめたあと、冷泉に視線を移して呟いた。

「昨日の朝、居間の時計を見ながら……」

 その目にみるみる透明なものが溜まり、嗚咽と共に溢れ出した。

 大時計が示す時刻は零時四十五分。冷泉の手の中の時計は零時半を指していた。……

 部屋には小夜の押し殺した泣きじゃくる声だけが、小さく押し寄せては引いていく波のように響いた。

 この瞬間だけは、誰もが言葉を完全に失っていた。

 朱野透は、顔のすぐ先の天板を、どこか遠くを見つめるような目で眺めていた。

「警察が来て調べたら全て明らかになる話だというのは、あなたが一番よくわかっていることでしょう。朱野透さん――いや朱野幸人さん」

 名前を呼ばれた瞬間、朱野透――否、朱野幸人は幽かに唇を持ち上げた。

 それは、ゾッとするほど冷たく美しい笑みだった。

 目に灯る感情はない。それはただの二粒の虚ろな球体にすぎなかった。

 静寂から一転、えっ、と誰からともなく、驚愕に満ちた声があがる。

 砂鉄に磁石を突っ込んだように、ゾワッと一気に空気が逆立った。

「幸人さん……? じゃあ、本物の透さんは……」龍川小夜が慟哭を忘れて息を呑む。

「この人は朱野透さんではない。弟の朱野幸人さんです」冷泉の視線は、寂しそうで、それでいて静かに相手を突き刺すような色をしていた。

その先の朱野幸人は、ただ斜め下の何もない空間を、感情の灯らない瞳で眺めていた。

「一卵性双生児のDNA型が同じであるといっても、歯型や指紋は異なります。歯医者の治療記録や、透さんの通っていた小学校や中学校で彼の指紋を採取すれば、今の朱野透と別人であることはわかる話ですよ」冷泉は目の前の殺人鬼を正面から見た。

 朱野幸人は、退屈な授業をやり過ごす学生のように気だるげな仕草で、空のグラスに手を伸ばす。そして、そのまま一気に握りつぶした。薄く繊細な透明色の破片が、昏い赤色に浸される。

 室内には見渡す限り、頭の天辺から氷水を浴びせられたような顔が立ち並ぶ。朱野幸人だけが我関せず、湧き出る紅を涼しい顔で、時折恍惚と眺めていた。

「この手で糞どもを血祭りにあげた。腐った村は腐った血で洗い流さないとな。血の雨だ」

 全てを察した小夜が、静かに透明な涙を流した。



 十六



「いつから入れ替わっていたのです?」

 龍川が涙を流したまま黙り込んだ愛娘の背に手を添えながら、戸惑い気味に尋ねる。

冷泉はそれらを一度見遣り、「十五年前の脱走事件からです。そうですよね、幸人さん」あっけらかんと、目の前の黒髪へと投げかけた。

 掌の上で赤く濡れた硝子に魅入りながら現実世界から遠ざかっている様子だった幸人だったが、どうやら話はしっかり聞いていたらしい。文字通り人が変わったように投げやりな態度で口を開いた。

「ああ。透が高校から県外に進学することは聞いていたから。チャンスだと思ったんだ。いくら双子といえども、微妙に顔かたちは違うものだ。急に入れ替わったら家族や友達にはわかるだろうからな。春休み中に入れ替わって、誰も透のことを知らない新天地で新学期から過ごせばばれることはない。牢を脱走して、東京にある透の下宿に乗り込んで入れ替わった。しばらく理由をつけて実家には戻らないことにしてな」

「その時、本物の透さんを薬漬けにしたんですね。牢を出たばかりのあなたが、薬だなんてどこで手に入れたんですか?」

 冷泉の質問を、愚門とばかりに朱野幸人は鼻で嗤って、「東京だぞ。そんなもの金さえ積めばいくらでも手に入ったさ」まるで朱野透を演じていた彼とは別人のように残忍な目つきで吐き捨てた。

 冷泉は相変わらず気にすることなく、口を閉ざしたまま幸人の話に耳を傾けた。

「高校の入学式を控えた三月末に、水谷から下宿に電話が掛かってきた。穢が脱走したってな……その穢が俺だとも知らずに間抜けな話だ」幸人は自棄の滲む遠い目をして、口元に嗤いを浮かべた。「それから水谷はこう続けたよ。外部への体裁もあるから、脱走の件は源一郎と自分しか知らない。何か情報があったら、自分宛てにこっそり連絡をくれって。そこで電話は切れた。俺は下宿先のマンションに透を監禁して薬を与え続けた。それから奴の思考力やら判断力が完全になくなり、奴の口から情報が洩れる心配がなくなったところで水谷に連絡したさ。繁華街の外れでぼろ雑巾みたいに捨てられているのを発見した、様子がおかしいんでヤクでも打たれてんじゃねえかってな。それがちょうどその年の八月のことだな。東京くんだりで薬漬けにされていたなんて、源一郎の狸に知れたら監督不行き届きで叱られるのは水谷だ。東北のどっかの山奥で見つかって、恐怖から精神に異常をきたしたことにでもにしようかって提案したら、さすが透さんだなんて感謝されたよ。てめぇが拝んでいる透さんこそが騒ぎを起こした張本人だとも知らずに馬鹿な野郎だ。そこから先は、水谷の日誌にあったとおり」

 村一番の人格者の豹変――否、その正体に、住民皆が絶句していた。

 その小針で刺すような視線ですらも愉悦とばかりに、幸人は悠々と話を続けた。ぽつぽつと、よく通る澄んだ声で。気だるげに緩んだ目元は、もの悲しくもどこか美しかった。

「高校大学の七年間村に帰らなければ、細かい顔つきや身体つきが変わっていても年月のせいだと見過ごされるだろう。そう考えて、俺は何かしら理由をつけて一度たりとも村へは帰らなかった。つかの間の自由を楽しんだよ。そうして大学を卒業して、実家に戻ったさ。村に復讐するためにな」

 そう言って、幸人は恍惚と血濡れの右手を光に晒した。その身から溢れた昏い赤色が、鈍く光を反射する。

「百合子さんと松右衛門氏も、事故ではなくあなたが殺害したのですよね」

 頃合いを窺って差し込まれた冷泉の問いかけに、幸人はとろりと視線を転がし、「ああ」と事も無げに嗤った。「皮膚から入り込む毒薬があるのを知っているか? 百合子はな、食事を持ってくるたびに俺を殴ってストレスのはけ口にしていたよ。抱えていたアルミの皿を投げつけて、気が済むまで殴って、それが済むと何ごともなかったかのように空になった食器を持って出て行くんだ。それだけじゃねえぞ」透は喉の奥で、さも可笑しそうに笑みを潰した。「あいつ、俺のこと、犯してやがったんだ。透くん透くんと呼びながらな」

 遠くで雷鳴が轟く。誰かの喉がごくりと鳴った。

「牢のドアノブの内側に少量ずつ毒を塗り続けて、じっくりと苦しめながら殺してやった。

松右衛門のじじいはな、全ての元凶だ。あいつが村の癌だった。井戸の前に呼び出して足を払ってやればあっけなく落ちていったよ。死体を引き上げるときは、あまりの気持ち悪さに虫唾が走ったが、蛆虫にお似合いの醜い最期だ。せいせいしたさ」

話すうちに、幸人はどんどん自分だけの世界に入り込んでいるようだった。想いを馳せるように目を細めたり、口元を笑みの形に緩めたり、それはある種、蠱惑的な魔力で見る者を惹きつけるものだった。

「源一郎もな、殺したくらいじゃ留飲は下がらないが、まあせいせいはしたな。この瞬間のために生きてきたって部分はあったから、達成感はあった。俺の正体を、お前が散々可愛がってくれた穢だと明かすと、出目金みたいに目ェひん剥いて、脂汗浮かべて絶句していたな。それから顎を潰され両手を切られて、恐怖と痛みと絶望のどん底に落ちたまま死んでいったんだ。いい気味だな。正直あと百回殺し足りねぇくらいだが、まあそれなりのショーだった。

藤川絹代は、源一郎を殺した後で殺すと決めていた。あいつが源一郎の財産目当てで近づいてきたってことは一目見たときからわかりきっていた。俺も静も実際に何度も命を狙われかけたからな。悉く失敗しながら、それでも狸じじいにどうにか遺言書を書かせようとコソコソ画策する様は、憎さ通り越して滑稽だった。狸を殺して、財産はもう手に入らなくなったんだと絶望させてから吊るしてやったさ。財産欲しさに子供を殺しにかかるような女だ。死んで当然の金の亡者だよ。

透も静も水谷も。俺のことを気の毒だと口では言っていたが、結局見てみぬふりして自分たちだけ自由を謳歌していたんだ。同罪だな。善人のふりをして、いざ苦しんでいる人間を前にしても、安全地帯から眺めているだけの偽善者だ」

 小夜が、何かを言いたげに唇を開いたが、腹に力を入れたところで言葉が見つからなかったのか脱力して俯いた。

龍川医師がやりきれないとばかりに、首を左右に揺らす。琴乃はいまだに信じられないふうで、愕然と口を開いたまま放心していた。

そんな面々をひとしきり目でなぞった冷泉は、改めて正面から幸人を見据えて、ごく純粋に疑問を並べ立てた。

「幸人さん。僕には一つどうしてもわからないことがあります。なぜ、朱野透さんの遺体を僕たちに見つけさせたのですか? あのままあなたが彼の遺体のある洞窟に僕を導かなければ、僕は深見さん犯人説を信じたまま、今も真相に辿りつくことなく過ごしていたはずです」

 朱野幸人はしばらくじっと考え込み、やがて馬鹿らしくなったかのように自嘲っぽく笑った。

「さあ、なんでだろうな」そう言って視線を明後日に飛ばす。「まあそんなことどうだっていいだろ。どうせ逃げる気なんてなかったんだ」

 その横顔に、冷泉はシャボン玉を両手で掬うように丁寧に問いかける。

「あなたは、知っていてほしかったのではないのですか?」

 反応はない。鼻歌でも歌うような暢気さを滲ませ、穏やかに遠くを見つめるその横顔に、構わず冷泉は投げかけた。

「僕は先ほど、この事件の犯人は自己顕示欲にあふれていると言いました。十五年間を日陰で過ごし、その後も朱野透としての人生を歩んできたあなたは、ご自身のことを、朱野幸人という存在を、世間に見て欲しかったのではないですか」

 依然朱野幸人からの返事はない。が、その視線だけは、滑るように斜め下へと転がった。

「僕は、事件を解いている間、ずっと犯人から手招きをされている感覚でした。壁にぶち当たるたびに、絶妙なタイミングで少しずつヒントが降ってくるような。水谷さんの日誌だって、事件の真相を知られたくないのならば、隠すなり、捨ててしまうなりすればよかったし、そもそも水谷さんの部屋に僕たちを立ち入らせない理由なんていくらでも作ることはできたはずですよね」

 反応がない。朱野幸人はそっぽを向いたまま、地面から何もない壁面へと、縦方向に視線だけをずらした。自身が閉じ込められていた封印の城に二十三年分の思いを馳せているようにも、逆に全くの虚無のようにも見えた。

「あなたが捕まることを恐れていなかったというのは真実なのでしょう。今回の事件は、密室にしてもアリバイ工作にしても、一見凝っているように見えて、その実、科学的な捜査の手が及べば、すぐに犯人にたどり着きそうなものばかりでしたから。目的を成し遂げるまでの間、この村の中にいる僕らを欺きさえすればよかった。復讐を完遂すれば、捕まってもよかった。そう思えることだらけです。けれども、おそらくそれだけではないでしょう。寧ろ逆ではないですか? 知って欲しかった。村の呪いが生んだ悲劇を、朱野幸人という人間の存在を見てほしかったんじゃないですか?」

「知らないな。難しいことはわからないよ」

 黙って聞いていた幸人だったが、場に齎された奔流をせき止めるように、そこできっぱりと言葉を差し込んだ。表情だけは至極穏やかで、無音声で再生すれば何気ない談笑のワンシーンと見まがうほどだった。

 そんな朱野幸人の掴みどころのない情緒を、冷泉はただ正面から眺めていた。本音をはぐらかしているようにも、幸人自身、情緒や本心を持て余しているようにも見えた。

 無音の小休止に、ようやく思考の整理が追いついたのか、白峰琴乃が歯車の錆びたねじ巻き人形のようにぎこちなく顔を上げた。

「人殺しは許されないとはいえ、あなたが朱野家に恨みを持つのは仕方のないことだと思うわ。見てみぬふりをしていた村の人間のことも、憎く思うでしょう。でも、どうして……? どうして陽介は殺されなければならなかったの?」

 言葉を紡ぐごとに、想いが熱い雫となって溢れ出す。嗚咽と涙に溺れる合間に息をつぎながら、琴乃は懸命に気持ちをぶつけた。

 そんな琴乃の拙い泳ぎが無事に岸へとたどり着くのを無感情に待ってから、朱野幸人はこともなげに唇を持ち上げた。

「嫉妬だろうな。憎くて羨ましくて仕方がなかった。同じ村の子として、朱野源一郎の子としてこの世に生を受けておきながら、早々とこの村からの脱出に成功した深見陽介という男がね。そう、完全に外の世界で、何も知らされないまま、しがらみなく生きているという点においては、透よりも憎かった」

 羽根より軽い口調で躊躇なくもたらされた愛弟の死の真相に、白峰琴乃は声をあげて泣き崩れる。少女のような母親に瑞樹は寄り添い、罪悪感やら戸惑いやらやり場のない憎しみやらが綯交ぜになった視線で幸人を照らした。

 それらを一通り確認して、冷泉は落ち着いた口調で尋ねた。

「あなたは、いつ深見陽介さんの出自を知ったのです?」

「大学を卒業して村に戻って来た年の夏、ちょうど一年前だな。水谷が源一郎の使いで二日間村を離れることがあったから、そのときを見計らって水谷の部屋に忍び込んだ。そこで日誌を読んだんだ。あいつが日誌をつけていることは、屋敷を改装した際にチェックしていたからな。復讐相手の選定をするために、被告人どもの罪状を確認する目的だったが、意図しないところで爆弾を見つけた流れさ。なにやら俺には陽介という腹違いの弟がいるって話じゃないか。深見陽介は六山市出身だって話だったし、朱野源一郎の隠し子である陽介と深見陽介が同一人物だったら奇遇すぎて面白い。興味半分で調べ始めたら本当にそうだったもので、流石に驚いたよ。あいつ、本当に俺の弟だった。運命のいたずらってやつか。これは天啓だと思ったね」

 目を細め、遠くに想いを馳せる幸人は、またも自分だけの世界に還ってしまったように見えた。

「ずっと独りだった。時折透が大人たちに隠れて牢にやってきて、あれこれ教えてもくれたがな、それだけだ。教育も受けてないし、人との交流の仕方もわからない。こんな捻くれた俺とでも気が合ったのは、同じ血が流れていたせいだったんだな」

 幸人は嘲るように吐き捨てた。透に扮していた幸人は、社交的かつ知的で人望の厚い青年だったため彼の言うままが真実だとは到底思えなかったが、ただの自虐だろうと冷泉は特に反論も慰めも挟まなかった。

「何も知らなかった陽介を殺すのなら、私を殺してくれればよかったのよ。貴方が言うように、見てみぬふりをしていた住人のうちの一人じゃない」地面を見つめたまま、琴乃がいじける子供のように涙声をあげた。

その瞬間、幸人が音もなく立ち上がる。その場にピリッと緊張が走り、冷泉と瑞樹の眼に武人の焔が灯った。瑞樹は、幸人を凝視したまま、ソファの下から竹刀代わりの角材を手繰り寄せる。

「あなたが陽介にしたことは、ただの八つ当たりよ」

「ああ、そうだよ。全てを呪ってんだ、俺は」良く通るその声は、地鳴りのように共鳴してその場を包み込む。凶暴な眼光が、琴乃の頼りない背中を炙った。「お前もこの憎き村の住人の一人だってことを忘れたのか? お望みならば、今からでもぶっ殺してやろうか。どうせできっこないと踏んで口だけで言ってんだろ? いざ殺られる段になれば、ひいひい泣いて命乞いするくせに、恰好つけてんじゃねぇぞ」

 あまりの言葉の礫に、瑞樹が母を背に隠すように一歩前ににじり寄った。しかし幸人は、そんな瑞樹の姿は目に入らないかのようにその奥の琴乃を、溝にこびりついた汚泥を見るような冷たい目で見下ろして唇を歪めた。

「八つ当たりだ? 上等じゃねぇか。そうだよ。深見は何も悪くねえよ。あいつはただまっすぐに生きていただけだ。本当にいい奴だった」微かに幸人の喉が詰まった。「だがな、もとよりくだらない信仰にこっちを巻き込んだのはお前らだろ。なんでこっちだけが地獄を味わわなきゃならないんだよ。何も悪いことしてないのに。ただ生まれてきただけでよ」

 幸人の血を吐くような静かな叫びが、腹の奥底から全身を震わせる。琴乃は顔を覆い、わっと歔欷の声をあげた。ごめんなさい、ごめんなさいと音の形を成さない叫喚が、湿った闇に消えていく。

 いつしか琴乃の流す涙のいくらかは、幸人の心境を想ってのものへと変わっていた。残酷に命を奪われた陽介の姉としての白峰琴乃と、残酷な信仰に対し見てみぬふりを続けた罪深き村人の一人としての白峰琴乃。立場と立場とのはざまで、琴乃の心は張り裂けんばかりに激しく揺れ動く。

傷つき疲れ果てた幼い獣が血の涙を流すさまを、各々黙したまま、思い思いにその身に焼き付けていた。

「今更口だけの謝罪で償った気になるんじゃねぇぞ。そんなことしたって、なかったことにはならない。俺は人間らしく生きることは端から諦めていた。生まれた瞬間に奪われていたんだ、望みようがないさ。地獄から出られないのならば、全員俺と同じ場所に落としてやる。村の連中に同じ苦しみを味わわせてやることだけが、俺の唯一の生きる目的だった。本当は村ごと一気に皆殺しにして、滅ぼしてやろうかと思っていたんだけどな」

 憎しみをこれでもかと凝縮したマグマのような眼光で、その場を横薙ぎに焼き払う幸人の視線を逃げることなく受け止めていたのは、瑞樹と小夜と武藤霧子の三人だけだった。

「それは、武藤霧子さんの存在があったからですか?」

 背後から突然差し込まれた質問に、朱野幸人の顔色が明らかに変わった。

「は?」幸人は冷泉を振り返った。

「あなたは、武藤霧子さんがかつて源一郎さんの身勝手な都合により、子供と引き裂かれたことを日誌から知って、彼女に親近感を覚えたのではないですか?」

「うるせぇな」笑顔でナイフを振りかざす子供のような無邪気な顔で、幸人は一蹴した。「知らねぇし、知っていても教えるかよ。自分で考えな」そして椅子へどかりと座り、暖簾を下ろした。「さぁ宴は終わりだ。煮るなり焼くなり縛るなり好きにしろよ。俺は抵抗しない」

 そうして、処遇を委ねるべくその場へ力のない視線を投げかける幸人の態度を受けて、住民たちの間に互いの動向を窺うような視線が飛び交った。

 住民の誰しもが、目の前の殺人鬼への恐れや怒りと同じくらいの罪の意識を抱えていた。その罪悪感が、殺人鬼を拘束しようとする手を押しとどめるのだろう。

 動くものは誰もいなかった。

「つまらないな。これ以上被害者を生まないために、犯人の正体を明らかにしたんだろう? 今更うわべだけの罪悪感とか気取ってないでさっさと縛り上げてみろよ、偽善者どもめ」朱野幸人は薄笑いを浮かべて低く言い放つ。語調が静かなのがかえって恐ろしかった。「罪悪感だ? 持ち合わせてないくせによ。そんなもん、小指の先程でもあったのなら、なんで助けてくれなかったんだよ」

「違う」 呪詛を断ち切る高い叫びが、室内を切り裂いた。小夜だった。「透さんは、あなたを助けようとしていたわ」

 少女の悲痛な叫びにも幸人は何かを感じた様子はなく、冷めた目でもって一瞥を加えるだけに終わった。

「ああ。そういや、透と恋人ごっこしていたんだっけ。十歳の小娘に手を出すなんて、透も俺に劣らずとんだ変態野郎だな」

「違う、違う」大切な人の身に投げつけられる泥土を振り払うように、小夜は短い髪を乱して左右に首を振った。「透さんは、あなたを連れて村から逃げ出そうとしていた……!」

 少女の告白に、その場の空気が粟立った。唯一、瑞樹だけが思うところがあったようで、曇った面でふいと視線を逸らした。

 集まったその場の視線にも動じることなく、小夜は感情を抑えるようにふうと一つ息をつくと、ぽつりぽつりと語りはじめた。

「ええ、そう。私は透さんにずっと憧れていた。幼稚な恋だったけれど、透さんは馬鹿にすることなく受け入れてくれていた。忘れもしない、これは透さんが東京の高校に合格して、いよいよ村を離れることが決まった日のこと。透さんから大人になったら一緒に村を出ないかと持ち掛けられたのよ」

 はじめて耳にする娘の告白に、龍川医師は目を剥いて驚きを示した。

そんな父の反応を気に留める様子もなく小夜は力強く話を続けた。

「もちろん、私は喜んで受け入れた。ずっとこの村は変だって一緒に話していたから、何も拒む理由はなかった。透さんは、大学を卒業して外で就職先を見つけて、一緒に暮らす手はずを整えたら、彼の弟妹と私と瑞樹くんを必ず迎えにくると約束してくれた。その時私は高校生になっているはずだから、村の外でも生きていけるようにきちんと勉強をしておくことを約束して、透さんの背中を見送ったの」

 少女の切ない告白が響き渡る。小夜は思いを馳せるように遠くへ飛ばしていた視線を、近くに手繰り寄せて目を細めた。

「けれど透さんは村に戻ってきてから、そんな約束なんか忘れてしまったかのように、ぱったりその話を口にしなくなってしまった」小夜は沈痛そうに、一度視線を落とした。「まさか、透さんが幸人さんと入れ替わっていたからだなんて、想像もしなかった」

 あの幼い小夜の口から出ていると思うと信じられない、そんな様子で龍川医師と琴乃は華奢な身体から溢れ出す力強い告白を見つめていた。

 幸人は何の反応も示さず、ただ気怠げな半眼で、くだらないとばかりに宙を睨んでいる。

「透さんは、自身と弟を引き裂き、不条理に監禁するこの村を心底憎んでいたわ。けれど、まだ子供である自分にそれを覆す力は持ちえない。だから、大人になったら必ず外の世界に連れ出すといつも言っていた。今考えたら、警察に駆け込むことだってできたのかもしれない。けれど、彼は頑なにそれを拒んだわ。失敗を恐れているようだった。何の躊躇いもなく赤ん坊を牢屋に閉じ込める村の冷徹さを見て育ったものだから、狂信的な信仰と体格差が持つ圧倒的な力を前に、恐怖を抱くのも仕方のないことだと思う。幸人さん、あなたには彼の思いが伝わらなかったの?」

 幸人は貝のように何も答えない。ただ、顎を引き、睨むようにして虚空を見つめていた。

 小夜はそんな彼の心の胸ぐらをつかむように、一歩身を乗り出した。

「幸人さん、あなたも言っていたじゃない。あなたが牢から出てきたときに少しでも役立つように、透さんはこっそりと本や新聞を頻繁に届けていたでしょう? 大人たちを恐れていたあの人が、危険を冒してその目を盗み、あなたに言葉を教え、書物を届けていたこと。これが弟を救う気持ちでなければ何だというの?」

「…………お前に何がわかる……」

 地を這うような声に、小夜の細い体がびくりと跳ねた。

 幸人の身体は小さく震えていた。垂れた前髪の隙間から覗いた目から情念の塊が零れるのが見えた。

 辺りは水を打ったようにしんと静まり返る。各々がごくりと喉を鳴らす音さえもが響き渡るようだった。

「なんであなたがそんな顔をするのよ! あなたが殺したくせに!」

 小夜の声が弾丸のように暗く湿った部屋を横切った。射抜かれた男は痛みに耐えるように固く俯いていた。

「透さんは……もう……泣くことすらかなわないのに……」

 その言葉は、徐々に溢れる想いに呑み込まれて消えた。瑞樹がやりきれないという表情で小さく首を振る。

「小夜」

 龍川医師の声が飛ぶ。しかし少女の耳には、そんな父の声さえ耳に入らないようだった。

「あなたは、そんな透さんを薬漬けにして、最後は虫けらのように殺したのよ」

 小夜の左目からも一滴の光が零れた。

 愛する者を喪った彼女は、それを拭おうともせずにその場に凛と立っていた。

「やめなさい、小夜。どんな理由があろうと殺人だけは断固としていただけないが、透さんの本心を幸人さんは知らなかったんだ。もしかしたら、上京した透さんから見捨てられたように思ったのかもしれない。彼が知らない透さんの本心まで持ち出して責め立てるのは少し違うだろう」

 穏やかに窘める父の言葉に、小夜は小さくしゃくりあげる。そんな娘の姿を少しの間眩しそうに眺めて、龍川医師は静かに言った。

「すべてはこの村の悪しき風習と、それに異を唱える勇気すら持ちえなかった我々が悪いのです」

 その言葉に、白峰琴乃の目線が示し合わせたようにしゅんと項垂れる。

 冷気が足元から駆けあがるような沈黙を、一歩後ろから俯瞰するように眺めまわして、冷泉は何度か口を開閉した。唇を噛みしめては開く、それを三度繰り返したところでついに意を決したらしく、目に強い光を宿して静かに言った。

「幸人さん……あなた。もしかして、透さんを殺していないのではないですか?」

「え?」

 幸人以外の、その場の全ての者のまなざしが冷泉へと注がれた。その驚愕を一身に受けてもなお、冷泉は淡白な表情で燃え盛る暖炉へと薪をくべる。

「透さんは自殺だったのではないでしょうか」

 幸人の左の眉がひくりと動いた。しかし、それきり幸人の身体は動きを止めた。

今度は次第に幸人の方へと視線が移りはじめる。冷泉に集まった際の反射的な鋭い視線とは違い、今度は各人がおもいおもいに視線に衣を着せたような、遠慮がちなものであった。

「そんな……どういうことだ……透さんは薬で分別を失っていたんじゃないのか……」

 頭の中だけでは受け止め切れずに溢れた混乱を発散でもするかのように、龍川はがりがりと頭を掻きむしった。そんな老医師の方へは視線を向けず、あくまで幸人を正面から真摯なまなざしで見据えて、冷泉は穏やかな声で尋ねた。

「それどころか……透さんを殺してもいないし、薬漬けにしてもいない。合意での入れ替わりだったのではないかという考えが、今僕の頭の中には浮かんできています」

「な!」

 静寂が微かな動揺の波に変わる。

 幸人は何も答えない。ただ、据わった目でじっと冷泉を見つめていた。それをもって彼が沈黙を選んだと判断した冷泉は、そのまま言葉を続けた。

「僕は先ほどまで、東京での空白の四か月を、幸人さんが透さんを薬漬けにするための期間だったのだと考えていました。つまり薬が効き、透さんの判断力が失われるまでに要した期間ですね。けれど、ここまで様々な話を聞いていて、この予想は間違いだったのではないかという考えになってきています」

 幸人は瞬きに伴って視線を落とした。唇を固く引き結んだままだ。

「生まれてから十五年間を牢で過ごしていた幸人さんが、難なく透さんと入れ替わるには、それなりの教育が必要だったはずです。それを施したのは、誰だろうということに関しては、僕も疑問に思っていたのですが……その謎はみなさんも聞いたとおり、幸人さんと小夜さんの話により明らかになりました。けれど、透さんがそこまで密に幸人さんと交流していたとなると、新たな考えが浮上してきますね。すなわち『四神村脱出計画』について、透さんが小夜さんや瑞樹に打ち明けていたように、幸人さんにもまた打ち明けていたのではなかろうかという考えです」

 ここで冷泉は一度話を切り、幸人の反応を待った。しかし、幸人は魂を失ったようにじっと足元を見つめたまま動かない。寧ろ彼よりも周りの者の方が、食い入るような視線でもって熱心に冷泉の話に耳を傾けているようだった。

「まあ……本来ならば、僕が憶測で話すよりも、幸人さんご本人から話を聞くのが一番なのでしょうがね」と、冷泉はもう一度幸人を見遣る。

幸人に話す意思がないのを確認してから、少し残念そうな表情をちらつかせて続けた。

「ええ、まあ。幸人さんが透さんの何かしらの尊厳を守ろうと、彼の関与をなかったことにしたいのだろうことはわかります。そのために、頑なに口を閉ざしているのでしょう。

話を戻しますと、……まあ、そういうわけで、入れ替わりももしかしたら合意の上でのことだったのではないかと、僕は考えたわけですね。東京で幸人さんと透さんは合流し、四か月の間透さんは幸人さんを匿い、共に村の外で暮らして社会のあらゆることを教え込んだ。そしてそれが終わると、自身は幸人さんになり替わって四神村に戻った。この主旨を憶測するならば……そうですね。『脱出計画』が成功した後で、幸人さんが牢の外でも生きていけるように外に慣らすためと、それから境遇の不公平さを埋める意図があったのではないかと思います。幸人さん、どうですか?」

 具体的な冷泉の質問にも、幸人は反応を示さない。ただじっと貝のように口を噤んだまま、思いつめたような険しい顔で足元を睨んでいた。

 それらを見比べるように視線を撒いた後で、瑞樹が普段よりワントーン低い控えめな声をあげた。「じゃあ、透さんは薬で分別を失っていたわけじゃないの?」

「はっきりとはわからないな。ここまで聞いた透さんの為人を考えるに、透さんに分別があったのならば、今回の幸人さんの凶行を止めたんじゃないかと思っているが」

 冷泉の見解を聞き、瑞樹は沈痛な面持ちで視線を落とした。

「俺もそう思うんだ。あの透さんが復讐に走るなんて……考えにくくて」

「あの優しい透さんが凶行を許すわけない。絶対に」小夜が噛みついた。

眦を上げた彼女に、瑞樹は困ったような視線を返して言った。「透さんが最期の瞬間まで分別を保っていたとしたら、どうにか助けを求めようとはしなかったのだろうか」

「きっと……無理やり縛られて洞穴に監禁されていたのよ。家で殺人事件が起きたとなれば、透さんだって暢気に幸人さんのふりなんかしていられないわ。入れ替わりのことを話してしまうかもしれない。そうなると、幸人さんの復讐は失敗に終わる。だから幸人さんは、邪魔な透さんを洞穴に連れ去ったのよ」

 小夜は、幸人への敵意を引きずったまま感情的に言い放った。幸人はうつろな表情で足元を眺めていた。

「それで……透さんは、悲しくなって自ら……」

 そう言って眉根を寄せる小夜に、冷泉は幾つかの相槌で以て理解を示すと、あくまで理性的な口調で差し挟んだ。

「その説も考えましたがね。少し違和感があるのですよ」少女の不服そうな視線にも動じず、冷泉はなおも事務的に続けた。「まずは手錠がはまっていた手足に抵抗した痕跡がなかったこと。それから、洞穴にあった飲食物に手をつけた形跡がなかったことですね」

「それだったら、薬で身体に力が入らないようにされていたかもしれないじゃない。現に幸人さんは、絹代さんを殺害するときにはそういったものを使ったのでしょう?」

「だとすれば、飲食物を彼の手の届く範囲に置いたことと辻褄が合わないと思いませんか」

「辻褄?」小夜はきょとんと眼を丸くした。

「薬で全身の自由を奪った相手の傍に、自力で摂取しなければならないような飲食物を置くでしょうか」

小夜は考え込むように唇を噛んだ。

そんな少女を横目に、冷泉は全体へと声を撒くように視線を上げた。

「違和感はまだあります。透さんと幸人さんが『脱出計画』の話を共有し、それを成し遂げるための準備として入れ替わりを行っていたのならば、彼らの『計画』は順調だったはずですね。では、ここで幸人さんの立場で想像してみてください。彼が時間を掛けて築き上げてきた『脱出計画』を捨てて『復讐』へと方向転換するに至った理由は何だったのでしょう」

 小夜はうっと詰まったような表情で言葉を飲み込んだ。思わぬ暗礁が出没した空間に、敢えて明かりを当てなおすように、冷泉はもう一度言った。

「幸人さんを『脱出』ではなく『復讐』に方向転換させた出来事は何だったのでしょうね。『脱出計画』に暗雲が立ち込めた、あるいは、計画そのものが頓挫したことだけは確かでしょう」

 辺りは言語という概念を失ったように静まり返る。唯一言葉を知る冷泉だけが、別空間にいるようだった。

「それともやはり、透さんも復讐支持者へ鞍替えしたのでしょうか。彼自身、監禁生活を、身をもって体験したことで、村や家族への憎悪が倍増したのでしょうかね。つまり、透さんの同意を得た上での犯行だったと」

「そんな――」

 異を唱えようとする小夜を、冷泉は有無を言わさぬ視線で制した。それと時を同じくして、幸人の目に突如感情の火が戻った。

「透は関係ない」

 きっぱりと言い切った幸人に、冷泉はゆっくりと頷き返す。言外に話してくれると信じていましたとでもいうような、どこか温かみのあるものだった。

「関係ないのですね」

「下手な芝居打ちやがって。大人を舐めるなよ、糞餓鬼が。俺が話さなければ、透も共犯だったということで話を進める魂胆だったんだろうが、生憎警察が捜査すれば俺の単独犯だったことは明らかになる」

 冷泉は悪びれもせずに、じっと幸人の言葉を待った。幸人の言うとおりだった。幸人が透を巻き込まないために、真実を隠し全ての罪を一人で完結させようとしていることはわかっていた。だから、逆にその気持ちを利用して、透共犯説を土台に話を進める素振りを見せたのだ。そうなると、透を守るために幸人は真実を話さざるを得なくなる。

そしてその目論見のとおり、やがて幸人は観念したように小さく息を吸った。

「透は……」幸人はそこで口を噤んだ。何かを考え込むように、しばらく足元を見つめ、それから視線を持ち上げて冷泉を正面から見据えた。「冷泉くんの言うとおりだ。俺と透は合意の上で入れ替わっていた」

 小夜を筆頭に、住民たちは透の分別の有無が気になる様子だったが、冷泉はそれを背中で制してすかさず言葉を挟んだ。そうして幸人の発話意欲を削がないために、慎重に話を掘り下げる。

「透さんと二人で東京に脱出した時点で、警察に通報しようという話にはならなかったのですか?」

「なった。というより、そもそも俺はもっと小さいうちから、まわりくどい脱出よりも、とっとと家の者どもを皆殺しにしたいと透にぼやいていたんだ。たまに虐待しにくる百合子にも我慢がならなかった。だから、あいつをぶち殺して鍵を奪ってそのまま牢を飛び出して皆殺しにしてやろうと本気で思っていた。だが何度も透から宥めすかされた。そうするうちに、そんなことしたら透にも迷惑がかかると思うようになった。そのおかげで、すんでのところで踏みとどまることができたんだ。まあ、結局耐えられなくなって、百合子のことは殺したわけだが」

「そのことは、透さんも知っていたのでしょうか」

「知らない。うすうす勘づいてはいたかもしれないけどな。証拠でもあれば、それこそ透は監禁犯の親父と、殺人犯の俺を警察に突き出しただろうよ」

「でも、殺人の証拠がなくても、監禁がある時点で警察を呼ぶべきでしたよね」

「全くその通りだ。皆殺しが駄目ならば、早く警察に通報してくれ、俺をここから出せとだいぶせがんだが、透は頑なに首を縦に振らなかった」

「なぜでしょうか」

「朱野家だけの問題ならやったんだろうけどな」

「それは、監禁の問題が朱野家だけに留まるものではなく、村全体に関わるものだからということでしょうか」

 冷泉の問いに幸人は肯き返した。

「警察に通報したら、現代に残る奇怪な村としてメディアは面白おかしく報道するだろう。そうなると、俺らだけじゃない。他の子どもたちも含めて晒しものになり、未来が潰れかねないというのが透の考えだった」

「なるほど。透さんは瑞樹や小夜さんのことも心配していたのですね。犯罪を容認していた奇怪な村の元住民だなんてレッテルに一生苦しめられるよりも、村に異を唱える者だけで村から逃げ出して生きていく方が心身ともに自由になれるだろうと。近年話題に上るようになった、被害者の人権問題の領域ですね」

 冷泉の要約を受け、幸人は、自身の頭の中に住む透の考えを参照でもしているかのように、一拍間をおいてから首肯した。

「そういうことだろうよ。透もまだ幼かったし、村の外の世界のこともほとんど知らなかっただろうから、村の価値観にかなり支配されていたんだろうな。今振り返ればそう思う。跡継ぎがいないんじゃ、村も滅ぶ。それでいいんじゃないかっていうのが透の考えだった」

「透さんは、跡継ぎ世代が揃って村から離れることで、あなたがたの代で静かに村を終わらせようとしたのですね」

「俺には到底理解できなかったがな。じゃあ俺はどうなるんだ、お前が大学を卒業するまで我慢しなきゃならないのかと俺が異を唱えたら、『それについては考えてある。俺が幸人の代わりに牢で時間を過ごすんだ。幸人は自由が手に入るし、俺の望みも保たれる。利害一致だろう』と。透のやつ、事も無げにそう言いやがった。それが入れ替わりの真相だ」

「そうだったのですね」

 観念したようにぽつぽつと話し始めた幸人に、冷泉は傾聴の姿勢を示す。そんな相手を胡乱げに一瞥して幸人は明後日の方向へ視線を投げた。

「ならば、脱走のときに、牢の鍵を開けたのも透さんですね。どのようにして牢から出たのだろうと疑問にと思っていたのですよ」

「その通り。透がまず東京で住まいを整えて、それからこっそり迎えにきた。俺には土地勘がないからな。二人で一緒に東京まで行った」

 冷泉はんー、と小さく唸った。「ここまで話を聞くに、やはり村からの脱出計画は順調そうに聞こえるのですが、あなたを復讐へと駆り立てたのは何だったのですか?」

 冷泉が話の舵を切ると、幸人は急に難しい顔で俯いた。それから、憎悪を滲ませた燃えるまなざしで宙を睨んだ。

「あいつのせいだ。大学卒業を三か月後に控えた二年前の冬、透が倒れた」

「あいつ……ああ、そうだったのですね。そうか。だから、あなたは透さんを」

 冷泉はひとり何かに合点がいったように、ため息混じりの声を零した。

「水谷からの報せを受けて駆け付けたときには、透は寝たきりで意思の疎通もままならなかった。いつ死んでもおかしくない状態だったんだ。藤川絹代が透を殺そうと一服盛ったんだよ」

「……絹代さんが?」

 全てを悟ったように黙りこくってしまった冷泉に焦れたのだろう。それまで穴が開くほどの真剣なまなざしで話に耳を傾けていた小夜が後を継いだ。

「慌てて下宿先を引き払って村に戻った。卒業に必要な単位は足りていたからな。それからしばらく経った頃、俺は見たよ。藤川絹代が今度は俺の食事に何かを混ぜようとしているところをな。その場で気づいて問い質したが何もしていないの一点張りだ。聞けば、秋に静が落下したベランダの板も不自然に腐食していたというだろう。確信したさ」

「財産狙いというわけですな」と、龍川が重い息を落とした。

小夜が「酷い」と両手で口を覆う。

「絹代を野放しにしていたら、遅かれ早かれ俺や静もやられていただろうよ」

「透さんを病院に連れてはいかなかったのですか?」

「龍川が診ておしまいだ。元に戻す手立てがない以上、病院に期待できることなんて何もない」

「その時点でもまだ通報しようとは思わなかったのですか?」

「それになんの意味がある」幸人は至極当然というふうに、尋ねた冷泉を燃え滾る強いまなざしで見据えた。「絹代の殺人未遂は証拠不十分で検挙が難しいかもしれないが、俺と透は間違いなく保護されるだろう。源一郎たちは法に裁かれる。でもそのことに何の意味があるんだ」

 冷泉は黙ったまま、幸人の顔を凝視した。

何人かの息を呑む声がこだまのように響く。

「俺たちの計画は台無しになった。透が死ぬのならば意味がない。あいつは俺の世界の中にいてくれなきゃ駄目なんだ。あいつのいない世界なんか俺は知らない」幸人はそこで燃え盛る焔に蓋をして視線を落とした。「残ったのは復讐だけだ」

予想だにしなかった、血を吐くような殺人鬼の告白に誰しもが言葉を失った。

「俺は内定を放り出して実家に戻った。計画はなくなった。未来なんか無価値だ。残されたのは復讐だけ。なんてことはない。もとから俺は復讐を望んでいたんだ。復讐鬼が復讐鬼に戻っただけだ。つかの間の白昼夢だったんだ」

 黒い焔がすっと消えたように、幸人の表情から生気が抜け落ちた。彼が透だった頃に戻ったような、棘のない目をしていた。

 これが本来の幸人だろう。冷泉は初めて彼と相見えたような気持になった。

「ここから先は、冷泉くん、君の推理通りだ」

「ひとつ、あなたがなぜ透さんを洞穴に監禁したのか。それは、絹代さんの魔の手から彼を守るためだったのですよね。先ほど合点がいきました」

 幸人は口元を緩めて力なく俯いた。

「そのはずだった……まさか太枝を削って喉を刺すなんて……どこにそんな力が残っていたんだ。多分、どこかでわかっていたんだろうな。俺が何をやっているかを。あいつは……あいつは俺と違って優しい奴だったから……。昔から器用であれこれ彫って玩具を作ってくれていたけど……最後に作ったのが自らの喉を貫く道具だなんて……」

 小夜が堪え切れなかった涙を隠すように、声を押し殺して両手で小さな顔を覆った。幸人の、強すぎて歪むほどに激しかった透への思いに対する、彼女なりの敬意なのだろう。

きっと朱野透は、自身のために殺人鬼となる道を選んでしまった弟の姿に耐えられなかったのだ。

 もはや真相の語られることのない朱野透の真実に思いを馳せて、冷泉は深い息をつく。

 自らが教育を施し、与えた夢を共に追い、けれども自らが毒に倒れたことで夢破れ、復讐の鬼になり果てた弟の姿に涙しながら最期を迎えたのだ。

「あいつは……絶望の中で死んでいったんだ……」

水を含んだ真綿が鳩尾に巻き付くような、そんな痛みが各々の胸を襲い、その場は重い沈黙に包まれる。

 やがて龍川がやりきれないというふうに白髪を左右に振って、地を這うような声を零した。

「幸人さんが閉じ込められることがなければ、朱野幸人として当たり前の人生を歩むことができていれば、こんな悲劇は起きなかったのですよ。それを見てみぬふりをした私どもも同罪です」

「今更……もう遅いんだよ」遠い目をした幸人が、譫言のようにぼそりと呟く。

「ああ。君の言うとおり、私は村の秘密を握りながら黙殺してきた悪人です。お詫びにひとつ、その悪人が抱えていた秘密を教えましょう」その言葉にはなんの興味も示さない幸人だったが、龍川医師は構わずその草臥れた横顔に語りかけた。「あなたは源一郎さんとかすみさんの子供ではない。かすみさんと水谷さんの間にできた子供なんですよ」

「……は?」幸人の顔が、一瞬で驚愕に歪んだ。

「真に愛し合っていたのは、水谷さんとかすみさんだったのです」

 その場の誰しもが、あまりの衝撃にしばらく呼吸を忘れた。

 それらを、居心地が悪そうに上目遣いで窺い見て、龍川医師は再び視線を落とした。

「お見合いの席で、あろうことか、水谷さんはかすみさんに一目ぼれをしてしまったのです。しかし、そこは大人の男として自身の気持ちに蓋をしていた。けれども、源一郎さんはああいう人でしょう。松右衛門さんとお姑さんも、とても厳しい方々だった。実家の援助と引き換えに嫁に出された身として、どれだけ辛かろうと朱野家に骨をうずめる覚悟だったかすみさんもね、耐えてこそいたものの流石に心が折れかけていたのですよ。そんなときに、やさしく扱ってくれる若い執事がいたら……どうなるかは想像に難くないでしょう。そう、一度の過ちをおかしてしまったのですよ。そして、その一度によって、子供が宿ってしまったのです」

 一同は言葉を忘れ、透は、は、はははと乾いた笑いを零して天を仰いだ。

「つくづく隠蔽だらけの腐った村だな。よくも次から次に、ぽろぽろ出てきやがる。まぁなに、調べればわかることだ。じゃあなんだ? 俺と透は不倫の末の子で、水谷は実の息子が理不尽な仕打ちを受けているのを間近で見ていたくせに救い出そうともしなかったのかよ。屑だな」

 幸人は掌をゆっくりと開き、寂しそうな目で見つめた。鮮血に光っていたその手指も、今では仄暗く変色していた。

「まあでも、水谷も糞野郎は糞野郎だが、狸ジジィよりはまだましだ。あの狸の血が入っていないなんて願ったりだ……」

 そう言って、幸人はふらふらとその場にへたり込んだ。大理石の床に赤い手形が拡がる。

 この三日間碌に寝ていないのだろう、滑らかな黒髪の隙間から覗く横顔は酷くやつれた色をしていた。蒼白な顔も、色濃い目の下の隈も、時折平衡感覚を失うその身体も、決して演技だけではなかったはずだ。

 痛々しさが溢れる哀れな男の背中を、誰もが音もなく見つめていた。

 時折響く風の声と雷鳴だけが、確かに時が進み続けているということを報せてくれる。

 やがてその音も遠ざかり、柱時計が五時を告げる。東の空から朝日が差し込んでいた。

 磨かれた床に映った自らの虚像に語り掛けるように、幸人が何かを呟く声がした。



 十七



 太陽が夏の終わりを名残惜しんで、燦燦と余力を振り絞りはじめる正午前。四方八方からの蝉しぐれに包まれたこの村に、ようやく悪夢の終わりが訪れた。予定通り出張から帰った白峰秀一が、トンネルの崩落に気づいて警察に通報したのだ。

 離合がやっとという細いトンネルとあって、方向転換も後進で戻ることもできず、秀一は暗いトンネルをペンライトに身体一つで五藤村側の入口まで駆け戻ったらしい。救助のヘリコプターで村に到着した頃には、青いポロシャツの大部分を汗で染めて、安堵の表情の奥に隠すことのできない疲労を滲ませていた。

 崩落したトンネルの復旧には少なくとも三週間はかかるとみえた。ヘリポートもない村の上から一人また一人と警察関係者が降ってくる。その様子を、一同はどこか非現実的な心持でただぼんやりと眺めていた。

 朱野幸人もまた同じように、大理石の床にへたり込んだ体勢から首を持ち上げ、ぼんやりと空を仰ぎ見ていた。

「冷泉くん」

 舌足らずな声にその名を呼ばれ、冷泉は振り返る。視線の先では、朱野幸人が脱力したように床の虚像を眺めていた。

「白日の下に晒してくれて感謝してる。透以外の誰かから、初めて名前で呼ばれたんだ」

 部屋の空気が粟立つ。冷泉は何かを返すこともなく、その俯いた影をただぼんやりと眺めた。朱野幸人も気にすることなく、ただ独り語りのようにぽつりぽつりと力のない声を零した。

「忌み子だ、穢れだと呼ばれることはあっても、今日のこの日まで名前で呼んでくれる人なんて一人もいなかった」

 ヘリコプターの轟音に呑まれながら、それでも彼は一文字一文字を愛でるように、ゆっくりとそう言った。そして、救助隊がロープを伝って降りてくるのを目に入れたところで、幸人はふらりと立ち上がる。その横顔を、龍川がしがみつくような声で呼び止めた。

「待ってください幸人さん。あなたの名前は、亡くなったかすみさんがつけた名前なのですよ」

 幸人は歩みを止めて、朱に染まった自らの右手を気だるげにぼんやりと見つめた。その仕草から静聴の意思を読み取った龍川医師は、とにかく思いの丈を伝えようと腹に力を込める。

「双子の難産で危険な状態にあったかすみさんにショックを与えないようにと、源一郎さんと松右衛門さんは双子の片方を女児の死産だったことにしました。そのことはあなたもよく知っていることでしょう。それを伝えたとき、涙ながらにかすみさんは、あなたのお母さんはこう言ったのですよ。かわいそうなことをした、と。名前をつけて弔ってあげてくれ。せめてあの世では幸せになれるよう、名前だけでも幸せな名前をつけてあげてくれ、と。そう言い残して彼女は息を引き取ったのです」

 朱野幸人は自らの掌を眺めたまま、不敵に唇を持ち上げた。

「ふうん。ならば、俺はこの世において死んだ母親の望み通りになったわけだ。俺は復讐を完遂させて、最上級の幸せを手に入れたんだからな」

 そう吐き捨てて、居間を抜けて玄関ホールへと向かう。そうしたところで屋敷に踏み入れた救助隊とかち合い、自ら丸めた両手の甲を差し出した。

 やがて、救助隊からの通報により乗り込んできた警官によって、即座に幸人の身柄が確保された。その際にも彼は特に抵抗する様子もなく、されるがまま別室へと連れていかれた。それから先の様子は、居間で待機となった一同の知るところでなかったが、身柄が移されるときになって、通りかかった幸人は足を止めて玄関ホールから居間を覗いた。

 付き添いの警官が不可解そうに顔を歪める。狂人の奇行だと思ったらしく、脇腹を小突くも幸人は反応を示すことなく、その場に根が生えたように泰然と部屋の中を見つめていた。

 やがて意味深な笑いだけを残してその背中が遠ざかるのに、堪らず龍川医師が居間を飛び出して声を掛けた。

「幸人さん」

 朱野幸人はちょうど扉をくぐるところだった。両脇を固めた屈強な警官が驚いて振り返る。

 龍川はそのわずかな時間に言葉をねじ込むように、すかさず声を投げた。

「私は自らの罪へのけじめをつけるつもりです。あなたも罪を償った先には人生が待っていますから。あなただけの人生が」

 別の警官からの制止を受けて、龍川は居間へと送還される。幸人も何事もなかったかのように、眩い日差しの下へ一歩踏み出した。距離は時間と共に開いていく。

 幸人は乾いた口調で何か一言を残し、やがて警官の渦の中に消えていった。

 そのとき背中の向こう側で幸人がどんな表情をしていたかは、居間に残された面々には終ぞわからなかった。





 事件現場となった館には規制線が張られ、六人の生存者は屋外のテントへと誘導された。そこで医師によるメディカルチェックを受け、ようやく自由時間が与えられる。結局一睡もせず朝を迎えた六人だったが、誰も不満を口にする者はいなかった。

しばらくすると、疲れと安堵からか小夜と琴乃の二人はすやすや寝息を立て始めた。武藤霧子と龍川医師はそれぞれ、ぼんやりと物思いにふけっているようだった。

冷泉はというと、どうも寝る気になれず、かといって狭いテントの下で過ごすのも気が滅入ると、立ち入りが許される村の外れの山道を散歩していた。後ろには、白峰瑞樹の姿もある。

格子状の木漏れ日が、木々のさざめきに従いくるくると移ろって、まるで万華鏡の中に迷い込んだようだった。晩夏の森林浴はマイナスイオンとつかの間の安息をもたらしてくれる。

解放感に全身を浸す。しかし全て終わったのだと言い聞かせたところで、喉に刺さったままの小骨は消えない。冷泉は、見てみぬふりをしていた小骨をようやく摘まんでみることにした。

「なあ、瑞樹。幸人さんは百合子さんを経皮毒で殺したと言ったが……一体どのようにして毒物を入手したというのだろう。百合子さんが亡くなったのは十年前、幸人さんが十四のときだ。彼が言ったように、長期間に渡って毒を投与し続けていたのだとしたら、彼が毒を手に入れたのは十三歳か、それよりも前になるだろう。透さんが協力するとは思えない。透さん経由じゃないとなると……彼は生まれてからずっとあの地下牢で軟禁されていたのだから、毒物の入手だって精製だってほぼ不可能だと思わないか」

 苔むした大木の根元にしゃがみ込み、草花を指で弾いていた瑞樹が顔を上げる。その目がみるみる驚愕に見開かれた。

「……まさか」

「ああ。誰かが手引きしたんだ。毒物をこっそり牢の中の幸人さんに渡した」







 エピローグ





 事件から十日が経ったある午後のことである。ようやく取り調べから解放された冷泉誠人は、その足で四神村へと向かっていた。トンネルが崩落した村への唯一のルートとして、木々を切り開いただけの細い山道がその日の朝に開通したばかりだった。五藤村から歩くこと五時間。ようやく屋敷の一軒が見えてきた。

 館の扉を開けると、薄暗い室内で黒い影がゆっくりと振り向いた。

「あら……」

「ずいぶんと不用心ですね――武藤霧子さん」

 その声でようやく合点がいったようで、霧子は小さく微笑んだ。

「でも……犯人は捕まったでしょう? もう怯えることはないわ」

「お引っ越しされるのですか?」

 室内にはきれいに梱包された段ボールがいくつか積まれていた。

それらにぐるりと順に視線を送って霧子は「ええ」と肯いた。「でも荷物といってもね、独り身となれば少ないものよ。ずっと住んでいた村だから寂しくないと言ったら嘘になるけれど、あんなことがあった村でしょう。早く離れたいなと思って」

「一日でも早く離れて、忘れたいのでしょうね」

 冷泉の含んだ物言いに、霧子の目が一瞬鋭く光ったが、すぐに柔和な表情を取り戻した。

「そうね。冷泉君、貴方にとっても、いつまでも覚えていたくはない事件でしょう。ご自宅へ帰って早く忘れて、ゆっくりと疲れた身体と心を養生して頂戴ね」

 そう言って霧子は踵を返し、手荷物を探るふりをする。会話の拒絶だ。それで冷泉の推察が確信に変わった。早く帰れと言わんばかりの霧子の背中に冷泉は静かに声を刺した。

「いえ、僕はね、武藤さん。まだもう少し忘れるわけにはいかないんですよ。やり残したことを思い出して戻って来たのですから」

「あら、何かしらね」

「朱野幸人少年に毒を与えたのは武藤霧子さん、あなたですよね」

 その言葉に霧子は一瞬動きを止めると、やがてゆらりと振り返った。

「……なんのことかしら」

「朱野幸人少年は、生まれてすぐに地下牢へと監禁されて、十五の三月に脱走するまで一度もあの牢を出てはいません。これは朱野家の住人及び執事の水谷氏も証言していたので間違いはないでしょう。そんな少年が、いったいどのようにして毒物を手に入れたというのでしょうか」

「……透さんじゃないのかしら?」武藤霧子は艶やかな唇を持ち上げ笑みを作った。

冷泉は表情一つ変えることなく事務的に言葉を続けた。

「あくまでしらを通すつもりなのですね。……いいでしょう。答えは龍川医師が握っていました。今から十二年前の五月、幸人さんが十二歳の頃ですね。龍川医院の薬棚が割られており、中の薬瓶が一つなくなるという盗難事件が、六山市の派出所の記録に残されていました。人的被害や、それ以外の金品が盗まれた形跡もなかったため、犯人不明のまま捜査打ち切りになっています。事件当日の診療記録は一件。その唯一の診療相手として武藤霧子さん、あなたも警察の取り調べを受けていますね」

霧子は白い指を顎に当てて、天を仰ぎ見た。「そういえば……ええ……そのようなこともあったかしら」

「記録に残っていましたから、間違いなく行われています」冷泉は鋭く釘を刺した。「それから幸人さんの監禁されていた牢から薬瓶が見つかりました。中身はとある経皮毒でした。瓶は龍川医院で使われていたものと同じ種類の小瓶です。そして、幸人さんは百合子さん殺害の際にその毒物を使用したことを証言しています。つまり、幸人さんの証言を正とした場合、百合子さん殺害に使われた薬物の入っていた容器は、龍川医院から盗まれたものだったことになりますね。あの日龍川医院の薬棚に近づくことができ、なおかつ朱野家の奥深く、地下牢に出入りできた人物――該当するのは誰でしょうね」

「龍川先生の狂言かもしれないし、小夜ちゃんの仕業かもしれないわ」

「では、幸人さんに聞いてみましょうか。この瓶は、誰に貰ったものなのか」

「たとえ彼が証言したとしても、証拠がない限り立証はできないわね。龍川先生と幸人さんが共犯関係にあって、私に罪をなすりつけようとしているのかもしれないわ。それに、私は残念ながら目が見えないの。目が見えない人間がどのようにして薬瓶を見分けるというのかしら。毒ならば、まさか舐めてみるわけにもいかないでしょう」

「あなたの目が見えるようになっているということは、龍川医師が話してくれましたよ。問い詰めたところ、観念して話してくれました。あなたの視力は戻っていたが、他の人には黙っていてくれとあなたから頼まれてずっと従っていたそうですね。あなたから子供を取り上げた罪悪感からずっと頑なに守り続けていたそうです」

 彼女はかわいそうな人なのだ。両親とは早くに死に別れ、兄弟も親戚もおらず天涯孤独の身なのだ。二十五年ほどまえにはその腹に命を宿した。日に日に大きくなる腹を抱えた彼女の笑顔は、どこか寂しそうな陰も感じたが、至極嬉しそうでほほえましかった。しかしその父親は妻子持ちの源一郎さんであった。それどころかその赤ん坊はあろうことか、ほかならぬ源一郎さんの指示により、死産だとして遠い福祉施設に預けられたのだ。……そう、老医師は疲れの滲む皺だらけの顔をしきりに擦りながら、涙まじりに警官に話した。

「理由はわからないが、武藤さんにも何か事情があるのだろうと黙っていたそうですよ。後ほど警察からの呼び出しやら、視力検査やらがあるかと思いますが、どうか龍川医師を恨まないでやってくださいね。僕が彼を『いずれわかることです』と、無理やり問いただしただけなので」

 しばらく氷のような無表情で黙っていた武藤霧子だったが、やがて唇の両端を微かに持ち上げた。

「見上げた坊やね。わたくしの視力が戻っていることにはいつ気づいたのかしら?」

「すぐには気づきませんでしたが、初日の夜の会話を思い返していてふと違和感を覚えました。小夜さんの衣服の袖が壺に引っかかって倒れそうになったとき、あなたは咄嗟に腰を浮かしてこう言いました。『たいそうなお宝ですものね、それ』と」

「……なるほどね」

「ええ。咄嗟に腰を浮かすことにも違和感はありますが、何にぶつかったのか、それはその場の景色の見えている人間にしかわからないことでしょう。それを正確に言い当てたのを見て、あなたの視力の件に疑問を抱きました」

「認めましょう」

そう言って、霧子は薄く茶色の入った眼鏡をゆっくりと外した。眩しそうに少し眉間に皺が寄る。そこではじめて露わになったその瞳は、薄茶のガラス玉のような澄んだ色をしていた。

「あなたが一連の全てを視認できていたのだという前提で事件を振り返れば、また新しいものが見えてきますね」

「そうかしら。たいして変わらない気がするのだけれど」

 と、悪びれもせずに小首を傾げる武藤霧子を、冷泉はにこりともせずに見つめた。

「ああ、そうね。そういえば……透さん……いえ、幸人さんだわね。彼と絹代さんもうすうす勘づいていたようだったわ」

「へえ?」冷泉は目で先を促した。

「そして、絹代さんが私の目が見えることに気づいている、ということにも幸人さんは気づいていたようだったわ」

なぜそう思ったのですか? と、冷泉は目顔で尋ねた。霧子はどこか恍惚と目を細めた。

「木工室で源一郎さんの遺体が発見された後、絹代さんに彼は確かこう言ったのよ。『霧子さんはアリバイこそ不完全ですが、視力に不安がある以上犯人足り得ません。彼女のことだけでも信用して一緒にいてください』ってね」

「ああ、それは巧い。巧い誘導ですね」冷泉は素直に舌を巻いた。「霧子さんの視力が戻っていることを知る絹代さんには、すべてが逆の意味に聞こえたでしょうね。『霧子さんの目が見えるのならば犯人足り得ますよ。離れた方がいい』と」

「ええ、ええ、まさにそう」霧子は可笑しそうに肩を揺らした。「あの女、すぐに私を突き飛ばして化け物でも見るような目を向けてきたわよ。それから私を置き去りにして一人で逃げ帰ったきり閉じこもってしまった。それが幸人さんの誘導だなんて知らずに、最後まで馬鹿な人だったわね」

「絹代さんの警戒心の強さを利用したのでしょうね」冷泉は嘲笑する霧子を一瞥して苦々しく呟いた。「あとは例えば、水谷さんの事件において、扉を開けた瞬間に飛んでいくゴム紐もあなたには見えていたはずですよね」

「見えていたら何だというのかしら」霧子は間髪入れずに強い口調で言った。「視界の端を一瞬何かが通ったからといって、それが何であるかわからなくてもおかしくはないでしょう」小ばかにするように喉の奥でくすくすと笑いを零す。「部屋に人がいると勘違いして、目を瞑ってしまったのよ、私は。残念ながら、今回の事件の犯人隠避罪にも、十年前に毒を用意した証拠にもならないわ」

冷泉はさして気を悪くしたふうでもなく、ただ淡々と言葉を返した。「あなたが間違いなく龍川医院から薬瓶を盗み出し、中を経皮毒に変えて幸人さんに渡したことを、僕は確信しています。今回小瓶から検出された経皮毒の成分は、医薬品や香料、界面活性剤、農薬等の原料として使われているものなので、入手もそう難しくはなかったはずです。必ず、何かしらの痕跡はあるはず。証拠を突きつけられて逮捕される前に、自首した方が賢明です」

「ご忠告どうもありがとう。けれど、やっていない罪を認めることはできないわ。たとえその経皮毒に使われた洗剤を過去に偶然私が購入していたとしても、洗剤くらい誰でも買うでしょう?」

 肩を竦めてわざとらしく笑う武藤霧子にも、冷泉は特段何の感情も表にあらわすことなくさっぱりと続けた。

「龍川医院の盗難事件の犯人があなたであると言う証拠が出てきたらどうします?」

「そんなものあるはずがないわ。小瓶に指紋でもついていたならば話は別だけれど」

「小瓶には幸人さんの指紋しかついていませんでした」

 その返答は予想済みだったようで、武藤霧子は満足そうに頷いた。「当然ね」

 手が届きそうで届かない上空から勝ち誇った笑みを浮かべる武藤霧子に、冷泉は涼しい顔のまま鼻っ柱をへし折る一撃を加えた。

「但し、かわりと言ってはなんですが、龍川医院の薬棚の硝子戸の修繕に使われていたセロハンテープの粘着面から、繊維片に混じって体液と毛髪の一部が検出されたそうですよ。年数が経っているため劣化しているかもしれませんが、鑑定できない程ではないようです」

 自身が乗っていた飛行船の安全神話が幻だったことに気づかされた武藤霧子の顔が、一転冷水を浴びせたように瞬時に凍り付く。真っ逆さまに地面へと叩きつけられた哀れな罪人に構うことなく、冷泉は無味乾燥な声で続けた。

「十年も経てば科学捜査も進歩するものですね。盗難事件と殺人事件では、捜査の内容も変わるのかもしれませんが。棚の中を覗き込んでついた指紋を手持ちのハンカチなどで拭ったりはしませんでしたか? 十年前にあなたが経皮毒を含んだ商品を購入したという証拠が見つかり、その商品の成分と、小瓶に残った毒物が一致するかを調べれば、あなたの殺人教唆が白日の下に晒されるのも時間の問題です」

 武藤霧子は全ての色を失った顔で、呆然と宙を見つめていた。

「そして、透さん殺害未遂に使われたと思われる黒色の小瓶ですがね。ああ……これは、藤川絹代の私室の箪笥の奥から出てきたものです。これも調べてみたところ、全く同じ洗剤から精製された経皮毒が入っていたとの鑑定結果が出たそうです。きっとあなたは、それを以て藤川絹代を、龍川医院における盗難事件の犯人、および朱野幸人に殺人教唆を行った犯人に仕立て上げるつもりだったのでしょう。武藤さん自身が龍川医院における盗難事件の犯人であるという証拠さえ見つからなければ、たとえどれだけ怪しまれようとご自身に警察の手が届くことはないと高を括っていたのでしょうが、詰めを誤りましたね」

 武藤霧子はどこか遠く、壁を抜け、森を抜け、空を抜けたもっと向こう側へと思いを馳せているようだった。ともすれば非現実へと逃避していそうな彼女の意識を現実に連れ戻すがごとく、冷泉は機械的な声を、蒸した室内に淡々と滑らせた。

「また、これは僕個人の見解になりますが、幸人さんがあれだけ強く恨んでいた村そのものを殲滅しなかったのは、あなたを殺したくなかったからだと思っています。壊滅した村に一人、あなただけが生き残っていれば、自ずとあなたに疑いがかかると読んでいたのでしょう。朱野幸人さんが、復讐こそが生きる希望だったと言っていたのは、あなたも覚えているでしょう。透さんと村からの脱出を目指すようになるまでの幸人さんにとっては、そうだったんじゃないかと僕は思うのですよ。つまり、生きる希望をくれた武藤さんは、彼にとって恩人のようなものだったのかもしれないなと」

「恩人……か」武藤霧子は、形の良い唇を歪めて小さく笑った。

「ええ。しかしその恩人が、実は絹代さんを唆して自らを葬ろうとしていた黒幕だったわけですから。これからそのことを知る幸人さんは、一体どのような反応をするでしょうね」

「まさか幸人と透が入れ替わっているとは知らなかったけどね。とにかく私は、源一郎が憎かったのよ」霧子は遠い目を窓の外に向けた。「だから幸人と絹代の黒い心を利用して、源一郎から全てを奪おうとしたの……」

 冷泉も窓の外に身体を向けた。二人は肩を並べて晩夏の深緑をぼんやり見つめた。

「……あなたは自身の子供が生きていることに、うすうす勘づいていたのですよね。知っていて、合法的に我が子を取り戻すことでなく、法を侵して我が子を奪った元凶を抹殺する方向に走った。皮肉にも、自身の子供が幸人さんの殺害対象に含まれていたことは当然ながら誤算だったことでしょうが。この事件の引き金を裏で引いた報いと言っては深見さんに悪いのでそうは言いませんが……実に皮肉なものですね」

 遠くで男たちが扉を叩く音がする。

 続いて押し寄せる靴音の波を耳に、深い紅が小さく弧を描いた。

 遠く、無数のひぐらしの声がする。

短い命の全てを僅か二週間に懸ける、儚い線香花火のような彼の声が。





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