1章

 校舎裏には光と闇がある。
「――伶桜さん! 私と付き合ってください!」
 幼馴染みの女の子が、女の子に告白されているシーンを目にしてしまった。いや、これが初めて目にする瞬間って訳でもないけど……。伶桜は男の僕より、遙かに格好良い女の子だから仕方ない。
 まぁ僕も望んで校舎裏に来た訳じゃないけど……。やっぱり羨ましいな。高校の校舎裏における光と言えば、やはり告白シーンだよね。
 昔から映画やドラマでも多く目にして来た舞台だ。教室で誰かと感想を言い合う機会すら無い、僕のような男でも知っている定番シチュエーションだ。
「ごめん。俺は誰とも付き合う気が起きないから」
 まさに青春とも呼ぶべきワンシーン。それを億劫な表情、声音で断っているのは、かつて兄妹同然の関係だった僕の幼馴染みだ。
 クールに女の子からの告白を断ると――伶桜はクルッとスカートを翻し、颯爽とこちらへ向けて歩いて来る。1人称の俺といい、仕草といい……。所作の1つ1つが爽やかで格好良い。男の僕よりも女の子の伶桜の方が、何倍……何百倍も格好良い。伶桜を見ていると、劣等感に潰されそうになるよ……。
「……ちっ、花崎伶桜か。面倒だな。おい、絡まれたら面倒だ。顔合わせねぇように反対側から回り込もうぜ」
「だな。……それにしても、花崎に告白してた子……。可愛かったなぁ、本郷」
「あいつ、女子からは滅茶苦茶モテるよな。……王子様扱いされて、さぞや気持ち良いんだろうよ」
 気持ち良いなんて、伶桜は思っているのだろうか? 僕は――そうは思わない。
 あの億劫そうで物憂げな立ち居振る舞いを見る限り、抱いているのは真逆の感情じゃないだろうか?
「女が女にモテるせいで、男の俺たちが女にモテないのは気にくわねぇな……。おい、蓮田。早く歩け」
「……うん」
 体格の良い男たち――本郷とその取り巻き2人が、ドンと僕の背中を押す。もっさりと伸びた前髪が揺れ、髪の隙間から伶桜がこちらへ視線を向けているのが目に入った。
 オラついた雰囲気で僕を囲む3人に背を押されるまでもなく、僕は伶桜を避け反対側から校舎裏へと向かい歩き始める。
 女の子同士でも、告白は告白。光り輝く青春だ。
 これからイジメという校舎裏に潜む闇へ向かう僕と伶桜では、生きる世界が違う。
 体格の大きなイジメっ子3人に囲まれていたのは、幸いだったのかもしれない。物心がついた時からの幼馴染みの女の子――花崎伶桜に、僕のこんな惨めな姿をマジマジと見られずに済んだのだから。
 男の僕と……女の子の伶桜。
 幼い頃は、僕と伶桜は仲が良かった。小さい頃は性別の違いなんて些細な問題だったけど、中学になれば周囲も囃し立てる。
 あいつと付き合ってんのか、好きなのかと。
 それが煩わしく自然と2人の距離は離れて行き――高校1年生となった今では、滅多に話す事もなくなった。幼稚園から、この県立蛍雪高校までずっと一緒だと言うのに。
 でも僕は、これで良かったんだろうなと思う。
 伶桜は身長も170センチメートルを超えていて、見た目も中身も格好良い女の子だから、昔から女子に凄くモテるし。一方の僕は、今でも身長は160センチメートルあるかないか。僕が欲しかった理想の格好良さを、伶桜は全て持ち合わせている。
 もしも伶桜と一緒に居たら――僕は暗い劣等感に押し潰されてしまう。
 大きな校舎の裏側に、別方向から回り込んだ。
 校舎裏は普段から人気が少ない。僕にとって昼休みは、1人で昼食を食べられる憩いのオアシス。
 放課後の今は告白スポットになっていたり――僕のような地味で気弱な生徒をイジメやすい場所だ。
 校舎裏には告白のような光と、イジメという闇が共存する。それはまるで、太陽輝く明るい昼と、雲に覆われた夜闇のように。
「蓮田、こんなとこまで付いてきてもらって悪いな。これ……昨日ファミレスに行った時のレシートなんだけどさ」
「……うん」
「身に覚え、あるよな? 俺たち、一緒に行ったもんな?」
 僕は行っていない。呼ばれてもいない。身に覚えなんてあるはずが無い。
 でも、そんな事を主張しても無駄だ。ニヤニヤと意地が悪そうに僕を取り囲む3人を見れば、正論を説いた所で無意味なんて一目瞭然だ。
 入学して最初の時は、無理やり本郷たちにカラオケへと連れて行かれただけだった。
 歌いもしないのに支払いは平等に割り勘。
 それに不満は抱いていたし、どうして僕のような地味で陰気なヤツを誘ったのかも疑問だった。断る勇気もなかったから付いていったけど……心の中は、早く帰りたいの一心。それだけを思いながら、1曲も歌わずドリンクバーを飲み、時間が過ぎ去るのを待って耐え忍んだ。
 どうにも様子が変だと気が付いたのは、会計でだ。
 割り勘だと思っていたのに、彼らは「ご馳走様です」と僕を置いて店を出て行った。
 最初から彼らにとって、僕は財布だったんだ。
 文句を言う勇気も、喧嘩をする度胸も僕には無い。ぶん殴れたら、どれだけスカッとするだろう? 正直、脳内では何百回とボコボコにする妄想をしている。……でも、現実と妄想は違う。
 チビヒョロガリと三拍子に上乗せして、地味で陰気なモッサリという四重苦、五重苦を背負っている僕だ。どうにも出来る訳が無い。お金を出す事でこの場から解放されるならと、黙って全額を支払った。
 それがいけなかった。
 毎回のように財布は彼らの遊びに付き合わされ、そのうち今日のようにレシートや領収書のみを渡されるようになる。今のように、一緒に行ったよねと恫喝されて。
「……はい」
 僕はレシートに記載された金額を見て、黙ってその額を財布から抜き、彼らに手渡す。
「おう。やっぱ食い逃げはダメだよな。ちゃんとお前の分、受け取ったから」
 金を手に、ぎゃははと笑う本郷と2人を見ていると、涙が滲みそうになる。
 分かりやすい暴力でイジメられるより、よっぽど陰険で悪質だ。大人に助けを求めようにも、暴力のように単純では無い分、証明も難しい。……戦う力もない僕では逆らえない。逆らった所で……力もない僕では余計に痛い目を見るだけだ。
「いやぁ……。良い子ちゃんだらけの進学校に無理して入学して、劣等感で毎日クソみたいな気分だけどさ……。蓮田といる時間は最高だよ」
 僕は最悪だよ。自分より劣る者でストレスを解消してさ……。劣等感で辛い本郷たちの気持ちも察するけど、じゃあ僕みたいに何も人に勝る部分が無い底辺はどうすれば良いの?……ずっと、サンドバッグとして生きろって事なのかな。
「そんじゃ、また一緒に行こうな!……ああ、そうそう。くれぐれも、山吹美園(やまぶきみその)に近づくなよ? 近づくなら覚悟しろ? ど~しても山吹と話してぇなら良いけどよ……一緒に遊びに行く回数がまた、増えちまうかもなぁ。ははっ。学校のアイドルと会話する対価としては、安いだろ? 気を付けろよ」
 そう僕に忠告して、彼らは校舎裏から去って行く。
 彼らの姿が完全に見えなくなったのを見計らってから、僕は校舎に背を預けて蹲る。
「……僕には、生きにくい世界だなぁ。……辛い、辛いよ」
 かけていたメガネを外し、天を仰ぐ。
 根性無しで腑抜けで……男らしくない僕自身が、僕は大嫌いだ。イジメッ子の本郷たちよりも、よっぽど。何処に行こうとイジメられるのは、僕が弱々しく情けない男だからなんだろうしね……。
 ボサボサに生えた前髪の隙間から、僅かに空が視界に映った。青い空に、白い雲がゆったりと流れていく。
「……息苦しい。あの雲のように、縛られる事もなく自由に生きられたら……。どんなに生きやすくて、呼吸も楽になるんだろうね」
 彼らの持論では、学校のアイドル山吹美園に構ってもらえる対価としては安いという認識らしい。
 確かに、入学式の日に僕は山吹美園と話をした。そしてその可愛さと、僕の様に陰気なヤツとは不釣り合いな高嶺の花だと感じのを、今でも鮮明に覚えている。
 大人はキャバクラに行き、お金を店や女の子に払う対価として可愛い女の子とお話をするという。僕もそれと似た対価を本郷たちに払っているんだ。
 別に本郷たちは山吹さんの保護者でも雇用者でもないけどね。正論を告げて自由に話す権利を主張する力や勇気が、僕に無いんだから仕方ない……。お金で権利が買えるなら安いもんだ。
 そう自分に言い聞かせて、僕は毎回黙ってお金を払う。
 この世界に僕の居場所は無い。なんだか毎日、息が詰まりそうに辛い。
 屋外では常にマスクをして顔を隠しているけど、マスクで呼吸が苦しい訳じゃない。むしろ、マスクを外したらもっと息苦しくなる。暗く冴えない顔を見られるのも恥ずかしいし、他人の目を汚すのが申し訳ないという気さえするから。
「アルバイト、行かなきゃ……」
 僕のバイト先は決してホールに出ないファミレスのキッチン。客前に陰気な顔を出さず、僕にも出来る方法でお金を稼ぐ。
 卒業までずっと、お金を稼いでは一部を本郷たちに渡す。
 そうする事でしか、僕はこの世界で生きる場所を確保出来ないんだ。だから……仕方がない。搾取される側、男らしくなくて弱い僕だから、仕方がない事なんだ……。
 1人でトボトボと校門へ向かっていると、元気にランニングをしている女子生徒たちの楽しげな声が鼓膜を揺らす。
 走りながら弾むように会話をする明るい声音の1つに、僕は思わず身を固くする。
「――あっ! 蓮田くんだ!」
 ビクッと、小さく身体が跳ねたのを自覚する。綺麗で快活な声から僕の名前が呼ばれた。
「美園、知り合い?」
「うん、ちょっとお話したいから、先に行ってて?」
 僕には山吹さんとお話する事なんてありません。……陰で憧れたり、可愛いなぁと思っているだけで……。僕はそれで十分ですから。お友達も、お願いだから連れて行って! ランニングの途中なんだしさ。
「え~サボり?」
「ちょっとだから、許して!」
「仕方ないなぁ。許してしんぜよう」
 許さないでよ。おかしいでしょ? もうちょっと真面目に部活をやりなよ? 山吹さんたちはバドミントン部だから、外で練習している今日は体育館を別の部活が使う日なのかもしれない。それこそ、伶桜の入っているバスケ部とかが……。
 外で基礎練習をする日は、あんまり面白くないと話しているのを耳にした事がある。だからかな、こんな適当にサボりを許すのは? 弱い僕が言える事じゃないけどさ、基礎も大切にしてよ……。
 俯かせていた顔を怖々上げると、山吹さんの友達が既に遠くへ走って行く背が見えた。
「蓮田くん、今帰りなの? 部活入ってないのに、遅めだね?」
「え、う……うん。ちょっと、色々あって」
 ヒョコッと覗き込んで来る花崎さんと一瞬目が合った。150センチメートルあるか無いかと小柄なのに、女性の肉体特有の、出る所の主張が凄い。――もっと直接的に言うなら、胸が大きい! バドミントンの練習着が汗で張り付いているからか、思わず目が行ってしまった。これはイヤらしいとかじゃないから、本能的なヤツだから。僕の煩悩、消え去って……。ああ、こんな卑しい考えをしてるの、バレてないかな?
 僕の視線で不快な気持ちになっていないか気になり、チラッと山吹さんの顔を確認する。
「……なんかさ、蓮田くん。もしかして、元気無い?」
 山吹さんは心配そうな表情を僕に向けていた。
 リスのように愛来るしい顔、白い肌の上を汗が滑り落ちていく。それがとても可愛くて……。僕は目を逸らしてしまう。愛来るし過ぎて、僕には眩しい。
「べ、別に……そんな事は無いよ?」
「ふ~ん、そう?」
「そ、そうだよ?」
「……ね、あっちのベンチに座って、ちょっと話そうよ?」
「え、ええ? いや、良いよ!」
「良いから、私のサボりに付き合ってよ」
「いや、サボるのは良くないんじゃない?」
「体育館を使える日に備えて、今日は体力を温存してるの!……それにね?」
 ピッと、僕の顔の口の前へ白魚のような指を1本突き立てて来た。……人との距離感、ぶっ壊れてない? 人の唇の前に指を突き出すとか、山吹さんはレベルが高すぎだよ。
「私ね、人の顔色にはちょっと敏感なんだよ? 嘘吐いても無駄。悲しがっているのは伝わるからね」
 残暑の強い陽射しが肌を焼く中、涼風が校庭の土煙りと一緒に、ほんわりと柔らかな香りを運んで僕の鼻孔をくすぐる。
 それは山吹さんの流す爽やかな汗が原因だと理解して、思わずまた顔を俯かせてしまった。恥ずかしい……。でも、気のせいだろうか? 俯く直前に見えた彼女の表情が、少し儚げに映ったのは……。
「ほら、行こう?」
「……は、はい」
 断れない。誰からも気に留められない僕如きが断るなんて、烏滸がましい。
 ベンチで山吹さんと話をしているなんて風聞が広がれば、本郷たちだけでなく、もっと多くの人からイジメられるかもしれない。――でも、そんな事は今更だ。
 どうせ誰からも話しかけられないし、人が集まる限り弱者への迫害は世から消えない。……それなら、僕に唯一話しかけてくれる山吹さんと仲良くした結果イジメられるのは本望だ。……僕自身が、もっと山吹さんと話をして、自分の抱いている気持ちをハッキリさせたいというのもあるけど。
「なんで敬語なの? 同じクラスの同級生でしょ?」
 クスクスと笑う山吹さんは、やっぱり溌剌としている。
 さっき、ほんの少し寂しそうに見えたのは僕の気のせいだったんだろうな。長い前髪のせいで、視界も狭いし。きっとメガネが曇ってたんだろうな。
 言われるがまま僕は山吹さんに案内されて中庭のベンチへと座る。極力、彼女から離れて。思わず背筋がピンっと伸びてしまう辺り、僕には男性らしい度胸がやっぱり足らない……。もっと男らしくドカッと座れるような強いメンタルになりたかったなぁ。
「それで、どうしたの?」
「いや、本当に何も……」
「嘘吐かなくて良いってば。……目の前で話すより、視界の横に座ってれば話しやすいでしょ? 良かったら、相談してよ」
 山吹さんは本当に人の気持ちに敏感なんだな。
 確かに、その通りかも知れない。目の前に立たれると、僕と同じ小柄な山吹さんでも威圧感を覚えて凄く居心地が悪かった。横に座っている今の状態だと視界に入らないから、幾分か楽だ。それでも、僕からすればもの凄く緊張するんだけどね……。
 だって山吹さんは――入学式から1人ぼっちだった僕に話しかけてくれる唯一の人で……。僕が一目惚れしちゃっているのかもしれない、憧れの存在なんだから。
 でも告白する勇気も自信もないし……。本郷たちにイジメられて悲観的になってましたなんて、情けない事をそのまま伝えたくもない。
「……ちょっと、自分が情けないなって自己嫌悪してただけだよ」
「そっか。……その気持ち、ちょっと分かるなぁ。自分が許せない、人から認めてもらえないとかって、辛いよね」
 慰めてくれてるんだろうな。可愛いを練り固めたような山吹さんに、僕のように陰気な男の気持ちが本当に理解出来る訳がない。
 本郷とかも好意があるみたく言っていたけど、学校で山吹さんはアイドルのようにモテてるじゃん。皆から可愛いって認めてもらえてるのに、認められない僕へ話を合わせてくれてるのか。優しい人なんだな。
「僕が誰にも認めてもらえないのも当然なんだけどね。……僕自身だって、自分が嫌いなんだし」
「誰も認めてくれないならさ、せめて自分だけは自分を認めて好きになってあげなきゃ」
 太陽のような笑顔が眩しい。髪で視界が覆われていて、良く見えないのが幸いした。直視していたら心まで焼き尽くされそうな輝きだ。
「自分を認めてあげられないなら、認められるように優しくしてあげるとか……。思い切って環境とか考え方をガラッと変えるのも有りかもね!」
 考え方を、か……。それが出来たら、良いよね。口で言うのは簡単だけど……。劣等感で捻くれた僕の性根は、そう簡単に変わるとは思えない。環境って言っても、高校デビューにも失敗してるし。
 そもそも人と関わらないのが正解なんだと思う。嬉しい出来事も少ないかもしれないけど、傷つく機会も同時に減るから。
 折角心配してアドバイスをしてくれる山吹さんに、そんな後ろ向きな事は言えないけどさ……。
「その……。僕そろそろ帰らないと、バイトに遅れちゃうから」
 結局、僕はこの場から逃げる選択をした。
 バイトに遅れそうなのは本当だけど……。それより、気持ちが耐えられなかった。考えれば考える程、素直にアドバイスを受け取り前向きになれない自分が嫌いになる。
「あっ、そっかぁ。残念」
 社交辞令ってやつかな。……いや、ランニングをサボれる時間が終わったから残念なのかもしれない。
「色々とありがとう。……でもあんまり、僕には話しかけない方が良いと思うよ。僕と一緒にいるのを快く思わない人も、きっと居ると思うしさ」
 本郷とか本郷とか、後はその取り巻きとか本郷とか。
「心配してくれてるの?」
 うん、僕の身の安全をね? 嬉しそうな顔をしないで、弾けるような笑顔を向けないで。女の子に免疫がない僕がそんな顔を向けられると、勘違いしちゃうよ?……好意を持ってくれてるのかなってさ。
「じゃあ、私も部活に戻るね! バイト、頑張ってね~」
 山吹さんが走り去る背を眺め、僕は早足でバイト先へと向かう。
 人って不思議だな……。不釣り合いだと分かっていても、好意を向けてくれているのかなって思えば、自分も好意を持ってしまう。
 中学からずっと1人ぼっちだった僕にはさ……。
 これが恋なのか、それとも違う感情なのかなんて、判別が出来ないよ――。

 バイトを終えて自宅マンションへと帰り、自室へと荷物を置く。換気をしようと窓を開け、少しだけ夜空を眺め黄昏れていると――カララという音が聞こえた。ベランダにある『非常時にはここを破って避難してください』と書かれた蹴破り戸越しにだ。
「……そっか。伶桜も帰って来たんだな」
 マンションの隣の部屋に住む隣人――花崎家の1人娘、伶桜の気配を感じた僕はベランダから自室へと戻る。
 伶桜とは腐れ縁。幼い頃から兄妹同然に育って来た。
 地味なチビで、いじられっ子でインドア好きな癖に、気だけは強い幼少期を過ごして来た僕。対して伶桜は、幼い頃から身体も大きくバスケも上手い。
 中学校1年までは毎日のように一緒にいて、殴り合いの喧嘩も頻繁にした。身体が成長する前なんて、男女の筋力差も少ない。唯でさえ身長の高い彼女に、もやしっ子の僕はいつも痛みと悔しさで咽び泣くほどボコボコにされていた。
 思春期で男女が仲良く過ごす事で揶揄われるようになってからは、学校で一緒に過ごす事もなくなる。そうして一度距離を取り始めると、お互いに溝が生まれた。
「別に伶桜の事が嫌いじゃない。……でも――苦手だ」
 苦手意識、いや……。いつしか醜い嫉妬や、羨望の反動から生じる劣等感を抱くようになった。
 僕がもし、伶桜だったら。
 そう思わずにはいられない。そうして人格を形成する中学生の間、鬱屈した強い劣等感を抱きつつ、イジメられながら成長した僕は――歪んだ。
 自信を失い、鬱々とした日々を過ごす中で、どうしようもなく自分が嫌いになってしまった。
 鏡を見る度に、ヒョロヒョロで細い身体をした自分を見て、目が死んでいくのが自覚出来た。
 悔しくて一生懸命に牛乳を飲んだり筋トレだってしたけど……効果はなかったなぁ。
「……身長は伸びない、筋肉は付かない。……お医者さんに言われたのは、『骨が丈夫そうですねぇ』だもんなぁ……」
 僕の努力の結果、どうやら骨は長く伸びずに、中身がギッシリと詰まる成長を遂げたらしい。そんな成長は望んでいなかったんだけどね。
 気が付けば僕は、学年で1番背が小さかった。
 自然に笑えないぐらいの劣等感に苛み、日に日に陰気になっていく。そんな僕に新たな友達が出来る訳もなく、小学校から一緒だった人たちも次々と離れて行き――ついには誰もいなくなった。
 そんな現実を直視したくなくて、髪も前が見えないぐらいに伸ばした。本を読んだりゲームばっかりしていて、気が付けば視力まで落ちメガネが必要になって……。完全な地味キャラの出来上がり。
「僕がなりたかった、男らしくて格好良い人間とは大違いだな……」
 ベッドへ横になり自分の頬を触りながら、ついつい心の声が漏れ出てしまう。
「……でも今日は、山吹さんと話せて嬉しかったなぁ」
 高校生になった入学式の日。
 入学式が終わっても、僕は席で1人ぼっちだった。そんな僕に「クラスのグループへ招待するから」と声をかけてきてくれた陽気な女性。それが山吹美園さんだった。
 初対面の印象は――見るからに陽気で、自分のように陰気な男に話しかけるタイプとは真逆の人生を送ってそうな可愛い子。
 初めは住む世界が違う、スクールカースト上位の存在怖いなぁって感情が先行したけど……。怖く思えた彼女に優しく接してもらえるのが嬉しくて、ドキドキしてしまった。
 そのドキドキが、もしかしたら好意なんじゃないか? 一目惚れなんじゃないか? そう思うようになってから――もう半年だ。
 気持ちを確かめようにも、鬱屈とした思春期ですっかり自信を失い、気弱になった僕は声をかける事が出来ないでいた。見かける度に自分から声もかけられない、そんな勇気のない自分がもどかしい。
 毎夜のように部屋で思い悩み、そもそもこれは恋なのか。恋ってなんなんだ。そう懊悩する日々だ。
「あ~もう! 僕には分からないよぉ!」
 枕を抱きながら、ベッドの上をゴロゴロと転がると――。
「――ヒッ! ご、ごめん伶桜!」
 ドンッと、壁から強い衝撃が響いて来る。思わずベッドの上で身を跳ねさせ驚いてしまった。
 このマンションは壁が薄くて、声も響く。ましてや晩夏で網戸にしていれば、隣の部屋に住む伶桜には良く声が聞こえるだろう。僕も偶に伶桜の声が聞こえるけど……。こんな気持ち悪い事を叫んでたら、壁ドンくらいされて当然だよね。
「はぁ……。母さんが帰って来るまでにお菓子を作って、筋トレもしないと……」
 仕事を終え帰って来た時に美味しいお菓子が無いと、母さんは凄く不機嫌になるからなぁ。僕にプロレス技をかけて上司へのストレスを発散するのは勘弁して欲しい。幼い頃に離婚してから1人で育ててくれて、毎日遅くまで働きながら養ってくれてるのには感謝しているけどさ。
 筋トレも腹筋スタンドにダンベルと一通り揃えて、もう4年ぐらい毎日やっているけど……。僕はヒョロヒョロのまま。長年努力しても、効果が得られない。理想の格好良い肉体になれなければ、心だって腐るよ……。
「不平等だよね……。筋肉が付きやすい人が居れば、付きにくい人も居る」
 キッチンへと移動し、愚痴を吐きつつお菓子作りの準備をする。
 冷蔵庫の中身的に、今日は簡単な材料で作れるベイクドチーズケーキかな……。頂き物のビスケットもかなり余ってるし、唯ビスケットとして食べ続けるより土台のボトムとして使った方が飽きないよね。
「砂糖に卵、クリームチーズっと。……あ、今日はバター多めにしようかな~」
 ベイクドチーズケーキは土台の食感と味でかなり変わるしね。ビスケットを砕き、気持ち多めに溶かしたバターで土台を作る。
「型枠は……5号で良いか」
 直径15センチメートルぐらいの丸型。2人で食べるには多いけど、材料を丁度良く使うにはこれぐらいのサイズだろうな。変にレシピから材料を減らしたら、オーブンで焼く時間とかも調節しなきゃいけなくて大変だし。
 生地をちゃちゃっと作り終え170度に設定したオーブンへと突っ込む。後は40分ぐらい焼けば完成。
 その40分間で、僕は日課の筋トレをする。
 体幹、腕、足……。脳内に理想とするマッチョを思い浮かべながらやってるけど……。段々、虚しくなって来たな。
「……鏡に映る僕の姿、変わらないなぁ」
 クローゼットの中に置いてある姿見に映る自分は――もやしだ。女の子より筋肉が無いかもしれない。それぐらい細くて頼りない肉体だ。
「……僕のなりたい格好良い姿は、もう諦めた方が良いのかも。4年間も続けて、これだもんな……」
 なんだか……涙が滲んで来た。一旦メガネを外し、目元を擦る。
 オーブンを見に行くと、まだ焼き上がるまで15分ぐらい時間があった。
「……気晴らしにFPSでもやるか」
 銃でバトルロワイヤルするゲームを一戦やれば、丁度良いぐらいの時間だ。
 また自室に戻り、充電していたゲーム機を手に取って起動する。
 画面に映るのは、現実の自分に対する不満――正反対の筋肉が浮き出てスタイルの良い屈強な男性キャラだ。
 野良として知らない人とパーティを組み、バトルロワイヤルへと参加する。
「……なんだ、コイツら。全然僕と協力してくれないじゃん」
 仲間内でやってるのかな? 僕なんかいないかのように、勝手気ままにプレイしている。
「あ……。味方がやられた。救援を求めてるし……。居るよなぁ、協力プレイはしないのに、自分がやられたら復活の協力だけ求める人って」
 自分以外の味方が敵のパーティにやられ、回復をしてくれとチャットが飛んで来る。敵は味方に置いていかれ離れた位置にいる僕には気が付いていないのか、固まっている。
 それなら――僕が敵を一掃して味方を救うヒーローになってやろうじゃないか。
「グレネードくらえ!……ハハッ。殲滅完了。味方も助けられたし……僕、頼られてるなぁ」
 僕は昔、イケメンヒーローのような男に憧れていた。こうなりたいと、心から思っていたんだ。
 好きな人がピンチに陥った時に格好良く助けられる、まるで漫画に出て来るイケメンヒーローのような男らしい男に。
 その目標が――ゲームの中でだけは達成出来た気がする。
 その後、何組かのパーティと遭遇し、味方部隊は壊滅。僕の操作している屈強な格好良いキャラもやられてしまった。
 画面が暗転すると――屈強なキャラとは正反対な、もっさり頭にメガネをかけた地味な自分の顔が映る。思い描く理想のイケメンとは真逆の、パッとしない陰気な男がそこには映っていた。
 これはイジメられるよなぁ……。弱肉強食の世界だったら、どう考えても狙われそうな程に弱々しい見た目だ。
 余計に鬱憤が溜まった。
 僕は出来上がっていたベイクドチーズケーキをオーブンから取り出し、冷蔵庫に突っ込む。これで2時間も冷やせば、美味しく食べられる。
 ゲームに出て来るような屈強で格好良い男やヒーローを目指して、また筋トレをする。
 そして疲れ果てたらゲームの中で格好良い男に自分を投影してプレイをするを繰り返し――気が付けば、もう2時間以上は経過していた。母さんはまだ帰って来ていない。
 ゲームの電源を切ると――暗転した画面に、またしても大嫌いな自分の顔が映る。もう電源を切ったから、画面が明るくならない。嫌いな自分の顔が、消えてくれない。マジマジと自分の顔を見つめてしまい――涙が滲んで来る。悔しくて、情けなくて……思わず唇を噛み締めた。
「惨め、だなぁ……。僕はなんの為に生きてるんだろう……。何も楽しくない。毎日が生きづらい、苦しいよ……」
 小学校の低学年まではクラスの中心で明るく笑い、無邪気にヒーローやリーダーを気取っていた。でも他の人がドンドンと体格が大きく声も低くなっていく中で――僕は殆ど変わらなかった。
 身長も低く、声も幼くて高いまま。いつの間にか、クラスでの立ち位置も中心どころかイジメられっ子だ。
 現実で叶わない鬱々とした気持ちをゲームで晴らす。格好良くもないし誰にも誇れない人間へと成長してしまった。
「もう、こんな自分は嫌だよ……。抜かれて、落ちて行くだけの自分は嫌だ……」
 思わず膝を抱え、顔を埋めて嘆く。
 気になる子への気持ちを確かめる為に話しかける事すら出来ず、デートに誘うなんて夢のまた夢。自信もなく勇気も出せない臆病者として完成したのが――今の僕だ。
 そんな誰にも誇れない自分が――顔も見たくないぐらい、大嫌いで仕方ない。
「変わりたい、生まれ変わりたいよぉ……」
「――(かおる)、泣いているのか?」
「ぇ……。伶桜?」
 僕の名前を呼ぶ声に顔を上げれば、室内には誰もいない。
 周囲を見回すと、ベランダへ通じるドアが網戸になっている。そういえば、換気の為に開けたままにしていたんだっけ?
 という事は、ベランダ越しに伶桜が話しかけてくれたのか?……どれぐらいぶりだろう、伶桜に話しかけられるのなんて。気にもしてなかったから、ちょっと直ぐには分からない。
「伶桜?」
 ゆっくりとベランダに出て、蹴破り戸越しに話しかける。
「……何をシクシクと泣いてるんだよ。そんな泣かれ方をしたら、気になるだろう。……相変わらず薫は弱いんだな」
 ああ、この物言いに声。間違いなく伶桜だ。
 格好良くて、僕の理想とする男の内面を持っている幼馴染みの女の子。その気配が僅か1メートルぐらいの位置に感じられる。
「……そうだね。僕は伶桜みたいに、強くて格好良くなれなかったから」
「……俺だって、好きでこんな性格に成長した訳じゃない。バスケ部の後輩とか周りに、格好良いって言われて、引っ込みが付かなくなったから……」
 夜空に消え入りそうな声で、伶桜がぼやいている。
 伶桜も悩みを抱えていたのかな……。案外、夜空を眺め黄昏れたくて、ベランダに出て来たのかもしれない。今日の放課後、女の子から告白されて億劫そうだった姿が脳内に蘇る。
「仕方ないよ、伶桜は格好良いもん。今日だって女の子から真剣に告白されてたじゃん」
「あれは……。そうだ、薫はあんなとこで何してたんだ? 別に本郷たちと仲良くないだろ?」
「……別に」
「……カツアゲか?」
 カツアゲ……。恐喝みたいな事だよね。今日のが、脅されてお金を奪われたと表現するのが適切なのかは分からない。レシートを見せられて、お金を渡しただけだから。勿論、僕が払わなければ何かしらの形でイジメがエスカレートするんだろうけど。
 あれはなんと呼ぶんだろう。少なくとも、僕がカツアゲと聞いてイメージする『金出しな』と胸ぐらを掴まれる光景とはマッチしない。
「……違うよ」
 だから否定したんだけど……はぁと、長く深い溜息が隣から聞こえて来た。頭を掻くようなガシガシって音も聞こえる。……考え事とか照れくさい事があった時、何処かを掻く癖は変わってないんだね。見た目は格好良く変わったのに。
「……ビンゴかよ。畜生……」
「僕さ、違うって言ったよね?」
「否定までの時間が長い。少なくとも、似た何かはされてるんだろ?」
「……まぁ、うん」
 僕が肯定すると、長い沈黙が流れた。伶桜も困っているよね。突然こんな面白くない話をされてさ。原因は、僕がヒョロガリで弱虫なチビだって事にあるんだ。……根本的に解決が出来ようはずもない問題なんだし、相談されても困るのは当然だよね。……申し訳ないなぁ。
「――あ、伶桜。ベイクドチーズケーキ食べる?」
「……ベイクドチーズケーキ?」
「うん、母さんに作ったんだけど……。量が多くてさ」
「なんでそんなオシャレな物を作って……。ああ、そうか。叔母さん、お菓子好きだもんな」
「そうなんだよ。良かったら、食べて感想くれない? もし不味かったら、母さんは1日不機嫌になっちゃうしね」
「……分かった。そっちに行く」
「え?」
「迷惑か? 俺が薫の部屋に行くの」
「迷惑って訳じゃ……。でも、久しぶり過ぎで戸惑ってるというか……」
 本当に何年ぶりだろう? そもそも、こんなに長く会話したのだって中学1年生以降は無かった。部屋に来るのなんて、4年ぶりじゃないかな?
「じゃあ、10分後ぐらいに行く」
「……10分後?」
「ああ。……その間に顔を洗って、整えておけよ」
 そう言い残して、伶桜は部屋に入り扉を閉めた。
 ふと自分の顔を触ってみると――顎まで濡れていた。
 これは、涙?……そうか、僕はそんなに泣いていたのか。伶桜は僕の顔も見ずに会話しただけでそれを見抜いて、整える時間をくれたんだろうな。
「……本当、なんでそんなにクールで格好良いのさ。……ズルいよ」
 僕も自然とそんな気遣いが出来るような、格好良い男になりたかった。やっぱり伶桜に接すると、自分のダメさ加減に心が折れそうになるなぁ。
 僕は急いで洗面所に戻って顔を洗い、冷蔵していたベイクドチーズケーキを切り分ける。
 そうしてキッチリ10分後、伶桜が僕の部屋へとやって来た。
「……マジで久しぶりだな、この部屋も。懐かしい」
「そう、だね……」
 中央に四角いテーブル。ベランダへと続く窓際には何もない。伶桜の部屋の壁と接するようにベッド。勉強机と本棚が他の壁際に設置されている。あとはクローゼットと床に散らばる筋トレ用具ぐらい。特に模様替えもしていないから、最後に伶桜が来た時と家具の配置も変わって無いはずだ。
 テーブルを前に立つ伶桜の横顔を、僕はマジマジと見つめる。
 常人離れした、端正な顔立ちだよなぁ……。シミ1つ無い透明感のある肌。キリッとした奥二重に、クールで切れ長の涼しい目元。高い鼻に、知的さを感じさせる逆三角形な顔の輪郭。長い手足に、スレンダーなボディスタイル。その美しさを更に際立たせているのは、髪型だ。耳より後ろは短く、前髪と横髪は長め。これが色気あるハンサムさを醸し出している。
 最後にちゃんと顔を合わせた中1の頃より、よっぽど洗練された格好良さだ。
 成る程、これは女の子にも告白されま来るはずだよ。学生服か、今みたいに適当でラフなパーカー姿しか見た事がないけど……オシャレをすればもっとモテると思う。僕が望む格好良い素材を全て持っているのに、勿体ないな……。
 それに、こうして近づいて思ったけど……。
「伶桜」
「なんだ?」
「……また身長、伸びた?」
 僕の質問に、伶桜は少し顔を顰める。
「それ、いつと比べてだ?」
「中1から。あの頃は170センチメートルぐらいだったよね」
「……まぁ、それよりは少しだけな」
「……今、身長いくつ?」
 少しだけ瞳を揺らしてから、伶桜は囁くように言葉を紡ぐ。
「……174か5センチーメトルぐらい」
 は? 日本人の女性平均身長が158センチメートルぐらいだから、16センチメートル以上も平均より高いって事? 男性平均だって172センチーメートル有るか無いかなのに。
 というか、僕よりも15センチメートルぐらい身長高いの?
「ズルい」
「そんな事言われてもよぉ。……俺だって、好きで身長が伸びた訳じゃないんだよ。まぁバスケしてると有利な時もあるけど」
 困ったように頭を掻く仕草すら、クールで格好良いんですけど。……なんなの、コイツ。幼馴染みだけど、凄く腹が立つ。苦手意識が更に増すんだけど。……泣いている僕を励ます為に来てくれたのかと思ったけど、もしかして止めを刺しに来たの? 鬼なのかな?……涙でメガネのレンズが曇れば良いのに。このハンサム、僕には目に毒だ。
「足の骨、僕に継ぎ足してよ」
「グロい事を言うな。……おい、マジな目をするの止めろ」
「マジだよ」
「メガネの奥の瞳、ガチじゃないか」
「だから、ガチだもん」
「怖ぇよ」
「僕みたいなチビで地味なヤツの怒りが怖いんだ?……へぇ」
「……分けられるもんなら、俺だって身長を分けてやりたいよ」
 嘆息するような伶桜の声音が室内に響く。
 僕に無茶な注文をされて困っているというより、伶桜自身も悩ましいと思っているかのような印象が感じられる。身長が高いのに困るなんて、僕からしたら贅沢だけど……。伶桜は伶桜なりに悩みがあるのかもしれない。
 もしかしたら、数年ぶりに僕なんかの部屋に来たのも、自分の悩みを誰かに聞いて欲しかったとか? 僕なんかに話しても仕方ないけど、壁に話しかけるよりはマシだと思ってくれたのかもしれない。
「取り敢えず、ケーキを持って来るから。適当に座っててよ」
「ああ。ありがとう」
 そこで迷いなく僕のベッドに腰掛ける辺りは、流石は幼馴染み。慎みとか遠慮が無いよね。お互い気にするような関係でも無いけど。兄妹同然で、互いにほぼ無関心だし。
 伶桜って、今はどれぐらい食べるんだろ? 母さんが3ピースは食べるとして、僕と伶桜で残り3ピースを食べちゃいたいんだけど……。小皿に分けるのも面倒だな。切り分けて丸いまま持って行こう。
 フォークを2本と、ホールケーキを机に並べる。
「……これ、薫が作ったのか?」
「そうだよ。はい、フォーク。適当に食べて」
「美味い……」
 おずおずとベイクドチーズケーキを口に運び、薫は目を剥いて感想を呟いた。演技っぽさを微塵も感じない様子に、僕は安堵の息をホッと吐く。
「本当? 良かった、今日は母さんにプロレス技かけられずに済みそうだね」
「本当に美味い……。なんなんだよ、薫はさ……。どこまで俺を、惨めな気持ちにさせんだよ」
「惨めな気持ち?」
「……ああ。俺は、本当は格好良くなりたくなんか無かった」
「は?」
 喧嘩売ってるよねと思うけど……。伶桜が本気で寂しそうに呟いているから、グッと堪える。
「伶桜みたいに小っちゃくなりたかった」
「喧嘩売ってるなら言いなよ。ダンベル構えるから」
 堪えるって言っても、限度はあるからね。我慢のラインを越えて来たら、殴るのも許して欲しい。
「……料理だって、俺は出来ない。お菓子も焦がしてばっかりだ」
「……え、これマジな話? 僕をバカにしてるんじゃなくて?」
「マジだよ。……本当の所、俺は可愛くなりたかった」
 舐めてんの? いや、これは無いもの強請り……かな? 持つ者は持たざる者を羨ましく思うとか、隣の芝は青く見えるみたいな? 僕からすれば格好良いルックスをした伶桜が、可愛くなりたかったなんて嫌味にしか聞こえなくて、血涙が出そうだけど……。
 伶桜の様子を見ると、本気で悩んでいるみたいだ。こんな弱々しい姿、初めて見たな……。ここ数年は互いに無関心だったけど、中学生になるまでの12年間は、兄妹同然に過ごして来たのに。
「可愛いって……山吹さんみたいな?」
 可愛いと言われて真っ先に思い浮かんだのは、山吹さんの顔だった。
 もう半年も山吹さんへの気持ちがハッキリせずにモヤついた心情だから、パッと名前が出てしまった。
 顎を手で抑え横目に考えていた伶桜は、小さく首を振って否定の意思を示す。
「いや、美園が可愛いのは認めるけど……。ああいう作った内面の、小悪魔的可愛さじゃない」
「作ってる? 山吹さんが?……え、嘘って事!?」
 マジですか!? 女は女の嘘を見破るのが得意って言うけど、本当に!? それが本当なら、ショックすぎる。……いや、待て待て。伶桜の言う事だぞ? 下手な男よりイケメンで、告白の断り方もバッサリ断ち切るような格好良い伶桜だ。どこまで信じられるか分からない。
「へぇ……。その反応、薫は美園を好きなのか?」 
 伶桜は僕へ視線を向けると、ニヤリと愉快そうに口元を歪め目を細めた。……その口元に運ぶケーキの手を止めて。折角クールで格好良い場面なのに、台無しだよ。イケメンを無駄遣いするな。それはイケメンへの冒涜だ。格好良いイケメンに憧れていたのに、穢さないで欲しい。
「いつから好きなんだ?」
「……なんでそんな事を聞くのさ。興味なんて無いでしょ?」
「良いじゃないか。恋バナだよ」
「幼馴染みと恋バナとか、親に話すよりキツいんだけど。悍ましい」
「……薫、昔より突っ込みの毒が強くなってないか? 毒が塗られたナイフみたいにダメージが来るぞ」
「毒かぁ……。性根から腐ったんじゃない? 思春期で歪んだ自覚はあるから」
「……そうか。兎に角、俺だって暴露したんだ。次はそっちの番だろ? 話のネタ、提供しろよ」
 本当は可愛くなりたかったって話かな? 勝手に話をしたんじゃん。しかも全然楽しくないネタだったし。僕からすると、だったら格好良さは僕に寄越せって憤りすら覚えたのに。……理不尽だなぁ。
「……入学式。1人ぼっちの僕に、嫌な顔もせず明るく話しかけてくれた時から」
「成る程な。浮いてて寂しかった所を、優しくされて好意を持った。つまりは、一目惚れって事か。……薫、中学から地味って言うか……。モッサリして気味が悪くなったからな。チョロく落とされやがって」
「そんな事、改めて言われなくても僕が1番分かってる。……格好良くなれない、地味でヒョロガリのメガネ。自分が魅力無い、パッとしないなんて……自分が1番良く分かってるよ」
「あ~……。悪かったよ。もう泣くな。……そんなに腐るほど、傷ついていたのか。知らなかった」
「……泣いてないよ。それに、好きかどうかだって分かんない。自分の気持ちハッキリしないまま半年経っちゃったから」
「だったら、気持ちをハッキリさせて来いよ」
「簡単に言わないでよ。相手は学校のアイドルだよ?」
「そんな弱気だから、本郷たちに良いようにされんだぞ?」
「……僕はもう、自分に自信が無いから。別に大金って訳でも無いし、静かに卒業出来れば良いよ」
「へぇ。それで、いつ告白するんだ? 卒業式か?」
 コイツ、自由過ぎない? 無敵かよ。僕を励ます気なんて、絶対に無いでしょ。本郷たちとの事も、そんな興味は無いんだろ。……切り替えの早いサバサバとしている伶桜の事だ。この状態の僕に何を言っても仕方ないと、バッサリ切り捨てて話題を変えた可能性もあるけどさ。
「僕の話を聞いてた? 鼓膜あるの? 相手は学校のアイドルだよ、僕みたいのが相手される訳が無いって分かるよね?」
「キレんなよ。……別に揶揄ってねぇ。半年も指咥えて見てただけなんだろ? そんなもん、分の悪い賭けだと諦めて何も行動しない自分が益々嫌いになって行く一方だろ」
「……まぁ、ね。でも言う機会も勇気も無いし……。無謀に当たって砕けたら……。身の程知らずだって、イジメもエスカレートするよ」
「……つまりは、無謀では無い実績があれば良いんだろ? 魅力的な存在って証明が有れば、例え失敗してもイジメに発展するリスクは少ないって訳だ」
 伶桜ぐらいにイケメンなら、周りも渋々納得するかもしれないけどさ。イケメン女子と可愛い系美少女。良い組み合わせだねって。
 でも僕みたいなのは……ダメでしょ。
「イジメなんて、理屈じゃないと思うよ。僕がイジメ易そうな限り、適当な理由をつけてイジメられるんじゃない?」
「このまま3年間、そうやって気持ちをハッキリさせられないで卒業するのか?」
「……それは嫌だ」
「だったら、良い機会があるぞ」
「……良い機会?」
「今度の蛍高祭で、ミスコンとミスターコンがあるのは知ってるよな?」
 蛍高祭……うちの文化祭の事か。大学とかの文化祭でミスコンやミスターコンがあるのは知っていたけど、うちの高校にもあったんだ。
「初耳だけど?」
「なんで知らないんだよ。話題になってんだろうが」
「友達いないし、人と関わりないから」
「そ、そうか……悪かったな。野暮な事を聞いた」
 頬を掻きながら、ばつが悪そうな顔で苦笑を浮かべている。自慢じゃないけど、学校で口を開く事なんて滅多に無い。クラスで山吹さんが話しかけてくれなければ、絡まれたり授業で名前を呼ばれない限りは一言も口にする事なく下校する事だってある。伶桜は知らないだろうけど、それが僕のスタンダードなんだよ。
「蛍高祭ではな、男性が女装して出場するミスコンテスト、女性が男装して出場するミスターコンテストがある」
「カオス過ぎない? 中途半端に女性や男性にランキング付けるのを反対する人へ配慮した感じなの?」
「さあな。別名は、コスプレパフォーマンスコンテストだ」
「うちの学校って進学校だったよね? 勉強できるアホが揃ってるのかな?」 
「コンテストは単純にルックスの良さだけでなく、ファッションセンスや演出が加味されるそうだ。先輩が言うにはな……。去年のミスターコン優勝者は大人気漫画に出て来る、拳で闘う怪力高校生キャラのコスプレをして、瓦15枚を割った女子空手部元主将だったらしい」
「……まぁ、それなら分かる。やるのも見るのも、案外面白そうなコンテストだね」
「ミスコン優勝者は、女性アイドルアニメキャラのコスプレをして、キャラソンを歌いながら入場したそうだ」
「ごめん、やっぱり僕には理解が及ばないや。アホの権化じゃん」
「所作も声真似も、原作完全再現という愛のステージパフォーマンスをした細マッチョだったらしいぞ」
「リスペクトは感じるけど、人前でやる意味ある? 勉強し過ぎてアホしかいなくなったのかな」
「原作リスペクトの為に、体重を15キログラム落として来たとかって噂だ」
「そこまで突き詰めれば、尊敬できるアホだね。1周回って僕も格好良く感じて来た」
「因みに、ミスコンとミスターコン、どっちも動画がSNSでバズったらしい」
「僕には世間様が理解出来ないよ。……あれ、僕がズレてるのかな?」
 バズるってのは、凄く流行って話題になるという事だ。つまり、それだけ世間では評価されたって事なわけで……。いや、あるいは炎上という叩かれる方向なのかもしれない。頑張ったのにそれは可哀想か。
 多分、面白おかしく青春している姿が良かったのかな? それか、怖い物見たさか……。蛍高祭は秋口に行われるから、終わりゆく夏が恋しくてホラーを求めたのかもしれない。うん、きっとそうだ。
「だから真剣にやれば誰だってリスペクトされて優勝可能性がある、公平なコンテストだ。過去の実績が物語っているだろ?」
「それは分かったけどさ……。なんで僕にそんな情報を話したの?」
 思っていた以上に盛り上がる青春イベントなんだろうなとは思う。でも僕には、女装趣味やコスプレの趣味がない。……第一、見た目もパッとしない地味さだ。出場なんて意味がないし、する必要性も感じない。
 場が盛り上がるような芸も会話術も、愛して止まない趣味すら持たない僕にこんな話をしたのは、なんでなんだろう。山吹さんを観覧に誘えって事かな? 確かに、それだけインパクトがある人たちを見ていれば、会話なんか出来なくても間は持つだろうけど……。そもそも誘う勇気すらない。僕なんかって、自信が出ない……。
「優勝賞品がな、テーマパークのペアチケットなんだよ」
「……つまり、そのコンテスト――僕の場合だとミスコンに出て、優勝の実績とペアチケットを使って山吹さんを誘えって話?」
「そう言う事だ。客観的に評価されるコンテストで優勝した実績なら、自信を取り戻すには充分だろ? その実績を引っさげて、美園を誘え。そんで、気持ちをハッキリさせて来い」
「それは……」
「いい加減、覚悟を決めろよ。勇気も出せず、その感情がなんなのかモヤついたままで卒業したいのか?」
 伶桜が僕を煽る言葉は、胸にグサリと刺さった。
 僕は……変わりたい。今の自分が――勇気も出せず自信も無い。何も楽しくない、生きづらい、息苦しいと毎日嘆いているだけの自分が嫌いだ。
 大勢の前に立つ挑戦……。凄く勇気が要る事だけど……幼馴染みにここまで煽られて、ウジウジと引き下がりたくは無い。
 嫌いなままの自分を受け入れて――一生、幼馴染みから見下されるのは嫌だ。
 だったら――度胸を示すしかない、よね。
「……分かった。やってみる」
「良く言ったな」
 伶桜が微笑みながら、俺の頭を撫でて来る。ボサボサな僕の髪の毛に、伶桜の細く長い指が埋まった。……なんだか、妙に恥ずかしい。
「僕は子供じゃ無いんだから、頭を撫でないでよ」
「撫でやすい高さにあったからな」
「誰がチビだ。顎に頭突きするよ?」
「俺の顎と薫の頭が、丁度良い高さだからな」
 揶揄うように伶桜はまた笑う。
 本当に頭突きしてやろうかな? 身長差的に、座っててもマジで丁度良いし。……悲しくなって来た。なんで僕は自分が言った事でダメージを負っているんだろう?
「……はぁ。でも僕、コスプレ衣装なんか持ってないよ?」
「それなんだけどさ……。俺に策……というか、お願いがある」
 表情を引き締め、伶桜は幾分か緊張した雰囲気で背筋を伸ばす。
「伶桜が、僕にお願い?」
「ああ。……さっき、俺は可愛くなりたかったって言ったろ?」
「言ってたね。嫌みったらしく」
 忘れられない。伶桜は本気で悩んでいるのかもしれないけど……。格好悪くて小柄な事をコンプレックスに思う僕へ喧嘩を売る発言だったから。
「実は可愛い服も買ってあって……。だから、その――俺の代わりに、着てくれないか?」
 僕は唖然としてしまい、室内に静寂な時間が流れる。
 一瞬、部屋の空気が凍ったのではないかと錯覚した。
 伶桜は真剣な表情で、僕は戸惑うように口の片側をヒクつかせて固まっている。……というか、脳の処理が追いつかないんだけど?
 伶桜の代わりに、伶桜の買った可愛い服を僕に着て欲しい?……今、そう言ったんだよね?
「……は? 女装って事?」
「そうだ。俺の理想は、可愛い子だった。……その願いを、薫の身体で叶えさせて欲しい」
「……本気?」
「ああ、頼む」
 伶桜が僕に頭を下げてお願いして来るなんて……。なんだろう、凄くゾクゾクして来た。僕の歪んだ性癖が目を覚ましそうだ。
 僕より圧倒的に勝る存在だと思っていた伶桜が、真剣に頭を下げてお願いして来ている。このシチュエーションに興奮しないでもないけど……。それ以上に、人から頼りにされているのが嬉しい。
「分かった。でも、1つ条件がある」
「なんだ?」
 折角の機会だ。伶桜と対等に話せる機会なんて金輪際、無いかもしれない。
 等価交換と言う訳じゃないけど……。伶桜だって僕を玩具にして、自分の欲望を叶えるんだ。僕も自分の欲望を口にしたって、罰は当たらないよね?
「僕の理想は、伶桜みたいに格好良くなる事だったから……。似合わなくて着れない服とか、代わりに着て欲しい」
 伶桜は首を傾げながら、真剣な表情で何かを考えている。
「つまり――俺は薫に。薫は俺に、自分を投影させてオシャレさせるって事か?」
 数秒ぐらい考えた後、今の状況に合点がいったのか、そう確認して来た。
 その表情は、嬉しそうに頬が緩んでいる。……腹が立つぐらい、爽やかクールイケメンだな。
「うん。……本当は自分で着たかったけど、似合わないから仕方ない」
 実は僕にも、いつか身長が伸びて筋肉がついて……格好良い男になれたら着たい。そう思ってクローゼットに眠らせていた服がある。
 一度袖を通してみたけど、服に着られている感が強く……全く似合っていなかった。泣く泣く死蔵されていたんだけど……。供養代わりに着て理想の格好良い姿を見せてもらえるなら、これに勝る喜びもないと思うんだ。
「分かった。――そんじゃあ、早速やるか?」
「え? 今から?」
「ああ、善は急げだろ。家から持って来るから、準備しとけよ。――薫のセンス、俺が見てやる」
 意地の悪い笑みを浮かべながら、伶桜は立ちあがり出て行った。……どうしよう。軽々に引き受けたし、着てくれって提案したけど……。これは無いって言われたら、立ち直れないよ。
 一先ず、クローゼットから一式を取り出し、眺める。……うん、多分だけど、似合うと思うんだよなぁ。残暑が残る時期に着てもらうのはキツい厚着だけどさ……。
 数分とかからずに、伶桜は部屋へと戻って着た。ショップの紙袋を手に、目をキラキラと輝かせて。なんなの、その子供みたいに無垢な瞳は?
「待たせたな」
「いや、むしろ相当早いでしょ」
「この服が日の目を見ると思うと、つい……な」
 紙袋から取り出したのは……3点の服と白いヒールサンダル、それに黒いロングのウィッグに、化粧品セットだった。
「まずはこの服を着てみてくれ。それからウィッグと化粧だ」
「……待ちきれない子供なの? ワクワクし過ぎじゃない?」
「当たり前だ。ああ、ちなみに説明しておくと、この白キャミソールにライトブルーのボレロカーディガンを着るんだが、リボン結びした部分が前に来るようにな?」
「成る程? スポッって被るんじゃないんだ。結び目は後ろだと思ってた」
「やりがちなミスだからな。後、俺が着るのを想定したからサイズはデカいけど……」
「……嫌味?」
「ちげぇよ。オーバーサイズも流行だし、デニムワイドパンツは多少丈が長くても、ヒールが高いから誤魔化せるなって。そう思っただけだ」
「本当かなぁ?……まぁ良いや。ちょっと着てみるから、あっち向いてて」
「分かった」
 女装……。やると決めたとは言え、抵抗があるなぁ……。
 でも、やるしかない。約束しちゃったんだし……着るしかない。覚悟を決めよう!
 伶桜が背を向けたのを確認して、僕は渡された衣服に袖を通していく。
 うわぁ……。このキャミソールとか、胸しかかくしてないじゃん。露出多いな。カーディガンの生地も柔らかくて薄いし……。この服を伶桜が着ようとしていたのか。普通に似合うと思うんだけど……。自分で着てみたら、イメージと違ったのかな?……というか僕、本当にレディース服一式を着ちゃってるよ。初めてだけど……。どうせ僕みたいに地味なヤツじゃあ気持ち悪くなるんだろうな。ウィッグしても地味な顔はどうにもならないしさぁ……。
「……着るの、終わったよ」
 今更ながら後悔しつつあったけど、約束は約束。
 姿見鏡も見ずに声をかけた。自分で鏡を見て、気持ち悪くなって約束を破る事になるのが嫌だから。そうなる前に、思い切って声をかけた。
「おお……。意外にサイズは合ってるな。首から上は、アレだけど」
「アレで濁しても、傷つくからね? 顔がアレなのは、僕が1番分かってるよ……。メガネで頭もボサボサだし、冴えないから気味悪いって言いたいんでしょ? もう脱ごうか?」
「そう怒るな。首から上は、これからメイクとウィッグをするんだから良いんだよ」
 苦笑しながら言うと、伶桜は屈み――僕の腹筋を指でなぞった。……なんかゾクゾクって来たんだけど。え? セクハラ?
「腹筋に、綺麗な縦線が入ってるな。……機材もあるし、筋トレしてたのか?」
 あ、そう言う事か……。露出が多い服装だし、そこが気になったんだね。
「うん、この4年間は毎日」
「ま、毎日? 凄いな……」
 本当に感心したような声を漏らしながら、伶桜が僕の腹筋をペタペタと触る。確かに、自分でお腹を見ても、縦線は良く見える。……でも横線は見えない。6パックなんて、夢のまた夢だ。
「……僕が望んだような、格好良い肉体美は手に入らなかったけどね。結局、無駄な努力だったよ」
 改めて虚しくなる。結構、頑張ったんだけどな……。汗だくになって、毎日毎日続けてさ……。
「無駄じゃねぇよ」
「え?」
「薫が頑張って来たから、服も喜んでる。こんなに服を魅力的に着こなせるのは、薫の努力の成果だ」
「…………」
「自分のして来た努力を、無駄なんて言ってやるな。誇れよ」
「伶桜……」
 初めてかもしれない。僕が理想の格好良い男を目指して努力して来たのを、こんな風に認めてくれたのは。
 思っていたのとは違ったけど……こうして褒めてもらえるなら、筋トレも女装も、やって良かったなぁ。そう思えるのは……伶桜のお陰かも? なんか……目頭がジンと熱くなって来たよ。
「くびれも綺麗だしな」
「男の身体に、くびれは出来ないんだわ」
「現にあるぞ?」
「単純にガリガリだから、骨盤が浮いてるだけだよ。やっぱり、僕に喧嘩売ってる?」
「誇れよ」
「誇れないよ。さっき同じ言葉で感動した僕の純情を返してくれるかな?」
 一瞬で泣きそうだった喜びが消えたよ。伶桜は純情をぶち壊さないと死ぬ病気なの?
「そんじゃ、メイクしてからウィッグするからさ。座れよ」
「ん……。分かった」
 僕が床に座ると、伶桜も目の前に座って化粧用品セットを広げる。量が多いんですけど……。何コレ、女の子はこんな量の道具を使い分けてるの? ヤバくない? 美術の時間に絵画をした時より多いんじゃないかな?
「えっと……。まずはっと」
 伶桜は普段、化粧なんてしてないんだろうな。スマホを弄って化粧方法を確認している。
 ネットサイトを直接見るんじゃなくて、異常な数のスクショを見ている事から、伶桜が前々から化粧をしたくても踏み出せずにいたのが伺える。
 試す相手が素材の悪い僕でゴメンねと、罪悪感を覚えちゃうんだけど……。
「よし、メガネは外してくれ」
「……分かった。よろしくね」
「おう」
 メガネを外しているから視界がぼやけて見えないけど……。張りのある声から、きっと今の伶桜は楽しいんだろうなと分かる。まぁ、マネキンだって全部が素材良い訳じゃないだろうし。伶桜が楽しんでくれるなら、良いかなぁ……。
 そのまま20分ほど経過して――。
「――よし、最後にウィッグを被せて……ぇ」
 ちょっと眠りかけていたけど、やっと完成したのか。ボサボサの頭へ乱雑に網のようなものを被せられてから、その上にウィッグを乗せられる。
 伶桜が位置を少し調整すると、動きも声も止まってしまった。……なんかこの状態で沈黙って、もの凄く気まずいんだけど?
「何? どうしたの? 言葉を失う程に気持ちが悪いなら、ウィッグ取るよ?」
「取るな!」
「ぇ……」
 溜息交じりにウィッグに手を伸ばそうとすると――間髪入れずに、大きな声で制止された。腕は伶桜にギュッと掴まれている。……握力、強くない? 痛いんですけど。
「……薫。そのままサンダルも履いてくれないか?」
「良いけど……。見えないからメガネを頂戴」
「ああ、そうか……。ほら」
「ん」
 伶桜からメガネを受け取り、やっと視界が確保出来た。
 自分の髪じゃ無いものが乗っているのって、凄い違和感。……というか、伶桜の顔が赤くない? 網戸じゃなくしたし、室温も高いからかな。僕も頭が少し蒸れているしね。
「ほい、履いたよ」
「……メガネ、取るぞ?」
 伶桜が手を伸ばし、僕のメガネを取る。再び視界が奪われた。輪郭だけしか見えないけど……。なんか、伶桜にジッと見られてる? すっごく怖いんだけど……。
 静寂に耐えきれず言葉を発しようとした時――カシャッと、スマホで撮影する音が聞こえた。
「ちょっ!? 今、撮ったよね!? 何、その写真で僕を脅してお金を巻き上げるつもり!?」
 本気で焦って止めようとするけど、伶桜との距離感が掴めない。
 すると――。
「バースト!? 連写してる!? もう、なんなのさ!?」
「……薫、メガネだ」
「あ、ありがとう。――じゃなくて、写真は消してよ! 似合わなくて気持ち悪いのは、分かってるんだからさぁ……。これ以上、僕をイジメないでよ」
 恨めしい気持ちを込めて伶桜を睨むと――伶桜は床に崩れ落ち膝をついた。
 片手で胸を押さえている。……胸焼けする気持ち悪さって言いたいの? 流石の僕でも傷つくよ?
「上目遣い、メガネっ娘……更には僕っ娘に、女の娘だと? 可愛いのマシンガン。薫……俺を殺すつもりか?」
「伶桜、そんな俗なネットスラングを知っていたんだね……。吐くなら床じゃなくて、トイレで吐いてよ」
「吐く?……もしかして薫、自分で気付いて無いのか?」
「……何が?」
「……ほら」
 伶桜がスマホを手渡して来る。
 そこには僕のよく知る衣装と――知らない人が写っていた。
「……え? これ、誰?」
 伶桜が無言で、俺を指差して来る。……またまた、ご冗談を。こんな可愛い子が、僕な訳がないじゃないか。
 室内を歩き、クローゼットを開く。姿見鏡に映っていたのは――。
「――これが……僕?」
 何処かで聞いた事のあるような、月並みなセリフが思わず口から出てしまった。
 間違いなく、写真に映っていた女性が鏡の中に居る。え……もしかして、だけど。勘違いだったら、もの凄い恥ずかしいけど……。
「もしかして……さ。今の僕って、結構可愛い?」
 伶桜へ視線を向けると、サッと目を逸らされた。綺麗な頬はサクランボのように紅潮している。
「その……俺の理想の可愛い子、そのまんまだよ。俺が好きな服でメイクしたから、タイプに寄るとは思っていたけど……。想像以上に、アレだ。……可愛いよ」
 耳まで真っ赤にしている事から、伶桜は嘘をついていないんだという事が分かる。……信じられない。これはコスプレとか女装とかってレベルじゃない。――進化だ。
 ゲームとかで、原型を残さず進化するような、別物の何かだ。
「そっかぁ~……。僕が可愛くって、伶桜が照れてるんだ? ふ~ん?」
「やめ、止めろ! 下から俺の顔を覗き込むな!」
「え? 仕方ないじゃん。僕の方が身長低いチビなんだし?」
「今は蹲ってる俺の方が、目線は低いだろ!? ああ、もう! 終わりだ終わり! 早く薫が俺に着せたい服を持って来い!」
「うん。――はい、これ。よろしく」
 僕はクローゼットに吊しておいて一式を手渡す。
「どれどれ……。黒いチェスターコートに白ニットシャツ。黒スキニーに黒革靴。グレーのネックウォーマー。……熱くて死ねるけど、高身長が似合うエレガントコーデだな。確かに、これは薫には無理だわ」
「うん、だからお願いね? あ、エアコンは入れるから」
「そ、その顔でお願いとか言うな……。着替えるからさ……あっち向いてろよ」
 狼狽している伶桜って、面白いな。なんか、癖になりそう。
 僕はエアコンの冷房スイッチを入れて背を向け、メガネを外す。背を向けているだけでも見えないけど、念には念を入れて安心させてあげなきゃね。
「――よし。もうこっち向いて良いぞ?」
「オッケー……。ぇ、えぇ……」
 そこには――僕の見知らぬ幼馴染みが居た。
 いや、誰? こんな人、知らないです。――いや、顔は同じなんだけどさ。……でも、こんなに変わるの?
 雑誌で見ているモデルより、更に僕が理想としていた格好良い男の理想像そのままで……思わず言葉を失ってしまった。
「どうだ? どうせイケメンなんだろ?」
「う、うん……。その物言いは腹立つけど……。凄く、その……。格好良い。僕の理想の男だよ」
「そ、そんなにか?」
 そう言って、伶桜はクローゼットにある姿見鏡を覗き込む。目を見開き、唖然としていた。
「え……。今まで出会って来た中で、1番イケメンなんだけど……」
「鏡に映る自分にそう言える自信って、凄いよね。伶桜じゃなければ叩いてるよ」
 自画自賛しても許されるほどに格好良いから、仕方が無いけどさ。
「こんな男に告白されたなら、俺もオッケーするかも……。今まで出会って来た男だと、俺が1番のイケメンだったし」
「あ、だから男から告白されても断ってたんだ。女の子にも男にも興味ないと僕は思ってたよ」
「俺は異性に興味があるぞ。まぁ、その……。今日、少し自信を無くしたけどさ。……俺、女の子の方が好きなのかな? でも、中身は男で……あれ? これ、どういう事だ?」
 しどろもどろになっている伶桜に、首を傾げずには居られない。
 それにしても、だ。僕は伶桜に近づき、マジマジと姿を見つめる。
「な、なんだよ。距離、ちけぇぞ?」
 立っている伶桜との身長差は、ヒールもあっておよそ15センチメートル。少し膝を曲げれば、伶桜の胸元が目の前に入る。
「良いなぁ……。――胸板が適度にあるから、白のニットが映える」
「――この膨らみは板じゃねぇよ。殴るぞ?」
「痛い痛い! 頭を握らないで! 唯でさえウィッグがチクチクするんだから!」
 抵抗すると、伶桜は素直に手を離してくれた。バスケ部を舐めていた……。握力って関係あるのかな? 頭がマッチョに握られたリンゴみたいに破裂するかと思った。
 チラッと視線を横に向けた伶桜に釣られ、僕も視線を横に向ける。
 そこには姿見鏡があり――女装をした僕と、男装をした伶桜を映していた。
 2人とも、子供の頃からの幼馴染みなのに――全く見知らぬ人に見える。
 でも……格好良くて綺麗な伶桜に、可愛いって言われた。しかも本音で。それは……何にも自信が持てなくなり腐っていた僕には、凄く嬉しい事だ。
 女装をしなければ、決して体験出来なかった。複雑な気分だけど、前向きになれる良い刺激だなぁ……。
「なぁ、薫。提案なんだが……今日みたいな間に合わせじゃなくてさ、本格的にやらないか? ウィッグじゃなくて、美容室でカットもしてさ」
 新たな目覚めなのかと僕が戸惑っている中、伶桜が首元を掻きながら話を切り出して来た。
「び、美容室!? あのオシャレな店構えに、僕みたいなのが入るの!?」
 場違いも良い所だ! 怖いし、緊張して震えちゃう!
「俺も付いて行ってやるからさ。顔の半分以上が隠れてるようなボサボサの頭を整えて可愛くなろうぜ」
「……わ、分かったよ」
 本当になりたいのは、格好良い男なんだけど……。目の前の最上級イケメンを前に、そんな身の程知らずな言葉は口に出来ないなぁ。
「服もトータルコーディネートして、気合い入れてさ。コンタクト買って、可愛い仕草も練習して……。優勝、取りに行こうぜ。俺もミスターコンで優勝取りに行くからさ。……半端は嫌だろう?」
 あ、そうだった。色々とあって半分ぐらい忘れていたけど……。僕が女装した目的は、文化祭のミスコンで優勝して、テーマパークのチケットを手に入れる事だった。
 見た目を皆に認められた実績と自信をエネルギーに、山吹美園さんを誘う。そして――この胸にわだかまる気持ちをハッキリとさせる事だったな。
 もう既に、1歩を踏み出してしまった。憧れていた格好良いイケメンヒーローのような伶桜も認めてくれるんだ。それなら……僕は諦めたくない。ちゃんと皆に認めてもらって、自分が大嫌いで息苦しい日々から脱却したい。
「……そうだね、やるからには全力でやりたい。それで生まれ変われるなら……僕、頑張るよ」
「オッケー。とは言っても、俺も小遣いに限界があるからな。あんまり高いのは無理だぞ?」
「え? 伶桜がお金出してくれるの?」
「俺がやってくれって頼んだんだ。当たり前だろ」
「……いや、自分の着る分は自分で出すよ」
「別に良いって」
「大丈夫だよ、バイトしてるからね」
「カツアゲされてるのに、平気か?」
「そんな高額を請求されてないから。……癪だけどさ、僕の理想的な格好良い男を伶桜が代わりに見せてくれるのなら、安い代価だと思うよ」
「それは、俺のセリフだよ。……ありがとうな、薫。それなら、俺は自分が男装するのに必要な金を出す」
「え? 良いの?」
「ああ、お互い様だろ。こういう金が絡むもんは、対等でなきゃダメだ」
 暫し2人で見つめ合う。
 僕にとってなりたい理想の男性像は、伶桜だ。
 伶桜が言うには――なりたい理想の女性像は僕。
「俺は、薫みたいに可愛くなりたかった」
「僕は、伶桜みたいに格好良くなりかったよ」
 幼馴染み2人で、自分の理想を相手で体現している。
 それは端から見ると歪な関係なのかもしれない。それでも……2人して億劫な日々を腐りながら過ごすより、よっぽど楽しい日々だと思える。
「……じゃあ、今日はこれで終わりね」
 2人して衣装を脱ぎ、元々着ていた服へ着替えた。
 こうして見ると、見知った幼馴染みなのにな……。
「あ、化粧ってどうすれば取れるの?」
「普通に洗顔フォームで落ちるぞ。またスマホに連絡入れっから」
 その言葉を最後に、伶桜は帰って行った。……と言っても、壁1枚隔てた向こうに居るんだろうけどね。
 それにしても、凄い時間だったなぁ。ドキドキした。そう思いながら、伶桜のいなくなった部屋を見渡し――。
「――あ。……ベイクドチーズケーキ、生温くなっちゃってる!? ヤバい!」
 急いで冷蔵庫に入れようとした所で――母さんが帰って来た。
 その夜、僕は母さんにかけられたプロレス技で関節が痛む中、ベッドで呻き続ける羽目となった。
 夜中、何度も『うるせぇ』と伶桜から壁ドンされ……。
 翌朝は2人して寝不足で学校へと行く羽目になった――。