テトラポッドに座る君はぼんやりしていて、
髪の毛先が潮風で弱く揺れている。

夕日に照らされた君のその表情も美しいけど、
君の悩みをすべて消し去る魔法をかけてあげたい。



「悩みなんてないよ」
「そんなわけないでしょ」と僕がそう返すと、菜央(なお)は寂しそうに微笑んだ。

 海辺の小さな街に住んでいる僕たちは、いつも行くところなんてない。
 今日も2両編成の列車を降りて、相当昔に無人になってしまった湿った空気の木造の古い駅舎を通り抜け、廃墟になった小さな商店街を歩いている。
 小学校から、高校3年生まで僕と菜央はずっと一緒だったけど、付き合い始めたのは去年の夏からだった。来年の夏頃にはきっと別な街で暮らしているはずだから、ずいぶんと無駄にいい季節を菜央と過ごさなかった。

「登校日なんて、なんで無駄なことさせられるんだろう」
「無駄のおかげで久々に菜央と会うことができたから、俺はそれだけで十分だよ」
 夏休みに入ってから、お互いにすれ違い会うことができていなかった。
 
「ねえ。涼生(りょうせい)」
「なに?」
「もし、夢の中で私が死ぬって暗示されたらどうする?」
 唐突なそんな質問に、高3になって急に中二病をこじらせたのかと思った。もし、菜央が中二病をこじらせたのなら、僕もこじらせて、黒のTシャツを着て、シルバーの謎の十字架のネックレスをつけて、終末戦争について語ってもいいかなとも思った。だけど、今までずっと見てきた菜央にはそんなイメージなんてなかった。

「なんだよ。悩んでるかと思ったらさ、鬱っぽい話して。大丈夫?」
「そうだよね、それが普通の感覚だよね。なんかさ、いちご食べたくない?」
「会話、めちゃくちゃじゃん」
「今すぐ、いちご食べたいから、寄っていこう」
 菜央は駅前通りと国道の交差点にある小さいスーパーを指さしたから、僕はいいよと言って、とりあえず菜央のことを全肯定することにした。




 二人で割り勘で、ボトルのカフェオレ2本と、練乳、500ミリリットルの水、小さいレジ袋、そして、いちごのパックを買った。

 僕がレジ袋を持とうとしたら、菜央は今日は持ちたい気分だから持たせて。と言われたから、僕は菜央のバッグを持つことにした。
 スーパーを出ると、僕たちは無言のまま歩き始めた。菜央はなぜかスーパーを出てすぐに駆け出して、先へ行ってしまった。そのあと歩き始めたから、僕は菜央のことを追いかけることもせず、ただ、菜央の10歩後ろを歩いた。
 目的地まではすぐそこだし、いずれ僕たちはまた横並びになる。道の先が空の青と、海の青で溶けているゆるい下り坂を、菜央は白いレジ袋をぶらぶらさせながら歩いていた。制服のスカートの裾が微温い風で揺れ、チェック柄がグレーのコンクリートからの陽炎で揺れていた。

 僕はそんな8月の午後の夏がずっと続いてほしいと思った。




 いつもの浜辺に着き、いつも持っている白と青のストライプ柄のレジャーシートを砂浜に敷き、二人で肩をくっつけながら座った。
 海はいつものように穏やかで、水平線の先に貨物船がゆっくり進んでいるのが見えた。左手にはテトラポッドが見えていて、その先にコンクリートでできた漁港の湾岸が見えていた。
 こんな田舎の片隅のビーチになんて人が来るはずもなく、今日も浜辺は静かだった。

「追いかけてほしかったな」
「先に行くほうが悪いよ」
「そうだね。いつも涼生はマイペースだもんね」
 棘のある言い方のように感じた。列車降りる前までは普通だったのに、さっきただ単に悩みがあるの? と聞いたあとから、こんな調子だ。どうして急にそんなことになっているのか理解に苦しむよ、僕だって。
 そんなことを考えているうちに菜央はレジ袋から、すべてのものを取り出し、レジャーシートの上に並べた。そしていちごのパックを開けたあと、ペットボトルの水を開け、それをいちごのパックの中に注いだ。水がいちごの表面に跳ね返り、キラキラとしていた。
 菜央はある程度、水が入ったところで、パックに水を注ぐのをやめた。そして、パックを持ち、無数のいちごを右手で押さえながら、パックを砂浜へ傾け、水を切った。

「そのための水だったんだ」
「私、こういう知恵は働くんだ」
 菜央は持っていたパックをレジャーシートに再び置いた。そして、今度は練乳を手に取り、キャップを開けて、右手で練乳をいちごに垂らした。勢いよく出る練乳はいちごの赤と緑を白色に変えていった。

「かけすぎじゃね?」
「いいの。このくらい甘いほうがすきだから」
 菜央が握ったままの赤いチューブからは相変わらず白が下へ落ちていた。
「いいよ。好きにしな」
「私はいつも好き勝手やってる」
 そう言ったあと、ようやくチューブから練乳を出すのをやめて、キャップをしめた。そのあと、ボトルのカフェラテを菜央から渡されたから、僕はそれを受け取り、キャップを開け、菜央と乾杯をした。
 一口飲んだカフェオレはまだ冷たく、そして、しっかりとしたほろ苦さが口いっぱいに広がった。

「食べよう」
 左側に座る菜央を見ると、菜央はすでにいちごを食べ始めていた。
「もう、食べてるじゃん」
「めっちゃ美味しい。やっぱり食べたいときに食べるって最高だね」
「練乳でドロドロじゃん」
 僕は練乳がいちごのへたについていないものを右手の親指と人差指でつまみ上げ、いちごを口の中に入れた。練乳のかかったいちごは、カフェオレの3倍くらい甘く、酸っぱかった。

「ね、美味しいでしょ」
「こんなに練乳かけたいちご食べたの幼稚園のとき以来だわ」
「じゃあ、美味しいね」
 美味しいとは言っていない。だけど、菜央は一方的にそのいちごを美味しいと決めつけて、ゲラゲラ笑った。帰りの列車の中でも笑ってなかったから、なんだか、久しぶりに菜央の笑顔を見たような気がした。そして、ふと、僕は菜央の質問に答えていないことに気がついた。

「――もし、夢で菜央が死んだら悲しむと思う」
「いや、違う」と菜央にすぐに返されて、なんで? って言いたくなったけど、ぐっと我慢することにした。その間に菜央はもう一つのいちごを口に含み、それをしっかりと噛み締めているように見えた。

「私が言いたいのは、夢で私が死にますよって言われて、これが本当に私が死ぬ暗示で、夢をみた数日後に私が本当に死んじゃうってこと」
「それ、暗示じゃなくてお告げじゃん。わかりづらいな」
「だって、さっきは真面目にこの話、取りあってくれなかったじゃん。説明したかったのに。話ちゃんと聞いてよ」
 怒っていた理由はそれか。たまに菜央は冗談で流していいことと、冗談っぽく話が始まって、本気になって聞かなくちゃいけない話題なのかわかりにくいときがある。そして、こうして、自分が納得いかないときは決まって、勝手に機嫌が悪くなる。だから、僕からしてみたら、いったい、何について怒っているのかわからなくなるときがある。だから、こういうときは僕は素直に僕のほうが折れることにしている。

「ごめんな。話、聞いてあげてなくて」
「いいよ。許してあげる」
 菜央はにっこりとした笑顔のあと、またすぐに練乳がたくさんついているいちごをパックからつまみ上げ、食べた。
「で、どうする? もし、夢がお告げだったら」
「死因はわからないけど、もし、救えそうな死因だったら、菜央のこと助けると思う。そして、やることはやって、未来を絶対に変えてみせると思う」
「……だよね」
 そうポツリと言って、また菜央は浮かなそうな表情を浮かべた。菜央にとっての正解がわからないよ、それじゃあ。フェルマーの最終定理を証明しようとあがいているみたいな気分だ。だから、僕はしばらく黙って、菜央の次の言葉を待つことにした。その間も、時折強く風が吹き、レジャーシートの端がめくれては元に戻っていた。そして、いちごは着実にパックの中から減っていった。

「たまに予知夢、みるときがあるんだ」
「どういう夢?」
「去年はおじいちゃんが交通事故に遭う夢をみて、その5日後に事故が本当に起きた」
「――あの事故か」
 小さい街だから、ニュースになるレベルの事故はこの街に住んでいたら自然に知っている。

「だけど、菜央のおじいちゃん、今も元気だろ。電柱は倒したけど」
「そうだね。死ぬ予知夢じゃなかったから、よかったけど、もし、私がなにか言ってたら、おじいちゃん事故らなかったんじゃないかなって思うんだ」
「結果論だよ。そんなの」
「もちろん、おじいちゃんは軽いけがだけだったし、車が廃車になったこと以外、大したことなかったけどさ。――涼生が死ぬ夢、みちゃったんだ」
 菜央はすでに涙ぐんでいるように見えた。僕はすっと息を吐き、現実味のないことを告げられたことを冷静に受け入れることにした。思わず、手がパックのほうに伸び、そして、いちごをとりあえず食べてみたけど、ふわふわしたような、嫌な気持ちは消えなかった。

「――どうやって死んだの?」
「わからない。だけど、お葬式に行ってる夢だった」
「ただの夢じゃない?」
「うん。ただの夢だとも思うよ。だけど、おじいちゃんの予知夢みたあとから、そういう怖くてリアリティがある夢をみると怖くなるんだ」
 そう言っている途中から、すでに菜央の頬は濡れて、太陽の光でキラキラしていた。だから、僕は左手で菜央の左頬の涙を拭った。だけど、拭ったあとも、何粒も涙が菜央の頬を濡らした。

「――ねえ」
「なに?」
「私から離れないって誓って」
 僕は菜央が小指を差し出す前に右手の小指を菜央の左手の小指に結んだ。




 3か月ぶりに帰ってきた地元の駅はいつものように寂れていて、ここに帰ってきたんだという現実感が一気にわいた。
 大学生になった僕は夏休みにあわせて帰省した。元々、人付き合いが苦手な僕は積極的にサークルに入ったり、バイトに打ち込むこともせず、ただ、しっかりと講義に出て、読書をして、そして、たまに派遣のバイトでパン工場で働いた。

 寂れた駅前通りを歩きながら、バッグからiPhoneを取り出した。そして、時間を確認し、僕はもう進んでいい時間であることを確認して、iPhoneをポケットに入れた。 
 
 小さなスーパーを通り過ぎ、海へつながる下り坂を歩いていく。坂はオレンジ色に照らされていて、海の青にオレンジが混じっていた。去年、白いレジ袋をぶらぶらさせながら、僕の10歩先を歩いていた制服姿の菜央のことをふと思い出した。そして、あの日、言われたことを思い出し、僕は少しだけ、そのことを切なく感じた。だんだん大人に近づいていく僕にとって、もう、その日は、瑞々しかった過去の出来事になりつつあるのが少しだけ寂しく感じた。

 浜辺に着いた。
 だけど、LINEでやり取りしたようにはいかなった。
 
「いないじゃん」
 小声でそう言ったけど、その声を聞いていそうな人影は砂浜にはなかった。僕はため息を吐いたあと、バッグからiPhoneを再び取り出した。そして、左側のテトラポッドの方をみると、見覚えのある人影がテトラポッドの上に座っているのが見えた。
 赤いノースリーブのワンピース姿で座っているのは、絶対に離さないと約束した菜央で、そんな、ただ、海を眺めている菜央の姿を残したくて、僕はカメラを起動し、iPhoneで菜央の姿を残した。

 話したいことがたくさんあるけど、まず、菜央の憂鬱を消す魔法をかけられるように、その写真をLINEで菜央に送った。