彦根あやかし縁結び神社のお祓い譚! 憑きもの祓って、貧乏ボロ神社を再建します!







神社へ戻ってからも、清掃や祈祷といった一日の業務を通常どおりにやり終えて。

結衣たちは、再び犯人探しに乗り出した。

街の方へ出ていき、妖を見つければ聞き込みを行うなど、精力的に動く。
しかし別の証拠が出るわけでもなく、すぐに行き詰まった。

そこで一度集まって作戦会議をしたところ、深夜〇時にして、事態は思わぬ方向へ転がった。

今の状況はといえば、結衣は恋時とともに拝殿の陰に身を潜めている。
反対側の柱には、ハチと雪子も控えていた。

まるで刑事映画のワンシーンのようだ。あんぱんも牛乳もないけれど。

「証拠がないなら、作ればいい。って、伯人くんも無茶言うよね」
「そうですか? これくらいは知恵の範囲ですよ」

「少なくとも私にその知恵にはなかったよ」
「善人の結衣さんらしくて、いいと思いますよ。俺はそこまで白くはなれないので。それより、そろそろお静かに」

恋時は一本立てた人差し指を、唇に触れさせる。

その美しさときたら、このうえなかった。
今日の新月とは真反対、欠けているところが見当たらない。

今日一日、仕事を行いながら、結衣は彼をよく観察してみた。その結果として、ポケットの中の根付けと一緒にはやはり思えなくなってきていた。


姿格好は部分的に似ているけれど、別物としか思えない。

ぼろぼろになって色褪せた根付けと違って、なにせ恋時は完璧すぎるのだ。
薄明かりでもぼうっと輝く白銀の長髪も、見入ってしまうほど朱に澄んだ瞳も、それから──

「……どうかされましたか?」

まじまじと見つめてしまっていた。

どきっとして結衣が身体を跳ねさせると、脇に置いていた箒を引っ掛ける。

からんからんと軽い竹の音が、静かな拝殿に響いた。

恋時は結衣の肩を捕まえると、いよいよ結衣の口を掌で覆う。何度か頷くと、すっと離してくれた。

「いつ件の妖がくるか分かりませんよ。それとも、その箒で戦うおつもりですか?」
「……ご、ごめんなさい」

いわゆる待ち伏せ作戦だった。

金庫が盗まれたのは、銀行に行く直前で、お金が溜まっていたタイミング。


つまりもしかするとその妖は、お金のあるなしのを見抜けるのかもしれない。

そう推理した恋時が発案し、雪子が「なんかちょっと楽しそうね、漫画みたい」なんて深夜ごろにありがちな胡乱な調子で話に乗り、実行とあいなった。


結衣は、賽銭箱へ目一杯に心配の眼差しを送る。

囮にするため、中には実際お金を入れてある。今度こそ、生活費の一部だ。つまり今、結衣たちは明日からの生活を囮にしているに等しい。

気が気でない状態でいたら、拝殿の階段下が、つと淡く光る。
灯籠はもちろんつけていないから、なにかがきたようだ。

なにがでるのだろう。少なくとも、善なるものではない。

結衣は、唾を飲みくだし動向を注視する。
それは小さな球体だった。夜風に身体を乗せて、こちらへ悠々漂ってくる。


近くの木の葉を体に巻きつけると、それはやがて粉塵となり、腕と足となった。

木霊、だった。古くから生える大木に宿るとされ、なにかのきっかけで本体から別れた妖だ。

見る限り、化け妖になっているわけではないらしい。

今日の地鎮祭で聞いた、切られた大木の話がよぎる。滅多にみられない妖だけに、その木が化けたものなのかもしれない。


結衣は思わず飛び出しかけるが、恋時が腕を柵がわりに、通せんぼをする。
少し眺めていると、木霊は器用にも賽銭箱の中へ腕を潜らせた。


そして、決定的瞬間を捉えた。

お賽銭の一部を、自分の身体の中へ取り込んだのだ。

今度こそ、間違いない。反対にいた雪子やハチ同様、身を乗り出しかけるが、やはり恋時は手のひらを前後させ、全員を止める。

そして、どういうわけか、結衣の首、膝に手が回った。

目を瞬いていたら、次の瞬間には抱え上げられていた。

(……どういうことなの! というか、この歳でお姫様抱っこはないよ!)

仮にも二十手前である。

悲鳴をあげたいぐらいだったが、どうにか口を抑える。

恋時はほとんど無音の忍び足で、結衣を自宅の廊下まで連れて行った。
片膝立ちになった彼が、丁重に下ろしてくれる。

「なんで、捕まえないの!」

この家の壁は信用が低い。

なお小さな声で、結衣は抗議をした。
今この瞬間だって、お金が取り込まれていっているのだ。

「もし捕まえ損ねたらどうするのですか。逃げられてしまえば、意味がなくなってしまいますよ。それに、今、あの木霊が、盗んだ金庫を持っているわけじゃありません」
「そうだけど、またお金盗られちゃったらなんの意味もないよ! それに、明日はあれで野菜の特売りに行かなきゃなのに」

「大丈夫ですよ、心配いりません。盗らせてるんですよ、わざと」
「なんで、わざわざ……?」
「後ろをつけていくためです。あの木霊は、これからどこかへお賽銭を持っていくでしょう? たぶん、昨日の金庫と同じ場所へ」

なるほど、と結衣はそこでようやく納得できた。

盗まれた金庫のところまで、当の妖に誘導してもらおうというわけだ。

なにからなにまで、よく頭が回るものである。
改めて思えば、これも結衣の根付けにしては出来過ぎだ。IQが高すぎる。

「それにきっと、まだ金庫のお金は使われていませんよ。あの妖は、また盗みに入った。
 人なら理由がない場合もあるやもしれませんが、妖がお金を盗む場合は、明白に理由があるでしょうから、あの金庫のお金ではその目標に足りなかったと考えられます。……って、結衣さん?」

また答えの知れぬ問いを、考え込んでしまっていた。
結衣は、生返事をする。


「あ、うん! とにかく、尾ければいいんだよね」
「では、行きましょうか。ハチくんと雪子さんには、家で見張りをしていてもらいましょう。場合によっては、共犯がいる可能性もありますから」




拝殿へ戻ると、木霊はちょうどお金を回収しおえたところだった。

白もやのような身体は、お金を蓄えたことで、体積を増していた。
重そうに、ゆらゆら鳥居の外へと出ていく。


結衣と恋時は、それを少し離れたところから尾行することにした。

神社のお金で肥えていると思うと、今にとっちめたかったが我慢のしどころである。

木霊は宙を浮いているが、決して早くは動けないらしい。風をうまく使い、身体をそれに乗せて進んでいった。

参道を出ると、横野神社を右手に方向転換。そして市のシンボルたる彦根城の外堀を通り過ぎて、

「しっかり距離があったね……」

川沿いのケヤキ道に出た。

芹川という、流れの穏やかな河川だ。このすぐ下流で、琵琶湖に注いでいる。

その源流は、霊仙山という千メートル級の山だ。先祖の霊が籠るという理由から名づけられたと、地理で習った覚えがある。

そのせいか、辺りには虫だけではなく、カッパや土蜘蛛など、色々な妖の姿も見られた。

「母に会えることになったのかい?」「いや、まだ神様の許しが……」「では拙者は一足先に」

ひそひそと、なにやら囁き合っている。

この川は人間界でいうところの、喫茶のようなものなのかもしれない。

木霊はといえば、それを尻目に、川辺に生えた草陰へと飛び込んだ。

みゃあ、と愛嬌の感じられる鳴き声がする。
どうも、野良猫の住処だったようだ。

「ここが目的地、というわけではなさそうですね。お金を持ち込むような場所ではないですし」
「ということは、寄り道……?」

「さぁ、そこまでは。とにかく、少し待ちましょうか」

結衣たちも、歩道から川辺へと下る。

ちょうど死角になっていたので、地面の砂を払い、橋脚の影に身を隠すことにした。

並んで、三角に足を組む。
歩道には街灯があれど、川瀬までは朧げにしか届いていなかった。新月であるせいで、月明かりもなく、あたりは暗い。

唯一、目に眩しいのは、

「……これこそ、風流ってやつかな?」
「そうかもしれません。はかない光り方をしていますね。行く日々を惜しむような」

蛍の群れだ。
まるで火の妖精が舞い踊るかのように、グリーンイエローの光が草木の間で点滅している。

そんな光の舞が、しとやかな川のせせらぎと合わされば、まるで密かなパレードにでも招待されたかのようだった。
それを、恋時と二人で眺めている。


目的が別にあるにもかかわらず、ふと鼓動が、夏風とともに胸を駆け抜けた。夜の川辺は、この季節でも少し冷える。結衣が腕を交差して肩を抱いていたら、

「これ、どうぞお使いください。俺の霊力がかかってる限り、消えたりしませんから」

恋時が羽織りを巻きかけてくれた。

併せて、にっこりと微笑む。ありがとう、と答えながら、結衣は少し大きなその羽織にまず顔を埋めた。

冷える手足とはうらはらに、顔がとても熱かった。

数秒、沈黙が訪れる。

「結衣さんは、俺のこと疑いましたか?」

川の流れにすぐ飲み込まれそうなほど、それは小さな声だった。

彼は首元の金の輪に銀色の髪をこぼして、空にまたたく星をその瞳に映す。

なにをだろう。
窃盗の犯人としてか、はたまた彼の存在そのものか。


聡明な彼のことだ。今日の結衣の態度から、なにか気づいていてもおかしくはない。

正直にいって、疑念はあった。
一体なんなの、とストレートにぶつけたい。でも、「決まりで、教えられない」と彼は言っていた。ならば聞いてもしょうがないのだろう。

そのうえで改めて考えてみた。

たとえば彼がウサギの根付けじゃなかったとして。
他のなにか変わった妖だとして、なにか変わるだろうか。

「信じたい、とは思うよ」

結局、結衣はこう答えた。

余計な詮索をしたな、と今更ながらに思う。

彼の正体がなんであれ、この数ヶ月、共に過ごしたのが彼だということだけは、紛れもない事実だ。
朝ごはんを囲んだ、一緒にお祓いをして、よく笑った。少し隠し事があったとしても、その時間が嘘になることはない。

今この瞬間だって、嘘になりようがない。

「えっと、その……」

困ったことに、恥ずかしいことを言った自覚があった。

結衣は、川瀬に視線を飛ばす。
ちょうど岩へりに引っかかっていた木の葉が、川の流れに乗って流れていくところだった。

「ふふ、結衣さんはお甘い方ですね、全く」
「そ、そうかな? だいたい、悪い妖だったら、そもそも神社のためにここまでしてくれないと思うしね。むしろ、伯人くんの方が私を甘やかしすぎなんじゃないかな」

「あなたは少しくらい誰かに甘えた方がいいんですよ。だから俺にできることがあればなんでも」
ふと、彼が身体の向きを変える。結衣を覆うように、壁に腕をついた。
「え、ちょっと伯人くん? 甘やかすって私別に赤ちゃんじゃないし、抱きしめてくれなくてもいいからね!」

「お静かに。木霊がまた動き始めたようです」


狭い腕の間から、結衣はそうっと頭を出して覗く。

また、仄かな白い塊が、ゆらゆらと移動を始めていた。蛍の群れと混じりつつ、川辺をゆっくり上へ上へと進んでいく。
焦れったくなる足取りだった。

夜はその間にさらに深まる。

にわかに進路を変えたのは、足元の石が尖り出して不安定になった頃だ。その先を見れば、

「……あれ、もしかして鳥居かな?」
「どうやら、そのようですね」

確信が持てなかったのは、赤の塗装は剥げ落ち、ツタが巻きついたことで、自然の一部と化していたからだ。


雑草と括るには、あまりに立派な草木たちを踏み分けて、その奥へと進む。
少し下へ向かって、小さな洞窟のようになっていた。参道未満の階段は、浅い川のように水が染み出している。

降りてみれば、まず肌の感覚が変わった。

冷気が全身を包み込む。
水滴を垂らしたススキの葉は、まるで衣装のように狛犬に覆いかぶさっていた。

その奥に、壊れかけの祠があった。






見るからに、誰の手によっても管理されていない。いわゆる廃神社らしかった。

(……なんて酷い)

御神体だろう徳利は無残にも割れていた。錆びて形骸化した鈴に括られた麻紐は、何重にも割けている。

その手前には、小さな賽銭箱が置かれてあった。

木霊はそこへ、身体に蓄えたお金を撒く。
そして祈るかのように宙を回り始め、たちまち、むくむく膨れはじめた。

白から黒へ。化け妖になる、まさにその瞬間だった。

「どうして、ここでなっちゃうの!」

結衣は歯を噛んでそれを見る。

というのも、他神社の境内だ。

お祓いは、八羽神社に祀っている神様の力を借りて行っている。
そうである以上、他の神様が司る領域でお祓いの儀をしたとて、実効力はない。

力を込めたお札ならば効果もあるが、手持ちはなかった。

少しでも境内の外へ出てくれればよかったのに!

「ゆ、結衣さん、大丈夫です。少しここでお待ちください」
「え、伯人くん。どうするつもりなの」

化け妖と対峙した途端、相変わらずのお豆腐メンタルだ。
彼は、しきりに手をこすり合わせる。

「………少し、お話をして参ります。いわば、人ならざるもの同士の会話ですよ」

すると、姿はあるのに、ふっと気配だけが消えた。

目を瞑ると、誰もいないかのようだ。

木霊は化け妖になったことで興奮しているのか、全く気づきそうになかった。

恋時は、そのうちにロボットのようなステップを踏みつつも、祠の裏へと回る。

少しあと、彼はそこから手招きをした。

どうせ結衣にはなにもできないけれど、どうするのだろう。
思いつつも一歩前へ動くと、草の根を踏みつけた。

『誰そ。誰そ、そこにいるのは』

すぐ木霊に勘付かれた。もちろん結衣に気配を消す妖術はない。

黒い霧を広げて襲いかかってくるので、

「ひふみ よいむなや こともちろらね」

無意味と知りつつも、ほとんど反射的に、小カバンからは神楽鈴が、口からは祝詞が出る。

すると、木霊はみるみるうちに身体を縮め、元の小さな球状になった。

「あ、あれ? 他の神社じゃ効果ないって話だったよね。廃神社だから、神様がいないのかな?」
「結衣さん。失礼ですよ。ここの神の許可が下りたので、むしろ力をお借りしたのですよ」
「……えっまさか、伯人くんが交渉してくれたの」
「えぇ、まぁ少しばかり」

どうやったらそんなことができるのだろう。

疑問に思うが、優先すべきは捕り物だ。

木霊は逃走を図ろうとしているところだった。
しかし、タイミングよく外側から吹きこんでくる風が押し戻す。

「ここに入れるなら、うちに侵入できるわけだね……」

逃げ場を失い、最終的には賽銭箱の中へと潜り込んだ。八羽神社においている箱よりも、かなり狭い隙間だったが、難なく、といった様子だった。

城下町らしくいうなら、篭城作戦というわけだ。どう攻め落とそうか、まさか水攻めはできまい。

「ねぇ、あなたが盗ったんでしょう、うちのお金」

一礼し、結衣はその横にしゃがむ。返事は、小銭の鳴る音だけだった。

「理由は、大方分かりますよ、木霊の妖さん」

恋時は大股で神棚の前まで戻ってきて、裾についた葉や土を払う。

「さしずめ、あなたは亡くなった親族に会おうとしていたのでは? それも、ただの親族ではなく、より特別な存在。たとえば、好きになってしまった相手だとか」

今日の推理ショーには、まだ続きがあったようだ。その発言に結衣が驚いていると、

「…………どうして、それを」

賽銭箱の中で、こんな声が反響する。
どうやら、見事に的中しているらしかった。

「簡単なことですよ。この先の霊仙山には、先祖つまり広くは、亡くなった身内の霊が眠っていると言われます。それも、未練などが残っている妖とは違い、魂ごと浄化された者たちの霊。
 彼らに会うには、この辺りの神社を訪れるのは必然でしょう。神の赦しがなくば、浄化済みの霊に会うことはできませんから」

「へぇ……。でも、じゃあどうして恋をしてた、なんてことまで分かるの」

結衣は堪らず、口を割り入れる。

「むしろ縁結び神社からお金を盗むなんて、不幸になりそうだけど……」
「普通なら、そうです。でも、わざわざこの廃神社に詣でていることから、分かったんですよ。つまり正規の神に祈ったのでは、叶えてくれない。そんな禁忌がなにかといえば、恋愛かなと考えたのです」

「……なにからなにまでお見通しか。そこまで暴かれては、しようがないか」

ついに観念したようだ。
木霊は、格子状の投入口から、身を平たくして出てくる。

近くで見ると、その真っ白な表面は幹のように少し凹凸があり、目は窪み、口は張り出していた。

「どうせ盗んだ金だと神に知れた以上、我の願いは叶わぬだろう。返してほしくば、その通りにしよう。まだ鍵は開けておらぬ」

彼はふわりと浮くと、倒壊した神棚の奥へ器用に体を捻らせていく。
咥えて帰ってきたのは、

「あった……! あったよ、伯人くん!」

たしかに八羽神社の手提げ金庫。物を見るとほっとして、結衣の膝からは一気に力が抜けた。

「よかったです。これで俺の無実の罪も完全に晴れましたね。………さて、問題はなぜ、わざわざ八羽のお金を盗んだか。聞かせてもらいましょうか」

事情聴取は任せてもよさそうだった。

「……ある妖に、最近貴殿らの社が繁盛していると噂を聞いてな。縁結び神社と聞いて躊躇っていたのだが、どうにも堪らず、魔に魅入られてしまった」
「その妖の名前は言えない、ということですね」

「あぁ、それは、そういう約束で教えてもらったのだ」

金庫の場所なども、その妖が把握していたと言う。

「では、家の中にまで入ってきたのはどういう了見でしょう」
「金庫の鍵を探そうと思ったのが第一さ。……それから、先の妖に命じられたのだ。中の様子を、それも貴様のいる部屋の様子を伺ってこい、と」

「それって、向こうは伯人くんのこと知ってて、狙い撃ちだったってこと?」

結衣の問いに、「左様」と木霊は身体ごとふって頷いた。

一体どこの妖だろうか。

「すまない、我に答えられるのはここまでだ。知らぬことの方が多いのだ。目的が達せられるなら、あとはどうとでもよかったからな。さて、残りのお金も返すとするよ」

小銭やお札といったバラのお金を身体から吐き出し、順に返してくれる。そのごとに、すまなかったと繰り返していた。

根っから、性根の曲がった妖というわけではなさそうだ。





「ねぇ、そこまでして会いたいって思った相手ってどんな相手だったの?」

となれば、どうしても気になった。


そんな彼が悪事に手を染めてしまうくらいには、魅力的な恋。

禁忌を犯したうえで、今なお会いたいと願う恋。

なお、お金を吐き続けながら、木霊は口を開いた。

「……簡単に言えば、兄妹だったのだ。あれと我は。杉の木として生まれ、針葉樹の森の中で、少し離れに立っていたが、背が伸びて顔を合わせるようになった」

数百年生きてきた功なのか、声は落ち着き払って抑揚がない。

「といっても、どちらの年齢が上か下か、自分の性別がどちらかさえ、正確には分からなかいがな。とにかく同じ森林の中で、長い間一緒にその場で成長し、あるとき年月の経過によりどちらもが意思を持った」

その前のことは、存じぬという。
気づけば、似たような背丈に育った杉が、少し距離を開けて、そびえていたそうだ。

「その森は、自然にできたものだった。標高が高いところにあったからな、人が足を踏み入れるには苦労がいる場所だったのだろう。生きとし生けるもの、みなそれぞれの生活を謳歌していたものだ」

木霊の本体である杉の木にも、リスやら渡り鳥やらが巣を作り、共存をしていたそうだ。

中には意気投合して、喋り仲間になることもあったそうだが、それも長くはなかったと言う。

動物類と違って、樹木に寿命はない。別れのときに、木霊が見送る側にしか立てないのは当然のことだ。

でも、と木霊はここでやっと少し声を弾ませた。

ゲームセンターの機械のようにリズムよくコインを吐いていたのが、少し狂う。

「あれだけは、ずっとそこに立っていた。生まれてから何百年もの間な。
 よく、あれとは妙な争いをしたものさ。どちらがより早く大木になれるかなどといってなぁ。そして、いずれの時か互いに惹かれていった。同じ杉の森だ。たぶん同じ親から生まれたのだろうとは分かっていたが、そんなのは小さなことだった」

思い出を語る声は、それが楽しい時間であったことを雄弁していた。

ほんの数分前に、化け妖と化していたものとは、到底思えない。

「そんなふうだったから、気づかなかったのだけど。あれと我の競い合いは、いつのまにか山で一番の巨木を決める争いになっていたんだ」

しかし、そこへ転機が訪れる。

「百年ほど前だったな。人による、山の開拓が始まったのだ。あぁ、あれは見ていられなかった。あの頃は物資の足りない時代だったからだろう。
山がどんどんと無差別に削られていった。我とあれは歯痒く思いつつも、見ているしかできなかった」
「木霊は切られなかったんだね?」

「あぁ、あれも私もその頃には、かなり大きくなっていた。しめ縄を巻かれて、むしろご神木扱いさ。はじめは、それでもよかったのだが。さらに時代が降った頃に、どちらか一本のみを残すと、そう決められたのだ」

神木とされてから、二十年ほど後のことだったらしい。時代を想定すれば、戦乱に世が傾いていく頃だ。その決定は住民らとしても、仕方ないものだったのだろう。

「……もしかしてそれで」
「ほんの少し、我の方が背が高かったのだ。それを理由に、あれは切り株となり、我だけが残った。
何度後悔したか知れないさ。あんな競い合いに本気になっていなければ、我が切られていたのに……。そう繰り返し思っているうちに、この姿となった」

木霊の懐古が終わる。

昼に聞いた話とも、これで繋がった。妖となったのは、切られたほうではく、残された方だったのだ。
好きな相手を守って死んだから、神木が切られたというあの土地に、未練は一滴も残っていなかったのだろう。

「……ごめん、なんて言えばいいか」
「なにも申さずともよい。同情が神への供物となるわけでもないからな」

ちょうど最後の硬貨を返し終わったらしい。

木霊は浮遊して、手前にあった狛犬の足元、台座に乗る。

結衣は、手元の金庫に目をやった。このお金があれば助けてやれる、そう思う気持ちもなくはなかったが、

「ごめん、やっぱりお金はあげられないよ。これはね、木霊の願いよりは小さなものかもしれないけど、参拝してくれた人みんなのお願いが篭ってるから。それに、私にも叶えたいことがあるんだ」
「分かっている。そもそも悪事に手を染めた我が悪かったのだ。五百年も生きて、一つの感情に縛られる我が」

木霊の光が、豆球ほどに頼りないものへと変わった。

夜も一番深い時刻の、洞窟の中だ。
結衣は改めて、その暗さを知る。

一際大きく、水滴の跳ねる音がした。
ちょっと怖くなって左手を胸に当てていると、右手の上に恋時が手を重ねる。

「そこにいるんでしょう。出てきたらどうです? ここにいる誰も、あなたを否定したりしませんよ」

明白に、結衣に言ったのではなかった。でも、木霊に告げるにしても内容がおかしい。

「そこにいる娘もかの」

と、天井からじじ声がした。

なにかがいる。そして、その主は、地上にいるわけではないらしい。そう、結衣にはすぐわかった。つまり、異形のものだ。

「えぇ、どんな妖にも優しく接するお方ですよ。俺のような妙なものを差別することもない」
「それならば、やぶさかではないのう」

天井に、なにかの大きな影が伸びる。

結衣が目を見張っていると、曲がった手足のようなものが生えてきて、それは地面へ降り立った。ぴちゃんと、影から想定していたものの十分の一スケールのなにかが。

「……な、なに、この子」
「捨てられた神、いわば邪神ですよ」

「……まぁ祟り、災いを起こすなどとよく言われているよ。迷信じゃがの」

水気を飛ばしながら後ろ足をみょーんと蹴上げて、跳ねること数回。御厨の中央、御神体である徳利へ飛び乗ったそれは、


「アマガエル……?」






「神じゃぞ、神! 断じてアマガエルなどではないわ!」

そう言われましても……、なわけである。

深緑色、手のひらサイズの身体、曲がった四本の足に、鳴くと膨らむ顎。

目を涙のように走る黒い線も、その姿はどこからどうみても、カエルだった。

木霊も信じられなかったようで、

「まさかカワズだとは……」

なんて呻いて、台座から転がり落ちていた。もはやコントのようである。

「本当に神様なの?」
「いかにも! わしこそ神じゃ!」

「神様って、そんなむやみに言うものじゃないと思うけど……」
「わしは邪神じゃからな。そういった制限がないんじゃよ! まったく……。困っているというから、なけなしの力を使わせてやったのに、失礼な娘よ」

カエル……ではなく邪神は、その表皮のようにじっとりした目で、恋時を見やる。

「まぁまぁ、邪神様。驚いているだけですよ。神の類に会ったことなど、彼女はほとんどないでしょうから」

ほとんどというより、ない。本当だとすれば、これが初めてのことだ。

「そ、そういうことならまぁ、よいのだが……。わしも一応、神だし? 寛大な心で許してやらんこともないがの」

妖におだてられて機嫌を直すのもどうかと思うが、口にすると面倒くさそうだ。結衣は小言を引っ込めて、代わりに根本的なことを尋ねる。

「そもそも、神様ってこうやって見える形で現れるものなの?」
「よく言う、顕現というやつよ。
 神がこうして現世に姿を持つときは、祈りの力が弱っている時、もしくは強い目的がある時のどちらかじゃ。
 むろん、わしは前者じゃがの」
「へぇ……知らなかった。あ、だからさっき伯人くんは」

神社の荒廃ぶりに、神様が現れているかもしれないと、交渉に行ったのだ。

やっと信憑性が出てきた。
まだ確信は持てないが、そういうものだと言われれば、信じられなくもない。

「大変なご無礼、お詫びいたします。八雲結衣と申します。先ほどはありがとうございました」

立ち上がって、最敬礼をする。邪神はそれを、前足で払った。

「うむ、くるしゅうないぞ、結衣。いやぁ、久々に、人から拝礼を受けたぞい。最近は妖でさえほとんど来ることがなかったからなぁ。祝いだ、祝いだ。酒を持ってこい、祝酒じゃ」
「えっと、すいません、今は手持ちがなくて」

「なんじゃ、つまらん! この身体なら、一滴でも満足できるかと思っておったのに」

あからさまに残念そうに、カエル型の邪神はわめき嘆く。

それが反響するほど小さな洞窟だ。そして、辺鄙なところにある。

「その、いつから人が来てないんですか? 外の鳥居が草で塞がれてましたけど」
「もう十年近くは見ていないのう。要は、打ち捨てられた場所なんじゃ、ここは。
 元より、管理していたのは神職のものではなかったゆえ、そやつがこなくなって、それきりよ」

「そうでしたか……」

 聞く限り、歩道などで見かける小さな祠などと同じなのだろう。誰かが個人的に祀り、なにかの理由で、訪れなくなった。

「そこへ突然これだけの賽銭を持ってこられてな。正直、きな臭いなと思っておった。
 それも、人型でもない妖が持ってきたんじゃあ盗んだものかもしれぬ、と。確証はなかったからのう。そのせい、今の今まで咎められんかったが」
「邪神って聞くと、盗んだお金でも使っちゃいそうだけど……」

「邪神にも色々いますからね」

恋時が言うのに、邪神は誇らしげに前足で頬をさする。

「そうじゃ。少なくともわしは、捨てられたからとて、悪事に手を染めようとは思わんかったって話じゃ。そこの、木霊の妖とは違うのよ」

木霊は、濡れた地面に転がったまま、始末の悪そうな顔をする。

「わっ、また風!」

そこへ、突風が吹きこんできた。

結衣は足を踏ん張るが、木霊はそうはいかない。勢いよく浮き上がる。なされるままに漂ってカップインしたのは、御神体横に置かれた杯だった。

「わっはは。まだこれくらいの力はあるのよ、ワシも」

邪神の神通力らしかった。

そういえば、先ほど木霊が逃げようとした時にも、同じような風が吹いてきたっけ。影ながら結衣たちをサポートしてくれていたようだ。

しかし今度の木霊は、微動だにしなかった。
小さな目を静かに瞑っている。

「……神よ、我は赦しを乞わぬ。なんなり、処罰するといい」
「ふむ、潔いのう。悪くない態度じゃ。では、そんなお主には、少し変わった罰を与えようじゃないか」
「甘んじてお受けしよう」

小さな神棚一段の上で、会話がなされる。

遠目から見れば、まるで人形劇のようにも映るが、その実は、神様と数百年生きている妖なのだから、不思議だ。
はたして罰とはなんなのだろう? 

「そこまでしなくても、いいんじゃないかな。お金も返してくれたし、別に私はもう」

しかし言葉の途中で、急に強い光が目を射った。

光源は、徳利の中のようだった。
だというのに祠全体が隅々まで、煌々と照らし上げられている。

人間の使うライトではありえない現象だ。結衣は目を瞑り、手をかざして影を作る。

そうしながらも、どこか懐かしい感覚に見舞われていた。暖かく、包み込まれるような安心感がある。

(……あれ、この感覚どこかで)

たしか幼い頃、化け妖に襲われた時だ。

あの時も今のような光が突然目の前に現れたのだった。
まさかあの時助けてくれたのは、邪神だったのだろうか。

「……あれ、なにこれ?」

思っていたら、手に木札を握っていた。全く預かり知らぬものだ。

「木霊の妖よ。望み通り、霊仙山に行くがよい。結衣、それが入山証の代わりになる。外の河辺で、わしに代わり、祈りを捧げてやってくれぬか」
「えっ、行かせてくれるんだ?」

結衣は、思わず素っ頓狂な声を上げていた。




「……神よ、これのどこが罰なのだ。ほ、本当にいいのですか」

思わぬ牡丹餅。
木霊も、しどろもどろしている。唯一、神の意を得たりとばかり、恋時だけは

「酔狂なお方ですね」と笑う。

「はっは、そうじゃろ? いやぁ、あまりに誰も来ないからの。たとえ妙な妖でも、ここへ来てくれたことが嬉しかったのじゃよ、わしは。
 それに、結衣や伯人を連れてきたのも、理由はどうあれ木霊の妖じゃ。ここは、粋に計らってやるのが、世を見守るものの器よ」

徳利だけに、なんて寒いギャグを言って、邪神は自分でケラケラ笑う。

恋時の笑顔に冷ややかなものが一筋差し込んだのを結衣は見逃さなかった。

「おほん。ただのう、今のわしにはここを離れては力を発揮できぬ。
 そこでじゃ。この者たちが代理を務めてくれれば、申請を受け入れられよう。
 木霊の妖よ。罰というのは、二人にもう一度しっかりと詫び、協力をお願いすることじゃ。どうかの?」
「……かたじけない」

綿毛のような身体から絞り出すように、木霊が言う。
続いて結衣たちの方を向いて、

「すまなかった。どうにかお力添えをいただきたい……!」

それぞれに二度三度と頭を下げた。

「今日はよく歩きますね。足の方はまだ大丈夫ですか?」
「うん。普段から宮司のお仕事って、動いてばっかりだしね。それじゃあいこっか、木霊」

「……かたじけない」
「そればっかりじゃん」

木霊が、結衣の後ろを風に若干流されながら浮遊する。

鞄を開けて、入る? と問えば、すっぽりと収まった。

「死者に会うためには、朝日が昇るまでに入る必要があるからの。少し急いだほうがよいぞ」

忠告とともに、作法や場所をよく確かめてから、洞窟を後にする。
鳥居の前で、金庫を一度置いた上で、結衣はしっかりと礼をした。

「また詣りにくるのじゃぞ。今度は酒を持って。シャケじゃないからの」

最後まで寒かったけれど、心はほっこりとした。
いつかお酒と料理を持って行こうと誓う。

まだ外はほの暗かった。
ただしスマホを見てみると、もう四時を回っていた。夜明けがすぐそこまで迫っている。

霊仙山は本来、彦根駅から電車で十分ほど離れたところに登山口があった。

けれど、この札があれば、芹川の河川敷を少し上ったところにある大岩の上からでも入れると、邪神は言っていた。

「この度は大変世話になった」

目的地に着くや、木霊は結衣の鞄から岩辺に降り立つ。

「代わりと言ってはなんだが、最後に一つ礼がしたい。……というのも今回、我に情報を流し、唆してきた妖のことだ」
「話してくれる気になったの?」

「あぁ、我が奴のことを話さなかったのは、奴が持つ強大な力を恐れてのこと。
 だが、自分の保身のために、恩人に不義理を働くわけにもいかないからな。奴は──」

ついに、八羽神社を狙わせた妖の名前が明かされる。
結衣は、ごくりと唾を飲む。木霊は、はっきりと告げた。

猫又の妖だ、と。

「奴は今、八羽神社の鎮守の森によく出入りしているようだ。この間は、山姫の妖を刺客に送ったとも言っていた」
「もしかして神社コンの時の!」

山鳴りも、その猫又の仕業なのだろうか。

「でも、なんでそんなことを?」
「殿方よ、伯人と言ったな。その方を狙っていると、猫又は息巻いていた。すまぬ、理由は分からないが」
「伯人くん、それって…………」

思い当たるのは唯一、依頼人・竹谷未央に取り憑いていた猫又だ。

恋時のことを知っている風だったし、逃したとはいえ彼から力を奪いもした。
恨みを持たれる理由にもなる。

恋時は少し眉間にシワを寄せるが、

「だいたい、どの妖の仕業か分かりましたよ。ありがとうございます、木霊さん」

すぐに愛想を向ける。

「感謝をされる筋合いはない。むしろ、口車に乗せられ、八羽神社を襲撃したのも我だ。すまなかった」

木霊は、相変わらず堅苦しく謝罪した。
その身体の線は、さっきより薄れて見えた。

東の空がもう白みはじめている。雲一つないから、今日の琵琶湖は、朝焼けが綺麗に違いない。

その前には送り届けなければ。結衣は預かっていた木簡を岩肌に丁寧に乗せる。これが、いわば馬車の代わりになるらしい。

「神の許しに応えて、この者を霊仙へ入れ給え」

教えられた合い言葉とともに四度拍手を打つと、木簡が宙へと持ち上がった。
洞窟の中で見たみたく、眩しく閃いて、

「それでは、幸運を祈っている」
「木霊こそね。ちゃんと会って、思いを伝えてくるんだよ」

ふっ、と聞こえたのは、木霊の笑い声だったのか、去っていく音だったのか。

忽然と姿が消えていた。

ほっと肩の力が抜ける。大岩に、べったり腰を下ろした。手のひらを空に向けて、背を伸ばす。夜の間に熱を失っていて、ひんやりと気持ちいい。

ようやっと、長い長い一日が終わった実感があった。

「ちょうど日が昇ってきたようですね」
「うん、さすがに疲れたよ。あれ、でも帰ったらもう朝拝の時間だ……!」

そして、次の一日が始まろうとしている。

ちょうど、始発電車が通る時間だった。少し遠くからは線路の軋む音が聞こえる。

「少し休まれてもいいのでは?」

自分は立ったまま着物に手を差し入れて、恋時が言う。
やっぱり結衣に甘いのは恋時の方だ。

「そうはいかないよ。神様にはお休みないんだから、私も休めない。それに気になることもあるでしょ、あの猫又。うちの森に用があるみたいだし」
「俺を狙っているんでしょう? 俺が対処しますよ」

「びびりなのに? 化け妖見ただけで固まっちゃうのに?」
「……い、いざとなれば、大丈夫ですよ。とにかく結衣さんは例大祭のことだけ考えていてください。少なくとも使う分は戻りがあるように、かつ神社のPRになる施策を捻り出さねばなりません」

「PRの方は頑張るけど、……伯人くんだけなんてダメ。私も手伝うよ。だって仲間だもの」

春先とはちがって、同じ釜の飯だって食べている。
この分だと、あいにく今朝もそうめんだろうけど。

「……結衣さんにはかなう気がしませんよ。それを言われては返す言葉がありません」

恋時は前髪を人差し指で跳ねて、こめかみを掻く。

堅固な笑顔の牙城が崩れ、その瓦礫から、そっと素が垣間見えた。
いつも澄ましているだけに、上気した顔はレア物だ。根付けと一緒に懐にしまいたいくらいには、可愛い。

「そういえば、なんで伯人くんだけ狙ってるんだろうね。私もいたのに」
「さぁそこまでは。……とにかくまずは帰りましょうか」

恋時は腕に袖を垂らして、右手を差し出す。
結衣はそれに捕まって、えいと起き上がった。

また長い一日が、始まる予感がした。






そこは、どちらにせよ踏み入らないわけにはいかなかった場所だった。

夏休みの宿題に似ているかもしれない。
期限があって、放置すればするだけ後が苦しくなる。

一月ならまだマシな方だ。今回は十年以上、見て見ぬふりをしてきた。

そのツケの集大成ともいえる鬱蒼とした森を、結衣はしかめ面で見上げる。

「ここに、あの猫又が来てるんだよね」

 たしか、そう木霊が証言していた。けれど不思議なことに今は、山鳴りもせず、化け妖の匂いも全くしない。鎮守の森からは、むわっと夏の草いきれが立ちのぼるのみだ。

その確たる証拠に、恋時もピンピンとしている。

「結衣さん、やっぱり俺だけで行きますよ。家で金庫の見張りでもしていてください」
「そうはいかないよ。もう金庫は家の奥にしまったし。雪子とハチも見てくれてるもの」

結衣は、錆びついた外周フェンスにくくられた南京錠を外す。

少し、後ろめたい気持ちが心に影を作った。
今この瞬間、結衣は父との長年の約束を破ったことになる。

それを意識しないよう、あえて足音を鳴らして、中へと踏み入っていく。


「妖じゃなくて、猪とか狸とかが出そうな雰囲気だね」
「それならば、俺がどうにでもしますよ」

「化け妖だけが怖いんだ……? それも不思議だけど」
「生来ですよ。まがまがしいものは得意ではないのです」

会話をしつつも、注意は怠らない。

まるで人の侵入を阻むかのような道なき急斜面を、どこへゆくのかも分からず、まずは上ってゆく。

やみくもに草木をかき分けていたら、屋根のようなものが目に入った。

小さな掘っ立て小屋があるらしい。
盛りを迎えた広葉樹が林立する中に、埋もれるように建っている。

「あんな建物あったんだね、知らなかったよ。とりあえず、あそこ行ってみてもいいかな?」

 返事はなかった。
不思議に思って恋時を見れば、むっつりとした顔で足袋を見つめている。
いつも笑顔の彼には、全く似合っていなかった。

 どうせ他にアテがあるわけじゃない。
結衣は、先々と小屋まで続く最後の崖を上りきる。

玄関前にはなんと、妖が一匹行き倒れていた。

「……伯人くん、あの猫又!」

それも間違いなく、春に見たものと同じ個体、白い身体を晒している。

首元に結ばれているのも、同じ水色の鈴だ。

この地面に垂れた二本のしっぽに、結衣が作った結界は壊された。だがあの時のけたたましさは、見る影もない。

「力を蓄えてた、って木霊が言ってたよね」
「……結衣さん、むやみに近づかないほうがいいですよ」

「でも今は化け妖じゃないみたいだし」
「やっぱり甘いですね、あなたは」

そうは言われても放ってはおけない。結衣は、迷わず猫又を抱え上げる。

恋時はといえば、腕を組んで鬼の形相をしていた。その先にあるのは、件の小屋だ。はっと目に飛び込んだものに、結衣はつい一歩引き下がる。

「……なにこれ」

大量のお札が、扉に目張りされていたのだ。とくに、扉の隙間は入念に塞がれている。

異常。
そうとしか形容できない外見だった。

恐る恐るお札に目をやれば、何種類かあるようだ。けれど、その大半は、

「うちの昔使ってたお札だよ、これ……。ほら、鈴蘭の花!」

神社コンの際、特別仕様として拝借したデザイン。元々は、父の頃に使っていた柄だ。

「この札、お父さんが貼ったのかな……。というか、ここまでしておいて、なにもないわけないよね」

ただの魔除けというレベルは明らかに超えていた。

間違いなく、この小屋の中には、なにかが封じられている。そうとしか思えない佇まいだ。そんな建物の前に、件の猫又が倒れていた。

二つの事実が、結衣の頭の中で勝手に結びつきはじめる。

 気にならないわけがなかった。
 結衣は常々「この山には入るな」と、父に言いつけられてきた。その理由が、この建物なのだとしたら、話はさらに連鎖する。

小屋の鍵は、持っていなかった。

だが、蹴破るのは簡単にできそうなほど、劣化が進んでいる。

唾を飲み、無理に身体を前へと進める結衣。恋時が、袴装束の袖を引いた。

「結衣さん、ここはそうっとしておきましょう」

その眉間には、まだ険しいシワが刻まれている。
笑顔は山道で空になるまで落としてきたらしい。

「……伯人くんはなにか知ってるの」
「いえ、そういうわけでは。でも、少なくとも今は、化け妖の匂いはいたしません。
なにもなく済んでいるものを、わざわざ開ける必要がないのではないか、と」

綺麗に一本筋が通った意見だった。

いわば、パンドラの箱のようなもの。わざわざ触れにいっても、痛い目を見るだけといえば、確かだった。

「そうだね……」

結衣は、大人しく引き下がる。

内心、理由を見つけてくれたことに、少しほっとしていた。

この扉を壊すことは今度こそ、父を裏切ることになる。そんな思いが、胸に押し寄せていた。


社務所兼自宅へと戻る。

猫又は、一向に目を覚ます気配がなかった。
夏の熱気にやられてか、ひどく体温が高い。妖としての存在が消えるか消えないか、その瀬戸際に瀕しているのかもしれない。

恋時の手を借りて、身体に保冷剤を巻くなどの応急処置を施す。
居間で座布団に寝かせていたところ、

「その白ニャンコ、熱中症? なら、うちに任せなさい。部屋で引き取るわよ」

雪子がこう申し出てくれた。

「雪子、この猫又には聞きたいことがたくさんあるの」
「分かってるわよ。最近の色々はこのニャンコの仕業って言うんでしょう? 意識が戻ったら、ちゃんと聞き出しとくわ」

雪女らしく、その瞳が青に凍てつく。

普段こそ、ただの腐女子だけれど、そもそも雪女は力の強い妖だ。

自分が聴取を受けるわけでもないのに、結衣の背筋にも、ぞっと寒気が走った。
一応、やりすぎないように、とだけ釘を刺しておいた。




あの小屋には、なにがどうして封じられているのだろう。
果たして猫又とは関係があるのか。


引っかかりは覚えど、開けないと決めた以上、もう打つ手はなかった。

悶々としているうちに、数日間が経つ。

その間、特に事件も起きず、山鳴りがするわけでもない。結果、例大祭までの多くない時間をただ無為に過ごしただけになった。

猫又が目を覚ましたのは、そんな折だ。雪子の世話の甲斐もあってか、起き上がれるまでには回復したらしい。

けれど、だんまりを決め込むだけだった。

「……答えないと凍えるわよ、白ニャンコ」
「雪子、その辺で。霜とるのが大変なだけだから」

結衣は、雪子の肩に手を伸ばしストップをかける。

彼女の部屋の壁は、既に透明な氷によるコーティングができていた。
真夏だというのに、コートを重ね着しても耐えられない寒さだ。

猫又は、ブスッとした顔で、身を丸めていた。
くたびれてはいるが、よくブラッシングされていたことを思わせる毛が、水分を含んでへたっている。逃げ出すまでの力はまだないらしい。

結衣は、一枚コートを脱ぐと、その背中にかけてやる。

「私たちはもう怒ってないから。なんであんなところで倒れてたか、どうして伯人くんを狙ったのか、教えて?」

北風がダメなら、太陽。

飼い猫だったとおぼしき彼女になら通じるかと思ったのだが、むしろ毛並みを全て逆立てて、威嚇されてしまった。コートは無惨にも振り払われる。

猫又は頑なに、言葉を発しようとしなかった。

餌をあげるから、部屋を与えるからと粘ってみても、同じことだった。
進展なくお昼時になって、一旦中断となる。

「ほんまになんなんや、あのメス猫は。結衣は襲ってきたっちゅうのを許してやったうえ、助けてまでやったってのに」

ハチは不服そうながら、米を必死で掻き込んでいた。
なんでも、悔しさごと胃に収めるのだと言う。

「贅沢なやっちゃで。明らかにちやほやされて育っとるもんなぁ、あの毛並み」
「ハチも十分ちやほやされてる方だよ。毎日たらふくご飯食べてるんだから」

「ちゃうちゃう。ほら、僕は庶民って感じやけど、あっちはお嬢やん? 気性の荒い、自分勝手な。甘やかされて育ったんやろか。ほんまに羨ましいやっちゃで」

ハチが、箸を茶碗に擦りつける音だけが居間に響く。
春先に逆戻りしたかの如く、食卓は半分しか埋まっていなかった。

雪子は猫又を見張ると言って、部屋に残っていた。そして恋時も、和室に篭ったままだった。

こちらはここ数日、ずっとその調子である。けれど、一切出てこないというわけじゃない。

と、古びた襖がぎこちない音とともに開いた。

「結衣さん、例大祭の件でご相談があります。……って、あぁ食事中でしたか」

恋時は、大学ノートを胸に抱えている。

「伯人くんは食べないの」
「えぇ、今は少し忙しいので。では、のちほど。またお時間があるときに」

笑顔とともに、また和室の戸は閉ざされた。
再び現れた桜の花は、もうすっかり季節外れだ。それはまるで、結衣と恋時のズレを表すかのようだった。

「……正直、お祭りに集中できないよ」

思わず漏れたのが、結衣の本音だ。

ずっと目標にしてきたのだが、ここにきて邁進はできなくなった。ハチがナスの甘辛炒めを挟み上げつつ、犬耳をぴくりと反応させる。

「恋時はん、ますますお金稼ぎにまっしぐらやなぁ」
「うん。鎮守の森に入った日から、ずっと例大祭のことばっかり」

思えば、声をかけられたのは、関連する話だけだ。

それ以外の話は結衣から振らない限り、してこない。些細な家事の話など、雑談めいた会話は限りなくゼロに近くなっていた。

「あんなにノートに文字ばっかり書いてたら、僕なら倒れるわ」
「ハチは少しくらい勉強した方がいいよ」

恋時が熱心なことは、ありがたい。

でも、自分が狙われていた理由も分からないのに、よく放っておけるものだ。それとも彼のことだから、なにか考えがあるのか。

なんだか分からないことばっかりだ。疑問が毛玉のように絡まりあっている。結衣は、頭をぐしゃっと掻く。こちらも、髪の毛がもつれ荒れてしまった。

「こんな時こそご飯や。たらふく食べて忘れるんや。な?」
「……もう、そうするよ」

結衣は、ハチの悪魔の囁きに耳を貸すことにした。箸を取ると大口を開けてご飯を詰め込んでいく。

甘辛炒めが、食欲を掻き立てるのもあいまった。

二人して、競うようにさらえていく。
四人分炊いていた炊飯器が、いつのまにかすっかり空になっていた。





午後は、神社の通常業務に戻った。

地鎮祭や御祓の依頼はなかったから、午前にできなかった掃除や来客の応対をこなす。

その合間を縫って、

「結衣さん、さっきから食べすぎでは?」
「だって、もう頭回ってないもの。難しすぎてわけわからないよ」

恋時から、例大祭の話を聞かされていた。

正確にはそのはずだったが、いつのまにかずるずる話は逸れて、今やなぜか半ば経営論の講義と化している。

結衣は、節約のために自作しているミルク餅をまた一つ口へ放り込む。
簡単すぐにできて、舌で溶ける食感も面白い自信作だ。

「失礼ですが、結衣さんはお昼を食べられたのでは?」
「甘いものは別腹なの! あと糖分は頭の回転に効くっていうし。伯人くんもいる?」

結衣は、菓子の乗った盆を少し持ち上げる。これで話の腰が折れてくれれば、と淡い期待をかけるのだが、

「真面目にやりますよ。時間は限られていますから」

問答無用とばかり、盆を取り上げられてしまった。

あぁ、と口をついたのが情けないが、それにしても今日はやけに厳しい。

星空のような銀の髪に、月のような優しい目つき。
変わらず美しい笑顔を讃えているが、なにか凄みを感じる。

「そうは言うけどさ、経営論ならいつでも教えてもらえるよ? 今日じゃなくても大丈夫じゃん」
「そう言っていると、いつまでも覚えられないですよ」

恋時は、また参考書をめくり、結衣への指導を再開する。

いつもならば丁寧な彼だが、今日はやけに駆け足だ。
市場ニーズだとか、顧客ロイヤリティだとか、まるで頭に入ってこない。

さすがに堪らなくなってきて、結衣はギブアップとばかりに手をあげる。一旦ストップをかけた。

「どうして、そんなに急いでるの」
「すいません。早かったならもう一度やりましょうか」

言いたいのは、そういうことではない。もっと前段階の話だ。

「そもそもさ、自分が狙われてたことは気にならないんだ?」
「えぇ。だってもう、猫又は捕まえたではありませんか」

「でも、理由は分かってないじゃん」
「いずれは、あの猫又も口を割りますよ。問題ありません」

まるで、用意していたかのようなカウンターだった。

間違ってもいなければ、論立てがおかしいわけでもない。どの切り口も、防がれてしまった格好で、結衣は攻めのカードをなくす。

「……そういうもの?」
「えぇ、ただの考え方の違いですよ。さて、与太話はこの辺で。じきにやりましょうか」

微妙にしっくりとこないが、恋時の方はお構いなしだった。また、難解な講義が始まってしまう。

抗議の甲斐あってか、やや丁寧になったのもつかのま、数分後にはまたハイペースに戻っていた。

和風な妖の口から脈々と発される耳慣れない横文字が、耳の右から左へ抜けていく。



事件が起きたのは、その夜のことだった。

彦根あやかし縁結び神社のお祓い譚! 憑きもの祓って、貧乏ボロ神社を再建します!

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