一
「ほら、もうすぐできるよ~、朝ごはん!」
小葱を刻む手を止めないまま、結衣はキッチンの奥から声を張りあげた。
広さや部屋数こそ、それなりの我が家である。
しかし悲しいかな、壁は薄く防音性は皆無。下手をすれば、この包丁の音さえ廊下に響いているかもしれない通気性抜群の仕様である。
あえてそれを逆手にとるならば
「なんや、めっちゃ早いやん今日は」
ほら、ちゃんと聞こえていたようだ。
まずはハチが居間へ飛び込んできて、結衣の膝に頬をすりつける。
作業中なので撫でてやれずにいると、ややつまらなさそうに、芝犬姿から、にゅうっと人の形へ変化した。
「ふわぁ、眠いんだから静かにしなさいよ、ワンコ」
今度はあくびをしながら、雪子。
挨拶もそこそこに、妖二体の視線はすぐ、食卓へと吸い寄せられていった。
「いいじゃない、涼って感じだわ。好きよ、こういうの」
「僕、赤い麺専門で食べたい!」
でんと真ん中に鎮座しているのは、そうめんの山盛り入ったボウルだ。
白く艶のかかった麺の上で氷が溶けかかっているのを見ると、いよいよ夏が来たのだと実感する。
結衣はその上に、切ったばかりのネギを散らした。爽やかな彩りに、つい唾液が滲み出すが、まだ終わらない。
本命は、冷蔵庫に隠していた。
「山形だしに、冷やし味噌煮、オーソドックスにめんつゆ。出汁、三つ用意してみたんだ。おかずを豪華にできないなら、っていう逆転の発想!」
「へぇ、毎度よく考えるわね、結衣は」「……結衣、天才やな! 味が単調っていう、そうめんの唯一の弱点消えたわ。これで!」
「せめて食べてから言ってよ、そう言うのは」
期待されないよりは、された方が嬉しいけれど、ハードルが上がりすぎるのも困りものである。
低予算ごはんなのだから、超えるハードルも低くあってほしい。
「おーい、朝ごはんできたよ」
結衣は、もう一度呼びかける。
今度は相手がすぐ近くにいるため、抑えた声量だ。桜の花びら付き、和室の古びた襖が、おもむろに開く。
ややむわっとした風に、銀色の長い髪と七色の組紐がたなびいていた。
「おはよう、伯人くん。また縁側の窓開けてたんだね」
「おはようございます。えぇ、すだれ越しの夏風も風流でしょう? 昨日は少し雨が降ったようで、湿気ていますが。おや、料理の方も夏らしいですね」
「でしょ? でも、季節感で言うなら伯人くんの格好の方がよっぽどだよ」
彼は七分袖の作務衣に、羽織を召していた。
仕事以外では洋服ばかりを着る結衣からすれば、夏祭りの格好というイメージだ。
「そんなんえぇから、はよ食べようや~」
風流など、犬は解さないらしい。食事を前に、我慢しかねたのだろう。
ハチが恋時の背中を押しに回る。
「この乗ってる氷だけなら、先に食べてもいいわよね? もう暑くてさぁ」
「あ、ずるいで雪子! そうやって、麺もさらうつもりやろ!」
「私はワンコみたいにいやしくないわ。あ、山形だしと、氷合うかも……! キュウリの浅漬け感がいいわね。歯当たりが最高よ、これ。一気に涼やかな気分!」
雪子がフライングをして、なし崩し的に食事が始まった。
ガリガリと氷を砕く豪快な音が鳴る。
だが思いのほか硬かったらしく、雪子が頬を歪ませ格闘しているその横で、ハチはその隙に、と色付き麺の確保へ乗り出していた。
こちらは、威勢がいいわりに、作業がちまちましている。まるでピンセットで分銅を掴むかのようだ。
静かだった朝が、一気に騒々しくなった。
恋時と苦笑いを共有してから、結衣たちも食事につくとする。
「朝にはちょうどよいですね。味噌だれも、攻撃的な辛さがないというか」
「あ、分かる? 少し蜂蜜入れてみたんだよね」
桃色のランチョンマットの前は、すっかり恋時の指定席だ。
それもそのはず。彼がここへやってきてから、早くも一つの季節が過ぎていた。
人気のない幽霊ボロ神社。
彼が来たばかりの頃、八羽神社はもっぱらこう揶揄されていたものだが、季節よろしく今は少し状況が変わっている。
最近はちらほら、参拝客の姿も見えるようになっていた。中には御朱印やお守りを求めたり、お祓いの依頼をくれるものもいる。
この間などは氏子総代のご老人がやってきて、変わりように目を細めていた。
「いやぁ、若い人がたくさんだ。これなら例大祭も、やるようにやってくれたらいいよ」
若干投げやりだったけれど、それはご愛敬である。
やっと見えてきた光明だった。
それは直接的には、依頼人だった竹谷未央が宣伝してくれた効果や、神社コンの開催による話題性のおかげなのだろう。
ただ、元を辿れば、どちらも恋時伯人のおかげに違いなかった。彼の商才は、たしかなものだったわけだ。
おかげさまで、春先には絵に描いた餅だった「大々的な例大祭の開催」も、残り一月に迫り、現実味を帯びてきていた。
仕事の合間を見つけては準備は進めており、また街中へ宣伝に行く用意もある。
そして変化といえば、こんなところにも。
「いくら美味しいからって、なにもあんなに奪い合いみたいに食べなくてもいいのに」
結局、三度も麺を茹でる羽目になった。
満腹と満足と引き換えに、やや疲労を残した朝食終わり、結衣は拝堂から外へ出る。
参拝客の目の前でやるのは、心証がよくなかろう。
入念に人目のないことをたしかめてから、屈んだのは賽銭箱の後ろだ。
参拝客が増えるのにあわせて、お金を入れてもらえる事が増えていた。
前はほとんど常に空で、悪戯なのか落ち葉が詰められていたりしたので、確認は気まぐれだったが、最近は毎朝確認することが日課となっている。
一礼してから、下部にある引き戸の錆びついた鍵を開ける。
「……あれ?」
なぜか、空っぽだった。
しかし少し記憶を辿れば、昨夕にも、お金を投げて手を合わせていた人がたしかにいた。そして結衣は昨日の朝以降、賽銭箱に触れていない。
思考がはたと止まって、その場でしばらく座り込む。夏にしては嫌な寒気が、背筋を抜けていった。
周りを見ず立ち上がったものだから、垂れていた鈴緒に頭をぶつける。がらんがらん、鈴の音が鳴った。
打った箇所に手を当てながらも、結衣は社務所へと走る。
「結衣さん、どうされました?」
「ねぇ、手提げ金庫どこにあるかな」
PCになにやら打ち込んでいた恋時に、食い気味に尋ねた。彼は、そうだそうだ、とその言葉を受ける。
「あれ、持たれていないのですか。ロッカーの中になかったので、てっきり結衣さんが持ち出されたのかと」
「ううん、そもそも開けてないし、知らないよ」
「……なんと」
どこかに入れ違えたのかもしれない。二人して、社務所内を捜索する。
何度も同じところをひっくり返すけれど、せっかく整っていた机の上が散らかっていくという二次災害に見舞われるだけ。
一応ハチや雪子にも確かめるが、両者とも目を丸くして首を横に振った。
いや、まさか。仮にも貧乏弱小神社だ。念には念をと、総出で家中を洗ってみたが、金庫だけが忽然と消えている。
どうやら、盗難にあったらしい。
まだ銀行に預ける前で、金庫には、少しとは言いがたい額が入っていた。
生活費は別途管理していたため今日明日の食に困るという事態でこそなかったが、
「……えっと、とりあえず通報したほうがいいのかな」
結衣は悄然としていた。
あのお金がなければ、例大祭の開催は難しい。
祭りは派手にせんと思えば思う分だけ、お金が入り用なのだ。
神社境内の整備はもちろんのこと、神輿の修理に、屋台の誘致などなど。
職人の手が必要な部分は、手作りで賄うには限界がある。だからといって氏子の方々に、費用の負担をお願いできるわけでもない。
もちろん、参拝してくれた人の願いが込められたお金だというのもあった。
たとえば少額でも、失って「そうですか」では済ませられない。
諦めきれずに家中を歩き回った末、賽銭箱の前まで戻ってくる。
結衣は、犯人が盗みに入った際に落としていったのであろう、一枚の硬貨を拾い上げた。
「これはたぶん、妖の仕業ですね」
同じく捜索を手伝っていた恋時が、顎に手を当てやって言う。
「えっ、どうして分かるの。じゃあ化け妖が憑いた人の仕業?」
「ハズレですよ、結衣さん。まぁ少し見ていてください」
彼はそう言うと、拝殿の外、階段を下っていく。
それから、結衣を見上げた。
しなかやな指がさしたのは、くっきり残った彼の下駄の跡。昨夜の雨で、砂地がぬかるんでいたのだった。
はっとして、結衣は遠目に鳥居の方まで目を這わせる。
が、他のものは見当たらない。
「私、最後に掃除したのは昨日の夜、閉門のあとだよ。つまり、それから人は入ってないんだ……」
「えぇ、ということは、人ではなく妖でしょう。通報しても取り合ってもらえませんよ、きっと。あ、むしろ迷惑電話扱いされるかもしれません」
うん、相変わらず天使の顔をして毒が冴えている。
だがそれを見て、結衣は少し落ち着きを取り戻すことができた。
「もう、証拠の一つは掴んでますしね」
なにだろう? 難しく頭を捻ろうとして、手の中の感覚にはっとした。ばっと五本指を開く。
「そっか、お賽銭拾ったんだった! 犯人……犯妖? が、これに触れてるんだとしたら、ハチだったら分かるかもしれないね!」
「えぇ、そういうことです」
なんだか恋時は、探偵みたいだ。
「早く捕まえて、どうにか取り返しましょう。俺の計画では、もう少し能動的に資金を活用していく予定でしたので。それに近々、御守りを十個ほどまとめてお求めになる方がいらっしゃると聞いていますので、大きなお釣りが発生する可能性もありますから」
犯人かと思うほど、執着は強いけれど。
目が完全に真っ暗になっている。鮮やかな紅色が、若干どす黒く映る。
一方の結衣はといえば、希望の光が一筋さしたような気分だった。
結衣は、その場からすぐにハチを呼ぶ。
この時間の彼は、いつもは気怠さMAX、だらだら時間を食うように家事にあたっているのだが、犬の姿、トップスピードで駆けてくる。
狼かと思わせるほどの迫力、犬歯を剥き出しにしていた。
こちらも怒り心頭だ。
「ご飯食いっぱぐれてまうわけには行かん、絶対! 見つけたらただじゃおかんからな、こそくな妖め」
生活資金と勘違いをしているが、あえて指摘はすまい。
むしろ背中の毛を強めに撫でやって、さらに煽る。
「その調子だよ。じゃあ早速これ、匂いついてないかな」
「貸してみ。ちょちょいのちょいや」
ハチは、鼻をひくつかせ、何度も硬貨に鼻を擦り付ける。
「……妖の匂い、たしかに残っとるで。そいつが動いていった方向が分かるわ。ほんまに、ほんのりやが残っとる」
雪子もさすがに心配していたようで、その場にやってきていた。
一匹に先導され、三人でその後ろをついていく。
彼は拝堂から、まず自宅兼社務所の廊下へと進んだ。
社務所に寄り、しばらくここで滞在したのち、なんと居間へと入る。
「……侵入されすぎじゃないかしら。もう少しセキュリティちゃんとしたら?」
「雪子、うるさいよ。一応ちゃんと鍵は掛けてるもん。す、少し古いだけで」
「そ。じゃあ、かなり小回りが効くやつなのね、盗みに入った奴。妖の中でも、身体が小さそうよ。もしくは布みたいな身体かしら? あー、なんだか少し楽しくなってきたかも。この間読んだBL探偵ものみたいだわ!」
「そんな楽しんでる場合じゃないんだけどね……」
少女漫画脳の妖はともかくとして、少し正体が見えてきた。でも一体なんの目的で、中まで入ったのだろう。
思っていると、ハチは唐突に人間の姿へ戻った。
「……ここで匂いが消えとる」
耳としっぽを、しゅんとへたらせ、あからさまに落ち込んでいる。
「ほう、ハチくん、ここで消えていると。それは困りましたね」
そこは、恋時が気に入り、寝室としている和室だった。
「ハチ、もしかして伯人くんだって言いたいの? 違うに決まってるじゃん。たしかにお金に目はないけど、泥棒なんて汚い真似はしないよ」
結衣は一笑するが、ハチの瞳は揺るがない。
「僕もそう思うで? でもなぁ、匂いはここで薄れて、部屋全体に散らばっとる。どういうことか説明してもらおか、恋時はん」
ハチが、背の高い恋時を睨み上げる。一方の彼は、やはり意に介していない様子だった。腰を落として、ハチの頭にぽんと手を置く。
「知りませんよ、としか言えませんね」
「そんなもん、犯人は誰でも言いよるで。共犯で、実行した奴の手引きしたんやない?」
「犯人ではない人も、同じことを言うのではないかと思いますよ」
「言い訳がましくきこえてまうわ! あんまり馴れ馴れしく触らんでくれん? はよ、手のかし!」
水と油、そういった様相を呈していた。そもそも理論派な恋時と、感情的なハチは相容れない部分がある。
放っていたら、泥沼の口論に発展していくかもしれない。
結衣は、どうどうと、火花が散る両者の間に割って入る。それぞれの手を取って、
「はいはい、仲直り!」
無理矢理に握手をさせるのだが、そこで手詰まりになった。
結局、わたがまりがそこには残っている。
居間はしんと静まりかえる。外で戯れているのか、猫の声が聞こえた。なんだか、とても居づらい。あはは~と無理に、無駄に笑っていると、
「恋時。無実って言うなら、部屋調べさせなさい。それくらいいいでしょ?」
雪子が澄まし顔で言った。
その手があったか、と思わず手槌を打った。
「どうぞ、お好きに見てください。別に俺の部屋と言うわけではありませんが」
恋時の許可もおり、ハートマークつきの襖をそろりと開く。
広がる畳部屋の前、境目の敷居に足指をかけて、結衣は天井を見る。異常なし。そう確かめてからも、少し躊躇っていると、
「早く入りなさいよ、結衣」
「えっと、うん!」
雪子が背中から、軽く肩を小突いた。
勢いで、畳に一歩を踏み入れる。それは実に、十数年ぶりのことだった。
かといって、恋時が来る前は、和室が開かずの間だったかと言えば違う。事実、父親は寝床に、客間がわりにと、よく使っていた。
結衣だけが、和室を避けてきたのだ。
実は、この場所には、少しのトラウマがある。
記憶も霞むほど小さい頃、一人で泣いていたところを、化け妖に襲われたのだ。
まだ、八羽神社へ連れられてきてすぐの頃だった。実の親ではないうえ、まだ出会ったばかりであった父に助けを求めることもできず、膝を抱えうずくまるしかできなかった苦い記憶だ。
けれど同時に、誰かに助けられたことも、ぼんやり覚えている。だから、トラウマは少しで済んでいた。
「やっぱりこの部屋の中から匂いはするんやけど、薄まってんなぁ」
「ぱっと見はないわよねぇ」
恋時を居間においておき、三人、手分けをして捜索を行う。
几帳面な恋時の生活している部屋だけあって、和室はよく片付いていた。調べるところも少なく、ハチは時代劇みたく畳を返していたが、
「埃立つからやめなって、ワンコ」
「いや、あるかもしれへんと思ってやなぁ。べ、別に仕事人に憧れた訳とちゃうで!」
やはり金庫が見つかる気配もない。
いくら部屋から妖の匂いがするからと言って、恋時が犯人だなんて、やはりあり得なかったわけだ。
結衣は、ほっと胸を撫で下ろす。
最後に一応、担当となっていた押入れの中へ入った。
荷物を丁寧に一つずつ取り出し、外へと並べていく。
苦労して、布団を出し終えたところ、その奥に小さな収納ケースを発掘した。
なんだか、隠していたみたいにも思うが、どうせ場所がないからと、父が詰め込んだのだろう。金庫が入る大きさでもない。
ただ何気なく一番上の引き出しを引いて、意外なものを見つけた。
「……あれ、これって私の」
ウサギの根付けだった。
それも、塗料の落ち具合や、留め金の錆び方からして、結衣が十年来持っていたものに違いない。
探していたものだ。だが、見つかったからよかった、では片付かない。
なぜこれが、ここにあるのだろう。
たしか文車妖妃が消えたとき、手紙が舞い落ちてきたのではなかったか。物が妖となるとき、その物自体が化けるのだとすれば。
恋時は、根付けが化けたわけではない、ということになる。
日々の一番底によこたわっている前提を、覆された気分だった。
そういえば、彼自身からはなにも聞いていないではないか。
だとすれば一体、彼は何者なのだろう。
薄川が、「気をつけろよ」と言っていたのが頭を掠める。
「なんか少し暑いわね、この部屋。終わったら、ティータイムにしましょ。氷作ってあげるから」
ふと、雪子が押し入れの中を覗き込んだ。
結衣はびくっと跳ねて、慌てて根付けをポケットへ隠す。
「ん…………なにかあったの、結衣? もしかして本当に見つかった?」
「え、ううん! なんにも! あーえっと、暑いんだよね? さっきまで、窓開けてたって言ってたからかなぁ」
押入れを脱出する。
間違っても落ちないよう、ポケットに根付けを押し込めてからすぐ、ぴんときた。
別のことを考えたことにより、頭が整理されたらしい。
「そっか、そうだ……。分かった! ねぇ、ハチ! 分かったよ!」
「なんや、急にどないしたん。ちょっと怖いで」
「この部屋に匂いが散らばってるのって、伯人くんが朝一に窓開けたからだよ! 言ってたじゃん、風流だって。だから、その侵入した妖が和室を通って逃げたんだとしたら、なんにもおかしくないよ」
「…………な、なんや、そういうことかいな! まぁ僕は分かってたけどな、恋時はんはやってへんって」
ハチは早口でまごうことなき言い訳をする。
恋時の正体うんぬんについては、一旦脇に置いておくとして、無実の罪を晴らすことはできたようだ。
身の潔白が認められた形の彼は、
「それだけで犯人から除外するなんて、甘いのでは? なぜ、わざわざ和室を通って逃げたんでしょうね」
などとニコニコしていた。
「なぜ、わざわざ言うの、そういうこと!」
身元も分からなければ、底も知れない御仁である。
♢
気がかりなことは多くとも、それで仕事を放棄するわけにはいかなかった。
神社の一日は、基本的には同じ流れの繰り返しだ。
だからといって、気をたゆませてはいけない。神殿の扉を開けてから閉めるまで、いやそれ以外の時間さえも、神に仕える者としての大事な業務のうちである。
本来は、身も心も落ち着けて臨む必要があるのだけれど、
「結衣さん、大丈夫ですか。お疲れのようですけど」
「……あぁ、うん。ちょっと考え事というか」
「心中お察しします。まさか金庫が盗まれるとは思いませんからね」
あなたのことも気になるけど、と結衣は心の内で思う。
これだけ変わったことが起きれば、集中もしきれていなかった。
気づけば、熱中症対策にと家から持ってきたお茶のペットボトルだけが、空に近づいていた。
手持ち無沙汰で、ラベルのノリをぺらぺらめくる。
「そこの自販機で、お茶でも買いましょうか?」
恋時が、道の反対を指を指した。揺れかけるが、
「いいよ、ちょっともったいないし。別に喉が乾いているってわけでもないよ。むしろ潤しすぎちゃったもん。それに、もうつくでしょう」
結衣は、額の汗を拭い、険しくなってきた上り坂を見上げる。
太陽ははるか高く、燦々と下ろしてきていた。
街路樹に止まったセミの鳴き声が暑さを三倍増しにする。
近くの建築現場から地鎮祭の申し出を受け、向かっている最中だった。
地鎮祭とは平たくいえば、土地神様への挨拶だ。
新たに土地を利用したり、住居を構える際に、祭りを開き、安寧を願う。
神社は依頼されれば、その地に出向いて祭りを執り行うのだ。
「それにしても、ここら一帯全部山だったんだよね。こんな急な斜面に家を建てるなんて、人の技術はすごいよ」
「はは。それは思いますね。それといえば、祭りの道具を車が運んでくれるというのも、なかなか」
「まぁ全部今さらなのかな。今日の依頼もインターネットで受けてるわけだし」
妖だというのに、それを扱いこなす恋時は、もっとすごい。
そして、謎に二重、三重と包まれている。
結衣は、数ヶ月ぶりに袴衣装の懐に帰ってきたウサギの根付けを握りしめた。
たしかに、物はここにある。
では彼は、どこのなになのだろう。
全然別の存在だとして、なぜ八羽神社にきたのか。
彼の顔色を伺うけれど、やはり守りは固い。
外出用に黒く、短く見せた髪の毛には、汗ひとつ浮かんでいない。
ここは一つ、槍で刺すような思い切りがいりそうだ。
そうでもしないと、突破口が見つかりそうもない。
「ねぇ、伯人くんは、どこでパソコンとかって覚えたの」
できるだけ話の流れに沿うように、自然な雑談らしく、と心がけた。
「あぁ、それは人が使いこなすを見ていましたから」
「それって私のお父さん?」
「あの人はからっきしでしたでしょう」
正しい情報だ。このご時世というのに、いまだ携帯電話も持ち歩いてない。
連絡手段は、固定電話のみだ。
「もっと、色々な方のものを見て聴いているうちに、というのが正しいところでしょうか」
「…………へぇ。ちなみにそれは、さ。私の根付けとして学校で一緒に習ったから、とか?」
結衣としては、大きく踏み込んだつもりだった。
「…………それは答えられません。いわば、決まりになっていまして」
しかし、謎の奥行きは思うより深かったようだ。かつ、立ち入りを禁じられてしまった。
いっそ根付けを見せてしまおうかとも思ったが、無駄に切り札を浪費するだけになるような予感がして、やめる。
(決まり、ってなんの? 妖のルール?)
疑問を解決しにいったはずが、さらに新しいクエスチョンが生じてしまっていた。
それに結衣が混乱しかけていたら、目的地にたどり着いた。
既に依頼人の一家はお揃いのようだった。総出で、迎え入れられる。
正式な衣装は、輸送をお願いした車に積んでもらっていた。車の中で、正装にあたる「正服」へと衣をかえて出ていくと、
「おぉ、女性宮司って聞いてたけど、しっかりサマになるもんやね」
「七十年生きて、初めて見たな」
褒めそやされてしまった。
正装だけあって、普段の常服と比べれば、召し物が多い。
袴は変わらないが、上には、単、表着、唐衣と重ねて着るのだ。
正直暑いったらないが、泣き言はいえない。それに、色が多い分、華やかさは増す。
「やはり、宮司としての衣装がよくお似合いになりますね」
「これでも、八羽神社の宮司だからね。そういう伯人くんはいつも通りだね」
「まぁ俺はただの補佐ですから。巫女を務めるというのであれば望むところですよ? あの仕事は神職でなくともよいのでしょう?」
女装をすれば、なんなく扮することができそうだが、結衣は首を振った。
できれば、年末年始の人手によっぽど困った時の秘策ぐらいに留めておきたい。
「とかいって、そこまでするつもりないんでしょ」
「さて、それはどうだか。少なくとも、今日はやりませんよ。結衣さん、最後にこれを」
「ごまかされた気がする……」
結衣は、言いつつも、頭を恋時の方へ少し下げる。
雛祭りのお雛様が被っているものと同じ、冠を乗せてもらった。
釵子という、U字型の金具を土台としたものだ。心葉と呼ばれる造花が額の中央に立っており、その左右からは日陰糸が垂れている。
「……おぉ、宮司さんがお雛様になっとるで!」
「男の子がお内裏様になったら似合いそうやねぇ」
新しい人に会うたび、一度はカップルだと勘違いされている気がする。彼は妖なのだけれど。
なんだかやりにくいながら、結衣は恋時の手を借りて、事前に運び込んでもらっていた神棚や斎竹を設置していく。
最後に、酒や果物などをお供えしてもらったら、前準備の完成だ。
「これだけやれば、祟りとやらにも合わずに済むかねぇ」
施主、つまり依頼主である四十頃の男性が、写真に収めてから一つ唸る。
その言葉を拾ったらしい恋時が、少し眉間にシワを寄せた。
「祟り、ですか」
「あぁ、実はそうなんです。少し下の区域に住んでる知人が、この土地は昔、神木が立っていて、それがある時切り落とされた、と言っていて。土地を買ってから聞いたもので、放置しているのも気味悪いなと思いまして」
「なるほど、そんな噂が。でも大丈夫ですよ、うちの宮司は優秀なので。ぜひとも、お任せください」
調子のいいことばかり言うものだ。
竹谷未央の時に、誇大な表現をした反省は見られない。少し呆れつつも、結衣は土地全体を見渡す。
斜面になっているため、ここが山だったというのは分かるが、目に入るのは少し先に立つ一際大きな針葉樹くらいだ。
今の話はいつ頃のことなのだろう。本当なら、化け妖がいてもおかしくはないけど……。
むしろ、妖一匹いないようだ。
「では、今後も祟りが訪れないよう、これからお清めいたします」
粛々と、地鎮祭の儀式を執り行っていく。
基本的な流れは、普段のお祓いに近いが、特有の儀式もある。
地鎮の儀などは、その代表格だろう。
他の神事では参加者が受け身一方になることも多いが、この儀式では、
「えい、えい! ……ってこれでいいんですか? 宮司さん」
「はい。元気よくやっていただければ!」
忌鎌、忌桑、忌鍬といった土地にまつわる神具を使って、草刈り、盛り土を行ってもらう。
結衣が土をならしたあとに、鎮物という捧げ物を置けば、土地に眠る神様を鎮められると言う。
子供たちも興味津々といった様子で参加してくれて、
「お姉ちゃん、格好いい! 私も宮司さんになりたい!」
なんて声も聞かれた。
子どもだから区別がついていないだけなのだろう。
けれど、巫女ではなく宮司と言ってくれたのが、素直に嬉しかった。女性宮司は、最近でこそ増加傾向にあるが、まだまだ認知されていない。
最後に、神に捧げたお酒を下げて家人に振る舞う儀式「神酒拝戴」を終え、一時間ほどで全行程を終える。
施主は、その間中、祟りのことを気にしているようだった。
「神木が切られた、って言ってたけど、むしろ清らかな場所だったね」
「えぇ。噂話だったのでしょうか。八羽神社の方がよっぽど祟られてますね。お賽銭も、金庫も盗られるのですから」
全くその通りだ。
決して、笑顔で言うことではないと思うけれど。
二
神社へ戻ってからも、清掃や祈祷といった一日の業務を通常どおりにやり終えて。
結衣たちは、再び犯人探しに乗り出した。
街の方へ出ていき、妖を見つければ聞き込みを行うなど、精力的に動く。
しかし別の証拠が出るわけでもなく、すぐに行き詰まった。
そこで一度集まって作戦会議をしたところ、深夜〇時にして、事態は思わぬ方向へ転がった。
今の状況はといえば、結衣は恋時とともに拝殿の陰に身を潜めている。
反対側の柱には、ハチと雪子も控えていた。
まるで刑事映画のワンシーンのようだ。あんぱんも牛乳もないけれど。
「証拠がないなら、作ればいい。って、伯人くんも無茶言うよね」
「そうですか? これくらいは知恵の範囲ですよ」
「少なくとも私にその知恵にはなかったよ」
「善人の結衣さんらしくて、いいと思いますよ。俺はそこまで白くはなれないので。それより、そろそろお静かに」
恋時は一本立てた人差し指を、唇に触れさせる。
その美しさときたら、このうえなかった。
今日の新月とは真反対、欠けているところが見当たらない。
今日一日、仕事を行いながら、結衣は彼をよく観察してみた。その結果として、ポケットの中の根付けと一緒にはやはり思えなくなってきていた。
姿格好は部分的に似ているけれど、別物としか思えない。
ぼろぼろになって色褪せた根付けと違って、なにせ恋時は完璧すぎるのだ。
薄明かりでもぼうっと輝く白銀の長髪も、見入ってしまうほど朱に澄んだ瞳も、それから──
「……どうかされましたか?」
まじまじと見つめてしまっていた。
どきっとして結衣が身体を跳ねさせると、脇に置いていた箒を引っ掛ける。
からんからんと軽い竹の音が、静かな拝殿に響いた。
恋時は結衣の肩を捕まえると、いよいよ結衣の口を掌で覆う。何度か頷くと、すっと離してくれた。
「いつ件の妖がくるか分かりませんよ。それとも、その箒で戦うおつもりですか?」
「……ご、ごめんなさい」
いわゆる待ち伏せ作戦だった。
金庫が盗まれたのは、銀行に行く直前で、お金が溜まっていたタイミング。
つまりもしかするとその妖は、お金のあるなしのを見抜けるのかもしれない。
そう推理した恋時が発案し、雪子が「なんかちょっと楽しそうね、漫画みたい」なんて深夜ごろにありがちな胡乱な調子で話に乗り、実行とあいなった。
結衣は、賽銭箱へ目一杯に心配の眼差しを送る。
囮にするため、中には実際お金を入れてある。今度こそ、生活費の一部だ。つまり今、結衣たちは明日からの生活を囮にしているに等しい。
気が気でない状態でいたら、拝殿の階段下が、つと淡く光る。
灯籠はもちろんつけていないから、なにかがきたようだ。
なにがでるのだろう。少なくとも、善なるものではない。
結衣は、唾を飲みくだし動向を注視する。
それは小さな球体だった。夜風に身体を乗せて、こちらへ悠々漂ってくる。
近くの木の葉を体に巻きつけると、それはやがて粉塵となり、腕と足となった。
木霊、だった。古くから生える大木に宿るとされ、なにかのきっかけで本体から別れた妖だ。
見る限り、化け妖になっているわけではないらしい。
今日の地鎮祭で聞いた、切られた大木の話がよぎる。滅多にみられない妖だけに、その木が化けたものなのかもしれない。
結衣は思わず飛び出しかけるが、恋時が腕を柵がわりに、通せんぼをする。
少し眺めていると、木霊は器用にも賽銭箱の中へ腕を潜らせた。
そして、決定的瞬間を捉えた。
お賽銭の一部を、自分の身体の中へ取り込んだのだ。
今度こそ、間違いない。反対にいた雪子やハチ同様、身を乗り出しかけるが、やはり恋時は手のひらを前後させ、全員を止める。
そして、どういうわけか、結衣の首、膝に手が回った。
目を瞬いていたら、次の瞬間には抱え上げられていた。
(……どういうことなの! というか、この歳でお姫様抱っこはないよ!)
仮にも二十手前である。
悲鳴をあげたいぐらいだったが、どうにか口を抑える。
恋時はほとんど無音の忍び足で、結衣を自宅の廊下まで連れて行った。
片膝立ちになった彼が、丁重に下ろしてくれる。
「なんで、捕まえないの!」
この家の壁は信用が低い。
なお小さな声で、結衣は抗議をした。
今この瞬間だって、お金が取り込まれていっているのだ。
「もし捕まえ損ねたらどうするのですか。逃げられてしまえば、意味がなくなってしまいますよ。それに、今、あの木霊が、盗んだ金庫を持っているわけじゃありません」
「そうだけど、またお金盗られちゃったらなんの意味もないよ! それに、明日はあれで野菜の特売りに行かなきゃなのに」
「大丈夫ですよ、心配いりません。盗らせてるんですよ、わざと」
「なんで、わざわざ……?」
「後ろをつけていくためです。あの木霊は、これからどこかへお賽銭を持っていくでしょう? たぶん、昨日の金庫と同じ場所へ」
なるほど、と結衣はそこでようやく納得できた。
盗まれた金庫のところまで、当の妖に誘導してもらおうというわけだ。
なにからなにまで、よく頭が回るものである。
改めて思えば、これも結衣の根付けにしては出来過ぎだ。IQが高すぎる。
「それにきっと、まだ金庫のお金は使われていませんよ。あの妖は、また盗みに入った。
人なら理由がない場合もあるやもしれませんが、妖がお金を盗む場合は、明白に理由があるでしょうから、あの金庫のお金ではその目標に足りなかったと考えられます。……って、結衣さん?」
また答えの知れぬ問いを、考え込んでしまっていた。
結衣は、生返事をする。
「あ、うん! とにかく、尾ければいいんだよね」
「では、行きましょうか。ハチくんと雪子さんには、家で見張りをしていてもらいましょう。場合によっては、共犯がいる可能性もありますから」
拝殿へ戻ると、木霊はちょうどお金を回収しおえたところだった。
白もやのような身体は、お金を蓄えたことで、体積を増していた。
重そうに、ゆらゆら鳥居の外へと出ていく。
結衣と恋時は、それを少し離れたところから尾行することにした。
神社のお金で肥えていると思うと、今にとっちめたかったが我慢のしどころである。
木霊は宙を浮いているが、決して早くは動けないらしい。風をうまく使い、身体をそれに乗せて進んでいった。
参道を出ると、横野神社を右手に方向転換。そして市のシンボルたる彦根城の外堀を通り過ぎて、
「しっかり距離があったね……」
川沿いのケヤキ道に出た。
芹川という、流れの穏やかな河川だ。このすぐ下流で、琵琶湖に注いでいる。
その源流は、霊仙山という千メートル級の山だ。先祖の霊が籠るという理由から名づけられたと、地理で習った覚えがある。
そのせいか、辺りには虫だけではなく、カッパや土蜘蛛など、色々な妖の姿も見られた。
「母に会えることになったのかい?」「いや、まだ神様の許しが……」「では拙者は一足先に」
ひそひそと、なにやら囁き合っている。
この川は人間界でいうところの、喫茶のようなものなのかもしれない。
木霊はといえば、それを尻目に、川辺に生えた草陰へと飛び込んだ。
みゃあ、と愛嬌の感じられる鳴き声がする。
どうも、野良猫の住処だったようだ。
「ここが目的地、というわけではなさそうですね。お金を持ち込むような場所ではないですし」
「ということは、寄り道……?」
「さぁ、そこまでは。とにかく、少し待ちましょうか」
結衣たちも、歩道から川辺へと下る。
ちょうど死角になっていたので、地面の砂を払い、橋脚の影に身を隠すことにした。
並んで、三角に足を組む。
歩道には街灯があれど、川瀬までは朧げにしか届いていなかった。新月であるせいで、月明かりもなく、あたりは暗い。
唯一、目に眩しいのは、
「……これこそ、風流ってやつかな?」
「そうかもしれません。はかない光り方をしていますね。行く日々を惜しむような」
蛍の群れだ。
まるで火の妖精が舞い踊るかのように、グリーンイエローの光が草木の間で点滅している。
そんな光の舞が、しとやかな川のせせらぎと合わされば、まるで密かなパレードにでも招待されたかのようだった。
それを、恋時と二人で眺めている。
目的が別にあるにもかかわらず、ふと鼓動が、夏風とともに胸を駆け抜けた。夜の川辺は、この季節でも少し冷える。結衣が腕を交差して肩を抱いていたら、
「これ、どうぞお使いください。俺の霊力がかかってる限り、消えたりしませんから」
恋時が羽織りを巻きかけてくれた。
併せて、にっこりと微笑む。ありがとう、と答えながら、結衣は少し大きなその羽織にまず顔を埋めた。
冷える手足とはうらはらに、顔がとても熱かった。
数秒、沈黙が訪れる。
「結衣さんは、俺のこと疑いましたか?」
川の流れにすぐ飲み込まれそうなほど、それは小さな声だった。
彼は首元の金の輪に銀色の髪をこぼして、空にまたたく星をその瞳に映す。
なにをだろう。
窃盗の犯人としてか、はたまた彼の存在そのものか。
聡明な彼のことだ。今日の結衣の態度から、なにか気づいていてもおかしくはない。
正直にいって、疑念はあった。
一体なんなの、とストレートにぶつけたい。でも、「決まりで、教えられない」と彼は言っていた。ならば聞いてもしょうがないのだろう。
そのうえで改めて考えてみた。
たとえば彼がウサギの根付けじゃなかったとして。
他のなにか変わった妖だとして、なにか変わるだろうか。
「信じたい、とは思うよ」
結局、結衣はこう答えた。
余計な詮索をしたな、と今更ながらに思う。
彼の正体がなんであれ、この数ヶ月、共に過ごしたのが彼だということだけは、紛れもない事実だ。
朝ごはんを囲んだ、一緒にお祓いをして、よく笑った。少し隠し事があったとしても、その時間が嘘になることはない。
今この瞬間だって、嘘になりようがない。
「えっと、その……」
困ったことに、恥ずかしいことを言った自覚があった。
結衣は、川瀬に視線を飛ばす。
ちょうど岩へりに引っかかっていた木の葉が、川の流れに乗って流れていくところだった。
「ふふ、結衣さんはお甘い方ですね、全く」
「そ、そうかな? だいたい、悪い妖だったら、そもそも神社のためにここまでしてくれないと思うしね。むしろ、伯人くんの方が私を甘やかしすぎなんじゃないかな」
「あなたは少しくらい誰かに甘えた方がいいんですよ。だから俺にできることがあればなんでも」
ふと、彼が身体の向きを変える。結衣を覆うように、壁に腕をついた。
「え、ちょっと伯人くん? 甘やかすって私別に赤ちゃんじゃないし、抱きしめてくれなくてもいいからね!」
「お静かに。木霊がまた動き始めたようです」
狭い腕の間から、結衣はそうっと頭を出して覗く。
また、仄かな白い塊が、ゆらゆらと移動を始めていた。蛍の群れと混じりつつ、川辺をゆっくり上へ上へと進んでいく。
焦れったくなる足取りだった。
夜はその間にさらに深まる。
にわかに進路を変えたのは、足元の石が尖り出して不安定になった頃だ。その先を見れば、
「……あれ、もしかして鳥居かな?」
「どうやら、そのようですね」
確信が持てなかったのは、赤の塗装は剥げ落ち、ツタが巻きついたことで、自然の一部と化していたからだ。
雑草と括るには、あまりに立派な草木たちを踏み分けて、その奥へと進む。
少し下へ向かって、小さな洞窟のようになっていた。参道未満の階段は、浅い川のように水が染み出している。
降りてみれば、まず肌の感覚が変わった。
冷気が全身を包み込む。
水滴を垂らしたススキの葉は、まるで衣装のように狛犬に覆いかぶさっていた。
その奥に、壊れかけの祠があった。
見るからに、誰の手によっても管理されていない。いわゆる廃神社らしかった。
(……なんて酷い)
御神体だろう徳利は無残にも割れていた。錆びて形骸化した鈴に括られた麻紐は、何重にも割けている。
その手前には、小さな賽銭箱が置かれてあった。
木霊はそこへ、身体に蓄えたお金を撒く。
そして祈るかのように宙を回り始め、たちまち、むくむく膨れはじめた。
白から黒へ。化け妖になる、まさにその瞬間だった。
「どうして、ここでなっちゃうの!」
結衣は歯を噛んでそれを見る。
というのも、他神社の境内だ。
お祓いは、八羽神社に祀っている神様の力を借りて行っている。
そうである以上、他の神様が司る領域でお祓いの儀をしたとて、実効力はない。
力を込めたお札ならば効果もあるが、手持ちはなかった。
少しでも境内の外へ出てくれればよかったのに!
「ゆ、結衣さん、大丈夫です。少しここでお待ちください」
「え、伯人くん。どうするつもりなの」
化け妖と対峙した途端、相変わらずのお豆腐メンタルだ。
彼は、しきりに手をこすり合わせる。
「………少し、お話をして参ります。いわば、人ならざるもの同士の会話ですよ」
すると、姿はあるのに、ふっと気配だけが消えた。
目を瞑ると、誰もいないかのようだ。
木霊は化け妖になったことで興奮しているのか、全く気づきそうになかった。
恋時は、そのうちにロボットのようなステップを踏みつつも、祠の裏へと回る。
少しあと、彼はそこから手招きをした。
どうせ結衣にはなにもできないけれど、どうするのだろう。
思いつつも一歩前へ動くと、草の根を踏みつけた。
『誰そ。誰そ、そこにいるのは』
すぐ木霊に勘付かれた。もちろん結衣に気配を消す妖術はない。
黒い霧を広げて襲いかかってくるので、
「ひふみ よいむなや こともちろらね」
無意味と知りつつも、ほとんど反射的に、小カバンからは神楽鈴が、口からは祝詞が出る。
すると、木霊はみるみるうちに身体を縮め、元の小さな球状になった。
「あ、あれ? 他の神社じゃ効果ないって話だったよね。廃神社だから、神様がいないのかな?」
「結衣さん。失礼ですよ。ここの神の許可が下りたので、むしろ力をお借りしたのですよ」
「……えっまさか、伯人くんが交渉してくれたの」
「えぇ、まぁ少しばかり」
どうやったらそんなことができるのだろう。
疑問に思うが、優先すべきは捕り物だ。
木霊は逃走を図ろうとしているところだった。
しかし、タイミングよく外側から吹きこんでくる風が押し戻す。
「ここに入れるなら、うちに侵入できるわけだね……」
逃げ場を失い、最終的には賽銭箱の中へと潜り込んだ。八羽神社においている箱よりも、かなり狭い隙間だったが、難なく、といった様子だった。
城下町らしくいうなら、篭城作戦というわけだ。どう攻め落とそうか、まさか水攻めはできまい。
「ねぇ、あなたが盗ったんでしょう、うちのお金」
一礼し、結衣はその横にしゃがむ。返事は、小銭の鳴る音だけだった。
「理由は、大方分かりますよ、木霊の妖さん」
恋時は大股で神棚の前まで戻ってきて、裾についた葉や土を払う。
「さしずめ、あなたは亡くなった親族に会おうとしていたのでは? それも、ただの親族ではなく、より特別な存在。たとえば、好きになってしまった相手だとか」
今日の推理ショーには、まだ続きがあったようだ。その発言に結衣が驚いていると、
「…………どうして、それを」
賽銭箱の中で、こんな声が反響する。
どうやら、見事に的中しているらしかった。
「簡単なことですよ。この先の霊仙山には、先祖つまり広くは、亡くなった身内の霊が眠っていると言われます。それも、未練などが残っている妖とは違い、魂ごと浄化された者たちの霊。
彼らに会うには、この辺りの神社を訪れるのは必然でしょう。神の赦しがなくば、浄化済みの霊に会うことはできませんから」
「へぇ……。でも、じゃあどうして恋をしてた、なんてことまで分かるの」
結衣は堪らず、口を割り入れる。
「むしろ縁結び神社からお金を盗むなんて、不幸になりそうだけど……」
「普通なら、そうです。でも、わざわざこの廃神社に詣でていることから、分かったんですよ。つまり正規の神に祈ったのでは、叶えてくれない。そんな禁忌がなにかといえば、恋愛かなと考えたのです」
「……なにからなにまでお見通しか。そこまで暴かれては、しようがないか」
ついに観念したようだ。
木霊は、格子状の投入口から、身を平たくして出てくる。
近くで見ると、その真っ白な表面は幹のように少し凹凸があり、目は窪み、口は張り出していた。
「どうせ盗んだ金だと神に知れた以上、我の願いは叶わぬだろう。返してほしくば、その通りにしよう。まだ鍵は開けておらぬ」
彼はふわりと浮くと、倒壊した神棚の奥へ器用に体を捻らせていく。
咥えて帰ってきたのは、
「あった……! あったよ、伯人くん!」
たしかに八羽神社の手提げ金庫。物を見るとほっとして、結衣の膝からは一気に力が抜けた。
「よかったです。これで俺の無実の罪も完全に晴れましたね。………さて、問題はなぜ、わざわざ八羽のお金を盗んだか。聞かせてもらいましょうか」
事情聴取は任せてもよさそうだった。
「……ある妖に、最近貴殿らの社が繁盛していると噂を聞いてな。縁結び神社と聞いて躊躇っていたのだが、どうにも堪らず、魔に魅入られてしまった」
「その妖の名前は言えない、ということですね」
「あぁ、それは、そういう約束で教えてもらったのだ」
金庫の場所なども、その妖が把握していたと言う。
「では、家の中にまで入ってきたのはどういう了見でしょう」
「金庫の鍵を探そうと思ったのが第一さ。……それから、先の妖に命じられたのだ。中の様子を、それも貴様のいる部屋の様子を伺ってこい、と」
「それって、向こうは伯人くんのこと知ってて、狙い撃ちだったってこと?」
結衣の問いに、「左様」と木霊は身体ごとふって頷いた。
一体どこの妖だろうか。
「すまない、我に答えられるのはここまでだ。知らぬことの方が多いのだ。目的が達せられるなら、あとはどうとでもよかったからな。さて、残りのお金も返すとするよ」
小銭やお札といったバラのお金を身体から吐き出し、順に返してくれる。そのごとに、すまなかったと繰り返していた。
根っから、性根の曲がった妖というわけではなさそうだ。
「ねぇ、そこまでして会いたいって思った相手ってどんな相手だったの?」
となれば、どうしても気になった。
そんな彼が悪事に手を染めてしまうくらいには、魅力的な恋。
禁忌を犯したうえで、今なお会いたいと願う恋。
なお、お金を吐き続けながら、木霊は口を開いた。
「……簡単に言えば、兄妹だったのだ。あれと我は。杉の木として生まれ、針葉樹の森の中で、少し離れに立っていたが、背が伸びて顔を合わせるようになった」
数百年生きてきた功なのか、声は落ち着き払って抑揚がない。
「といっても、どちらの年齢が上か下か、自分の性別がどちらかさえ、正確には分からなかいがな。とにかく同じ森林の中で、長い間一緒にその場で成長し、あるとき年月の経過によりどちらもが意思を持った」
その前のことは、存じぬという。
気づけば、似たような背丈に育った杉が、少し距離を開けて、そびえていたそうだ。
「その森は、自然にできたものだった。標高が高いところにあったからな、人が足を踏み入れるには苦労がいる場所だったのだろう。生きとし生けるもの、みなそれぞれの生活を謳歌していたものだ」
木霊の本体である杉の木にも、リスやら渡り鳥やらが巣を作り、共存をしていたそうだ。
中には意気投合して、喋り仲間になることもあったそうだが、それも長くはなかったと言う。
動物類と違って、樹木に寿命はない。別れのときに、木霊が見送る側にしか立てないのは当然のことだ。
でも、と木霊はここでやっと少し声を弾ませた。
ゲームセンターの機械のようにリズムよくコインを吐いていたのが、少し狂う。
「あれだけは、ずっとそこに立っていた。生まれてから何百年もの間な。
よく、あれとは妙な争いをしたものさ。どちらがより早く大木になれるかなどといってなぁ。そして、いずれの時か互いに惹かれていった。同じ杉の森だ。たぶん同じ親から生まれたのだろうとは分かっていたが、そんなのは小さなことだった」
思い出を語る声は、それが楽しい時間であったことを雄弁していた。
ほんの数分前に、化け妖と化していたものとは、到底思えない。
「そんなふうだったから、気づかなかったのだけど。あれと我の競い合いは、いつのまにか山で一番の巨木を決める争いになっていたんだ」
しかし、そこへ転機が訪れる。
「百年ほど前だったな。人による、山の開拓が始まったのだ。あぁ、あれは見ていられなかった。あの頃は物資の足りない時代だったからだろう。
山がどんどんと無差別に削られていった。我とあれは歯痒く思いつつも、見ているしかできなかった」
「木霊は切られなかったんだね?」
「あぁ、あれも私もその頃には、かなり大きくなっていた。しめ縄を巻かれて、むしろご神木扱いさ。はじめは、それでもよかったのだが。さらに時代が降った頃に、どちらか一本のみを残すと、そう決められたのだ」
神木とされてから、二十年ほど後のことだったらしい。時代を想定すれば、戦乱に世が傾いていく頃だ。その決定は住民らとしても、仕方ないものだったのだろう。
「……もしかしてそれで」
「ほんの少し、我の方が背が高かったのだ。それを理由に、あれは切り株となり、我だけが残った。
何度後悔したか知れないさ。あんな競い合いに本気になっていなければ、我が切られていたのに……。そう繰り返し思っているうちに、この姿となった」
木霊の懐古が終わる。
昼に聞いた話とも、これで繋がった。妖となったのは、切られたほうではく、残された方だったのだ。
好きな相手を守って死んだから、神木が切られたというあの土地に、未練は一滴も残っていなかったのだろう。
「……ごめん、なんて言えばいいか」
「なにも申さずともよい。同情が神への供物となるわけでもないからな」
ちょうど最後の硬貨を返し終わったらしい。
木霊は浮遊して、手前にあった狛犬の足元、台座に乗る。
結衣は、手元の金庫に目をやった。このお金があれば助けてやれる、そう思う気持ちもなくはなかったが、
「ごめん、やっぱりお金はあげられないよ。これはね、木霊の願いよりは小さなものかもしれないけど、参拝してくれた人みんなのお願いが篭ってるから。それに、私にも叶えたいことがあるんだ」
「分かっている。そもそも悪事に手を染めた我が悪かったのだ。五百年も生きて、一つの感情に縛られる我が」
木霊の光が、豆球ほどに頼りないものへと変わった。
夜も一番深い時刻の、洞窟の中だ。
結衣は改めて、その暗さを知る。
一際大きく、水滴の跳ねる音がした。
ちょっと怖くなって左手を胸に当てていると、右手の上に恋時が手を重ねる。
「そこにいるんでしょう。出てきたらどうです? ここにいる誰も、あなたを否定したりしませんよ」
明白に、結衣に言ったのではなかった。でも、木霊に告げるにしても内容がおかしい。
「そこにいる娘もかの」
と、天井からじじ声がした。
なにかがいる。そして、その主は、地上にいるわけではないらしい。そう、結衣にはすぐわかった。つまり、異形のものだ。
「えぇ、どんな妖にも優しく接するお方ですよ。俺のような妙なものを差別することもない」
「それならば、やぶさかではないのう」
天井に、なにかの大きな影が伸びる。
結衣が目を見張っていると、曲がった手足のようなものが生えてきて、それは地面へ降り立った。ぴちゃんと、影から想定していたものの十分の一スケールのなにかが。
「……な、なに、この子」
「捨てられた神、いわば邪神ですよ」
「……まぁ祟り、災いを起こすなどとよく言われているよ。迷信じゃがの」
水気を飛ばしながら後ろ足をみょーんと蹴上げて、跳ねること数回。御厨の中央、御神体である徳利へ飛び乗ったそれは、
「アマガエル……?」
三
「神じゃぞ、神! 断じてアマガエルなどではないわ!」
そう言われましても……、なわけである。
深緑色、手のひらサイズの身体、曲がった四本の足に、鳴くと膨らむ顎。
目を涙のように走る黒い線も、その姿はどこからどうみても、カエルだった。
木霊も信じられなかったようで、
「まさかカワズだとは……」
なんて呻いて、台座から転がり落ちていた。もはやコントのようである。
「本当に神様なの?」
「いかにも! わしこそ神じゃ!」
「神様って、そんなむやみに言うものじゃないと思うけど……」
「わしは邪神じゃからな。そういった制限がないんじゃよ! まったく……。困っているというから、なけなしの力を使わせてやったのに、失礼な娘よ」
カエル……ではなく邪神は、その表皮のようにじっとりした目で、恋時を見やる。
「まぁまぁ、邪神様。驚いているだけですよ。神の類に会ったことなど、彼女はほとんどないでしょうから」
ほとんどというより、ない。本当だとすれば、これが初めてのことだ。
「そ、そういうことならまぁ、よいのだが……。わしも一応、神だし? 寛大な心で許してやらんこともないがの」
妖におだてられて機嫌を直すのもどうかと思うが、口にすると面倒くさそうだ。結衣は小言を引っ込めて、代わりに根本的なことを尋ねる。
「そもそも、神様ってこうやって見える形で現れるものなの?」
「よく言う、顕現というやつよ。
神がこうして現世に姿を持つときは、祈りの力が弱っている時、もしくは強い目的がある時のどちらかじゃ。
むろん、わしは前者じゃがの」
「へぇ……知らなかった。あ、だからさっき伯人くんは」
神社の荒廃ぶりに、神様が現れているかもしれないと、交渉に行ったのだ。
やっと信憑性が出てきた。
まだ確信は持てないが、そういうものだと言われれば、信じられなくもない。
「大変なご無礼、お詫びいたします。八雲結衣と申します。先ほどはありがとうございました」
立ち上がって、最敬礼をする。邪神はそれを、前足で払った。
「うむ、くるしゅうないぞ、結衣。いやぁ、久々に、人から拝礼を受けたぞい。最近は妖でさえほとんど来ることがなかったからなぁ。祝いだ、祝いだ。酒を持ってこい、祝酒じゃ」
「えっと、すいません、今は手持ちがなくて」
「なんじゃ、つまらん! この身体なら、一滴でも満足できるかと思っておったのに」
あからさまに残念そうに、カエル型の邪神はわめき嘆く。
それが反響するほど小さな洞窟だ。そして、辺鄙なところにある。
「その、いつから人が来てないんですか? 外の鳥居が草で塞がれてましたけど」
「もう十年近くは見ていないのう。要は、打ち捨てられた場所なんじゃ、ここは。
元より、管理していたのは神職のものではなかったゆえ、そやつがこなくなって、それきりよ」
「そうでしたか……」
聞く限り、歩道などで見かける小さな祠などと同じなのだろう。誰かが個人的に祀り、なにかの理由で、訪れなくなった。
「そこへ突然これだけの賽銭を持ってこられてな。正直、きな臭いなと思っておった。
それも、人型でもない妖が持ってきたんじゃあ盗んだものかもしれぬ、と。確証はなかったからのう。そのせい、今の今まで咎められんかったが」
「邪神って聞くと、盗んだお金でも使っちゃいそうだけど……」
「邪神にも色々いますからね」
恋時が言うのに、邪神は誇らしげに前足で頬をさする。
「そうじゃ。少なくともわしは、捨てられたからとて、悪事に手を染めようとは思わんかったって話じゃ。そこの、木霊の妖とは違うのよ」
木霊は、濡れた地面に転がったまま、始末の悪そうな顔をする。
「わっ、また風!」
そこへ、突風が吹きこんできた。
結衣は足を踏ん張るが、木霊はそうはいかない。勢いよく浮き上がる。なされるままに漂ってカップインしたのは、御神体横に置かれた杯だった。
「わっはは。まだこれくらいの力はあるのよ、ワシも」
邪神の神通力らしかった。
そういえば、先ほど木霊が逃げようとした時にも、同じような風が吹いてきたっけ。影ながら結衣たちをサポートしてくれていたようだ。
しかし今度の木霊は、微動だにしなかった。
小さな目を静かに瞑っている。
「……神よ、我は赦しを乞わぬ。なんなり、処罰するといい」
「ふむ、潔いのう。悪くない態度じゃ。では、そんなお主には、少し変わった罰を与えようじゃないか」
「甘んじてお受けしよう」
小さな神棚一段の上で、会話がなされる。
遠目から見れば、まるで人形劇のようにも映るが、その実は、神様と数百年生きている妖なのだから、不思議だ。
はたして罰とはなんなのだろう?
「そこまでしなくても、いいんじゃないかな。お金も返してくれたし、別に私はもう」
しかし言葉の途中で、急に強い光が目を射った。
光源は、徳利の中のようだった。
だというのに祠全体が隅々まで、煌々と照らし上げられている。
人間の使うライトではありえない現象だ。結衣は目を瞑り、手をかざして影を作る。
そうしながらも、どこか懐かしい感覚に見舞われていた。暖かく、包み込まれるような安心感がある。
(……あれ、この感覚どこかで)
たしか幼い頃、化け妖に襲われた時だ。
あの時も今のような光が突然目の前に現れたのだった。
まさかあの時助けてくれたのは、邪神だったのだろうか。
「……あれ、なにこれ?」
思っていたら、手に木札を握っていた。全く預かり知らぬものだ。
「木霊の妖よ。望み通り、霊仙山に行くがよい。結衣、それが入山証の代わりになる。外の河辺で、わしに代わり、祈りを捧げてやってくれぬか」
「えっ、行かせてくれるんだ?」
結衣は、思わず素っ頓狂な声を上げていた。