♢
気がかりなことは多くとも、それで仕事を放棄するわけにはいかなかった。
神社の一日は、基本的には同じ流れの繰り返しだ。
だからといって、気をたゆませてはいけない。神殿の扉を開けてから閉めるまで、いやそれ以外の時間さえも、神に仕える者としての大事な業務のうちである。
本来は、身も心も落ち着けて臨む必要があるのだけれど、
「結衣さん、大丈夫ですか。お疲れのようですけど」
「……あぁ、うん。ちょっと考え事というか」
「心中お察しします。まさか金庫が盗まれるとは思いませんからね」
あなたのことも気になるけど、と結衣は心の内で思う。
これだけ変わったことが起きれば、集中もしきれていなかった。
気づけば、熱中症対策にと家から持ってきたお茶のペットボトルだけが、空に近づいていた。
手持ち無沙汰で、ラベルのノリをぺらぺらめくる。
「そこの自販機で、お茶でも買いましょうか?」
恋時が、道の反対を指を指した。揺れかけるが、
「いいよ、ちょっともったいないし。別に喉が乾いているってわけでもないよ。むしろ潤しすぎちゃったもん。それに、もうつくでしょう」
結衣は、額の汗を拭い、険しくなってきた上り坂を見上げる。
太陽ははるか高く、燦々と下ろしてきていた。
街路樹に止まったセミの鳴き声が暑さを三倍増しにする。
近くの建築現場から地鎮祭の申し出を受け、向かっている最中だった。
地鎮祭とは平たくいえば、土地神様への挨拶だ。
新たに土地を利用したり、住居を構える際に、祭りを開き、安寧を願う。
神社は依頼されれば、その地に出向いて祭りを執り行うのだ。
「それにしても、ここら一帯全部山だったんだよね。こんな急な斜面に家を建てるなんて、人の技術はすごいよ」
「はは。それは思いますね。それといえば、祭りの道具を車が運んでくれるというのも、なかなか」
「まぁ全部今さらなのかな。今日の依頼もインターネットで受けてるわけだし」
妖だというのに、それを扱いこなす恋時は、もっとすごい。
そして、謎に二重、三重と包まれている。
結衣は、数ヶ月ぶりに袴衣装の懐に帰ってきたウサギの根付けを握りしめた。
たしかに、物はここにある。
では彼は、どこのなになのだろう。
全然別の存在だとして、なぜ八羽神社にきたのか。
彼の顔色を伺うけれど、やはり守りは固い。
外出用に黒く、短く見せた髪の毛には、汗ひとつ浮かんでいない。
ここは一つ、槍で刺すような思い切りがいりそうだ。
そうでもしないと、突破口が見つかりそうもない。
「ねぇ、伯人くんは、どこでパソコンとかって覚えたの」
できるだけ話の流れに沿うように、自然な雑談らしく、と心がけた。
「あぁ、それは人が使いこなすを見ていましたから」
「それって私のお父さん?」
「あの人はからっきしでしたでしょう」
正しい情報だ。このご時世というのに、いまだ携帯電話も持ち歩いてない。
連絡手段は、固定電話のみだ。
「もっと、色々な方のものを見て聴いているうちに、というのが正しいところでしょうか」
「…………へぇ。ちなみにそれは、さ。私の根付けとして学校で一緒に習ったから、とか?」
結衣としては、大きく踏み込んだつもりだった。
「…………それは答えられません。いわば、決まりになっていまして」
しかし、謎の奥行きは思うより深かったようだ。かつ、立ち入りを禁じられてしまった。
いっそ根付けを見せてしまおうかとも思ったが、無駄に切り札を浪費するだけになるような予感がして、やめる。
(決まり、ってなんの? 妖のルール?)
疑問を解決しにいったはずが、さらに新しいクエスチョンが生じてしまっていた。
それに結衣が混乱しかけていたら、目的地にたどり着いた。
既に依頼人の一家はお揃いのようだった。総出で、迎え入れられる。
正式な衣装は、輸送をお願いした車に積んでもらっていた。車の中で、正装にあたる「正服」へと衣をかえて出ていくと、
「おぉ、女性宮司って聞いてたけど、しっかりサマになるもんやね」
「七十年生きて、初めて見たな」
褒めそやされてしまった。
正装だけあって、普段の常服と比べれば、召し物が多い。
袴は変わらないが、上には、単、表着、唐衣と重ねて着るのだ。
正直暑いったらないが、泣き言はいえない。それに、色が多い分、華やかさは増す。
「やはり、宮司としての衣装がよくお似合いになりますね」
「これでも、八羽神社の宮司だからね。そういう伯人くんはいつも通りだね」
「まぁ俺はただの補佐ですから。巫女を務めるというのであれば望むところですよ? あの仕事は神職でなくともよいのでしょう?」
女装をすれば、なんなく扮することができそうだが、結衣は首を振った。
できれば、年末年始の人手によっぽど困った時の秘策ぐらいに留めておきたい。
「とかいって、そこまでするつもりないんでしょ」
「さて、それはどうだか。少なくとも、今日はやりませんよ。結衣さん、最後にこれを」
「ごまかされた気がする……」
結衣は、言いつつも、頭を恋時の方へ少し下げる。
雛祭りのお雛様が被っているものと同じ、冠を乗せてもらった。
釵子という、U字型の金具を土台としたものだ。心葉と呼ばれる造花が額の中央に立っており、その左右からは日陰糸が垂れている。
「……おぉ、宮司さんがお雛様になっとるで!」
「男の子がお内裏様になったら似合いそうやねぇ」
新しい人に会うたび、一度はカップルだと勘違いされている気がする。彼は妖なのだけれど。
なんだかやりにくいながら、結衣は恋時の手を借りて、事前に運び込んでもらっていた神棚や斎竹を設置していく。
最後に、酒や果物などをお供えしてもらったら、前準備の完成だ。
「これだけやれば、祟りとやらにも合わずに済むかねぇ」
施主、つまり依頼主である四十頃の男性が、写真に収めてから一つ唸る。
その言葉を拾ったらしい恋時が、少し眉間にシワを寄せた。
「祟り、ですか」
「あぁ、実はそうなんです。少し下の区域に住んでる知人が、この土地は昔、神木が立っていて、それがある時切り落とされた、と言っていて。土地を買ってから聞いたもので、放置しているのも気味悪いなと思いまして」
「なるほど、そんな噂が。でも大丈夫ですよ、うちの宮司は優秀なので。ぜひとも、お任せください」
調子のいいことばかり言うものだ。
竹谷未央の時に、誇大な表現をした反省は見られない。少し呆れつつも、結衣は土地全体を見渡す。
斜面になっているため、ここが山だったというのは分かるが、目に入るのは少し先に立つ一際大きな針葉樹くらいだ。
今の話はいつ頃のことなのだろう。本当なら、化け妖がいてもおかしくはないけど……。
むしろ、妖一匹いないようだ。
「では、今後も祟りが訪れないよう、これからお清めいたします」
粛々と、地鎮祭の儀式を執り行っていく。
基本的な流れは、普段のお祓いに近いが、特有の儀式もある。
地鎮の儀などは、その代表格だろう。
他の神事では参加者が受け身一方になることも多いが、この儀式では、
「えい、えい! ……ってこれでいいんですか? 宮司さん」
「はい。元気よくやっていただければ!」
忌鎌、忌桑、忌鍬といった土地にまつわる神具を使って、草刈り、盛り土を行ってもらう。
結衣が土をならしたあとに、鎮物という捧げ物を置けば、土地に眠る神様を鎮められると言う。
子供たちも興味津々といった様子で参加してくれて、
「お姉ちゃん、格好いい! 私も宮司さんになりたい!」
なんて声も聞かれた。
子どもだから区別がついていないだけなのだろう。
けれど、巫女ではなく宮司と言ってくれたのが、素直に嬉しかった。女性宮司は、最近でこそ増加傾向にあるが、まだまだ認知されていない。
最後に、神に捧げたお酒を下げて家人に振る舞う儀式「神酒拝戴」を終え、一時間ほどで全行程を終える。
施主は、その間中、祟りのことを気にしているようだった。
「神木が切られた、って言ってたけど、むしろ清らかな場所だったね」
「えぇ。噂話だったのでしょうか。八羽神社の方がよっぽど祟られてますね。お賽銭も、金庫も盗られるのですから」
全くその通りだ。
決して、笑顔で言うことではないと思うけれど。