彼女との生活が始まり数週間、僕はいまだにこれが正しい選択だったのか問い続けている。

「高嶺さん、おはよう」

「早瀬君は朝早いね、おはよう」

 午前四時、寝癖をつけた無防備な彼女のいつもより少し早い起床。
年頃の男女が一つ屋根の下で生活を共にする、それも数週間前に関係を築いた者同士。平凡を辿ってきた僕の人生にここまでのイレギュラーが舞い込むとは思ってもいなかった。

「高嶺さんはここでの生活は慣れた?」

「少しずつ慣れてきたよ」

 判断力の鈍くなっている時に突然の選択を迫ってしまったこともあり、彼女自身がこの生活に対してどのような感情を抱いているか正直怖かった。都心に住んでいる女子高生を山奥の小屋に連れてくるという一見事件のような状況。

「最近は……ちょっと楽しいかな」

 微かに聞こえたその声が、彼女の本音だったらいい。
彼女はよく笑い、陽気な雰囲気を纏っている。ただ僕にはそれが本当の彼女のようには見えなかった。不意に感じる影に拭いきれない違和感を覚えた。

『最期に私の曲を聞いてくれている人に出逢えてよかった、幸せな人生だね』

 あの時も、細めた目の奥に光なんてものは欠片すらなかった。
きっと僕はまだ本当の彼女を知らない。

「高嶺さんのご家族からの心配は大丈夫だった?」

「それなら問題ないよ、早瀬君こそ大丈夫だったの?」

 何かを知るきっかけになればと発した問いへの答えは、意味深な言葉だった。
『問題ない』聞き間違えか、考えすぎか。その一言がどうも気がかりだった。

「高嶺さん、小屋の周りにしか出たことなかったよね?朝食まで時間あるからちょっと散歩してくる?」

 少しだけ、ひとりで考える時間が欲しい。
彼女との関わり方を、彼女の本当を知る方法を、この生活の先にある何かを、今一度考えたかった。
彼女を見送り、止めていた火を付け卵を割る。
当然のように二人分の朝食をつくる、住む世界が違うと隔てていた『高嶺 咲夜』という存在が隣にいるという想像もしていなかった事実。

「似てる……」

 彼女の写真をみて不意に脳裏を過ったのは姉の姿だった。
裏側のわからない笑い方も不意に感じる影の濃さも、姉と重なる。ただ決定的に違うのは、彼女には全てが光に変わる瞬間が存在するということ。

「『無音』……」

 その正体を知ったあの日。数秒前まで狂気に満ちていた彼女の眼は、一瞬にして晴れた光を宿した。
吸い込まれ、引き寄せられるような瞳。全てに終わりを告げている人間とは思えない輝きがそこにはあった。
彼女自身が生きている瞬間を僕は確かにこの目で見た。

「彼女が『無音』で居続けるために……」

 きっとそれが今の彼女を生かす方法、ただその有効期限が切れたら……。『無音』という存在すらも諦め、縋る場所がなくなった時、彼女は何を願うのだろう。
新たな音楽か、自己表現の空間か、それを受け止める対象か。永遠ではない存在に身を委ねることほど不確かで危険なことはない。

「……この生活もいつかは」

 未成年の男女による計画のない共同生活が長く続くとは考え難い。
やりこなせる部分もある反面、金銭面やその他諸問題によってのトラブルはきっと避けられない。もし彼女が、いつか終わりが来るこの生活に居場所を見出しているとしたら、僕がその居場所を奪ってしまうことになる。彼女が信じて掴んだ手を、振り払うことになる。

「そうなる前に何ができる……?」

 彼女と関わりを持ったのは、ほんの数週間前。
彼女自身のことも、彼女を取り巻く環境すら知らない僕が、唯一通じ合った『叫び』直接答えを訊かずとも繋がった本当の想い。
もう一度、あの曲を思い出す。最後に僕が感じ取った叫びは『光を求める叫び』それが絶望の底で、生きようと足掻く彼女の叫び。
そうだ、だから僕は……

「ただいま」

 不思議そうに台所を覗く彼女に手を振り出迎える。

「高嶺さん!タイミングちょうどいい!おかえりなさい!」

 小さな歩幅で洗面所へ向かう彼女の背を見る。幼さの残る姿に、また一つ彼女の新たな側面を知った。席についた彼女の前に朝食を運ぶ。

「早瀬君のつくるご飯、やっぱりすごく美味しいね」

 そう無邪気に呟く彼女が愛おしい、恋とは違うこの感情。
少しずつ進んでいく僕たちの未来に、本当の彼女でいられる時間が溢れていきますように、僕が貴女の光となれますように。
祈るように合わせた手を解き、少し冷めた卵焼きを頬張る。