隣の席から見る姿とは違う雰囲気を纏った彼女に言葉を詰まらせる。

「高嶺さん、どうしてそこに……」

「大体想像通りだと思うよ?小説とかドラマで見たことあるシーンでしょ、こんなの」

 フェンスの外側に立つ彼女に野暮なことを訊いてしまった。
奇妙な程に余裕のある彼女の返答には、計り知れない狂気が含まれている。

「想像はつく……でも」

 くるりと振り返り、彼女は僕と目を合わせた。何を見ているのかはわからない、狂気を詰め込み生気を失った黒い眼。

「やっぱり人生の最期くらい、面と向かって話すのが筋だよね」

 僕の予想が確信に変わった。

「早瀬君はどうしてここに来たの?」

 この後に及んで『作詞の材料探しに』なんて呑気なことを言うわけにはいかない。

「ちょっと息抜きをしたくて」

「そっか、まぁ非日常的な空間をお楽しみくださいよ」

 これが最期の余裕なのか、それとも恐怖を霞ませる戯けなのか。
フェンスを潜り、彼女は僕の足元にしゃがんだ。

「これ落ちたよ……って、この曲」

 『無音』の曲が自動再生されたままの画面。

「早瀬君はこの曲をよく聴くの?」

「どうして……?」

 『無音』の曲には映像も題名もない。初めて見た人が『音楽』と認識するのには難しすぎる。

「どうして曲ってわかるんですか……?」

「なんとなく聴くなら音楽かなって思ったから、その人の名前なんていうの?あの世で聴きたいから教えてくれるかな」

「『無音』っていうアーティストです」

 数秒の沈黙、立ち上がる彼女の表情は疑ってしまうほど晴れやかだった。

「最期にいいこと教えてあげるよ」

「この『無音』って人、私なんだ」

 一瞬だけ脳裏を過ぎった違和感が繋がり糸を張る。ただその衝撃に放たれた言葉を上手に呑み込めない自分がいた。

「高嶺さんが……?」

「最期に私の曲を聞いてくれている人に出逢えてよかった、幸せな人生だね」

「僕、高嶺さんの創る曲が本当に大好きなんです」

「お世辞だとしても嬉しいよ、ありがとう」

 こんな安直で稚拙な言葉で引き止められると、少しでも希望を抱いた自分が怖い。

「早瀬君」

「……はい」

「話し相手になってくれてありがとね、何かあると怪しまれちゃうから先に校舎に戻っててよ」

「それって……」

 無言で頷き、冷たく強張った手が僕の手を握る。

「高嶺さんは、何に苦しんで、何から逃げたいんですか」

 無神経な問いなのかもしれない、ただ全てを終わらせることを望んでいる人を目の前に見過ごすわけにはいかなかった。きっとこれは無駄な正義感。

「苦しんでいるというより、諦めてる」

「諦め……?」

「どれだけ願っても私がここにいる理由を見つけられる日は来なかったから」

 迷う間もなく告げられた答えに戸惑う。逃げ場として向けた彼女の眼は未だ黒いままだった。

「最期なら……早瀬君と言葉も選ばない話がしたい」

 そう口を開いたのは彼女だった。言葉を選ぶ必要がないのなら、僕の中にある無神経な問いを投げかけることも許されるのかもしれない。

「高嶺さんは、僕なんかよりずっと恵まれているように見える」

 無神経な疑問は、愚鈍な呟きとなって口から漏れた。恥ずかしさすら覚えてしまう言葉を彼女は逃さず拾い上げた。できることなら、そのまま捨ててほしかった。

「早瀬君の目に、私はどう映っているの?」

 誰にも劣ることのない成績と容姿、謙虚さと優しさを持ち合わせた秀でた人間性の持ち主。いくら記憶を遡っても、僕が出逢った人の中で、どの観点においても彼女に勝る者はいない。常に完璧を生きている存在。
きっと今並べた言葉の大半は、僕が交わした微量の会話からの想像で、そこから創り上げた偶像、酷く無責任な言葉だと自覚している。

「随分と気を遣ってくれたみたいだね」

「これが僕からみた高嶺さんなので」

「上手に嘘をつける性格でよかった、早瀬君も私の嘘を信じてくれてありがとう」

 確かに僕が見ていた『高嶺 咲夜』はほんの一部。嘘をついていたのならば、その嘘を暴けるほど彼女自身を見ていたわけではない。
ただ、『無音』の音楽に心の底から救われ、それを愛していたことに間違いはない。

「それなら『無音』も全て嘘だったんですか?」

 彼女の動作が止まる。狂気に満ちていた彼女の眼に、絶望を感じた。
今、僕の目の前に立っているのは『高嶺 咲夜』ではなく『無音』だと気づく。

「『無音』として創る音楽は私に残された最後の本当だった」

「最後の本当……?」

「全てを隠して、本当の私を生かしていた場所が『無音』だった」

「新曲」

 不意に『無音』の新曲が頭を過ぎる。浮かんだのは旋律ではなく、聞こえるはずのない絶望の叫び。その叫びが彼女の本心なのだとしたら。

「『無音』がこの曲に込めた想い……教えてほしいです」

「最期の希望を託す気持ちだった」

「最期の希望……ですか」

「あの曲を創れば何か答えが見つかると思ってた、結局何も見つからなくて空っぽなままだった」

 僕が感じていた存在する理由を探し求めている絶望の『叫び』は間違っていなかったらしい。その感覚に確かに救われた僕がいることも証明された。
住んでいる世界が違うと隔てていた彼女と僕との間に、通じ合える何かがあるのかもしれない。

「僕は、その曲に救われました」

「救われた……?」

「歌詞がないはずの旋律に、確かな叫びが聴こえてくるんです」

「私の曲にそんな力はないよ」

「じゃあどうした曲を創り続けているんですか?」

 歌詞も映像もない曲の概要欄にはいつも『貴方を救うため』という言葉だけが添えられている。

「私が曲を創る理由……」

「概要欄の言葉には、何が込められていたんですか」

「誰かを救った感覚で、私自身の存在を肯定したかった。私を私として覚えていてほしかった」

 息を詰まらせながら語る彼女は、見ていられないほど痛々しく、弱々しかった。

「それが高嶺さんの望みなら、全てを終わらせるのは望みを叶えてからにしませんか」

「叶える……?」

 僕は今、無責任な言葉で彼女の人生を変えてしまおうとしている。

『僕と最期の曲を創る旅に出ませんか?』

 彼女が嘘を塗り続けたことと同じように、僕自身もずっと本当から目を逸らしてきた。
この選択が正解か不正解か、今の僕にはわからないけれど何かが変わるという結果だけは明白だった。
交わるはずのなかった縁が重なる。

「高嶺さんの人生を左右するような決断を僕が下す権利はないけど……このままじゃ」

「早瀬君に預けたい」

 僕の言葉を遮るように放たれた言葉は鋭かった。

「僕に……?」

「私ひとりでは抜け出せなかったから、初めて本当の私を『無音』を愛してくれた早瀬君になら託したいと思える」

 彼女自身の傷も痛みも、僕にはまだわからないけれど確かに繋がった『叫び』を辿ってみようと思う。
思っているほど長くないふたりの残り時間を、僕は一瞬も無駄にしない。