夕方、買い物に出かけるからと留守番を任された。
彼のいない空間はやけに広く、どこか空気すらも悲しかった。

「失礼します……」

 普段は踏み入ることのできない彼の部屋。
整頓された部屋の中に紙が敷き詰められた机、覗くと歌詞の没案やインスピレーションを掻き立てるための写真が積み重ねられていた。

「……ここで毎日作業してるんだ」

 共同作品であっても過程を共有するだけで、作業自体は各々で行なっている。
それが作品に私情と感情を持ち込みすぎないために決めた私達の最初のきまり。
彼が帰ってくるのは今から一時間程後、最近は作曲も手詰まりで迷走しつつある。自分が何を表現したいか、誰に何を伝えたいかが正直わからない。
後ろめたい気持ちはあるけれど、何かが生まれればという願いを込めて彼の机に近づく。

「……」

 重ねられた紙を慎重に剥がしていく。
『無音』の曲の感想、そこから得た感情が書き留められたメモ。私達の生活を撮り溜めたアルバム。誰かからの手紙と新品の便箋。

「これって……」

 分厚く、先の方が茶色く変色している一冊のノート、表紙には『歌詞』との記載。彼の心を見てしまうようで一瞬、開くのを躊躇った。

「早瀬君、みるね」

 罪滅ぼし程度に空間に断りを入れる、返事を待つわけもなくノートを開いた。

「……」

 声を発することもなくページをめくっていく、完成済みの詞、お蔵入りになった詞、未完成の詞。全てに形の違う彼がいた。
ページをめくるたびに新しい『早瀬 空』に出逢った。
瞬間を捉えた感情が言葉になって紡がれていく、繊細な感性が続いていく。

「この歌詞……」

 彼がこの生活の初めに教えてくれた言葉の歌詞、私が彼に『無音』の曲を託そうと思えたきっかけの言葉。
彼の言葉どこか脆く、弱い。ただその脆さと弱さは誰かを救い護る強さがある。そして私は護られたひとり。

『何かを描き、色付けていくことが生きること』

『願うように、祈るように、貴方との日々を噛み締め刻んでいく』

『光を求めながら瞬間を繋ぎ止め、貴女の手を離さぬように』

 誰かとの未来を描くように綴られる彼の言葉、その未来の欠片に私の姿があったらいいと夢見心地な妄想を馳せる。

「何これ……」

 意図せず動悸がする、息がしづらい。手が震えて、目の辺りが熱い。
何が起きているか理解が追いつかないけれど、きっと恐怖心によるものではない。私の心をもっと動かす何かとの対面。

「早瀬君の詞だ……」

 きっと触れたことのない暖かさに困惑したのだ。
独りで何かを償い、求め、埋めるように曲を創ってきた私が出逢うことのなかった温度。透明でまっすぐな誰かの心に直接届く言葉が私の心にも痛いほど刺さった。
早くなる息を落ち着かせながら言葉を追っていく、彼が帰ってくるまでにその全てを吸い込みたい。そしてその詞に相応しい曲を創りたい。
どこか線の濁ってみえていた私の夢が今はっきりとみえた。

「早瀬君、ありがとう」

 リビングに戻り、彼の帰りを待つ。
もう一度最初から曲を創り直そう、暖かく誰かを、彼を包み込めるようなそんな曲を私は紡ぎたい。