月華の絃~今宵、水龍の旦那様と運命の契りを~


 中心の本紫から階調を上げ青く変化するその光彩は、その空間を丸ごと浮かび上がらせている。硝子屑(がらすくず)を散らしたように水面に反射する花明かりは、まるで銀湾をそのまま移したよう。水面に弾ける満天の星は、ただひたすらに美しい。

「種を植えて、もう十年になるか。これだけの星霜(せいそう)を経てようやく根づいてきたところだが、まだ(つぼみ)のものも多くある。もう数年経てばさらに増えるはずだ」

「えっ、士琉さまがお育てになっているのですか?」

 士琉は穏やかな面持ちで頷く。

「ずいぶん昔に、弓彦から絃は千桔梗が好きだと聞いてな。しかし、千桔梗は月代にしか自生しない月光花だろう? どうしたものかと考えていたら、弓彦が種を数粒譲ってくれたんだ。育てられるものなら育ててみろと、だいぶ挑戦的にだが」

「兄さまが……」

「月華の周辺で常に新鮮な水源が確保できるのは限られるゆえ、諸々を吟味して場所はここに決めた。多少通うのは大変だが、数粒しかない種を育てるとなると絶対に失敗はできなかったからな。結果的にはいい選択をしたと思っている」

 それでも容易いことではない、と絃は絶句してしまう。
 千桔梗は普通の桔梗ではない。一度咲いてしまえば、むこう千年は枯れることがないと言われている特異な月光花だ。
 新鮮で澄み切った水源を好み、適度な月明かりを栄養分に、途方もなく長い時間をかけて花を咲かせる。
 しかしその間、わすかでも手入れを怠れば花どころか蕾すらもつかないうえ、運悪く強風などに晒されれば刹那に枯れてしまう繊細な花なのだ。
 千桔梗の郷はそもそも土壌からして特殊らしく、千桔梗のような花でも育ちやすいと言われているけれど、外界はそうではない。悪環境のなか、千桔梗をここまで育てたということは、それほど士琉が大切に向き合ってきた証拠だった。

「……十年前? と、言いました?」

 一時は聞き逃したものの、ふと引っかかって、絃は怪訝に首を傾げる。
 それに士琉はぎくりとしたように身体を強張らせてから、なにかを迷うように視線を巡らせ、やがて口許を片手で覆いながら「頃合いか」と呟く。
 青白く幻想が広がる宵のなか、士琉の瑠璃の瞳が戸惑う絃を捉えた。
 揺れる瞳はまるで子犬のようで、いつもの泰然とした余裕はない。

 だが、なぜなのだろう。
 その不安定な様を、絃はどこかで見たことがあるような気がした。

「絃。俺は、十年前に一度、君に会ったことがあるんだ」

「……え?」

「千桔梗の悪夢の日だ。──俺はあの日、あの時間、千桔梗にいた」

 その瞬間、きんと甲高い耳鳴りがして、ぐらりと激しい眩暈に襲われた。
 刹那、脳裏に蘇ったのは大量の妖魔に囲まれた混沌とした地獄。
 道の先で妖魔が群がるのは、血濡れの母。
 目の前には、絃を護るために怪我を負い倒れたお鈴と燈矢。

 赤、赤、赤。徐々に、しかし確実に広がるそれが、絃へ迫る。

 ぴちゃん、と音がした。

(嫌……っ)

 はく、と呼吸が詰まる。膝から地面へ崩れ落ちそうになった絃を、士琉がとっさに支えてくれた。そのまま自分の方へかき寄せるように強く抱きしめられる。

「落ち着け。大丈夫だ。俺がいる」

「し、りゅう、さま」

「ああ……ずっと、言うべきか悩んでいたんだ。絃にとっては思い出したくもない記憶だろうし、会ったと言っても、君の記憶にはないことだからな」

 士琉は絃を抱え、泉のそばに鎮座していた大岩の上へと移動した。腕を伸ばして花開いた千桔梗を何輪か摘むと、腿の上に座らせた絃にそっと持たせてくれる。

 か細い呼吸を繰り返していた絃は、その変わらぬ光に意識を引き寄せられた。

「あの日、俺は次期当主同士の顔合わせで千桔梗を訪れていた。妖魔による侵攻があった時間帯は郷の方で加戦していたから、絃と出会ったのはそのあとだ。弓彦と共に郷の妖魔を片づけ、裏山へ向かったとき──そこに、君がいた」

「わたし、が?」

「ああ。大量の妖魔に囲まれ、地面にへたり込んでいた。絃の母君はすでに事切れたあとで、君と手を繋いでいたお鈴も、怪我を負った燈矢も意識がなかった。絃は完全に無防備な状態で──しかし、怪我ひとつなく、そこにいた」

 確かにそうだ。絃は千桔梗の悪夢で、たったひとり無傷だった。
 途中から記憶がすべて消えてしまっているせいで、なぜ怪我を負わずにいられたのかは定かでない。あのときのことを周囲に訊く勇気はなかったし、弓彦や燈矢も極力触れないようにしてくれていたから、真相を知る機会がなかったのだ。
 ゆえに絃は、千桔梗の悪夢がどういう形で収束を迎えたのか知らないのである。
 少なくとも憶えている限りでは、絶体絶命の危機に陥っていたはずなのだが。

「では、あの妖魔たち、は……士琉さまが、倒してくださったのですか?」

 途切れ途切れに尋ねると、士琉は小さく首を振った。

「俺じゃない。君だ」

「え……」

「絃が倒したんだ。俺が君を視認したその瞬間、霊力を暴発させてな」

 がつん、と頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。思考が完全に停止する一方で、自分の身体に流れる霊力がじわりと熱を持ったような気がした。
 ずっとずっと奥深く。絃自身ですら感知できない場所で、記憶が疼く。
 ぴちゃん、と音がしていた。
 視界が真白に染まって、全身が燃えるように熱くなって、それから。

(もう、なにもかも、どうでもよくなって……わたし、消えたいって思った)

 どうにかしたい。どうでもいい。どうにかしなくちゃ。どうにもならない。ありとあらゆる感情が錯綜して、心がついていかなくて、最後には壊れてしまった。
 ならば、確かにあのとき絃は、霊力を暴発させたのかもしれない。
 あの頃の絃は、今より己の力を制御できていなかったから。
 力をすべて外に放出することでしか心身を保てないと、無意識下で自己防衛機能が発動したのなら、おおいに可能性はある。

「わたしが、あの場の妖魔をすべて祓った……?」

「ああ。だが祓ったあと、絃はもうほとんど心を失っているようで……。とてもではないが、手放しで喜べる状況ではなくてな。そのまま自害しそうだった君をどうこの世に引き止めるかで、当時の俺は頭がいっぱいだったのを憶えている」

 記憶をなぞるように言いながら、士琉が絃の頭を抱いた。
 その感触が、ふたたび絃のなかの琴線に触れた。

『いつか』

 散りばめられた欠片を追うように思い出したのは、真白に染まった世界のなかで与えられた一筋の光明。否、きっとそのときは希望だなんて思えなかったけれど、問答無用で心の奥底に突き立てられた約束は、今も幼い絃が抱えている。

『いつか必ず、迎えに行く』

 かつての記憶のなかで、まだ少年の姿であった士琉の声が再生された。
 そうして、かちりと欠片が在るべき場所へ嵌まる。心のあちこちでばらばらに仕舞われていたものたちが導かれるように一箇所に集まり、思いがけず繋がった。

「あ、れ……?」

「どうした」

 士琉は千桔梗の悪夢の日、絃に出逢い、とある約束を交わした。
 そして十年前と言えば、もうひとつ。
 千桔梗の悪夢を経て結界に引きこもり始めた頃の絃にとっては、忘れられない出来事があった時期だ。

 絃の宝物──。毎月一通、欠かさず送られてきていた、あの匿名の文である。

(……ああ、そっか。そういうことだったのね)

 すとんと腑に落ちると同時、急激に呼吸がしやすくなった気がした。詰まりに詰まって滞っていたものが、ようやく抜け道を見つけて一気に流れ出たような。

「やっぱり……士琉さま、だったのですね」

「ん?」

「わたしに、文を送ってくれていたでしょう? 十年間、ずっと」

 士琉が双眸を(みは)り、しかしすぐに気恥ずかしそうな顔で苦笑してみせる。
 ばれたかと言わんばかりに首を傾げられ、絃は小さく笑って返した。
 さきほどまで支配されていた過去の記憶からは、不思議と解放されていた。気づけばあれだけ激しく訴えかけてきていた痛みも引いている。

『ようやく約束を果たせる』

 最後に送られてきた文に綴られていた一文。
 ずっと意味がわからなかったけれど、この約束は十年前に幼い絃が士琉と交わした約束のことだったのだ。
 そして、いつか必ず迎えにという言葉通り、士琉は絃を迎えに来てくれた。

「挟まれていた千桔梗の花弁は、ここで育てていた千桔梗ですか?」

「ああ」

 絃の手のなかでほろんと揺れた青光は、柔らかく月桂に反応していた。
 一度蕾を咲かせた千桔梗は、たとえ摘んでも枯れることはない。
 そのため、千桔梗の花弁をお守りとして持っておく月代の民もいるという。
 失くさないように、と大切に仕舞っていたけれど、絃も持ち歩くようにしてもいいかもしれない。士琉が絃を想って育ててくれた千桔梗だと思えばそれ以上に特別なものはないし、肌身離さず持っていた方が、ご利益はあるような気がするから。

「っ……絃? なぜ泣くんだ。やはり、なにか嫌だったか?」

 ぽとり、ぽとりと。
 雨粒のように落ちる涙を、士琉が指先で拭ってくれた。

(ああ、もう本当に)

 耐えようと思ったのに、やはりどうしたって零れてしまう。士琉が絃を大切に想ってくれていることを実感するたびに、心がぎしぎしと(きし)んだ音を立てるのだ。

「嫌じゃ、ないです。でも、わたし……っ! 士琉さまがこんなに、わたしのことを考えて想い続けてくれていたのに、憶えてもいなかった……っ」

「当然だろう? あのときの絃は、完全に自我を失っていたしな。その後はすぐに気絶してしまったし、目覚めた絃が記憶を失っていることも早いうちに弓彦から聞いていた。だから、絃が俺を──あの約束を憶えていないのは百も承知だったさ」

 士琉は困ったような顔で笑みを滲ませる。

「俺が勝手にやったことだからな。絃はなにも気にしなくていい」

「っ……どうして、そんな」

 こんなときでさえ優しいから、絃はどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
 遠く離れたこの地で、曖昧に交わした約束を片時も忘れることなく十年。
 たった一度の邂逅(かいこう)。自分を憶えていない相手を心に留めておくだけですら難しいのに、そんなにも長い歳月を士琉は一途に想い続けてくれたというのだろうか。

「もう、わかりません……。どうして士琉さまは、そんなにもわたしを想ってくださるのですか……っ。わたしなんて、生きている価値もな──」

「絃」

 言葉を遮り、片手で口を覆うように塞がれた。止まらない涙を流しながらも驚いて士琉を見ると、士琉は強い痛みを堪えるような表情で顔を歪ませている。

「それ以上はだめだ。命を蔑ろにするのは、いくら俺でも許しきれない。また同じことを言おうとすれば、次はたとえ絃が嫌がってでも口で塞がせてもらうぞ」

「し、士琉さま……?」

「頼む……絃の命は、俺がもらったんだ。もっと大事にしてくれ」

 懇願するように抱き竦められて、喉が震えた。
 誰より、なにより強い士琉の身体が震えていることに気がついた絃は、おずおずと彼の背中へ手を回す。
 躊躇いがちに撫でると、びくりと士琉の身体が震えた。けれどすぐに弛緩して、士琉は絃の肩口に顔を埋めてくる。吐息が皮膚を掠めて、絃は身じろぎした。

「あ、の……ごめんなさい。言い方がよくありませんでした、よね」

 なんと伝えたらいいのだろう。
 なんと言葉にしたら、正しく伝わるのだろう。
 考えたところで、このぐちゃぐちゃの頭では正解など導き出せそうもない。

「士琉さまが、あまりにも優しいから……。どうしてわたしなんかのためにこんなにもって思ってしまうのです。わたしは、あなたになにも返せていないのに」

「……そんなことはない。俺は、むしろずっと、絃に救われてるんだ。十年前の約束だって、俺にとっては生きる理由そのものになっていたんだから」

 深く息を吐きながら頭を上げた士琉は、絃と額を合わせた。
 こつん、と触れ合った部分から互いの熱が交わり溶け合っていく。

(ああ……温かい)

 間近で絡み合う瞳はどちらも濡れそぼっていた。寂然(じゃくねん)とした夜陰のなかで千桔梗の光を取り込み揺れるそれは、しかし決して哀しい色ではない。

「幼くして捨てられ、本当の両親の顔も憶えていない。そんな俺を拾ってくれた父上へ恩を返すため、冷泉の名を汚さぬように身を捧げてきた。だが、だからこそ……当時の俺は人を愛することができなかったんだ」

「士琉さまが……?」

「ああ。冷泉のためにならないことに興味はなく、常に孤独だった。いや……孤独であらなければならないとすら思っていたかもしれない」

 ふ、と士琉の声音にわずかな自嘲が交ざる。

「けれど、あの日……俺は生まれて初めて、誰かを心の底から救いたいと、護りたいと思った。俺と同じ孤独を纏う君だったから、君とならその孤独を分かち合えるんじゃないかと……。今思えば、たいそう身勝手な話だが」

 そうして士琉は、絃が捨てようとしていた命をもらったのだという。

(まさか、あのとき……そんなことが)

 だが、迎えに行くという約束を果たすためには、さまざまな条件が必要だった。五大名家の者同士、ふたりが繋がるにはあまりにも障害が多かったらしい。
 とりわけ月代は閉鎖的な一族で、外界を極力受けつけない環境にある。
 絃は千桔梗の悪夢後すぐに結界にこもってしまったし、士琉も多忙な継叉特務隊に入隊が決まったりと、容易に迎えに行くことができない状況ができてしまっていた。
 それゆえ、士琉は考えた。
 己の立場を鑑みたうえで導き出せる、絃を救う方法の最適解を。
 結果、辿り着いたのがこの政略結婚だったそうだ。

「初めて父上にわがままを言ったんだ。自分の想いを伝えて、双方における利点を並べて力説し、この政略結婚がどれだけ可能性のあるものか訴えた。結局父上にはすべて見抜かれていたようだが、まあだからこそ俺の提案を受け入れてくれたんだろう」

「で、では、この結婚を先に切り出したのは、桂樹さまではなく」

「ああ、俺だ。……俺が望んで、周囲が納得する政略結婚の形に仕立て上げた。うまくいかなければ(さら)ってしまおうと思っていたから、僥倖だったな」

 衝撃の事実を打ち明けられた絃は、返す言葉もなく絶句する。
 てっきり桂樹が冷泉の未来を思って提案した縁談だと思い込んでいたのに、最初から士琉によって図られ運ばれたものであったなんて。

「正直、形なんぞどうでもいいんだがな。ただ、そばにいてほしい。絃がいてくれさえすれば、俺はこれからも生きてゆけるし、幸せだから」

 以前も告げられた想いに、絃はきゅっと唇を引き結ぶ。

「想う時間が増えれば増えるほど、俺のなかで絃の存在は大きくなっていった。よもや引き返せないところにいる。だから、先に謝らせてくれ。すまない」

「ど、どうして謝る必要が……?」

「手放してやれないからだ。なにより大切で仕方がない君が妻になって、いつでも手が届くようになってしまったら……おそらく俺は自制が利かなくなる」

 どこか熱をはらんだ瑠璃の瞳のなかに、戸惑う自分が映っていた。
 早鐘のように鳴る鼓動の音が全身に波打つように広がって、士琉の声以外の音が聞こえなくなってしまう。

「──愛している。どれだけ言葉を尽くそうと足りないくらいに、君を」

 まるで殴られたのかと思うほど、真っ直ぐに想いをぶつけられる。
 合わさっていた部分がずれ、頬、瞼を辿り、やがて額に慈しむような優しい口づけが捧げられた。首から上を真っ赤に染めた絃は、いよいよ恥じらいの頂点を迎え、首を竦めながら俯く。
 その反応に薄く笑った士琉は、絃を腕に抱えておもむろに立ち上がった。

「絃にそのままの気持ちを返してほしいとは言わない。だが俺は、もう君がそばにいない生活なんて考えられないし、考えたくないんだ。わがままだと(ののし)ってくれていいから、俺の想いは知っておいてほしい」

「し、士琉さまはやっぱり、ずるいです。困るとわかって仰っているでしょう?」

「知らなかったか? 俺は存外、悪い男だぞ」

 いたずらな言葉とは裏腹に、士琉は表情を和らげた。

(たとえ士琉さまが本当に悪い男でも……わたしは、きっと惹かれてしまう)

 淡い光に縁取られる容貌はこんなときでも美しくて、思わず目が奪われる。
 たまゆらに交錯していた思いが溶け合い、ひとつになっていくような気がした。
 だがそのとき、ふいに絃は士琉の背後に広がる空の違和感に気づいた。

「え……!?」

「どうした?」

 一度は見間違いかと己の目を疑ったが、何度ぱちぱちと瞬きをしてもそれは変わらない。むしろそのあいだにも、その暗雲は広がっていく。

「士琉さま、煙が……っ」

 こんな森の奥地でも視界に入るくらい、空高く。
 星の瞬きが掠れる夜闇の下で、ただならぬ黒い煙が立ちのぼっていた。空の色と同化していたせいで気づくのが遅れたが、方向的には間違いなく月華の方角である。
 絃の指さす方を振り返った士琉は、途端に甘さをかき消し、両目を眇めた。

「火事か……!」

 刹那のあいだに空気が張り詰める。
 気のせいか、その場の千桔梗の光すら明度を落としたように感じられた。全身がぞっと粟立つのを感じながら、絃は不安を向ける。

「ま、また例の憑魔でしょうか?」

「わからんが、とにかく戻らねば。すまない、本当はもう少しゆっくりしていきたかったんだが」

「わたしのことは大丈夫ですから、早く行きましょう……!」

 士琉は頷くや否や、絃を抱えたまま駆け出した。

「悪いが、少し飛ばすぞ。しっかり掴まっていてくれ」

「はいっ」

 風を斬り裂くように森を突っ切る。強く地面を踏みしめ飛び上がった士琉は、枝から枝へと足場を変えながら凄まじい速さで月華へ舞い戻っていた。

(なにかしら、すごく、嫌な感じ……っ)

 言葉にならないよからぬ予感が、胸中をいっぱいに支配していた。

 ──どうかこの予感が当たりませんように。

 そう祈りながら、絃は必死に士琉の身体に抱きついたのだった。



捌幕 火中の覚悟


 ひと時の逢瀬から月華に舞い戻った絃たちを待ち受けていたのは、あまりに信じがたい光景だった。それを視認した瞬間、絃は思わず口に手を当て、声にならない悲鳴を上げてしまう。

「嘘……っ!」

「まさか、うちだとは……」

 火の手が上がっていたのは、あろうことか冷泉本家の屋敷だったのだ。
 それも小火程度の話ではない。屋敷の東側を中心に、生活居住区である部分は燃え盛る炎が覆い始めている。離れや別棟、蔵は無事なようだ。
 だが、玄関先で丁寧に管理されていた盆栽や主木として庭園を彩っていた松は、すでに火が移っていた。
 深夜とは思えぬ喧騒であるのは、群衆のせいであろう。
 集まった月華の民たちが、口々に心配の声を上げているのだ。
 軍士たちが二次被害にならないよう規制を敷いているようだが、どうも手が回っていないのか、全体的に抑えきれていないように見受けられる。

「なるほど、やたら人が多いのは十五夜市があったせいか」

(十五夜市?)

 士琉の苦い呟きに、はっとする。
 そういえば以前、十五夜の際には十五夜市という名の祭りが催されるのだと士琉が零していたのを今さら思い出した。

 今日は満月。そして十五夜だ。月華を出る際もやたら通りが賑わっていることは感じていたけれど、祭りが開催されていたらしい。

 ようするにこの群衆は、そこから流れてきている人々なのだろう。
 見る限り、継叉特務隊だけでなく各署の軍士が出動しているようだった。
 明らかに軍士の数は多い。だが、なぜだろう。これだけいるのに、必要箇所に人手が足りていない。全体的に纏まりがなく、散在した印象を受ける。まるで個人が目についたことに手を出しているようで、各隊の統率感がいっさいないのだ。
 群衆を飛び越えた先、敷かれた規制の内側かつ火の手が及ばないぎりぎりの場所に降ろされた絃は、あらゆる懸念に逡巡しながらも、周囲へ目を走らせる。

(お鈴、燈矢……どこ? 桂樹さまも、もう避難してるわよね?)

 見回して必死に姿を捜すも、だめだ。見知った顔の屋敷の女中や奉公人はちらほら発見するけれど、肝心の彼らの姿が見つけられない。少なくとも桂樹は最優先で避難させられるはずだが、すでにべつの場所に移動しているのだろうか。

「絃、悪いがここにいてくれ。俺は状況の確認を──」

「隊長!」

 形容しがたい不安を募らせていると、絃たちに誰かが駆け寄ってきた。
 ふたり揃ってそちらを向けば、血相を変えて走ってくる者がひとり。
 海成だった。

「よかった、ご無事でしたか。おふたりの安否が確認できていなかったので、まだなかに残っているのかと……」

「すまない、少し外に出ていた。状況は」

「報告いたします。半刻ほど前、冷泉本家から火の手が上がっていると民から通報がありました。その時点で前例より被害規模は拡大するだろうと判断し、我々継特の常駐組、夜半討伐組をはじめ、通常部隊からは第二、第三、他署からは手の空いている軍士総員で出動。現在、鎮火作業と民の誘導を優先しています」

 海成はそこまでひと息に述べると、一呼吸置いて、人だかりの方を見遣る。

「しかし見てわかる通り、十五夜市の影響で規制が敷かれているために、群衆の避難まで追いついていません。軍士も総数を優先したせいで全体を把握できておらず、仮部隊を構成する間もなかったので統率は皆無。通常部隊の方は居合わせた氣仙さんがどうにか纏めておりますが、それでも全体がばらばらなせいで大変非効率です」

 海成の口調は冷静だが、どこか苛立ちが垣間見えた。

「落ち着け。本家の者たちはどうなってる? 全員避難できているか」

「いえ、それが……屋敷の者たちに確認を行っていますが、ご当主をはじめ、数名の姿が確認できておらず。おそらくは、まだ屋敷のなかだと思われます」

 まだ屋敷のなか。
 その言葉に戦慄し、絃はなかば反射的に海成に縋った。

「お鈴、お鈴は見ておりませんか? わたしの弟も姿が見えなくて……っ」

「そ、そちらに関してもご報告いたします。ついさきほど、お鈴さんが奥さまの姿が見えないと屋敷に飛び込まれまして」

「屋敷に……!?」

「はい。そのあとを千隼副隊長が追いかけられましたが、どちらもまだ帰還しておりません。奥さまの弟君に関しても、まだ確認は取れていないかと思われます」

 海成は火の海となりつつある屋敷を見ながら、沈痛な表情で答えた。

(嘘でしょう……っ)

 全身から血の気が引いた。甲高い耳鳴りに襲われ、ぐわんぐわんと激しい眩暈に襲われる。視界が波打つ炎に染まり、一瞬すべての音が遠くなった。

「だめ……そんなの、だめよ……っ」

「絃!」

 思わず屋敷に向かって走り出そうとした絃の腕を掴んだのは士琉だ。
 狼狽えながら振り返ると、士琉はこれまで見たことがないほどの怖い面持ちで首を横に振る。だめだ、という意味だとわかった瞬間、絃はくしゃりと顔を歪めた。

「おねが……お願いします、離して……っ」

「無理だ。離せば飛び込むつもりだろう」

「だって、お鈴がなかにいるのです! 燈矢も、桂樹さまも、千隼さんも……っ!」

 たとえどんなに危険だったとしても、行かなければならない。
 絃を捜して屋敷に戻ったというお鈴を、絃が責任を持って連れ帰らねば。
 燈矢もそうだ。大事な家族、大事な弟。
 いつも護ってもらってばかりだけれど、絃は姉なのだ。もしかしたら動けなくなっているかもしれないのに、ここで黙って待っていることなどできない。

「お願いします、士琉さま。どうか、行かせてください。わたしは、わたしはもう、誰も喪いたくないのです……っ!」

 泣きながら、悲鳴にも似た叫びを放つ。その瞬間。

「ひゃ……っ」

 絃はぐいっと士琉に引き寄せられた。そのまま抱き竦められ、息が詰まる。
 鼻腔にふわりと広がったのは、甘やかながら優しい白檀の香りだ。
 ああもう、と絃は涙を零しながら思う。
 今日だけで、もう何度泣いて、何度こうして抱きしめられたかわからない。
 心がついていかなくて、胸がずっと苦しい。
 最悪と幸福は相殺(そうさい)しないのだ。怯弱(きょうじゃく)な人の心が受け止めるには限界がある。

「落ち着け、絃。一度、深く呼吸しろ」

「士琉、さま」

「ああ、そうだ。上手いぞ。……思考が錯乱しているときは判断を見誤るからな。そういう状態がいちばん危険なんだ」

 宥めるように後頭部を撫でつけられて、絃は浅く呼吸をしながら士琉を見上げる。
 いつもと変わらぬ、しかし軍士の色を灯した端麗な風貌がそこにあった。宝石を嵌め込んだかのような瑠璃の瞳には、情けない顔をした自分が映っている。
 その既視感に、千桔梗から月華へ向かう道すがらのことを思い出した。

(あ……。わたし、また、なにも見えなくなってた……?)

 士琉は一度身体を離すと、絃と目線を合わせるように腰を屈めた。
 よく聞いてくれ、と震える両肩に手が置かれる。

「お鈴や燈矢殿が心配なのもわかる。だが、ひとりでこの火の海へ飛び込んだところで自殺行為だ。ただでさえ混沌としたこの状況で、君まで姿が確認できなくなれば一大事……我々もしなくて済む取捨選択をせねばならなくなる」

「あ……」

 我々、というのは、継叉特務隊をはじめとした軍士たちのことだろう。
 民の誘導をする者もいれば、消火作業に尽力している者もいる。傍目からは一見わからずとも、そこには優先順位なるものが存在しているのだ。絃が迷惑をかければその優先順位が変化し、場が混乱してしまう──そんな危惧が感じ取れた。

(わたし、士琉さまを困らせてしまってる)

 だが、気づいたところでやはりじっとしていることはできそうになかった。
 だって、今この瞬間にも、お鈴たちに危険が迫っているかもしれないのに。ただ無事を祈って帰還を待っているだなんて、そんなの絃には考えられない。

「ごめんなさい……でも、お願いです。行かせてください。行かなくちゃいけないんです。もう二度と、あの日を繰り返すわけにはいかないから」

「……十年前のことか」

「はい」

 絃は自分が嫌いだった。自分の弱さが、嫌いだった。要因を作っているのは自分なのに、いつも誰かに護られるばかりで護る強さを持たない自分が大嫌いだった。

 けれど、今ならわかる。
 絃はただ、言い訳をしていただけなのだと。
 継叉ではないから。厄介な体質を持っているから。
 自分のせいで、また傷つく者を見たくないから。
 そう尤もらしい理由をつけて、内からも外からも絃に関われぬよう、頑丈に鍵をかけて遮断した。だっていっそ関わらなければ、誰も傷つかずに済むから。
 周囲も、絃自身も。
 傷つけるのも、傷つくのも、もうこりごりだったから。
 塞ぎ込んで、断ち切って、愛される資格などないのだからどうか放っておいてほしいと突き放して。己の弱さから、ひたすらに目を背けた。

(でも、わたしは……わたしが感じている以上に、愛されてしまっていた)

 弓彦も、燈矢も、お鈴も、士琉も。
 どれだけ絃が拒もうとも、変わらず愛を注いでくれた。それがずっと苦しくて仕方がなかったけれど、そう感じていたのはきっと、本当は受け取りたかったからだ。
 与えられる愛を、ただただ素直に、受け入れたかった。
 でも、できなかった。絃がそれをしてしまったら、いよいよ己の罪を戒め罰するものがなくなってしまうと思ったから。
 だからずっと、拒んでいたのに。

「士琉さま。わたし……ようやくわかったんです」

「ん?」

「与えられる愛を、見て見ぬふりして逃げ続けていたら、そのぶんだけ相手を傷つけてしまうんだって」

 十年もの間、一途に想い続けてくれた士琉の心を受け止めて思い知ったのだ。
 士琉が気持ちを返さなくともいいと告げたとき、しかし言葉とは裏腹にとても悲しげであったから、そこでようやく気づいて愕然とした。
 与えられる愛を拒むのも、受け取らないのも、また罪なのだと。
 ならばもう、受け入れよう。受け入れずに傷つけるくらいなら、いっそ受け入れることで罪を償っていこう。

 ──それが、今の絃が出した答えだった。

「今度はわたしが返したい。今まで与えてもらったぶん、愛を返していきたい。それが当たり前にできるくらい、わたしは強くなりたいんです」

 自分になにができるかなんてわからないけれど。それでも、あの日のようになにもしないまま情けなさに泣いているよりは、ずっとましだ。

「…………、ああ、君は本当に……どこまでも、俺を惹きつける」

 痛みを堪えるように眉間に皺を寄せ、士琉は思わずと言わんばかりにそう零した。

「わかった。ならば、俺も共に行こう」

「えっ」

「君のことは俺が護る。いや、絃が護りたいと思うものもすべてだ。俺は絃にもうなにも喪わせない。……あのときの二の舞になるのは、俺も勘弁だからな」

 士琉は屈めていた身体を起こすと、素早く周囲へ目を走らせる。

「千隼がなかにいると言ったな?」

 漆黒の革手袋を嵌め直しながら、士琉は端的に尋ねた。
 海成が頷いたのを確認するや否や、横目に屋敷の様子を確認しながら、周囲に指示を出し始める。

「──軍士各位に告ぐ! 継特常駐組及び夜半討伐組は、周辺に湧き始めている妖魔の討伐に迎え! 通常部隊は隊長の指示を仰ぎながら民の誘導を優先、手が空いている者は各自、消火作業にあたれ! 医療班は怪我人の確認を行いながら、今後の救助人の対策を! ……そこ! あまり屋敷に近づきすぎるな! 煙にやられるぞ!」

 士琉の声に反応し、統率されていなかった場が一瞬で纏め上げられる。
 継叉特務隊の隊長もとい灯翆月華軍の総司令官。
 逆らう者などいるはずもなく、みなが士琉の指示を受け入れ、明確な目的を持って動き始めた。冷泉士琉という存在がどれだけ影響力を持った人間なのか手に取るようにわかる光景に、絃はこくりと息を呑む。

「海成は屋敷周辺に異常がないか確認しながら、我らの帰還を待て。千隼を見つけ次第先に帰すから、その後は千隼の指示に従うといい。茜の補佐もよろしく頼む」

「御意! ──どうかご無事で……!」

 海成はふたたび敬礼すると、律儀にも絃に頭を下げてから駆けていった。

(あの子……前から思っていたけど、すごい)

 絃よりも年下だろう少年が、この状況でいっさい混乱していないことに驚く。
 彼の背中を目で追っていることに気づいたのか、士琉が表情を緩ませた。

「ああ、海成は一年前に入隊した八剱の縁者でな。まだ未熟ではあるが、真面目でよく働く。継叉としても優秀だ。きっとそのうち前線で活躍するようになる」

 そう言った士琉が彼に向ける眼差しは温かかった。

 ときに厳しく、ときに優しく。

 他の追随を許さない圧倒的な強さを誇る士琉が隊を牽引しているからこそ、隊員たちはみな、安心して仕事に打ち込めるのだろう。
 だが、それはきっと、言葉で言うほど簡単なことではない。
 実力が伴わなければならないのは当然のこと、どんなに混沌とした状況でも場を纏め上げ、最善の結果を得るための的確な指揮を執る能力が必要となる。
 士琉はきっと、生まれながらに上に立つ者なのだ。
 そのうえで努力を重ね、研鑽を積んできた。元孤児という生い立ちをいっさい言い訳にすることなく、己のすべてを賭けて生きてきた。
 その強さが、絃は眩しかった。

「絃。火は俺の力で消しながら進むが、とにかく煙を吸わないように気をつけろ。それがいちばん厄介なんだ。短時間で戻るぞ」

「はい、士琉さま」

「……頼むから、無理だけはしないでくれ」

 絃に口を押さえるための手拭いを渡すと、士琉は「行くぞ」と手を差し出してきた。
 革手袋越しに自分の手を重ね、絃は覚悟を決めて頷いて返したのだった。



「……思っていたより、火が広がってるな」

 口布で顔半分を覆いながら、士琉はぱちんと指を擦り鳴らした。
 その瞬間、周囲に水が発生する。
 渦巻くように現れたのは、数体の水龍だ。
 幾多に連なる(うろこ)まで精巧に象られた水龍は、士琉と絃の周りを優雅に泳ぐ。体内には微細な水泡が煌めき、平瀬のように滑らかな流れが作られていた。
 今にも咆哮(ほうこう)を放ちそうなほどの迫力がある。