傘を慌てて開いて、バスが過ぎるのを背に聞きながら、僕は学校までを早歩きで進み始めた。緩やかな上り坂を大股気味に行く。地面のコンクリートに跳ねた雨粒が、大袈裟にぼくの靴に飛び散る。
 剣に言われた言葉が、ずっと頭の中でガンガン響いて繰り返されている。推測と感情しか優先していない――確かになと思う反面で歯痒さを思い知る。
[マシンよ]
 なに。
[お前、ユズキに返事してんがいぜ? 覚えとるけェ]
「あ」
 ピタッと立ち止まる。しまった、既読を付けたままにしてしまっている。しかも文章は作りかけだ。誤送信されていないだろうか。
 スラックスポケットから慌ててスマホを取り出して、胸を撫で下ろす。誤送信はなかった、打ち込んだままになって残っている。
 ひとまず、ヘビーユーズしている脱力感満載のたぬきの『おはようございます』スタンプを押す。それから文章を再作成。

『どっちでも伺えるよ。ご家族のご予定と、リタさんの体調に合わせます』

[なんて送ったん]
 土曜でも日曜でも平気だから、皆本のご家族の予定とリタさんの体調に合わせるよって伝えた。
[日曜にしてもろた方がええのんやないがん]
 え、どうして?
[やってェんね。ツルギと仲直りしんままワシとサイナラする気ィけェ]
「ライナルトと、サヨナラ?」
 そうだった。リタさんに会いに行くということは、僕がライナルトとサヨナラするということ……なんだった。改めて言葉にすると、急に見捨てられたかのような錯覚をした。首筋を鳥肌が上から下へと抜けていく。
[ワシはイヤやけどな]
「え?」
[マシンとツルギがギクシャクしとんまま……お前らがどうなったかもわからんままで、ワシだけリタと再会するんはイヤや、ちゅーとんが]
 そういう意味か、と短い溜め息。
 けど、僕だって剣とギクシャクするのは不本意だ。好きな()に対する自分の勇気のなさが原因だってことは重々わかっているけれど、昨日今日で「ハイ、変わりました!」とはなれないもの。
[のう、マシン]
 低くて静かな声色。僕は乱暴に早足を再開する。
[ワシが昨日言うたこと、覚えてねーけェ]
 諭すようなそれに、虫の居所が悪い僕は耳を塞ぎたくなる。
[ユズキとツルギの気持ち大事にするがんみたいに、マシン自身の奥底の気持ちも大事にせんなんいけんちゅー話したんや?]
 だからそうした結果、僕は早々に皆本に告白しなくてもいいってことに決め――。
[マシンのは大事にしとる言わん、踏みにじっとるゥ言うげん]
 雷に打たれたかのような、ピシャンとした一言に目が冴える。再び足が止まる。
 ライナルトも再び低くて静かな声色に戻る。
[マシンがわからん言うんも無理ないちゃ。大切にするとか、気持ち込めてとか、そんな目ェに見えんもん一番むつかしいがいね。重さやら長さやら点数やらで測れるもんやないから、何年経っても間違うし、あっちゃこっちゃで衝突もするげんて]
「……うん」
[マシンはいつも、他人の大事にしとるもんを優先するで、自分のことが後回しになるがやろ? ワシが言うたんもツルギが言うたんも、こういう『気持ち』ンことは後回しにせんでくれェいう意味やちゃ。わかるか?]
 頭ではわかっていても、どうしても僕は譲ってしまう。僕よりも他の人がふさわしいのではと思い、するとその考えが固着して払拭できなくなるんだ。
[そん優しさがお前のイイトコでもあんがやけどな。それでも、ツルギはお前に、ユズキ(好きな女)んことだけは諦めてほしくなかったんやないけ?]
「え」
[マシンは、例えばツルギが『誰かサン』みたく、好きな女に対してなんも当たってかんと『見たもんしか信じん』言うて、カッチカチに(かたく)なやったらどう思うん?]
 そ、それはきっと、剣が僕に言ったように僕も言うとは思う。
[ほやんなぁ? したら、なんでそんなん言うてやろう思うが?」
 そ、それは……ていうか、剣は僕と違って、そもそもそんな性格じゃないもの。ちゃんとこの前も自分で判断して、好きな人に当たっていったらしいし。きっと、良い応えが返ってくる見込みを自覚したからそうしたんだよ。
[けどダメやったねか。フラれっちまったわいね]
 だからそれは、彼女のタイミングとかが悪くて断られただけだよ、きっと。
[ほやったら、さっきツルギに告っとった(ムスメ)にも、おんなしように言うてやれんねんな?]
 フラッシュバックする、ツルギに告白していた女の子の後ろ姿。淡いピンク色の傘は真新しかった。付き添いの友人を横に置く理由がいままではわからなかったけれど、『そういうこと』かと突然閃き合点がいく。
[さっきツルギに告ってダメやった(ムスメ)、ツルギに断られるんわかっとったんや思うげんて。けど、それでも踏み込んで告ったったんやがないがん?]
 ど、どうして? どうして結果がわかってたのに、みんなそうやって突っ込んでいけるんだ。
 あのときのライナルトだってそうだ。リタさんのお父さんに「身分不相応だ」と交際や結婚を反対されてしまう可能性の方が高かったのに、それでも脇目もふらずに突っ込んでいけたのはどうしてなんだよ?
[マシンは、なんでや思う? もうわかっとんがやないけェ]
 問い問われ、僕がいままで『勇気』だと思っていたものが本当はなんなのか、影程度にでも見えてしまったような気がした。自信がないなりに、小声で答える。
「あの()もライナルトも、もしかしたら剣も、自分の予測できている『結果』よりも『気持ち』に正直になったから……かな」
 結果よりも大切にすべきもの――ライナルトが「自分を大事にしてくれ」と言っていたのは、本当はこういうことなのだろうか。
[ツルギ、最初は隠しとったがに、玉砕して傷心したことマシンに言うてきたやんか。慰めてもらお思とったァ言うとったやん?]
 うん。
[そゆのってやね、マシンに甘えとったからやないけ。別に悪い意味やないげん、いい感じの甘え方や思うちゃ。ツルギの拠り所ちゅうんは、他の誰でもないマシンなんやないがん?]
「拠り所……」
[お前かて、ツルギは大親友ねんろ? それって、ツルギはお前の拠り所やってことなんやないが? 三日しか見てんワシでさえそう思うわいね]
 そうだ。どんなときでも剣が傍に居てくれたから、いまの僕がある。
 昔、僕は同級生や上級生からかわれたりしたことがあった。そんなとき、剣だけはいつも味方だった。たとえ『そっち側』に仲良くしている子がいたとしても、絶対にいつも僕の傍にいてくれた。
 片や、いまの僕はどうだろう。話の流れとはいえ、剣が明かしてくれた傷付いた気持ちをそっちのけにしてしまった。そして自分の痛いところをつつかれたがために、恥ずかしさに耐えかねてバスを飛び出してきてしまった。
 僕は、予測の結果ばかりを見ていた。それはとても視野が狭いことだ。だから『結果を越えた可能性』を見ろと、剣もライナルトも言っているのかもしれない。
 剣に告白していた彼女だって、きっとそれを見たいと望んだんだろう。あのとき親友が隣に居てくれたことは、確実に彼女の『拠り所』となっていたに違いない。
 拠り所があることは、それだけで幸福なことだ。恵まれている。素晴らしい。なぜなら、挑戦した結果がたとえどんなものであろうとも、寄り添い合うことで「もう一度」と立ち直ることが叶うのだから。少なくとも、僕はそうだ。
「あのさ」
[なんけ]
「皆本に盛大にフラれたら、ライナルトは慰めてくれる?」
[お前にはツルギもワシも()るがいちゃ。なんやったら、ワシが立ち直り方でも教えたろけ?]
 そこは、フラれないとか大丈夫だとかって声をかけてよ。
[無責任なことは言えんがいぜ。そんなん責任とれんわァ]
 おどけるライナルトのお陰で、ちょっと冷静になれた。
「学校行ったら、剣に謝りたいな……」
 剣は僕に「自身を持て」って言ってくれたんだよね、きっと。別に『強要』したわけじゃない。僕が勝手に誤認しただけであって。
「まーしーっ!」
 大声で呼ばれて、肩を跳ね上げて振り返る。
「つっ、剣?!」