「これとこれを塗ったらいいのか?」
アパートの一階にある伊月くんの家で、伊月くんは買ってきた物を開けてリビングのテーブルに広げていた。
伊月くんの手には、チューブ状と筒状の容器。
テーブルの上にはパウダーの入った袋とクリームの入った袋とコームと紙と手袋。
「伊月くん、ちゃんと説明書読みなよ」
僕はテーブルに置かれたままの紙を指差すけど、伊月くんはチューブのフタを開けたりしていて見向きもしない。
「おまえが読め!」
こうなる予感はしていたから、抵抗なく僕はその紙を手に取って広げた。
「コールドクリームってなんだろう。あ、パッチテストした方がいいって書いてあるよ」
肌を保護する方法が書いてあったからそれを説明するけど、伊月くんは目が点になってた。
コールドクリームはわからないけど、パッチテストは細かく説明が書いてあったからそれを読み上げる。
要するに、アレルギーがないか使用する前日に肌に塗ってチェックして様子見てから使えってことらしい。
「知らねえ! そんな待ってられるか! 男なら一発勝負だろ!」
案の定な返事に、僕は一応スマホでこれから受診可能な皮膚科を調べておく。
後々のことを考えるとお風呂場の近くでやった方がよさそうだったから伊月くんを洗面所に誘導して、汚れ防止に新聞紙を床に敷き詰めて伊月くんの首周りにタオルを巻いて洗濯バサミで止める。
なかなか滑稽な格好になった。
本人には言わないけど、本人は鏡を見てどう思ってるんだろう。
男らしい男になるために、伊月くんは髪を染めるんだという。
ドラッグストアで買ってきたこの品々は、ブリーチ剤だった。
「こんな感じでいいのかぁ?」
伊月くんは僕が読んだ説明書通りに、筒状の容器に入った薬剤にチューブの中身とパウダーを入れて、フタをしてシャカシャカしている。
「よく混ざったら、フタをコームに付け替えて、髪にまんべんなく塗る。えり足から順番に塗っていくのがいいんだって。15分以内に塗り終わらないといけないのかな?」
代わりに説明書を読んでいても、僕も初めて見るものだからよくわからない。
塗った後に放置する時間が決まってるのは想像ついたけど、塗り時間まで書かれているのは予想外だった。
「あわわわわ」
シェイクし過ぎたのか、手袋をはめた伊月くんが蓋を取ると容器から泡が溢れ出てきた。
洗面台の上で作業していたお陰で、セーフ。
「えり足ってどこだよ……」
フタをコームに無事付け替えた伊月くんは、ブツブツ言いながら髪を塗り始めた。
「あ、多量の整髪料は落とせって書いてあった。伊月くん、どれっくらいワックス使ってるの?」
「知らん! もう塗ってるからこのまま行く!」
とりあえず伊月くんが塗り始めたから、僕はスマホのタイマーを十五分にセットした。
「うわっ、ぶちゅっと出た!」
「後ろが見えん! 塗れてるのか?」
「中が、中が塗れん!」
「あれ? もう終わりなのか?」
男らしさとは程遠そうなてんやわんやっぷりでブリーチ剤と格闘している伊月くんを、僕が半笑いで見ていることに、それどころじゃない伊月くんは気づいていない。
伊月くんの目指す男らしさにはほど遠い光景に見えるけど、伊月くんの目指す男らしさにたどり着くために必要な行程なんだと思う。
「あ、塗り終わった?」
「たぶん……」
ブリーチ剤にまみれて伊月くんの髪は生クリームでデコレーションされたみたいになっていた。
首に巻いたバスタオルにも足元の新聞紙にもブリーチ剤が飛び散っていて、壁にも新聞紙を貼らなかったことを後悔するありさまだった。
伊月くんは身動きが取れる状態じゃないから、代わりに僕がそれをティッシュで拭いていく。
「じゃあ、二十分の放置だね」
手は汚れなかったけど念のために洗って、スマホを手に取る。
僕は十五分のタイマーをリセットして、二十分にセットし直した。
「刺激を感じるとか異常はない?」
「大丈夫だ」
手持無沙汰に洗面所で二十分を過ごすことになった。
「なあ、女がいるってどんな感じ?」
移動すると部屋を汚しそうだったから、リビングから椅子を持ってきてそこに座る。
伊月くんだけ洗面所に残してもよかったけど、伊月くんの家で一人リビングでくつろいでるのも変な感じがしたから、僕も一緒に座って並んで鏡を見つめることになった。
勝手知ったる伊月くんの家は第二の我が家って感じだけど、それは伊月くんがいてこそだ。
「女って言うのやめてくれない? 女である前に、依織さんっていう一人の人間なんだから」
男だの女だのやいやい言うのは伊月くんの勝手だけど、それに文句を言うのも僕の自由だ。
「ごめん」
でも、こういうとき素直にごめんって言えちゃう伊月くんはなんだかんだイイヤツなんだなって思う。
「依織が恋人になって、どんな感じ?」
コイツ、友達の恋人呼び捨てにしやがる。
僕もそんな風に呼んでないのに……
まあ、伊月くんはもともと男女問わず呼び捨てだし、友達の恋人になったからって急にさん付けになる方がおかしいか。
僕の自由意思に基づいて、それについては言及しないことにする。
「やっぱ、友達とは違う感じなのか?」
「そりゃ違うけど、伊月くんだって好きな人いるじゃん。わかんないの?」
伊月くんには好きな人がいる。
伊月くんのイトコの楓姉さん。
僕も昔に会ったことがあるけど、僕らよりうんと年上で、僕らと年の近い弟がいる。
昔は冬になるとよくこっちに家族で遊びに来ていたから、僕も会ったことがある。
楓さんは気が強くてアクティブな人だったけど、弟くんは体が弱くて大人しいタイプだったから、僕とは気が合った。
僕は割と好きだったけど、楓さんがブラコン気味だからか伊月くんは弟くんを目の敵にしていた。
楓さんが大学に入ったころからあんまりこっちに遊びに来なくなったけど、楓さんの家とお祖母さんの家が近いから、家族でお祖母さんの家に行ったときは楓さんの家にも家族で挨拶しに行ったりして会ったりしているみたいだった。
だからまだ、初恋の人に恋をしたままだと思う。
「楓姐さんと伊織はまた違った感じだろ」
確かに伊月くんの恋は憧れ成分が多そうだったけど、僕は別にそういう感じで依織さんのことが好きなわけじゃない。
「うーん、そうだなぁ」
僕の友達といえば伊月くんだ。
幼なじみでずっと一緒にいて、一緒にいるのが当たり前の家族みたいな感じだから意識したことあんまりないけど、まあやっぱり僕は伊月くんが好きなんだと思う。
それも、大好きの部類だと思う。
依織さんのことももちろん大好きだ。
でも、この二つの大好きが同じかっていうと、まったく違う。
「守ってあげたい感じかなぁ。友達は別に守りたくないじゃん」
伊月くんがパッチテストをすっ飛ばしてブリーチしていても、僕は別に止めなかった。
これでなんかあっても自業自得だと思うし、やった方がいいとアドバイスはするけどそこまで必死になって止めはしない。
でももしこれが依織さんんだったら、もっと必死に止めたと思う。
万が一にでも万が一のことが起きてほしくない。
依織さんが辛い目に遭うのは見たくない。
でも、伊月くんだったらまあ別に。
薄情かな?
依織さんが転びそうなら身を呈して一緒に転んでもいいけど、伊月くんは転んだら手を差し伸べるぐらいの感覚。
ほかのクラスの女の子たちに対してもだいたい伊月くんと同じ感じだし、やっぱり依織さんだけが特別なんだと思う。
友達本人に守りたくないとか言っちゃうのどうかなって思ったけど、伊月くんは納得したように腕を組んでウンウン頷いてた。
「そうだよな! 男は女を守ってこそだよな!」
また男女論に発展していた。
「伊月くんも、楓さんを守りたいの?」
僕らよりうんと年上でもう成人してるけど、やっぱりそう思うのかな。
だから、マッチョに憧れたりしてるのかな。
夜な夜な腹筋背筋腕立て伏せ鉄アレイ思いつく限りのことして体を鍛えているのを僕は知っている。
少年漫画のヒーローみたいに、手足に重りを巻いて生活していることも知っている。
さすがに、外したら地面にめり込むような重さじゃないけど。
「…………」
返事をしない伊月くんを不思議に思って顔を見ると、赤くなっていた。
楓姉さんの話題になると、伊月くんはだんまりが多い。
「なあ」
「ん?」
なんて答えるんだろうと楽しみに待っていると、思いもよらない返事が返ってきた。
「なんか、ピリピリする」
「え!?」
まだ二十分のアラームは鳴っていない。
「早く流した方がいいよ!」
刺激を感じたときはすぐに洗い流した方がいいって説明書に書いてあった。
僕は椅子から腰を浮かせたけど、伊月くんは座ったままだった。
「どうしたの?」
「長く置いた方がパツ金になるんだよ!」
二十分我慢する気らしい。
「アレルギーなら命に関わるし、ダメだよ!?」
アパートの一階にある伊月くんの家で、伊月くんは買ってきた物を開けてリビングのテーブルに広げていた。
伊月くんの手には、チューブ状と筒状の容器。
テーブルの上にはパウダーの入った袋とクリームの入った袋とコームと紙と手袋。
「伊月くん、ちゃんと説明書読みなよ」
僕はテーブルに置かれたままの紙を指差すけど、伊月くんはチューブのフタを開けたりしていて見向きもしない。
「おまえが読め!」
こうなる予感はしていたから、抵抗なく僕はその紙を手に取って広げた。
「コールドクリームってなんだろう。あ、パッチテストした方がいいって書いてあるよ」
肌を保護する方法が書いてあったからそれを説明するけど、伊月くんは目が点になってた。
コールドクリームはわからないけど、パッチテストは細かく説明が書いてあったからそれを読み上げる。
要するに、アレルギーがないか使用する前日に肌に塗ってチェックして様子見てから使えってことらしい。
「知らねえ! そんな待ってられるか! 男なら一発勝負だろ!」
案の定な返事に、僕は一応スマホでこれから受診可能な皮膚科を調べておく。
後々のことを考えるとお風呂場の近くでやった方がよさそうだったから伊月くんを洗面所に誘導して、汚れ防止に新聞紙を床に敷き詰めて伊月くんの首周りにタオルを巻いて洗濯バサミで止める。
なかなか滑稽な格好になった。
本人には言わないけど、本人は鏡を見てどう思ってるんだろう。
男らしい男になるために、伊月くんは髪を染めるんだという。
ドラッグストアで買ってきたこの品々は、ブリーチ剤だった。
「こんな感じでいいのかぁ?」
伊月くんは僕が読んだ説明書通りに、筒状の容器に入った薬剤にチューブの中身とパウダーを入れて、フタをしてシャカシャカしている。
「よく混ざったら、フタをコームに付け替えて、髪にまんべんなく塗る。えり足から順番に塗っていくのがいいんだって。15分以内に塗り終わらないといけないのかな?」
代わりに説明書を読んでいても、僕も初めて見るものだからよくわからない。
塗った後に放置する時間が決まってるのは想像ついたけど、塗り時間まで書かれているのは予想外だった。
「あわわわわ」
シェイクし過ぎたのか、手袋をはめた伊月くんが蓋を取ると容器から泡が溢れ出てきた。
洗面台の上で作業していたお陰で、セーフ。
「えり足ってどこだよ……」
フタをコームに無事付け替えた伊月くんは、ブツブツ言いながら髪を塗り始めた。
「あ、多量の整髪料は落とせって書いてあった。伊月くん、どれっくらいワックス使ってるの?」
「知らん! もう塗ってるからこのまま行く!」
とりあえず伊月くんが塗り始めたから、僕はスマホのタイマーを十五分にセットした。
「うわっ、ぶちゅっと出た!」
「後ろが見えん! 塗れてるのか?」
「中が、中が塗れん!」
「あれ? もう終わりなのか?」
男らしさとは程遠そうなてんやわんやっぷりでブリーチ剤と格闘している伊月くんを、僕が半笑いで見ていることに、それどころじゃない伊月くんは気づいていない。
伊月くんの目指す男らしさにはほど遠い光景に見えるけど、伊月くんの目指す男らしさにたどり着くために必要な行程なんだと思う。
「あ、塗り終わった?」
「たぶん……」
ブリーチ剤にまみれて伊月くんの髪は生クリームでデコレーションされたみたいになっていた。
首に巻いたバスタオルにも足元の新聞紙にもブリーチ剤が飛び散っていて、壁にも新聞紙を貼らなかったことを後悔するありさまだった。
伊月くんは身動きが取れる状態じゃないから、代わりに僕がそれをティッシュで拭いていく。
「じゃあ、二十分の放置だね」
手は汚れなかったけど念のために洗って、スマホを手に取る。
僕は十五分のタイマーをリセットして、二十分にセットし直した。
「刺激を感じるとか異常はない?」
「大丈夫だ」
手持無沙汰に洗面所で二十分を過ごすことになった。
「なあ、女がいるってどんな感じ?」
移動すると部屋を汚しそうだったから、リビングから椅子を持ってきてそこに座る。
伊月くんだけ洗面所に残してもよかったけど、伊月くんの家で一人リビングでくつろいでるのも変な感じがしたから、僕も一緒に座って並んで鏡を見つめることになった。
勝手知ったる伊月くんの家は第二の我が家って感じだけど、それは伊月くんがいてこそだ。
「女って言うのやめてくれない? 女である前に、依織さんっていう一人の人間なんだから」
男だの女だのやいやい言うのは伊月くんの勝手だけど、それに文句を言うのも僕の自由だ。
「ごめん」
でも、こういうとき素直にごめんって言えちゃう伊月くんはなんだかんだイイヤツなんだなって思う。
「依織が恋人になって、どんな感じ?」
コイツ、友達の恋人呼び捨てにしやがる。
僕もそんな風に呼んでないのに……
まあ、伊月くんはもともと男女問わず呼び捨てだし、友達の恋人になったからって急にさん付けになる方がおかしいか。
僕の自由意思に基づいて、それについては言及しないことにする。
「やっぱ、友達とは違う感じなのか?」
「そりゃ違うけど、伊月くんだって好きな人いるじゃん。わかんないの?」
伊月くんには好きな人がいる。
伊月くんのイトコの楓姉さん。
僕も昔に会ったことがあるけど、僕らよりうんと年上で、僕らと年の近い弟がいる。
昔は冬になるとよくこっちに家族で遊びに来ていたから、僕も会ったことがある。
楓さんは気が強くてアクティブな人だったけど、弟くんは体が弱くて大人しいタイプだったから、僕とは気が合った。
僕は割と好きだったけど、楓さんがブラコン気味だからか伊月くんは弟くんを目の敵にしていた。
楓さんが大学に入ったころからあんまりこっちに遊びに来なくなったけど、楓さんの家とお祖母さんの家が近いから、家族でお祖母さんの家に行ったときは楓さんの家にも家族で挨拶しに行ったりして会ったりしているみたいだった。
だからまだ、初恋の人に恋をしたままだと思う。
「楓姐さんと伊織はまた違った感じだろ」
確かに伊月くんの恋は憧れ成分が多そうだったけど、僕は別にそういう感じで依織さんのことが好きなわけじゃない。
「うーん、そうだなぁ」
僕の友達といえば伊月くんだ。
幼なじみでずっと一緒にいて、一緒にいるのが当たり前の家族みたいな感じだから意識したことあんまりないけど、まあやっぱり僕は伊月くんが好きなんだと思う。
それも、大好きの部類だと思う。
依織さんのことももちろん大好きだ。
でも、この二つの大好きが同じかっていうと、まったく違う。
「守ってあげたい感じかなぁ。友達は別に守りたくないじゃん」
伊月くんがパッチテストをすっ飛ばしてブリーチしていても、僕は別に止めなかった。
これでなんかあっても自業自得だと思うし、やった方がいいとアドバイスはするけどそこまで必死になって止めはしない。
でももしこれが依織さんんだったら、もっと必死に止めたと思う。
万が一にでも万が一のことが起きてほしくない。
依織さんが辛い目に遭うのは見たくない。
でも、伊月くんだったらまあ別に。
薄情かな?
依織さんが転びそうなら身を呈して一緒に転んでもいいけど、伊月くんは転んだら手を差し伸べるぐらいの感覚。
ほかのクラスの女の子たちに対してもだいたい伊月くんと同じ感じだし、やっぱり依織さんだけが特別なんだと思う。
友達本人に守りたくないとか言っちゃうのどうかなって思ったけど、伊月くんは納得したように腕を組んでウンウン頷いてた。
「そうだよな! 男は女を守ってこそだよな!」
また男女論に発展していた。
「伊月くんも、楓さんを守りたいの?」
僕らよりうんと年上でもう成人してるけど、やっぱりそう思うのかな。
だから、マッチョに憧れたりしてるのかな。
夜な夜な腹筋背筋腕立て伏せ鉄アレイ思いつく限りのことして体を鍛えているのを僕は知っている。
少年漫画のヒーローみたいに、手足に重りを巻いて生活していることも知っている。
さすがに、外したら地面にめり込むような重さじゃないけど。
「…………」
返事をしない伊月くんを不思議に思って顔を見ると、赤くなっていた。
楓姉さんの話題になると、伊月くんはだんまりが多い。
「なあ」
「ん?」
なんて答えるんだろうと楽しみに待っていると、思いもよらない返事が返ってきた。
「なんか、ピリピリする」
「え!?」
まだ二十分のアラームは鳴っていない。
「早く流した方がいいよ!」
刺激を感じたときはすぐに洗い流した方がいいって説明書に書いてあった。
僕は椅子から腰を浮かせたけど、伊月くんは座ったままだった。
「どうしたの?」
「長く置いた方がパツ金になるんだよ!」
二十分我慢する気らしい。
「アレルギーなら命に関わるし、ダメだよ!?」