机の上に広げた参考書の開かれたページは長い時間空白のままだ。
手元をさまようペンは余白に絵を描き始める始末。問題を解こうとしても、集中なんて出来ず、頬杖をついて時間が過ぎるのを待つ。
その様子にちょうど戻ってきた男性は、驚いたように食べかけのドーナツを口から零した。ズレた丸眼鏡を直す癖は彼が困ったときにする、この一年通して見てきたお決まりの仕草。
「珍しいね、翔琉くんが手止まってるの」
パーマと脱色を重ねて随分と傷んだ金茶色の髪は、先週来た時とはまた違う色になっていた。
「なんか、今日は集中出来なくて……」
その様子を見て、彼は楽しそうに笑った。
「そっかー、翔琉くんにもそんな日があるんだね。僕はてっきりロボットの家庭教師をやっているものだと思っていたから、なんか新鮮でいいね」
「ロボットって……。結構、ひどいこと言ってるの気づいてます?」
「もちろんだとも。それで、いつも優等生の翔琉くんがこの大事な時期に集中出来ない理由は何なのかな? もしかして、好きな子でも出来た? 早い春来た!?」
「そんなんじゃないですよ。ってか、響島さんこそ、今日はいつもと違いますよ」
彼は身なりはともかく、いつもは真面目な家庭教師をしてくれるのに、今日は何だかまるで友達か後輩と楽しそうに話すような物腰だ。
「僕はその人に合った教育方針を取っているだけだよ。真面目な生徒には真摯に。参考書の隅っこに絵を描いちゃう子羊には一緒に悩んであげる狼で」
彼はテーブルに置かれてすっかり冷めきった紅茶で、ドーナツを流し込む。
「別に悩んでいるわけじゃないですよ。ただ、ちょっと勉強をする意味がわからなくなっているだけです」
ずっと、彼女の言葉が引っかかっていた。何となくで過ごしていた毎日にひびが入ったみたいで、当たり前だったことに手が動かないでいる。それはきっと、彼女の言葉に僕が心のどこかでは納得して、共感しているから。
「ふむふむ、誰かの入れ知恵があったことは確かっぽいけど、勉強をする意味か……。それに関しては持論ではあるけど、学業っていう面での勉強は絶対的な必要性というのは感じないかな」
彼は大きく伸びをして続ける。
「そもそも、勉学の必要性に関しては子供のみんなが潜在的に抱えている疑問だからね。で、大人たちは将来のためって口々言うわけだ。僕は大人のこの発言が良くないと思うんだよね。将来っていう不確定で、見通しのつかないものをメリットに主張しているから、子供は疑問が抜けない」
「僕が疑問を持った理由も、そういうことかもしれないです」
大人の言いなりになって勉強ばかりの高校生活で、良い大学に入って、良い企業に就職する。そこに果たして、自分という個は存在するのだろうか。少なくとも、がむしゃらに生きる彼女のように力強く輝けるとは到底思えない。
「実際、大人になったら学校で習うことの九割以上は使うことは無いよ。じゃあ、どうして勉強するのか。そこには直接的な知識を残すためじゃなく、思考力、発想力、言語能力とかの成長を促すためだと僕は思っている。一方で、不要な固定概念の定着とか、表現力に関してはむしろ凝り固まって劣っていくものだと思う。だから、僕は勉強が絶対に必要だとは言わない」
彼は僕よりたった三つ上の大学生なのに、どうしてかすごく大人に見えた。
「一つ、怖い話でもしようか。僕の父親は贔屓目で見なくとも頭が良くて、僕が生まれる前からずっと小さな会計事務所に勤務していた。でも、五十を超えて、あと少しで定年ってところで、社内のまるで子供みたいな嫌がらせで自主退職せざるを得なくなって、退職金も出ないまま会社を辞めたよ。馬鹿な話だよね」
彼はテーブルに置かれたドーナツを綺麗に積んでいく。
「それは本当にひどい話ですね……」
「嫌がらせの首謀者は社長の息子で、まあよくありそうな話だよね。でも、家庭を持って責任感も強い父親が辞めるっていう選択肢が出るくらい、ひどかったんだ。それで、その会社はその後どうなったと思う?」
いつも飄々とした表情の彼だけど、その瞳には小さな怒りが宿っている。
「響島さんの父親のような被害者をたくさん出したとか……?」
「次の被害者が出るまでもなく、数年で倒産したよ。良い大学に入って、満足いく年収を貰えていた会社で何人分もの仕事をこなした父親が、馬鹿な大人のせいで人生を狂わされた。実際、その退職騒動で僕の親は喧嘩が増えて、母は変な占いを信じて、離婚しかけたからね」
高く積まれたドーナツを彼は横から小突いて倒す。
「実の母親がSNSの裏垢で死にたいって呟いてるの見つけた時の僕の気持ち、わかるかい? 社会ってクソなんだなって心の底から思ったよ。だから、僕はどこかの会社に属すこともなく、一人で生きていけるように頑張ってる。これが、僕の今やりたいことさ」
「……ある人に言われました。明日死ぬかもしれないんだから、好きなことをやるべきなんじゃないかって」
「極論だね。でも、間違ってはいない。大事なのは、やるべきことだろうと好きなことだろうと、そこに自分の考えがあって、脳みそを使っているかどうかだよ。惰性でやることに何の意義もないからね。それこそ仕事とかだけで十分だよ。あ、僕まだ大学生だけどね」
彼は不躾にも、僕のカバンから覗いたスケッチブックを抜き取り、パラパラと開いた。
「うぉっ!? 翔琉くん、こんなに絵上手いんだ。そりゃ、悩んじゃうよねぇ」
誰にも見られたことのなかった、僕からすれば羞恥の塊だというのに、彼はお構いなしだ。
「ただの趣味ですよ。でも、それを仕事に出来るなんて思わないから、悩んでます」
「別に仕事にするために頑張らなくてもいいんじゃん? このご時世、働くに困ることなんてないんだから。好きなことをがむしゃらに頑張る。そこにそれ以上の理由付けはいらないよ」
彼はおもむろにノートを取り出して、窓の外を眺める。そして迷うことなくペンを走らせて、外の風景を描き始めた。ぶれぶれの線に、ちぐはぐなパース。まるで小学生の落書きみたいだ。でも、表現を続ける彼の表情はとても真剣で、事あるごとに満足そうな笑みすら浮かべている。
「出来た! どうかな?」
「ミミズの集団を描いたわけではないんですよね?」
「うわぉ、辛辣ぅ~」
美術の先生が発狂してしまいそうなひどい絵なのに、どうしてか目を惹かれて窓の外の景色と見比べた。
「なんで、入道雲なんですか?」
入道雲といえば、季語にもなっているくらい夏をイメージさせるものだ。まして、今日の空に雲は一つもなく、一面青のベールに包まれているというのに。
「だって、想像で描いちゃいけないってルールはないでしょ? 僕は入道雲が好きだから描いた。それだけだよ」
でも、やっぱり冬の風景に入道雲なんて変な感じだ。
「翔琉くんの絵は凄いけど、どれも普通だなぁっていうのが素人意見。ここでも優等生が出ちゃってる感じ。もっと、自由に自分の描きたいように描いてもいいんじゃない?」
彼は描いた絵をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てる。見るに値しないような作品だったのに、どうしてかもったいないなと感じた。
「じゃあ、翔琉くんに宿題を出そうかな。いつか、僕に君が自信を持って見せられる絵を描いてくること!」
僕が自信を持って他人に見せられる絵。子供のころは描けた、今は描けなくなったもの。
何から手を付けたらよいのかわからなくて、無性に彼女に会いたくなった。彼女なら、きっと答えを知っている。そんな気がした。
手元をさまようペンは余白に絵を描き始める始末。問題を解こうとしても、集中なんて出来ず、頬杖をついて時間が過ぎるのを待つ。
その様子にちょうど戻ってきた男性は、驚いたように食べかけのドーナツを口から零した。ズレた丸眼鏡を直す癖は彼が困ったときにする、この一年通して見てきたお決まりの仕草。
「珍しいね、翔琉くんが手止まってるの」
パーマと脱色を重ねて随分と傷んだ金茶色の髪は、先週来た時とはまた違う色になっていた。
「なんか、今日は集中出来なくて……」
その様子を見て、彼は楽しそうに笑った。
「そっかー、翔琉くんにもそんな日があるんだね。僕はてっきりロボットの家庭教師をやっているものだと思っていたから、なんか新鮮でいいね」
「ロボットって……。結構、ひどいこと言ってるの気づいてます?」
「もちろんだとも。それで、いつも優等生の翔琉くんがこの大事な時期に集中出来ない理由は何なのかな? もしかして、好きな子でも出来た? 早い春来た!?」
「そんなんじゃないですよ。ってか、響島さんこそ、今日はいつもと違いますよ」
彼は身なりはともかく、いつもは真面目な家庭教師をしてくれるのに、今日は何だかまるで友達か後輩と楽しそうに話すような物腰だ。
「僕はその人に合った教育方針を取っているだけだよ。真面目な生徒には真摯に。参考書の隅っこに絵を描いちゃう子羊には一緒に悩んであげる狼で」
彼はテーブルに置かれてすっかり冷めきった紅茶で、ドーナツを流し込む。
「別に悩んでいるわけじゃないですよ。ただ、ちょっと勉強をする意味がわからなくなっているだけです」
ずっと、彼女の言葉が引っかかっていた。何となくで過ごしていた毎日にひびが入ったみたいで、当たり前だったことに手が動かないでいる。それはきっと、彼女の言葉に僕が心のどこかでは納得して、共感しているから。
「ふむふむ、誰かの入れ知恵があったことは確かっぽいけど、勉強をする意味か……。それに関しては持論ではあるけど、学業っていう面での勉強は絶対的な必要性というのは感じないかな」
彼は大きく伸びをして続ける。
「そもそも、勉学の必要性に関しては子供のみんなが潜在的に抱えている疑問だからね。で、大人たちは将来のためって口々言うわけだ。僕は大人のこの発言が良くないと思うんだよね。将来っていう不確定で、見通しのつかないものをメリットに主張しているから、子供は疑問が抜けない」
「僕が疑問を持った理由も、そういうことかもしれないです」
大人の言いなりになって勉強ばかりの高校生活で、良い大学に入って、良い企業に就職する。そこに果たして、自分という個は存在するのだろうか。少なくとも、がむしゃらに生きる彼女のように力強く輝けるとは到底思えない。
「実際、大人になったら学校で習うことの九割以上は使うことは無いよ。じゃあ、どうして勉強するのか。そこには直接的な知識を残すためじゃなく、思考力、発想力、言語能力とかの成長を促すためだと僕は思っている。一方で、不要な固定概念の定着とか、表現力に関してはむしろ凝り固まって劣っていくものだと思う。だから、僕は勉強が絶対に必要だとは言わない」
彼は僕よりたった三つ上の大学生なのに、どうしてかすごく大人に見えた。
「一つ、怖い話でもしようか。僕の父親は贔屓目で見なくとも頭が良くて、僕が生まれる前からずっと小さな会計事務所に勤務していた。でも、五十を超えて、あと少しで定年ってところで、社内のまるで子供みたいな嫌がらせで自主退職せざるを得なくなって、退職金も出ないまま会社を辞めたよ。馬鹿な話だよね」
彼はテーブルに置かれたドーナツを綺麗に積んでいく。
「それは本当にひどい話ですね……」
「嫌がらせの首謀者は社長の息子で、まあよくありそうな話だよね。でも、家庭を持って責任感も強い父親が辞めるっていう選択肢が出るくらい、ひどかったんだ。それで、その会社はその後どうなったと思う?」
いつも飄々とした表情の彼だけど、その瞳には小さな怒りが宿っている。
「響島さんの父親のような被害者をたくさん出したとか……?」
「次の被害者が出るまでもなく、数年で倒産したよ。良い大学に入って、満足いく年収を貰えていた会社で何人分もの仕事をこなした父親が、馬鹿な大人のせいで人生を狂わされた。実際、その退職騒動で僕の親は喧嘩が増えて、母は変な占いを信じて、離婚しかけたからね」
高く積まれたドーナツを彼は横から小突いて倒す。
「実の母親がSNSの裏垢で死にたいって呟いてるの見つけた時の僕の気持ち、わかるかい? 社会ってクソなんだなって心の底から思ったよ。だから、僕はどこかの会社に属すこともなく、一人で生きていけるように頑張ってる。これが、僕の今やりたいことさ」
「……ある人に言われました。明日死ぬかもしれないんだから、好きなことをやるべきなんじゃないかって」
「極論だね。でも、間違ってはいない。大事なのは、やるべきことだろうと好きなことだろうと、そこに自分の考えがあって、脳みそを使っているかどうかだよ。惰性でやることに何の意義もないからね。それこそ仕事とかだけで十分だよ。あ、僕まだ大学生だけどね」
彼は不躾にも、僕のカバンから覗いたスケッチブックを抜き取り、パラパラと開いた。
「うぉっ!? 翔琉くん、こんなに絵上手いんだ。そりゃ、悩んじゃうよねぇ」
誰にも見られたことのなかった、僕からすれば羞恥の塊だというのに、彼はお構いなしだ。
「ただの趣味ですよ。でも、それを仕事に出来るなんて思わないから、悩んでます」
「別に仕事にするために頑張らなくてもいいんじゃん? このご時世、働くに困ることなんてないんだから。好きなことをがむしゃらに頑張る。そこにそれ以上の理由付けはいらないよ」
彼はおもむろにノートを取り出して、窓の外を眺める。そして迷うことなくペンを走らせて、外の風景を描き始めた。ぶれぶれの線に、ちぐはぐなパース。まるで小学生の落書きみたいだ。でも、表現を続ける彼の表情はとても真剣で、事あるごとに満足そうな笑みすら浮かべている。
「出来た! どうかな?」
「ミミズの集団を描いたわけではないんですよね?」
「うわぉ、辛辣ぅ~」
美術の先生が発狂してしまいそうなひどい絵なのに、どうしてか目を惹かれて窓の外の景色と見比べた。
「なんで、入道雲なんですか?」
入道雲といえば、季語にもなっているくらい夏をイメージさせるものだ。まして、今日の空に雲は一つもなく、一面青のベールに包まれているというのに。
「だって、想像で描いちゃいけないってルールはないでしょ? 僕は入道雲が好きだから描いた。それだけだよ」
でも、やっぱり冬の風景に入道雲なんて変な感じだ。
「翔琉くんの絵は凄いけど、どれも普通だなぁっていうのが素人意見。ここでも優等生が出ちゃってる感じ。もっと、自由に自分の描きたいように描いてもいいんじゃない?」
彼は描いた絵をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てる。見るに値しないような作品だったのに、どうしてかもったいないなと感じた。
「じゃあ、翔琉くんに宿題を出そうかな。いつか、僕に君が自信を持って見せられる絵を描いてくること!」
僕が自信を持って他人に見せられる絵。子供のころは描けた、今は描けなくなったもの。
何から手を付けたらよいのかわからなくて、無性に彼女に会いたくなった。彼女なら、きっと答えを知っている。そんな気がした。