「じゃじゃーん! なんと美少女がお弁当をつくってきましたー!」
浜沿いの石階段に腰を降ろすや否や、彼女はこれまで大事そうに抱えていたバスケットを開けた。中にはタッパに綺麗に敷き詰められたサンドイッチが入っている。
「ちょっと、何とか言ってくださいな」
「何というか……意外?」
「はい、デリカシー! ゼロ点だよ。翔琉くんはもう少し、いやもっと素直になる必要があるね」
彼女がサンドイッチを手渡す。二枚のパンに挟まるハムやチーズ、胡瓜やレタスも見え隠れしていて、朝から何も入れてない胃が自然と音を立てる。
一口食べると、からしマヨネーズの鼻をつく香りと野菜のみずみずしい食感が舌を包み、一拍遅れてハムとチーズの濃い味が口中に広がった。
想像以上の美味しさに舌鼓を打っていると、若干不安げな表情の彼女が僕を覗き込んでいるのに気が付く。
「ど、どう……?」
「美味しいよ。本当に」
瞬間、彼女は花が咲いたように笑みを浮かべる。
「そうでしょ、そうでしょ! 朝から頑張って作ったんだからね!」
素直になったほうがいい。彼女のこの表情を見れるのなら、確かにその通りかもしれない。
彼女は本当に絵になる。いつもの笑顔も、先ほどの不安げな顔も、安心したようにサンドイッチを頬張る彼女も。彼女を包む雰囲気が、一つ一つの仕草が、そして時折見せる今にも崩れてしまいそうな儚い気配が、僕の心を突き動かす。
気が付くと、僕はまたひとりでに指のフレームに彼女を記録していた。
「ちょっ、流石に食べてるところは恥ずかしいよ」
頬を軽く赤らめてそっぽを向く彼女。サンドイッチを食べる一口も、心なしか小さくなっている。
「私なんか見てないで、景色を見てよぉ」
そんなことを言われても、僕は彼女から目を離せなかった。恋愛感情なんて甘いものではなく、彼女を一つの美術品として見ているのかもしれない。
その後は他愛もない会話――といっても彼女がほとんど一人で喋っているのを、僕が相槌を打つことで、小一時間が過ぎた。バスケットの中は早いうちにカラッポになり、隙間の空いた空間が寂しげに顔を覗かせている。
彼女は話をしている間もずっと海を眺め、たまに四方を見渡す。その眼を輝かせ、充実に満ちた面持ちで耽っている。本当は、会話は僕に対する気遣いで、不要なリソースなのかもしれない。
僕もぼんやりと海を眺めては、彼女を見て、久しく感じた緩やかな時の流れに身を任せていた。
不意に思い立ってリュックに押し込んだスケッチブックを取り出し、鉛筆を走らせる。
「およ? 翔琉くん、絵描けるの?」
不思議そうに僕の手元を覗き込む彼女。恥ずかしいからやめてほしかったが、さっきのことがあった手前、お互い様なのだろう。
「まあ、趣味みたいなものだよ。上手くは無いんだけどね」
「私、絵なんてこれっぽっちも描けないから、尊敬するなぁ」
「家じゃ中々描けないから、たまに外でこうやって何となく描いてるだけだよ」
本当は彼女を描いてみたかった。けれど、彼女の邪魔をしたくなくて、結局目の前の景色を筆で再現する。それに――
「じゃあ、私も描いてよ!」
「僕は人物画は苦手なんだ。だから、まあ、上手くなったらそのうちにね」
彼女を描くだけの器量も、度胸も今の僕にはない。彼女の魅力や底に隠れている何かを、絵で再現できるなんて微塵も思わなかった。今の僕が描けば、逆に彼女を汚してしまう。そんな気がした。
「ふむふむ、それじゃあまた一つ、君が私に付き添う理由が見つかったね」
「というと?」
「私は最高の景色を見つける。そして、その景色と私を翔琉くんが絵に収める。そうすれば私は未来にずっと残り続ける。どう? 素敵でしょ?」
何の迷いもなく、彼女は言ってのけた。僕が彼女を描けるようになることを、そして彼女が最高の景色を見つけることを。
「それもいいかもしれないね。でも、涼音はどうか知らないけど、僕は来年には受験が控えているし、親も僕が絵を描くことは許さないと思う……」
彼女は手元の小石を砂浜に向けて放り投げる。
「翔琉くんって、マザコン?」
予想外の質問に思わず筆が滑る。
「そんなんじゃないよ。ちょっと親が厳しいだけ。だから、今は勉学もやらなきゃいけない」
「じゃあ、将来何かなりたいとかってあるの?」
「別にないよ。親とか先生の言い分はわかるし、理解しているから従っているだけ。良い大学に入れば選択肢は広がるし、後々便利だから」
彼女は珍しくつまらなそうにもう一つ小石を投げ、先ほど投げた小石よりも遠くに音もなく着地した。
「そんな何となくで今を過ごすより、もっと目の前にある好きなことに一生懸命になるべきだよ」
彼女は僕の手元を指さす。
「翔琉くんは絵が好きなんでしょ? なら、君が勝負する場所はこっちなんじゃない?」
「絵はそれこそ大学に入ってからでも出来るよ」
「出来ないかもしれないじゃん。翔琉くんは来週にだって死ぬかもしれない。だとしたら、翔琉くんが今やるべきは勉強じゃなくて、好きなことだよ」
いつの間にか、僕の手は完全に止まっていた。
「そんな、突拍子もないこと言われても……」
「そんなことないよ。人がいつ死ぬかなんて、誰にもわからない。百年後かもしれないし、明日かもしれない。過去を振り返るのは意味のないことだけど、未来に保険をかけて今を生きるのはもっと意味のないことだよ」
「……」
押し黙る僕に、彼女は「もちろん、翔琉くんが望んで勉学に励んでいるのなら、話は別だけどね」と付け加える。
「翔琉くんは才能って信じる?」
「生まれながらにして得た能力の違いなら、あるとは思ってる」
「私はね、存在しててもそんなものあってないようなものだと思う。身体の関係とかならしょうがない部分もあるけど、そうじゃないなら才能なんて目に見えないもの関係なく、私たちは何にだってなれるんだよ」
それに、と彼女は続ける。
「今、努力している人はきっと来年も、その先も努力を続けるとして、その後から始めた人間が同じだけ努力したって一生追い付けない。それなら、今すぐにでもやりたいこと、叶えたい夢に向かって動き出すべきなんだよ」
そう言い放った彼女はどこか寂し気で、愁いを帯びていた。
「それは、考えたことがなかった……。大人はそんなこと教えてくれないし」
「そういう人に巡り合わなかっただけだよ。大人だって、色々いるんだし。だから、私と出会えてラッキーだったね、翔琉くん」
あどけない笑みを見せる彼女に、僕は敵わないなと実感した。
「ちなみにね、さっきの話に戻ると、私はマザコンで、ファザコンだし、何より大のシスコンだよ」
彼女は仰々しく胸を張る。
「姉か妹がいるんだ。一人っ子だと思ってたよ」
「死んじゃったけどね」
思わず、スケッチブックに向けていた顔を上げて彼女に目をくれる。彼女は空を仰いで遠くに目をやっていた。細めた瞳で何かを訴えるように。
「それは……ごめん」
彼女は目を丸くして大袈裟に笑った。
「なんで翔琉くんが謝るのさ。私から言い出したことだよ。それに隠しておくことでもないんだ」
肌を撫でる冬の潮風が、なんだか一層身に染みた。彼女は砂浜に走っていき、同じ大きさの小石を二つ拾って戻ってくる。
「私たちは双子だったの。陽音と涼音。生まれた時からずっと一緒で、お姉ちゃんの考えてることは何でもわかって、お姉ちゃんも私のことを何でもわかっていた。本当に鏡映の存在。着るもの、好きな食べ物、気になっている男の子。全部が一緒だった」
「涼音がもう一人いるって考えたら、想像しただけでやかましそうだ」
重い話題に耐えられず、つい口を挟んだ。彼女は声に出して笑ってくれたが、僕には後悔しかない。
「でもね、九歳の時、ある出来事からお姉ちゃんは変わっちゃった。教室の隅っこで友達もつくらないで本ばっかり読んで、いつしか私のことも避けるようになってた」
彼女は足元の砂を指先でなぞりながら、思いだすように馳せる。
〝ある出来事〟に陽音が消極的な性格になってしまった理由があるのだろう。でも、それを聞いても良いのかわからず、逡巡した。
「でも、私はやっぱりお姉ちゃんが大好きだから、ずっとお姉ちゃんに付きまとって、私たちはいつの間にか高校生になってた。みんなに似てないねって言われちゃったけど、私は知ってるんだよ。お姉ちゃんは元気いっぱいで、本当にすごい人なんだって。この私みたいに、ね!」
彼女はさっきまでの、寂寥感を垣間見せる表情を断つように、決め顔でウインクをする。
「その、お姉さん――陽音さんが亡くなった理由は、聞かない方がいいのかな……?」
彼女はゆっくりと首を振る。
「むしろ、ちゃんと聞いてほしい」
「……わかった」
そうして、彼女はゆっくりと、寂しげな笑みを携えて語りだした。
「女の子が八か月入院して寝たきりだった理由は、頭を強く打っちゃって、その打ち所が悪かったから。そして、双子が引き裂かれた理由は信号無視の車との衝突事故。頭のいい翔琉くんなら、もうわかるでしょ?」
彼女は手のひらの小石を片方、砂浜へと投げ捨てる。
鉛筆を握りしめる手に力がこもって、芯が砕ける感覚が指先を伝った。
「その日は、帰り道に珍しく喧嘩しちゃってね。そんなときに限って、神様は追い打ちをかけるんだもん。ひどい話……」
脳内を僕の想像が駆け巡る。
車を目の前に動けなくなる少女。そして、それを突き飛ばすもう一人の少女。瓜二つの二人が、車の通過と同時に次の瞬間には一人になる。突き飛ばされた少女が、それを見ていたのか、既に気を失っていたのか。前者であれば、どんなに残酷なんだろうか。
「だからね、貰った命は大切に、二人分精一杯生きなきゃいけない。私はそう思う」
彼女は勢いよく立ち上がり、僕の手を引く。
「ほら、行くぞー!」
砂浜を一直線に駆ける。靴の中に砂が入って気持ち悪かったけど、渾身の笑顔を前に、すぐどうでもよくなった。でも、このまま進めば――
「ちょっと! 海! 前!」
「気にするな! 進めーっ!」
彼女は走ったまま器用に靴を脱ぐ。
僕はもちろん間に合うわけもなく、次の瞬間には冷たいのか痛いのかわからない感覚がつま先を襲う。
「うっひゃー! 冷たい!」
「当たり前だよ! 何考えてるのさ!」
足で水を飛ばしてくる彼女はまるで子供みたいだ。でも、演じているわけでもなく、ただ純粋に今という時を目いっぱい生きている。ただ、それだけで満足というように。
「何も考えてないよ。翔琉くんは考えすぎちゃってるから、私色に染めてあげようと思ってさ」
「靴も服も濡れて、帰りはどうするのさ!」
「だーかーら、考えすぎなんだって。何とかなるよ!」
そう言って、彼女は両手ですくい上げた大量の水を僕に思いっきり浴びせた。一度、びしょ濡れになると、もうどうでもよくなって、お返しに彼女に水をかける。
真冬の海で何をやってるんだと、周りが見れば絶対に思うはずだ。でも、この時だけはそんなことは気にならなくて、ただ単純に彼女の笑顔がもっと見たい、記憶に一秒でも長く残したい。それだけしか考えられなかった。