代わり映えのしない高校二年の十二月の出来事。彼女は烏の濡羽色みたいな長い髪をなびかせ、何食わぬ顔で担任の後に続いて教室に入って来た。
喧騒に包まれていた室内が、一瞬にして静寂に包まれる。
彼女はガラス玉を想起させる丸っこい透き通った瞳で教室を端から端まで一望して、静黙を余儀なくされた僕たちに向けて勢いよく口を開いた。
僕は彼女の自己紹介を話半分でしか聞けず――正確には、しっかりと聞くつもりだったのに耳に入る情報がそのまま半分ほど滞留することなく通り抜けていった。というのも、そもそも彼女が教室に来たのは朝のホームルームなんかではなく、もうすぐ太陽が真上に昇りそうな三限の終わり際。そして開口一番、彼女は自身の名前を述べるよりも前に「桜が綺麗で、見ていたら遅刻しました」なんて訳のわからないことを口にしたから。
「ということで、今日から転校してきた雨笠だ。まあ、色んな事情はあるが、みんなほどほどに仲良くするように」
「先生! 雨笠涼音です! ちゃんと名前まで言ってください!」
すかさず名前の補足を入れる彼女に、気怠そうな担任の背がさらに丸くなる。
まだ彼女が姿を見せてからほんの数分だというのに、なんだか余計やかましくなりそうだな。そんな容易に想像が付く思いに馳せていると、担任が僕の名前を口に出す。
「あー、それじゃ鳥野、放課後少しだけ職員室に顔を出してくれ」
調子のいい人間なら、ここで彼女と同じようにちゃんと名前まで言ってくださいとか言って、クラスの少しの人間を笑わせるんだろう。でも、僕にはそんなことが出来るわけもなく。
「はい」
結局、いつも通り発した小さい呟きのような返事は、笛のような甲高い隙間風にかき消される。それでも、みんなの視線が僕に向いていたのか、眼前の彼女も僕に目を向け、不覚にも目を合わせてしまった。
ニコッと眩しい笑顔をつくる彼女に、僕は軽く会釈をすることしかできなかった。
初手の印象があまりにも謎過ぎた彼女が、すでに関係が構築されたクラスに馴染むまでには時間がかかると思ったが、結局、彼女は放課後までには持ち前の明るさを全開にして、すんなりとクラスに溶け込んでいた。
多くの人に囲まれて質問攻めにあっている彼女を尻目に教室を出て、職員室に向かう。担任の佐渡先生は疲れを全面に見せて、椅子からずり落ちそうになっているところだった。ぼさぼさの髪に、剃り残しの目立つ髭、目元の隈はいつ見ても色濃く存在を主張している。
「おー、来たか」
四十過ぎのおじさんに相応しくよっこらしょなんて言葉と共に座りなおした佐渡は、不意に僕の後ろに視線を向けた。
「なんだ、雨笠も一緒に来たのか。ちょうどいい」
〝雨笠〟と〝ちょうどいい〟という二つの単語に、厄介な用事だなと瞬時に確信した。
僕の肩をトンっと白磁の細い手が触れる。次いで斜め下から覗き込むように彼女が僕の隣に立つ。
色白な肌は彼女の明るい性格には似つかわしくないなと、悪気もなく素直に感じた。
「やあ。ずっと後ろつけていたのに気づかないから」
彼女の言葉に反応するわけでもなく、正面に視線を戻す。
「何の用ですか? 先生」
佐渡は缶コーヒーを苦そうに一口飲み、手元のプリントを雑に机に放り投げる。
「まあ、簡単に言うとだな、学級委員の鳥野には雨笠の面倒を見てやってほしい。それだけだ」
「それだけって……」
「雨笠は転校してきたばっかりだし、つい最近まで長いこと入院していてな、勉強なんかも随分と遅れている。ほら、お前は成績も良いから、頼むよ」
佐渡の用事というのは、僕が想像していたよりもはるかに面倒な内容だった。正直に言えば絶対にやりたくない。何かと人目を惹きそうな彼女は、どうせ更なる面倒ごとを持ち込むに決まっている。
「わかりました。出来る範囲で善処します」
僕の思いとは裏腹に、口を衝いて出る言葉はいかにも優等生な発言でうんざりした。でも、先生の頼みだし、仕方ない。いつも通り、抵抗の言葉を飲み込んだ。
「鳥野みたいな生徒がいると、本当に助かるよ。それじゃ、よろしく」
話は終わりだと告げるように、佐渡は姿勢を崩す。
隣を一瞥すると、彼女もこちらを見ていたようで視線が交わる。彼女は面倒ごとを押し付けられた僕に申し訳なさなんて一切見せずに、嫣然とした笑みを浮かべた。
「よろしくね、鳥野……何くん?」
「翔琉」
「へー、なんて書くの?」
職員室だというのに大きな声で話す彼女に、僕は周囲からの視線が気になって仕方なかった。
「ほらほら、続きは外でやりなさい」
佐渡が都合よく助け船を出してくれた。彼の性格を鑑みるに、多分普通に邪魔だっただけだと思うけれど。
職員室を出て、彼女に校内を案内してまわる。その際も彼女はとにかく溌剌で、一緒にいるだけでいつもの何倍も疲労を感じた。
十六時を知らせる鐘が校内に響き渡る。
「とまあ、こんなもんだけど、他にどこか見ておきたい場所とかある?」
自販機の前で真剣に唸る彼女に声をかける。結局、悩んだ末に二つ飲み物を買った彼女は、その片方を僕に差し出す。
「はい、お礼!」
「え、いいよ別に。先生に頼まれただけだし」
「駄目だよ。親切にされたら、親切で返さなくちゃ」
受け取らない僕に、彼女は念を押すように差し出したペットボトルをさらに近づける。
「本当に大丈夫だってば」
「むー……。じゃあ、お近づき記念! ほいっ」
彼女はペットボトルを僕の目の前で頭上高く持ち上げると、ぱっと手を離した。思わず、手を出して落下するそれをつかみ取る。
「えへへ、ナイスキャッチ!」
彼女はくるっと回るように踵を返して、歩き出す。
「ちょっ、お金払うよ」
「いらなーい。それより、屋上行ってみたい!」
まるで人の話を聞かない彼女に、僕はため息を漏らす。これからしばらく、こんな調子で振り回されるのかと思うと、もう二、三度先払いで重い息をついてもよい気がしてきた。
「屋上はこっち。そっちからは行けないよ」
後ろ手を組んで陽気に歩く彼女が、こっぱずかしそうに振り向く。
「もー、早くに言ってよ」
「君の行動が早すぎるんだよ」
「君じゃなくて、涼音!」
ふくれっ面を浮かべる彼女。
「……雨笠さん」
「す、ず、ね!」
「どうしてそんなに名前に固執するの?」
僕の質問に彼女は当たり前だと言うように答える。
「私が、私だという証明だからだよ。だから、ちゃんと涼音って呼んでくれなきゃヤダ」
その時の彼女はやけに真剣で、力強い言葉に気圧された。大きな黒い瞳に吸い込まれてしまいそうで、思わず目をそらす。
「……涼音」
「よろしい! 優等生くん!」
「おい、今の流れはそうじゃないでしょ」
彼女は楽しそうに駆け出し、僕を追い抜いて階段を駆け上がる。そして、僕を見下ろす形で振り返る。
「冗談だよ、翔琉くん! ほら、早く行こ!」
天真爛漫な彼女に置いて行かれないように、いつもより足早に階段を登った。
十二月の夕暮れは、上着無しでは肌寒いなんてもんじゃなく、屋上に出た瞬間肌を突き刺すような寒さに襲われた。陽はすでに遠くに見える海の向こうに姿を隠しつつあり、天際が藍色に染まりつつある。
身を縮める僕に反して、彼女は寒さなど微塵も感じさせない様子で、先の柵まで駆け足で向かった。
「うわぁ~っ! 良い景色だね!」
山の上に位置する学校の屋上からは、早い暗闇に包まれつつある町と海を一望することが出来る。蛍の様にぼんやりと淡い光が町中をぽつぽつと照らし、幻想的とまではいかない良い景色を生み出している。
「きみ――じゃなくて、涼音は都会から転校してきたの?」
「そうだよ。ここにはおばあちゃんが住んでてね、昔は毎年遊びに来てたんだ」
今日、一度も笑顔を絶やすことがなかった彼女の表情が曇るのを見て、僕は深く追求はしなかった。
「この町は本当に良いところだよね~。山あり、海あり、自然がたくさんあって、景色も良い。服とか買うお店が全然ないのだけが難点」
「それに関しては全くの同意だね。ここには自然以外何もない。映画館だって、ショッピングモールだってない。本当、まんま田舎の観光地ってやつ」
「でも、それでいいんだよ。都会を感じたいなら、東京に行けばいいし。ここからなら二時間もかからないでしょ? 私には、この自然だけで十分」
彼女は屋上からの風景をぐるっと眺望し、続ける。
「私がここに来た理由は、最高の景色を見つけるためなの」
「最高の……景色?」
両手を大っぴらに広げて彼女は空を仰ぐ。
「そうっ! 人生で一生かかってもほかに越えられない最高の景色! どう? 素敵でしょ?」
「こんな辺鄙な観光地に、そんなものがあるとは思えないんだけどね」
「そんなことないよ! とも言えないね。最高の景色ってそんなの人によって違う。ここにあるかもしれないし、ないかもしれない。だから、ここに来たのはただの勘と、今までの思い出を手繰って来ただけなの」
一つ小馬鹿にした発言でもしようかと思って、すんでのところでその言葉を飲み込む。
彼女の吐息が白い霧になって冬の空気に溶けていく。鼻の先を少し赤らめる彼女の横顔はとても綺麗で、目の前にいる彼女をどうにか残したくて、気が付けば指で四角をつくって彼女を映していた。
小さな輪郭、サクラ色にほんのり色づく口元、その上にすっぽりと収まる小鼻。何より、透き通る黒の大きな双眸が、僕の視線を釘付けにして離さない。
単純に周りの人たちに比べて随分と整っているからという理由だけで、ここまで惹かれているわけではない。元から持ちうる素材を存分に生かした表情や仕草が、彼女の存在を最大限引き立てているのだ。
不意に彼女がこちらを向く。僕のしている行為の意味を理解したのか、まるで今現在の空を思わせる曇りなき笑顔を見せる。そして、お返しだと言わんばかりに指を四角折りにして、僕をフレームに差し込む。
こういう時、どうしたらよいのか経験もなく、僕は果てに出来る限りの笑みを浮かべた。つもりだった。
彼女が面白そうに声を出して笑う。
「あははっ、翔琉くんなにその顔。苦い虫でも口に放り込まれたみたい」
「涼音の真似をしたつもりだったんだけどね」
「え~、私って翔琉くんにはそういう風に見えてるってこと? 侵害だなぁ」
「違うよ。僕が笑顔をつくるのが苦手なだけなんだ。涼音の笑顔は、なんていうか、その……とても絵になる」
僕の拙い、けれど思春期男子にしては頑張った伝え方に、彼女はまた軽快に笑った。
「じゃあ、勉強を教えてもらう代わりに、私が笑顔のコツでも教えてあげようかな」
「僕にはあまり必要のない表情なんだけどね」
「そんなことないよ。笑顔は大事。自分だけじゃなくて、周りの人も良い気持ちにさせることが出来るんだもん。魔法と一緒だよ」
常に周りの顔色を窺って、都度合わせるように表情塗りたくってきた僕には、理解しにくいことだった。
彼女は大きく伸びをする。深く息を吸い込み、満足げにすっかり濃い青に染まった空に向けて吐き出す。
「んー、最近は過ごしやすい気温でいいねぇ」
僕にはとてもそうは思えなかった。真冬の山上にある建物の屋上で、しかも太陽の沈んだこの時間に過ごしやすいなんて、感じたこともない。現に今だって気を抜けば、足下から震えが全身に伸びてしまいそうだ。
「涼音は寒いのが得意なの?」
「えっ? 嫌いではないけど、多分苦手なほうだよ。だから、今はすごく風が気持ちいい」
彼女は雪国の都会から転校してきたのだろうか。そう思わせるほどの劈くような乾っ風が僕の思考を鈍らせる。
「ちなみに僕はもう限界。風邪引くし、そろそろ帰らせてもらうよ」
人口的な灯りを強める町並みから目を離し、踵を返す。
「えー、もうちょっと見てようよ。せっかくここからがロマンチックな時間なのに」
彼女が後ろで不満げな顔をしているのが、見なくてもわかった。
「僕は帰るけど、涼音はもう少しいればいいよ。風邪引かない程度にね」
言い終わるころには彼女は小走りで僕の横を陣取り、赤くした鼻を陽気にならしていた。
「何言ってるのさ。一緒に帰るよ」
「一緒に帰るの?」
「そう、一緒に!」
隣で鼻歌交じりに添う彼女に、僕は改めて面倒なことを押し付けられたな、と再認識する羽目になった。
*
帰宅する頃には十九時を越えていた。
彼女との帰路はとにかく寄り道が多く、半ば強引に連れまわされて、普段なら三十分もかからない帰り道のはずが、二時間以上かかってしまった。
廃れた町に寄り道をするところなど、数件のコンビニか、ファミレスくらいしかないと高を括ったのがそもそもの過ちだ。むしろ、彼女は人工物なんかには目もくれず、川を見つければおもむろに靴下を脱いで膝が浸かるくらいまで入ったり、なぜか冬木の桜をずっと眺めて目を輝かせたりとめちゃくちゃだった。
行き過ぎた好奇心なのか、本当に頭のおかしい子なのか。それでも、常に笑みを浮かべる彼女を眺めていると、彼女の言っていたことは割と本気の発言だったのではないかと思えてくる。
――最高の景色。
そんな漠然としていて、不透明なものを求めて、彼女はこんな田舎町まで来たというのだ。季節を無視した破天荒な振る舞いも、そのためとでもいうのだろうか。でも、そうでなければ十二月の極寒の夜川で、あんなにも浮かれ騒ぐことなんて出来そうもない。
なんにせよ、いつも通りの平凡でつまらない生活とは程遠い一日に目がくらみそうだった。
「ただい――」
「翔琉! こんな時間まで何してたの!」
玄関を開けてすぐに怒声がリビングから聞こえてきた。声の主が憤然とした面持ちで姿を見せる。
「今日は塾もなかったでしょ! 今、何時だと思っているの!」
「ごめんなさい、母さん。少し、先生に用事を頼まれて遅くなったんだ」
僕はとっさに嘘をついた。というか、別に嘘ではない。随分と大まかに説明しただけだ。
激しい剣幕だった母親は眉のしわを解く。
「それならしょうがないわね。いい? 内申にも響くんだから、先生方の言うことはちゃんと聞くのよ」
幾度となく聞いた台詞に、今日何度目かわからないため息を心の中でつく。
「……わかってるよ」
「そしたら、早くご飯とお風呂すませて勉強しなさい。もうすぐ模試でしょ。成績を下げるのは許しませんからね!」
ぴしゃりと言い放つ母親に相槌を打ち、自室へと逃げ込む。鞄を椅子の上に放り出し、ベッドに身を投げる。瞬間的に襲いかかる微睡を振り払うようにスマホを見ると、つい先ほど別れたばかりの彼女から連絡が来ていた。もちろん、無理矢理交換させられたわけで、なんとなくすぐに彼女から連絡が来るのは予想していたから、特に驚くこともない。
『やっほー。元気かい? 私は超元気!』
次いで通知が更新される。
『明日は土曜日だし、翔琉くんは暇だよね?』
壁にかかるカレンダーを確認する。十二月のほとんどを空白が支配していて、明日もその例外ではなかった。
『僕は忙しいよ』
『じゃ、十二時に駅前ね! それじゃ、おやすみ!』
まるで意に介さない返答に、慌てて断りの文章を打ち始める。
休みの日まで彼女に引っ張りまわされるなんて、まっぴらごめんだ。
打ち込む途中で、彼女から追加でスタンプが送られてくる。デフォルメされた蝉のイラストで、横には丸っこいフォントで『異論は認めま蝉』と書かれている。
何ともあほらしいスタンプに、僕は彼女と事を構えるのを諦めてスマホを閉じた。
次の日、母親には図書館で勉強してくると嘘をついて、駅前に向かった。
観光地とはいえ、年末にはあまりにも早すぎる十二月の半ばに来るような人も中々おらず、駅前ですら閑散とした気配を漂わせている。
ぽつぽつと人がいるだけの駅前に、彼女は既にいた。約束の時間まではまだ二十分もあるというのに。
そして、今日も彼女は変な人だなと、服装や表情ではなくその輪郭を見るだけで直感的に思った。町の様を映したような冬の枯草しかない花壇を、わざわざ膝折にしてまで眺めていたのだ。
「まだ約束まで随分と時間があるみたいなんだけど」
僕の言葉に彼女がぱっと振り向く。そして、今日も清々しい笑顔を携えて立ち上がる。
「こんにちは、翔琉くん。来てくれないかと思ったよ。それにしても早いね」
「それは僕が最初に質問したことだよ」
「あ~、さてはデートが楽しみ過ぎて早くに来ちゃったんでしょ」
男の子だなぁなんて言いながら、彼女は歩き出す。相変わらず人の話は聞かないし、行動の早い人だ。
「何も聞かされていないで、ワクワクできるほど僕は図太くないよ。むしろ、何をされるのかって不安しかない」
「こんな可愛い子になら何をされたって文句はないでしょ?」
少し後ろを歩く僕に向けて、わざわざ振り返ってまでウインクをする彼女に、今日も振り回されるんだろうという覚悟が固くなる。
「それより、素敵なお姉さんから一つ翔琉くんに教えてあげることがあります」
「……なに?」
「女の子と会ったときは、まず褒めなさい!」
海沿いの潮風が、彼女の桜の花を思わせる淡いピンクのワンピースの裾をなびかせる。薄衣のようなレースと刺繍が施されていて、服からチラリと覗く首元や腕、足の透明感ある肌を際立たせている。ウエストに巻かれた細い黒ベルトが彼女の華奢な身体つきをしっかりと魅せる。
肩からはオーバーサイズの白いカーディガンを羽織り、手元には大きなバスケット。濡羽色の艶やかな髪はローポニーテールで毛先を軽いカールで遊ばせている。
「お洒落だとは思うけど、次からはもう少し控えめにしてほしい」
「どうして?」
都会から来たと言っていただけあって、彼女のお洒落な服装は、この町では嫌でも目立つ。そして、それは逆説的に側を歩く僕の稚拙な服装をさらに際立たせていることになる。
「隣を歩くのが余計億劫になるからだよ」
彼女の視線が僕のつま先から徐々にせりあがる。
「別に変な服装ってわけでもないじゃん。私から見たらちょっと暑そうだけど」
「これでも十分寒いよ」
海風に冷える肌を隠すようにマフラーを口元まで上げる。
「それで、一体どこに向かっているんだい?」
「んー? 海だよ」
「海なら、今目の前に広がっているじゃないか」
僕が海を指さすと、彼女はつられてそちらを向く。
「ここも綺麗なんだけど、観光地の海だからねぇ……」
なるほど、と妙に納得した。
確かにここは夏は観光客が砂浜を埋め尽くすため、浜辺には冬の今もその残骸が多く残っているし、海面だって特に透明度が高いわけでもない。地元の人や通な旅人が足を止めるような場所では到底ないビーチだ。
「私が求めるのは最高の景色なんだから、妥協なんかしちゃダメなんだよ」
「それって、僕必要なくない?」
「どうして? 翔琉くんはもう最高の景色を探す隊の一人なのに?」
「……えっ?」
不思議そうに上半身ごとかしげる彼女に、僕は当然の疑問を投げかける。
「いつ僕が入るって言ったのさ」
「言ってないけど、私の話を聞いた時点で、入ったことになっちゃうんだよ」
「そんな、横暴な……」
「ちなみにメンバーは私と翔琉くんの二人だけです。頼むよ、副隊長」
少し前に見えるバス停にバスが止まったのを見て、彼女は慌てた表情で走り出す。
「まずいよ! あれ逃したら次、三十分後だよ!」
「バス乗るなんて聞いてないよ!」
出会って十数分で既に何回、彼女に翻弄されたかわからない。
バスに間一髪でかけ乗り、座席で小さな息をつく。すぐに暴れる心臓が波を治め、ようやく隣の彼女が激しい息切れをしていることに気が付いた。
「だ、大丈夫? ほら、水飲んで」
僕は急いでリュックからペットボトルを取り出して、彼女に渡す。
そういえば、彼女は長いこと入院していた。まだ体力が戻っていないのだろう。
こんな時でさえ、彼女よりも周りの目を気にかけてしまう性格に、心底嫌気が差す。
「ぷはぁーっ! ありがとう、やっぱり体力落ちてるなぁ」
まだ荒い呼吸だが、彼女に笑顔が戻ったことに胸をなでおろす。
「無茶しないで、三十分大人しく待てば良かったんだよ」
「ダメダメ。時間は有限だよ、少年。でも、これで一つ君を付き合わせる名目が出来たよ。もし一人で倒れたりしたら大変なことだからね。翔琉くん、人の頼みは断れない性格みたいだし」
無邪気に笑う彼女越しの海が、冬の強い日差しでキラキラと輝く。
「それなら、他の人もその最高の景色を探す隊? とやらに入れればいいじゃないか。そもそも、なんで僕なのさ」
「そんなの簡単だよ。私は決めてたんだ。この町に来て、最初に素敵な景色を見せてくれた人にだけ頼もうってね。だから、これ以上メンバーを増やす気はないよ」
「屋上行きたいって言ったの、涼音だよ。僕が進んで連れて行ったわけじゃないんだけど……」
「いいじゃん、いいじゃん。そんなの気になさるなよ若人。もし存外早くに最高の景色が見つかったら、今度は私が君の夢に付き合ってあげるからさ」
膝の上に置いたバスケットを大事そうに抱え、彼女は窓の外へ視線を向ける。その横顔はやっぱり僕の目を惹いて、思わずリュックから画材を取り出しそうになった。
バスは住んでいる町よりさらに田舎の方へと海沿いを走り、二十分ほどで目的の場所に着く。下車した瞬間、車内の暖房で忘れかけていた冬の凍てつきを思いだす。
急こう配な細い坂の上から、遠くの方にここからでもわかるほど透き通った海が見える。
「うわーっ! これだよ、これ!」
「来たことあるの?」
「小さいころに家族でね。すっごく綺麗だった気がするんだけど、幼かったからあんまり覚えてないの。だから、もしかしたらこれが最高の景色になるかもしれないんだよ」
二、三百メートルはありそうな坂を下る最中、小さな不安がよぎった。
「涼音、この坂結構な距離だけど、大丈夫なの? 特に帰りは上りだけど……」
「うーん、わからない! でも最悪、翔琉くんにおぶってもらうから大丈夫だよ!」
ニコッと日差しにも負けない笑みにため息が引っ込む。
「タクシーの番号は調べておくよ」
「えー、もったいない! 二つの意味でもったいない! お金もだし、女の子の身体を味わう絶好のチャンスなのに!」
「時間は有限、なんでしょ? 効率の問題だよ。後、僕は涼音を背負ってこの坂を上れる自信はこれっぽっちもないよ」
「失礼な、今の私は過去一で軽いんだから大丈夫だよ」
それは、入院していたからということなのだろうけど、言葉に出して追求することは憚られた。
「それに景色って、なにも風景だけじゃないよ。人工的な街並みだって、何気ない朝の教室だって、テーブルに並ぶ食事だって、全部景色なんだよ。それにその時の心境とか、いつ誰と見るのかによっても変わってくるんだろうし」
だからね、と彼女は続ける。
「もしかしたら、私の求める最高の景色っていうのは、翔琉くんの背中から見た景色かもしれないのだよ」
上目で見つめてくる彼女の魂胆は何となくわかっていて、僕はかたくなに正面の海から目線を動かさない。
「僕と涼音の身長は十センチも変わらないよ」
「もー、そういうことじゃないし、ここはドキッとするところでしょー!」
僕がひねくれたことを返すし、彼女が時折茶化すこともあるから深く考えることは出来ないけれど、彼女の熱量だけは強く感じ取れた。
坂道も終わり、木々の生い茂る細道を抜けると同時に、強い浜風が僕らを叩きつける。砂が目に入らないように覆っていた手をどけると、そこは一面の青で、僕は思わず声を失った。
プライベートビーチを思わせるゴミ一つ落ちていない砂浜に、まるで外国の海のように透き通った海面、全身に感じる潮の香り。Uの字に切り取られた浜辺と三方向を囲う緑の山々が、一層この場所を秘境のような隠れスポットだと感じさせる。
実は、僕も幼い頃にこの場所へと来たことがある。その時は潮の香りも、海の透明度も具体的に印象が残るわけでもなく、ただ小さな砂浜だなぁという感想しかなかった。
でも、成長した今になって、もう一度ここへ来てよかったと心からそう思えた。
傍に目をやると、彼女は嬉しさに揺れるような微笑みのまま、瞳に涙を浮かべている。長い睫毛に雫が触れ、きらきらと輝く。
「綺麗だね」
「……うん」
眼前の景色は彼女を見た瞬間から、完全に背景へと化していた。
「じゃじゃーん! なんと美少女がお弁当をつくってきましたー!」
浜沿いの石階段に腰を降ろすや否や、彼女はこれまで大事そうに抱えていたバスケットを開けた。中にはタッパに綺麗に敷き詰められたサンドイッチが入っている。
「ちょっと、何とか言ってくださいな」
「何というか……意外?」
「はい、デリカシー! ゼロ点だよ。翔琉くんはもう少し、いやもっと素直になる必要があるね」
彼女がサンドイッチを手渡す。二枚のパンに挟まるハムやチーズ、胡瓜やレタスも見え隠れしていて、朝から何も入れてない胃が自然と音を立てる。
一口食べると、からしマヨネーズの鼻をつく香りと野菜のみずみずしい食感が舌を包み、一拍遅れてハムとチーズの濃い味が口中に広がった。
想像以上の美味しさに舌鼓を打っていると、若干不安げな表情の彼女が僕を覗き込んでいるのに気が付く。
「ど、どう……?」
「美味しいよ。本当に」
瞬間、彼女は花が咲いたように笑みを浮かべる。
「そうでしょ、そうでしょ! 朝から頑張って作ったんだからね!」
素直になったほうがいい。彼女のこの表情を見れるのなら、確かにその通りかもしれない。
彼女は本当に絵になる。いつもの笑顔も、先ほどの不安げな顔も、安心したようにサンドイッチを頬張る彼女も。彼女を包む雰囲気が、一つ一つの仕草が、そして時折見せる今にも崩れてしまいそうな儚い気配が、僕の心を突き動かす。
気が付くと、僕はまたひとりでに指のフレームに彼女を記録していた。
「ちょっ、流石に食べてるところは恥ずかしいよ」
頬を軽く赤らめてそっぽを向く彼女。サンドイッチを食べる一口も、心なしか小さくなっている。
「私なんか見てないで、景色を見てよぉ」
そんなことを言われても、僕は彼女から目を離せなかった。恋愛感情なんて甘いものではなく、彼女を一つの美術品として見ているのかもしれない。
その後は他愛もない会話――といっても彼女がほとんど一人で喋っているのを、僕が相槌を打つことで、小一時間が過ぎた。バスケットの中は早いうちにカラッポになり、隙間の空いた空間が寂しげに顔を覗かせている。
彼女は話をしている間もずっと海を眺め、たまに四方を見渡す。その眼を輝かせ、充実に満ちた面持ちで耽っている。本当は、会話は僕に対する気遣いで、不要なリソースなのかもしれない。
僕もぼんやりと海を眺めては、彼女を見て、久しく感じた緩やかな時の流れに身を任せていた。
不意に思い立ってリュックに押し込んだスケッチブックを取り出し、鉛筆を走らせる。
「およ? 翔琉くん、絵描けるの?」
不思議そうに僕の手元を覗き込む彼女。恥ずかしいからやめてほしかったが、さっきのことがあった手前、お互い様なのだろう。
「まあ、趣味みたいなものだよ。上手くは無いんだけどね」
「私、絵なんてこれっぽっちも描けないから、尊敬するなぁ」
「家じゃ中々描けないから、たまに外でこうやって何となく描いてるだけだよ」
本当は彼女を描いてみたかった。けれど、彼女の邪魔をしたくなくて、結局目の前の景色を筆で再現する。それに――
「じゃあ、私も描いてよ!」
「僕は人物画は苦手なんだ。だから、まあ、上手くなったらそのうちにね」
彼女を描くだけの器量も、度胸も今の僕にはない。彼女の魅力や底に隠れている何かを、絵で再現できるなんて微塵も思わなかった。今の僕が描けば、逆に彼女を汚してしまう。そんな気がした。
「ふむふむ、それじゃあまた一つ、君が私に付き添う理由が見つかったね」
「というと?」
「私は最高の景色を見つける。そして、その景色と私を翔琉くんが絵に収める。そうすれば私は未来にずっと残り続ける。どう? 素敵でしょ?」
何の迷いもなく、彼女は言ってのけた。僕が彼女を描けるようになることを、そして彼女が最高の景色を見つけることを。
「それもいいかもしれないね。でも、涼音はどうか知らないけど、僕は来年には受験が控えているし、親も僕が絵を描くことは許さないと思う……」
彼女は手元の小石を砂浜に向けて放り投げる。
「翔琉くんって、マザコン?」
予想外の質問に思わず筆が滑る。
「そんなんじゃないよ。ちょっと親が厳しいだけ。だから、今は勉学もやらなきゃいけない」
「じゃあ、将来何かなりたいとかってあるの?」
「別にないよ。親とか先生の言い分はわかるし、理解しているから従っているだけ。良い大学に入れば選択肢は広がるし、後々便利だから」
彼女は珍しくつまらなそうにもう一つ小石を投げ、先ほど投げた小石よりも遠くに音もなく着地した。
「そんな何となくで今を過ごすより、もっと目の前にある好きなことに一生懸命になるべきだよ」
彼女は僕の手元を指さす。
「翔琉くんは絵が好きなんでしょ? なら、君が勝負する場所はこっちなんじゃない?」
「絵はそれこそ大学に入ってからでも出来るよ」
「出来ないかもしれないじゃん。翔琉くんは来週にだって死ぬかもしれない。だとしたら、翔琉くんが今やるべきは勉強じゃなくて、好きなことだよ」
いつの間にか、僕の手は完全に止まっていた。
「そんな、突拍子もないこと言われても……」
「そんなことないよ。人がいつ死ぬかなんて、誰にもわからない。百年後かもしれないし、明日かもしれない。過去を振り返るのは意味のないことだけど、未来に保険をかけて今を生きるのはもっと意味のないことだよ」
「……」
押し黙る僕に、彼女は「もちろん、翔琉くんが望んで勉学に励んでいるのなら、話は別だけどね」と付け加える。
「翔琉くんは才能って信じる?」
「生まれながらにして得た能力の違いなら、あるとは思ってる」
「私はね、存在しててもそんなものあってないようなものだと思う。身体の関係とかならしょうがない部分もあるけど、そうじゃないなら才能なんて目に見えないもの関係なく、私たちは何にだってなれるんだよ」
それに、と彼女は続ける。
「今、努力している人はきっと来年も、その先も努力を続けるとして、その後から始めた人間が同じだけ努力したって一生追い付けない。それなら、今すぐにでもやりたいこと、叶えたい夢に向かって動き出すべきなんだよ」
そう言い放った彼女はどこか寂し気で、愁いを帯びていた。
「それは、考えたことがなかった……。大人はそんなこと教えてくれないし」
「そういう人に巡り合わなかっただけだよ。大人だって、色々いるんだし。だから、私と出会えてラッキーだったね、翔琉くん」
あどけない笑みを見せる彼女に、僕は敵わないなと実感した。
「ちなみにね、さっきの話に戻ると、私はマザコンで、ファザコンだし、何より大のシスコンだよ」
彼女は仰々しく胸を張る。
「姉か妹がいるんだ。一人っ子だと思ってたよ」
「死んじゃったけどね」
思わず、スケッチブックに向けていた顔を上げて彼女に目をくれる。彼女は空を仰いで遠くに目をやっていた。細めた瞳で何かを訴えるように。
「それは……ごめん」
彼女は目を丸くして大袈裟に笑った。
「なんで翔琉くんが謝るのさ。私から言い出したことだよ。それに隠しておくことでもないんだ」
肌を撫でる冬の潮風が、なんだか一層身に染みた。彼女は砂浜に走っていき、同じ大きさの小石を二つ拾って戻ってくる。
「私たちは双子だったの。陽音と涼音。生まれた時からずっと一緒で、お姉ちゃんの考えてることは何でもわかって、お姉ちゃんも私のことを何でもわかっていた。本当に鏡映の存在。着るもの、好きな食べ物、気になっている男の子。全部が一緒だった」
「涼音がもう一人いるって考えたら、想像しただけでやかましそうだ」
重い話題に耐えられず、つい口を挟んだ。彼女は声に出して笑ってくれたが、僕には後悔しかない。
「でもね、九歳の時、ある出来事からお姉ちゃんは変わっちゃった。教室の隅っこで友達もつくらないで本ばっかり読んで、いつしか私のことも避けるようになってた」
彼女は足元の砂を指先でなぞりながら、思いだすように馳せる。
〝ある出来事〟に陽音が消極的な性格になってしまった理由があるのだろう。でも、それを聞いても良いのかわからず、逡巡した。
「でも、私はやっぱりお姉ちゃんが大好きだから、ずっとお姉ちゃんに付きまとって、私たちはいつの間にか高校生になってた。みんなに似てないねって言われちゃったけど、私は知ってるんだよ。お姉ちゃんは元気いっぱいで、本当にすごい人なんだって。この私みたいに、ね!」
彼女はさっきまでの、寂寥感を垣間見せる表情を断つように、決め顔でウインクをする。
「その、お姉さん――陽音さんが亡くなった理由は、聞かない方がいいのかな……?」
彼女はゆっくりと首を振る。
「むしろ、ちゃんと聞いてほしい」
「……わかった」
そうして、彼女はゆっくりと、寂しげな笑みを携えて語りだした。
「女の子が八か月入院して寝たきりだった理由は、頭を強く打っちゃって、その打ち所が悪かったから。そして、双子が引き裂かれた理由は信号無視の車との衝突事故。頭のいい翔琉くんなら、もうわかるでしょ?」
彼女は手のひらの小石を片方、砂浜へと投げ捨てる。
鉛筆を握りしめる手に力がこもって、芯が砕ける感覚が指先を伝った。
「その日は、帰り道に珍しく喧嘩しちゃってね。そんなときに限って、神様は追い打ちをかけるんだもん。ひどい話……」
脳内を僕の想像が駆け巡る。
車を目の前に動けなくなる少女。そして、それを突き飛ばすもう一人の少女。瓜二つの二人が、車の通過と同時に次の瞬間には一人になる。突き飛ばされた少女が、それを見ていたのか、既に気を失っていたのか。前者であれば、どんなに残酷なんだろうか。
「だからね、貰った命は大切に、二人分精一杯生きなきゃいけない。私はそう思う」
彼女は勢いよく立ち上がり、僕の手を引く。
「ほら、行くぞー!」
砂浜を一直線に駆ける。靴の中に砂が入って気持ち悪かったけど、渾身の笑顔を前に、すぐどうでもよくなった。でも、このまま進めば――
「ちょっと! 海! 前!」
「気にするな! 進めーっ!」
彼女は走ったまま器用に靴を脱ぐ。
僕はもちろん間に合うわけもなく、次の瞬間には冷たいのか痛いのかわからない感覚がつま先を襲う。
「うっひゃー! 冷たい!」
「当たり前だよ! 何考えてるのさ!」
足で水を飛ばしてくる彼女はまるで子供みたいだ。でも、演じているわけでもなく、ただ純粋に今という時を目いっぱい生きている。ただ、それだけで満足というように。
「何も考えてないよ。翔琉くんは考えすぎちゃってるから、私色に染めてあげようと思ってさ」
「靴も服も濡れて、帰りはどうするのさ!」
「だーかーら、考えすぎなんだって。何とかなるよ!」
そう言って、彼女は両手ですくい上げた大量の水を僕に思いっきり浴びせた。一度、びしょ濡れになると、もうどうでもよくなって、お返しに彼女に水をかける。
真冬の海で何をやってるんだと、周りが見れば絶対に思うはずだ。でも、この時だけはそんなことは気にならなくて、ただ単純に彼女の笑顔がもっと見たい、記憶に一秒でも長く残したい。それだけしか考えられなかった。
机の上に広げた参考書の開かれたページは長い時間空白のままだ。
手元をさまようペンは余白に絵を描き始める始末。問題を解こうとしても、集中なんて出来ず、頬杖をついて時間が過ぎるのを待つ。
その様子にちょうど戻ってきた男性は、驚いたように食べかけのドーナツを口から零した。ズレた丸眼鏡を直す癖は彼が困ったときにする、この一年通して見てきたお決まりの仕草。
「珍しいね、翔琉くんが手止まってるの」
パーマと脱色を重ねて随分と傷んだ金茶色の髪は、先週来た時とはまた違う色になっていた。
「なんか、今日は集中出来なくて……」
その様子を見て、彼は楽しそうに笑った。
「そっかー、翔琉くんにもそんな日があるんだね。僕はてっきりロボットの家庭教師をやっているものだと思っていたから、なんか新鮮でいいね」
「ロボットって……。結構、ひどいこと言ってるの気づいてます?」
「もちろんだとも。それで、いつも優等生の翔琉くんがこの大事な時期に集中出来ない理由は何なのかな? もしかして、好きな子でも出来た? 早い春来た!?」
「そんなんじゃないですよ。ってか、響島さんこそ、今日はいつもと違いますよ」
彼は身なりはともかく、いつもは真面目な家庭教師をしてくれるのに、今日は何だかまるで友達か後輩と楽しそうに話すような物腰だ。
「僕はその人に合った教育方針を取っているだけだよ。真面目な生徒には真摯に。参考書の隅っこに絵を描いちゃう子羊には一緒に悩んであげる狼で」
彼はテーブルに置かれてすっかり冷めきった紅茶で、ドーナツを流し込む。
「別に悩んでいるわけじゃないですよ。ただ、ちょっと勉強をする意味がわからなくなっているだけです」
ずっと、彼女の言葉が引っかかっていた。何となくで過ごしていた毎日にひびが入ったみたいで、当たり前だったことに手が動かないでいる。それはきっと、彼女の言葉に僕が心のどこかでは納得して、共感しているから。
「ふむふむ、誰かの入れ知恵があったことは確かっぽいけど、勉強をする意味か……。それに関しては持論ではあるけど、学業っていう面での勉強は絶対的な必要性というのは感じないかな」
彼は大きく伸びをして続ける。
「そもそも、勉学の必要性に関しては子供のみんなが潜在的に抱えている疑問だからね。で、大人たちは将来のためって口々言うわけだ。僕は大人のこの発言が良くないと思うんだよね。将来っていう不確定で、見通しのつかないものをメリットに主張しているから、子供は疑問が抜けない」
「僕が疑問を持った理由も、そういうことかもしれないです」
大人の言いなりになって勉強ばかりの高校生活で、良い大学に入って、良い企業に就職する。そこに果たして、自分という個は存在するのだろうか。少なくとも、がむしゃらに生きる彼女のように力強く輝けるとは到底思えない。
「実際、大人になったら学校で習うことの九割以上は使うことは無いよ。じゃあ、どうして勉強するのか。そこには直接的な知識を残すためじゃなく、思考力、発想力、言語能力とかの成長を促すためだと僕は思っている。一方で、不要な固定概念の定着とか、表現力に関してはむしろ凝り固まって劣っていくものだと思う。だから、僕は勉強が絶対に必要だとは言わない」
彼は僕よりたった三つ上の大学生なのに、どうしてかすごく大人に見えた。
「一つ、怖い話でもしようか。僕の父親は贔屓目で見なくとも頭が良くて、僕が生まれる前からずっと小さな会計事務所に勤務していた。でも、五十を超えて、あと少しで定年ってところで、社内のまるで子供みたいな嫌がらせで自主退職せざるを得なくなって、退職金も出ないまま会社を辞めたよ。馬鹿な話だよね」
彼はテーブルに置かれたドーナツを綺麗に積んでいく。
「それは本当にひどい話ですね……」
「嫌がらせの首謀者は社長の息子で、まあよくありそうな話だよね。でも、家庭を持って責任感も強い父親が辞めるっていう選択肢が出るくらい、ひどかったんだ。それで、その会社はその後どうなったと思う?」
いつも飄々とした表情の彼だけど、その瞳には小さな怒りが宿っている。
「響島さんの父親のような被害者をたくさん出したとか……?」
「次の被害者が出るまでもなく、数年で倒産したよ。良い大学に入って、満足いく年収を貰えていた会社で何人分もの仕事をこなした父親が、馬鹿な大人のせいで人生を狂わされた。実際、その退職騒動で僕の親は喧嘩が増えて、母は変な占いを信じて、離婚しかけたからね」
高く積まれたドーナツを彼は横から小突いて倒す。
「実の母親がSNSの裏垢で死にたいって呟いてるの見つけた時の僕の気持ち、わかるかい? 社会ってクソなんだなって心の底から思ったよ。だから、僕はどこかの会社に属すこともなく、一人で生きていけるように頑張ってる。これが、僕の今やりたいことさ」
「……ある人に言われました。明日死ぬかもしれないんだから、好きなことをやるべきなんじゃないかって」
「極論だね。でも、間違ってはいない。大事なのは、やるべきことだろうと好きなことだろうと、そこに自分の考えがあって、脳みそを使っているかどうかだよ。惰性でやることに何の意義もないからね。それこそ仕事とかだけで十分だよ。あ、僕まだ大学生だけどね」
彼は不躾にも、僕のカバンから覗いたスケッチブックを抜き取り、パラパラと開いた。
「うぉっ!? 翔琉くん、こんなに絵上手いんだ。そりゃ、悩んじゃうよねぇ」
誰にも見られたことのなかった、僕からすれば羞恥の塊だというのに、彼はお構いなしだ。
「ただの趣味ですよ。でも、それを仕事に出来るなんて思わないから、悩んでます」
「別に仕事にするために頑張らなくてもいいんじゃん? このご時世、働くに困ることなんてないんだから。好きなことをがむしゃらに頑張る。そこにそれ以上の理由付けはいらないよ」
彼はおもむろにノートを取り出して、窓の外を眺める。そして迷うことなくペンを走らせて、外の風景を描き始めた。ぶれぶれの線に、ちぐはぐなパース。まるで小学生の落書きみたいだ。でも、表現を続ける彼の表情はとても真剣で、事あるごとに満足そうな笑みすら浮かべている。
「出来た! どうかな?」
「ミミズの集団を描いたわけではないんですよね?」
「うわぉ、辛辣ぅ~」
美術の先生が発狂してしまいそうなひどい絵なのに、どうしてか目を惹かれて窓の外の景色と見比べた。
「なんで、入道雲なんですか?」
入道雲といえば、季語にもなっているくらい夏をイメージさせるものだ。まして、今日の空に雲は一つもなく、一面青のベールに包まれているというのに。
「だって、想像で描いちゃいけないってルールはないでしょ? 僕は入道雲が好きだから描いた。それだけだよ」
でも、やっぱり冬の風景に入道雲なんて変な感じだ。
「翔琉くんの絵は凄いけど、どれも普通だなぁっていうのが素人意見。ここでも優等生が出ちゃってる感じ。もっと、自由に自分の描きたいように描いてもいいんじゃない?」
彼は描いた絵をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てる。見るに値しないような作品だったのに、どうしてかもったいないなと感じた。
「じゃあ、翔琉くんに宿題を出そうかな。いつか、僕に君が自信を持って見せられる絵を描いてくること!」
僕が自信を持って他人に見せられる絵。子供のころは描けた、今は描けなくなったもの。
何から手を付けたらよいのかわからなくて、無性に彼女に会いたくなった。彼女なら、きっと答えを知っている。そんな気がした。
*
彼女が転校してきてから二か月が経ち、厳しい寒さと彼女に振り回される生活にもようやく慣れてきた頃、彼女はクラスで完全に変な人扱いになっていた。
別に虐められているとか、仲間外れにされているというわけではない。友達はいるらしいし、持ち前の明るさで誰とでも話す。しかし、周りは眉をひそめた疑わしそうな視線を彼女に向ける。
みんなが彼女は変なやつだ、という共通認識がクラスの中で暗黙的に定まっていた。
かく言う僕も、彼女に当初から抱いていた小さな気持ちが、今では確かな疑問に変わるくらいには大きくなっている。
まだまだ寒さの厳しい二月。彼女はついに半そでで登校してきた。
その異様な光景に、クラスが一瞬静まり返る。
「おっはよー!」
凍り付いたクラスの空気を彼女の溌剌な挨拶が叩き壊す。吃驚で包まれた空気も、結局はすぐに彼女はそういう人という事前認識のおかげで、変な雰囲気にはならなかった。
そもそも、最初から変だった。十二月だっていうのにコートの一つも持たず転校してきて、海に行った時も、どこか春を想像させる服装だった。それでも、一応は手首から上を露出させないものだったから、単純に元々薄着な人なんだなとしか思ってはいなかった。
「よっ、翔琉くん。おはよう。良い天気だね!」
目の前で机に深く腰を掛けた彼女に一瞥をくれ、窓の外を見る。確かに冬の寒さがたっぷりと染み込んだ空は珍しく太陽を遮るものが一切なく、校庭を強く照らしていた。
「おはよう。……寒くないの?」
彼女の肢体がすぐ目の前にあって、特有の甘い香りが鼻腔を刺激した。ざわつく鼓動を騙すために、深めの息をつく。思春期の男子に、この距離の女性は毒蝶に等しい。
「んー? 寒かったら半そでなんかにしないよ」
ケロっとした表情で言いのけた彼女の白い腕は、見るからに粟立っていた。でも、彼女は本当に寒さなど感じていないようで、むしろ外からの日差しを避けるように机の上に座っている。
流石に異常ではないか。彼女の身体と心がちぐはぐで、これではまるで、違う世界を生きているようだ。彼女の見ている景色は、僕の見ている景色とは違う。そう言われている気がした。
クラスメイトは既に何も気にしていないようで、先刻までのざわつきを早くも取り戻している。僕だけが、疑惑を膨らませていた。これだけ近い距離に、彼女が僕を許したから気が付いた、彼女の身体が発する淡い警鐘。見て見ぬふりは、流石に出来なかった。
ホームルームを知らせるチャイムが鳴り響き、遅れて猫背の佐渡が無精ひげを擦りながら姿を見せる。
「先生、おっはよー!」
目の前の彼女が大袈裟に手を振る。佐渡は彼女に一瞥をくれて、一瞬訝しげな表情をするが、すぐにその顔を引っ込めた。
「雨笠~、机は弁当を食うところであって、座るところじゃないぞ」
「先生、机は勉強をするところですよっと」
跳ねた語尾に合わせて机から降りた彼女は、他のクラスメイトよろしく自分の席に戻っていく。
僕が踏み込んでよいことなのかわからないまま、一日が過ぎて昼休み、佐渡に呼び出された。
相変わらず、ごちゃごちゃの教師机の前で、だらしなさそうに姿勢を崩した彼に声をかける。いつも思うが、どうしてこんな生徒の見本にならない男が、未だに教師を続けていられるのだろうか。
「おー、来たか。どうだ、調子は?」
「ぼちぼちですね。用事は何ですか?」
「あー、まあ大したことないのが一つ、それなりに大したことあるのが一つだ。どっちから済ませたいか選んでいいぞ」
「……じゃあ、前者からで」
佐渡はぼさぼさの髪を乱暴に掻き、一枚のプリントに目を通す。
「鳥野、今回の模試は少し成績が良くなかったな。一応、教師として何かあれば聞いてやる」
前回までA判定だった第一志望は、今回の模試ではB判定だった。そのことを危惧しているのだろう。僕としては、親に散々怒鳴り散らされた後だから、もうその話は勘弁してほしいところではある。
「別に、少し山が外れただけです」
佐渡は納得してないように眉を上げて片目で僕を見たが、特に興味もなさそうにプリントをデスクに放る。
「そうか。まあ、お前は今まで優秀過ぎたからな。こんな時もあったほうが人間味があっていいぞ。俺はてっきりロボットか何かだと思ってたからな」
どこかで聞いた台詞に、珍しくほんのちょっぴり傷ついた。周りから見れば、僕はそんなに無機質な人間だったのだろうか。もちろん、二人とも比喩的冗談で言ってるだけなんだろうけど。恥ずかしさと多少の焦燥感が、じわじわとこみ上げてくる。
「それで、大したことのある方は何なんですか?」
居心地が悪くなって、意識的に話を逸らす。
「あぁ、そっちな……」
佐渡が珍しく姿勢を正す。そして、視線を彷徨わせて言葉を選ぶ。
「雨笠はどうだ?」
たっぷり時間を使って、結局そんな抽象的な問いだけが、彼から発される。
「どう、と言われても……振り回されっぱなしですよ。僕じゃなくて、もう少しコミュ力が高い人に任せるべきじゃなかったですか?」
「でも、仲良さそうにやってたじゃないか。雨笠の成績もそれなりになってきてるぞ」
この二か月、ぶつくさ文句を言う彼女に、少しずつ勉強を教えていた甲斐が多少なりともあったらしい。
そもそも、彼女は勉強は苦手というわりに、入院前までの範囲はほとんど完璧に理解していた。だから、入院していた八か月の分を教えるだけで済んだ。最初は中学の範囲から教えることになるんじゃないかと冷や冷やしていたから、案外拍子抜けだった。
でも、僕の今の疑問は彼女の学力に関してではない。
「彼女、ちょっと変だと先生は思いませんか?」
佐渡は特に表情を変えることもなく、ぼやっと宙を眺める。
「いじめとか、そういうのは無いな?」
「それは無いですけど……」
「じゃあ、いい。気にするな」
あまりに素っ気ない反応に余計、疑心の念が強まる。
佐渡は何かを知っている。なのに、それを教える気はないらしい。
「でも――」
歯がゆさに語気が強くなるが、続く言葉が出てこない。
佐渡は大きくため息を漏らす。
「そんなに気になるなら、雨笠に直接聞け。教えてもらえないなら、諦めろ。俺から言えるのはそれだけだ」
佐渡の態度から、彼女が何かを隠していることは明白だ。ただ、それが何なのか見当もつかなかった。彼女から見え隠れする違和感を突き止めるだけの人生経験が、僕にはまだない。
「わかりました。そうします」
滅多にしない真面目な顔で佐渡が頷く。その様相が、一層僕を踏み込んではいけないラインへといざなっている気がした。
放課後の屋上で寝転がり、空をジッと見つめる彼女。今の彼女が見ている青空と、僕が見ている青空は本当に一緒なのだろうか。
身体を震わせる彼女にコートを差し出したら、「暑いから、大丈夫」と当たり前のように拒否された。
暑いわけがない。空っ風が顔を撫でて、耳が痛いくらいだ。
「……涼音には、今何が見えているの?」
膝を抱えて空を見上げてみるけど、僕には青いパレットが広がっているだけ。
「んー? もちろん、青い空と青白い顔の翔琉くんだけど?」
彼女はゴロンと身体を僕の方へ向け、上目で答える。
「そうじゃなくて……。えっと……僕にはまだ、寒く感じるんだけど、涼音はそんなことないんだよね?」
「うん、むしろ汗が滲んじゃいそう。翔琉くんとはいえ、男の子が近くにいるわけだから、今必死に汗腺締めてる」
面白そうに顔をわざとしかめる彼女が、冗談ながらも本気で暑いと感じているのだと、僕の直感が訴えかける。
喉元まで出かけた言葉を彼女に伝えてよいのかわからず、開いた口から音が発せられることは無かった。彼女は「金魚みたい。口パクパクーって」なんて言いながら面白そうに笑っていたけど、僕はそれどころじゃなかった。
口に出せば、何かが大きく動きだしてしまいそうで、ようやく慣れてきた彼女との関係も変わってしまいそうな気がした。いや、きっと変わるんだろう。その勇気が、僕に本当にあるのかわからないから、佐渡も彼女に直接問うように促したのだ。
「それでさ、明日は土曜日だし、少し遠出しない? もちろん、日帰りで帰って来れる範囲になるけ――」
「涼音、今って何月……?」
遮った言葉は何でもない質問なのに、声が震えて上擦った。
僕と彼女の間を静寂が漂う。
まっすぐ見つめる彼女の視線から、目をそらすことが出来ない。そらしてはいけないんだ。僕は、彼女の瞳に映るものが知りたくて、踏み込んだのだから。
どこか色っぽさすら感じさせる彼女の小さな口がキュッと結んだかと思えば、ゆっくりと開いた。視線が吸い寄せられる。
「――今は、六月だよ」
景色が後ろ向きに遠ざかる。彼女の声が脳裏を数回こだまして、ようやく言葉の意味を理解した。
脳みそを直接殴られたみたいな強烈な衝撃に、息が上がる。彼女の顔にいつもの笑みは無い。そのことが、彼女の発言が嘘偽りのない真実だと強く告げていた。
心のどこかでは、想像していた。彼女が今違う季節を歩んでいるのだと、予測はついていた。でも、そんなファンタジーのような話は存在しないと思い込んでいて。だから、僕は返事を用意できずにいた。
「それは……その、妄想とかそういう……」
「違うよ。私は紛れもなく、六月を生きてる。じわっとした暑さとか、新緑の匂いを、確かに感じてる」
彼女は口元に淡く笑みを浮かべる。どこか儚げに見える彼女は前方の山を指さす。
「翔琉くんには、あの山は何色に見える?」
彼女が指さす方向は、一面の枯れ木色で埋め尽くされていた。若葉が芽吹くには、まだ少し早い。
「私にはね、綺麗な一面の葉色に見える」
そんなわけがない。何度見たって、そこの山に緑なんて存在しなく、灰色の山肌を覗かせているだけ。
桜の冬木を眺めていた彼女が、枯れた花壇を見つめて僕を待つ彼女が、フラッシュバックする。その瞳に、何が見えていたのだろう。
僕にはわからない。彼女と僕の見ている世界はあまりにも離れていて、遠すぎる。
「失亡性離季病。長いから、私は失季病って呼んでる」
聞いたことのない病名に、思わず「それって……」と漏らす。彼女は初夏の空気を目いっぱい吸い込んで、吐き出した。
「季節がわからなくなっちゃう病気。正確には、季節がズレちゃう病。すっごい珍しいんだってさ」
色を感じさせない彼女の声に、胸の内が静かにざわめく。彼女の奥底に眠る不安という感情が、微弱な轟きを起こしている風に見えた。
いつもの明るい彼女は鳴りを潜め、それが僕を余計に苦しめる。
「……それだけなの?」
思わず掴んだ彼女の手はまるで氷のように冷たくて、やっぱり彼女は僕の目の前に確かにいるんだ。
初夏を生きる彼女からすれば、暑苦しいのだろうけど、僕は彼女の手に自分の熱を伝えるのに必死だった。
困ったように笑みを浮かべる彼女は、僕から目をそらす。そして、まっすぐに大空を見上げて――
「あと、六か月」
「えっ?」
息が詰まって、視界が狭まる。
「私のタイムリミットだよ。十二月に私は消えるの、この世界から」
澱みない声で言うから、理解するまでに時間がかかった。時がゆっくりと流れ、彼女の言葉が意識へと浸透していく。そして、その言葉の意味を理解した刹那、心臓が強く跳ねた。
焦り、困惑、戸惑い、憐み……たくさんの感情が水泡のように浮かんでは、破裂して消え去る。
言葉は出なかった。受け入れがたい事実に、返事をしてしまえば最後だと思ったから。
「入道雲、今年初めて見たよ。綺麗だね」
僕の見上げた空には天高く昇る白雲なんてなくて、どんよりとした灰色の雲がいつの間にか一面に広がっていた。
*
彼女の病を知ってしまった次の日、僕は窓から覗いてはすぐに消え去る景色をただひたすら眺めていた。こんな風に時間も瞬時に過ぎてしまえば、彼女と同じ景色を見ることが出来るのだろうか。
電車で数十分の予定だというのに、わざわざ買った駅弁に舌鼓する彼女。今日は約束の時間に出会って電車に乗った今まで、何を話したのか、もう思いだせない。何か色々彼女が話していた気がするけど、僕はただ相槌を打っていただけで、会話というものは成立していなかった。
彼女が窓の外を行儀悪く箸で指さし、何か楽しそうに話しているが、内容は入ってこない。それなのに、頭ではそろそろ母親への違う言い訳を考えなくちゃとか、どうでもいいことばかり常に考えていた。
そうでもしないと、思いだしてしまうから、僕は今日彼女を極力見ないでいる。まだ彼女の話を受け入れるだけの覚悟が無かったから。
画材を詰め込んだリュックを小脇に抱え、彼女が選んだ目的の場所までの時間を確認する。彼女は遠出をしたかったらしいが、今の僕はそんな気になれず、結局場所の変更を押し付けた。だから、朝彼女と会うのが憂鬱でも、ドタキャンなんて選択肢は存在しないわけで、こうして僕にとっても、彼女にとっても無駄な時間を生み出してしまっている。
彼女に貴重な時間を浪費させている僕は、とんだ悪魔野郎だ。彼女の隣に座るのは、もっとふさわしい人が絶対にいるはず。そう思うと、途端に帰りたくなってきた。
だらしなく呆けた口に、急に箸が突っ込まれる。驚きに遅れて、口の中に甘じょっぱい香りが広がった。それは噛むとほろほろと崩れて、すぐに形を無くす。
「……何すんのさ」
彼女は横で僕をジッと見つめていた。恥ずかしさと、驚きと、謎の罪悪感に苛まれる。
「煮物の人参、嫌いなんだよね」
葛藤に溺れる僕に、彼女はいつもと変わらない嫣然とした笑みだ。
「残せばいいでしょ」
「もったいないじゃん」
そう言って、彼女は箸を口に咥えた。
「僕も嫌いなんだよ」
「ありゃま、それは申し訳なかったね。お詫びにこの肉団子をあげよう。さあ、食べたまえ」
差し出された肉団子には目がいかず、それを掴む箸に意識が吸い寄せられる。それに彼女も気が付いたのか、にやっと口角を上げた。
「翔琉くんって、意外とウブなんだね」
「別に……肉団子も嫌いなんだよ」
わかりきった嘘をついた。もちろん、そんなのは彼女も察しているわけで、彼女の虹彩が意地悪気に輝く。
「はい、あーん」
渋い顔をする僕と、この上ない笑顔の彼女。
はたから見れば、カップルにでも見えるのだろうか。でも、僕と彼女は決してそんな関係じゃないし、今後変わることもない。彼女の置かれている境遇が違えば、こんな歪な関係にならなかった。それこそ、順当に仲を深めれば、そういう未来だってきっとあったはずだ。
僕だって年頃の高校生だ。恋愛に興味だってある。
無力で、流されやすい自分に無性に腹が立つ。そう思うと、羞恥心なんてちっぽけなものは消えていた。
口元まで寄せられた肉団子を箸もろとも口にする。
「美味しい? 私、まだ食べてないのに最初の一個あげたんだからね」
僕は頷くでも、返事をするでもなく、彼女から箸を取り上げ、弁当から肉団子を掴んで、彼女の前に持っていった。
「お返し。はい、あーん」
「ふぇっ!? ……えっと、そういうタイプだっけ?」
混乱しながら赤面する彼女。髪が顔を隠すように軽く垂れ下がり、内なる緊張を表しているようだ。微かに聞こえる彼女の呼吸が、戸惑いと照れくささを物語っている。不覚にも少しだけ可愛いと思ってしまった。
「いいから、口開けて」
顔を背けようとする彼女の顎を手に取り、強引にこちらを向かせる。彼女の高まる体温がひんやりとした手に伝わった。
「う~……翔琉くんって猫被らないとドSだったんだね」
頬を軽く指で押すと、降参したのかすんなりと口を開けた。極力、箸に触れないように食べてたのは気のせいじゃないだろう。
「美味しい?」
「……美味しいです」
うつむいてハムスターのように咀嚼する彼女は耳まで真っ赤だ。
「ウブなのはどっちなのさ」
「しょ、しょうがないじゃん! そんな経験ないもん! っていうか、あっても絶対に照れる!」
新鮮で、それでいていつも通りな彼女を見ても、僕の心にかかる靄は一向に晴れる気配がない。
彼女が自身の境遇を、内でどう思っているのかはわからない。
いつも仮面を付けているはずなのに、彼女の前では器用になれない。思えば、最初から彼女には取り繕うことが少なかった。それは彼女の性格が、僕の苦手とするものだからだ。ずけずけと距離を詰めて、それでいて不快な気持ちにさせないから、つい仮面を付けそびれる。
だから今も、きっとどこか緊張した物憂げな表情に違いない。
すっかり大人しくなって、うつむきながらチマチマと弁当を食べる彼女を横目に、思いを固める。
彼女と僕は浅い友達の関係。それだけのことだ。