十二月の夕暮れは、上着無しでは肌寒いなんてもんじゃなく、屋上に出た瞬間肌を突き刺すような寒さに襲われた。陽はすでに遠くに見える海の向こうに姿を隠しつつあり、天際が藍色に染まりつつある。
身を縮める僕に反して、彼女は寒さなど微塵も感じさせない様子で、先の柵まで駆け足で向かった。
「うわぁ~っ! 良い景色だね!」
山の上に位置する学校の屋上からは、早い暗闇に包まれつつある町と海を一望することが出来る。蛍の様にぼんやりと淡い光が町中をぽつぽつと照らし、幻想的とまではいかない良い景色を生み出している。
「きみ――じゃなくて、涼音は都会から転校してきたの?」
「そうだよ。ここにはおばあちゃんが住んでてね、昔は毎年遊びに来てたんだ」
今日、一度も笑顔を絶やすことがなかった彼女の表情が曇るのを見て、僕は深く追求はしなかった。
「この町は本当に良いところだよね~。山あり、海あり、自然がたくさんあって、景色も良い。服とか買うお店が全然ないのだけが難点」
「それに関しては全くの同意だね。ここには自然以外何もない。映画館だって、ショッピングモールだってない。本当、まんま田舎の観光地ってやつ」
「でも、それでいいんだよ。都会を感じたいなら、東京に行けばいいし。ここからなら二時間もかからないでしょ? 私には、この自然だけで十分」
彼女は屋上からの風景をぐるっと眺望し、続ける。
「私がここに来た理由は、最高の景色を見つけるためなの」
「最高の……景色?」
両手を大っぴらに広げて彼女は空を仰ぐ。
「そうっ! 人生で一生かかってもほかに越えられない最高の景色! どう? 素敵でしょ?」
「こんな辺鄙な観光地に、そんなものがあるとは思えないんだけどね」
「そんなことないよ! とも言えないね。最高の景色ってそんなの人によって違う。ここにあるかもしれないし、ないかもしれない。だから、ここに来たのはただの勘と、今までの思い出を手繰って来ただけなの」
一つ小馬鹿にした発言でもしようかと思って、すんでのところでその言葉を飲み込む。
彼女の吐息が白い霧になって冬の空気に溶けていく。鼻の先を少し赤らめる彼女の横顔はとても綺麗で、目の前にいる彼女をどうにか残したくて、気が付けば指で四角をつくって彼女を映していた。
小さな輪郭、サクラ色にほんのり色づく口元、その上にすっぽりと収まる小鼻。何より、透き通る黒の大きな双眸が、僕の視線を釘付けにして離さない。
単純に周りの人たちに比べて随分と整っているからという理由だけで、ここまで惹かれているわけではない。元から持ちうる素材を存分に生かした表情や仕草が、彼女の存在を最大限引き立てているのだ。
不意に彼女がこちらを向く。僕のしている行為の意味を理解したのか、まるで今現在の空を思わせる曇りなき笑顔を見せる。そして、お返しだと言わんばかりに指を四角折りにして、僕をフレームに差し込む。
こういう時、どうしたらよいのか経験もなく、僕は果てに出来る限りの笑みを浮かべた。つもりだった。
彼女が面白そうに声を出して笑う。
「あははっ、翔琉くんなにその顔。苦い虫でも口に放り込まれたみたい」
「涼音の真似をしたつもりだったんだけどね」
「え~、私って翔琉くんにはそういう風に見えてるってこと? 侵害だなぁ」
「違うよ。僕が笑顔をつくるのが苦手なだけなんだ。涼音の笑顔は、なんていうか、その……とても絵になる」
僕の拙い、けれど思春期男子にしては頑張った伝え方に、彼女はまた軽快に笑った。
「じゃあ、勉強を教えてもらう代わりに、私が笑顔のコツでも教えてあげようかな」
「僕にはあまり必要のない表情なんだけどね」
「そんなことないよ。笑顔は大事。自分だけじゃなくて、周りの人も良い気持ちにさせることが出来るんだもん。魔法と一緒だよ」
常に周りの顔色を窺って、都度合わせるように表情塗りたくってきた僕には、理解しにくいことだった。
彼女は大きく伸びをする。深く息を吸い込み、満足げにすっかり濃い青に染まった空に向けて吐き出す。
「んー、最近は過ごしやすい気温でいいねぇ」
僕にはとてもそうは思えなかった。真冬の山上にある建物の屋上で、しかも太陽の沈んだこの時間に過ごしやすいなんて、感じたこともない。現に今だって気を抜けば、足下から震えが全身に伸びてしまいそうだ。
「涼音は寒いのが得意なの?」
「えっ? 嫌いではないけど、多分苦手なほうだよ。だから、今はすごく風が気持ちいい」
彼女は雪国の都会から転校してきたのだろうか。そう思わせるほどの劈くような乾っ風が僕の思考を鈍らせる。
「ちなみに僕はもう限界。風邪引くし、そろそろ帰らせてもらうよ」
人口的な灯りを強める町並みから目を離し、踵を返す。
「えー、もうちょっと見てようよ。せっかくここからがロマンチックな時間なのに」
彼女が後ろで不満げな顔をしているのが、見なくてもわかった。
「僕は帰るけど、涼音はもう少しいればいいよ。風邪引かない程度にね」
言い終わるころには彼女は小走りで僕の横を陣取り、赤くした鼻を陽気にならしていた。
「何言ってるのさ。一緒に帰るよ」
「一緒に帰るの?」
「そう、一緒に!」
隣で鼻歌交じりに添う彼女に、僕は改めて面倒なことを押し付けられたな、と再認識する羽目になった。