安全と快適さを備えた明るい照明に、気持ちが強張る。
長い廊下を規則的に部屋が並び、看護師が常に往来していた。それなのに病棟はやたら静かで、どこか緊張してしまう。
彼女の入院する病院は、僕の住む町から電車で三十分の市街にある。毎日、足を運んだことで受付の看護師に顔を覚えられてしまった。
今日は見舞いの品に加え、行きに画材屋でイーゼルとキャンバスを買ったから大荷物だ。
東棟の日辺りが良い角の個室をノックする。いつもは返事が無いけれど、今日は中から聞き覚えのある物腰柔らかな「どうぞー」という声が聞こえてきた。
横引きのドアを開けると、真っ白な部屋に迎えられる。部屋の中央に備わったベッドに目を向ける前に、その横でこちらを見る女性に頭を下げる。
「こんにちわ。鳥野くん」
「ご無沙汰してます。瑚春さん」
僕はベッドを挟んで瑚春さんの向かいの椅子に腰を掛ける。夏の日差しを遮るカーテン越しに、僕の影が揺れていた。
「いつも来てくれているそうね。私が毎日来れるわけじゃないから、助かるわ」
「いえ、お邪魔になっていなければいいんですけれど」
瑚春さんはニコッと笑って、ベッドで眠る彼女の手を握る。
「そんなことないわ。この子だって、絶対に喜んでいるに決まってるもの」
もう半月だ。彼女が眠り続けてからの毎日は、僕に再び灰色の日常をもたらした。時間の進みがすごく遅くて、消化的な日々に胸が詰まる。
一度、一人で有名な景観を見に行ったけれど、少しも心が動かなかった。きっと、隣に彼女がいてくれたら楽しいはずなのに。そんなことを思いながら、黄昏るだけに終わってしまった。
「これからも、毎日来ます。絶対に……」
「けれど、ここまで結構遠いでしょ?」
「そんなことないですよ。今は夏休みで時間はありますし、何より僕が彼女に毎日会いたいんです」
眠り続ける彼女が目覚めた時、それがどちらかはわからない。事情を知る僕に彼女の担当医が告げた。
そもそも、なぜまた彼女が長い眠りについてしまったのか原因がわかっていないらしい。けれど、僕は何となく察した。きっと、入れ替わるのだろう。元の持ち主に身体を返す準備をしている。そんな気がした。
「そんなことを言ってくれる人が、この子にも出来たのね」
瑚春さんはほんの少し涙ぐむ。
「……僕は涼音さんのことが好きです。だから、ずっと隣にいたい。それだけなんです」
彼女に目を向ける。溌剌な性格に似合わなかった白磁の肌は僕と色んな所を出歩いた賜物か、随分と健康的に見えるようになった。それでもまだ、人より白いけれど。
今にも飛び起きて、ガラスの様に澄んだ瞳を見せてほしい。僕の手を引いて、乱暴に外の世界に連れ出してほしい。そんなことを願い続けて、もう半月が経ってしまった。
彼女の宣言したタイムリミットは僕の世界で八月。もう、とっくに半ばを過ぎている。いつ、彼女が消えてしまってもおかしくはない。もしかしたら、もう彼女はここにいないかもしれない。
もちろん、この身体は陽音さんのものだ。だから陽音さんに目を覚ましてほしくないわけじゃない。ずっと、涼音でいてほしい、なんて言ったら彼女が激怒するに決まってる。
でも、僕はそんなに大人じゃない。もう一度だけ、彼女の笑顔が見たい。それだけなのに。
「この部屋は殺風景だから、誰かがいてくれた方がこの子も安心するわね」
照明を反射して光る白い床と壁、純白のシーツ。病室内のどこを切り取っても、一面の白だ。他の色を求めて向けた窓からの景色もすぐ隣の病棟の灰色の壁に阻まれる。
「こんな街中じゃ、良い景色は見えないですね」
「この子にとっては、耐えがたい場所ね。起きてたら、きっとあっという間に脱走しちゃうわ」
「……そうですね」
瑚春さんは弱々しく笑った。その顔には疲労が見え隠れしている。
「それじゃ、私はもう行くわ。この子のこと、よろしくね」
瑚春さんの居なくなった病室は、賑やかな静寂に包まれた。外から聞こえてくる蝉の鳴き声だけが、不規則に反響する。
彼女の手を取る。
いつもみたいに握り返してほしい。きっと、冬の君はエアコンの効いたこの部屋は寒いだろうから、思いっきり僕の熱を奪って「温かいね」って言ってほしい。
「僕さ、涼音がよく使う蝉のスタンプ買ったんだよ」
「家庭教師の先生に送り付けたら、変なスタンプだって笑われたよ。僕もそう思うんだけどね」
「そういえば、今度花火大会があるらしくてね。涼音と一緒に見に行きたかったな」
「二人で浴衣着てさ。屋台巡ってから、浜辺の公園で寝そべりながら真上に打ちあがるのを見るんだよ」
「視界全部が眩しいくらいの光の大輪で埋め尽くされて、まるでそのまま落ちてくるんじゃないかってくらいの迫力なんだ」
「……」
「そうだ! 絵! だんだん描けるようになってきたからさ。涼音に見せるための渾身の一枚を描くために、画材屋行ってきたよ」
「少し大きめのキャンバスを買って、まだ何を描こうか決めてないんだけど、約束通り君も一緒に描くよ」
「僕の世界で一番強く輝く君の魅力を絵にするのは難しいけれど、今なら描ける気がするんだ」
「絶対、完成させるから。だから、見てほしい。頼むよ……。もう一度だけ、目を覚ましてくれよ……」
すがるような僕の言葉はすぐに溶け、また蝉のやかましい音が病室を包み込んだ。
長い廊下を規則的に部屋が並び、看護師が常に往来していた。それなのに病棟はやたら静かで、どこか緊張してしまう。
彼女の入院する病院は、僕の住む町から電車で三十分の市街にある。毎日、足を運んだことで受付の看護師に顔を覚えられてしまった。
今日は見舞いの品に加え、行きに画材屋でイーゼルとキャンバスを買ったから大荷物だ。
東棟の日辺りが良い角の個室をノックする。いつもは返事が無いけれど、今日は中から聞き覚えのある物腰柔らかな「どうぞー」という声が聞こえてきた。
横引きのドアを開けると、真っ白な部屋に迎えられる。部屋の中央に備わったベッドに目を向ける前に、その横でこちらを見る女性に頭を下げる。
「こんにちわ。鳥野くん」
「ご無沙汰してます。瑚春さん」
僕はベッドを挟んで瑚春さんの向かいの椅子に腰を掛ける。夏の日差しを遮るカーテン越しに、僕の影が揺れていた。
「いつも来てくれているそうね。私が毎日来れるわけじゃないから、助かるわ」
「いえ、お邪魔になっていなければいいんですけれど」
瑚春さんはニコッと笑って、ベッドで眠る彼女の手を握る。
「そんなことないわ。この子だって、絶対に喜んでいるに決まってるもの」
もう半月だ。彼女が眠り続けてからの毎日は、僕に再び灰色の日常をもたらした。時間の進みがすごく遅くて、消化的な日々に胸が詰まる。
一度、一人で有名な景観を見に行ったけれど、少しも心が動かなかった。きっと、隣に彼女がいてくれたら楽しいはずなのに。そんなことを思いながら、黄昏るだけに終わってしまった。
「これからも、毎日来ます。絶対に……」
「けれど、ここまで結構遠いでしょ?」
「そんなことないですよ。今は夏休みで時間はありますし、何より僕が彼女に毎日会いたいんです」
眠り続ける彼女が目覚めた時、それがどちらかはわからない。事情を知る僕に彼女の担当医が告げた。
そもそも、なぜまた彼女が長い眠りについてしまったのか原因がわかっていないらしい。けれど、僕は何となく察した。きっと、入れ替わるのだろう。元の持ち主に身体を返す準備をしている。そんな気がした。
「そんなことを言ってくれる人が、この子にも出来たのね」
瑚春さんはほんの少し涙ぐむ。
「……僕は涼音さんのことが好きです。だから、ずっと隣にいたい。それだけなんです」
彼女に目を向ける。溌剌な性格に似合わなかった白磁の肌は僕と色んな所を出歩いた賜物か、随分と健康的に見えるようになった。それでもまだ、人より白いけれど。
今にも飛び起きて、ガラスの様に澄んだ瞳を見せてほしい。僕の手を引いて、乱暴に外の世界に連れ出してほしい。そんなことを願い続けて、もう半月が経ってしまった。
彼女の宣言したタイムリミットは僕の世界で八月。もう、とっくに半ばを過ぎている。いつ、彼女が消えてしまってもおかしくはない。もしかしたら、もう彼女はここにいないかもしれない。
もちろん、この身体は陽音さんのものだ。だから陽音さんに目を覚ましてほしくないわけじゃない。ずっと、涼音でいてほしい、なんて言ったら彼女が激怒するに決まってる。
でも、僕はそんなに大人じゃない。もう一度だけ、彼女の笑顔が見たい。それだけなのに。
「この部屋は殺風景だから、誰かがいてくれた方がこの子も安心するわね」
照明を反射して光る白い床と壁、純白のシーツ。病室内のどこを切り取っても、一面の白だ。他の色を求めて向けた窓からの景色もすぐ隣の病棟の灰色の壁に阻まれる。
「こんな街中じゃ、良い景色は見えないですね」
「この子にとっては、耐えがたい場所ね。起きてたら、きっとあっという間に脱走しちゃうわ」
「……そうですね」
瑚春さんは弱々しく笑った。その顔には疲労が見え隠れしている。
「それじゃ、私はもう行くわ。この子のこと、よろしくね」
瑚春さんの居なくなった病室は、賑やかな静寂に包まれた。外から聞こえてくる蝉の鳴き声だけが、不規則に反響する。
彼女の手を取る。
いつもみたいに握り返してほしい。きっと、冬の君はエアコンの効いたこの部屋は寒いだろうから、思いっきり僕の熱を奪って「温かいね」って言ってほしい。
「僕さ、涼音がよく使う蝉のスタンプ買ったんだよ」
「家庭教師の先生に送り付けたら、変なスタンプだって笑われたよ。僕もそう思うんだけどね」
「そういえば、今度花火大会があるらしくてね。涼音と一緒に見に行きたかったな」
「二人で浴衣着てさ。屋台巡ってから、浜辺の公園で寝そべりながら真上に打ちあがるのを見るんだよ」
「視界全部が眩しいくらいの光の大輪で埋め尽くされて、まるでそのまま落ちてくるんじゃないかってくらいの迫力なんだ」
「……」
「そうだ! 絵! だんだん描けるようになってきたからさ。涼音に見せるための渾身の一枚を描くために、画材屋行ってきたよ」
「少し大きめのキャンバスを買って、まだ何を描こうか決めてないんだけど、約束通り君も一緒に描くよ」
「僕の世界で一番強く輝く君の魅力を絵にするのは難しいけれど、今なら描ける気がするんだ」
「絶対、完成させるから。だから、見てほしい。頼むよ……。もう一度だけ、目を覚ましてくれよ……」
すがるような僕の言葉はすぐに溶け、また蝉のやかましい音が病室を包み込んだ。