翌日、学校に行くと、今日も彼女は来ていなかった。それがわかっただけで、無性に帰りたくなる。
授業はろくに頭に入らないのに、こんな時でも律義にノートを取っている自分に乾いた笑いが出た。
本格的な夏が始まろうとしている。クラスは徐々に受験を意識させる静けさを帯びてきた。だというのに、僕は成績こそ落としていないものの、勉学に身が入らないでいる。
「鳥野、放課後職員室な~」
帰りのホームルームで名前を呼ばれて、集まる視線を背中に感じた。
ホームルームが終わると、夏の最後の大会に向けて、運動部は足早に部活に向かう。文化部や、僕の様に帰宅部の人たちは各々、補習やら自習のために教室を出る。その流れに合わせて、職員室に向かうと、佐渡は珍しく真剣な眼差しでデスクに座っていた。
「おう、来たか」
「何か用ですか?」
佐渡は立ち上がり、ついてくるように指で僕に指示する。珍しいことだ。今まで、委員長として何度も呼び出されたことはあるけれど、場所を変えて話すようなことは初めてだった。
猫背でだらだらと歩く担任の後ろをついて歩く。長い石段を下り、グラウンド全体が見下ろせるベンチに佐渡は腰を掛けるから、隣に座る。
「ほれ、他のやつらには内緒だからな」
そう言って、佐渡は露のつく缶コーヒーを僕の膝に放った。
「あ、ありがとうございます」
「ちょっと、長くなりそうだからな。それに、職員室じゃ話しづらい」
佐渡は煙草に火をつける。
「あ、これも内緒な」
僕は無言で首肯する。
煙草の煙が空に立ち上り、溶ける。
「鳥野の親御さんから、先ほどお電話があった」
「……えっ?」
佐渡はマズそうに息を吐く。
「息子の成績が芳しくないから、学校でのお前の様子を教えてくれってな」
父親は放任主義だし、そんなことをするのは間違いなく母親だろう。
「それは、なんというか……ご迷惑をおかけしました」
「別に鳥野の成績は文句なしだと思うんだけどな。テストも学年二位をキープしてるし、内申点も申し分ない。第一志望だってAよりのBだ。特に問題ありませんよ、とは言っといたよ」
「助かります……」
グラウンドからは野球部の掛け声が、いつもより一層大きく聞こえてくる。
「でも、土日に図書館行ってるってのは嘘だろ」
胸がどきりと音を立てる。
「雨笠とは念のため週一で軽い面談をやってるんだ。あいつ、いっつも楽しそうにお前とのことしか話さねえよ」
初耳だった。そして、佐渡に筒抜けだったことにそこはかとない羞恥心が顔を出すが、まあ佐渡だし、特に気にする必要はないなという結論に自分の中で至った。
「どうして、今その話を?」
「何となくだよ。青春してて羨ましいなおいって、独身の中年からの戯言だよ」
「そんなんじゃないですよ。先生も、彼女が失季病って話を知っていたなら、全部聞いてるんじゃないですか?」
佐渡は難しい顔で、雲一つない青空を見つめる。
「全部って言われても、親御さんと本人から聞いた話だけだ。それ以外は何も知らんよ」
「だから、今は勉強どころじゃないんですよ……」
「ん? だからってどういうことだ?」
「もう時間がないからってことですよ。あと、三か月もないのに……」
佐渡は首を傾げる。まるで、何も知らない、何を言ってるのかわからないというふうに。
背筋を冷たい汗が滴る。
「聞いてるんじゃないんですか……?」
「何の話だ?」
どこか、話がかみ合っていない気がする。僕は間違ったことは話していない……はずだ。
頭の中を色んな言葉が渦巻いて、一度大きく息を吸う。生ぬるい熱気が肺まで満ちる。
結局悩んで、有り体に質問するしかなかった。
「彼女が失季病で、余命があと三か月もないってことですよ」
佐渡はいつになく真面目な表情で僕を見た。
口の中が乾いて気持ち悪い。なぜか凄く嫌な予感に喉が小さく鳴る。
「お前は何を言ってるんだ?」
「いや、だから――っ!」
「失季病は命に別条のない病気だぞ?」
心臓が凍り付くような感覚に襲われた。
グラウンドから聞こえる明るい声が急速に遠のき、辺りを静寂が支配した刹那、自分の口から発せられた掠れ声が耳をなぞる。
「……ぇ?」
声帯が麻痺したみたいに、他の言葉が出てこない。ぴくぴくと痙攣したみたいに震えるだけだ。
思考が嵐のように乱れ、内なる叫びが無言のまま空気として開いた口から出ていく。
「おい、大丈夫か?」
佐渡の声がやけに遠く、ノイズ交じりに聞こえる。
「今の、話って……」
そんなはずがない。聞き間違いに違いない。彼女が、嘘をつくはずがない。
「だから、失季病は命に直接関わるような病気じゃないってこった。一応、俺の受け持つ生徒だからな、事前に雨笠の担当医にも確認を取ったし、親御さんとも話した。めんどくさがっちゃならないことだって、俺でもわかったからな」
彼女と同じく、佐渡も嘘をつかない。そして、僕は知っている。彼はちゃんと教師だ。いつもめんどくさがってて、色んなことが適当なのに、生徒のことはしっかり見ているし、何かあれば率先して聞く耳を持ってくれる。
心のどこかでは、佐渡を尊敬していた。周りに干渉を受けず、独自のスタンスで生徒と向き合って教師をする、そんな彼に。
だから、失季病が命に関わるような病気じゃないという佐渡の発言は、紛れもない事実だ。
「じゃあ、どうして……?」
佐渡は口を閉じる。そして、ゆっくりと首を振る。煙草の灰が、目の前を飛び交う。
気が付けば、僕は佐渡に何を言うわけでもなく、立ち上がって走り出していた。
校門を飛び出し、坂道を駆け下る。
唸るような夕照に、空が燃えていた。
胸のざわめきが止まらない。
悲鳴を上げる肺と足に速度を落とすと、頭の中も徐々に冷静になっていく。それが嫌で、また走り出した。
僕は何か、大きな勘違いをしている。その確証だけが、どんなに走っても消えることはなかった。