修学旅行の二日目も就寝の時間が近づき、僕は明日の予定の確認を済ませて早々に寝てしまおうと布団に潜り込む。その時、部屋のドアが軽くノックされる。
重い身体を引きずって扉を開けると、僕よりも疲労を感じさせる佐渡が目の前に立っていた。
「おう、すまんな寝る前に」
「大丈夫です。何か用ですか?」
佐渡が一枚のプリントを僕に手渡す。
「これ、帰りの電車の座席表な。委員長のお前には一応、渡しとくよ」
大きく欠伸をする佐渡。教師に見えない彼の言動にも、態度にもすっかり慣れている自分がいた。
「わかりました」
「おう、それじゃ夜更かしせずにしっかり寝ろよ。俺はこの後先生方と麻雀大会やってくっから。問題だけは起こすな。頼むよ」
言わなくてもいいことまで暴露していった気がするけど、彼の今までの言動を鑑みるに、対して変なことじゃなかった。
一応、その場プリントに目を通す。行きの座席と特に変更が無いことだけ確認して、今度こそ布団に入ろうとドアに背を向けた瞬間、またしても小さくノックする音が聞こえて、無意識に背が伸びる。
大方、佐渡が伝え忘れたことがあったんだろう。そう思いつつ、ドアを開けると、そこにはきょろきょろと廊下を見回しながら立ち尽くす涼音の姿があった。
「はやく、はやく! バレちゃう!」
彼女は僕の意思など無視して部屋に足を踏み入れ、ドアを急いで閉める。
「ふぅー……ドキドキしたぁ」
胸に手を当てて、大きく息を吐く彼女。
「何してるの?」
「何って、一人で寂しいであろう翔琉くんのために、可愛い女の子が遊びに来てあげたんじゃない」
腰に手を当てて胸を張る彼女の浴衣がはだけかけて、僕はとっさに目をそらす。向いた先が下だったのは間違いかもしれない。彼女の妖艶さと無垢さを兼ね備えた色白な細い足が腿まで露わになっていた。
「おっと、走って来たから帯がズレちゃってたのかな。危ない、危ない」
いそいそと直す布の擦れる音が、目をつぶった僕の耳に響く。
「あのさ、色々と言いたいことはあるんだけれど」
「何でも言ってみなさい。どうせ夜は長いし。はい、もう目開けていいよ」
うっすら目を開ける。羽織を脱いだ浴衣姿の彼女が目の前にいた。そして、昨日彼女が言っていたことは本当かもしれないと思った。羽織のない浴衣姿が、想像以上に彼女の身体のラインを強調していて、胸が痛いくらい跳ねる。
「一応、聞くんだけど。先生たちの見回りとかって、昨日来た?」
「来てないよ。ついさっき、佐渡先生が来たくらい」
「嘘!? もしかして、結構危なかった?」
「かもしれないね。でも、今日はもう見回りとか来ないんじゃないかな」
麻雀大会やるって言ってたし。
「そっか。じゃあ、今夜は寝かさないぞ!」
一日歩き回ってくたくたなはずなのに、どうしてか彼女はそんな様子を一ミリも見せない。
「僕、もう眠いんだけど。一時間とかなら付き合うから、そしたら部屋戻りなよ」
「それは困るよ。塩ちゃんと岡ちゃんに今夜は帰って来るなって言われてるし」
なるほど、あの二人の仕業か。
妙に納得のいく答えに行きつき、僕は諦めた。どうせ、二人っきりなんていつものことだ。
「ねえ、トランプやろ。旅行の定番じゃない?」
彼女は縁側の小さな椅子の身体を沈める。僕も倣って反対側に座った。二人を挟む小さなテーブルには散乱したトランプ。
「二人でトランプって楽しいかな」
「うーん、どうだろう。そもそも、私ババ抜きくらいしか知らないや」
僕は適当にトランプを混ぜ、二つに分ける。半分を彼女に渡し、もう半分を自分の元に引き寄せる。
重なった二枚をテーブルに捨てていくと、最初の半分ほどしか残らなかった。
「そうだ、罰ゲームありにしよっか」
彼女はそう言いつつ、僕の手札から引いたカードと自分の手札から一枚カードを抜き取り、テーブルに放る。
「罰ゲーム?」
「そっ、勝った方が負けた方になんでも質問出来る。それで、負けた方は絶対それを答えなくちゃいけない。どう? 単純なトランプでもドキドキしてきたでしょ」
「……まあ、いいけど」
互いに交互に手札を引いていき、早々に僕の手札は二枚、彼女は一枚になった。二人でババ抜きをやると、途中でババを引きまくらない限りこうなるのだから、途中の過程は本当に意味が無いんだなと再認識した。
「うーん……左。いや、右?」
「さあ、どっちだろうね」
左にジョーカー、右にハートの六。罰ゲームがあるせいか、やけにハラハラした。彼女、なかなか破天荒なことを聞いてきそうだし。
「よし、決めた!」
そう宣言しつつ、彼女は右のカードを勢いよく抜き取った。
「やったあ! 私の勝ちー! 何質問しよっかな」
「お手柔らかに頼むよ。本当に」
「ま、最初だしね。軽めに行こうか。昨日と今日、楽しかった?」
一番最初に出てくる質問が、僕への気遣いな辺り彼女らしい。
手元に残ったジョーカーをテーブルに捨てる。
「まあ、それなりに楽しめはしたよ。塩澤さんと岡部さんには何度も肝を冷やされたけど」
「言ったでしょ? あの二人は私より破天荒だって。でも、翔琉くんが楽しめたみたいで良かったよ。一日目とか完全に女子会のノリだったし」
「あのお洒落なカフェで男一人はもうこりごりだけどね。周りの目、すごく痛かったよ」
「そう? 私は気にならなかったけどなぁ」
話しながら器用にシャッフルした半分を彼女が手渡してくる。
「これ、何回やるの?」
「んー、飽きるまで」
結局、二回目も彼女は僕のジョーカーには手をかけず、手札をゼロにした。
「やったー、また私の勝ち! それじゃあ、質問ね。絵の方は順調ですか?」
「えっと、それは……」
僕は言い淀んだ。順調ではないんだと思う。何せ、もう一度絵を描こうと決心してから、未だに一枚も完成させていないのだから。
「順調ってほどじゃないかも。昔の感覚取り戻すの中々難しくてさ」
「そっか。でも、大丈夫だよ」
何の説得力も無いはずの彼女の言葉が、どうしてか僕の不安をかき消す。
「でも、私のタイムリミットが来る前に、君がどんな作品を描くのか見せてね」
「それはもちろん……約束するよ」
彼女と僕の関係の終わりまで残り約三か月。僕は、それまでに彼女を描けるようになるのだろうか。
窓から差し込む月明りに照らされる彼女の双眸は硝子玉のように透き通った輝きを見せ、動くたびに濡羽色の髪からはほんのりと良い匂いを漂わせる。お淑やかが似合いそうな容姿なのに、その口元はいつでも笑みを浮かべていて、でもそれがたまらなく愛おしくて。
彼女のことを知れば知るほどに、僕は彼女を描けなくなる。
三回戦目は、僕が勝ってしまった。
「あちゃー、ついに負けたか。さっ、何でも質問ウェルカムだよ」
僕は彼女から目をそらす。窓の外はすっかり宵闇に包まれてほとんど何も見えやしない。質問は考えてなかったけど、すぐに思い浮かんだ。口にすることはすごく重たくて、でも、はっきりさせなくちゃいけない。
「涼音は、本当に死ぬの……?」
彼女の顔は見れなかった。僕と同じで暗闇の空に星を探すように、外に目を向けていることだけわかった。
そして、少しの静寂の後、今までと遜色のない声色が聞こえる。
「消えるよ。絶対に」
なぜか泣きそうになった。滲んだ涙は歯を食いしばるとすぐに引っ込んだけど、どうしてこんなにも急に泣きたくなったのかがわからない。
「で、でもあと三か月だっていうのに、君はこんなにも元気じゃないか。今日だってたくさん歩いて、たくさん食べて、たくさん喋って。……僕にはとてもじゃないけど、信じられないよ」
声に混ざる緊張を押し殺すように早口になる。そんな僕に、彼女はきっと優しく微笑んでいるのだろう。
「私のことは私が一番よくわかってるんだ。お医者さんより、親より、もちろん翔琉くんよりもね。タイムリミットは絶対だよ」
わかっていたことのはずなのに、胸が張り裂けそうなくらい痛い。彼女は嘘をつかない。だから、あと半年と言っていたあの時に、僕と彼女の残りの時間がすり減りだしていたことは明白なのに。信じたくなくて、目をそらして、あまつさえもう一度彼女の口から説明させてしまった。
「……ごめん」
「なんで謝るの?」
彼女はこの期に及んでまだこのくだらないゲームを続ける気らしい。山札が二等分され、片方が僕の目の前に置かれる。
「私はね、翔琉くんにはすっごく感謝しているの。ヘンテコなお願いにずっと付き合ってくれて。それに私だってわかってるんだよ。私の服装が季節外れなせいで、隣を歩く君まで変な目で見られちゃってること。でも、君は私を責めない。君が私に服装どうこう言う時は、決まって私の体調の心配をしてくれる時だからね」
彼女は手札をどんどんテーブルの上に捨てていく。僕は、ゲームを続ける気にはなれなかった。これ以上、何を質問しろと言うのだろうか。
「僕はもう質問出来ることなんてないよ……」
「私はまだあるよ。だから、あと一回だけ付き合ってよ。それで、翔琉くんが勝ってももう一回なんて言わないからさ」
そう言った彼女の口角は上がっていなくて、湿っぽい表情ですら僕を惹きつける。だから、彼女の頼みは断れない。
「……わかったよ。これで、最後」
一枚、また一枚と互いの手札が減っていき、やっぱり最後はどちらかが選択をしなくてはいけない。その役目が、今回は僕だった。
彼女の手に残るカードは二枚。どちらかが道化師だ。
僕はしばらくカードを引けなかった。質問される覚悟も、質問をする覚悟も、出来ていなかったから。
朧月が、雲に身を半分隠し、ちょうど僕だけをぼんやりと照らす。
「ゆっくりでいいよ。まだ、夜は長いんだから」
彼女の声に、むしろ急かされた。一分一秒が僕とは比にならないほど大切な、彼女が言うのだから。
僕はカードを一枚手に取って、確認する。ため息が漏れる。二枚のカードをテーブルの上に投げ捨てた。
「ありゃ、私の負けか……」
彼女は残念そうに残ったジョーカーを眺める。
喉の渇きを覚え、立ち上がった。備え付けの冷蔵庫から水の入ったペットボトルを二本取り出して、片方を彼女に渡す。
「ん、ありがとう。それで質問は決まったかな?」
いくら水を飲んでも渇きは満たされなくて、ようやく自分の喉が何かを絞り出そうと喚いているのだと悟った。今にも出てしまいそうで、必死に抑える。
彼女の反応は知りたいけど、怖くて、憶病なくせに変なところに好奇心が湧いてしまうのは彼女に似てきた証だろうか。
椅子に座りなおしたのに落ち着かなくて、静寂を求めて春の夜空に目を渡す。雲の多い今夜は、星がまばらに輝いている。都会の汚れた空を切り裂くように、一筋の星屑が視界を端から端へと駆け抜けた。
刹那、油断した自身を見逃さないように喉を衝いて言葉が溢れる。
「僕が……涼音のことを好きだって言ったらどうする?」
これは質問なんかじゃない。気持ちの押し付けだ。
焦りはあれど、意外にも心中は穏やかだった。求めている彼女の返事が、僕自身にもわからなかったから。
でも、彼女の顔はやっぱり怖くて見れなかった。
二人の間を流れる沈黙が何秒か、はたまた何分だったかわからない。彼女が口を開く気配を感じた。
「今、何て言った……?」
「だから、僕は涼音のことがす――」
言葉が詰まった。背中に嫌な汗が伝う。
眼前の彼女が涙を流していた。真っ黒に染まった瞳で――。
「……ごめんなさい」
彼女が小さく震える声で呟く。
その細い両腕でガタガタと震える身体を抱える。焦点は定まっておらず、虚空を眺めては、同じように「ごめんなさい」と呟き続ける。何度も、何度も。まるで、誰かに許しを請うようにひたすら。
窓から差し込む月明りが、彼女の美しい髪を照らす。まるで、彼女の闇をより鮮明に見せるように。
「ごめんなさい」
思わず、僕は彼女を抱きしめていた。こうして強引に繋ぎ止めておかないと、彼女が壊れてしまうような気がして、力の限り彼女に僕の温もりを伝える。
彼女の身体の震えが一層大きくなり、彼女は声を上げて流涕する。決壊したダムのように流れは止まらず、僕の胸の中でずっと謝り続けながら彼女は泣いた。
長い時間、彼女の嗚咽だけが部屋に響く。
泣いて、泣いて、まるで赤子のように泣きじゃくった後、彼女はぴたりと身体の震えを止めた。
「……えーと、一体これはどういう状態かな?」
戸惑いを帯びた声が胸にうずまった中から聞こえる。
ゆっくり、彼女から身を離す。
耳まで真っ赤に染まった彼女の瞳は、雨上がりの太陽に照らされた水たまりのように透き通っていた。
「なんで私、いつの間に翔琉くんに抱きしめられるような展開になってるの? っていうか、私泣いてた?」
「本当に何も覚えてないの?」
「えっ? 何を?」
怖いっていう表現は少し違うかもしれない。けれど、目の前で理解に苦しむことが起きていることは確かだ。あれだけ強烈な感情の吐露を全く覚えていないなんてこと、ありえるのだろうか。でも、こうなった時、毎回必ず彼女は覚えていない。
「それより、早く質問は?」
腫らした目元に笑みを添えて、彼女は問う。
「……思いつかない」
もう一度、同じことを言えるはずなんてなかった。
「もったいないなぁ。何でも答えるって言うんだから、私のスリーサイズとかでもいいんだよ?」
「茶化すなら、もうおしまい。明日も早いし、僕はもう寝るよ」
「えー、そんなぁ。修学旅行の夜はこれからだってのに」
彼女を無視して布団を被る。申し訳なさもあるけれど、それよりも今は何も考えたくなかった。
口を滑らした自分の愚かさと、彼女が見せた弱さが頭の中を渦巻く。
「もう、仕方ないなぁ」
夜もふけった静寂の最中、彼女は僕の布団に潜り込んできた。その突然の出来事に、胸が緊張と驚きで高鳴る。
薄暗い部屋の中を、窓から差し込む月明りがかすかに彼女の姿を浮かび上がらせる。細い指が柔らかい布団を這って、また少し僕に近づく。そして、その先端が僕の頬へ触れた瞬間、僕は我に返った。
勢いよく彼女に背を向ける。行き場を無くした彼女の指が、僕の背中を優しくなぞる。
「な、なにやってるのさ!」
「だって、布団一つしかないでしょ? しょうがないじゃん」
甘い声にどうにかなってしまいそうだった。
「自分の部屋に戻ればいいでしょ」
「無理だよ。塩ちゃんも、岡ちゃんも、絶対に追い返すに決まってるよ」
「そんなこと言ったって、これはマズいでしょ……」
心臓の音がうるさくて、彼女にも聞こえちゃってるんじゃないかと思った。なのに、一定を刻む時計の針の音が、今だけはずっと遅く聞こえた。
トンっと背中に彼女の額が当たる。彼女の吐息は少しだけ震えている気がした。
「ズルいかもだけど、私は老い先短いわけだからさ、これくらいの卑怯なことは許してよ。もし、翔琉くんが我慢できなくなっても、まあ私は怒らないよ」
彼女の体温が、徐々に僕を侵食していく。彼女の感じている夏の空気が、僕にも感じられそうなほど暑く、熱かった。
「ねえ、翔琉くんが質問する権利を使わないなら、私に頂戴よ」
僕はただ頷いた。
「やった。じゃ、質問」
彼女は緊張交じりの声色で――
「もし、私が翔琉くんのこと好きだって言ったら、迷惑?」
僕は沈黙をつくることしか出来なかった。
口の中を鉄の味が広がって、初めて自分が強く歯を食いしばっていることに気が付く。
背に感じる彼女の熱に、いつしか微睡へと誘われていた。