8月、雪の降る世界で君を見つけた



 結局、一日目の自由時間は大阪の名物やら、女性が好きそうなやたらお洒落なカフェを巡って終了した。
 ルート決めの期間、学級委員として先生にこき使われたせいで、彼女たちにコースを丸投げしてしまったことを少しだけ後悔した。道頓堀のような人の往来が激しい場所ならともかく、洒落た内装で、客もカップルか女性ばかりの店内に、女子三人、男一人はまさに地獄と言って良かったかもしれない。
 治りかけていた人の目を気にしすぎてしまう性格も、流石にあの空間では存分に発揮されてしまった。周囲からの訝し気な視線が、今でもまだ背筋に残っている気がする。
 まあ、当の彼女たちが楽しそうにしていたから良かったのではないだろうか。

「うわっ、宿すご……」

 涼音が袖を引くから、とりあえず頷いといた。
 宿泊先はクラスごとに別れていて、僕たちの泊まる場所は客室が十六からなる、厳かな雰囲気漂う旅館だった。鮮やかな木目の建物に、小さな庭園。屋根は和風な瓦で覆われ、辺りが薄暗くなった今は和紙張りの客室から覗くぼんやりとした明かりで、建物全体が浮きだっている。
 中学の時は安価なホテルで、クラスの男子全員だだっ広い大部屋に押し込められた記憶があるから、それとは雲泥の差だ。誰と同室になるかは知らないけれど、流石に二、三人部屋だろう。
 大襖の玄関を潜り抜け、ロビーに入ると、もう既に到着していた班の人たちがちらほら見えた。

「おう、お疲れさん。問題は無かったか?」

 待ち受けのソファーにだらしなく身体を沈めた佐渡。手前のテーブルに散乱した缶コーヒーやら、お茶の入った湯呑を見るに、随分と退屈を極めているらしい。

「特に何もなかったです」

「はいよ。そんじゃ、これ班員の部屋割りと旅館の注意事項ね。各自に渡しておけ」

 渡されたのは二部屋の鍵と、要項がずらりと書かれたプリント四枚。受け取ってから、疑問に気づく。

「あの、僕一人部屋なんですか?」

「あー、男子はどう部屋割りしても一人余っちまうんだよ。だから、委員長の鳥野が一人部屋。お前なら、なんも問題起こさないだろ」

 佐渡は気怠そうに「他のやつ一人部屋なんかにしたら、何しでかすかわかったもんじゃない」とかブツブツ呟きながら、後ろにつっかえていた他の班に視線を向ける。
 別に文句もなかったから、大人しくその場を後にする。
 正直、一人部屋はありがたかった。相部屋になったところで、特に仲の良いクラスメイトがいるわけでもないから、気まずい空間が出来上がるだけだ。

「えー、翔琉くん一人なの? かわいそう……」

 部屋割りの件を話すと、彼女たちはなぜか同情的な眼を向けてきた。

「僕的にはありがたい話なんだけど」

「いやいや、部屋での普段しないような夜更かしトークも修学旅行の醍醐味でしょ」

「僕は普段からあまりクラスメイトと話さないから、夜更かししてまで話す内容があるとは思えないよ」

「……遊びに行ってあげよっか?」

 涼音の後ろで塩澤さんと岡部さんが激しく頷いているのを、見て見ぬ振りした。

「バレたら大問題なんだから、やめてくれ」

「それも思い出になると思うんだけどなぁ」

 塩澤さんのため息をつく仕草が、僕のせいで彼女の癖になってしまいそうだ。別れ際に「草食だね」なんて岡部さんにも茶化されたけど、別に何とも思わなかった。実際、色んな事に怯えて、前に進めていないわけだし。


 部屋に通されて真っ先に思ったのは、一人部屋じゃないということだった。この旅館には一人部屋なんて存在しないらしく、結果的に僕は二人部屋を一人で使う形になった。
 十畳ほどの和室に、外からうっすら同級生の声が聞こえる空間に、一人ポツンと残されるのは少々疎外感がある。しかし、この疎外感はありがたい話だった。
 深呼吸をしてみると、檜の香りが鼻腔を刺激した。優しい明かりに照らされた部屋には木製の大きなテーブルが中央に置かれ、壁には掛け軸が飾られている。縁側には二人座れる小さな椅子とテーブルが置かれていて、その先の障子襖を開けると、小さな檜樽の露天風呂が姿を現す。

「ウチ、公立だよな……」

 まるで私立の修学旅行のような高級感溢れる宿に、ある意味呆れてしまった。沖縄とか海外じゃない理由は、この宿に全て詰まっている気さえする。

 部屋から覗く景色は裏手にある山々を一望でき、暗がりでもよくわかる茂た緑を感じた。きっと、秋になると、紅葉なんかが絶景のスポットになるのだろう。
 荷物を端に寄せ、縁側の椅子に座って一息つく。一日中歩き回った疲労感が急に襲い掛かり、早い眠気さえ感じた。
 この後すぐに宴会場で夕食があるけれど、日中何かと胃に入れ続けていたから正直お腹はすいていない。その後は大浴場の解放があって、二十三時過ぎには消灯という予定になっている。

 夕餉(ゆうげ)の時間まで、ぼんやりと部屋からの景色を眺めていると、部屋をノックする音が聞こえた。
 重い腰を上げ、部屋のドアを開くと館内着の浴衣を身に纏った涼音がいた。白地に灰藍色の鎖をつないだような模様の郭繋(くるわつなぎ)柄の旅館でありがちな浴衣の上に、松葉色の茶羽織を着ている。

「じゃじゃーん。どう?」

 その場でくるっと一回転する彼女。羽織の袖が蝶の羽のようになびく。

「……似合っているよ」

「えへへ、そうでしょー! 私からしたら少し暑いんだけどね。雰囲気のために我慢しなくちゃ」

 彼女の中では八月の終わり。四月の空調では、羽織まで来ていたら、確かに暑苦しいのかもしれない。

「羽織くらい脱いどけばいいんじゃない?」

「いや、それは少しエッチでしょ」

「そんなことないでしょ……」

 僕の脇をすり抜け、部屋に入りこむ彼女。僕はため息をつきながらドアを閉める。

「この空間に一人って、やっぱり寂しいよね、これ」

「僕は開放的でもう気にならなくなったけど」

「まあ、翔琉くんがいいなら、いいか。それより、君も浴衣着なよ。私だけ見せて、不公平だとは思いませんか?」

 彼女はまるで自室かのように、畳の上へ身体を投げ出す。寝転がって膝を抱える姿に、大きな猫が入りこんできたみたいだと思った。
 部屋の隅に置かれた浴衣を手に取り、脱衣所で着替える。その間、部屋から彼女の声が聞こえないことに少しの不安がよぎる。
 今は、会話が途切れたタイミングと言えるのではないだろうか。

 おそるおそる、部屋に戻ると僕の疑心は骨折り損だとわかってほっとする。身体を丸めて寝転がる彼女は、畳に頬を擦り付けながら、小さく寝息を立てていた。
 起こすのもどうかと思い、何となく彼女の横に座ってみる。
 浴衣のせいで彼女の華奢な身体のラインが浮き彫りになって、罪悪感に駆られた。鳴りやまない鼓動に、深く息を吐く。
 部屋の中に居場所を探すように視線を彷徨わせるが、やっぱり僕の意識は彼女へと回帰する。
 長い睫毛がピクリと動く。規則的に揺れる身体。濡羽色の長い髪が畳に広がり、芸術すら感じる模様をつくっている。
 彼女がモゾっと動き、僕の膝に額を添える。彼女の熱が、膝から徐々に全身に駆け巡っている気がした。

 迷った末に、僕はスケッチブックとペンを手に取った。白紙のキャンパスに恐る恐る筆を走らせる。ここにいる彼女を、今を生きる姿を残したい。その思いで描き始めた絵も、ほんの数分、彼女の輪郭すら捉えることなく、手が止まる。
 彼女を描くことを恐れている自分がいる。憶病で無個性な僕が、彼女を一度でも描いてしまえば、それで全てが終わってしまう。そんな気がした。
 だから、まだ描けない。時間は迫っているけれど、だからといって妥協はしたくない。
 外から、烏のやかましい鳴き声が聞こえた。
 彼女の頬に指を添えると、やっぱり猫みたいに頬ずりをする。そんな姿がどうしようもなく愛らしく、心底僕を複雑な気持ちにさせた。

         *

 微風が吹き抜ける度、笹の葉の揺れる音が辺りを包み込む。まるで幕を引いたように翠緑の竹々が緩やかな坂道をずらりと立ち並ぶ光景は圧巻というしかない。
 木漏れ日に優しく照らされた異界への入り口に、僕と涼音は足を止めた。
 修学旅行二日目、自由行動に塩澤さんと岡部さんの姿はない。二人が涼音よりも問題児という前情報はどうやら、本当だったらしい。一緒に目的地に向かっていたはずなのに、いつの間にか二人は姿を消していた。
 焦ること数分、彼女のスマホに届いた文章に僕は開いた口がふさがらなかった。

『私と岡ちゃんは二人でデートしてきます! 集合時間に宿前集合で!』

 彼女はそれを見て「やっぱり、そんな気がしたんだよなぁ」と苦笑いを浮かべていた。
 そんなわけで、僕と彼女は二人で当初のルート通りに巡る羽目になった。

「さあ、気にしてもしょうがないし、行こう!」

 内心ハラハラの僕に、彼女は一層の笑顔を振りまく。

「それとも、翔琉くんは私と二人っきりは嫌なのかな?」

 意地悪く聞いてくる彼女。

「そんなことないよ。塩澤さんと岡部さんには申し訳ないけれど、僕は涼音と二人の方が気楽だよ」

「よくそんな照れる台詞を恥ずかしげもなく言えるよね」

「やましい意味のない、ただの本心だよ」

 竹林では彼女はしきりに竹の隙間から覗く空を見上げ、満足げな笑みを零した。それが危なっかしくて、僕は彼女から目が離せなかった。
 その後は、電車を乗り継ぎ、定番の観光どころを巡る。有名な滝を見に行ったり、厳かな寺に二人でかしこまってみたり、千本鳥居が本当に千本あるのか数えたりもした。もちろん、千本もなかったわけだけど。
 道すがら構える露店があれば、その都度二人で一つ買ってシェアしてみたり。途中、偶然見かけた同じ制服の男女が二人で仲良さげに歩いてるのを見て、少しほっとした。
 もちろん、先生に見つかったら大問題なんだろうけど、基本的に先生たちは見回りみたいなことはしないらしい。信頼というよりは、多少の羽目外しを容認してくれているんじゃないかなと思う。

「そろそろ歩くの疲れたよぉ」

 不意な彼女の発言に肝が冷えた。しかし、明るい声色と透き通るような双眸に胸をなでおろす。

「ちょっと、休憩しようか」

 人通りの多い道を抜け、見晴らしの良い高台のベンチに二人で腰を掛ける。座った瞬間、足が鉛のように重たくなった。四月だというのに高い気温に、汗がじんわりと滲む。

「今日、僕的には結構暑いんだけど、涼音は大丈夫?」

「大丈夫じゃないよ。暑すぎ。溶ける。でも、汗腺はちゃんと気合で締めてるから安心して」

 この様子なら、まあ大丈夫なのだろう。相変わらず、言ってることはよくわからないけど。

「それより、良い景色だよ!」

 高台からは京都市内を一望でき、建物と四方の山々が見事に調和している。

「そうだね。良い景色だ」

 会話が途切れた。嫌な空気を感じ、僕は慌てて口を開く。

「そういえば、最高の景色。中々見つからないね」

 とっさに出た話題のチョイスは、随分と最悪なものだったかもしれない。
 彼女は常に最高の景色を求めている。しかし、それを口に出して何が何でも探し出すと躍起になっているわけじゃない。良い景色を見つけては、その都度毎回感動の涙を流す。きっと、彼女は偶然を求めているのだ。がむしゃらに探した末に見つけるようなものじゃなく、見た瞬間、これが最高の景色だとわかる。そんな偶然で、奇跡みたいなものを。

「見つからないねぇ……。でも、大丈夫だよ。きっと、見つかる」

「……そうだね。修学旅行から帰ったら、どこ行ってみようか。ちょうどゴールデンウイークがあるし、遠出も出来るよ。流石に海外とかは無理だけど」

 彼女はやんわりと口元に笑みを浮かべる。

「最高の景色って、何だろうね」

 彼女にしては、弱気な発言に思えた。
 僕は返答に迷い、結局黙ってしまう。

「この四か月、すっごい素敵な景色をたくさん見てきた。でも、絶対にこれが一番っていうのは、見つからない。私は、何を求めているのかな」

 夕焼けに染まりつつある街並みに馳せる彼女の横顔は儚げで、どこか浮世離れしたものを感じる。
 彼女に未練は残してほしくない。

「大丈夫、見つかるよ。絶対……」

 結局、僕はそんな言葉を並べることしか出来なかった。


 修学旅行の二日目も就寝の時間が近づき、僕は明日の予定の確認を済ませて早々に寝てしまおうと布団に潜り込む。その時、部屋のドアが軽くノックされる。
 重い身体を引きずって扉を開けると、僕よりも疲労を感じさせる佐渡が目の前に立っていた。

「おう、すまんな寝る前に」

「大丈夫です。何か用ですか?」

 佐渡が一枚のプリントを僕に手渡す。 

「これ、帰りの電車の座席表な。委員長のお前には一応、渡しとくよ」

 大きく欠伸をする佐渡。教師に見えない彼の言動にも、態度にもすっかり慣れている自分がいた。

「わかりました」

「おう、それじゃ夜更かしせずにしっかり寝ろよ。俺はこの後先生方と麻雀大会やってくっから。問題だけは起こすな。頼むよ」

 言わなくてもいいことまで暴露していった気がするけど、彼の今までの言動を鑑みるに、対して変なことじゃなかった。
 一応、その場プリントに目を通す。行きの座席と特に変更が無いことだけ確認して、今度こそ布団に入ろうとドアに背を向けた瞬間、またしても小さくノックする音が聞こえて、無意識に背が伸びる。
 大方、佐渡が伝え忘れたことがあったんだろう。そう思いつつ、ドアを開けると、そこにはきょろきょろと廊下を見回しながら立ち尽くす涼音の姿があった。

「はやく、はやく! バレちゃう!」

 彼女は僕の意思など無視して部屋に足を踏み入れ、ドアを急いで閉める。

「ふぅー……ドキドキしたぁ」

 胸に手を当てて、大きく息を吐く彼女。

「何してるの?」

「何って、一人で寂しいであろう翔琉くんのために、可愛い女の子が遊びに来てあげたんじゃない」

 腰に手を当てて胸を張る彼女の浴衣がはだけかけて、僕はとっさに目をそらす。向いた先が下だったのは間違いかもしれない。彼女の妖艶さと無垢さを兼ね備えた色白な細い足が腿まで露わになっていた。

「おっと、走って来たから帯がズレちゃってたのかな。危ない、危ない」

 いそいそと直す布の擦れる音が、目をつぶった僕の耳に響く。

「あのさ、色々と言いたいことはあるんだけれど」

「何でも言ってみなさい。どうせ夜は長いし。はい、もう目開けていいよ」

 うっすら目を開ける。羽織を脱いだ浴衣姿の彼女が目の前にいた。そして、昨日彼女が言っていたことは本当かもしれないと思った。羽織のない浴衣姿が、想像以上に彼女の身体のラインを強調していて、胸が痛いくらい跳ねる。

「一応、聞くんだけど。先生たちの見回りとかって、昨日来た?」

「来てないよ。ついさっき、佐渡先生が来たくらい」

「嘘!? もしかして、結構危なかった?」

「かもしれないね。でも、今日はもう見回りとか来ないんじゃないかな」

 麻雀大会やるって言ってたし。

「そっか。じゃあ、今夜は寝かさないぞ!」

 一日歩き回ってくたくたなはずなのに、どうしてか彼女はそんな様子を一ミリも見せない。

「僕、もう眠いんだけど。一時間とかなら付き合うから、そしたら部屋戻りなよ」

「それは困るよ。塩ちゃんと岡ちゃんに今夜は帰って来るなって言われてるし」

 なるほど、あの二人の仕業か。
 妙に納得のいく答えに行きつき、僕は諦めた。どうせ、二人っきりなんていつものことだ。

「ねえ、トランプやろ。旅行の定番じゃない?」

 彼女は縁側の小さな椅子の身体を沈める。僕も倣って反対側に座った。二人を挟む小さなテーブルには散乱したトランプ。

「二人でトランプって楽しいかな」

「うーん、どうだろう。そもそも、私ババ抜きくらいしか知らないや」

 僕は適当にトランプを混ぜ、二つに分ける。半分を彼女に渡し、もう半分を自分の元に引き寄せる。
 重なった二枚をテーブルに捨てていくと、最初の半分ほどしか残らなかった。

「そうだ、罰ゲームありにしよっか」

 彼女はそう言いつつ、僕の手札から引いたカードと自分の手札から一枚カードを抜き取り、テーブルに放る。

「罰ゲーム?」

「そっ、勝った方が負けた方になんでも質問出来る。それで、負けた方は絶対それを答えなくちゃいけない。どう? 単純なトランプでもドキドキしてきたでしょ」

「……まあ、いいけど」

 互いに交互に手札を引いていき、早々に僕の手札は二枚、彼女は一枚になった。二人でババ抜きをやると、途中でババを引きまくらない限りこうなるのだから、途中の過程は本当に意味が無いんだなと再認識した。

「うーん……左。いや、右?」

「さあ、どっちだろうね」

 左にジョーカー、右にハートの六。罰ゲームがあるせいか、やけにハラハラした。彼女、なかなか破天荒なことを聞いてきそうだし。

「よし、決めた!」

 そう宣言しつつ、彼女は右のカードを勢いよく抜き取った。

「やったあ! 私の勝ちー! 何質問しよっかな」

「お手柔らかに頼むよ。本当に」

「ま、最初だしね。軽めに行こうか。昨日と今日、楽しかった?」

 一番最初に出てくる質問が、僕への気遣いな辺り彼女らしい。
 手元に残ったジョーカーをテーブルに捨てる。

「まあ、それなりに楽しめはしたよ。塩澤さんと岡部さんには何度も肝を冷やされたけど」

「言ったでしょ? あの二人は私より破天荒だって。でも、翔琉くんが楽しめたみたいで良かったよ。一日目とか完全に女子会のノリだったし」

「あのお洒落なカフェで男一人はもうこりごりだけどね。周りの目、すごく痛かったよ」

「そう? 私は気にならなかったけどなぁ」

 話しながら器用にシャッフルした半分を彼女が手渡してくる。

「これ、何回やるの?」

「んー、飽きるまで」

 結局、二回目も彼女は僕のジョーカーには手をかけず、手札をゼロにした。

「やったー、また私の勝ち! それじゃあ、質問ね。絵の方は順調ですか?」

「えっと、それは……」

 僕は言い淀んだ。順調ではないんだと思う。何せ、もう一度絵を描こうと決心してから、未だに一枚も完成させていないのだから。

「順調ってほどじゃないかも。昔の感覚取り戻すの中々難しくてさ」

「そっか。でも、大丈夫だよ」

 何の説得力も無いはずの彼女の言葉が、どうしてか僕の不安をかき消す。

「でも、私のタイムリミットが来る前に、君がどんな作品を描くのか見せてね」

「それはもちろん……約束するよ」

 彼女と僕の関係の終わりまで残り約三か月。僕は、それまでに彼女を描けるようになるのだろうか。
 窓から差し込む月明りに照らされる彼女の双眸は硝子玉のように透き通った輝きを見せ、動くたびに濡羽色の髪からはほんのりと良い匂いを漂わせる。お淑やかが似合いそうな容姿なのに、その口元はいつでも笑みを浮かべていて、でもそれがたまらなく愛おしくて。
 彼女のことを知れば知るほどに、僕は彼女を描けなくなる。

 三回戦目は、僕が勝ってしまった。
 
「あちゃー、ついに負けたか。さっ、何でも質問ウェルカムだよ」

 僕は彼女から目をそらす。窓の外はすっかり宵闇に包まれてほとんど何も見えやしない。質問は考えてなかったけど、すぐに思い浮かんだ。口にすることはすごく重たくて、でも、はっきりさせなくちゃいけない。

「涼音は、本当に死ぬの……?」

 彼女の顔は見れなかった。僕と同じで暗闇の空に星を探すように、外に目を向けていることだけわかった。
 そして、少しの静寂の後、今までと遜色のない声色が聞こえる。

「消えるよ。絶対に」

 なぜか泣きそうになった。滲んだ涙は歯を食いしばるとすぐに引っ込んだけど、どうしてこんなにも急に泣きたくなったのかがわからない。

「で、でもあと三か月だっていうのに、君はこんなにも元気じゃないか。今日だってたくさん歩いて、たくさん食べて、たくさん喋って。……僕にはとてもじゃないけど、信じられないよ」

 声に混ざる緊張を押し殺すように早口になる。そんな僕に、彼女はきっと優しく微笑んでいるのだろう。

「私のことは私が一番よくわかってるんだ。お医者さんより、親より、もちろん翔琉くんよりもね。タイムリミットは絶対だよ」

 わかっていたことのはずなのに、胸が張り裂けそうなくらい痛い。彼女は嘘をつかない。だから、あと半年と言っていたあの時に、僕と彼女の残りの時間がすり減りだしていたことは明白なのに。信じたくなくて、目をそらして、あまつさえもう一度彼女の口から説明させてしまった。

「……ごめん」

「なんで謝るの?」

 彼女はこの期に及んでまだこのくだらないゲームを続ける気らしい。山札が二等分され、片方が僕の目の前に置かれる。

「私はね、翔琉くんにはすっごく感謝しているの。ヘンテコなお願いにずっと付き合ってくれて。それに私だってわかってるんだよ。私の服装が季節外れなせいで、隣を歩く君まで変な目で見られちゃってること。でも、君は私を責めない。君が私に服装どうこう言う時は、決まって私の体調の心配をしてくれる時だからね」

 彼女は手札をどんどんテーブルの上に捨てていく。僕は、ゲームを続ける気にはなれなかった。これ以上、何を質問しろと言うのだろうか。

「僕はもう質問出来ることなんてないよ……」

「私はまだあるよ。だから、あと一回だけ付き合ってよ。それで、翔琉くんが勝ってももう一回なんて言わないからさ」

 そう言った彼女の口角は上がっていなくて、湿っぽい表情ですら僕を惹きつける。だから、彼女の頼みは断れない。

「……わかったよ。これで、最後」

 一枚、また一枚と互いの手札が減っていき、やっぱり最後はどちらかが選択をしなくてはいけない。その役目が、今回は僕だった。
 彼女の手に残るカードは二枚。どちらかが道化師だ。
 僕はしばらくカードを引けなかった。質問される覚悟も、質問をする覚悟も、出来ていなかったから。
 朧月(おぼろづき)が、雲に身を半分隠し、ちょうど僕だけをぼんやりと照らす。

「ゆっくりでいいよ。まだ、夜は長いんだから」

 彼女の声に、むしろ急かされた。一分一秒が僕とは比にならないほど大切な、彼女が言うのだから。
 僕はカードを一枚手に取って、確認する。ため息が漏れる。二枚のカードをテーブルの上に投げ捨てた。

「ありゃ、私の負けか……」

 彼女は残念そうに残ったジョーカーを眺める。
 喉の渇きを覚え、立ち上がった。備え付けの冷蔵庫から水の入ったペットボトルを二本取り出して、片方を彼女に渡す。

「ん、ありがとう。それで質問は決まったかな?」

 いくら水を飲んでも渇きは満たされなくて、ようやく自分の喉が何かを絞り出そうと喚いているのだと悟った。今にも出てしまいそうで、必死に抑える。
 彼女の反応は知りたいけど、怖くて、憶病なくせに変なところに好奇心が湧いてしまうのは彼女に似てきた証だろうか。
 椅子に座りなおしたのに落ち着かなくて、静寂を求めて春の夜空に目を渡す。雲の多い今夜は、星がまばらに輝いている。都会の汚れた空を切り裂くように、一筋の星屑が視界を端から端へと駆け抜けた。
 刹那、油断した自身を見逃さないように喉を衝いて言葉が溢れる。

「僕が……涼音のことを好きだって言ったらどうする?」

 これは質問なんかじゃない。気持ちの押し付けだ。
 焦りはあれど、意外にも心中は穏やかだった。求めている彼女の返事が、僕自身にもわからなかったから。
 でも、彼女の顔はやっぱり怖くて見れなかった。
 二人の間を流れる沈黙が何秒か、はたまた何分だったかわからない。彼女が口を開く気配を感じた。

「今、何て言った……?」

「だから、僕は涼音のことがす――」

 言葉が詰まった。背中に嫌な汗が伝う。
 眼前の彼女が涙を流していた。真っ黒に染まった瞳で――。

「……ごめんなさい」

 彼女が小さく震える声で呟く。
 その細い両腕でガタガタと震える身体を抱える。焦点は定まっておらず、虚空を眺めては、同じように「ごめんなさい」と呟き続ける。何度も、何度も。まるで、誰かに許しを請うようにひたすら。
 窓から差し込む月明りが、彼女の美しい髪を照らす。まるで、彼女の闇をより鮮明に見せるように。

「ごめんなさい」

 思わず、僕は彼女を抱きしめていた。こうして強引に繋ぎ止めておかないと、彼女が壊れてしまうような気がして、力の限り彼女に僕の温もりを伝える。
 彼女の身体の震えが一層大きくなり、彼女は声を上げて流涕(りゅうてい)する。決壊したダムのように流れは止まらず、僕の胸の中でずっと謝り続けながら彼女は泣いた。
 長い時間、彼女の嗚咽だけが部屋に響く。
 泣いて、泣いて、まるで赤子のように泣きじゃくった後、彼女はぴたりと身体の震えを止めた。

「……えーと、一体これはどういう状態かな?」

 戸惑いを帯びた声が胸にうずまった中から聞こえる。
 ゆっくり、彼女から身を離す。
 耳まで真っ赤に染まった彼女の瞳は、雨上がりの太陽に照らされた水たまりのように透き通っていた。

「なんで私、いつの間に翔琉くんに抱きしめられるような展開になってるの? っていうか、私泣いてた?」

「本当に何も覚えてないの?」

「えっ? 何を?」

 怖いっていう表現は少し違うかもしれない。けれど、目の前で理解に苦しむことが起きていることは確かだ。あれだけ強烈な感情の吐露を全く覚えていないなんてこと、ありえるのだろうか。でも、()()()()()時、毎回必ず彼女は覚えていない。

「それより、早く質問は?」

 腫らした目元に笑みを添えて、彼女は問う。

「……思いつかない」

 もう一度、同じことを言えるはずなんてなかった。

「もったいないなぁ。何でも答えるって言うんだから、私のスリーサイズとかでもいいんだよ?」

「茶化すなら、もうおしまい。明日も早いし、僕はもう寝るよ」

「えー、そんなぁ。修学旅行の夜はこれからだってのに」

 彼女を無視して布団を被る。申し訳なさもあるけれど、それよりも今は何も考えたくなかった。
 口を滑らした自分の愚かさと、彼女が見せた弱さが頭の中を渦巻く。

「もう、仕方ないなぁ」

 夜もふけった静寂の最中、彼女は僕の布団に潜り込んできた。その突然の出来事に、胸が緊張と驚きで高鳴る。
 薄暗い部屋の中を、窓から差し込む月明りがかすかに彼女の姿を浮かび上がらせる。細い指が柔らかい布団を這って、また少し僕に近づく。そして、その先端が僕の頬へ触れた瞬間、僕は我に返った。
 勢いよく彼女に背を向ける。行き場を無くした彼女の指が、僕の背中を優しくなぞる。

「な、なにやってるのさ!」

「だって、布団一つしかないでしょ? しょうがないじゃん」

 甘い声にどうにかなってしまいそうだった。

「自分の部屋に戻ればいいでしょ」

「無理だよ。塩ちゃんも、岡ちゃんも、絶対に追い返すに決まってるよ」

「そんなこと言ったって、これはマズいでしょ……」

 心臓の音がうるさくて、彼女にも聞こえちゃってるんじゃないかと思った。なのに、一定を刻む時計の針の音が、今だけはずっと遅く聞こえた。
 トンっと背中に彼女の額が当たる。彼女の吐息は少しだけ震えている気がした。

「ズルいかもだけど、私は老い先短いわけだからさ、これくらいの卑怯なことは許してよ。もし、翔琉くんが我慢できなくなっても、まあ私は怒らないよ」

 彼女の体温が、徐々に僕を侵食していく。彼女の感じている夏の空気が、僕にも感じられそうなほど暑く、熱かった。

「ねえ、翔琉くんが質問する権利を使わないなら、私に頂戴よ」

 僕はただ頷いた。
 
「やった。じゃ、質問」

 彼女は緊張交じりの声色で――

「もし、私が翔琉くんのこと好きだって言ったら、迷惑?」

 僕は沈黙をつくることしか出来なかった。
 口の中を鉄の味が広がって、初めて自分が強く歯を食いしばっていることに気が付く。
 背に感じる彼女の熱に、いつしか微睡へと誘われていた。
 記憶に残ることが色々と起きた修学旅行から一か月。
 僕の世界に初夏の訪れを感じ始める頃、涼音は一週間学校を休んだ。

 メールで直接理由を聞くと、少し体調崩したこと、もう一つ病院での定期検査とのことだった。
 僕はとにかく心配が先行して何度も、それこそウザいくらい容体や体調を確認した。そのたび、彼女はいつも通りの溌剌な文面で、蝉のよくわからないスタンプを付けて返信してくる。だから、僕もそわそわしたものの、そこまでの心配はしていなかった。
 彼女のいない学校はやたらと退屈だ。彼女が転校してくる前に戻っただけなのに、今では学校が物足りなく、僕にとってなんの生産性もない場所だとさえ思えてくる。
 この一か月、特に何も変わったことはなかった。修学旅行での一件を互いに触れ返すこともなく、土日は二人で出かけて、平日は学校終わりを一緒に帰宅するだけ。ただ、それだけなのに、どうしてか視界に彼女がいないと落ち着かなくて、授業もろくに頭に入ってこなかった。

「おはよー!」

 教室のドアがガラッと勢いよく開け放たれ、元気の良い挨拶と共に彼女が一週間ぶりに教室に姿を見せる。
 僕は彼女の姿を見るまでもなく、ほっと胸をなでおろす。そして、皆と同様に視線を彼女に向けて、一瞬にして現実に戻された。
 僕の世界で六月ということは、彼女の世界では今は十月だ。クラスの全員がワイシャツを半そでにするのと入れ替わりで、彼女は長袖のワイシャツを着ていた。スカートも夏用の薄手のものから、厚手のものに変わっているようだった。
 教室のざわつきもいつものことで、彼女はやっぱり何も気にしてなさそうだ。慣れというのは凄いことであって、その逆に恐ろしいことだとも感じた。人とは違うことに慣れるのは、すごく勇気がいることだと思う。
 でも、彼女は言っていた。自分の目に見えている世界を否定したくない、と。
 今の僕に、そんな勇気があるのだろうか。
 未だに絵が描けていない理由が、人と違うものを描くことに怯えているのだとしたら、僕は本当の弱虫だ。

「おはよっ、翔琉くん」

 定位置と言わんばかりに、彼女は僕の机に腰を降ろす。

「おはよう。体調は大丈夫?」

「問題なーし! と言いたいところだけど、翔琉くんにだけは話しておこうかなと思ってね。ホームルームまでまだ時間あるし、ちょっと人いないところで話そ」

 彼女の笑みが、いつもよりずっと薄くて、背中がぴりぴりと痛んだ。
 僕と彼女は教室を出て、屋上に向かう。
 屋上のドアを開けた瞬間、嫌な暑さが僕の身体を照らす。
 一面の青に早い入道雲が大きく主張するように天高く昇る。周りの山々は少し見ぬ間に青々と茂っていて、乾いた空気に汗が滲んだ。
 彼女が失季病だと告白した時期と、ほぼ一緒の六月の屋上からの景色。まだ凍てつく寒さの残る二月に、彼女はこんな景色を見て、体感していた。そう考えると、日照りも滲む汗もあまり嫌に感じなくなった。

「ふーっ、ちょっと寒くなって来たねぇ」

「僕は、今からすごく暑くなりそうだ」

「じゃあ、私が冬の涼しさをおすそ分けしてあげよう」

「どうやって?」

「こうやってだよ」

 彼女は僕の手を取って、包み込んだ。彼女の熱が確かに伝わる。

「ね、冷たいでしょ?」

「……うん」

 嘘をついた。彼女の手は僕の手と一緒で高い熱を持っている。でも、わざわざ事実を突きつける必要もない。

「翔琉くんの手は温かいね」

 彼女がぎゅっと握るから、僕も握り返した。どちらかが力を緩めれば、もう片方が離すまいと強く握る。

「私ね、これから少しだけお休み多くなるかも」

 彼女が唐突に切り出す。物寂しそうな表情を浮かべ、僕の手をさすりながら続ける。

「実はこの一週間、半分以上記憶が無いんだ……」

「それは、失季病のせい……?」

 彼女は首を振る。

「多分、違うと思う。でも、これまでも何度かあったの。翔琉くんといる時もね。それで、我に返った時、胸が痛くて、感情がぐちゃぐちゃになった後って感じで、すごく気持ち悪いんだ……」

 彼女は胸に手を当てて、掻き毟るようにワイシャツを乱雑につかむ。つくられたシワが形を残すように、記憶が無い時の感情も、確かに彼女の胸に残っているのだ。

「記憶のない時、どんなこと考えていて、どんなこと言ってるのか、覚えていないけれど、大体は予想が付くの。だから、翔琉くんにも謝っておくよ。ごめんね」

 僕は行き場を失った右手をだらりと力なく垂らす。

「謝る必要ないよ。謝られるようなことをされた覚えも、僕には無いから」

「翔琉くんなら、そう言ってくれると思ってたよ。ありがとう。でも、やっぱり他の人には見せたくないんだ。弱いところを見せるのは、家族と君だけで十分だよ」

「……僕は、涼音には眩しいひまわりみたいな笑顔でいてほしい。でも、それは僕の願望で。だから、僕は君のすべてを受け入れたい。……そう思う」

 僕は笑顔をつくる。それを見て、やっぱり彼女は可笑しそうに吹き出す。

「翔琉くん、やっぱり笑顔下手くそだよ。それにしても、ひまわりみたいか……。翔琉くんはひまわりの花言葉って知ってる?」

「知らないけど?」

 ホームルームを合図するチャイムが鳴り響く。
 彼女はいつの間にか、僕の好きな眩い限りの笑みを浮かべていた。

「じゃあ、今度調べてみなよ。ひまわりの花言葉」

「今、教えてくれたっていいのに」

「それは駄目ー」

 教室に戻ろうと、青空に背を向けた。

「ねえ、翔琉くん!」

 ドアの前で彼女に声をかけられて、振り返る。
 一瞬、冷たい空気が頬を撫でた気がした。

「あと少し、私のわがままに付き合ってね!」

 彼女は僕を指さして明るい声で放った。

         *

 涼音の学校を休む頻度は増えた。一週間に一度が、三日に一度に。そうやって徐々に会えない日々が増えていく。
 僕は初めて学校をズル休みして、一日中窓の外を眺めて過ごした。空の果てが黄昏に染まる時、なぜかすごく悲しい気持ちになる。

「……会いたいな」

 無意識に口から零れ落ちた言葉はすぐに泡のように消えて、少し早い蝉の音が聞こえてきた。
 修学旅行の夜、彼女の気持ちに素直に答えられなかったことに、いまさら後悔が捗る。
 あの場で、彼女を受け入れていたら、今頃どうなっていたのだろうか。僕の気持ちは、彼女には届いていない。無かったことになったあの言葉を、背に縋りつく彼女にもう一度投げかけていたら、僕らの関係は何か変わったのだろうか。
 でも、僕は彼女の隣には立てない。今でもウジウジ悩んで前に進めない弱虫に、彼女のそばを歩く権利なんて、彼女が許しても他ならぬ僕自身が許せない。

「あと、二か月……」

 壁にかかったカレンダーをめくるのは、もうずっと前に辞めてしまった。進んでいる日数を実感したくなかったから。
 月日を意識しないように生活してても、季節の移ろいは確かに感じた。八月、彼女はこの世から去る。彼女の求めるものは、まだ見つかっていないし、僕の絵もまだ描けそうにない。
 起きたら、時間が止まっていてくれないだろうか。そんな夢物語を求めて、目をつぶった。


 翌日、学校に行くと、今日も彼女は来ていなかった。それがわかっただけで、無性に帰りたくなる。
 授業はろくに頭に入らないのに、こんな時でも律義にノートを取っている自分に乾いた笑いが出た。
 本格的な夏が始まろうとしている。クラスは徐々に受験を意識させる静けさを帯びてきた。だというのに、僕は成績こそ落としていないものの、勉学に身が入らないでいる。

「鳥野、放課後職員室な~」

 帰りのホームルームで名前を呼ばれて、集まる視線を背中に感じた。
 ホームルームが終わると、夏の最後の大会に向けて、運動部は足早に部活に向かう。文化部や、僕の様に帰宅部の人たちは各々、補習やら自習のために教室を出る。その流れに合わせて、職員室に向かうと、佐渡は珍しく真剣な眼差しでデスクに座っていた。

「おう、来たか」

「何か用ですか?」

 佐渡は立ち上がり、ついてくるように指で僕に指示する。珍しいことだ。今まで、委員長として何度も呼び出されたことはあるけれど、場所を変えて話すようなことは初めてだった。
 猫背でだらだらと歩く担任の後ろをついて歩く。長い石段を下り、グラウンド全体が見下ろせるベンチに佐渡は腰を掛けるから、隣に座る。

「ほれ、他のやつらには内緒だからな」

 そう言って、佐渡は露のつく缶コーヒーを僕の膝に放った。

「あ、ありがとうございます」

「ちょっと、長くなりそうだからな。それに、職員室じゃ話しづらい」

 佐渡は煙草に火をつける。

「あ、これも内緒な」

 僕は無言で首肯する。
 煙草の煙が空に立ち上り、溶ける。

「鳥野の親御さんから、先ほどお電話があった」

「……えっ?」

 佐渡はマズそうに息を吐く。

「息子の成績が芳しくないから、学校でのお前の様子を教えてくれってな」

 父親は放任主義だし、そんなことをするのは間違いなく母親だろう。

「それは、なんというか……ご迷惑をおかけしました」

「別に鳥野の成績は文句なしだと思うんだけどな。テストも学年二位をキープしてるし、内申点も申し分ない。第一志望だってAよりのBだ。特に問題ありませんよ、とは言っといたよ」

「助かります……」

 グラウンドからは野球部の掛け声が、いつもより一層大きく聞こえてくる。

「でも、土日に図書館行ってるってのは嘘だろ」

 胸がどきりと音を立てる。

「雨笠とは念のため週一で軽い面談をやってるんだ。あいつ、いっつも楽しそうにお前とのことしか話さねえよ」

 初耳だった。そして、佐渡に筒抜けだったことにそこはかとない羞恥心が顔を出すが、まあ佐渡だし、特に気にする必要はないなという結論に自分の中で至った。

「どうして、今その話を?」

「何となくだよ。青春してて羨ましいなおいって、独身の中年からの戯言だよ」

「そんなんじゃないですよ。先生も、彼女が失季病って話を知っていたなら、全部聞いてるんじゃないですか?」

 佐渡は難しい顔で、雲一つない青空を見つめる。

「全部って言われても、親御さんと本人から聞いた話だけだ。それ以外は何も知らんよ」

()()()、今は勉強どころじゃないんですよ……」

「ん? だからってどういうことだ?」

「もう時間がないからってことですよ。あと、三か月もないのに……」

 佐渡は首を傾げる。まるで、何も知らない、何を言ってるのかわからないというふうに。
 背筋を冷たい汗が滴る。

「聞いてるんじゃないんですか……?」

「何の話だ?」

 どこか、話がかみ合っていない気がする。僕は間違ったことは話していない……はずだ。
 頭の中を色んな言葉が渦巻いて、一度大きく息を吸う。生ぬるい熱気が肺まで満ちる。
 結局悩んで、有り体に質問するしかなかった。

「彼女が失季病で、余命があと三か月もないってことですよ」

 佐渡はいつになく真面目な表情で僕を見た。
 口の中が乾いて気持ち悪い。なぜか凄く嫌な予感に喉が小さく鳴る。
 
「お前は何を言ってるんだ?」

「いや、だから――っ!」
「失季病は命に別条のない病気だぞ?」

 心臓が凍り付くような感覚に襲われた。
 グラウンドから聞こえる明るい声が急速に遠のき、辺りを静寂が支配した刹那、自分の口から発せられた掠れ声が耳をなぞる。

「……ぇ?」

 声帯が麻痺したみたいに、他の言葉が出てこない。ぴくぴくと痙攣したみたいに震えるだけだ。
 思考が嵐のように乱れ、内なる叫びが無言のまま空気として開いた口から出ていく。

「おい、大丈夫か?」

 佐渡の声がやけに遠く、ノイズ交じりに聞こえる。
 
「今の、話って……」

 そんなはずがない。聞き間違いに違いない。彼女が、嘘をつくはずがない。

「だから、失季病は命に直接関わるような病気じゃないってこった。一応、俺の受け持つ生徒だからな、事前に雨笠の担当医にも確認を取ったし、親御さんとも話した。めんどくさがっちゃならないことだって、俺でもわかったからな」

 彼女と同じく、佐渡も嘘をつかない。そして、僕は知っている。彼はちゃんと教師だ。いつもめんどくさがってて、色んなことが適当なのに、生徒のことはしっかり見ているし、何かあれば率先して聞く耳を持ってくれる。
 心のどこかでは、佐渡を尊敬していた。周りに干渉を受けず、独自のスタンスで生徒と向き合って教師をする、そんな彼に。
 だから、失季病が命に関わるような病気じゃないという佐渡の発言は、紛れもない事実だ。

「じゃあ、どうして……?」

 佐渡は口を閉じる。そして、ゆっくりと首を振る。煙草の灰が、目の前を飛び交う。

 気が付けば、僕は佐渡に何を言うわけでもなく、立ち上がって走り出していた。
 校門を飛び出し、坂道を駆け下る。
 唸るような夕照(せきしょう)に、空が燃えていた。
 胸のざわめきが止まらない。
 悲鳴を上げる肺と足に速度を落とすと、頭の中も徐々に冷静になっていく。それが嫌で、また走り出した。
 僕は何か、大きな勘違いをしている。その確証だけが、どんなに走っても消えることはなかった。


 彼女の家は知っていた。
 学校から走り続けて十分弱。海が一望できる小さな坂道の一角。なんてことのない一軒家だった。真新しい見た目をしてはいるが、ここに昔から家があって、立て壊しが行われていないことは知っている。だから、きっと彼女の祖母の家なのだろう。
 
 荒ぶる心臓が治まるまでかなりの時間を有した。
 正直、なんで彼女の家に来たのかわからない。でも、僕の足はここへと一直線に駆けた。
 彼女には、今はあまり会いたい気分じゃない。何を問えばいいのか、何を語り掛ければいいのか、そんなの一個だってわからない。しかし、胸を縛り付けるこの感覚を、このままにしておくなんて出来なかった。

 大きく息を吐き、意を決して、インターフォンを押す。小さく響く音が聞こえて、すぐに人の気配を家の中から感じた。
 玄関がゆっくりと開いて、姿を現したのは四十代前半くらいに見える女性。一目で彼女の母親だとわかった。彼女とそっくりの濡れた烏の羽のような艶めきを放つ髪をしていたから。

「はい? どなたですか?」

 緊張に震える舌を奥歯で噛む。

「雨笠涼音さんのクラスメイトの者です」

「まあ、娘のお友達?」

 涼音の母親は目を丸くして驚いたのち、口元に優しい笑みを添えた。彼女の笑顔とそっくりだと思った。

「ええ、まあ……。あの、涼音さんはご在宅でしょうか?」

 緊張か、焦燥か、いつもの他人行儀な自分が出てこなくて、掠れた訥々としたものになってしまう。

「ごめんなさいね。あの子、散歩に行くってついさっき出てったばかりなの。良かったら上がってお待ちになって」

 涼音の母親は急に来訪した僕を、しかも夕飯時で忙しいだろう最中、快く家へと上げてくれた。しかも、鞄一つ持たず、手ぶらで汗だくな僕に煎茶と、お茶請けだけでなく、タオルまで用意してくれる周到さだ。
 涼音の母親は瑚春(こはる)と名乗った。随分と物腰が柔らかな女性で、いつも溌剌な彼女からは想像の出来ない母親像だ。
 案外、彼女も大人になればこのくらい落ち着くのかもしれない。そんなことを考えて、また胸がちくりと痛む。
 通されたリビングは家族三人と考えると少し手狭で、やたらと綺麗な床や壁が落ち着かない。きっと、外装も内装もリフォームを施したのだろう。

「娘のお友達がこの家に来たのは、鳥野くんが初めてよ」

「えっ……どうして僕の名前を?」

 瑚春さんは微笑む。硝子のような透き通る瞳も、嫣然としたときの目の細め方も、彼女そっくりだ。

「ふふっ、あの子いっつも楽しそうに話すんですもの。一人の男の子のお話。すぐにあなたのことだとわかったわ」

「それは、何というか、お恥ずかしい限りです」

 今日だけで、二回同じような辱めを受けた気分だ。教師の次はあろうことか彼女の親。用事が無いのなら、今すぐお暇して顔を隠しながら帰りたい。

「本当に嬉しそうに話してくれるのよ。夢に付き合ってくれる人が出来たとか、一生懸命私に質問しながらつくったサンドイッチを美味しいって言ってくれたとか……」

 次々と瑚春さんの口から出てくる僕と彼女の思い出。恥ずかしくて、でも嬉しくて、照れ隠しで湯呑を口元に運ぶ。

「でも、涼音とお出かけするのはやっぱり大変でしょ? 本当に嫌な思いはしていないかしら」

 心臓が強く打つ。穏やかな空気が一変したような気がした。

「全然、嫌な思いとかはしてません。涼音さんからは、本当に色んなことを学ばせていただいてます」

「良かったわ。それだけが気がかりだったの。あの子、昔っから変わらずお転婆だから、大変でしょう?」

 僕は苦笑した。でも、それが彼女の良いところでもあるから、無下に首は横に振らない。

「おかげで、良い経験をさせてもらえてます」

 瑚春さんは僕と彼女のことを、言葉通り根掘り葉掘り尋ねた。学校での成績とか、友達は他にいるかとか。彼女のこと主軸で話は進むのに、僕が疑問に抱くことには中々触れない。きっと、瑚春さんも僕がどこまで知っているのかわからないのだ。だから、深い話は最初だけで、あとは何てことのない世間話に花を咲かせる。
 でも、僕はそんなことじゃなくて、もっと確信めいたことを話したい。そのためにここに来たのだから。

「あの、涼音さん最近お休みが多いですけど、体調の方は大丈夫ですか?」

 思い切って、足を踏み出す。視線が自然と下がり、瑚春さんの目を見ることが出来ない。

「心配させちゃってごめんなさいね。体調は大丈夫なの。ただ、最近はどうも精神的に不安定になることが多くてね。本人も結構、参っちゃってるみたい」

「……そうですか。僕も少し戸惑うことが多いです。嫌ってわけじゃないんですけど、彼女が取り乱した時どう接してよいのか、正直よくわかりません」

 外から、小さな子供たちの無邪気な声が聞こえてきた。陽は既に西の空に姿を隠し、外は藍色の世界になりつつある。

「そういう時はね、何も言わずに側にいてあげるだけでいいのよ。あの子もよくそうしていたわ」

「あの子……?」

 瑚春さんは目を細めて遠くを見つめる。まるで、過去の思い出を起こし、懐かしむように。その瞳は少しだけ潤んでいて、細い指先が目元を撫でる。

「陽音と涼音はどっちかが落ち込んでたり、泣いてたりすると、もう片方は必ず横で何も言わずにじっと寄り添ってたわ。それで、いつの間にか二人して肩を預けながら寝ちゃって」

 瑚春さんにとっては、つい昨年までの当たり前の光景で、今では永遠に見ることのできない姿。
 想像は出来た。だって、僕の知る涼音は人の気持ちが良くわかって、持ち前の溌剌さだけでなく、静かに感情の共有が出来る女性だ。彼女の纏う気配に何度心を奪われたかわからない。
 壁にかかるアンティーク調の振り子時計が、重々しい低音を奏でる。見ると、時刻は十八時を回っていた。既にお邪魔してから一時間以上経過している。

「すいません。こんなに長居してしまって。出直します」

「あら、ごめんなさいね。あの子、どこまで行ったのかしら……。今日も朝から不安定だったし、心配だわ」

 玄関先まで瑚春さんは見送ってくれた。すっかり外が暗くなっていることが、玄関越しにも伝わる。
 靴を履き、お暇しようとした時、大事なことを思いだした。なんで、失念していたのだろうか。

「あの最後に、陽音さんにお線香を上げたいのですが」

 僕の言葉に瑚春さんは眉をぴくっと動かし、目を閉じて小さく首を振った。その様子が、ひどく悲しそうに見える。

「ごめんなさいね。今日は、遅くなる前に帰りなさい」

 遠回しに拒絶されているのだと察した。なぜ、拒まれたのかわからない。
 胸がざわざわと騒ぐ。
 ただの高校生にあんなにも丁寧に、良心的に接してくれた人が、一感情で故人への哀悼を断るだろうか。ほんの一時間しか話していないけど、瑚春さんがそんな人で無いことくらい、よくわかる。
 じゃあ、どうして……。

「そ、そうですか……。では、失礼します」

 六月の夜はまだ暑いとは言えない。生ぬるい風が肌をなぞる。まるで、今の僕の心情を表しているみたいだ。色んなものが絡まって、どこが違えた結び目なのかわからない。
 穴あきのパズルをずっと眺めている。そんな気分だ。

 スマホも鞄も、全部学校に置きっぱなしだ。早く戻らないと閉まってしまう。
 やけに重い身体を引きずる。面倒だけど、取りに戻ることにした。
 商店街を抜け、海沿いの坂道を上る。海開きもまだだというのに、海岸には褐色のガラの悪いグループが溜まって小さな輪をつくっていた。正面から近づいては一瞬に過ぎ去っていく自動車のライトに目がくらむ。

 ゆっくり歩きながら、ずっと考えていた。結局、彼女の家に行って、わかったことは何もない。もやもやが増えただけだ。そして、何か大きな間違いを犯した気がする。
 彼女に直接聞くのが一番手っ取り早い。そんなことはわかっている。でも、彼女は僕に隠したのだ。嘘をつかない彼女が僕に教えなかった。つまり、彼女は語りたくないと言うことだろう。ならば、僕自身で答えを導き出すしかない。きっと、もうパーツは全部揃っているのだ。これ以上、誰に何を聞いても増えることは無い。というか、元々僕は全てのパーツが手札にあった。今日は、一日を通してそのパーツの再確認をしただけだ。

 目の前の踏切が、けたたましい音と共に橋を降ろす。
 視線を上げた僕は、対岸で同じように昇降機が上がるのを待つ人物に驚く。その人物は僕を一点に見つめ、両手を頭の上で大きく振っている。大きく口を開けて、何か言ってるみたいだけど、カーン! カーン! というやかましい音で聞き取れない。
 暗がりに包まれだす夜の街で、踏切付近だけが明るさを保ち、その中心に彼女がいるみたいだ。いや、そうじゃない。踏切の明るさに負けない輝きを、彼女が発していた。

 僕も手を挙げて答えようと、右手を軽く顔の横に持ってきて、動きを止める。
 交互に何度も点滅する赤い信号に何故か目を吸われた。点いて、消えて、また点いて――。
 鼓動が急に早くなる。
 電車が横切り、彼女の姿が窓越しに映る。まるで、鏡の中みたいに。六月の初夏の僕の世界で、半そでの彼女が。
 散らばっていたピースが、勝手に動きだす。一つハマると、次が動きだして、また正解の位置に移動していく。

 彼女との思い出が鮮明に思い起こされる。
 ――私が、私だという証明だからだよ。
 初めて出会った時、僕に名前呼びを強要した彼女。
 ――女の子が八か月入院して寝たきりだった理由は、頭を強く打っちゃって、その打ち所が悪かったから。そして、双子が引き裂かれた理由は信号無視の車との衝突事故。
 事故を説明するときの曖昧な語り口をしていた彼女。
 ――んー、でも身体を壊すのは申し訳ないからなぁ。
 山頂で、風邪をひく心配を含みのある言い方で受け取った彼女。
 ――お姉ちゃんは行けて、私は行けなくて。双子なのに……。ずっと一緒に同じ景色を見てきたのに、急に私だけが病院の窓からの景色ばかりで、お姉ちゃんのこと何度恨んだかわかんない。でも、会ったら好きなフリしなくちゃって。辛かったよね?
 ちぐはぐで整合性のない独り言。

 置き去りにしていた違和感が、違和感でなくなっていく。不可解な言動が、カチッと当てはまっていく。
 心臓が悲鳴を上げる。
 うるさい鐘が、すごくゆっくり聞こえた。そして、脳内で全てのピースがある過程を経て、ぴったりとハマったと同時に、世界が急速に動きだす。
 電車は轟音を残して過ぎ去り、対岸の彼女が鮮明に姿を見せる。
 ひまわりのような夜でも輝く笑顔。
 この笑顔の少女は――。

 僕は彼女に背を向けて走り出した。
 今すぐ、確認しろと僕の心が叫んでいる。でも、現実を見たくない自分もいて、頭がおかしくなりそうだ。
 走りながら、なぜか涙が出そうになった。泣くなんて、お門違いもいいところなのに。
 思い返せば、彼女は一度も〝死ぬ〟とは言わなかった。消えるとかタイムリミットなんて言葉で、ちゃんと伝えていたんだ。
 気づきたくなかった。
 気づかなかった方が良かった。
 知らないふりをして、残りの日々を過ごせばよかった。
 きっと、弱虫な僕は今日の行いを一生後悔して、引きずり続ける。
 背負う覚悟も、歩む覚悟もまだないけれど、現実は残酷で、僕に受け入れろと時計の針を進め続ける。
 閉じたくなる瞳を、止めたくなる足を、食いしばって耐えた。
 僕は現実と向き合わなければいけない。それが、雨笠涼音に対する最大の敬意だ。

 彼女の家のインターフォンを迷うことなく押した。暴れる心臓がうるさくて、押せたかわからなかったから、もう一度強く確実に押す。
 ドアが開くまでの数秒がもどかしかった。すごく失礼なことをしているのは承知の上だ。
 白塗りのドアがゆっくりと開き、瑚春さんが驚いた表情で顔を見せる。その瞬間、僕は頭を下げていた。

「先ほどは、すいませんでした」

 切れ切れな呼吸で、精一杯口にした。瑚春さんの顔は見えない。でも、僕の言葉を待ってくれている気がした。

「改めて、娘さんに会わせていただきたいです。会って、お話をさせてください。雨笠涼音さんと――」

 さっきまでの境遇が嘘のように、心の底から落ち着いていた。
 ゆっくりと顔を上げる。
 瑚春さんは口元に手を当てて、今にもその瞳に溜めた涙を零してしまいそうだった。でも、その表情は悲しさというよりは、嬉しさを帯びているように思える。

「翔琉くんっ!」

 背後から聞こえてきた声に、振り向いても良いのかわからなかった。
 瑚春さんは涙を拭い、僕に微笑みかける。そして、僕の後ろへと視線を向けた。

「少し、出ています。涼音、鳥野くんをご案内して、よく話し合いなさい」

 もう、後戻りはできない。
 僕は改めて、彼女の家に招かれた。


 リビングの奥、畳の部屋に足を踏み入れた瞬間、線香と焼香の匂いが僕を迎えた。
 四畳ほどの小さな和室。その最奥に彼女はいた。漆塗りの仏壇。仏間の位牌の横に置かれた遺影に、溌剌としたひまわりみたいな輝かしい顔で笑っている。
 僕はゆっくりと膝を折り、彼女と向き合う。何度も、何度も見た笑顔だ。でも、初めて見る。だから、言葉に迷ったけど、考えないで思ったことを口にした。

「やあ、良い笑顔だね」

 もちろん、返事は帰ってこない。部屋の入り口で立ち尽くす彼女も無言を貫く。一人の少女が、()()()()僕の言葉を待っていた。

「僕は涼音にたくさんのことを教えてもらった。灰色に染まった人生に、涼音がペンキを落としてくれた。だから、僕は少しずつ変われていると思っている。まだ、相変わらず素直になれなくて、他人の目も気になるんだけど、今日は先生の話の途中で飛び出してきてやったよ。でも、僕の行動原理にはやっぱり涼音がいて、君がいないと、また元の自分に戻りそうになる……」

 飾らない言葉が、溢れ出す。紛れもない僕の本心で、とても弱い部分。
 いつの間にか、部屋の空気が暖かい。暑すぎず、寒すぎない。ついさっきまでは、扇風機が回っていたのに。きっと、瑚春さんが彼女のために――涼音が寒かったと言って帰ってきても、出ていった時のまま帰ってきても、どちらでも大丈夫なように調節したのだろう。

 写真の中の彼女を目に焼き付け、ゆっくりと現実と向き合った。
 いつの間にか膝折で座り込んでいた彼女は、うつむいていて表情が見えない。

「君は、陽音さんなんだね」

 彼女の肩がぴくっと震える。そして、首を振りながら「そうだね」と呟く。

「でも、涼音でもある」

 ゆっくりと顔を上げた彼女は、今までに見たことのない表情をしていた。眩しいほどに惹いてやまない瞳で、ひどく悲し気な表情。今にも泣きだしてしまいそうな、でも希望を携える、そんな哀歓を共にした気配。

「病室で目が覚めた時、すぐにわかったんだ……」

 彼女はゆっくりと語りだした。

「私だけど、私じゃない。全く一緒の身体と顔だけど、これは私が今まで隣で見てきた方だって。なんで? もちろんそう思った。だけど、私はお姉ちゃんのことなら何でもわかる。だから、すぐに気づいたよ。あぁ、これはお姉ちゃんなりの罪滅ぼしなんだって」

「罪滅ぼし……」

「お姉ちゃんは私が九歳の時、失季病になってからいっつも私に謝ってた。姉妹なんでも一緒なのに、私だけ元気でごめん、涼音は病院にいるのに私ばっかりお外に出てごめんねって」

 陽音さんの気持ちは、なんとなくわかる。きっと、陽音さんは涼音と出会う前の僕と同じような性格だったんだろう。僕は周りに抑圧され、そして陽音さんは自分自身で抑圧し、自分の感情に蓋をすることを覚えた。自分の考え方、気持ちは周りの人のためにならない。いつからか、そんな自己嫌悪を背負いだす。

「そんな風に考えなくていいのにね。私、お姉ちゃんが病室で日々の出来事を話してくれるのが大好きだった。お土産を買ってきてくれたり、写真を撮ってきてくれたり、涙が出るくらい素敵な絵を見せてくれたり」

 記憶が、溶けだした。
 山頂から町並みと広大な自然を眺め、悠々と筆を走らせる。初夏で緑掛かった景色が普通過ぎて、様々な色で木々を描く。こっちは桜の木で、こっちは紅葉。奥の方には雪の積もる枯れ木なんかも描いたりして、途中から景色なんて見てなかった。
 自由に、描きたいように。誰に伝わらなくても、これが自分の作品なんだって。でも、大人になるにつれて増していった同調の波に、僕という存在が盤面から消えていった。いつしか、瞳に映ったものしか描けなくなったことにすら気づけなくなったのは、いつだったろうか。

「そんなお話も、いつしか全くしてくれなくなった。その時、初めてお姉ちゃんの考えてることがわからなくなったの。お姉ちゃんは私のせいで変わっちゃった。だから、あの日も些細なことで喧嘩しちゃって……」

 目の前の彼女は、少し怒っているように見えた。

「私は助けたお姉ちゃんが、私の分まで生きてくれたら、それでよかったのに。でも、お姉ちゃんは後悔して、なんで私が生きてしまったのって思い詰めて、その結論がこれ」

「……二重人格」

 辛い現実と受け入れられない未来に直面し、殻にこもった少女。ただでさえ抱えていた罪悪感が拍車をかけた自己防衛のようにも感じる。

「何でも知っている私たちだから出来たこと。もちろん、私には生前の記憶なんてない。でも、わかるよ。私は紛れもなく雨笠涼音だって。私がお姉ちゃんを隣でずっと見ていたように、お姉ちゃんも私を隣でずっと見てきた。なら、この性格も何気なくしちゃう癖も感情の起伏も、全部雨笠涼音だよ」

 そう言って、彼女は眩しいほどの笑顔をつくる。本当にさっきまで向き合っていた写真の中の彼女と全く同じ、僕が心から惚れている表情を。

「でも、どうしてタイムリミットなんか……」

「私たち、寝る時間も起きる時間もずっと一緒だったの。目覚ましなんかなくても、二人して同時に目を覚まして、おはようって」

「じゃあ、病室で目を覚ました時から、陽音さんも本当は意識を戻していたの?」

 僕の疑問に、彼女は首を振る。

「お姉ちゃんはまだ眠っている。私だけを叩き起こして、どうぞご自由に使ってくださいって」

「だから、これが罪滅ぼし……」

 不器用で、本当に妹のことが好きだからとった行動。しかし、それはどちらにとっても残酷で、綺麗なものとは言えない。

「でも、そんなの私が許さないし、本人の身体だって許してない。事故から眠り続けた八か月。私が存在していられるのは、その空白の八か月間だけ」

 今一度、突きつけられる現実にボロボロの胸がさらに激しく痛む。

「だんだん、お姉ちゃんが戻りだしてるのを最近はひしひしと感じる。お姉ちゃんは嫌がってるんだろうけど、私はお姉ちゃんに生きてほしい」

「……」

「だって、もう私は死んじゃってるの。今、こうして話せて、涙を流せて、翔琉くんに会えていることが、奇跡なんだよ?」

 彼女は言葉を詰まらせる。そして、僕の顔色を窺うように続ける。

「本当は、最初はすごく打算的な考えだったの」

「打算的?」

「そう……。もし、私が消えてもお姉ちゃんの隣にいてくれる人をつくろうって。お姉ちゃんの気持ちがわかる人で、放っておけない優しい人を捕まえて、惚れさせてやろう。メロメロにしておけば、ちょっと性格が変わっても、きっとお姉ちゃんのこと見ていてくれるはずだって」

 彼女はひどく悲しい顔をした。後悔を含んだ哀色の表情。
 でも、僕は何も思わなかった。

「それでも、僕は涼音からたくさんのものを貰った。たとえ、それが含みのある打算だとしても、僕は君にたくさん感謝してる。それに、涼音はずっと打算で動ける器用な人間じゃないことも、よく知ってるよ」

 彼女の瞳がじんわりと滲む。

「なんだ、よくわかってるじゃん」

「当たり前だよ。ずっと見てきたからね」

「最初の数日で、もう無理だったよ。だって、楽しかったんだもん。そんな感情も、私はお姉ちゃんに残してあげたかったから」

 思い返すように見上げた彼女の虹彩がきらりと輝く。

「この半年、色んなことがあった。そんな気がするけれど、そうでもないね」

「そうだね。多分、ずっと覚えているんだろうけれど、特別なことは無かった」

「それでいいんだよ」

「わかってる」

「だって、楽しかったもん」

「僕もだよ」

「だから、これでいいの」

「これからも、ね」

 交互に、呟くように会話をした。まるでポップになって宙に言葉が浮かんでいるような気がする。小さな部屋が、僕と彼女の記憶で満たされていく。空白がもったいないから、埋めるように言葉を吐露する。
 とても温かい空間だ。

「ねえ、修学旅行のこと覚えてる?」

 彼女が言った。だから、僕も聞いた。

「どのこと?」

「……私が、翔琉くんを好きだって言ったこと」

 彼女が目をそらすから、僕は彼女を見続けた。もう、何かを考えて逃げるのは、やめにしようと思ったから。誰が見てるとか、先の後悔とか、そんなの全部どうでもいい。
 根負けした彼女がおずおずと目を合わせる。不安が混じる彼女の瞳が、今もまだ濡れているから、思わず笑った。
 彼女が不思議そうに首を傾げる。
 肝心なところで、彼女は僕のことをわかっていない。不安になる必要なんて、一つもないのに。
 僕が、彼女のことをどう思っているかなんて、誰が見たってわかる。だって、もう隠すなんて無理なくらい、この想いが大きくなっているんだから。

「――涼音、好きだよ」

 彼女の瞳孔が、縦に少しだけ細くなる。

「……えっ?」

 もう一度、同じ言葉で空白を埋めた。宙を漂うように彷徨った感情が、やがて彼女の隣にたどり着く。
 驚いて固まっていた表情が緩やかに融け出し、そして、彼女はゆっくりと涙を流して破顔した。
 そんな彼女がたまらなく愛おしいから、僕は何度も繰り返し気持ちをぶつけた。今までの分と、これからの未来の分を前借りして、何度も、何度も。
 行き場がなくだらりと垂らした彼女の手を取って、引き寄せる。胸に収めた彼女は思ったよりも小さく、そして温かかった。僕の熱が溶けて、彼女の熱と混ざり合う。聞こえてくる早い鼓動が、僕のものか、彼女のものか、わからない。
 最初は戸惑っていた彼女も、すぐに僕の背に手を回した。ギュッと彼女が力を込めるから、僕も少しだけ強く抱きしめる。
 このまま、時間が止まってしまえばいいと思った。でも、そんなことを僕も彼女も望まない。だからこそ、互いに深く今を刻み込む。

「えへへっ……ごめんね」

 彼女が横向きに呟く。その先にいるのは、溌剌な笑顔の小さな彼女。僕はその写真を手に取って、一緒に抱きしめた。

「あー、独り占めだったのに!」

 彼女が笑いながら不満の声を漏らす。だから、僕も笑った。

「そうだよ、僕の独り占め。だから、涼音が嫌だって言っても、絶対に離さないよ」

 彼女が嬉しそうに僕の胸へと顔をうずめる。

「翔琉くんは、やっぱりドSだよ」

「涼音の隣に陽音さんがいるなら、もう片方の隣は僕の場所だ。絶対に、誰が何といおうと」

「ふふっ、いいよ。私の大事な隣を翔琉くんにあげる」

 時間が許す限り、僕らは話し続けた。特別でも何でもない、ただの惚気た言葉を。
 玄関の開く音が聞こえるまで、ずっと二人の笑い声が家中を染め続けた。