部屋に通されて真っ先に思ったのは、一人部屋じゃないということだった。この旅館には一人部屋なんて存在しないらしく、結果的に僕は二人部屋を一人で使う形になった。
十畳ほどの和室に、外からうっすら同級生の声が聞こえる空間に、一人ポツンと残されるのは少々疎外感がある。しかし、この疎外感はありがたい話だった。
深呼吸をしてみると、檜の香りが鼻腔を刺激した。優しい明かりに照らされた部屋には木製の大きなテーブルが中央に置かれ、壁には掛け軸が飾られている。縁側には二人座れる小さな椅子とテーブルが置かれていて、その先の障子襖を開けると、小さな檜樽の露天風呂が姿を現す。
「ウチ、公立だよな……」
まるで私立の修学旅行のような高級感溢れる宿に、ある意味呆れてしまった。沖縄とか海外じゃない理由は、この宿に全て詰まっている気さえする。
部屋から覗く景色は裏手にある山々を一望でき、暗がりでもよくわかる茂た緑を感じた。きっと、秋になると、紅葉なんかが絶景のスポットになるのだろう。
荷物を端に寄せ、縁側の椅子に座って一息つく。一日中歩き回った疲労感が急に襲い掛かり、早い眠気さえ感じた。
この後すぐに宴会場で夕食があるけれど、日中何かと胃に入れ続けていたから正直お腹はすいていない。その後は大浴場の解放があって、二十三時過ぎには消灯という予定になっている。
夕餉の時間まで、ぼんやりと部屋からの景色を眺めていると、部屋をノックする音が聞こえた。
重い腰を上げ、部屋のドアを開くと館内着の浴衣を身に纏った涼音がいた。白地に灰藍色の鎖をつないだような模様の郭繋柄の旅館でありがちな浴衣の上に、松葉色の茶羽織を着ている。
「じゃじゃーん。どう?」
その場でくるっと一回転する彼女。羽織の袖が蝶の羽のようになびく。
「……似合っているよ」
「えへへ、そうでしょー! 私からしたら少し暑いんだけどね。雰囲気のために我慢しなくちゃ」
彼女の中では八月の終わり。四月の空調では、羽織まで来ていたら、確かに暑苦しいのかもしれない。
「羽織くらい脱いどけばいいんじゃない?」
「いや、それは少しエッチでしょ」
「そんなことないでしょ……」
僕の脇をすり抜け、部屋に入りこむ彼女。僕はため息をつきながらドアを閉める。
「この空間に一人って、やっぱり寂しいよね、これ」
「僕は開放的でもう気にならなくなったけど」
「まあ、翔琉くんがいいなら、いいか。それより、君も浴衣着なよ。私だけ見せて、不公平だとは思いませんか?」
彼女はまるで自室かのように、畳の上へ身体を投げ出す。寝転がって膝を抱える姿に、大きな猫が入りこんできたみたいだと思った。
部屋の隅に置かれた浴衣を手に取り、脱衣所で着替える。その間、部屋から彼女の声が聞こえないことに少しの不安がよぎる。
今は、会話が途切れたタイミングと言えるのではないだろうか。
おそるおそる、部屋に戻ると僕の疑心は骨折り損だとわかってほっとする。身体を丸めて寝転がる彼女は、畳に頬を擦り付けながら、小さく寝息を立てていた。
起こすのもどうかと思い、何となく彼女の横に座ってみる。
浴衣のせいで彼女の華奢な身体のラインが浮き彫りになって、罪悪感に駆られた。鳴りやまない鼓動に、深く息を吐く。
部屋の中に居場所を探すように視線を彷徨わせるが、やっぱり僕の意識は彼女へと回帰する。
長い睫毛がピクリと動く。規則的に揺れる身体。濡羽色の長い髪が畳に広がり、芸術すら感じる模様をつくっている。
彼女がモゾっと動き、僕の膝に額を添える。彼女の熱が、膝から徐々に全身に駆け巡っている気がした。
迷った末に、僕はスケッチブックとペンを手に取った。白紙のキャンパスに恐る恐る筆を走らせる。ここにいる彼女を、今を生きる姿を残したい。その思いで描き始めた絵も、ほんの数分、彼女の輪郭すら捉えることなく、手が止まる。
彼女を描くことを恐れている自分がいる。憶病で無個性な僕が、彼女を一度でも描いてしまえば、それで全てが終わってしまう。そんな気がした。
だから、まだ描けない。時間は迫っているけれど、だからといって妥協はしたくない。
外から、烏のやかましい鳴き声が聞こえた。
彼女の頬に指を添えると、やっぱり猫みたいに頬ずりをする。そんな姿がどうしようもなく愛らしく、心底僕を複雑な気持ちにさせた。