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彼女の病を知ってしまった次の日、僕は窓から覗いてはすぐに消え去る景色をただひたすら眺めていた。こんな風に時間も瞬時に過ぎてしまえば、彼女と同じ景色を見ることが出来るのだろうか。
電車で数十分の予定だというのに、わざわざ買った駅弁に舌鼓する彼女。今日は約束の時間に出会って電車に乗った今まで、何を話したのか、もう思いだせない。何か色々彼女が話していた気がするけど、僕はただ相槌を打っていただけで、会話というものは成立していなかった。
彼女が窓の外を行儀悪く箸で指さし、何か楽しそうに話しているが、内容は入ってこない。それなのに、頭ではそろそろ母親への違う言い訳を考えなくちゃとか、どうでもいいことばかり常に考えていた。
そうでもしないと、思いだしてしまうから、僕は今日彼女を極力見ないでいる。まだ彼女の話を受け入れるだけの覚悟が無かったから。
画材を詰め込んだリュックを小脇に抱え、彼女が選んだ目的の場所までの時間を確認する。彼女は遠出をしたかったらしいが、今の僕はそんな気になれず、結局場所の変更を押し付けた。だから、朝彼女と会うのが憂鬱でも、ドタキャンなんて選択肢は存在しないわけで、こうして僕にとっても、彼女にとっても無駄な時間を生み出してしまっている。
彼女に貴重な時間を浪費させている僕は、とんだ悪魔野郎だ。彼女の隣に座るのは、もっとふさわしい人が絶対にいるはず。そう思うと、途端に帰りたくなってきた。
だらしなく呆けた口に、急に箸が突っ込まれる。驚きに遅れて、口の中に甘じょっぱい香りが広がった。それは噛むとほろほろと崩れて、すぐに形を無くす。
「……何すんのさ」
彼女は横で僕をジッと見つめていた。恥ずかしさと、驚きと、謎の罪悪感に苛まれる。
「煮物の人参、嫌いなんだよね」
葛藤に溺れる僕に、彼女はいつもと変わらない嫣然とした笑みだ。
「残せばいいでしょ」
「もったいないじゃん」
そう言って、彼女は箸を口に咥えた。
「僕も嫌いなんだよ」
「ありゃま、それは申し訳なかったね。お詫びにこの肉団子をあげよう。さあ、食べたまえ」
差し出された肉団子には目がいかず、それを掴む箸に意識が吸い寄せられる。それに彼女も気が付いたのか、にやっと口角を上げた。
「翔琉くんって、意外とウブなんだね」
「別に……肉団子も嫌いなんだよ」
わかりきった嘘をついた。もちろん、そんなのは彼女も察しているわけで、彼女の虹彩が意地悪気に輝く。
「はい、あーん」
渋い顔をする僕と、この上ない笑顔の彼女。
はたから見れば、カップルにでも見えるのだろうか。でも、僕と彼女は決してそんな関係じゃないし、今後変わることもない。彼女の置かれている境遇が違えば、こんな歪な関係にならなかった。それこそ、順当に仲を深めれば、そういう未来だってきっとあったはずだ。
僕だって年頃の高校生だ。恋愛に興味だってある。
無力で、流されやすい自分に無性に腹が立つ。そう思うと、羞恥心なんてちっぽけなものは消えていた。
口元まで寄せられた肉団子を箸もろとも口にする。
「美味しい? 私、まだ食べてないのに最初の一個あげたんだからね」
僕は頷くでも、返事をするでもなく、彼女から箸を取り上げ、弁当から肉団子を掴んで、彼女の前に持っていった。
「お返し。はい、あーん」
「ふぇっ!? ……えっと、そういうタイプだっけ?」
混乱しながら赤面する彼女。髪が顔を隠すように軽く垂れ下がり、内なる緊張を表しているようだ。微かに聞こえる彼女の呼吸が、戸惑いと照れくささを物語っている。不覚にも少しだけ可愛いと思ってしまった。
「いいから、口開けて」
顔を背けようとする彼女の顎を手に取り、強引にこちらを向かせる。彼女の高まる体温がひんやりとした手に伝わった。
「う~……翔琉くんって猫被らないとドSだったんだね」
頬を軽く指で押すと、降参したのかすんなりと口を開けた。極力、箸に触れないように食べてたのは気のせいじゃないだろう。
「美味しい?」
「……美味しいです」
うつむいてハムスターのように咀嚼する彼女は耳まで真っ赤だ。
「ウブなのはどっちなのさ」
「しょ、しょうがないじゃん! そんな経験ないもん! っていうか、あっても絶対に照れる!」
新鮮で、それでいていつも通りな彼女を見ても、僕の心にかかる靄は一向に晴れる気配がない。
彼女が自身の境遇を、内でどう思っているのかはわからない。
いつも仮面を付けているはずなのに、彼女の前では器用になれない。思えば、最初から彼女には取り繕うことが少なかった。それは彼女の性格が、僕の苦手とするものだからだ。ずけずけと距離を詰めて、それでいて不快な気持ちにさせないから、つい仮面を付けそびれる。
だから今も、きっとどこか緊張した物憂げな表情に違いない。
すっかり大人しくなって、うつむきながらチマチマと弁当を食べる彼女を横目に、思いを固める。
彼女と僕は浅い友達の関係。それだけのことだ。