私は今、もの凄く高い断崖絶壁ともいえる局地へ自分自身が立たされているように感じた。一歩踏み出せばその応え方次第で落下する。そんな一瞬たりとも気を抜けない状況へ追い込まれている。
目の前で私を凝視する二つの綺麗な紫色の瞳。
そんな美しい男からはそういった意思を強く感じとった。軽い気持ちでクリアできるほど、この問いは決してイカレてなどいやしない。
私は今、試されているのだ。
この世界で。
この鬼頭家で無力で異能さえ持てない自分がどこまで食らいつけるのかを。でも私は決心した。今更、身を引こうなどとは一ミリも考えてはいやしない。
「分かりました。今の白夜様にとって、私の存在は内と外で表されるなら外側の人間。この地に赴きこの地で。鬼頭家で生きていくと決めました。なら私は私自身を貴方様に認めて頂ける存在になれるよう、必ずやそれを証明してみせます」
恐れるな。
その意を込めて私は彼を強く見つめ返した。
そんな私に彼はニヤリと意地悪く笑う。
「ククク、交渉成立だな。これでお前と俺は利害一致の関係を結んだ訳だ。間違えても途中放棄や卑怯な真似しようもんなら、邪気を浄化させる前にテメェから先に浄化するからな?」
「勿論そんなこと致しません」
「そうこなくちゃな。ほんじゃ、これからよろしくな。奥さん♡」
「…からかっているのですか?」
この人やっぱり私のこと遊んでいる。
嫌いな対象が薄れてくれたのはありがたいけれども別の意味で今度は私を玩具扱いすることにしたらしい。
なんてお方だ、人の気持ちを弄んで。
不満げな顔を漏らす私とは対照に白夜様は意地悪くべっと私に舌を突き出すと歩いていく。そんな様子に溜息をつくとその後に続く。
「ここまっすぐ行けばお前の部屋」
暫く歩けば白夜様は立ち止まり、視線を先に向けた。
見れば見慣れた廊下通りだ。
「あ、わざわざここまで案内して下さったのですね。ありがとうございます」
「別に。鳳魅に言われちゃやるしかねぇだろ」
嫌味のようにも聞こえるが、口調はさっきよりも幾分か柔らかかった。
「あ!時雨様‼」
突如、声と共にドタドタと部屋の向こうから駆けつけてくる者の気配。見るとお香さんを先頭に何人かの使用人が私を見つけるとこちらへと走ってくるのが確認できた。
「もう!どちらに行っていらしたんですか⁈あれからお姿が見えずとても心配したのですよ!もしや誘拐されたのかと思い、屋敷の使用人一同総出で探していたとこだったんですから」
やってしまった…。
まさかの予想が的中してしまった。
やはり一言、伝えておけば良かった。
今度からは部屋にメモを残していこう。
「ご迷惑をおかけしました。ちょっと散歩がてら外に出ていたら戻るのが遅くなってしまって」
「も~、でもご無事で良かったです。今度からはちゃんと私に……ん?え、若様‼」
私にお説教していたお香さんは私の斜め後ろに視線を移した。すると漸くそこに白夜様がいたことに気がつくと驚きの声をあげた。周りの使用人達もまさか彼が一緒にいるとは思ってもみなかったのか、こちらを観察する者から使用人同士ひそひそと話し合う者など様々な様子が伺える。
「(あ、お翠さんもいる)」
お翠さんは私達がいるところから少し離れた場所に立つともの凄い剣幕で私を睨み付けていた。バチリと目が合ってしまい慌てて目をそらす。あれはもう、人一人殺せるんじゃないかレベルに顔が怖い。
「ったく、俺はついでかよ」
「ひぃ~大変申し訳御座いません!!まさか若様がご一緒だとは夢にも思わなくて」
お香さんは彼へと頭を下げれば必死にペコペコと謝った。
「戻る」
白夜様は私にそれだけ告げれば元来た道を引き返した。
私はその後ろ姿へ一礼する。
「さあさ時雨様。お召し物が濡れていらっしゃいますから、先にお部屋で着替えましょう」
「あ、はい。お願いします。皆様もご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありませんでした」
「おい」
使用人の方達にもしっかり謝って自室に入ろうとすれば横から声をかけられる。見ると帰ったと思っていた白夜様が歩みを止めてこちらを見ていた。
「白夜様?」
「…朝飯ぐらいは付き合ってやる」
「え?」
白夜様はそう言うと今度こそ帰っていく。
「…様、時雨様!」
「…え、あ、なんでしょうか?」
その意味が理解できずボーっとする私はお香さんからの呼びかけで我に返る。
「一体何があったのですか!」
「何の事です?」
「決まっているではないですか。若様ですよ若様!!あんなにも時雨様のことを毛嫌いしておいででしたのに。今朝の出来事から一変、あんなことを仰るだなんて」
「は、はあ…。そう言われましても」
何があったと言われても別に大したことは何もしていない。でも取引の件は暫くはお香さんには伏せておこう。
「取りあえず先に部屋に入りませんか?」
「入ったら詳しく聞かせてださいね!」
興奮気味の彼女を軽く制して部屋に入る。
そんな様子を苛立ち気に見ていたお翠さんがいただなんて。この時の私には知る由もなかった。