「恨んでなどおりませんよ、近藤さん」
彼の目を見ると静かに微笑んだ。
「私の名前、覚えてて下さったのですね」
「勿論です」
忘れたことなどない。
この人は私が久野家に来た当初から佐藤さんにつぎ私に良くして下さった恩人だ。
直接的な付き合いがあった訳ではない。
ドライバーとして一華さんの送迎をしていた姿をよく目にしていたから覚えていただけ。
でも会えば必ず私にも会釈をしてくれた。
「過去、術家から排出された花嫁達はその後どうなったかは現在も報告されておりません。データがないのです。一度でもこの鬼門を潜ってしまうと異例のケースが無い限り、例え高い術を保有していた身であっても強力な結界を通り抜けることはできませんから」
「…そうなのですね」
それはつまり一度隠世に入ったら最後、二度とこちら側に戻ることは不可能だということ。
例え妖に食い殺されたとて、その知らせが遺族の元に届くことは永遠にない。
繫栄の象徴を生み出すのと同時に花嫁として送り出された娘達は生贄ともいえる。
「…そろそろ時間のようですね。随分と長らく時雨様をここに留めてしまいました」
近藤さんは私から視線を鳥居の先へと向けた。
「本当はもっと貴方様とお話していたかった。今となってはただ、どうしようもなく悲しみだけが残るばかりです。時雨様は貴方のお母様によく似ておられます」
「母上をご存知なのですか⁈」
「ええ、本当に素晴らしいお方でしたよ。使用人一人一人にもとてもお優しく、出て行かれる間際ですら最後まで私共にも感謝を述べられて。本当に…惜しい方を亡くした。これより先は目の前の石段をお上がり下さい。頂上まで上がれば隠世は直ぐそこです」
近藤さんはそう告げると車へと引き返していく。
「お手間をかけました。さようなら」
私は誠心誠意の意を込めて近藤さんへ深く一礼した。
「(大丈夫)」
そう心の中で呟いて鬼門の鳥居へと向き直る。
一歩一歩足を進めていく。
大丈夫よ、今までだって何とか生きてこれたのだから。
きっと上手くやれるはず。
大丈夫、大丈夫、大丈……
「(大丈夫だなんて、あれから一度も思えたことないくせに)」
ああ、逃げたい、怖い。
何もかもから逃げてしまえたら。
今が凄く…怖い。
「時雨様!」
突然後から聞こえた声へ目を向ければ、近藤さんが呼びかけているのが確認できた。
「貴方様ならきっと大丈夫です!きっと今よりももっと幸せに。貴方が幸せだと。そちらの地で必ずや思えることを私は心から願っております!」
その言葉で私はグッと涙が溢れ出した。
「…近藤さん本当にありがとうございました」
私は今出せる精一杯の笑みで近藤さんに微笑みかけた。
そして勢いそのままに赤い鳥居を主張とする、その鬼門の地の中を潜り抜けたのだった。