次の日の朝、私が気持ちよく寝ていると髪を撫であげるようなふわりとした風が部屋の中に入ってきた。
それに続くように聞き覚えのある声が私の耳を刺激する。
「天宮依織。起きろ」
重い瞼を押しのけて目を開く。
寝起きで視界がぼやけて見える。
けれど、全身が黒いマントで覆われたその人は紛れもなく死神さんだった。
ベッドからもぞもぞと這い出し、死神さんと向き合う形でその場に座る。
「眠そうだな」
「眠いよ。まだ七時前だからね」
明日から一週間、毎日来るとは聞いていた。
けれど、まさかこんなにも朝早く来るとは思ってもいなかった。
頭がまだ全然働いていない。
「それで一日目の願い事は決まったか?」
「それはまだ……」
昨日、願い事を考えておくようにと言われてはいた。
だけど、考えれば考えるほど自分の願いが何なのかわからなくなっていく。
そんな私の気持ちを見通したように死神さんは口を開いた。
「なんでもいい。お前が願うならなんだって叶えてやる」
「なんでも?」
「……まあ、大体のことはな」
その返答に思わず笑ってしまう。
さっきまで自信満々だったのに、少し聞き返しただけで保険をかけるなんて。
「なに笑ってんだよ」
口ではそう言ってるけれど、心做しかフードの下で笑っている気がする。
しばらくの間、笑っていると死神さんがじっとこっちを見ていることに気がついた。
「どうしたの?」
「……別に」
ふいっと顔を明後日の方向に向ける。
その行動に疑問を抱いくも、死神さんが話を逸らすように元に戻してしまった。
「なあ、願い事。決まらねえなら俺がどんなこと出来るか見せてやろうか?」
「いいの?」
「難しいことは無理だけどな」
死神さんは散らかった部屋の真ん中に立ち、そこからぐるっと辺りを見渡した。
「この部屋汚ねえし、ちょうどいいだろ?」
汚ないという言葉がグサッと心に刺さる。
自分で自覚はしていても、他の誰かに言われると傷ついてしまうものだ。
「……ここで何するの?」
「何ってそりゃ綺麗にするんだよ。吹っ飛ばされないように気をつけろ」
死神さんはおどけたようにそう言うと、指をパチンと鳴らした。
その刹那、部屋の中で渦を描くように風が吹き荒れる。
少しでも気を抜けば外に投げ出されてしまいそうだ。
こんな強風で本当に部屋は片ずくのか不安になってきたとき、ピタリと風が止んだ。
「痛っ……」
体が床に叩きつけられ、全身に激痛が走る。
けれど、そんな痛みは次の瞬間には消えていた。
「どうだ? 綺麗になったろ?」
「すごい……」
散らかっていた本も服も、今は見違えるほど綺麗に片付けられていた。
死神さんに視線を移す。
疑っていたわけじゃない。
昨日だって彼は二階の窓から部屋に入り込んで来たんだ。
だけど、どこか夢だったんじゃないかと思っていた自分がいる。
「死神さんは、本当に死神なんだね」
「まだ信じてなかったのか?」
「そういうわけじゃないよ。今はもう信じてるし」
机に置かれている時計をチラッと見ると、短い針が八時を刺していた。
壁に吊るされた制服が目に留まる。
いつもなら学校に行くために重い体を引きずりながらそれに着替え、家を出ている時間だ。
けれど、今日はとても体が軽い。
「ねえ、死神さん。私、願い事決めたよ」
私がそう言うと死神さんは、首を傾げて先の言葉を促した。
「私、今日は学校休むことにする。だから、どこか遠い誰もいない場所に連れて行って」
「その願い、叶えよう」
死神さんは私に手を差し伸べた。その上にゆっくりと自分の手を重ねる。
「目瞑って」
言われた通りにすると、体が優しい風に巻きついたような不思議な感覚に襲われる。
「もういいぞ」
ゆっくりと目を開ける。
そこに広がっていたのは朝日に照らされキラキラと輝く青い海だった。
「ここなら誰もいない。落ち着くだろ?」
周りを見ても確かに人気はなく、ただ穏やかな波の音が辺りを包んでいるだけ。
その音をただ静かに耳で感じ取る。
それだけで心が洗われて、安らぎを与えられた気分になる。
「……とっても落ち着く。ここはどこなの?」
死神さんは人差し指を口元に当て、悪戯が成功した子供のような口調で「それは内緒だ」と口角を緩ませた。
「死神さんのいじわる」
私もそれにつられて、ほとんど無意識にくすりと笑いながら死神さんを揶揄うような言葉を吐いていた。
「誰がいじわるだ。連れてきてやったのにな」
「感謝してるよ。ありがとう」
私が間髪入れずに答えると、死神さんは顔を逸らし、海を眺めた。
それが照れ隠しだということは私でもわかる。
「別に……それが仕事だし」
まだ会ってたった二日。
だけど、死神さんといると素の自分が出せるような気がした。
「せっかく海に来たんだから遊ばねえか?」
海を指さし、私に問いかける死神さんの黒いマントが潮風に吹かれ、揺れ動いている。
「遊びたい」
「よし! じゃあ、行くぞ」
私に背を向け歩きだす彼に置いていかれないように隣を歩く。
波打ち際まで行くと死神さんはその場にしゃがみこんだ。
私がいる位置からじゃ何をしているか見えなくて、横に並び手元を覗き込む。
「冷たいっ」
すると突然、私の顔に向かって水が飛んできた。
水を拭き取って、目を開こうとしてもまた何度も何度もかけられる。
「気持ちいいだろ?」
当の本人は手をひらひらと振りながら満足気に声を弾ませ笑っていた。
文句の一つくらい言ってやろう。
そう思っていたのに、楽しそうな姿を見ているとそんな気も失せてくる。
冷たい海水が私の足を静かに呑み込む。
今まで熱を帯びた砂浜の上に立っていたからか、それがとても気持ちいい。
「うん、すっごくね」
海水を蹴るように足を上げると、水飛沫が光を反射しながら海に戻っていく。
ずっとここにいたい。帰りたくない。
そんな叶わない想いを何度も心の中で繰り返す。
チラッと横を見ると、死神さんが海を眺めていた。
目元はフードで隠れていてどんな顔をしているのかはよくわからない。
どれだけ見つめても気づかない死神さんに水をかける。
「冷てっ! 何すんだよ」
してやったりと笑いかける。
「さっきの仕返し!」
こんなに大きな声が自然と出たのはいつぶりだろう。
すると死神さんはびちょ濡れのまま、うんともすんとも言わなくなってしまった。
さすがにやり過ぎてしまったと慌てて謝る。
「ごめんなさい。やり過ぎた……」
「いや、違う……なんか良いなと思って。楽しいな、こういうの」
優しい声色でそういう死神さんを前に今度は私が固まってしまう。
だって私といて楽しいなんて言う人、今まで一人もいなかった。
だから、こういうときどんな反応をしたらわからない。
「……あー、悪い。こんなこと急に言われても気持ち悪いよな」
死神さんはバツが悪そうに頭を掻きながらそう言った。その言葉でハッと我に返る。
違う、違うでしょ。そうじゃない。
言い訳ばかりが頭を巡るのは、素直になるのが怖いから。
でもそれは、死神さんがかけてくれた言葉と向き合わない理由にはならない。
私もちゃんと言葉にしなきゃ。
「死神さん! 私もとっても楽しい。友達が出来たらこんな感じなのかなって。ちょっと思えたから」
久しぶりに心の内をさらけ出して、自分が感じていることを誰かに伝えられた。
それだけで雲一つない快晴のように、私の心も晴れ渡っていく。
「だよな」
潮風が吹き、暖かな太陽が私たちを見守っている。それがあまりにも眩しくて手を掲げ、太陽を隠す。
「なあ、ちょっと散歩してから帰らないか? お前に見せたいものがあるんだ」
死神さんはそう言いながら木々の間に古民家がぽつぽつと建てられている人気の少ない田舎道を指さした。
服は濡れてしまっているから本当は今すぐ帰って着替えた方がいいんだろう。だけど、私は好奇心に抗えず二つ返事で頷いた。
「行きたい」
すると、死神さんはクルリと海に背を向けて歩き出した。私も置いていかれないようにその後を追う。
砂浜を出る前に足の裏に着いた砂を簡単に払い、アスファルトに片足を着いた。けれど、真夏の太陽に照らされたそれは私が思っていた何倍も熱くて、つい後退りしてしまう。
「そういえば、お前の靴持ってくんの忘れたな」
そういう死神さんの足元を見ると、しっかりと靴を履いていた。思い返して見ると、部屋の中でも死神さんは靴を履いていたような気がする。
私は裸足だったから、きっとその状態のまま来てしまったんだろう。
「仕方ないな。アスファルトは熱すぎるからこっち通るぞ」
彼はそう言いながらアスファルト横に生い茂っている草花に視線を移した。私もそれにつられて横を向く。
確かにここならあまり熱くはなさそうだ。そう思って一歩踏み出す。足の裏に草が擦れてなんだか少し擽ったい。
「行けるか?」
「うん、平気」
「そうか」
死神さんは私の隣に並ぶと、歩き始めた。その足取りは心做しかゆっくりとしていた。正直、私としてはありがたい。さっきまで海ではしゃいでいたせいで体力はほぼゼロ。
死神さんがいつものスピードで歩いていたら、私はきっとついていけなかっただろうから。
斜め上にある死神さんの顔をチラッと見る。もしかして、これは彼なりの優しさなんだろうか。
「どうした?」
そんなことを考えていると私の視線に気づいた死神さんが少し首を傾げた。
まさか反応されるとは思っていなくて声が裏返る。
「え、いや。なんでもない」
「ならいいけど」
そう返事だけすると、彼はまた前に向き直った。会話がないせいか蝉の鳴き声がとても大きく聞こえる。だけど、居心地は悪くなかった。むしろ安心するくらいだ。
何分か進んだところで死神さんが急に立ち止まり、進行方向と思わしき坂と私を交互に見る。
「こっから坂だけど大丈夫か? 無理そうならおぶるけど」
目の前にはかなり急な坂がある。今からこれを登ると考えると気が遠くなってしまう。
けれど、少し挑戦したいと思ってる自分がいることも事実だった。
「大丈夫。私、頑張ってみたいの」
「気分……とか悪くなったらすぐ言えよ」
そっぽ向きながら言いにくそうに話す死神さん。その姿に疑問を抱きつつも素直に善意を受け取る。
「わかった。そうさせてもらうね」
死神さんは「ああ」と言うと、さっきよりも更にスピードを落として歩き出した。その些細な気遣いに思わず頬が緩む。
その背中を追って一歩一歩、着実に足を前に進めた。ところどころに大きな石が転がっていて気を抜くと転んでしまいそうだ。
汗が頬を伝って地面に落ちる。長い髪が顔にまとわりついて気持ち悪い。もう喉もカラカラだ。歩けば歩くほど暑い日差しとこの坂が私の体力を奪っていく。
こんなことなら普段から少しでも体を動かしておけばよかったな、なんて今さら考えてもどうしようもないことばかり頭に浮かぶ。
だんだんと息が荒くなる。足が思うように動かなくて、ついに立ち止まってしまった。膝に手を置いて呼吸を整えようと息を吸うたび、喉が焼けるような痛みに襲われる。
すると、突然視界の隅に黒い何かが映った。顔をあげると、そこには私に背を向け、しゃがんでいる死神さんの姿があった。
「もう限界だろ? 乗れよ」
死神さんだって疲れてるはずなのに、なんでそこまで私に優しくしてくれるんだろう。
疲れで考えがまとまらず、何の返答も出来ないでいると、彼は私を促すように一瞬こっちを向いた。
死神さんの言う通り、私の体力はもう限界を超えている。これ以上わがままを言って歩き出したところで、数分後にはまた同じやり取りがされるはずだ。
それならば、と死神さんの元へ重たい足を動かす。
「お言葉に甘えて……」
彼の首に手を回し、体重を預ける。重くて申し訳ないななんて思っていると、急に視線が高くなった。死神さんが立ち上がったんだ。
「しっかり捕まってろよ」
「うん」
首に回していた手の力を強め、落とされないようにしがみつく。こんなにもくっついているのに、死神さんからは体温を感じない。
それは彼がこの世の者でないことを改めて私に突きつけてくる。少しの愚痴も吐かず、黙々と足を前に進める死神さんにふと疑問に思ったことを訊いてみた。
「今はあの不思議な力を使わないんだね」
彼の力を持ってすれば私を坂の上まで運ぶことなんて造作もないはずなのに。
「……おぶられるのは嫌か?」
少しの間のあと、死神さんから返ってきたのは答えになっていないそんな言葉だった。まるで自分がしたいからしてるんだ、とでも言いたげなその口調に口元が綻ぶ。
「ううん、そんなことないよ。ありがとう」
自分でもなぜかわからない。でも彼が私のことを考えてくれたことが無性に嬉しかった。
死神さんは「そっか」と独り言のように呟くと、それ以上口を開けようとはしなかった。しばらくの間、大人しく彼の背で揺られていると急な眠気が私を襲った。彼が私の分まで頑張ってくれているのにこのまま眠るわけにはいかない。
そんな私の思いとは裏腹に襲ってくる睡魔はどんどん強くなっていく。
それに逆らうように死神さんの肩に顔を埋め、彼の真っ黒なマントを握り締める力を強める。それでも眠気が収まる気配はない。
とうとう耐えきれなくなり、私は意識を手放した。
「――い、おい。そろそろ起きろ」
死神さんの呼び声にハッと目を覚ます。
「ごめん、寝ちゃってたみたい……」
「だいぶ疲れてたみたいだからな」
疲れていたとはいえ、あまりにもあっさりと寝てしまった自分が情けない。辺りを見渡しても眠る前と何も景色は変わっていないように感じる。
坂の左右に木がぽつぽつと不規則に生えているだけだ。
「私どれくらい寝てた?」
「さぁな……十五分くらいじゃないか?」
「そっか。ねえ、私もう体力回復したし自分で歩けるよ」
そう言うと、死神さんは私を優しく地面に下ろしてくれた。前を向くとまだ少し続きそうな坂が嫌でも視界に入る。
気合いを入れ直すためにも、普段は顔を隠せるよう下ろしている髪をひとつに結んだ。
「多分あと五分くらいで着く。頑張れよ」
死神さんは私にそれだけ伝えると、先に歩き出した。私もその後に続く。
彼が言っていた通り、五分間歩き続けていると途端に坂の終わりが見えてきた。死神さんはそこで足を止め、後ろを歩いている私を待つように振り返った。
私も懸命に足を動かし坂を登りきる。するとそこには、どこまでも広がる水平線があった。一羽の鷹が私の遥か上を掠める。空を翔るその姿は自由を体現しているようで、一瞬で目を奪われた。太陽の光が反射して輝く海も、雲ひとつない空も鷹を優しく見守っている。
「気に入ったか?」
死神さんの言葉に首が取れそうになるほど大きく頷く。生ぬるい夏の風が、額の汗を撫でる。
「私ずっとこうしていたいな。どこにも行かずに、ずっと海を眺めていたい」
「好きなだけいればいいさ」
私のわがままだらけな独り言に、死神さんは寄り添うように言葉を放った。ただただ穏やかな時が静かに流れていく。
私は死ぬ運命にある。それはずっと望んでいたことで、変わることはない。
それなのに今、私は時が進むことを拒んでいる。そんな自分勝手な考えに自嘲を漏らした。
*
日が暮れ、家に帰ってからは急いでシャワー室に駆け込んで冷えた体を温めた。
ぽかぽかになったところで、自分の部屋に戻りベッドの上にうつ伏せに倒れこむ。
そのまま寝ようとしても窓が気になってどうしても眠れない。
『また明日来る』
死神さんは私を家まで連れ帰ったあと、そう言い残して姿を消した。だから、今日はもう入ってくるはずがない。それなのにどこか期待してる自分がいる。
「明日の願い事はどうしようかな」
ごろんと仰向け状態に体の向きを変えながら、独り言を呟く。
すると突然、机の上に置いていたスマホが鳴り出した。
最初は無視しておこうと思ったが、あまりにもなり続けるものだから仕方なく体を起こす。
「お母さん……」
それは普段、電話をかけてこないお母さんからのものだった。
切れてしまわないうちに応答ボタンを押す。
「もしもし……」
「もしもし、依織? 今日学校に来てないって先生から連絡があったんだけど……」
喉の奥からヒュっと声が漏れる。
確かに今日は連絡もせず学校を休んだ。
だけど、まさか親に連絡がいくなんて予想もしていなかった。
「先生がね、何かあったんじゃないかって心配して下さって……もしかして体調悪いの?」
これはどう答えるのが正解なんだろう。今までずる休みなんて一回もしたことがなかった私にはその正解がわからない。
もし体調が悪いと言えば、お母さんはきっと心臓移植関連だと心配して飛んで帰ってきてくれる。
そんな迷惑は絶対にかけられない。かと言って、それ以外の言い訳が見当たらない。
「依織……?」
心配そうに私の名前を呼ぶお母さんの声を聞くと、心臓がギュッと痛くなる。
「あ、うん……大丈夫。ちょっとしんどかっただけだから。もう全然平気」
頭をフル回転させても、こんな返し方しか思いつかない自分が嫌になる。
「ほんとに? 病院は行かなくていいの?」
「大丈夫だよ。仕事頑張ってね」
それだけ言って電話をプツリと切り、息を吐く。
電話の内容からして先生はきっと昨日の出来事をお母さんに話していない。
そのことにとてつもない安心感を覚えて、脱力してしまった。
「学校行かなきゃ……」
明日も学校に行かなかったら、今度は家に先生が訪ねてくる可能性もないとは言えない。
机の横にかけていたスクールバッグに手を伸ばし、授業に必要なものを中に入れていく。
けれど、その作業中に学校で一人ずっと席に座ってる自分が脳裏に浮かんだ。
誰とも話すことなく、ただ人形のようにその場にいるだけの自分が。
「やっぱり行きたくないな……」
準備をしていた手が自然と止まり、天井を仰ぐ。
一度口にしたら取り消すことは出来なくて、ただ行きたくないという想いが心を埋めつくした。
「今日はもう寝よう。明日のことはまた明日考えればいい」
そう自分に言い聞かせ、部屋の電気を消してからベッドの中に潜り込む。
だけど、なかなか眠りにつくことができない。
このまま瞳を閉じて、次開けたときにはきっと朝になってしまっているはずだ。
そしたらまた地獄のような一日が始まる。
そう思うと怖かった。
クラスメイトからの冷たい視線を浴びるくらいなら、この夜にずっと閉じ込めてほしいと、そう願うほどに。
「朝なんて来なければいいのに……」
届くことのないその声は静寂に呑まれ、消えてしまった。
それに続くように聞き覚えのある声が私の耳を刺激する。
「天宮依織。起きろ」
重い瞼を押しのけて目を開く。
寝起きで視界がぼやけて見える。
けれど、全身が黒いマントで覆われたその人は紛れもなく死神さんだった。
ベッドからもぞもぞと這い出し、死神さんと向き合う形でその場に座る。
「眠そうだな」
「眠いよ。まだ七時前だからね」
明日から一週間、毎日来るとは聞いていた。
けれど、まさかこんなにも朝早く来るとは思ってもいなかった。
頭がまだ全然働いていない。
「それで一日目の願い事は決まったか?」
「それはまだ……」
昨日、願い事を考えておくようにと言われてはいた。
だけど、考えれば考えるほど自分の願いが何なのかわからなくなっていく。
そんな私の気持ちを見通したように死神さんは口を開いた。
「なんでもいい。お前が願うならなんだって叶えてやる」
「なんでも?」
「……まあ、大体のことはな」
その返答に思わず笑ってしまう。
さっきまで自信満々だったのに、少し聞き返しただけで保険をかけるなんて。
「なに笑ってんだよ」
口ではそう言ってるけれど、心做しかフードの下で笑っている気がする。
しばらくの間、笑っていると死神さんがじっとこっちを見ていることに気がついた。
「どうしたの?」
「……別に」
ふいっと顔を明後日の方向に向ける。
その行動に疑問を抱いくも、死神さんが話を逸らすように元に戻してしまった。
「なあ、願い事。決まらねえなら俺がどんなこと出来るか見せてやろうか?」
「いいの?」
「難しいことは無理だけどな」
死神さんは散らかった部屋の真ん中に立ち、そこからぐるっと辺りを見渡した。
「この部屋汚ねえし、ちょうどいいだろ?」
汚ないという言葉がグサッと心に刺さる。
自分で自覚はしていても、他の誰かに言われると傷ついてしまうものだ。
「……ここで何するの?」
「何ってそりゃ綺麗にするんだよ。吹っ飛ばされないように気をつけろ」
死神さんはおどけたようにそう言うと、指をパチンと鳴らした。
その刹那、部屋の中で渦を描くように風が吹き荒れる。
少しでも気を抜けば外に投げ出されてしまいそうだ。
こんな強風で本当に部屋は片ずくのか不安になってきたとき、ピタリと風が止んだ。
「痛っ……」
体が床に叩きつけられ、全身に激痛が走る。
けれど、そんな痛みは次の瞬間には消えていた。
「どうだ? 綺麗になったろ?」
「すごい……」
散らかっていた本も服も、今は見違えるほど綺麗に片付けられていた。
死神さんに視線を移す。
疑っていたわけじゃない。
昨日だって彼は二階の窓から部屋に入り込んで来たんだ。
だけど、どこか夢だったんじゃないかと思っていた自分がいる。
「死神さんは、本当に死神なんだね」
「まだ信じてなかったのか?」
「そういうわけじゃないよ。今はもう信じてるし」
机に置かれている時計をチラッと見ると、短い針が八時を刺していた。
壁に吊るされた制服が目に留まる。
いつもなら学校に行くために重い体を引きずりながらそれに着替え、家を出ている時間だ。
けれど、今日はとても体が軽い。
「ねえ、死神さん。私、願い事決めたよ」
私がそう言うと死神さんは、首を傾げて先の言葉を促した。
「私、今日は学校休むことにする。だから、どこか遠い誰もいない場所に連れて行って」
「その願い、叶えよう」
死神さんは私に手を差し伸べた。その上にゆっくりと自分の手を重ねる。
「目瞑って」
言われた通りにすると、体が優しい風に巻きついたような不思議な感覚に襲われる。
「もういいぞ」
ゆっくりと目を開ける。
そこに広がっていたのは朝日に照らされキラキラと輝く青い海だった。
「ここなら誰もいない。落ち着くだろ?」
周りを見ても確かに人気はなく、ただ穏やかな波の音が辺りを包んでいるだけ。
その音をただ静かに耳で感じ取る。
それだけで心が洗われて、安らぎを与えられた気分になる。
「……とっても落ち着く。ここはどこなの?」
死神さんは人差し指を口元に当て、悪戯が成功した子供のような口調で「それは内緒だ」と口角を緩ませた。
「死神さんのいじわる」
私もそれにつられて、ほとんど無意識にくすりと笑いながら死神さんを揶揄うような言葉を吐いていた。
「誰がいじわるだ。連れてきてやったのにな」
「感謝してるよ。ありがとう」
私が間髪入れずに答えると、死神さんは顔を逸らし、海を眺めた。
それが照れ隠しだということは私でもわかる。
「別に……それが仕事だし」
まだ会ってたった二日。
だけど、死神さんといると素の自分が出せるような気がした。
「せっかく海に来たんだから遊ばねえか?」
海を指さし、私に問いかける死神さんの黒いマントが潮風に吹かれ、揺れ動いている。
「遊びたい」
「よし! じゃあ、行くぞ」
私に背を向け歩きだす彼に置いていかれないように隣を歩く。
波打ち際まで行くと死神さんはその場にしゃがみこんだ。
私がいる位置からじゃ何をしているか見えなくて、横に並び手元を覗き込む。
「冷たいっ」
すると突然、私の顔に向かって水が飛んできた。
水を拭き取って、目を開こうとしてもまた何度も何度もかけられる。
「気持ちいいだろ?」
当の本人は手をひらひらと振りながら満足気に声を弾ませ笑っていた。
文句の一つくらい言ってやろう。
そう思っていたのに、楽しそうな姿を見ているとそんな気も失せてくる。
冷たい海水が私の足を静かに呑み込む。
今まで熱を帯びた砂浜の上に立っていたからか、それがとても気持ちいい。
「うん、すっごくね」
海水を蹴るように足を上げると、水飛沫が光を反射しながら海に戻っていく。
ずっとここにいたい。帰りたくない。
そんな叶わない想いを何度も心の中で繰り返す。
チラッと横を見ると、死神さんが海を眺めていた。
目元はフードで隠れていてどんな顔をしているのかはよくわからない。
どれだけ見つめても気づかない死神さんに水をかける。
「冷てっ! 何すんだよ」
してやったりと笑いかける。
「さっきの仕返し!」
こんなに大きな声が自然と出たのはいつぶりだろう。
すると死神さんはびちょ濡れのまま、うんともすんとも言わなくなってしまった。
さすがにやり過ぎてしまったと慌てて謝る。
「ごめんなさい。やり過ぎた……」
「いや、違う……なんか良いなと思って。楽しいな、こういうの」
優しい声色でそういう死神さんを前に今度は私が固まってしまう。
だって私といて楽しいなんて言う人、今まで一人もいなかった。
だから、こういうときどんな反応をしたらわからない。
「……あー、悪い。こんなこと急に言われても気持ち悪いよな」
死神さんはバツが悪そうに頭を掻きながらそう言った。その言葉でハッと我に返る。
違う、違うでしょ。そうじゃない。
言い訳ばかりが頭を巡るのは、素直になるのが怖いから。
でもそれは、死神さんがかけてくれた言葉と向き合わない理由にはならない。
私もちゃんと言葉にしなきゃ。
「死神さん! 私もとっても楽しい。友達が出来たらこんな感じなのかなって。ちょっと思えたから」
久しぶりに心の内をさらけ出して、自分が感じていることを誰かに伝えられた。
それだけで雲一つない快晴のように、私の心も晴れ渡っていく。
「だよな」
潮風が吹き、暖かな太陽が私たちを見守っている。それがあまりにも眩しくて手を掲げ、太陽を隠す。
「なあ、ちょっと散歩してから帰らないか? お前に見せたいものがあるんだ」
死神さんはそう言いながら木々の間に古民家がぽつぽつと建てられている人気の少ない田舎道を指さした。
服は濡れてしまっているから本当は今すぐ帰って着替えた方がいいんだろう。だけど、私は好奇心に抗えず二つ返事で頷いた。
「行きたい」
すると、死神さんはクルリと海に背を向けて歩き出した。私も置いていかれないようにその後を追う。
砂浜を出る前に足の裏に着いた砂を簡単に払い、アスファルトに片足を着いた。けれど、真夏の太陽に照らされたそれは私が思っていた何倍も熱くて、つい後退りしてしまう。
「そういえば、お前の靴持ってくんの忘れたな」
そういう死神さんの足元を見ると、しっかりと靴を履いていた。思い返して見ると、部屋の中でも死神さんは靴を履いていたような気がする。
私は裸足だったから、きっとその状態のまま来てしまったんだろう。
「仕方ないな。アスファルトは熱すぎるからこっち通るぞ」
彼はそう言いながらアスファルト横に生い茂っている草花に視線を移した。私もそれにつられて横を向く。
確かにここならあまり熱くはなさそうだ。そう思って一歩踏み出す。足の裏に草が擦れてなんだか少し擽ったい。
「行けるか?」
「うん、平気」
「そうか」
死神さんは私の隣に並ぶと、歩き始めた。その足取りは心做しかゆっくりとしていた。正直、私としてはありがたい。さっきまで海ではしゃいでいたせいで体力はほぼゼロ。
死神さんがいつものスピードで歩いていたら、私はきっとついていけなかっただろうから。
斜め上にある死神さんの顔をチラッと見る。もしかして、これは彼なりの優しさなんだろうか。
「どうした?」
そんなことを考えていると私の視線に気づいた死神さんが少し首を傾げた。
まさか反応されるとは思っていなくて声が裏返る。
「え、いや。なんでもない」
「ならいいけど」
そう返事だけすると、彼はまた前に向き直った。会話がないせいか蝉の鳴き声がとても大きく聞こえる。だけど、居心地は悪くなかった。むしろ安心するくらいだ。
何分か進んだところで死神さんが急に立ち止まり、進行方向と思わしき坂と私を交互に見る。
「こっから坂だけど大丈夫か? 無理そうならおぶるけど」
目の前にはかなり急な坂がある。今からこれを登ると考えると気が遠くなってしまう。
けれど、少し挑戦したいと思ってる自分がいることも事実だった。
「大丈夫。私、頑張ってみたいの」
「気分……とか悪くなったらすぐ言えよ」
そっぽ向きながら言いにくそうに話す死神さん。その姿に疑問を抱きつつも素直に善意を受け取る。
「わかった。そうさせてもらうね」
死神さんは「ああ」と言うと、さっきよりも更にスピードを落として歩き出した。その些細な気遣いに思わず頬が緩む。
その背中を追って一歩一歩、着実に足を前に進めた。ところどころに大きな石が転がっていて気を抜くと転んでしまいそうだ。
汗が頬を伝って地面に落ちる。長い髪が顔にまとわりついて気持ち悪い。もう喉もカラカラだ。歩けば歩くほど暑い日差しとこの坂が私の体力を奪っていく。
こんなことなら普段から少しでも体を動かしておけばよかったな、なんて今さら考えてもどうしようもないことばかり頭に浮かぶ。
だんだんと息が荒くなる。足が思うように動かなくて、ついに立ち止まってしまった。膝に手を置いて呼吸を整えようと息を吸うたび、喉が焼けるような痛みに襲われる。
すると、突然視界の隅に黒い何かが映った。顔をあげると、そこには私に背を向け、しゃがんでいる死神さんの姿があった。
「もう限界だろ? 乗れよ」
死神さんだって疲れてるはずなのに、なんでそこまで私に優しくしてくれるんだろう。
疲れで考えがまとまらず、何の返答も出来ないでいると、彼は私を促すように一瞬こっちを向いた。
死神さんの言う通り、私の体力はもう限界を超えている。これ以上わがままを言って歩き出したところで、数分後にはまた同じやり取りがされるはずだ。
それならば、と死神さんの元へ重たい足を動かす。
「お言葉に甘えて……」
彼の首に手を回し、体重を預ける。重くて申し訳ないななんて思っていると、急に視線が高くなった。死神さんが立ち上がったんだ。
「しっかり捕まってろよ」
「うん」
首に回していた手の力を強め、落とされないようにしがみつく。こんなにもくっついているのに、死神さんからは体温を感じない。
それは彼がこの世の者でないことを改めて私に突きつけてくる。少しの愚痴も吐かず、黙々と足を前に進める死神さんにふと疑問に思ったことを訊いてみた。
「今はあの不思議な力を使わないんだね」
彼の力を持ってすれば私を坂の上まで運ぶことなんて造作もないはずなのに。
「……おぶられるのは嫌か?」
少しの間のあと、死神さんから返ってきたのは答えになっていないそんな言葉だった。まるで自分がしたいからしてるんだ、とでも言いたげなその口調に口元が綻ぶ。
「ううん、そんなことないよ。ありがとう」
自分でもなぜかわからない。でも彼が私のことを考えてくれたことが無性に嬉しかった。
死神さんは「そっか」と独り言のように呟くと、それ以上口を開けようとはしなかった。しばらくの間、大人しく彼の背で揺られていると急な眠気が私を襲った。彼が私の分まで頑張ってくれているのにこのまま眠るわけにはいかない。
そんな私の思いとは裏腹に襲ってくる睡魔はどんどん強くなっていく。
それに逆らうように死神さんの肩に顔を埋め、彼の真っ黒なマントを握り締める力を強める。それでも眠気が収まる気配はない。
とうとう耐えきれなくなり、私は意識を手放した。
「――い、おい。そろそろ起きろ」
死神さんの呼び声にハッと目を覚ます。
「ごめん、寝ちゃってたみたい……」
「だいぶ疲れてたみたいだからな」
疲れていたとはいえ、あまりにもあっさりと寝てしまった自分が情けない。辺りを見渡しても眠る前と何も景色は変わっていないように感じる。
坂の左右に木がぽつぽつと不規則に生えているだけだ。
「私どれくらい寝てた?」
「さぁな……十五分くらいじゃないか?」
「そっか。ねえ、私もう体力回復したし自分で歩けるよ」
そう言うと、死神さんは私を優しく地面に下ろしてくれた。前を向くとまだ少し続きそうな坂が嫌でも視界に入る。
気合いを入れ直すためにも、普段は顔を隠せるよう下ろしている髪をひとつに結んだ。
「多分あと五分くらいで着く。頑張れよ」
死神さんは私にそれだけ伝えると、先に歩き出した。私もその後に続く。
彼が言っていた通り、五分間歩き続けていると途端に坂の終わりが見えてきた。死神さんはそこで足を止め、後ろを歩いている私を待つように振り返った。
私も懸命に足を動かし坂を登りきる。するとそこには、どこまでも広がる水平線があった。一羽の鷹が私の遥か上を掠める。空を翔るその姿は自由を体現しているようで、一瞬で目を奪われた。太陽の光が反射して輝く海も、雲ひとつない空も鷹を優しく見守っている。
「気に入ったか?」
死神さんの言葉に首が取れそうになるほど大きく頷く。生ぬるい夏の風が、額の汗を撫でる。
「私ずっとこうしていたいな。どこにも行かずに、ずっと海を眺めていたい」
「好きなだけいればいいさ」
私のわがままだらけな独り言に、死神さんは寄り添うように言葉を放った。ただただ穏やかな時が静かに流れていく。
私は死ぬ運命にある。それはずっと望んでいたことで、変わることはない。
それなのに今、私は時が進むことを拒んでいる。そんな自分勝手な考えに自嘲を漏らした。
*
日が暮れ、家に帰ってからは急いでシャワー室に駆け込んで冷えた体を温めた。
ぽかぽかになったところで、自分の部屋に戻りベッドの上にうつ伏せに倒れこむ。
そのまま寝ようとしても窓が気になってどうしても眠れない。
『また明日来る』
死神さんは私を家まで連れ帰ったあと、そう言い残して姿を消した。だから、今日はもう入ってくるはずがない。それなのにどこか期待してる自分がいる。
「明日の願い事はどうしようかな」
ごろんと仰向け状態に体の向きを変えながら、独り言を呟く。
すると突然、机の上に置いていたスマホが鳴り出した。
最初は無視しておこうと思ったが、あまりにもなり続けるものだから仕方なく体を起こす。
「お母さん……」
それは普段、電話をかけてこないお母さんからのものだった。
切れてしまわないうちに応答ボタンを押す。
「もしもし……」
「もしもし、依織? 今日学校に来てないって先生から連絡があったんだけど……」
喉の奥からヒュっと声が漏れる。
確かに今日は連絡もせず学校を休んだ。
だけど、まさか親に連絡がいくなんて予想もしていなかった。
「先生がね、何かあったんじゃないかって心配して下さって……もしかして体調悪いの?」
これはどう答えるのが正解なんだろう。今までずる休みなんて一回もしたことがなかった私にはその正解がわからない。
もし体調が悪いと言えば、お母さんはきっと心臓移植関連だと心配して飛んで帰ってきてくれる。
そんな迷惑は絶対にかけられない。かと言って、それ以外の言い訳が見当たらない。
「依織……?」
心配そうに私の名前を呼ぶお母さんの声を聞くと、心臓がギュッと痛くなる。
「あ、うん……大丈夫。ちょっとしんどかっただけだから。もう全然平気」
頭をフル回転させても、こんな返し方しか思いつかない自分が嫌になる。
「ほんとに? 病院は行かなくていいの?」
「大丈夫だよ。仕事頑張ってね」
それだけ言って電話をプツリと切り、息を吐く。
電話の内容からして先生はきっと昨日の出来事をお母さんに話していない。
そのことにとてつもない安心感を覚えて、脱力してしまった。
「学校行かなきゃ……」
明日も学校に行かなかったら、今度は家に先生が訪ねてくる可能性もないとは言えない。
机の横にかけていたスクールバッグに手を伸ばし、授業に必要なものを中に入れていく。
けれど、その作業中に学校で一人ずっと席に座ってる自分が脳裏に浮かんだ。
誰とも話すことなく、ただ人形のようにその場にいるだけの自分が。
「やっぱり行きたくないな……」
準備をしていた手が自然と止まり、天井を仰ぐ。
一度口にしたら取り消すことは出来なくて、ただ行きたくないという想いが心を埋めつくした。
「今日はもう寝よう。明日のことはまた明日考えればいい」
そう自分に言い聞かせ、部屋の電気を消してからベッドの中に潜り込む。
だけど、なかなか眠りにつくことができない。
このまま瞳を閉じて、次開けたときにはきっと朝になってしまっているはずだ。
そしたらまた地獄のような一日が始まる。
そう思うと怖かった。
クラスメイトからの冷たい視線を浴びるくらいなら、この夜にずっと閉じ込めてほしいと、そう願うほどに。
「朝なんて来なければいいのに……」
届くことのないその声は静寂に呑まれ、消えてしまった。