外から聞こえる騒がしい音につられ目を覚ます。
 目の前には桃色のカーテンに囲われた白い天井。周囲に漂う薬のような独特の匂い。
 それだけでまだ働いていない頭でもここがどこか理解することができた。
 上半身を起こし、乱れた制服を簡単に整えていると誰かにゆっくりとカーテンを開かれた。

「あら、起きてたのね。それとも起こしちゃった?」

 白衣を着た保健室の佐藤先生が眉を下げ、申し訳なさそうな顔で私を見る。

「いえ、今起きました。外から音が聞こえて」
「それなら良かったわ。さっき昼休みになったから生徒が教室から出てきたのよ」

 先生はそう言いながら保健室にある窓に目を向ける。先生の視線を追うように私も校庭を見た。
 暑い中、声を出してサッカーをする人がいれば、ベンチに座って笑い合いながらお弁当を食べてる人もいる。

「……とても楽しそうですね」

 なんとなく放った言葉。
 だけどハッと我に返るったとき、自分が口走った言葉につい口元を抑えてしまう。
 ゆっくりと隣に視線を移す。その先では先生が哀れむような顔でこっちを見ていた。
 それが嫌で目を逸らし、唇を強く噛む。
 向けられた眼差しには哀れみだけじゃなくて、佐藤先生なりの優しさも含まれていると何となくわかってはいる。
 でも優しくされればされるほど、自分が惨めに感じる。その優しさが辛くなる。

「天宮さん? 大丈夫?」

 顔を覗き込んでくる先生に私の表情を悟られないよう無理やり笑顔をつくる。

「大丈夫です。ほんとに全然……」

 それでも心配そうに見つめてくる先生。
 何か別の話題をと思い、頭を必死に動かす。

「あの……私、保健室に来たときのこと思い出せなくて……」

 不自然な話題変更だと思われたかもれない。
 けれど、先生は少し考える素振りを見せてから話し始めてくれた。

「……泣きながらここに駆け込んで来たのよ。それでそのまま眠ちゃったの。すごく取り乱していたから覚えていなくても無理ないわ」

 目元を触ると確かにそこは濡れていた。

「そう……だったんですか。すみません、迷惑かけて」

 経緯を伝えられ、クラスメイトが私に向けるあの視線が脳裏を横切る。
 異物を見るときのような冷たい視線を。
 直接的に何かをされたわけじゃない。
 ただ私に決して近づかず、関わることはしない。それなのにいつも様子を伺うようにこっちをチラチラと見てくる。
 その視線のなかに入りたくなくて、教室の端で縮こまる毎日。
 思い出すだけで身体が震え、心臓が痛くなる。それを紛らわせるようにギュッと胸元の服を掴み、深く深呼吸する。
 何度か繰り返して少し落ち着いてきたころ、佐藤先生が何かを思い出したようにあっと声をあげた。

「そういえば担任の三宅先生から伝言を預かったの。起きたら職員室まで来てって。話があるみたい」
「わかりました。今から行ってきます」

 腰掛けていたベッドから降り、廊下へと繋がっているドアに足を進める。
 ドアに手をかけ外に出ようとしたとき、先生に呼び止められた。

「天宮さん、またいつでも来てね」
「……はい。ありがとうございます」

 その温かい言葉にどう向き合えばいいのかわからず、そのまま保健室を後にした。



 北校舎にあった保健室とは真反対の南校舎にある職員室。
 人目を気にして遠い道を来たからかここへ着くまで時間がかかってしまった。
 お昼休みの今、職員室前の廊下には太陽の光が痛いほど降り注いでいた。
 汗が頬をつたり、ジリジリと肌がやけるような感覚がずっと続いている。まるで灼熱地獄だ。
 少しでも早くこの暑さから逃れようと急いで職員室の扉をノックする。

「失礼します……」

 普段から大きい声を滅多に出さない私の喉からは自分でも驚くほど小さく、か細い声が捻り出された。
 そんな声が騒がしい職員室に響くはずもなく、先生は言わずもがな誰一人として私の存在に気づいていない。
 正直、職員室を尋ねるのは嫌いだった。
 大人同士が会話している最中に割って入るのも、大きな声を出して目的の先生を探し出すのも私にとってはハードルが高いことだ。
 それでも呼び出されてしまったものは仕方ないと無理やり気持ちを切り替える。

「え、と……三宅先生いますか?」

 さっきよりも大きな声で担任を探す。
 これで気づいてくれなかったらもう諦めよう。そう思っていた矢先、職員室の奥の方から聞き覚えのある声が聞こえた。

「お、天宮来たか。暑いだろ? 入ってくれ」

 言われた通り足を一歩踏み入れると冷たい空気が優しく私を包み込む。その心地よさと安堵から息をふう、と吐き出した。

「こっちだ」

 先生が手を挙げ、こっちに来いと合図を送っている。忙しそうに職員室内を動き回る人にぶつからないよう気をつけながらそこに向かった。
 三宅先生のデスクの上には先程まで作業してたであろう難しそうな資料がいくつも置かれている。
 今すぐやらなくてはならない物もあるはずなのに、体を回転させ私と目が合うように向き合ってくれた。

「体の調子はどうだ?」
「今は安定してます」

 先生は私と話すとき、決まって一番最初に体調のことを聞いてくる。
 別にそれが嫌なわけじゃない。だけど、やっぱりこれは私が生きていくなかで切り離すことが出来ない問題なんだと痛感してしまう。

「そうか。それは良かった」

 ほっとしたような顔をしたかと思うと次の瞬間には顔を強ばらせた。

「クラスのやつらのことなんだが俺からもしっかり注意しておく。天宮が安心して学校に来れるようこれからサポートしていくつもりだ」

 先生の言う安心して学校に来られるというのは、きっとクラスのみんなと一緒のラインに立つことなんだろう。
 だけど、私は最初からそのラインに立つ資格を持っていない。

「……先生は、私がみんなと仲良く笑いあってる姿を想像出来ますか? 少なくとも……私自身はできないです」

 スカートを力いっぱい握りしめる。

「それは心臓移植のせいか?」

 先生の言葉にこくりと頷く。
 私は小さな頃から心臓が弱く、四年前に心臓移植を受けた。
 だから私の体には今、顔も知らない赤の他人の臓器が入っている。
 それを気味悪がってか中学でも高校でも友達と呼べる人は一人もできていない。

「そうか……」

 どんな言葉をかければいいのかわからない。先生はそんな様子で俯きながら言葉を放った。
 気まづい沈黙が流れる。何とか空気を変えないと。
 そう思い口を開ける。それと同時に昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

「とりあえず今日はもう帰るか? 一応荷物は持ってきたし、教室には戻りたくないだろ?」
「……はい。ありがとうございます」

 用意された鞄を受け取り、今から授業をしに行くらしい三宅先生と職員室を出る。

「じゃあ気をつけて帰れよ」

 私に背を向け、教室へ向かおうとする後ろ姿を追いかける。
 私のバタバタとうるさい足音に気づいたのかゆっくりと足を止め、振り向いた先生に頭を深く下げた。

「学校で起きたこと親には言わないでください。心配かけたくないんです。お願いします」

 これはきっと教師としての義務を放棄しろと言っているのと同じだ。 
 それでも、親にだけは知られたくなかった。
 目の下に隈のできた両親の姿が目に浮かぶ。
 もうこれ以上、重荷にはなりたくない。

「わかった……今はまだ言わないでおく」

 頭上から降ってきた優しい言葉。
 "今は"ということはいつかは知られてしまうのかもしれない。だけど、たとえそうだとしても、私はこの言葉に縋らずにはいられなかった。

「ありがとうございます」

          *

 一軒家とアパートが多く、人気の少ない帰り道をとぼとぼと歩く。
 夏の色をまとった日差しに当てられ、じわりと汗ばんだ背中が気持ち悪い。
 自分の影に視線を落とし、学校での出来事を思い出す。
 クラスメイトの視線に耐えられず泣き出して、先生二人に迷惑をかけた。
 挙句の果てに担任に無理を言う始末。
 自分の言動一つ一つを後悔する。
 空を見上げると広がっていたのは憎いくらい澄んだ青色。
 雲の間からチラつく太陽の光が眩しくて目を細める。
 私は今まで何人の人に迷惑をかけただろう。これから何人の人に迷惑をかけるんだろう。
 わかりもしないことをずっと考える。
 頭が痛い。もう何も考えてたくない。
 そんな想いに抗うように全速力で家への道を駆けた。

 家に着いたころには息は乱れ、心臓もバクバクと鼓動を速めていた。
 お医者さんにあれほど走らないように言われていたのを今になって思い出した。
 胸が圧迫されているみたいに苦しくて、家の前の階段に腰を下ろす。
 そよ風が額についた汗を撫でるように吹き、前髪がふわふわと揺られる。
 少し落ち着いてきたところで、鞄の中から家の鍵を取り出した。
 走りながら家を見たときは明かりが一つとして点いていなかった。
 今日もきっと家には誰もいないだろうな。
 そんなことを思いながら玄関を開ける。

「ただいま」

 案の定、返事はない。
 リビングに行き、電気をつける。
 テーブルの上には晩ご飯代といつもの二つ折りされた置き手紙があった。
 その手紙だけを手に取り、二階にある自分の部屋に駆け込んだ。
 バタンっと扉を閉め、息をつく。
 部屋の中を見渡すと本や服があちこちに散乱している。
 もう何日も掃除をしてないんだから当たり前だ。
 足場を探しながら机の上に鞄を投げ捨て、制服のままベッドの上で横になる。
 手紙を開け、さっと目を通す。

『今日は家に帰れるかわかりません。
 晩ご飯は何か買って食べて。ごめんね。    
                母より』
 
 今日もまた同じ内容。
 手紙を閉じて、床にポイッと放り投げる。
 私の両親が家に帰ってくることは滅多にない。あったとしてもそれは夜中で顔を合わす機会はほとんどない。
 それもこれも全て私が受けた心臓移植のせいだった。
 手術にはもちろん多額の治療費がいる。
 そんなものを平凡な一家が持ち合わせているわけもなく、両親は無理な借金を背負うことになった。
 四年経った今でもまだ借金は残っているらしい。
 お母さんとお父さんはあと少しで返せると言うけれど、きっとまだ半分も返せていない。
 中学生のときはクラスに馴染めず、死にたいとずっと願っていた。
 高校生になった今でも教室で孤立した自分を客観視したとき、死を願ってしまう。
 だけど、その度に瞼の裏に出てくる働く両親の姿。
 この心臓があるから死にたいと願うのに、この心臓があるから生きないといけない。
 私はずっと矛盾を抱えてながら過ごしている。
 カーテンが風に吹かれひらめく。
 もし、もしも運命を決めてくれる誰かが現れたら私はきっと……

「――え、」

 次の瞬間、開けっ放しにしていた窓から突風が部屋に吹き込んできた。
 体が飛ばされないよう必死にベッドを掴む。
 薄目で窓の近くを見る。そこには人を連想させる黒い何かがいた。
 風が止み、恐る恐る目を開けると目の前にはフードを被った知らない人。
 その人は私の方へ一歩近づくと耳を疑うようなことを言った。

「――初めまして。俺は死神。お前の命を貰いに来た」

 死神と名乗った少年は、急すぎる展開についていけなくなった私を上から見下ろしている。
 空いた口が塞がらないとはまさにこのこと。
 家の窓から風と共に姿を現した死神と名乗る一人の少年。ましてやここは二階だ。普通の人にそんな芸当が出来るとはとてもじゃないが思えない。

「おい、聞いてんのか?」

 返事をしない私に不満があるのか彼はまた一歩私に近づいた。

「しに……がみさん?」
「まあな」
「……私の……命を貰いに?」

 情報が完結しないあまりに同じことを何度も聞き返してしまう。

「そう言っただろ?」

 死神さんは呆れたようにため息をつき、私と目線を合わせるためか床に膝をついた。
 けれど、彼は深くフード被っていて目がよく見えない。

「一週間後、お前の命を貰う。その代わり毎日一つどんな願いでも叶えてやろう」

 まるで童話の中で描かれるような胡散臭いセリフを恥ずかしげもなく吐いた。
 私の前にいるのは本物の死神なんだろうか。

「で、他に質問は?」

 私の気持ちも知らず、彼は淡々と話を進めていく。
 頭をフル回転させ、今一番知りたいことを簡潔に纏めあげる。

「どうして私なの? 私が選ばれた理由は何?」

 きっと何か大きな理由があるんだと思った。
 多くの人が住まうこの地球で私が選ばれた理由が何か。
 だけど、死神さんの口から出た言葉は予想していたものとは全く違っていた。

「それが運命だからだ」

 なんて都合のいい言葉だと他の人が聞いたら思うかもしれない。
 けれど、私はその一言だけで全てを受け入れることができた。口角が弧を描くように自然と上がっていく。

「そっか……よろしくね、死神さん」

 そうやって彼に手を差し伸べる。
 相も変わらず死神さんの表情は見えない。

「……ああ、よろしくな」

 少しの間の後、彼はゆっくりと私の手を握り返してくれた。
 これが私と死神さんの短くて不思議な七日間の始まりだった。