靴を履き替えて穴蔵のような昇降口を出ると、七月の日差しで目を焼かれそうになる。
手をかざして俺を待つ昇平の額には汗が幾筋も輝いていた。
「おい、拓海、いるぜ」
やつが指さす方向に目をやると、プールのフェンス越しに水泳部員の姿が見えた。
俺たちはそこを目指してゆっくりと歩き出す。
早く日陰に入りたいのに、昇平が速度を抑えている。
タイミングが重要なのだ。
真上から照りつける日差しにあぶられてあっというまに前髪が汗でぺっとりと張りつく。
お笑い芸人みたいな髪型になるのは嫌だから、俺はかき上げておでこを出した。
野球部でもないのに坊主頭の昇平は、汗で光る頭を撫でながらプール脇にさしかかった。
「あ、拓海くーん」
フェンスの向こうで、水から上がった女子がゴーグルを外しながら俺に手を振った。
同学年の女子、掛川美緒だ。
競泳水着に包まれた刺激的な体に水をしたたらせながら、清涼飲料水のモデルみたいな笑顔を俺たちに向けている。
地面からちょうど俺たちの顔の高さにプールサイドがあるから、やましい気持ちはなくても目のやり場に困る。
俺を押しのけるように昇平が前に出た。
「掛川さん、今日も部活頑張ってるね」
「あ、うん、ありがと」と、こちらに向いていた視線をチラリと昇平に流した彼女はすぐにまた俺にもどした。「今から帰るの?」
背伸びしてフェンスに顔を押しつけながら代わりに昇平が答えた。
「寄り道していくけどな」
「そっか」と、彼女は軽く手を振ってスタート台に向かった。
昇平は目を細めながらその遠ざかる背中をなめるように追っている。
つかんでいたフェンスがギシッと音を立てた。
まあ、無理もない。
美緒はまぶしいもんな。
どうしてそんなにまぶしいんだよ。
手を伸ばしても届かない。
健康的で汚れなき人魚のように神々しいその水着姿を、俺もフェンスの向こうに追っていた。
スタート台に立った彼女はイルカみたいに背中を丸めたかと思うと、俺たちに圧倒的な残像を突きつけてプールに飛び込んでいった。
「やべえよ」と、フェンスを突き放すように歩き出した昇平が俺の背中をたたく。「たまらねえな」
いったい、どこに目をやっていたんだか、興奮は収まらないようだ。
――まあ、俺も釘付けだったけどな。
「すました顔してんじゃねえよ。おめえもやべえんじゃねえの?」
昇平がふざけて俺の下半身に手を伸ばしてくる。
「やめろよ」と、俺はエビのように腰を折って逃げた。
――まったく。
おまえと一緒にするんじゃねえよ。
「でもよ、今日もありがたい目の保養させてもらえて良かったよな」
眼福、眼福と浮かれた足取りで歩くやつの背中に向かって、俺はエアでパンチを入れた。
昇平は放課後いつも水泳部の練習が始まるまで学校に残って美緒の水着姿を拝んでいく。
帰宅部なんだから早く帰りたいのに、俺もつきあわされるのは正直迷惑だけど、昇平とはこの島で生まれてから高二の今までずっと一緒の腐れ縁だから、仕方がないとあきらめている。
「チッキショー!」と、いきなり馬鹿が叫んだ。「俺もカノジョ欲しいよ!」
校門を出た昇平が突然走り出したかと思うと、海岸沿いに続く道路の真ん中を、青空に向かって両腕を突き上げながら不規則に蛇行して駆けてゆく。
なんだよ、めんどくせえ。
遠ざかっていくあいつの背中を追いかけることもなく、俺は海を眺めながらだらだらと歩いていた。
空は澄みわたり、海は青い。
俺たちの島はいつも、ずっとそうだった。
◇
昇平と俺が生まれ育ったこの島は本土からフェリーで五分ほどの微妙な距離にある。
それくらいなら橋を架ければ良いと思うだろうけど、島に人口が多かった昭和の頃までは漁師はみな自分の船を持っていたせいか、地元選出の議員が国からお金を引っ張ってきたときもまったく関心を持たなかったんだそうだ。
時代が変わって高齢化が進み、今はもうほとんどが引退して港には数隻の船しか停泊していない。
そうなると今度は採算が合わずに計画が持ち上がることすらなくなったらしい。
実際、島の産業と言えば衰退した漁業しかないし、観光地として旅行客を呼べそうな名所なんて一つもない。
いちおう島の中央にそびえる山の上に、天女が舞い降りたという伝説が残る神社があって夏祭りでは賑わうけど、それだって年に一日だけだ。
そんな何もない島だけど、俺たちの通う高校はしぶとく残っている。
しかも、過疎化の進んだ島出身の生徒は俺と昇平他数名程度で、ほとんどの生徒は本土からフェリーで通ってきている。
なんでわざわざこんな不便なところに来るかと言えば、フェリーだけでなく電車の定期代まで補助金で無料なのと、設備が良いからだ。
地域産業の振興を目的とした県の特別予算がつくせいで水産科の施設は最先端だし、普通科の授業に必要な機材や、部活の器具なども最新の物がそろえられている。
吹奏楽部には小規模ながら専用の音楽ホールなんてものまであって、この地域では珍しく定員割れすることのない人気校なのだ。
それに、水産科の関係で屋外と屋内温水プールの両方があり、水泳部は伝統的に強豪として知られていて、全国大会も常連だ。
美緒はわざわざ電車を乗り継いで片道一時間もかけて通ってきているらしい。
島を出たことのない俺たちにとって、彼女こそが空から舞い降りてきた天女なのだ。
昇平は毎朝俺の家まで迎えに来る。
そして俺たちは港へまわって美緒が乗ったフェリーの到着を待つ。
吐き出されるように桟橋に出てきた大勢の生徒の中でも彼女の姿はとても目立つ。
「よ、おはよ」と、偶然通りかかったような表情で昇平が声をかける。
「うん、おはよう」
簡潔にあいさつを交わすと、彼女は水泳部の仲間たちと一緒に高校へ向かってしまう。
俺と昇平はその後を一定の距離を保ちながらついていく。
たったこれだけのために、こいつは毎朝早起きをしているのだ。
「アピールだよ、アピール」と、急遽出馬が決まった新人候補みたいにやつが拳を握りしめる。「顔を覚えてもらうのって大事だろ」
「たしかに、その坊主頭は目立つもんな」
茶化すと、やつは俺の髪をかき混ぜようとする。
すると、「朝っぱらから何イチャついてんだよ、おまえら」と、まわりの連中に笑われる。
ここまでが毎朝のお約束だ。
純情なのか、ヘタレなのか。
一つだけ言えるのは、一人では声をかけることすらできない昇平のためにつきあわされる俺は授業中眠くてしょうがないってことだ。
◇
高校から港と反対に東へ少し来た高台に展望台がある。
とはいっても、平日に人がいることなどないから、屋根のある休憩所は俺たち地元学生のたまり場になっている。
潮風が吹き抜けていく東屋に置かれた切り株型の腰掛けに座って、俺は麦茶、昇平は炭酸飲料をがぶ飲みしていた。
自販機から取り出したばかりのペットボトルは俺たちみたいに汗だくだ。
「ああ、やべえ、掛川って、やっぱり最高だよな」
冷たいペットボトルを首筋に押し当てながらやつは斜め上に視線を向けてニヤけている。
「顔もいいし、性格もいいし、からだも……」
「コクればいいじゃんよ」
俺がかぶせ気味に言うと、昇平は後ろにひっくり返りそうになってペットボトルからドリンクが吹き出した。
「ムリムリ。無理に決まってんじゃん」
「なんでだよ」と、俺は麦茶を一口含み、喉を鳴らして飲み込んだ。「やってみなくちゃ分からないだろ」
「分かるに決まってるだろ。べつに俺と仲良くしてくれてるわけじゃないし、それによ……」
今度は昇平が言葉を切ってドリンクを一口含むと勢いよくゲップをした。
「拓海よお、おまえの方がよくしゃべってるじゃんよ」
「俺だって、仲がいいわけじゃないぞ」
「だけどさ、さっきだって、おまえの方に視線が向いてただろ」
――ああ、まあ、やっぱり気づいてたか。
たしかに、美緒は俺と昇平が二人でいると、俺の方にだけ視線を向けてくる。
だからといって、俺に気があるわけじゃないし、昇平のことを嫌っているわけでもない。
ただ単に、こいつみたいな騒がしいやつが苦手なんだ。
空回りしている相棒を見ているのは楽しいけれど、気づけよと蹴っ飛ばしてやりたくもなる。
「なあ、おまえも掛川のこと、気になるだろ」
昇平が俺との間合いを詰めた。
「べつに、そんなでもないけど」
「またまたあ。おまえもヘタレじゃんよ。おまえこそコクれよ」
「なんで俺が。巻き込むなよ」
「べつに恥ずかしがるなよ。あの水着姿を見て平気でいられるのか? 俺ら高校生だぜ。健全な思春期男子だぜ。カノジョ欲しいだろ! あー、ほしーい! イチャイチャしてえよ!」
「うっせえよ、馬鹿」
いきなり海に向かって叫びやがって。
「だってよお、もうすぐ夏休みだぞ。青春してえじゃん」
「してんじゃん」
きょとんとした表情で昇平が固まる。
「青春なんて、ないんだよ。カノジョがいて、一緒に裸足で波打ち際を走ったりなんて、どこで誰がやってるよ。そんなの映画とかドラマでしか見たことねえだろ。本当はどこにもないんだよ、そんなもの。理想の青春を追い求めて挫折するのが本物の青春。『青春してえよ』って叫んでる状態こそが青春なんだ。つまり、昇平、おまえは青春してる。Q.E.D.証明終了」
「ジジイか」と、昇平の平手打ちが俺の背中で派手な音を立てる。
「痛ってえな、馬鹿」
と、いきなりやつが俺の肩に手を回してベタベタな顔を寄せてきた。
――やめろよ、暑苦しい。
「なあ、掛川ってさ、誰のことが好きなんだろうな」
「知るかよ」
振り払おうとしてもやつはなおもしつこく迫ってくる。
「イケメンの先輩たちもみんな断られたんだろ」
「まあ、そうらしいな」
「なあ、ってことはよ」と、首まで絞めにかかってくる。「まだ断られてないやつの中に本命がいるってことじゃねえかな。……てことはさ、俺にもチャンスあるじゃんか」
何だよ、その謎理論。
いや、まあ、たしかに間違ってはいないけど、正解に近くなったわけでもないよな。
四択問題じゃないんだから、百のうち、二つ三つを消去してみたところで、確率が高くなりましたなんて喜んでたら馬鹿だろ。
それに、そもそも、相手がうちの高校にいるとは限らないんだぞ。
「おい、拓海よお、おまえ、なんか噂とか聞いてないのかよ」
「ねえよ。知るかよ」
突き放した返事にあきらめたのか、ようやくやつが俺から離れてくれた。
まったく、どこまで面倒なんだよ、恋ってやつはさ。
◇
俺は本当は『掛川の好きなやつが誰なのか』という問いに対する答えを知っている。
じゃあ、昇平に知らないと答えたのは嘘なのかと言えば、そうでもない。
美緒はうちの高校の男子を好きになったことがないと話していたのだ。
つまり、『今のところ好きな男子はいない』が正解だから、知らないという答えも嘘ではないということだ。
俺と美緒は去年高一の時に委員会活動が一緒だった。
環境委員会という週に一度学校周辺の清掃をおこなう活動で、資源ゴミの分別をしたり、竹箒を使って落ち葉などを集めて回ったりしていた。
当時から美緒は男子生徒に注目されていて、何人もの相手にコクられてすべて断ったといった噂は聞いていたから、勝手に俺とは縁のない女子だと思っていた。
秋が深まってきた頃、山から吹き下ろしてくる風に運ばれた落ち葉が道路の側溝にたまっていた。
枯れ葉が詰まって泥がたまり、側溝から雨水があふれ出すと、近隣の民家に流れ込んで苦情が来るというわけで、一輪車に何杯もの泥をかき出さなければならなかった。
他の連中は腰が痛いだの汚いだのと文句ばかり言っていたけれど、俺は性格的に、疲れるけど単純な作業は案外嫌いではなかったから、淡々と仕事をこなしていた。
そんな俺に話しかけてきたのが美緒だった。
「拓海君って、変わってるよね」
いきなり下の名前で呼ばれてビックリした。
「みんな適当に手を抜いてるのに、めちゃくちゃ頑張るじゃん」
「いやまあ」と、女子慣れしていない俺は動揺を隠しながらなんとか言葉を絞り出した。「どうせやらなくちゃならないんだから、さっさとやっちゃったほうがいいだろ。文句を言っても仕事は減らないし、楽になるわけじゃないからね。歯医者とか注射ってそうじゃん?」
「理屈は変だけど筋は通ってるね。私もその考え、いいと思う」
美緒はおもしろそうにうなずきながら俺の作業を手伝ってくれた。
活動時間が終わってペットボトルのお茶が配られた。
思いがけないことに、爪まで泥の食い込んだ手を洗いに行っている間に美緒は俺の分も取ってきてくれていた。
「はい、お疲れ様」
「あ、ああ、どうも」
受け取った瞬間、俺の手の震えが伝わったのか、美緒の頬にえくぼができていた。
正直、女子に親切にされたことなんかなかったから、勘違いしそうになっていた。
「拓海君ってさ、好きな女子いる?」
しかも、こんなことまで聞かれて平静でいられるわけがない。
もしかして、もしかするのか?
ギャルゲーみたいに返事次第で俺の人生変わっちゃうのか?
「いや、べ、べつにいないけどさ」
「やっぱりね。だろうと思った」
――ん?
これはどういう分岐?
「私もさ、好きな男子いないんだよね」
「ほ、ほう」
思わずオッサンみたいな相槌になってしまった。
ペットボトルに口をつけてお茶を飲む美緒の横顔を眺めながら俺は続きを待っていた。
遠くのどこを見ているのか分からない女子の横顔がそんなにも美しいことを俺は初めて知った。
「私ね、男子にやたらと声をかけられるのよ」
「ああ、それは大変だね」
「だけどさ、いい人ばかりじゃないし、ちょっと距離を取ろうとすると逆ギレする人とかもいるじゃない。だから、男の人って、苦手なんだよね」
まあ、だろうな。
それは決して彼女の勘違いとか自意識過剰ということではなく、注目を集める女子ならではの悩みなんだってことくらい俺にもすんなり理解できた。
「べつに女の子が好きとかっていうわけでもないよ。カレシがほしいとは思うんだけど、いい人いないんだよね」
ま、その言い方はつまり、俺でもないというわけで、その途端、あれだけ跳ねていた心臓も潮が引いていくようにおとなしくなっていた。
「ねえ、拓海君」
ペットボトルに口をつけたところで、改まって名前を呼ばれてむせってしまった。
「な、何?」
「私と友達になってくれないかな」
「え、俺と?」
一瞬ビックリしたけど、それはつまり、言葉通り友達の関係に固定しようという申し出であって、チャンスが完全にゼロになったことを意味していた。
だけど、それは悪くない提案だと思った。
もちろんがっかりする気持ちもあったけど、むしろはっきりとさせてくれたことで、女子慣れしていない俺にも受け入れやすいポジションだったのだ。
――どうせ、届かないんだ。
美緒はまぶしすぎるからな。
「俺で良ければ、いつでも話し相手になるよ」
「ありがと」と、彼女は微笑みながら何度も小刻みにうなずいていた。「拓海君なら分かってくれるんじゃないかなって思ってたよ」
おそらく、がっついていない、無害な男だと思われたんだろう。
二年生になって委員会活動が別になった今でも、廊下ですれ違ったときにはあいさつをするし、昇平がいないときには立ち話をすることもある。
あくまでも友達としてだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
美緒と俺のこうした関係は昇平には教えていないし、彼女もやつの前では顔見知り程度の態度しか見せないように気をつけているようだ。
というわけで、昇平がいくら頑張ったところで脈がないのは分かりきっている。
ただ、俺は嘘をついているわけじゃない。
隠しているだけだ。
――見たくないものを見なくて済むように。
この世界の半分はおそらく優しさで覆われているんだ。
◇
炭酸飲料を飲み終えた昇平がゲップ交じりにつぶやく。
「やっぱさ、コクっちまうか」
「ムリじゃねえの。断られたら気まずくなるだろうし」
今の何でもない関係が一番居心地がいい。
「なんだよ、さっきはコクれよってけしかけたくせに」
我ながら矛盾してることは自覚してるけど、空と海を入れ替えるくらい無理なものは無理だ。
逆立ちしたって解決できない。
ま、俺たちに恋とか、そういうのは似合わないってことを自覚しろって言いたいだけだ。
「なあ、拓海、神社の言い伝え知ってるだろ」
「恋愛成就の噂か?」
日名賀神社はフェリー港の背後にそびえる断崖の上にあって、参道は絶壁を見上げるような急斜面の階段で、しかも七十段もある。
下から見上げればほぼ垂直にしか見えないし、上から見下ろしても墜落の恐怖に足がすくむ。
実際に昔は落ちて死んだ人が何人もいたらしい。
今では崖を回り込む安全な脇参道ができたけど、この神社の夏祭りは、二十歳になった若い衆がおこなう『階段上り』が有名だ。
なみなみと酒を注がれた大杯を両手で掲げて絶壁階段を上り、鳥居をくぐったところで飲み干したら一人前と認められる。
漁師の村に伝わる通過儀礼というやつだ。
俺たちはこの島で生まれ育ったけど、その儀式に参加することはないだろう。
うちはもう漁師じゃないし、高校を卒業したら島を出る。
二十歳になっても帰っては来ないだろう。
この島には就職先なんてないからだ。
昇平の言っている言い伝えというのは、夏祭りで日名賀神社の階段を一緒に登り切って鳥居をくぐった二人は結ばれるという都市伝説のことだ。
どこにでもある根も葉もない噂に尾ひれがついたような迷信だ。
座ったまま両腕を上げた昇平があくびをした。
でかい口だな。
「でもよお、そもそも一緒に鳥居をくぐるためには彼女を誘わなきゃいけないわけだろ。それって、もうとっくに仲良くなってるってことじゃんよな。神社のおかげじゃねえじゃんか」
冷静に考えればそういうことになる。
言い伝えなんて、だいたいそんなもんだ。
「よしっ」と、いきなり昇平が立ち上がった。「行こうぜ」
はあ?
「どこに?」
「神社だよ」
なんでよ?
地蔵になりきろうとした俺の背中をたたいて昇平が走り出す。
「ほら、いいから来いよ」
めんどくせえ。
神社のある港は学校をはさんで反対側だ。
せっかく汗が引いてきたというのに、来た道を戻らなくちゃならない。
獣のように叫び声を上げながら坂道を下っていく昇平の背中を俺は仕方なく追いかけた。
――まったく。
走ればいいと思ってんだろ、青春なんて。
だけどさ、何をやっても似合わねえんだよ、俺たちはさ。
◇
汗まみれになりながら坂道を転げ落ちるように下り、変な目で敬遠されながら高校の正門前を通過して港までやって来た。
展望台からここまで下り坂とはいえ、馬鹿みたいに全速力で駆けてきたから、まだ息が荒いし、汗でシャツが張りついて気持ち悪い。
フェリー乗り場へ向かう本土組の連中を横目に断崖を見上げる。
絶壁に立てかけた梯子みたいな角度で七十段の石段が待ち受け、遙か彼方で森の木々に囲まれた赤い鳥居が俺たちを見下ろしている。
小学生の頃はちびりそうだったけど、大きくなった今でも膝が震えてしまう。
「こんなところまで来て、コクる前の神頼みか?」
さっさとここで手を合わせて帰りたいよ。
なのに、昇平の返事は予想もしないものだった。
「俺とおまえ、どっちがコクるか、階段ダッシュで決めようぜ」
「なんで俺が?」
「踏ん切りつけさせてくれよ」
「やなこった」
そんなのに協力させられてたまるか。
「なんだよ、冷てえな」
おまえが熱すぎるんだよ。
「仮に俺が勝ったらおまえはどうするんだよ」
「おまえに横取りされないように、先にコクりに行く。どっちにしろ、自分を追い詰められるだろ」
「おまえにしちゃあ、いい考えだな」
馬鹿馬鹿しいけど。
「だろ、じゃあ、行くぞ。先に鳥居をくぐった方がコクる。よしっ、スタート!」
やつは階段脇に鞄を投げ捨てると、勝手に競争を始めてしまった。
「ずるいぞ、待てよ」
俺も鞄を投げつけ、逃げる相手を本能的に追いかけていた。
とはいえ、感覚的にほぼ垂直に近い石段だから、二十段も上がると疲れて足が動かなくなってくる。
リードしていた昇平もすっかりへばって膝に手をついて休憩している。
俺は一気に距離を詰め、気合いで追い抜いた。
手を出そうとする昇平を、蹴落とす仕草で牽制する。
「ズルすんなよ」
「なんだよ、拓海、おまえだって、やっぱり本気なんじゃねえかよ」
「うるせえ、負けたらあきらめろよ」
「チックショー、裏切りやがって」
悔しそうでも、口調に笑いがこもっている。
「ざまあみろ。おまえが勝手に始めたんだからな」
「負けてたまるかよ」と、やつは石段に手をつきながら体を引き起こして必死に追い上げてくる。
とっくに周囲の民家の二階屋根は遙か下にある。
俺はなるべく足元を見ないようにしながら上を目指していた。
なんでこんなことしてんだろうな。
馬鹿馬鹿しさやあほらしさは消しゴムでこすられたようにかすれ、愛や恋だのといった感情は吹き飛び、負けてたまるかと奮い立たせる気力も汗の波にさらわれていく。
とにかくもはや登るしかないのだ。
登れば登るほど修行僧のように心が研ぎ澄まされていく。
なんでこんなことしてたんだっけ。
同じ質問ばかり思い浮かぶけど、答えが見つかる前に足が一歩また一段と高みへ俺を押し上げていく。
なんで、なんのためにこんなことをしてるんだっけ。
俺にしてみればただのお遊びのはずだったのにな。
二人とも四つん這いになって、今出したのがもはや足なのか手なのかすらも分からない。
地を這うムカデになったような気分だ。
なんで……なんでなんだよ。
ようやく鳥居が近づいてきた。
もうすぐ階段が終わる。
と、その時だった。
「行かせるかよ」
何かが俺の脚にしがみついた。
反射的に振りほどこうとした瞬間、自分の置かれた状況を思い出す。
――しまった!
階段、傾斜、高度、筋肉、痙攣、疲労。
振り向いたときにはもうすでにやつの上体は空中に放り出されていた。
――昇平!
手を伸ばした瞬間、時が止まったように、俺たちは見つめ合っていた。
見開いたやつの目には絶望の色が浮かんでいた。
重力よりも先に自分の体を投げ出してやつのシャツをつかみ、なりふり構わず引っ張り下ろす。
もがいていた昇平は足を滑らせつつも、手をついてなんとか石段にしがみついた。
「あっぶねえ……」と、肩を上下させながらやつは今にも吐きそうな勢いで嗚咽を繰り返していた。「わりい。焦って、つい……つかんじまった」
――まったくだよ。
なんでそんなに必死なんだよ。
「俺まで落ちるところだったじゃねえかよ」
蹴っ飛ばした自分のことを棚に上げて抗議した俺に、やつは素直だった。
「マジですまない」
「こんなところから落ちたら怪我じゃ済まねえぞ」
俺は顔色の悪い昇平を引っ張り上げ、そして、背中を押して先に行かせた。
こんな勝負、勝ったところで、いいことなんか何もない。
冷静になってみれば、意味なんかないんだ。
――こんなのただの遊びだろ。
俺は最初から美緒にコクるつもりなんかないし、横取りするつもりもない。
チャンスがゼロだってことを知ってるんだからな。
一緒に鳥居をくぐったぐらいで、奇跡なんか起こるはずがねえんだよ。
後からゆっくりと階段を上りきると、鳥居の奥の石畳に昇平が仰向けになって倒れていた。
大きく腹を上下させながら暴れる息を整えている。
勝負はおまえの勝ちだよ。
気がつけば夏の太陽が傾いて淡い夕焼け空が広がり始めていた。
足下の港は山の影がかぶさって薄闇に沈んでいた。
その港にちょうどフェリーが入ってきたところだった。
島と本土の間は二隻の小型フェリーが三十分おきに往復している。
本土側の港にも同じようなタイミングでフェリーが接岸していた。
港に着岸したフェリーから本土で働いてきた大人たちがごま粒がこぼれるように降りてくる。
六時半を過ぎていた。
入れ替わりに乗る方の列には肩掛け鞄を背中に回した美緒が並んでいるのが見えた。
どんなに小さくても美緒の姿を間違えることはない。
まるで、目の前にいるかのようにはっきりと分かる。
――絶対に手が届くことはないのにな。
フェリーの最終便は八時だけど、それだと美緒の乗る電車の接続に間に合わなくなるらしい。
だから、いつも練習を早退して七時のフェリーに乗って帰るんだそうだ。
「おい、昇平。掛川が船に乗っちまうぞ」
「お、おう」
ふらつきながら立ち上がった昇平が鳥居をくぐって階段に戻ろうとする。
「あぶねえよ。脇参道から走っていった方がいいだろ」
本当は下を見てたら足がすくんでしまうからなんだが、やつも同じことを思ったらしい。
「おっし、そうするか」
神社の横から車も通れる下り坂が続いている。
俺たちは二人並んで早足で歩いた。
出航の時間までには間に合うだろう。
「なあ」と、昇平が手の甲で額の汗をぬぐう。「最後、おまえに助けてもらっただろ。俺の負けじゃないのか」
「なんだよ。いざとなったらビビるのか」
「んなことあるかよ」
「じゃあ、約束通りコクれよ」
「ああ、やってやるよ。当たって砕けろだ」
「結局、砕ける前提かよ」
やる前から分かってることだけどな。
可能性はゼロだって分かってるのに、送り出すのは卑怯なんだろうか。
だけど、決まっている答えなら、早く知った方がいい。
歯医者や注射と同じだ。
昇平が俺の肩にパンチを入れた。
「俺の見事な散り際を目に焼き付けておけよ。盛大な花火を打ち上げてやるぜ」
「ああ、見てるよ」
夏らしくていいじゃねえか。
坂を下って鞄を回収すると、ちょうど船の車載ゲートが閉まって出航するところだった。
俺はやつの背中をたたいて送り出した。
「頑張れ!」
「よっしゃあ。気合い入ったぜ!」
頬をはたきながら桟橋へ向かうあいつの広い背中から感じた熱を俺は手の中に握りしめていた。
フォンと、汽笛が鳴ってフェリーが動き出す。
離岸したフェリーは盛大に泡を立てながら左へ向きを変え、防潮堤をよけながら港を出ていく。
昇平は波打ち際まで駆け込んで両手を口に当てると、彼女の名前を叫んだ。
「掛川さーん!」
船尾付近の二階デッキで振り向く人がいる。
「おーい!」と、両腕を高く突き上げ、体全体をバネのようにして思いっきり手を振った。「掛川さーん、俺だよお!」
俺もやつの横で飛び跳ねながら手を振って叫んだ。
「おーい、掛川美緒! 聞こえるかあー?」
船の上で彼女が手を振り返した。
すかさず昇平が手を筒のように口に当てて叫んだ。
「好きだあー!」
フォンと汽笛が鳴る。
風に乗って答えが返ってきた。
「ごめんなさーい!」
波と風に紛れてかすかだったけど、でも、はっきりとその声は俺たちの耳に届いた。
船の上で、膝に手を当てて深く頭を下げた彼女の姿が夕日にきらめいていた。
最初から分かっていたことだ。
何も変わらない。
これでいいんだ。
防潮堤を抜けたフェリーが向きを変えて加速する。
俺と昇平、どっちの声だったのか、美緒には区別できたんだろうか。
――どっちでも同じか。
答えは変わらないんだからな。