月子によると、電話ボックスと赤い女の噂は市内で最も大きな江雲市駅の周辺を発生源としていた。小中高、そして葛西大学へのアクセスも良く、学生も社会人も多くの人々が利用する駅だ。そこにぽつんと鎮座する電話ボックスで、昔事件があったらしい。揉め事の末に刺された男が自分で救急車を呼ぼうと電話ボックスに入ったが、そこで力尽きてしまった。以後、その電話ボックスで、どこにも発信しないまま受話器を耳に当てていると、死んだ男の恨みごとが聞こえるそうだ。それが噂の一つだった。
瑞希は心霊話を馬鹿にはしないが、疑ってはいる。壁の顔はただのしみ、囁き声は風の音、笑う絵画は角度による錯覚。心霊現象と嘯かれる話の多くは、気のせいや科学による説明で片が付くと思っている。
だが、感じる恐怖はまた別物だ。受話器の向こうから血まみれの男の呻き声が聞こえるのを想像すれば、自然と恐ろしさが沸き起こる。第一、人が死んだ電話ボックスなど入りたくない。
とはいえ、こいつの前でそんな顔を見せるのは癪だ。
駅前の広場で憮然とする瑞希の顔を、佑が覗き込む。
「なんか先輩、暗くないですか?」
「別にそんなことないし」意外に敏感なやつだ。「ちょっと寝不足なだけ」目元をこすって誤魔化す。
「ならよかった、のかな。先輩が本当は怖くて来たくないって思ってたらどうしようって心配で」
「別の意味で行きたくないんだけど」
はて、と佑は首をひねったが、すぐさま一方向を指さした。
「えっとね、あっちです。あっち!」
「大きな声出さないでよ、恥ずかしい」
今日もぐいぐい引っ張る佑に辟易しながら、駅前広場を歩き出す。時計台の足元でベンチが円を描き、更に桜の木が周囲を囲む広場は、夏休み直前の午後一時ともなれば、学生を中心に待ち合わせの人々で賑わっていた。友人や恋人同士、親子や夫婦。歩いている人たちは皆一様に楽しげで、瑞希はこの中で最もテンションの低い一人だった。
佑は当然の如く、全く意に留めることなく、機嫌よく歩きながら喋っている。雨が降らなくてよかったとか、今朝は電車が混んでいて参っただとか。べらべらと続くお喋りには取りとめがない。
「……ねえ、それって本当にあった事件なの」
瑞希は右から左へ流れる佑の話を遮った。何が、の顔をする彼に「だから」ともどかしく続ける。
「その、電話ボックスで、人が死んだってやつ」
「らしいですよ。十年以上前だけど、新聞に載ってるのをつっこさんのお母さんが見たんだって。なんか、お金がらみの喧嘩だったとか」
事件は実際にあったもののようだ。ということは、呻き声云々がガセだとしても、人が息絶えた電話ボックスには違いない。ずん、と気分が重くなる。
「土台のコンクリートには、当時の血が染み込んだ跡があるとか」
「ちょっとやめてよ!」
唐突な大声に、佑は目を丸くした。「……すみません」右手の指で首筋をかきつつ、珍しく気まずそうな表情をする。
「別に怖いとかじゃないから。なんていうか……あんたは気持ち悪くないの」
「はあ」
「はあじゃない。あんた平気なの、人が死んだんだよ?」
「いや、まあ……」腕を組んで唸り、「確かに、血の跡は気持ち悪いですね」と言った。
やっぱりこいつの感性は変わっている。今の問題はそういうことじゃないのが、わからないらしい。頭を抱える瑞希の横で立ち止まり、彼はポケットから取り出したスマートフォンに触れた。
「もうすぐですよ、そこ曲がったところ」
片側二車線の通りの先を指さす。思わず二の足を踏む瑞希の袖を引っ張り、ほらほらと軽率に促す。「わかったから」腕を振り払い、仕方なく歩を進める。
「……あれ?」
佑の予測では角を曲がったすぐそこに電話ボックスがあった。
だが、向こうに伸びる広い通りのどこにも、電話ボックスは見当たらない。「……どこ?」見つけたくない瑞希も思わず探してしまう。
「おかしいなあ、ここら辺なんだけど」
きょろきょろ見渡して歩きながら、佑はふと足を止めた。瑞希もそばに寄り、彼の視線を辿る。
足元の石畳は、一部だけ妙に新しく綺麗な色をしていた。周囲の黒ずんだ色とは異なり、四角形の空間だけが鮮やかなクリーム色だ。そこには人一人が十分に立てる面積がある。
「もしかして、ここ?」
尋ねながらも、瑞希は大いに安堵した。噂の電話ボックスは既に撤去されていたらしい。月子もその家族も知らなかったのだから、そう遠くない過去のことだろう。「ええー」と佑は足元を見ながら不満の声を漏らしたが、探しても一滴の血痕さえ見当たらない。受話器を握るどころか、電話ボックスそのものが存在しないなら、噂を試してみることは不可能だ。
地面を見つめて喜んだり悲しんだりする二人に、通りを歩く人たちが訝しげな視線をちらちらと送る。それに気づいた瑞希は、「撤去されたなら、仕方ない」と締めの一言を告げた。
それでも名残惜しそうに佑はしばらく跡を見つめていたが、わかりやすくぷるぷると頭を振った。黒い髪が揺れる。
「次です、次!」
大股で歩き出す背中に、ため息をつきながら瑞希は続く。
「小学校の近くに、赤い女が出るんだって。目が合ったら追いかけてくるそうです」
「それ、ただの赤い服着た不審者じゃない」
ちっちっと彼は立てた人差し指を横に振る。なんだかいらっとする。
「服だけじゃなくて、全部赤いんだって。靴も髪も化粧も。目も赤いって話ですよ」
「だから不審者じゃん」
このさい不審者でも構わないのか、佑はずんずん歩いていく。想像すると確かに不気味だが、そこには生きた人間特有の怖さがある。
「追いつかれて、捕まったらどうなるの」
「さあ。誰も知らないみたいです」何がおかしいのかくすくすと笑う。「捕まった人が消えちゃうから、誰も知らないとか?」
「誰も捕まってないだけでしょ。そんなの大騒ぎになるじゃん」相手を攫ってしまえば、それはもう噂程度では済まない。事件だ。
「皆の記憶から消されるんですよ」
こいつの思考は本当にわからない。瑞希は返事をしなかった。
瑞希は心霊話を馬鹿にはしないが、疑ってはいる。壁の顔はただのしみ、囁き声は風の音、笑う絵画は角度による錯覚。心霊現象と嘯かれる話の多くは、気のせいや科学による説明で片が付くと思っている。
だが、感じる恐怖はまた別物だ。受話器の向こうから血まみれの男の呻き声が聞こえるのを想像すれば、自然と恐ろしさが沸き起こる。第一、人が死んだ電話ボックスなど入りたくない。
とはいえ、こいつの前でそんな顔を見せるのは癪だ。
駅前の広場で憮然とする瑞希の顔を、佑が覗き込む。
「なんか先輩、暗くないですか?」
「別にそんなことないし」意外に敏感なやつだ。「ちょっと寝不足なだけ」目元をこすって誤魔化す。
「ならよかった、のかな。先輩が本当は怖くて来たくないって思ってたらどうしようって心配で」
「別の意味で行きたくないんだけど」
はて、と佑は首をひねったが、すぐさま一方向を指さした。
「えっとね、あっちです。あっち!」
「大きな声出さないでよ、恥ずかしい」
今日もぐいぐい引っ張る佑に辟易しながら、駅前広場を歩き出す。時計台の足元でベンチが円を描き、更に桜の木が周囲を囲む広場は、夏休み直前の午後一時ともなれば、学生を中心に待ち合わせの人々で賑わっていた。友人や恋人同士、親子や夫婦。歩いている人たちは皆一様に楽しげで、瑞希はこの中で最もテンションの低い一人だった。
佑は当然の如く、全く意に留めることなく、機嫌よく歩きながら喋っている。雨が降らなくてよかったとか、今朝は電車が混んでいて参っただとか。べらべらと続くお喋りには取りとめがない。
「……ねえ、それって本当にあった事件なの」
瑞希は右から左へ流れる佑の話を遮った。何が、の顔をする彼に「だから」ともどかしく続ける。
「その、電話ボックスで、人が死んだってやつ」
「らしいですよ。十年以上前だけど、新聞に載ってるのをつっこさんのお母さんが見たんだって。なんか、お金がらみの喧嘩だったとか」
事件は実際にあったもののようだ。ということは、呻き声云々がガセだとしても、人が息絶えた電話ボックスには違いない。ずん、と気分が重くなる。
「土台のコンクリートには、当時の血が染み込んだ跡があるとか」
「ちょっとやめてよ!」
唐突な大声に、佑は目を丸くした。「……すみません」右手の指で首筋をかきつつ、珍しく気まずそうな表情をする。
「別に怖いとかじゃないから。なんていうか……あんたは気持ち悪くないの」
「はあ」
「はあじゃない。あんた平気なの、人が死んだんだよ?」
「いや、まあ……」腕を組んで唸り、「確かに、血の跡は気持ち悪いですね」と言った。
やっぱりこいつの感性は変わっている。今の問題はそういうことじゃないのが、わからないらしい。頭を抱える瑞希の横で立ち止まり、彼はポケットから取り出したスマートフォンに触れた。
「もうすぐですよ、そこ曲がったところ」
片側二車線の通りの先を指さす。思わず二の足を踏む瑞希の袖を引っ張り、ほらほらと軽率に促す。「わかったから」腕を振り払い、仕方なく歩を進める。
「……あれ?」
佑の予測では角を曲がったすぐそこに電話ボックスがあった。
だが、向こうに伸びる広い通りのどこにも、電話ボックスは見当たらない。「……どこ?」見つけたくない瑞希も思わず探してしまう。
「おかしいなあ、ここら辺なんだけど」
きょろきょろ見渡して歩きながら、佑はふと足を止めた。瑞希もそばに寄り、彼の視線を辿る。
足元の石畳は、一部だけ妙に新しく綺麗な色をしていた。周囲の黒ずんだ色とは異なり、四角形の空間だけが鮮やかなクリーム色だ。そこには人一人が十分に立てる面積がある。
「もしかして、ここ?」
尋ねながらも、瑞希は大いに安堵した。噂の電話ボックスは既に撤去されていたらしい。月子もその家族も知らなかったのだから、そう遠くない過去のことだろう。「ええー」と佑は足元を見ながら不満の声を漏らしたが、探しても一滴の血痕さえ見当たらない。受話器を握るどころか、電話ボックスそのものが存在しないなら、噂を試してみることは不可能だ。
地面を見つめて喜んだり悲しんだりする二人に、通りを歩く人たちが訝しげな視線をちらちらと送る。それに気づいた瑞希は、「撤去されたなら、仕方ない」と締めの一言を告げた。
それでも名残惜しそうに佑はしばらく跡を見つめていたが、わかりやすくぷるぷると頭を振った。黒い髪が揺れる。
「次です、次!」
大股で歩き出す背中に、ため息をつきながら瑞希は続く。
「小学校の近くに、赤い女が出るんだって。目が合ったら追いかけてくるそうです」
「それ、ただの赤い服着た不審者じゃない」
ちっちっと彼は立てた人差し指を横に振る。なんだかいらっとする。
「服だけじゃなくて、全部赤いんだって。靴も髪も化粧も。目も赤いって話ですよ」
「だから不審者じゃん」
このさい不審者でも構わないのか、佑はずんずん歩いていく。想像すると確かに不気味だが、そこには生きた人間特有の怖さがある。
「追いつかれて、捕まったらどうなるの」
「さあ。誰も知らないみたいです」何がおかしいのかくすくすと笑う。「捕まった人が消えちゃうから、誰も知らないとか?」
「誰も捕まってないだけでしょ。そんなの大騒ぎになるじゃん」相手を攫ってしまえば、それはもう噂程度では済まない。事件だ。
「皆の記憶から消されるんですよ」
こいつの思考は本当にわからない。瑞希は返事をしなかった。