佑は宣言通り、放課後は瑞希を待って、ときおり玄関先のベンチに座っていた。大抵、一年生の方が早く放課を迎える月曜日と水曜日。せっかく早めに帰宅できる曜日だというのに、ベンチに腰掛けて退屈そうに本を読んでいる彼の姿は、瑞希の周りでも噂されるようになっていた。
「瑞希、今日も待ってたよ」
 靴箱に上履きをしまっていると、クラスメイトから声をかけられる。浮ついた彼らの視線にうんざりしながら、靴を履いて校舎を出た。
「おー、先輩。こんちは!」
 無視をしようにも、ベンチの前を通らなければ帰れない。ぷらぷら足を揺らし運動場を眺めていた彼は、たちまち駆け寄ってくる。
「うるさい馬鹿」
「ひゃー、厳しい」
 後ろをついてくる佑の笑い声が聞こえる。マジでこいつは何なんだ。辟易しながら彼を追っ払う方法を脳内で模索するが、いい案が思いつかない。学外サークルも同じであれば、絶交宣言をして、その後気まずくなるのもいただけない。こいつは変な下心や器用な裏の面など持ち合わせてはいないだろう。だから余計に扱いづらい。
 門を出て道を歩きながら、やっと佑を振り向いた。
「あんた、いつまで私を待つつもり?」
「いつまでって、そりゃあ来年までですけど」
 そういえば、来年死ぬだなんて馬鹿なことも言っていた。あのエイプリルフールネタを未だに引きずっているのか。理解に苦しむ。
「夏も冬も玄関で待つの」
「そういや、確かに辛そうですね。場所変えようかなあ。先輩、心配してくれてるんですね」
「私のせいで熱中症になったなんて言われたら心外だからね」
「そんなこと言わないっすよー」
 女子の平均を僅かに上回る瑞希と、佑はほぼ身長が変わらない。ほんの数センチだけ目線の高い彼をじろりと睨むが、そんなものどこ吹く風で、佑は夏にはどこで彼女を待てばいいのか考えている。
 南浜高校から歩いて二十分ほどで下浮月橋に着くが、反対方向に歩けば十分経たずに駅がある。そこから電車に乗って鉄橋で川を渡るのが佑の通学路のはずだが、彼は彼女と一緒に歩いて橋を渡り、そこで別れてから近くの駅を使うという経路をとる。そこから更に四十分は電車に揺られる必要があるらしく、どう考えても遠回りなのだが、それより一緒に帰りたいと彼はあっけらかんとして言った。どうぞご自由に、と瑞希が視線も合わせずに答えたのが四月のこと。
 五月下旬の爽やかな空の下、共に橋を渡り切った頃、佑がまたおかしなことを口走った。
「先輩、秘密基地行きましょうよ」
「ひみつきち?」
 眉を顰める瑞希に、「秘密基地」と満足げな顔で彼は頷いた。「なにそれ、子どもじゃあるまいし」一蹴する彼女だったが、彼はすっかりその気になっている。
「いいとこ見つけたんで、先輩にも見せようと思ってたんです。近くだから」
「行かない」
「ちょっとだけ、見るだけでいいから」
 笑顔を輝かせ、行こう行こうと、佑は瑞希の手を取った。左手の四本指が、彼女の右手を軽く握る。初めて感じた彼の体温は思っていたよりも低く、うっかり苛立ちが冷却される。その隙に、佑は手を引いて土手を歩き始めた。「わかったから」人に見られてはかなわない、瑞希は慌てて手を解き、彼の後をついて歩いた。
 上流へ百メートルほど歩き、土手を下る。大きな川は美しいが、下浮月橋付近は上流に比べ、あまり手入れが成されていない。油断すると目を刺さされそうなほどに伸びた草をかき分け、河川敷に下り立った。
 その景色に、思わず瑞希は顔をしかめた。多くの粗大ゴミが不法投棄されている。草が茂って外から見えにくいのを幸いに、よからぬ輩が大きなゴミを捨てていくのだろう。電子レンジに冷蔵庫、乳母車まで多様なものが放置されている。
「まさか、秘密基地ってここ?」
「そうですよ」
 呆れた。なにもゴミが散乱する場所を秘密基地にしなくてもいいのに。
「帰る」
「待って待って!」
 踵を返す瑞希の袖を、慌てて佑が掴んだ。「なに」機嫌の悪い声で振り向く彼女に手招きして、彼は草をかき分けて進む。
 少し開けた空間には、グレーのソファーが川の方を向いて置いてあった。大人が三人座れる大きさのソファーは端が破れ、風雨にさらされたおかげで汚れている。
 見ていると、そばにあるクーラーボックスを開けて、彼は大きな袋を取り出した。季節の変わり目に布団をしまう際に使う、収納袋だ。その中からタオルケットを出すと、破れたソファーにかけた。
「ほら、座って」
 そこに腰掛け、隣をぽんぽんと叩くのに、まさかと瑞希は問いかける。
「その毛布……」
「これは拾ったんじゃないですよ。家で余ってたの持ってきたんです。時々洗濯もしてるし」
 それならばと浅く腰かけて、思わず目を細めた。
 目の前に広がる浮月川が陽光を反射し、きらきらと輝いている。穏やかな水面を滑り、涼やかな風が吹いてくる。周囲に茂る葉がさらさらと鳴り、町の雑音を遠ざけている。
 息を呑むと、「ね、いいでしょ」と佑が言った。「先輩には、特別です」
 認めるのは悔しいが、意外にも居心地が良いのは確かだった。一人で帰る日、佑はもしかするとここで時間を潰しているのかもしれない。
「なんで、特別なの」
 そんな場所を他人に教えるのは、嫌じゃないんだろうか。自分が見つけた一人だけの秘密基地を、なぜ瑞希にだけ教えるのだろう。
「だって、先輩は僕のお気に入りだから」
「だから、なんでなのよ」
 かつて同じ質問を彼に投げたことがあった。すると、「先輩は正直だから」と佑は説明した。自分を繕わない姿がかっこいいのだと言った。繕わないのではない、そんな器用さがないのだ。そう教えても、佑は「かっこいい」を連呼するだけだったので、それ以上は聞かなかった。
「最初、僕の作品を馬鹿にしたじゃないですか」
 真のきっかけを佑が語るのに、確かに覚えがある。サークルに入ったばかりの彼が見せた、「咲く桜 さくさく桜 桜咲く」という意味不明の川柳に、瑞希は「馬鹿じゃないの」と言ったのだ。流石に言い過ぎたが、褒める言葉も見つからなかった。周囲はあらゆる意味で笑顔を引きつらせていた。
「だって、あまりにしょーもなかったんだもん」
「それでも、普通あんなこと言わないですよ。まあ全く面白くないやつだったけど」
「なにそれ、あんたもそう思ってたの。人のこと試してたの?」
「いやいやいや」彼はぶんぶんと首を振った。「ちょっとしたおふざけのつもりで」
「初対面でふざける方がどうかしてるわ」
 確かに、と彼は笑いながら頷いた。
「そのね、飾らないとこが、すっごくいいなあって思って」
「あんたも似たようなもんだと思うけどね」
 相手の都合を考えず、勝手に昼食に誘い、放課後に待ち合わせ、秘密基地に連れて行く。本音と本心のままに生きているのはそっちの方だ。
 へへ、と佑が笑い、浮月川に顔を向けた。
 二人は、しばらく並んで川面を見つめていた。