翌日の四月一日、やはり佑は母親と延山に向かった。瑞希はどうすれば佑を説得できるのか考え続けた。彼の意思は強固で揺るがない。この一年、彼はずっと自分の人生を逆算して生きてきたのだ。今更少し横槍を入れられたところで、予定を変えるつもりはない。
 それでも、力づくでも止めなければならない。
 月子や富士見に相談することも考えたが、そうすれば全てを説明する必要がある。時間を戻したことなど信じてもらえそうもないし、第一、佑の秘密も暴露しなければならない。彼は相手が瑞希だから、延山を共に歩き、後悔や懺悔を語ってくれたのだ。他人にそれを話してしまえば、彼を裏切ることになる。そうすればより一層、彼は死への決意を固くしてしまうだろう。
 時間はわかっている。南浜駅に二十時二十六分着の電車から降り、下浮月橋に向かい、二十二時に川へ飛び込む。本来なら二十分程度で辿り着くはずだが、人生最後の景色を目に焼き付けて歩けば、それぐらい時間はかかるのだろう。
 橋を渡り、瑞希は土手の上で待つことにした。どこを寄り道しても、駅からここを通らなければ橋には辿り着けない。二十時の段階から待ち続けた。
 高い空の上で、ぽつぽつと星と満月が瞬く夜だ。土手の上は静かで、風に吹かれる草がさらさらと音を立てるのさえ聞こえる。バイクのエンジンをふかす音が遠くで聞こえた。それは遥かに離れた場所からの音である気がした。自分たちの帰るべき場所は、随分遠くにあるように思えた。
 待ち構えていると、ゆっくり歩いて来た彼が、五メートルほど向こうで立ち止まった。街灯と星明りの下、瑞希を見つけて微笑む。ただそこに、いつもの溌溂さはなかった。
「やっぱり、待ってたんだ」風に吹かれて髪が揺れる。「どこかで僕を止めるつもりだとわかってた」
「わかってるなら、考え直してよ」
「無理だってば。僕は決めたんだから。一年きりだって」
「一年ってなんなの。それなら二年も三年も一緒じゃない」
「わかってないなあ」
 呆れ顔でため息を吐く。そんな顔をされたら、いつもの瑞希なら叩いていただろう。だが今は、悔しさや悲しさが入り混じり、両手を握りこむことしかできない。
「僕が唯一自分で決められること。やられっぱなしの僕が、たった一つ自分で決定できること」
「それが、一年の寿命だってこと?」
 彼は頷くが、あんまりだと思う。一生をかけて自分で決定づけられることが、自分の死期だけだなんて。
「朋が死んでから、僕は人間のまがいものとして生きてきた。笑うことも怒ることもできなくなった。罪悪感に押し潰されながらやっとの思いで息をしていたのに、これだよ」
 左手を掲げる。緩く曲がったまま動かない小指。下ろした手を、腕時計をつけた右手でそっと撫でる。
「許されないんだ、ひとまがいなんて。ここは人の生きる場所なんだから。僕は住む場所を間違えたんだ。そんな僕のたった一つ出来ることが、自分の終わりを自分で決めることだった。最後の一年だけ、朋の偽物になって生きてみようと思ったんだ」
「……じゃあ、本当は楽しくなかったの」
 呟くと、彼は笑って首を振った。
「楽しかったよ。本当に。毎日が楽しくて、眠るのが惜しいくらいだった」
 彼が遺した手紙を思い出す。「気持ちだけは嘘ではありません」。彼の言葉も気持ちも、そこに嘘はなかった。偽の入れ物で、本当の気持ちを伝えていてくれたのだ。
「それなら……それなら、一緒に明日を迎えようよ。惜しいぐらいなら、生きたらいいじゃない! それで解決でしょ!」
「全ては、僕の決心の上に成り立っている。それを裏切ることはできない。生き続けることは僕への罰で、朋を死なせたのが僕の罪だ。もう終わりにしたい」
「佑に罪はない」
 一歩前へ出た。彼が罪を負い、罰を受ける必要など、この世のどこにもない。彼の母親が、世間の誰が何と言っても、彼が責められる筋合いなどありはしない。
「一緒に生きよう」
 もう一歩踏み出す。彼の顔が強張るのが見える。立ち尽くす彼を抱きしめたい。凍った心を温めたい。それが無理なら、一緒に凍ってしまってもいい。とにかく触れて、離したくない。
 だが彼が右手でズボンのポケットから出したものを見て、瑞希は足を止めた。
 折りたたみの小さなナイフ。それの刃を出して、彼は瑞希に向けていた。
 心臓が跳ね、血流のざあざあという音が聞こえる。あれに刺される感触を想像し、手足の先が冷たくなる。
 彼は右手をゆっくりと動かした。
「邪魔するなら、刺すよ」
 その刃先は、彼の胸の方を向く。
「放っておけば、僕は勝手に飛び降りる。だけど邪魔するなら、僕は先輩のせいで死ぬ。苦しんで、恨みごとを吐いて死ぬ」
 どっちがいい。彼はうっすらと微笑んで言った。
 何も言えずにいると、佑はナイフを握ったまま、足を踏み出した。そのまま瑞希の横を通り過ぎていく。
 すれ違う瞬間、彼の小声が聞こえた。「ごめんなさい」そう言っていた。
 足音が完全に聞こえなくなってから、その場にぺたりと膝をついた。まだ心臓は激しく脈を打っている。だが冷えた血流が脳を巡ると、涙がぼろぼろと零れ出す。
 止められなかった。またしても、佑を止められなかった。無理に追いかければ、彼はその場で死んでしまう。予定を狂わされた苦しみに苛まれて、血を流して息絶える。
 地面を掴み、瑞希は号泣した。どうすればいい。どうしたら、結城佑の命を助けられる。もしかしたら、どうしようもないのだろうか。彼の死を、寿命だと受け入れるしかないのだろうか。
「……助けるから」
 それでも、瑞希は嗚咽の隙間で口にした。
「絶対、助けるから」
 涙と鼻水を噛み締めながら、彼の笑顔だけを思い出した。