三月三十一日の日曜日は、サークルの定例会だった。葛西大学図書館の一室に、今日は十五人が集合している。二つの長机に分かれて学生たちが着席し、月子が前に立って今後の予定や連絡事項を通達する。定例会は顔合わせの機会も兼ねており、特に重要事項がなければすぐに終わる。卒業とともに四年生がサークルを抜けたが、今のところ新規メンバーが入る予定はないと彼女は言った。ただ、進学を機に加入を考える人が多い時期だから、メンバーが増えたら温かく迎えてほしいと繋げた。
「人数集まったら、お花見しようかなって考えてまーす。取りあえず、来週の日曜日。もし来れるって人がいたら、あたしに連絡してください。みんな忙しいと思うから、暇な人だけで大丈夫だからね」
 最後に花見の予定が周知され、定例会は解散となった。とはいえ部屋の予約時間はあと四十分も残っている。用事があると帰る者や、早々に作業道具を取り出す者とに分かれる。
「ねえ、ゆうゆうたちは来る? お花見」
 上座の月子が弾むような口調で尋ねた。しかし、彼女の右手側、端の席に座る佑は左腕で頬杖をついたままぼんやりとしている。
「おーい。どうした?」
 頬を月子が指先でつつくと、佑は驚いて背筋を伸ばした。「あ、すいません。ぼーっとしてました」
「どうせ夜更かししたんだろ」彼の正面で富士見が言う。
「いやいや、富士さんじゃないんだから」
「意味わからんて」
 江雲に戻ると同時に、佑も普段通りの姿に戻った。まるで延山での一日がなかったことのように瑞希にも接した。へらへら笑って、ふざけたことを言って付きまとう。もしかしてあの一日は長い夢だったのでは。思わず瑞希が頬をつねってしまうほどに、彼はここにいる皆が知る結城佑だった。
「ずっきーはどうする、お花見行く?」
 月子に尋ねられ、佑の隣で手帳を開いて考える。翌日の月曜日は始業式だが、今のところ予定はない。
「次の日は学校だから、遅くならなかったら……」
「それはだいじょーぶ! お昼にちゃちゃっと済ませるから」
 ならば参加すると返事をした。月子は嬉しそうにスマートフォンに指を滑らせる。「キヨは暇でしょ?」
「まあ、暇は暇だけど」
「なら決定ね」
「なんか納得いかねえなあ」
 不貞腐れる富士見を無視し、「じゃ、ゆうゆうは?」と月子は佑に目を向けた。彼は瞬かせた目で笑い、首を振った。
「僕は、行けないです」
 彼の返事に、月子が目を丸くする。瑞希が行くなら、それに富士見も来るなら、尋ねるまでもなく彼も参加するものだと信じていたのだ。
「あれ、そうなんだ。ずっきーが来るから、てっきりゆうゆうも来るかと思ったよ」
「いやあ、無理なんですよねえ」
「外せない用事とか?」
 彼はちょっと視線を宙に向けて考え、「僕、いないから」と言う。当然意味の解らない月子たちに、いつもの能天気な笑顔を向ける。
「あのですね、もし僕がこの世からいなくなったら、どうしますか」
 沈黙が下りた。瑞希には、彼が去年の四月一日に言っていたことだとピンときた。来年の四月一日に死ぬ。そうだ、あれはもう明日に迫っているのだ。
「おまえ、何言ってんの」
「どしたー、ゆうゆう。ちょっとびっくりしたよ」
 しかし富士見も月子も、佑が笑っているからだろう、冗談だと受け取ったらしい。
「それなら、化けて出てくれよ。幽霊見てみたいし」
 富士見の言葉に、彼は「どうしようかな」などと言う。「写真撮られてテレビに送られたら嫌だ」
「全国デビューだ」月子が笑った。
 口を挟まない瑞希を、佑が振り向いた。いつもの笑顔。こんなの冗談だよと続いてもおかしくない表情。
 まさか、と思った。いくらなんでも、と。
「困らせないでよ」
 いつも通りのとんがり口調に、彼はいつもの通り、へへっと屈託なく笑った。


 一刻も早く結果を知りたいと思っているのに、寝坊をしてしまった。原因は単純に寝不足だ。緊張のあまりゆうべはなかなか寝付けず、起床してすぐに目をやった壁掛け時計は、九時半を指していた。春休みでよかったと安堵した。
 昨年の落選から丸一年。この日をずっと待っていた。早く結果を知って楽になりたいはずが、もし落ちていたらと思うと、足はなかなか早まらない。また一年待たなければと落ち込む自分を想像して、気分が悪くなる。
 静かな家で仏壇に手を合わせ、朝食はヨーグルトだけで済ませた。寝不足とプレッシャーから、まともにパンが喉を通る気がしなかった。数か月前に母が飲んでいた睡眠薬を一錠だけでも貰えばよかったかもしれない。良くなったと言って母は飲むのを止めたが、まだ十分に数は残っているはずだ。
 だが、処方された人間でないのに、勝手に薬を飲むのは怖い。気を強く持てと自分に言い聞かせ、簡素なトレーナーとジーンズに着替えて家を出た。
 十五分歩き、去年と同じコンビニエンスストアに入る。万が一売り切れていたらと嫌な想像をしていたが、小説大海はラックの中で雑誌の海に埋もれていた。昨年とは違う店員が受け持つレジで支払いを終えた。
 一年前と同じ公園で同じベンチに座り、膝の上に雑誌を乗せた。今年は水平線から朝日が昇る海のイラスト。心臓がばくばくと鳴り響き、ともすれば気持ち悪くなってくる。大丈夫だ。絶対に名前はある。吐き気を抑えるよう大きく深呼吸をし、表紙を開いて目次を見る。「第十六回 新時代小説大賞 一次選考結果」。項数を確認し、今年は一気に目当てのページを開いた。
「あった」
 声が漏れたが、気にならなかった。茜瑞希の名は、一次選考通過者一覧の二番目に掲載されていた。作品のタイトルも提出したものと一致している。間違いない、ここにいる茜瑞希は、一次選考を突破した。
 安堵と興奮で、頭の中がごちゃごちゃになる。前のめりに雑誌を抱え、靴裏で地面をばたばたと叩いた。周囲に人がいなくて助かったが、もし誰かがいたとしても抑えられなかっただろう。理性は辛うじて、喉からの叫びを押しとどめている。それでも、くーっと変な声が身体の奥から漏れていった。
 自信作だったが、間違いなく不安はあった。それは、これが通らなければ自分はどうしたらいいのかわからない、という混乱でもあった。努力の方向性を間違えてしまっていたらどうしよう。丸一年の頑張りが水泡に帰してしまったら。それでも書き続けるだろうが、これでよいのかという心配にとらわれるに違いない。昨年より前進したというのは、少なくとも歩き方は正しかったということだ。喜びもあるが、安心も同じぐらい大きかった。
 その場でスマートフォンを取り出し、弥生に連絡する。メッセージを打ち込んだのだが、十分と間を置かずに電話がかかってきた。「よかったー!」と我が事のように喜んでくれるのが嬉しい。
 しばらく通話し、興奮が少しおさまってきた頃、残りはまた学校でと電話を切った。自分の名前が紙面に載るのはこんなに嬉しいことなのか。空を見上げて思い出す。そういえば昨年の四月一日も、こんな風に真っ青に晴れた空だった。そして今年の気持ちは、昨年とは比べ物にならないほど晴れ晴れとしている。
 受賞したわけでもないのに大袈裟だが、支えてくれた人には報告すべきだ。元部長の日比野、サークルのメンバー、密かに応援してくれている両親。
 彼らを差し置いて、ふと結城佑の名前が浮かんだ。
 選考を通過できたのは、彼のおかげでもある。正確には彼とのオカルト巡りだが、佑が言い出さなければ、心霊スポット探索など思いつきもしなかった。間違いなくあの体験は、作品を書く上で良い影響をもたらしてくれた。
 今更ながら、どうしようもないプライドが邪魔をする。だが、彼の存在をスルーすることはできない。
 なにより、知ってもらいたい。
 指が止まらないよう、瑞希は素早く佑の名前を見つけ出した。友人一覧の中から結城佑の文字をタップし、取りあえず「おはよう」と打ち込む。「一次、通ったよ」と後ろに付け足す。彼ならこれだけでわかるはずだ。
 じっとしていられず家路を歩いていると、佑から返信が届いた。
 ――おめでとうございます!!!
 その後ろにずらずらと賛辞が続き、まるで大賞でも取ったかのような祝いっぷりだ。「大袈裟……」つい苦笑いする。
 ――今すぐ会って話したいけど、ちょっと遠いので無理そうです。先輩なら大丈夫って信じてました!
 昨日の定例会からの帰り道、四月一日は母と延山に行くのだと佑は言っていた。朋の命日には、母子三人で延山で過ごすのが通例だそうだ。だから、今は恐らく行きの電車の中だろう。
 会いたい。
 自分からそう思ったのは、初めてかもしれない。誰よりも応援してくれる佑の笑顔を見たい、弾む声を聞きたい。単純に、結城佑という人に会って直接言葉を交わしたい。今なら素直に礼を言える気がする。
 現金かもしれないが、きっと落選していてもそう思っただろう。いつの間にか、彼の存在は自分の中で大きな場所を占めるようになっていた。明るい部分も暗い部分も、全てひっくるめて彼という存在が好きだ。
 家の鍵を開けながら、思わず心臓が跳ねてしまう。自分がここまで彼を気に入り、好きと思う気持ちを抱いていたことに、急に恥ずかしくなる。馬鹿、調子に乗るな。慌てて自身を叱咤するが、本心に嘘はつけない。
 次に会ったら、何を言おう。
 その想像は恥ずかしくとも胸の高鳴るものだった。