広い施設だが、彼の言った通り値段は安く、タオルを借りても七百円で済んだ。身体を洗い、露天風呂に浸かり、深く息をつく。滝のように湯が流れる一画から、幼い子どものはしゃぐ声が聞こえてくる。
まさか温泉に浸かることになるとは。気が動転していたおかげで突っ込めなかったが、随分と想定外の寄り道だ。
「何考えてんだ、あいつ……」
弥生が彼氏とデートの際、こうした温泉によく行くというのを聞いた覚えがある。そういった話に疎い瑞希も、ある程度の関係性を築いた者同士が共に訪れる場所だと認識していた。
もしや、自分たちは思っているより近い間柄なのではないか。
そんなはずがない、あいつがガキなだけだ。普段はそう思って思考を放棄するところだが、敢えて考えてみる。知り合ってたったの八か月、ただの先輩後輩でしかない。
いったいどうなるべきなんだ。どこへ向かえば正解なのだろう。一緒に学校から帰って、休日もサークルで顔を合わせて、更に二人きりで出かけている。こんなこと、ただの先輩後輩であり得るのだろうか。
すっかり考え込んでのぼせそうになり、慌てて湯から上がった。さっぱりした気分と悶々とした気持ちを抱え、着替えて髪を乾かす。ロビーに戻ると、彼は点在するソファーの一つに座り、壁掛けテレビをぼんやり眺めていた。
「野球、興味あんの」
「あ、先輩!」野球中継を映す画面から目を離し、「全くないです!」嬉しそうに返事をした。
これを飲まないと帰れない。そう言って佑がビンに入った牛乳を買い、瑞希もフルーツ牛乳を買った。冷えた甘ったるい液体が、火照った体を心地よく冷ましてくれた。
外に出ると、既に陽は暮れていた。心地よいので、一駅手前で電車を降り、川向こうまで歩いて帰る。どこかで月子たちに再会したら面白いと佑は言うが、そう上手くはいかない。
両側に住宅やコンビニエンスストアの連なる道を並んで歩きつつ、出来る限りさりげなく瑞希は口にした。まるで、ただ思いついただけ、ふと浮かんだ言葉をうっかり台詞にした風を装って、佑の話が途切れた隙間を見計らった。
「ねえ。私ら、付き合う?」
なんで自分がこんな言葉を口にしたのかわからない。ただ、これが常識じゃないかと思ったのだ。誰かと付き合うことに憧れなんてない、と思う。ただ、結城佑ならいいかなと、心の奥で囁くのが聞こえたのだ。心臓が口から出そうなほどに鳴っているのは、風呂上がりでのぼせているわけではない。
取り留めなく話し続けていた佑は、はたと黙ってしまった。
その顔を横目で見て、瑞希は深く深く後悔した。意外な言葉に驚く彼の瞳には、悲痛な苦しさや辛さが宿っていた。
そんな眼するなよ。言いたくなる唇を噛み締める。黙って一歩ずつ歩く度、心に針を刺されているようだ。
やがてぼそりと、佑は呟いた。
「先輩は、そんなこと言わない人だと思ってた」
彼の言葉に、恥ずかしさとか後悔とか、怒りに似た感情だとかが湧いた。あんたがいつも言ってるんじゃん。好きだとか勘違いさせる言葉を言って、まとわりついてくるくせに、そんなつもりじゃないだなんて。
まるで自分が告白を失敗し、フラれたようで――それはあながち間違いではなかったが、心の中がぐちゃりと荒らされた気分になった。
「ごめんなさい」
彼の謝罪に、名前のわからない感情を刺激されて泣きたくなってしまう。「別に、なんとなく言ってみただけ」必死で強がり、懸命に何でもない顔を作る。
彼は、階段を上がり土手を歩きながら言った。
「ほんとは、嬉しいけど」
「けど?」
「僕はもうすぐ死ぬから、付き合うとか出来ないです」
この時ようやく、瑞希は彼の四月一日の嘘が嘘でない可能性に行き当たった。あれが本当だとしたら、彼はあと半年足らずで死んでしまう。
「あのさ……それ、本気なの?」
「うん。だから、僕と付き合っても、時間の無駄にしかならない」
「なんで死ぬのよ」
「決めたから。僕が、自分で」
わけがわからない。こんなに活き活きとした結城佑が、もうすぐ死んでしまう理由が。いつもへらへらして好き勝手に生きている彼が、来年には消えてしまう理由が。
「先輩のことは、好きだけど。だから、嬉しいけど……。なんて言ったらいいんだろう。ごめんなさい」
下浮月橋にさしかかる。木造の丈夫な橋の真ん中で、彼は足を止めた。欄干に手をかけて見つめる川面には、白く輝く半月が浮いていた。
「謝んないでよ。私が馬鹿みたいじゃん」
そう言って、瑞希は彼の横顔を見る。黒い瞳の中で、白い月が揺れている。まるで彼の眼が川の一部になったみたいだ。思わず見つめてしまう。
「……今日が、ずっと続けばいいのに」
その瞳を瞬かせ、彼は笑った。
まさか温泉に浸かることになるとは。気が動転していたおかげで突っ込めなかったが、随分と想定外の寄り道だ。
「何考えてんだ、あいつ……」
弥生が彼氏とデートの際、こうした温泉によく行くというのを聞いた覚えがある。そういった話に疎い瑞希も、ある程度の関係性を築いた者同士が共に訪れる場所だと認識していた。
もしや、自分たちは思っているより近い間柄なのではないか。
そんなはずがない、あいつがガキなだけだ。普段はそう思って思考を放棄するところだが、敢えて考えてみる。知り合ってたったの八か月、ただの先輩後輩でしかない。
いったいどうなるべきなんだ。どこへ向かえば正解なのだろう。一緒に学校から帰って、休日もサークルで顔を合わせて、更に二人きりで出かけている。こんなこと、ただの先輩後輩であり得るのだろうか。
すっかり考え込んでのぼせそうになり、慌てて湯から上がった。さっぱりした気分と悶々とした気持ちを抱え、着替えて髪を乾かす。ロビーに戻ると、彼は点在するソファーの一つに座り、壁掛けテレビをぼんやり眺めていた。
「野球、興味あんの」
「あ、先輩!」野球中継を映す画面から目を離し、「全くないです!」嬉しそうに返事をした。
これを飲まないと帰れない。そう言って佑がビンに入った牛乳を買い、瑞希もフルーツ牛乳を買った。冷えた甘ったるい液体が、火照った体を心地よく冷ましてくれた。
外に出ると、既に陽は暮れていた。心地よいので、一駅手前で電車を降り、川向こうまで歩いて帰る。どこかで月子たちに再会したら面白いと佑は言うが、そう上手くはいかない。
両側に住宅やコンビニエンスストアの連なる道を並んで歩きつつ、出来る限りさりげなく瑞希は口にした。まるで、ただ思いついただけ、ふと浮かんだ言葉をうっかり台詞にした風を装って、佑の話が途切れた隙間を見計らった。
「ねえ。私ら、付き合う?」
なんで自分がこんな言葉を口にしたのかわからない。ただ、これが常識じゃないかと思ったのだ。誰かと付き合うことに憧れなんてない、と思う。ただ、結城佑ならいいかなと、心の奥で囁くのが聞こえたのだ。心臓が口から出そうなほどに鳴っているのは、風呂上がりでのぼせているわけではない。
取り留めなく話し続けていた佑は、はたと黙ってしまった。
その顔を横目で見て、瑞希は深く深く後悔した。意外な言葉に驚く彼の瞳には、悲痛な苦しさや辛さが宿っていた。
そんな眼するなよ。言いたくなる唇を噛み締める。黙って一歩ずつ歩く度、心に針を刺されているようだ。
やがてぼそりと、佑は呟いた。
「先輩は、そんなこと言わない人だと思ってた」
彼の言葉に、恥ずかしさとか後悔とか、怒りに似た感情だとかが湧いた。あんたがいつも言ってるんじゃん。好きだとか勘違いさせる言葉を言って、まとわりついてくるくせに、そんなつもりじゃないだなんて。
まるで自分が告白を失敗し、フラれたようで――それはあながち間違いではなかったが、心の中がぐちゃりと荒らされた気分になった。
「ごめんなさい」
彼の謝罪に、名前のわからない感情を刺激されて泣きたくなってしまう。「別に、なんとなく言ってみただけ」必死で強がり、懸命に何でもない顔を作る。
彼は、階段を上がり土手を歩きながら言った。
「ほんとは、嬉しいけど」
「けど?」
「僕はもうすぐ死ぬから、付き合うとか出来ないです」
この時ようやく、瑞希は彼の四月一日の嘘が嘘でない可能性に行き当たった。あれが本当だとしたら、彼はあと半年足らずで死んでしまう。
「あのさ……それ、本気なの?」
「うん。だから、僕と付き合っても、時間の無駄にしかならない」
「なんで死ぬのよ」
「決めたから。僕が、自分で」
わけがわからない。こんなに活き活きとした結城佑が、もうすぐ死んでしまう理由が。いつもへらへらして好き勝手に生きている彼が、来年には消えてしまう理由が。
「先輩のことは、好きだけど。だから、嬉しいけど……。なんて言ったらいいんだろう。ごめんなさい」
下浮月橋にさしかかる。木造の丈夫な橋の真ん中で、彼は足を止めた。欄干に手をかけて見つめる川面には、白く輝く半月が浮いていた。
「謝んないでよ。私が馬鹿みたいじゃん」
そう言って、瑞希は彼の横顔を見る。黒い瞳の中で、白い月が揺れている。まるで彼の眼が川の一部になったみたいだ。思わず見つめてしまう。
「……今日が、ずっと続けばいいのに」
その瞳を瞬かせ、彼は笑った。