それから昼になるまでに、六人が本を手にし、買ってくれた。昼食のパンやおにぎりを食べ、戻ってきた二人と交代し、午後は瑞希と佑が会場を回る。月子は折を見て他の店を覗きに行くから、気にするなと言った。
「ひゃー。すごい人ですね」
 佑が改めて周囲を見渡す。例年、来客数は数千人にものぼるらしい。出店側を見ても、ものづくり、それも主に文章に特化した人がこれだけいることに驚いてしまう。中には、手作りの栞やイラスト、マスキングテープといった文房具を並べている店もあるが、どれも文芸にちなんでいた。栞には文豪の名言が書かれ、イラストは手作りの絵本をモチーフとしているらしい。テープは名作の一場面を描いている。瑞希は「注文の多い料理店」を題材にした山猫のイラストが描かれているテープを買った。
「この話、僕も好きなんですよー。宮沢賢治いいですよね」
 佑は自分が買ったわけでもないのに、気さくに店員に声を掛ける。制作者も「よだかとか、銀河鉄道もあるんですよ」と嬉しそうだ。
「あんたはほんとに気後れしないね」
 歩きながら言うと、褒められていると勘違いしたのか、「それほどでも」と彼は頭をかいた。瑞希は「褒めてないし」と呟いたが、佑には聞こえていなかった。
 ホールを出ると、隣には休憩室がある。運よく空いたテーブルを見つけ、ようやくそこに腰を下ろした。
「先輩、見せっこしましょう。何買ったか」
「隣で見てたじゃん」
「いいからいいから」
 佑が戦利品をショルダーバッグから出して積み上げるので、瑞希も買った冊子をテーブルに並べる。山猫のテープと、本が四冊。興味を惹かれるものが多く、吟味した末に購入した作品だ。
「やっぱり、そのテープいいですね。買っとけばよかったかな」
「後で見に行ったらいいじゃん……ていうか、買い過ぎじゃない?」
 見る間に、正面の佑は十冊近くの本を積み上げていた。
「僕のだけじゃないですよ、富士さんに頼まれたのもあるんで」
 なるほど。よく見ると、ライトノベルやオカルト本が混ざっている。事前にネットで出店情報を見ることができるので、富士見はそこで目当ての本を探り、佑に頼んでいたらしい。
「それでこんなのも買ったんだ」
 中の一冊を瑞希は指さした。「これでしょ」佑はそれを引き抜き、ぱらぱらとめくる。「ひとまがいについての考察」。どこかの論文のようなタイトルで、小説でないことは明白だ。
 ブースを巡って驚いたのが、「ひとまがい」に関する本を出している店が三、四件あることだった。作品について、そしてひとまがいという人間についての考証を行う人々が、その結果を冊子にしてまとめて発表している。熱烈なファンがいたもんだ。
「よくやりますよねえ。富士さんにもやめとけって言ったのに、ちっとも聞いてくれなくて」
「ふーん」
 ちらりと中を見る。作品の傾向だけでなく、投稿日から執筆のペースを推測したり、頻出する単語を抽出したり、言い回しの特徴を見極めたり。ここまでするかと舌を巻いてしまう内容だった。
「ひとまがいって、何者なんだろ」
「先輩まで興味持ってんですか」佑はテーブルに頬杖をつく。「こんなことしなくても、ただの陰キャのひきこもりですよ、きっと」
「随分嫌うじゃん」
「だって、面白くないし」
 ひとまがいは、とことん彼のツボには合わないようだ。
 現在、一本の長編作品だけが未完結のまま一年が経っている。他の作品よりも細やかかつ緻密な描写で、これが完結していれば出版社から声がかかってもおかしくないと言われている。瑞希もその作品、「滂沱の時を超えて」は密かに面白がっているので、完結の兆しがないことは残念だ。唐突に自分のコピー、つまりクローンが現れるというありふれた設定だが、それからの展開、自分は不要な生き物ではないかという苦悩は、読んでいてうっかり引き込まれてしまう。もう終わりが見え隠れしているのに、その終わりが一向に掲載されないのがもったいない。
 既に出版の声がかかり、その準備をしているのだという明るい見立もあれば、ひとまがいは急逝したのだという縁起でもない説も唱えられている。だが、その真実は誰にも、論文風味のまとめを書く者たちにも、わからないのが現状だった。
「小説じゃなくて、こういうのも出せるんだ。なんていうか、論文みたいな」
「先輩もやってみたら?」
「なにをよ」
「ほら、例えば……時間を戻すやり方の考察とか、そういうのって新しいかも!」
 いいことを考えたと明るい顔をする彼に、「誰が信じるのよ、そんな話」瑞希は嘆息する。
「信じられないからこそ、考えようがあるんじゃないですか。僕、読みますよ」
「そんなの、あんたしか興味持たないじゃん」
「そうかなあ。時間を戻す方法なんて、すっごく面白いと思うけどなあ」佑は首をひねる。「なんでしたっけ、光の速度に近づけば時間は遅くなるとかありますよね。そのあたりから考察したりして」
「あのね、私そもそも物理取ってないの」
 瑞希は根っからの文系で、昔から理数の科目は苦手だ。やる気もないのに科学的な考察など出来るはずがない。
「そういえば先輩、時間を戻したのって、一度きりですか」
 相変わらずのマイペースで、佑は興味津々の顔を見せて尋ねてくる。こいつは全く疑うことをしないから扱いにくい。瑞希は渋々「二回」と答えた。
「前言ってた、おばあちゃんの時以外ですか」
「そう。その前に、もう一回あったけどね」
 聞かせて聞かせてと、人懐こい犬のような目をして見つめてくる。面倒だが、拒否する理由も思いつかず、久々に記憶を手繰る。もう何年も前のことで、最近は思い出すこともなくなっていた話だ。
「おばあちゃんが亡くなる前で、私が四年生の春休みね。五年生になる直前だけど。夕方、友だちの家から帰ってて、事件に遇ったの」
「事件?」
 そう、と頷く。
「道端に車が停まってて。詳しくないから車種はわからないけど、白い車。横を通った時、急にドアが開いて、中に引きずり込まれて」
 思わぬ話に、佑が正面で絶句している。
「騒ぐなって言われて、何もできなかった。別に縛られたりしたわけじゃないけど、怖くて身体が動かなくて。普段ならランドセルに防犯ブザーを付けてたんだけど、春休みだから持ってなくって、声も出なかった」
 今思い出しても肌が粟立つ。たちまち車が発進して、外に出ることはかなわなかった。運転する見知らぬ男の後頭部が後部座席から見え、整髪料のにおいがつんと鼻をついたことを覚えている。
「けっこう長い時間走って、どこかの山道に入って、がたがた車が揺れだした。やっと停まった時、逃げなきゃって思ったんだけど、そいつ、刃物持っててさ。刃の長いナイフ。私、殺されて山の中に埋められるんだってわかったの」
 なぜ、どうしてという思いがぐるぐると頭の中を回った。悲鳴は掠れた空気にしかならず、運転席から後ろに男が移ってくるのに、必死で後ずさった。背をぶつけたドアのロックを外そうとした時、腕を掴まれた。
「その時、時間よ戻れって、目を瞑って願ったんだ。これ以上なく強く思った時、頭の中で何かがぷつって切れたような、灯りが消えたような感覚がして、目が覚めた。気付いたら、家のソファーで目が覚めたの」
「……夢だったんですか」
「そう思ったよ、昼寝をしてたみたい。でも、日付を見たら、ちょうど十六日戻ってた。この間がまるまる夢だったのかって思ったけど、全部がすっごくリアルなのよね」
 二週間と少しの出来事は、五感で感じた全てのものがあまりに現実的だった。何より、最後に腕を掴んだ相手の手の感触まで、皮膚に強く刻まれていた。どこかの恐怖譚のように手首に痣が残っていた、ということもなかったが、無骨な手に掴まれた感覚はしばらく抜けなかった。
「めちゃくちゃ怖かったんだけど、また時間が経つにつれてちょっとずつ恐怖が薄れていって、それで十六日後、同じように友だちの家から帰ってたの」
「そしたら、前と同じ車が停まってた……」
 佑の言葉に頷く。
「白い車の後ろ姿が見えて、踵を返して逃げたよ。一度だけ振り向いたら、そこから出てきた人が、車の横に立ってじっとこっちを見てた。間違いなく、十六日前に私を誘拐した人だった。会社帰りの普通の人っぽい、革靴とスーツの男の人で、ずっと私を見てた」
 あの時、もう一度車の横を通っていれば、今度こそ殺されていたかもしれない。
 この話は、両親も友人も誰も信じてくれなかった。そもそもが夢の話だと言って、相手にしてくれなかったのだ。だが祖母だけは真剣に聞き入り、よかったよかったと頭を撫でてくれた。瑞希ちゃんが無事でよかった。そう言ってくれた時には不覚にも涙が零れ、祖母に抱き着き声をあげて泣いてしまった。
「それ、いつの話ですか。先輩を狙った誘拐だったんでしょうか」
「さあ、七年前の……三月頃だったかな。もう四月になるギリギリだった気がする。私を狙ったっていうより、都合が良ければ誰でも良かったんじゃない。無差別的なやつ」
 佑を見ると、彼は表情を強張らせ、じっとテーブルの隅を見つめていた。いや、何かを見るというより、ただ考え事にふけり、視線をそこに向けているだけだった。「どしたの」瑞希がそう声を掛けても返事をせず、どことなく顔色も悪くさせ、押し黙っている。
「信じられないでしょ」
 もう一度声を掛けると、彼ははっと顔を上げて急いでかぶりを振った。
「……信じます」いやに落ち着いた声音で言い、微笑んだ。「助かって、よかったですね」
 助かってよかった。確かにそう思う。死ぬかもしれない、いや、殺されるかもしれない恐怖は耐え難く、今も思い出すだけで身体の芯がひんやりと凍る。
「その人、どんな人でした。背格好とか、年齢とか……」
「普通体形で、三十後半、ぐらいからな。そんなにいってるとは思わなかったけど」
「地元の人だったんですか」
「わかんないってそんなの。ていうか思い出したくないし」
 瑞希が顔をしかめると、彼は軽く唇を噛んだ。だが、その不審な様子を尋ねる前に、「すみません」と謝る。「なんか、嫌なこと思い出させて」
「七年も前だし、別にいいんだけど。最終的に何ともなかったし」
 口を噤んだ彼は、やがてゆっくりと頷いた。「助かってよかったです」繰り返して笑う顔は、もういつもの通りだった。