例年通りの暑い日が続き、瑞希は連日パソコンに向かっていた。そろそろ来年の受験勉強にも力を入れるべきだが、その前に済ませておきたかった。
サークル用の慣れないホラー作品は思うように進まず、並行して新人賞向けの作品も書かなければならない。佑のおかげでどちらも臨場感は増したように思えるが、筆の歩みは遅かった。
環境を変えるべく、自室から居間に移り、固いアイスをかじりながらパソコンにぽちぽちと文字を打ち込む。斜め後ろで首を振る扇風機の風が、一定間隔で髪を揺らしていく。母は近所の主婦仲間とファミリーレストランに連れ立っている。確実に二時間は帰ってこない。
「あー、もう」
月子から連絡のあった締め切りまであと二週間。一応は間に合いそうだが、満足のいく仕上がりになるかは危うい。
はずれの文字が鬱陶しいアイスの棒をキッチンに捨てに行き、戻ってきた瑞希は座卓の隅でスマートフォンが点滅しているのに気が付いた。
――浮月川に行きましょう!
佑からの、いつも通り唐突なメッセージだった。
浮月川に神様がいるという話は、瑞希も聞いたことがある。それに関する情報を、彼はまたも月子から手に入れたらしい。今度は彼女も同行するそうだ。
それどころじゃないと打とうとして、躊躇する。月子が来るなら会いたい気持ちもあるし、これでオカルト巡りは最後だ。なんとか目途を立てられるだろうか。
考えている内に、更にメッセージを受信する。
――来週の金曜、来れますか?
特に予定がないことを見透かされているようで癪だが、生憎その日も一日空いている。そもそもこいつは自分の作品が書けているのか。これで佑が締め切りを破ることになったら笑えないが、意外にも要領の良い彼はきっと間に合わせるだろう。「あーもう!」ごろりと畳に転がり、瑞希は承諾のメッセージを送信した。
八月三度目の金曜日、午後一時の江雲市駅前で、瑞希と佑、そして月子は顔を合わせた。
「いやー、ずっきーにゆうゆう、久しぶりだねえ」
涼しげなキャミソールから伸びる腕で、キャップのつばの角度を調整しながら、きびきびと歩く月子が言う。小柄だが、大学生らしい余裕の滲む彼女も不思議な女性だ。お気に入りのバンドが出る野外フェスとやらに参加した彼女は、すっかり日に焼けていた。
「月子さん、だいぶ焼けましたね」
「そうなんだよ。ひりひりして大変だった」
瑞希の言葉に、腕をさすりながら苦笑する。「日焼け止め塗ったんだけどねえ」
「でも、夏って感じがしますね!」月子を挟んだ反対側で、いつも通り佑が楽しそうにしている。
「そーそー。やっぱり夏は外に出なくちゃね」
彼女は陽気に頷いた。
浮月川に行く前に、三人でお昼を摂る予定だった。「こっちにね、美味しいとこがあるんだよ」月子の先導に、二人もついて行く。
大通りを一本逸れた道に、一軒の喫茶店があった。扉の上に木の看板があり、「akatsuki」の上に「暁」と文字が彫ってある。こぢんまりとした古い店だった。
「ここのナポリタン、美味しいんですよね」
「あれ、あんたも来たことあるの」
瑞希の疑問に、佑は「何度か」と笑った。小さいが有名な店なんだろうか。
先頭切って月子が木のドアを押し開け、二人もその背に続く。「いらっしゃいませー」の声に聞き覚えがあり、瑞希はひょいと佑の後ろから前方を見やった。
途端に、「げ」という顔をした富士見と目が合った。「三人でーす」にやにや笑いながら、月子が指を三本立ててみせる。
「ここ、富士見さんのバイト先なんですか?」
「そーだよー。キヨのバイト先」
月子が返事をした。「富士さん久しぶりです!」佑が大袈裟に手を振り、やめろやめろと足早にやって来た富士見が彼の腕を抑えた。
「ちょっと、何しに来たんだよ」
「ご飯食べに来ました」
「そうそう。ご飯食べに来たの」
口をそろえる二人に「勘弁してくれよ」とぼやきつつ、富士見は四人掛けの席に案内してくれた。窓際の月子の隣に瑞希が座り、正面に佑が腰掛ける。
「富士見さん、似合ってますね」
「いいから瑞希ちゃん、メニュー見て」
瑞希の素直な感想に、残る二人がくすくすと笑う。幅広の富士見の体形に、濃紺のエプロンはやけに小さく見えたが、キャラクターじみて似合っていた。憮然としつつ、水の入ったコップとおしぼりをテーブルに置き、さっさと富士見は離れていった。
レトロな雰囲気の静かな店だ。ジャズピアノ曲がBGMとして流れていて、他に客は一組の初老の夫婦しかいない。壁には風景画が飾られ、アンティーク調のキャビネットにはお洒落な洋書が並んでいる。
「ケーキとか美味しいんだけど、そういう時間じゃないよねえ」
月子がメニュー表をめくる。メインはケーキやタルトといった焼き菓子らしいが、パスタやサンドイッチ等のランチメニューも載っている。
三人がそれぞれ注文を決定すると、「店員さーん」と佑がまたも手を振った。レジカウンターにいた富士見が慌ててやって来る。
「馬鹿、でかい声あげるな」
「僕、ナポリタンで」
「あたしはカレー。ずっきーは?」
「えっと、サンドイッチでお願いします」
メニュー表を持って去りかけた富士見の背に「あ、店員さーん。お冷もお願しまーす!」と月子が声を掛け、佑も軽率に乗っかる。
「静かでいいお店ですね。ねえ店員さん」
「なんかおすすめありますー? 今度頼んでみたいんですけど」
「あー、そうだ、ケーキって持ち帰りできますか?」
軽い音を立てて、富士見が佑の頭をメニュー表で叩いた。口々に好き勝手言っていた二人は、目を合わせてわざとらしく舌を出す。「持ち帰りはやってません」そう言い残し、富士見は今度こそ店の奥に引っ込んでいった。
「二人ともふざけすぎ」瑞希は頭をさする佑をじとりと睨む。「ついつい」と月子が笑った。「あの格好してるの見ると、いじりたくなるんだよね」
ひと悶着ありながらも、後に運ばれてきた食事は美味しかった。瑞希が口にしたサンドイッチは卵がふわりと柔らかく、キュウリもしゃきしゃきしている。ようやく本題に入ると、月子は浮月川の昔話について教えてくれた。
元来、今の下浮月橋が「浮月橋」だったが、上流に新しく出来た綺麗な橋に名前を取られて「下浮月橋」となった。もともと浮月川には願いを叶える神様がおり、祠を立てて奉られていたが、その祠も今や上流の浮月川にある。
だが、その祠は移転したわけでなく新しく造ったもので、古い祠は前と変わらぬ場所にある。昔からの住民だけが知る祠の神様は霊験あらたかで、好物を供えて祈ると、願いをよく叶えてくれるらしい。
「その好物ってなんですか?」
瑞希の質問に、カレーを食べながら「お団子」と月子が言い、水を飲む。「江雲って、お団子が有名でしょ。昔かららしくて、神様も好きなんだって」
江雲は水が豊富で米が有名だ。そこから作られる団子は、観光資源として一役買っている。まさか神様まで好いているとは思わなかったが。
食事を終え、会計を済ませ、「また来るねー」と月子がひらひらと手を振った。
「もう来なくていいっす」
不満顔の富士見を背に、三人は店を出た。
サークル用の慣れないホラー作品は思うように進まず、並行して新人賞向けの作品も書かなければならない。佑のおかげでどちらも臨場感は増したように思えるが、筆の歩みは遅かった。
環境を変えるべく、自室から居間に移り、固いアイスをかじりながらパソコンにぽちぽちと文字を打ち込む。斜め後ろで首を振る扇風機の風が、一定間隔で髪を揺らしていく。母は近所の主婦仲間とファミリーレストランに連れ立っている。確実に二時間は帰ってこない。
「あー、もう」
月子から連絡のあった締め切りまであと二週間。一応は間に合いそうだが、満足のいく仕上がりになるかは危うい。
はずれの文字が鬱陶しいアイスの棒をキッチンに捨てに行き、戻ってきた瑞希は座卓の隅でスマートフォンが点滅しているのに気が付いた。
――浮月川に行きましょう!
佑からの、いつも通り唐突なメッセージだった。
浮月川に神様がいるという話は、瑞希も聞いたことがある。それに関する情報を、彼はまたも月子から手に入れたらしい。今度は彼女も同行するそうだ。
それどころじゃないと打とうとして、躊躇する。月子が来るなら会いたい気持ちもあるし、これでオカルト巡りは最後だ。なんとか目途を立てられるだろうか。
考えている内に、更にメッセージを受信する。
――来週の金曜、来れますか?
特に予定がないことを見透かされているようで癪だが、生憎その日も一日空いている。そもそもこいつは自分の作品が書けているのか。これで佑が締め切りを破ることになったら笑えないが、意外にも要領の良い彼はきっと間に合わせるだろう。「あーもう!」ごろりと畳に転がり、瑞希は承諾のメッセージを送信した。
八月三度目の金曜日、午後一時の江雲市駅前で、瑞希と佑、そして月子は顔を合わせた。
「いやー、ずっきーにゆうゆう、久しぶりだねえ」
涼しげなキャミソールから伸びる腕で、キャップのつばの角度を調整しながら、きびきびと歩く月子が言う。小柄だが、大学生らしい余裕の滲む彼女も不思議な女性だ。お気に入りのバンドが出る野外フェスとやらに参加した彼女は、すっかり日に焼けていた。
「月子さん、だいぶ焼けましたね」
「そうなんだよ。ひりひりして大変だった」
瑞希の言葉に、腕をさすりながら苦笑する。「日焼け止め塗ったんだけどねえ」
「でも、夏って感じがしますね!」月子を挟んだ反対側で、いつも通り佑が楽しそうにしている。
「そーそー。やっぱり夏は外に出なくちゃね」
彼女は陽気に頷いた。
浮月川に行く前に、三人でお昼を摂る予定だった。「こっちにね、美味しいとこがあるんだよ」月子の先導に、二人もついて行く。
大通りを一本逸れた道に、一軒の喫茶店があった。扉の上に木の看板があり、「akatsuki」の上に「暁」と文字が彫ってある。こぢんまりとした古い店だった。
「ここのナポリタン、美味しいんですよね」
「あれ、あんたも来たことあるの」
瑞希の疑問に、佑は「何度か」と笑った。小さいが有名な店なんだろうか。
先頭切って月子が木のドアを押し開け、二人もその背に続く。「いらっしゃいませー」の声に聞き覚えがあり、瑞希はひょいと佑の後ろから前方を見やった。
途端に、「げ」という顔をした富士見と目が合った。「三人でーす」にやにや笑いながら、月子が指を三本立ててみせる。
「ここ、富士見さんのバイト先なんですか?」
「そーだよー。キヨのバイト先」
月子が返事をした。「富士さん久しぶりです!」佑が大袈裟に手を振り、やめろやめろと足早にやって来た富士見が彼の腕を抑えた。
「ちょっと、何しに来たんだよ」
「ご飯食べに来ました」
「そうそう。ご飯食べに来たの」
口をそろえる二人に「勘弁してくれよ」とぼやきつつ、富士見は四人掛けの席に案内してくれた。窓際の月子の隣に瑞希が座り、正面に佑が腰掛ける。
「富士見さん、似合ってますね」
「いいから瑞希ちゃん、メニュー見て」
瑞希の素直な感想に、残る二人がくすくすと笑う。幅広の富士見の体形に、濃紺のエプロンはやけに小さく見えたが、キャラクターじみて似合っていた。憮然としつつ、水の入ったコップとおしぼりをテーブルに置き、さっさと富士見は離れていった。
レトロな雰囲気の静かな店だ。ジャズピアノ曲がBGMとして流れていて、他に客は一組の初老の夫婦しかいない。壁には風景画が飾られ、アンティーク調のキャビネットにはお洒落な洋書が並んでいる。
「ケーキとか美味しいんだけど、そういう時間じゃないよねえ」
月子がメニュー表をめくる。メインはケーキやタルトといった焼き菓子らしいが、パスタやサンドイッチ等のランチメニューも載っている。
三人がそれぞれ注文を決定すると、「店員さーん」と佑がまたも手を振った。レジカウンターにいた富士見が慌ててやって来る。
「馬鹿、でかい声あげるな」
「僕、ナポリタンで」
「あたしはカレー。ずっきーは?」
「えっと、サンドイッチでお願いします」
メニュー表を持って去りかけた富士見の背に「あ、店員さーん。お冷もお願しまーす!」と月子が声を掛け、佑も軽率に乗っかる。
「静かでいいお店ですね。ねえ店員さん」
「なんかおすすめありますー? 今度頼んでみたいんですけど」
「あー、そうだ、ケーキって持ち帰りできますか?」
軽い音を立てて、富士見が佑の頭をメニュー表で叩いた。口々に好き勝手言っていた二人は、目を合わせてわざとらしく舌を出す。「持ち帰りはやってません」そう言い残し、富士見は今度こそ店の奥に引っ込んでいった。
「二人ともふざけすぎ」瑞希は頭をさする佑をじとりと睨む。「ついつい」と月子が笑った。「あの格好してるの見ると、いじりたくなるんだよね」
ひと悶着ありながらも、後に運ばれてきた食事は美味しかった。瑞希が口にしたサンドイッチは卵がふわりと柔らかく、キュウリもしゃきしゃきしている。ようやく本題に入ると、月子は浮月川の昔話について教えてくれた。
元来、今の下浮月橋が「浮月橋」だったが、上流に新しく出来た綺麗な橋に名前を取られて「下浮月橋」となった。もともと浮月川には願いを叶える神様がおり、祠を立てて奉られていたが、その祠も今や上流の浮月川にある。
だが、その祠は移転したわけでなく新しく造ったもので、古い祠は前と変わらぬ場所にある。昔からの住民だけが知る祠の神様は霊験あらたかで、好物を供えて祈ると、願いをよく叶えてくれるらしい。
「その好物ってなんですか?」
瑞希の質問に、カレーを食べながら「お団子」と月子が言い、水を飲む。「江雲って、お団子が有名でしょ。昔かららしくて、神様も好きなんだって」
江雲は水が豊富で米が有名だ。そこから作られる団子は、観光資源として一役買っている。まさか神様まで好いているとは思わなかったが。
食事を終え、会計を済ませ、「また来るねー」と月子がひらひらと手を振った。
「もう来なくていいっす」
不満顔の富士見を背に、三人は店を出た。