四月一日の空はよく晴れていた。全てがうまくいきそうな晴天の下、どくどくと脈打つ鼓動を抱え、(あかね)瑞希(みずき)はコンビニエンスストアの自動ドアをくぐった。
 店員のやる気のない挨拶に背を向け、雑誌コーナーで足を止める。雑誌たちは派手な表紙でがんがんと主張し、目当ての一冊を探すことを困難にさせていた。
 それでも瑞希は、タウン誌の間に隠れている「小説大海」を見つけた。カモメの飛ぶ海原を描いた、この中ではひどく地味な表紙の月刊誌。連載小説や小説家の対談内容等を載せている、小説に特化した雑誌だ。決して高額ではないが、万年金欠の高校二年生という身分では、毎月雑誌を購入することは躊躇われた。一冊購入する金で、連載分をまとめた文庫本を買う方を瑞希は選ぶ。だけど今日は特別だ。
 手に取った「小説大海」を開きかけて、すぐに閉じる。買わずに結果だけ確認するという真似は、真面目な彼女のポリシーに反する。だからはやる鼓動を抑え、雑誌を手にレジに向かった。
 会計を済ませて外に出る。店の近所の川原にある小さな公園まで赴き、ベンチに腰掛け、そろえた膝に雑誌を乗せた。緊張が最高潮に達し、頭がくらくらする。春の心地よい風がボブカットの黒い髪を揺らしていく。それでも冷めない体温を無理やり下げるように、瑞希は大きく息をついた。肺の空気をすべて出して、もう一度吸って。やっとの思いで表紙に指を滑らせた。
 目次からその項目を見つける。「第十五回 新時代小説大賞 一次選考結果」。後ろからめくった方が早いのを承知で、敢えて前からページを繰る。
 瑞希のペンネームは本名だ。だから、今のようにペンネームの五十音順で結果が発表されている場合、一ページ目で決着がつく。
 その一ページに目を落とした。
「せーんぱーい!」
 大袈裟なほどびくりと身体を跳ねさせ、慌てて顔を上げた。嫌なところに遭遇したと、顔を歪める。そんな彼女の気持ちなど気にも留めず、相手は飼い犬のように駆け寄ってきた。
「先輩先輩! 奇遇ですね。何してんですか?」
 うるさいと短く叱咤し、瑞希は隠すように雑誌を閉じて両腕を被せた。
「ええー、なんですかそれ。見せてくださいよお」
「邪魔。あっち行ってよ」
「邪魔しないから」
「存在が邪魔なの」
 結城(ゆうき)(ゆう)は「ひどい」と言いつつもにこにこ笑いながら、当たり前のように瑞希の隣に腰掛けた。この一つ年下の少年が、彼女には理解できない。知り合って一ヶ月の相手に、どうしてこんなにも馴れ馴れしい態度を取れるのか。
「あ、それ、大海ですよね。そっか、今日が一次発表だ。先輩どうでした?」
 瑞希と同じく本好きな彼は、彼女の持っている雑誌にすぐさまピンと来たようだった。目を輝かせて顔を覗き込んでくる。
 黙っている内にその瞳の煌めきは霧散し、彼は「ああ」と言い淀む。その変化は、彼女をいっそう苛立たせた。
 自信はあった。一生懸命書いた。自分の中では最高傑作だった。
 けれどそれは、同じ志を持つ者たちもきっと同じだ。彼らが精魂込めて仕上げた作品たちと戦わなければならない。そして紙面に名前のないことが、その戦いにおける力不足を何より明確に訴える。「頑張ったのに」は通用しない。これは僅かな椅子を取り合う勝負で、今まさに瑞希は場外に弾かれてしまったのだ。
 年に一度のチャンスを取り逃がす場面など、誰にも見られたくない。落選の可能性を考慮して、誰にも会わないよう、家から十五分も離れたコンビニまでやって来たのに。
 その行動が自信の無さを浮き彫りにしていることを思い知り、悔しくて仕方ない。
「本当になかったんですか。よく見ました?」
 その気持ちを知ってか知らずか、彼はそんなことを言う。
「ないよ」
「ほんとに?」
 口で答えず、雑誌を彼に突き出した。人懐こい目をした子どもじみた彼は、紙面に目を落とす。右手の人差し指で名前を一つずつ辿りながら、「あれー?」と首を傾ける。
「絶対あるはずなのになあ」
「ないものはないの」
「誤植って可能性も」
「そんなわけないでしょ。ほら、返して」
 最後の一人まで名前を辿り、彼は不思議そうな顔で雑誌を返した。わざとらしくない、本当に奇妙な現象を目にしたような表情だった。
「きっと下読みの気分が悪かったんですよ」
「気分が悪くても通したくなる作品じゃないと駄目じゃない。ていうか、あんた私が出した作品読んでもないのに」
 一か月前にサークルに入ったばかりの彼に、今回応募した作品は見せていない。だが彼は、口の端を上げてにいっと笑った。
「でも、このまえ短編読ませてくれたじゃないですか。あれでわかったんですよ。近々大成する人だって」
「偉そうなこと言うな。あんただって超ど素人のくせに」
「素人の直感、舐めたら駄目ですよ」わけのわからないことを言って、ひらひらと片手を振る。「来年は、少なくとも一次は通る。誓ってもいい」
「安い誓い」瑞希は大仰なため息をつく。「ばっかじゃないの」
 厳しい言葉を吐かれても、佑はへらへらと笑っている。それがまた、彼女が苦手としているところだった。ろくに知らない相手に易々と近づいて軽口を叩く。何がツボに入ったのか、彼は瑞希に対して特にそんな態度をとった。裏表のないところが気に入ったのだという。嘘が苦手な毒舌タイプだと瑞希は自己認識しているが、空気が読めないと敬遠されることはあれど、誰かに好かれる性格だとは思わない。だから瑞希にとって結城佑は特殊な変わり者で、どうにもやり辛い相手だった。
「ていうか、なんでこんなとこにいるのよ」
「教科書受け取りに行ってたんですよ。ほら」横に置いているバッグをぽんと叩く。「そんで、そういえば先輩、橋の向こうに住んでるって言ってたなーって思いながら橋渡ったら、ほんとに見かけて。びっくりしました」
「なにそれ、ストーカー」顔をしかめる。それで本当に顔を合わせるだなんて、ついていない。加えて言えば、彼が数日後に入学する学校が、自分と同じ南浜(みなみはま)高校であることも、偶然といえどついていない。
「まあまあ。そんな嫌そうな顔しないでくださいよ。僕は先輩を応援したいだけなんですから」
「だからって、適当なこと言わないでくれる」
「適当じゃないってば。先輩は将来作家になれる。来年は一次に通る」
 はあ。瑞希はため息を吐く。ど素人とはいえ、ものを書くことを趣味としているのだから、作家になるための門がどれだけ狭いかは佑も理解できているだろうに。
「ああ、でも」思い出したように、ぼんやりと彼はぼやいた。「その姿を見れないのが、残念かなあ」
「どういうこと」
「僕、来年死ぬんだ」
 はあ。今度は呆れの声が漏れた。何を言っているんだこいつは。
「そうそう、ちょうど一年後。来年の四月一日に、僕死にます」
 四月一日という言葉を聞いて、瑞希はピンときた。そういえば今日は、エイプリルフールだ。こいつ、私が突っ込んだら「嘘でしたー」なんて言う気だな。
「どうやって死ぬのよ」
「内緒」
「そう。ご勝手に」
 そっちがその気ならと、瑞希も切り出す
「私、時間を戻せるんだ」
「はい?」変な声を出して、佑は彼女の横顔を見つめる。「何言ってんですか」
「ほんとのことよ。私、時間を巻き戻したことがあるの」
 佑は決して空気の読めない少年ではない。瑞希が自分の台詞を全く信じていないことは察しているはずだ。だからお返しに、瑞希も信じられない話題を口にしたのだ。
 目をぱちくりさせながら、「すごいですね」とだけ言う彼は、それ以上何も突っ込まなかった。
 二人は四月一日の青空を見上げた。青く高い空は、来年も変わらず広がっているに違いない。