「やあ、三田真白くん。今日も随分と浮かない顔をしているね」
そうやって声をかけられたのは、浜辺であの女と出会う七時間ほど前。夏日の暑さが少しずつ弱まってきた、午後五時頃の出来事だった。
暑さに苦しむように鳴く蝉の声に混じって、その声は僕の耳に届いた。
振り返ると、そこには見知らぬ人物が立っていた。知らない人から名前を呼ばれたという事実に、さぁっと体温が下がっていくのが分かる。
一目では男性か女性かも分からない人物だった。一番初めに目に入ってきたのは、銀糸のように艶やかな白髪。彼、もしくは彼女は宝石を思わせる赤い瞳を僕に向けて、薄い唇をほころばせた。
その人物はゆったりとした動作で一歩、僕に近づいた。思わず、後ずさってしまう。
「誰だよ」
「そんな風に警戒しないでよ。僕と君との仲なんだから」
男とも女とも受け取れる声音が、嫌に心地よく鼓膜を震わせる。そんなオルゴールのような声を聞いていると、本当に知り合いなのではないかと錯覚してしまいそうだ。だが、気を抜いてはいけないと冷静な僕が警笛を鳴らしていた。
僕はこんな人物に名前を教えたことも無ければ会ったことも無い。
白髪の人物は僕の様子を見ると柔和な笑みを浮かべて指を立てた。
「一つ良いことを教えてあげよう。僕と君は過去に何度か会ってる」
言われてもう一度記憶を探ってみるが、やはりそんな記憶はない。
だが、即座にもう一つの可能性が脳裏をよぎった。もし、それがこの世界に来る前の出来事だとしたら。僕はそれを忘れているのかもしれない。ふと、そんな思考が顔をのぞかせた。
「君と僕はね、昔、契約を交わしたんだ」
契約という言葉に、体が反応した。もしや――
「お前、もしかして」
「思い出してくれたのかい? 嬉しいなあ」
そう言って、その人物はくしゃっと顔を歪めた。
「勘違いしないでくれ。思い出したわけじゃない」
「なんだ。残念だな」
そいつはわざとらしく肩をすくめて見せた。
「お前、星の骸だろ」
核心があったわけではない。契約という単語に、ほとんど反射的にこいつの名前が浮かんだだけだ。
「お、よく分かったね」星の骸はあっさりとその正体を認めた。「別に最初から隠してなんかいないんだけどね」
目の前の人物が本当に星の骸だと言うなら、だったら――
「だったら、僕の願いを叶えて欲しい。寿命でもなんでもやる。だから、頼むよ」
藁にもすがる思いで、そう口にした。
「そうだね。現在の君の願いか。確かに、君の命と引き換えに願いを叶えることは可能だ」
「じゃあ」
一瞬見えた希望の光。僕は思わず、勢いよく顔を上げてしまった。だが、僕の希望に反して星の骸は指先を振った。
「だけどね、今はその時じゃない」
「その時じゃないって、どういう意味だよ」
「そのままの意味だよ。人にはね、願いを叶えるべき瞬間というのがある。今の君はその時ではない。それだけさ」
「なんだよそれ」
意味が分からなかった。冷静に考えれば、こいつが星の骸だという証拠はどこにもない。僕が勝手にそう思っただけだ。詐欺か何かだろうか。だが、この理想的な世界でそんなことをする奴がいるとも思えない。
とにかく、こいつの正体を確かめる必要があった。
「お前、本当に星の骸なのか?」
「そうだよ。当たり前じゃないか」
「じゃあ、証拠を見せろよ」
「証拠、ね。じゃあ三田くん。君の願いを当ててあげよう」
星の骸はつらつらと、僕の願いを当てて見せた。それはまさしく、僕が日々望んでいることだった。
このことをこの世界で知っている人物は一人しかいない。常田という、僕がこの世界で唯一心を許している友人だけだ。だから、こいつが僕の願いを知っているわけがないんだ。なのに、なぜ。
「なぜって、それは僕がこの世界を支配してるからだよ。これでも信じられないって言うのなら、もう少し僕の力を見せてあげよう」
そう言うと、彼はパンと手を叩いた。
「どうだい? これでも信じられないか?」
それはまさしく、奇跡に等しい所業だった。僕の目の前で、星の骸の姿が変わったのだ。彼の美しい白髪は黒髪へと変わり、赤い瞳は澄んだ黒目に変わった。体のラインまで変化しており、その体躯はしなやかな凹凸のある柔らかな体つきになっている。
そこには、美しい女性が立っていた。
「僕はね、自由に姿を変えられるんだ。これでもまだ信じられないのなら――」
「良い。もう大丈夫だ」
「そうか。なら良かったよ」
一瞬、ユートピア・ワンダーワールドの力かと思ったが、違うだろう。
性別を変えたい、こういう人間になりたいなどという話は聞いたことがあるが、それはこの世界に迷い込んだ時点で叶えられている。かつて性同一性障害で悩まされていた人物がこの世界にやって来て、気づいたら理想の性別を手に入れていたという話はよく耳にする。
いつ手に入れたのか、どこで性別が変わったのかは分からないという話だ。
だから、今この瞬間に姿形を変えるなんてのはあり得ない。
ここまでの力を見せつけられては、何も言い返すことができない。
「だったら、どうして僕の願いを叶えてくれないんだ。寿命ならいくらでもやる。少しで良い、少しだけ残してくれれば良いんだ」
その残り時間の間、僕は理想のあの人と幸せに暮らす。もう、それで充分だ。
「だから何度も言わせないで欲しい。僕と君は既に契約を交わしている。そして、二度目の契約をすべき時は今じゃない」
だが、星の骸はどうしても僕を受け入れてくれなかった。僕と星の骸との間には、既に契約が交わされているらしい――と言うことはつまり――
「僕は既に、お前に寿命を支払っている。そういうことなのか?」
「その通りだ。僕は君から寿命を貰ってる」
彼は指を二つ立てて「良いかい。僕は人の願いを叶える時に寿命を貰う。だけど、その寿命の貰い方には二種類あるんだ」
星の骸は淡々と説明していく。噛み砕くと、このような内容だった。
1. 願いを叶える際には、その願いの大小に関係なく寿命が五十年必要になる。
2. 残りの寿命が五十年に満たない場合、その日の寿命を除いて全ての寿命と引き換えに願いを叶える。
「これで今がその時ではないという言葉の意味が分かったかな?」
その理屈からいくと、僕は記憶にないだけで既に五十年分の寿命を支払っていることになる。
「今僕が願いを叶えた場合、僕は明日には死んでしまう。そういうことなんだな?」
「その通りだ」
星の骸はパチンと指を鳴らして満足そうに頷いた。
「物分かりがいいね。少し動揺するくらいが可愛らしいと思うんだけどな」
「信じられないからな。驚く必要もない」
だが、この話が本当だとすると僕の寿命はもう残りわずかしかないということになる。
現在の僕の年齢は二十歳。既に五十年の寿命を売り払っていたとしたら、僕はあと十年やそこらの命というわけだ。
「残念ながら本当だ」
「そんな覚えはない」
「覚えがないかもしれないけど、安心してくれよ。君の願いはしっかりと叶えられている。この世界に、しっかりとした形で、今現在も反映されているから」
信じられなかった。じゃあどうして僕はこんなにも苦しんでいるのだろう。寿命を五十年も費やして、僕はこんな地獄を望んだというのだろうか。そんな話があってたまるかと思った。
「じゃあ、教えてくれよ。僕は五十年もの寿命を売り払ってどんな願いを望んだんだ」
その質問を見越していたのか、星の骸は悲しそうに笑った。それは心の底から同情するような、下の者を見る笑みだった。
「残念だけどさ、それは言えないんだ。それも願いの一つに含まれていたからね」
そうやって、彼は僕の質問をはぐらかした。こんなやつのことを信じていいのだろうか。でも、あの不思議な力は本物だった。自然と、彼を見る目に力が込められてしまう。
「うーん。そんな風に鋭い目で見られると傷つくな」
そこで彼は「はあ」と落ち込んだように肩を落とした。
「じゃあ、特別大サービスだ。君の願いに近づく情報をあげるよ」
そうして僕は、浜辺に彼女が現れるという情報を得たのだ。
「夜の十一時前後。浜辺にノートを持った女が現れる。そいつはね、この世界の壊し方を知っているんだ」
星の骸は僕にそう言い残すと、姿を消した。
もう言うべきことは全て伝えたと言わんばかりの、清々しい消えっぷりだった。
だから僕は半信半疑の状態であの浜辺へと向かい、そこで彼女と出会った。全ては星の骸の言う通りだった。
彼女はノートを持っていたし、この世界から抜け出す方法も知っていた。その条件は、ほぼ不可能に近いものだったけれど。
僕は本当にこの世界を作った人物と接触してしまったのかもしれない。そして、僕は既に彼に願いを叶えられているという。
僕はいったいどんな願いを望んだのだろう。
そして彼は、願いを叶えるのは今ではないと言った。
その 口振りはまるで、僕が条件2を使い、命の全てを賭けて願いを叶える時が来る、といったことを暗示しているようだった。
更に言えば、彼は実際に海辺の彼女の出現を予言した。それはつまり、そういうことなのだろう。
そうやって声をかけられたのは、浜辺であの女と出会う七時間ほど前。夏日の暑さが少しずつ弱まってきた、午後五時頃の出来事だった。
暑さに苦しむように鳴く蝉の声に混じって、その声は僕の耳に届いた。
振り返ると、そこには見知らぬ人物が立っていた。知らない人から名前を呼ばれたという事実に、さぁっと体温が下がっていくのが分かる。
一目では男性か女性かも分からない人物だった。一番初めに目に入ってきたのは、銀糸のように艶やかな白髪。彼、もしくは彼女は宝石を思わせる赤い瞳を僕に向けて、薄い唇をほころばせた。
その人物はゆったりとした動作で一歩、僕に近づいた。思わず、後ずさってしまう。
「誰だよ」
「そんな風に警戒しないでよ。僕と君との仲なんだから」
男とも女とも受け取れる声音が、嫌に心地よく鼓膜を震わせる。そんなオルゴールのような声を聞いていると、本当に知り合いなのではないかと錯覚してしまいそうだ。だが、気を抜いてはいけないと冷静な僕が警笛を鳴らしていた。
僕はこんな人物に名前を教えたことも無ければ会ったことも無い。
白髪の人物は僕の様子を見ると柔和な笑みを浮かべて指を立てた。
「一つ良いことを教えてあげよう。僕と君は過去に何度か会ってる」
言われてもう一度記憶を探ってみるが、やはりそんな記憶はない。
だが、即座にもう一つの可能性が脳裏をよぎった。もし、それがこの世界に来る前の出来事だとしたら。僕はそれを忘れているのかもしれない。ふと、そんな思考が顔をのぞかせた。
「君と僕はね、昔、契約を交わしたんだ」
契約という言葉に、体が反応した。もしや――
「お前、もしかして」
「思い出してくれたのかい? 嬉しいなあ」
そう言って、その人物はくしゃっと顔を歪めた。
「勘違いしないでくれ。思い出したわけじゃない」
「なんだ。残念だな」
そいつはわざとらしく肩をすくめて見せた。
「お前、星の骸だろ」
核心があったわけではない。契約という単語に、ほとんど反射的にこいつの名前が浮かんだだけだ。
「お、よく分かったね」星の骸はあっさりとその正体を認めた。「別に最初から隠してなんかいないんだけどね」
目の前の人物が本当に星の骸だと言うなら、だったら――
「だったら、僕の願いを叶えて欲しい。寿命でもなんでもやる。だから、頼むよ」
藁にもすがる思いで、そう口にした。
「そうだね。現在の君の願いか。確かに、君の命と引き換えに願いを叶えることは可能だ」
「じゃあ」
一瞬見えた希望の光。僕は思わず、勢いよく顔を上げてしまった。だが、僕の希望に反して星の骸は指先を振った。
「だけどね、今はその時じゃない」
「その時じゃないって、どういう意味だよ」
「そのままの意味だよ。人にはね、願いを叶えるべき瞬間というのがある。今の君はその時ではない。それだけさ」
「なんだよそれ」
意味が分からなかった。冷静に考えれば、こいつが星の骸だという証拠はどこにもない。僕が勝手にそう思っただけだ。詐欺か何かだろうか。だが、この理想的な世界でそんなことをする奴がいるとも思えない。
とにかく、こいつの正体を確かめる必要があった。
「お前、本当に星の骸なのか?」
「そうだよ。当たり前じゃないか」
「じゃあ、証拠を見せろよ」
「証拠、ね。じゃあ三田くん。君の願いを当ててあげよう」
星の骸はつらつらと、僕の願いを当てて見せた。それはまさしく、僕が日々望んでいることだった。
このことをこの世界で知っている人物は一人しかいない。常田という、僕がこの世界で唯一心を許している友人だけだ。だから、こいつが僕の願いを知っているわけがないんだ。なのに、なぜ。
「なぜって、それは僕がこの世界を支配してるからだよ。これでも信じられないって言うのなら、もう少し僕の力を見せてあげよう」
そう言うと、彼はパンと手を叩いた。
「どうだい? これでも信じられないか?」
それはまさしく、奇跡に等しい所業だった。僕の目の前で、星の骸の姿が変わったのだ。彼の美しい白髪は黒髪へと変わり、赤い瞳は澄んだ黒目に変わった。体のラインまで変化しており、その体躯はしなやかな凹凸のある柔らかな体つきになっている。
そこには、美しい女性が立っていた。
「僕はね、自由に姿を変えられるんだ。これでもまだ信じられないのなら――」
「良い。もう大丈夫だ」
「そうか。なら良かったよ」
一瞬、ユートピア・ワンダーワールドの力かと思ったが、違うだろう。
性別を変えたい、こういう人間になりたいなどという話は聞いたことがあるが、それはこの世界に迷い込んだ時点で叶えられている。かつて性同一性障害で悩まされていた人物がこの世界にやって来て、気づいたら理想の性別を手に入れていたという話はよく耳にする。
いつ手に入れたのか、どこで性別が変わったのかは分からないという話だ。
だから、今この瞬間に姿形を変えるなんてのはあり得ない。
ここまでの力を見せつけられては、何も言い返すことができない。
「だったら、どうして僕の願いを叶えてくれないんだ。寿命ならいくらでもやる。少しで良い、少しだけ残してくれれば良いんだ」
その残り時間の間、僕は理想のあの人と幸せに暮らす。もう、それで充分だ。
「だから何度も言わせないで欲しい。僕と君は既に契約を交わしている。そして、二度目の契約をすべき時は今じゃない」
だが、星の骸はどうしても僕を受け入れてくれなかった。僕と星の骸との間には、既に契約が交わされているらしい――と言うことはつまり――
「僕は既に、お前に寿命を支払っている。そういうことなのか?」
「その通りだ。僕は君から寿命を貰ってる」
彼は指を二つ立てて「良いかい。僕は人の願いを叶える時に寿命を貰う。だけど、その寿命の貰い方には二種類あるんだ」
星の骸は淡々と説明していく。噛み砕くと、このような内容だった。
1. 願いを叶える際には、その願いの大小に関係なく寿命が五十年必要になる。
2. 残りの寿命が五十年に満たない場合、その日の寿命を除いて全ての寿命と引き換えに願いを叶える。
「これで今がその時ではないという言葉の意味が分かったかな?」
その理屈からいくと、僕は記憶にないだけで既に五十年分の寿命を支払っていることになる。
「今僕が願いを叶えた場合、僕は明日には死んでしまう。そういうことなんだな?」
「その通りだ」
星の骸はパチンと指を鳴らして満足そうに頷いた。
「物分かりがいいね。少し動揺するくらいが可愛らしいと思うんだけどな」
「信じられないからな。驚く必要もない」
だが、この話が本当だとすると僕の寿命はもう残りわずかしかないということになる。
現在の僕の年齢は二十歳。既に五十年の寿命を売り払っていたとしたら、僕はあと十年やそこらの命というわけだ。
「残念ながら本当だ」
「そんな覚えはない」
「覚えがないかもしれないけど、安心してくれよ。君の願いはしっかりと叶えられている。この世界に、しっかりとした形で、今現在も反映されているから」
信じられなかった。じゃあどうして僕はこんなにも苦しんでいるのだろう。寿命を五十年も費やして、僕はこんな地獄を望んだというのだろうか。そんな話があってたまるかと思った。
「じゃあ、教えてくれよ。僕は五十年もの寿命を売り払ってどんな願いを望んだんだ」
その質問を見越していたのか、星の骸は悲しそうに笑った。それは心の底から同情するような、下の者を見る笑みだった。
「残念だけどさ、それは言えないんだ。それも願いの一つに含まれていたからね」
そうやって、彼は僕の質問をはぐらかした。こんなやつのことを信じていいのだろうか。でも、あの不思議な力は本物だった。自然と、彼を見る目に力が込められてしまう。
「うーん。そんな風に鋭い目で見られると傷つくな」
そこで彼は「はあ」と落ち込んだように肩を落とした。
「じゃあ、特別大サービスだ。君の願いに近づく情報をあげるよ」
そうして僕は、浜辺に彼女が現れるという情報を得たのだ。
「夜の十一時前後。浜辺にノートを持った女が現れる。そいつはね、この世界の壊し方を知っているんだ」
星の骸は僕にそう言い残すと、姿を消した。
もう言うべきことは全て伝えたと言わんばかりの、清々しい消えっぷりだった。
だから僕は半信半疑の状態であの浜辺へと向かい、そこで彼女と出会った。全ては星の骸の言う通りだった。
彼女はノートを持っていたし、この世界から抜け出す方法も知っていた。その条件は、ほぼ不可能に近いものだったけれど。
僕は本当にこの世界を作った人物と接触してしまったのかもしれない。そして、僕は既に彼に願いを叶えられているという。
僕はいったいどんな願いを望んだのだろう。
そして彼は、願いを叶えるのは今ではないと言った。
その 口振りはまるで、僕が条件2を使い、命の全てを賭けて願いを叶える時が来る、といったことを暗示しているようだった。
更に言えば、彼は実際に海辺の彼女の出現を予言した。それはつまり、そういうことなのだろう。