月野の本格的な闘病生活が始まった。
薬の副作用で、彼女の体に異変が起こり始めた。髪は全て抜け去り、腹痛を訴え、嘔吐を繰り返している。正直、そんな風に苦しむ彼女を見ていられなかった。
月野も頑張っているのだ。僕だって、頑張らなくてはいけない。
病気の治療には莫大な金が必要になる。学生のアルバイトだけじゃ、その治療費はまず払えない。月野の父親が遺したものに頼ろうにも、あの父親は死んでもクソだったらしい。遺産も、保険も貯金も何もない。役に立つようなものは一つとして遺っていなかった。
月野の治療費を支払うために、僕は腹を括った。首を括りたくなるようなことばかりだけれど、やるしかない。僕は両親の反対を押し切って大学を辞めて、就職した。金さえ入れば仕事は何だってよかった。
月野の治療費を集めるにはそれしか方法がない。後先なんて考えている余裕はなかった。月野の命を少しでも長引かせることしか今は考えられない。
副作用が落ち着いている時間、月野はノートに何かを書き殴っていた。真っ白な病室で、一心不乱に月野はノートを取っている。ある時、僕は彼女に聞いてみた。
「ねえ、何をそんなに一生懸命書いてるの?」
「これはですね。私の夢なんです」
月野は痩せ細った顔で、力無く笑う。
「誰もが幸せで、悲しむことのない完璧な世界。そんな世界が、あってもいいじゃないですか」
ノートを閉じて、月野は表紙を見せてきた。そこには『Utopia Wonder World』と書かれている。
「理想的で、不思議な世界?」
「そうです。私は最近、こんな世界を空想するようになりました」
終わってますよね、と月野は自虐的に言った。
僕はノートのページをめくってみる。一ページ目にはこう書かれていた。
1. 全ての人が願いを叶えられる理想的な世界であること
「何の苦しみもなく、幸せでいられたらいいじゃないですか。そういう世界を、私は望んでいるんです」
彼女の言葉には重みがあった。きっとそれは、月野にとって切実な願いだったのだろう。彼女は、ずっと何かに押しつぶされそうになりながら生きてきたから。
「後はどんなことを望んでいるの?」
僕がそう聞くと、彼女は顎に手を当てて「んー?」と唸っていた。
「サンタクロースにも会いたいですね」
月野はこれまでの人生で、サンタさんからのプレゼントを貰ったことがないのだという。
「いいね。夜空をサンタクロースが駆け抜けていくところとか、綺麗だと思う」
そんな光景を月野と一緒に見られたら、どれだけ幸せだろう。
「後は人魚姫も見てみたいです。私、アンデルセンの童話結構好きなんですよ」
「人魚姫か。じゃあ、僕はペガサスだな。ユニコーンでもいい」
「お、そういう空想上の生物も見てみたいですね。じゃあ、私は火を吹くドラゴンです」
言ってから、月野はノートに書き足していく。
2. サンタクロースや人魚姫、ペガサス、ユニコーン、ドラゴンなど、空想上の存在がいる世界であること
まだ納得いかないのか月野は「後はそうですね」とペンを回して考えている。
「四季がめちゃくちゃになってて欲しいです」
「その心は?」
「だってほら、私、余命が二年じゃないですか。春も夏も、秋も冬ももう一、二回くらいしか経験できないんですよ。だったら、少しでも沢山の季節を楽しみたいじゃないですか」
確かに、その通りかもしれない。
僕は窓から外を眺めた。この蝉の鳴き声も、入道雲も、木陰の涼しさも、アイスの美味しさも、風鈴の音も、何もかも、月野は後一回体験できるかどうか、というところなのだ。
「絶対に大丈夫だよ」
何の根拠も責任もなく、僕はそう言った。月野は一度黙ってから「ありがとうございます」とだけ返した。
月野はノートに 3. 四季がめちゃくちゃで、短いスパンで春夏秋冬が巡ること、と書いてから、僕を見上げた。
「あと、もう一つですかね。私とサンタさんが、出会ってなかったことにしたいです」
言ってから、彼女は 4.そんな世界で、月野ユキと三田真白はお互いの存在を忘れること、と書き記した。
「なんでそんなこと書くんだよ」
「だって、私はサンタさんに迷惑しかかけてないんですよ。だったらもう、最初から会わない方が良かった」
それから小声になって「治療費だって……」と続けた。
「それは言わない約束だろ」
少し語気を強めて言うと、月野は「ごめんなさい」と塩らしく謝った。
「だからそれを消してくれよ」
「考えておきます」
結局、月野はそれを消してくれなかった。それから、僕達は一言も喋らなかった。気まずい沈黙が続き、逃れるようにテレビを付けた。
テレビではニュース番組が流れており、隕石落下についてのニュースが取り上げられていた。キャスターによると、死者数は千人ほどいるらしい。
月野はぼんやりとニュースを眺めてから、何かいいことでも思いついたように「あっ」と声を上げた。
「そうだ。このユートピア・ワンダーワールドの住民はあの隕石で亡くなった人々にしましょう」
「あの父親も生き返っちゃうよ? それでも大丈夫なの?」
「ええ、別に構いませんよ。私はあのクソ野郎を殺したいんですから、生き返ってくれた方が好都合です」
「まあ、確かにそうだけど」
それから月野は 5.この世界の住民は隕石落下による被害者であること、とノートに記入した。
「ある日突然命が無くなるんです。そんなのって、あんまりじゃないですか。だから、せめて空想上の世界で彼らには幸せであって欲しいんです」
「ああ、その通りだね」と僕は返事をした。
「あと、自分が死んだなんて忘れてた方が幸せだと思うんです。どんなに幸せでも、もう死んでいるって分かったら悲しいじゃないですか。だから、彼らの記憶は曖昧にした方がいいと思います」
6.この世界の住民は記憶が曖昧で、現実世界での出来事を忘れること、とノートに書き足した。
そんな風に人の幸せを願える月野にも、幸せが訪れて欲しいと、僕は切に願った。
それから一ヶ月ほど経った。月野の容体は悪化していく一方だ。薬の投与量が増えて、それに伴い強い副作用が彼女の体を襲った。どうしようもないくらい辛くなった時、月野は音楽を掛けていた。
ヨルシカの『夏草が邪魔をする』『だから僕は音楽を辞めた』『エルマ』BUMP OF CHICKEN の『jupiter』『ユグドラシル』the pillowsの『Please Mr. Lostman』Mr.childrenの『深海』などのアルバムを好んで聴いているようだった。
小さな音量で『八月、某、月明かり』が流れる病室の中、僕は苦しそうに嘔吐する彼女の背中をゆっくりとさする。彼女の体は更に痩せ細り、肌の色は青白く変色していた。手には何本もの管が繋がれていて、見ているだけで胸が痛くなる。
できることなら、彼女の代わりに僕が病気になってやりたい。ただ背中をさすることしかできないのが、もどかしくて堪らなかった。
「もう、こんなにも辛いなら一層のこと死んでしまいたいです」
ある時、月野はそう漏らした。僕は何も言い返せなかった。
「ありがとね。サンタさん」
背中をさすり続ける僕に、月野はそう言った。
「私の隣にいてくれて、凄い嬉しいです」
吐いて少し楽になったのか、月野はベッドに倒れ込んだ。
「最近、よく思うんです。私はどうして産まれたんだろうって、誰に望まれてこの世に産まれてきたんだろうって、考えるんです」
彼女は天井を見上げたまま、続ける。
「最近まで、私はこの世に産まれたくないって泣きながら産まれたんだと思っていました。そして、誰にも泣かれずにこの世を去っていく。そんな人生を送るだろうって、ずっと思っていたんです」
気が付いた時には、僕は彼女の手を握り締めていた。
「でも、違いました。私には、サンタさんがいました。貴方が、私の前に現れてくれたんです。だから私はきっと、サンタさんに会いたいって産まれてきて、サンタさんに泣かれながら死んでいくことができるんです」
彼女はゆっくりと手を伸ばして、僕の頬を触った。
「ほら、こんなにもあったかい涙を流してくれるじゃないですか。それだけでも、この世に産まれてよかったってもんですよ」
目の前の景色が滲んで見えない。彼女の表情を確認することができなかった。
彼女は僕の涙を拭ってから「あははっ」と笑う。それはか細い笑い声だったけれど、僕の胸に深く刻み込まれた。
薬の副作用で、彼女の体に異変が起こり始めた。髪は全て抜け去り、腹痛を訴え、嘔吐を繰り返している。正直、そんな風に苦しむ彼女を見ていられなかった。
月野も頑張っているのだ。僕だって、頑張らなくてはいけない。
病気の治療には莫大な金が必要になる。学生のアルバイトだけじゃ、その治療費はまず払えない。月野の父親が遺したものに頼ろうにも、あの父親は死んでもクソだったらしい。遺産も、保険も貯金も何もない。役に立つようなものは一つとして遺っていなかった。
月野の治療費を支払うために、僕は腹を括った。首を括りたくなるようなことばかりだけれど、やるしかない。僕は両親の反対を押し切って大学を辞めて、就職した。金さえ入れば仕事は何だってよかった。
月野の治療費を集めるにはそれしか方法がない。後先なんて考えている余裕はなかった。月野の命を少しでも長引かせることしか今は考えられない。
副作用が落ち着いている時間、月野はノートに何かを書き殴っていた。真っ白な病室で、一心不乱に月野はノートを取っている。ある時、僕は彼女に聞いてみた。
「ねえ、何をそんなに一生懸命書いてるの?」
「これはですね。私の夢なんです」
月野は痩せ細った顔で、力無く笑う。
「誰もが幸せで、悲しむことのない完璧な世界。そんな世界が、あってもいいじゃないですか」
ノートを閉じて、月野は表紙を見せてきた。そこには『Utopia Wonder World』と書かれている。
「理想的で、不思議な世界?」
「そうです。私は最近、こんな世界を空想するようになりました」
終わってますよね、と月野は自虐的に言った。
僕はノートのページをめくってみる。一ページ目にはこう書かれていた。
1. 全ての人が願いを叶えられる理想的な世界であること
「何の苦しみもなく、幸せでいられたらいいじゃないですか。そういう世界を、私は望んでいるんです」
彼女の言葉には重みがあった。きっとそれは、月野にとって切実な願いだったのだろう。彼女は、ずっと何かに押しつぶされそうになりながら生きてきたから。
「後はどんなことを望んでいるの?」
僕がそう聞くと、彼女は顎に手を当てて「んー?」と唸っていた。
「サンタクロースにも会いたいですね」
月野はこれまでの人生で、サンタさんからのプレゼントを貰ったことがないのだという。
「いいね。夜空をサンタクロースが駆け抜けていくところとか、綺麗だと思う」
そんな光景を月野と一緒に見られたら、どれだけ幸せだろう。
「後は人魚姫も見てみたいです。私、アンデルセンの童話結構好きなんですよ」
「人魚姫か。じゃあ、僕はペガサスだな。ユニコーンでもいい」
「お、そういう空想上の生物も見てみたいですね。じゃあ、私は火を吹くドラゴンです」
言ってから、月野はノートに書き足していく。
2. サンタクロースや人魚姫、ペガサス、ユニコーン、ドラゴンなど、空想上の存在がいる世界であること
まだ納得いかないのか月野は「後はそうですね」とペンを回して考えている。
「四季がめちゃくちゃになってて欲しいです」
「その心は?」
「だってほら、私、余命が二年じゃないですか。春も夏も、秋も冬ももう一、二回くらいしか経験できないんですよ。だったら、少しでも沢山の季節を楽しみたいじゃないですか」
確かに、その通りかもしれない。
僕は窓から外を眺めた。この蝉の鳴き声も、入道雲も、木陰の涼しさも、アイスの美味しさも、風鈴の音も、何もかも、月野は後一回体験できるかどうか、というところなのだ。
「絶対に大丈夫だよ」
何の根拠も責任もなく、僕はそう言った。月野は一度黙ってから「ありがとうございます」とだけ返した。
月野はノートに 3. 四季がめちゃくちゃで、短いスパンで春夏秋冬が巡ること、と書いてから、僕を見上げた。
「あと、もう一つですかね。私とサンタさんが、出会ってなかったことにしたいです」
言ってから、彼女は 4.そんな世界で、月野ユキと三田真白はお互いの存在を忘れること、と書き記した。
「なんでそんなこと書くんだよ」
「だって、私はサンタさんに迷惑しかかけてないんですよ。だったらもう、最初から会わない方が良かった」
それから小声になって「治療費だって……」と続けた。
「それは言わない約束だろ」
少し語気を強めて言うと、月野は「ごめんなさい」と塩らしく謝った。
「だからそれを消してくれよ」
「考えておきます」
結局、月野はそれを消してくれなかった。それから、僕達は一言も喋らなかった。気まずい沈黙が続き、逃れるようにテレビを付けた。
テレビではニュース番組が流れており、隕石落下についてのニュースが取り上げられていた。キャスターによると、死者数は千人ほどいるらしい。
月野はぼんやりとニュースを眺めてから、何かいいことでも思いついたように「あっ」と声を上げた。
「そうだ。このユートピア・ワンダーワールドの住民はあの隕石で亡くなった人々にしましょう」
「あの父親も生き返っちゃうよ? それでも大丈夫なの?」
「ええ、別に構いませんよ。私はあのクソ野郎を殺したいんですから、生き返ってくれた方が好都合です」
「まあ、確かにそうだけど」
それから月野は 5.この世界の住民は隕石落下による被害者であること、とノートに記入した。
「ある日突然命が無くなるんです。そんなのって、あんまりじゃないですか。だから、せめて空想上の世界で彼らには幸せであって欲しいんです」
「ああ、その通りだね」と僕は返事をした。
「あと、自分が死んだなんて忘れてた方が幸せだと思うんです。どんなに幸せでも、もう死んでいるって分かったら悲しいじゃないですか。だから、彼らの記憶は曖昧にした方がいいと思います」
6.この世界の住民は記憶が曖昧で、現実世界での出来事を忘れること、とノートに書き足した。
そんな風に人の幸せを願える月野にも、幸せが訪れて欲しいと、僕は切に願った。
それから一ヶ月ほど経った。月野の容体は悪化していく一方だ。薬の投与量が増えて、それに伴い強い副作用が彼女の体を襲った。どうしようもないくらい辛くなった時、月野は音楽を掛けていた。
ヨルシカの『夏草が邪魔をする』『だから僕は音楽を辞めた』『エルマ』BUMP OF CHICKEN の『jupiter』『ユグドラシル』the pillowsの『Please Mr. Lostman』Mr.childrenの『深海』などのアルバムを好んで聴いているようだった。
小さな音量で『八月、某、月明かり』が流れる病室の中、僕は苦しそうに嘔吐する彼女の背中をゆっくりとさする。彼女の体は更に痩せ細り、肌の色は青白く変色していた。手には何本もの管が繋がれていて、見ているだけで胸が痛くなる。
できることなら、彼女の代わりに僕が病気になってやりたい。ただ背中をさすることしかできないのが、もどかしくて堪らなかった。
「もう、こんなにも辛いなら一層のこと死んでしまいたいです」
ある時、月野はそう漏らした。僕は何も言い返せなかった。
「ありがとね。サンタさん」
背中をさすり続ける僕に、月野はそう言った。
「私の隣にいてくれて、凄い嬉しいです」
吐いて少し楽になったのか、月野はベッドに倒れ込んだ。
「最近、よく思うんです。私はどうして産まれたんだろうって、誰に望まれてこの世に産まれてきたんだろうって、考えるんです」
彼女は天井を見上げたまま、続ける。
「最近まで、私はこの世に産まれたくないって泣きながら産まれたんだと思っていました。そして、誰にも泣かれずにこの世を去っていく。そんな人生を送るだろうって、ずっと思っていたんです」
気が付いた時には、僕は彼女の手を握り締めていた。
「でも、違いました。私には、サンタさんがいました。貴方が、私の前に現れてくれたんです。だから私はきっと、サンタさんに会いたいって産まれてきて、サンタさんに泣かれながら死んでいくことができるんです」
彼女はゆっくりと手を伸ばして、僕の頬を触った。
「ほら、こんなにもあったかい涙を流してくれるじゃないですか。それだけでも、この世に産まれてよかったってもんですよ」
目の前の景色が滲んで見えない。彼女の表情を確認することができなかった。
彼女は僕の涙を拭ってから「あははっ」と笑う。それはか細い笑い声だったけれど、僕の胸に深く刻み込まれた。