「笑っちゃうくらいくだらない理由でしょう?」
ベッドから起き上がった月野は、自嘲するように笑った。
だけど僕は、くだらないなんて思わなかった。彼女の痛みは、僕だって経験しているから。理想の人に会えない苦しみは僕だってよく分かる。月野は僕以上に辛い状態で、ここまで生きてきたのだ。
「笑えないよ」
僕がそう言うと、彼女は「そうですか」と目を伏せた。
「最後くらい、誰かの温もりを感じていたかったんです。誰かに隣にいて欲しかったんです」
夜が明けたのだろう。カーテンの隙間から、薄い光が差し込んできた。その光が、月野の左頬を照らす。
「だから、あの海辺でサンタさんを見つけた時、この人しかいないと思いました。この世界で、私の隣にいてくれる人は、この人しかいないんじゃないかと本気で思いました。だから、声をかけたんです。あんな、不器用な形になってしまいましたけど」
月野が、伏せていた目を上げた。
「私、もう後悔はありません。サンタさんと一緒に色々と願いを叶えられましたし、お父さんにも復讐できました」
人魚さんは、残念でしたけど。最後に、彼女はそう付け足した。でも、彼女は笑っていた。
彼女の表情は、全てに満たされたように安らかに笑っている。それはもう、死を覚悟した人の笑顔だと思った。静かで、儚くて、美しい表情だ。
「だから、ありがとうございます。そして、騙していてごめんなさい」
彼女は立ち上がって、リビングの扉に手をかけた。
「どこに行くんだよ」
「もう、全部終わってしまいました。私の嘘はバレたし、契約の効力は無になったも同然です。貴方はもう、私の奴隷ではありません。私の隣にいる必要は、ないんですよ」
奴隷か。そういえばそんな約束もあったな。十日ほど前の出来事なのに、もう何年も前のことのような気がする。
「そんなこと言うなよ」
僕は君といれて楽しかったし、君に声をかけてもらえて嬉しかった。だから、そんなこと言わないで欲しい。僕に謝らないで欲しい。
「サンタさんは優しすぎますよ。だって、私は自分にとって都合のいい嘘をついて、サンタさんを代用品として扱っていたんです。そんなの、最低です」
これ以上迷惑はかけられません。と、彼女は続けた。
「だから、さようならなんです」
そう言い残し、彼女はドアノブをひねる。
どうして、なんでここまで来てそんな真似をするんだ。どうせ命が終わってしまうのなら、最後くらい一緒にいたい。
「そんなのどうだっていい」
言ってから、僕は月野よりも先にリビングの扉を開けた。彼女の手を引いて、風呂場へと連れて行く。
「え?」
困惑したような表情で、彼女は僕を見ている。
「体、洗っていきなよ。じゃないと外に出られないだろ」
「あぁ……分かりました」
彼女は一度自分の体を見下ろし、言われるがままに風呂に入った。彼女がシャワーを浴びている間に朝食の準備をして、彼女が出てくる頃合いを見計らって机に並べておいた。
料理が全てできたころ、本当に彼女がシャワーから上がってきた。彼女はブカブカの僕のジャージを着ている。
「あの、これはなんですか?」
言いながら、月野はテーブルに並んだ朝食を見た。
「朝飯だよ。まあ、食っていけ」
僕はもう、一心不乱だった。帰らせる隙なんて与えるものか。
「音楽、聴こうよ」
朝食を食べながら、僕はカセットにヨルシカ の『夏草が邪魔をする』を入れた。
「これを聞いたら次は『だから僕は音楽を辞めた』だな」
「ねえ」
朝食には手を付けず、月野は立ったまま僕を見ていた。それを無視して僕はカセットのスイッチを押した。儚いピアノの音が流れ出す。
「あの、サンタさん」
月野が、僕を見下ろしている。
「音楽を聴いた後は何をしようか。最後なんだし、遊園地にでも行こうか」
「サンタさんってば!」
月野が叫んだ。
「なんだよ。飯、食いなよ」
「これ、なんの真似ですか? だから言ったじゃないですか。もう、私達の契約は終わったんです」
僕は何も言い返せなかった。少しでも長く彼女と一緒にいたい。それだけだ。僕は何をやってるんだろう。何でこんなやり方しかできないのだろう。でも、月野を一人にさせたくなかった。いや、多分、僕が一人になりたくないんだ。
「私のことが可哀想だと思ってるんですか? だったら、やめてくださいよ。そういう、見下したようなこと……」
彼女は眉に皺を寄せ、辛そうに僕を見ている。そして、僕に背を向けて玄関に向かって歩き出した。
「そんな格好で外に行くのかよ」
「良いんですよ。血まみれじゃなければなんだって。どうせもうすぐ死ぬんですから。誰に何と思われようと構いません」
苦し紛れに言ったが、月野は振り返ることもなく答えた。そんな言葉、聞きたくなかった。
ダメだ。彼女が行ってしまう。ここで月野と別れたら、もう二度と彼女とは会えない。
「行かないで!」
思ったよりも大きな声が出て、自分でも驚いた。
月野は立ち止まり「何でですか!」と叫んだ。それは僕よりも大きな声で、ビリビリと部屋の中が震えたような気がした。
「こっちが聞きたい。なんでいきなり出ていこうとするんだ」
最後くらい、一緒にいたいだろ。どうして逃げようとするんだ。なんで、嘘がバレたくらいでそんなことをするんだよ。
僕達の関係は、そんなもんだったのかよ。
「じゃあ、言いますよ」
彼女の目は、少しだけ潤んでいた。
「真実を話したら、サンタさんは私が死ぬことを喜ぶんじゃないかと思ったんです」
彼女の言っている意味が、分からなかった。理解できない。脳の処理が追いつかない。
「だから、このまま別れたかった」
「どうしてだよ。なんで、君が死んだら僕が喜ぶんだ」
「逆に聞きますけど、なんで喜ばないんですか!?」
月野は半狂乱になりながら声を張り上げた。
「サンタさんは当初の目的を忘れたんですか? 貴方は、この世界を壊して理想の人の元へ行きたがっていたじゃないですか!」
彼女の言葉に、ハッとした。確かに、僕は初めそう思っていた。
「だからですよ。私が死ぬ最後の瞬間、隣に立っているサンタさんが笑っていたらと思うと、悲しくて悲しくて仕方がない……」
彼女は唇を噛み締めて続ける。
「正直に言いますよ。私は、サンタさんといるのが楽しかった。だから嫌なんです。最後に、祝福されながら死んでいくのが」
僕は呆然と、月野を眺めていた。彼女は目元を何度も何度も拭っている。月野がそんな風に思って勘違いしているなら、それを正してあげないといけない。
「それは違うんだよ」
月野は赤く腫れた瞳で、僕を見た。
その時ちょうど『カトレア』が終わり『言って』が流れ始める。
もうこの際、全てを正直に話してしまっても構わないだろう。
「僕はさ、最近思うことがあるんだよ」
その言葉から始めて、僕は月野に自分の思いをぶつけた。
「月野といると、理想の人のことを考えなくて済むんだ。ふとした時に、悲しみを感じることが少なくなったんだ。虚しくて虚しくて仕方なかった日々が、満ち足りた毎日になっていった。楽しくなったんだ。空っぽだった心に、何かが満たされていくのを感じたんだよ。
それはさ、君が隣にいたからなんだ。本当なんだよ、月野。君が僕の心を埋めてくれたんだ。月野が声をかけてくれたから、僕はこの十一日間が楽しかった。楽しくて楽しくて仕方なかった。
僕はね、君が死ななきゃいけないって聞いた時、頭が真っ白になったんだ。僕が死ぬよりも先に、君が死ぬことが信じられなかった。僕の人生最後の瞬間に、君が隣にいないことを未だに受け入れられない。受け入れたくない。
そう思ってしまうくらいには、僕は君が好きなんだよ」
大切な存在なんだよ。
と、続けて言った。
「だから行かないでよ」
月野はもう泣いていなかった。彼女は腫れぼったい瞼で「何ですかそれ」と不貞腐れたように言っている。
「浮気じゃないですか」
でも、彼女は笑っていた。
「仕方ないだろ。僕の前に現れてくれないやつも悪い」
「それもそうですね。その気持ちは痛いほど分かります」
彼女は椅子に座って、朝食を眺める。
「これが最後の晩餐ですか」
「馬鹿だな。まだ朝飯だよ。夜にはもっと美味しいものを食べよう」
月野は箸を持って「はーっ」と伸びをした。
「それにしても……」
彼女はだらんと力を抜いてから続ける。
「私って、結構ちょろいですよね」
「ああ、ごもっともだと思う」
言った瞬間、びゅんっと箸が飛んできた。月野が投げたんだ。
「否定してくださいよ」
箸は見事に僕に命中した。でも、これでいいと思えた。それが、なんだか幸せだった。
ベッドから起き上がった月野は、自嘲するように笑った。
だけど僕は、くだらないなんて思わなかった。彼女の痛みは、僕だって経験しているから。理想の人に会えない苦しみは僕だってよく分かる。月野は僕以上に辛い状態で、ここまで生きてきたのだ。
「笑えないよ」
僕がそう言うと、彼女は「そうですか」と目を伏せた。
「最後くらい、誰かの温もりを感じていたかったんです。誰かに隣にいて欲しかったんです」
夜が明けたのだろう。カーテンの隙間から、薄い光が差し込んできた。その光が、月野の左頬を照らす。
「だから、あの海辺でサンタさんを見つけた時、この人しかいないと思いました。この世界で、私の隣にいてくれる人は、この人しかいないんじゃないかと本気で思いました。だから、声をかけたんです。あんな、不器用な形になってしまいましたけど」
月野が、伏せていた目を上げた。
「私、もう後悔はありません。サンタさんと一緒に色々と願いを叶えられましたし、お父さんにも復讐できました」
人魚さんは、残念でしたけど。最後に、彼女はそう付け足した。でも、彼女は笑っていた。
彼女の表情は、全てに満たされたように安らかに笑っている。それはもう、死を覚悟した人の笑顔だと思った。静かで、儚くて、美しい表情だ。
「だから、ありがとうございます。そして、騙していてごめんなさい」
彼女は立ち上がって、リビングの扉に手をかけた。
「どこに行くんだよ」
「もう、全部終わってしまいました。私の嘘はバレたし、契約の効力は無になったも同然です。貴方はもう、私の奴隷ではありません。私の隣にいる必要は、ないんですよ」
奴隷か。そういえばそんな約束もあったな。十日ほど前の出来事なのに、もう何年も前のことのような気がする。
「そんなこと言うなよ」
僕は君といれて楽しかったし、君に声をかけてもらえて嬉しかった。だから、そんなこと言わないで欲しい。僕に謝らないで欲しい。
「サンタさんは優しすぎますよ。だって、私は自分にとって都合のいい嘘をついて、サンタさんを代用品として扱っていたんです。そんなの、最低です」
これ以上迷惑はかけられません。と、彼女は続けた。
「だから、さようならなんです」
そう言い残し、彼女はドアノブをひねる。
どうして、なんでここまで来てそんな真似をするんだ。どうせ命が終わってしまうのなら、最後くらい一緒にいたい。
「そんなのどうだっていい」
言ってから、僕は月野よりも先にリビングの扉を開けた。彼女の手を引いて、風呂場へと連れて行く。
「え?」
困惑したような表情で、彼女は僕を見ている。
「体、洗っていきなよ。じゃないと外に出られないだろ」
「あぁ……分かりました」
彼女は一度自分の体を見下ろし、言われるがままに風呂に入った。彼女がシャワーを浴びている間に朝食の準備をして、彼女が出てくる頃合いを見計らって机に並べておいた。
料理が全てできたころ、本当に彼女がシャワーから上がってきた。彼女はブカブカの僕のジャージを着ている。
「あの、これはなんですか?」
言いながら、月野はテーブルに並んだ朝食を見た。
「朝飯だよ。まあ、食っていけ」
僕はもう、一心不乱だった。帰らせる隙なんて与えるものか。
「音楽、聴こうよ」
朝食を食べながら、僕はカセットにヨルシカ の『夏草が邪魔をする』を入れた。
「これを聞いたら次は『だから僕は音楽を辞めた』だな」
「ねえ」
朝食には手を付けず、月野は立ったまま僕を見ていた。それを無視して僕はカセットのスイッチを押した。儚いピアノの音が流れ出す。
「あの、サンタさん」
月野が、僕を見下ろしている。
「音楽を聴いた後は何をしようか。最後なんだし、遊園地にでも行こうか」
「サンタさんってば!」
月野が叫んだ。
「なんだよ。飯、食いなよ」
「これ、なんの真似ですか? だから言ったじゃないですか。もう、私達の契約は終わったんです」
僕は何も言い返せなかった。少しでも長く彼女と一緒にいたい。それだけだ。僕は何をやってるんだろう。何でこんなやり方しかできないのだろう。でも、月野を一人にさせたくなかった。いや、多分、僕が一人になりたくないんだ。
「私のことが可哀想だと思ってるんですか? だったら、やめてくださいよ。そういう、見下したようなこと……」
彼女は眉に皺を寄せ、辛そうに僕を見ている。そして、僕に背を向けて玄関に向かって歩き出した。
「そんな格好で外に行くのかよ」
「良いんですよ。血まみれじゃなければなんだって。どうせもうすぐ死ぬんですから。誰に何と思われようと構いません」
苦し紛れに言ったが、月野は振り返ることもなく答えた。そんな言葉、聞きたくなかった。
ダメだ。彼女が行ってしまう。ここで月野と別れたら、もう二度と彼女とは会えない。
「行かないで!」
思ったよりも大きな声が出て、自分でも驚いた。
月野は立ち止まり「何でですか!」と叫んだ。それは僕よりも大きな声で、ビリビリと部屋の中が震えたような気がした。
「こっちが聞きたい。なんでいきなり出ていこうとするんだ」
最後くらい、一緒にいたいだろ。どうして逃げようとするんだ。なんで、嘘がバレたくらいでそんなことをするんだよ。
僕達の関係は、そんなもんだったのかよ。
「じゃあ、言いますよ」
彼女の目は、少しだけ潤んでいた。
「真実を話したら、サンタさんは私が死ぬことを喜ぶんじゃないかと思ったんです」
彼女の言っている意味が、分からなかった。理解できない。脳の処理が追いつかない。
「だから、このまま別れたかった」
「どうしてだよ。なんで、君が死んだら僕が喜ぶんだ」
「逆に聞きますけど、なんで喜ばないんですか!?」
月野は半狂乱になりながら声を張り上げた。
「サンタさんは当初の目的を忘れたんですか? 貴方は、この世界を壊して理想の人の元へ行きたがっていたじゃないですか!」
彼女の言葉に、ハッとした。確かに、僕は初めそう思っていた。
「だからですよ。私が死ぬ最後の瞬間、隣に立っているサンタさんが笑っていたらと思うと、悲しくて悲しくて仕方がない……」
彼女は唇を噛み締めて続ける。
「正直に言いますよ。私は、サンタさんといるのが楽しかった。だから嫌なんです。最後に、祝福されながら死んでいくのが」
僕は呆然と、月野を眺めていた。彼女は目元を何度も何度も拭っている。月野がそんな風に思って勘違いしているなら、それを正してあげないといけない。
「それは違うんだよ」
月野は赤く腫れた瞳で、僕を見た。
その時ちょうど『カトレア』が終わり『言って』が流れ始める。
もうこの際、全てを正直に話してしまっても構わないだろう。
「僕はさ、最近思うことがあるんだよ」
その言葉から始めて、僕は月野に自分の思いをぶつけた。
「月野といると、理想の人のことを考えなくて済むんだ。ふとした時に、悲しみを感じることが少なくなったんだ。虚しくて虚しくて仕方なかった日々が、満ち足りた毎日になっていった。楽しくなったんだ。空っぽだった心に、何かが満たされていくのを感じたんだよ。
それはさ、君が隣にいたからなんだ。本当なんだよ、月野。君が僕の心を埋めてくれたんだ。月野が声をかけてくれたから、僕はこの十一日間が楽しかった。楽しくて楽しくて仕方なかった。
僕はね、君が死ななきゃいけないって聞いた時、頭が真っ白になったんだ。僕が死ぬよりも先に、君が死ぬことが信じられなかった。僕の人生最後の瞬間に、君が隣にいないことを未だに受け入れられない。受け入れたくない。
そう思ってしまうくらいには、僕は君が好きなんだよ」
大切な存在なんだよ。
と、続けて言った。
「だから行かないでよ」
月野はもう泣いていなかった。彼女は腫れぼったい瞼で「何ですかそれ」と不貞腐れたように言っている。
「浮気じゃないですか」
でも、彼女は笑っていた。
「仕方ないだろ。僕の前に現れてくれないやつも悪い」
「それもそうですね。その気持ちは痛いほど分かります」
彼女は椅子に座って、朝食を眺める。
「これが最後の晩餐ですか」
「馬鹿だな。まだ朝飯だよ。夜にはもっと美味しいものを食べよう」
月野は箸を持って「はーっ」と伸びをした。
「それにしても……」
彼女はだらんと力を抜いてから続ける。
「私って、結構ちょろいですよね」
「ああ、ごもっともだと思う」
言った瞬間、びゅんっと箸が飛んできた。月野が投げたんだ。
「否定してくださいよ」
箸は見事に僕に命中した。でも、これでいいと思えた。それが、なんだか幸せだった。