父親を殺した後、常田は人魚の死体を抱きかかえて、海の方へ消えていった。彼を追うことはしなかった。

 常田は常田なりに、人魚との別れに決着をつけにいくのだろう。

 ここまでくればもう、僕達はヤケクソだった。月野は返り血に染まったまま、秋の真っ暗な道を歩いていた。人とすれ違ったら言いわけのしようがない。

「着替えなくて良かったのか?」

 殺害現場は実家だ。着替えなんていくらでもある。だが、月野は眼帯とノートだけを取ってすぐに家を出た。

「大丈夫ですよ。私、あの場で妹を殺すことを躊躇ってしまいましたから。人を呼ばれたら厄介です。すぐに逃げた方がいい」

「そうか」

「はい」

 それからまた、しばらくの間沈黙が続いた。空を見上げると、灰色の雲が月を覆っていた。夜の帳がより一層濃厚になって、掴み取れそうなくらいの闇が辺りに満ちている。

 そんな暗闇の中を返り血に染まって歩く月野の姿はなんだかとっても綺麗だった。芸術的にすら見えた。

 もう、ダメだった。自分を騙し続けるのは、限界だった。白状するしかない。胸の中で根を張って成長し続けた感情と向き合わないといけない。

 僕はもう、月野ユキに心を奪われている。彼女に生きて欲しいと思っている。

 僕は月野と一緒にいたい。

 この世界を壊すとか、この世界から抜け出すとか、そんなことよりも彼女の隣に立っていたい。とにかく、彼女と一緒に過ごせたらいいと、僕は思っていた。

 理由は思い出せないが、僕は既に五十年もの寿命を星の骸に支払っているらしい。僕の人生が終わるその日まで、こうやって月野と歩いていたい。彼女の隣で、いつものようにわけの分からない指令を受けて、それを実行していたい。

 どうやら月野はもう、一番大きな問題を突破したらしかった。僕に自分のことを好きにさせるという。その、最難関の問題を悠々と突破してみせた。

 だが、悟られなければいいだけの話だ。僕が既に彼女に恋をし初めているということを悟られなければ月野はいつまで経っても死なない。いや、死ねない。

 そうだ。そうするしかない。

「今、誰かとすれ違ったら私達が殺人犯だってバレちゃいますかね?」

 雲が風に流されたのだろう。そう言って僕の方を振り向く月野を、月明かりが照らし出した。

「ああ、間違いなくバレるだろうな」

「ですよね。あーあ、やっちまいました」

 言葉とは裏腹に彼女は楽しそうに笑っている。

「あははっ」と今までで一番屈託なく、憑き物が落ちたような清々しい笑顔だった。

「私、あのとき勇気を出して声をかけて良かったです」

「あのとき?」

 察しの悪い僕を責めるように、月野は目を細める。

「サンタさんと初めて会った時ですよ」

「ああ、あのときか」

「ええ、かなり勇気が必要だったんですよ。だって、あまりにも突拍子もないことを言おうとしていましたから」

『私、知っていますよ。この世界の壊し方です』だったか。確かに、突拍子もない。 

 その時、僕は思った。ああ、こんな時間がいつまでも続けばいいのにな。なんて、心底くだらないことを心の底から願ってしまった。誰にも邪魔されずに、ずっとこのままいられたらいいのに。

 そんなことを思ってしまったのがダメだったのだろうか。この最低最悪な世界で、そんな理想を願ったのが悪かったのだろうか。

 ぱちぱちと、拍手の音が夜の静寂を壊した。

 ビクッと、隣で月野が肩を震わせる。

「随分と仲良くなったみたいじゃないか。嬉しいなあ」

 オルゴールのような、聞く人の心を落ち着かせる声音が夜の闇に心地よく響いた。この声を、忘れるわけがない。振り向くと、そこには星の骸が立っていた。

「そんな格好で夜道を歩くなんて危ないよ?」

 彼は小首を傾げて僕達を見ている。

「誰ですか」

「僕かい? 僕はね、星の骸だよ」

「星の……骸……」

 隠す素振りを見せずに名乗った星の骸を見て、月野は目を丸くする。

「本当、なんですか?」

 彼女は確認するように僕に視線を送った。

「信じられないかもしれないが、その通りだよ」

 僕がそう言うと、月野は「そうですか」と息を吐いた。覚悟を決めたような顔をしていた。

「僕はね、君達にお礼を言いにきたのさ」

「お礼、ですか?」

 月野が聞き返すと、彼は頷いた。

「うん。お礼さ」

 星の骸が指を鳴らすと、彼の左手が人魚の形に作り替えられる。

「残念だけど、人魚を殺したのは君達への罰だ」

 彼はもう一度指を鳴らした。今度は右手が月野の父の形に作り替えられる。その父の手には解体用の包丁が握られており、次の瞬間には人魚を刺し殺していた。

「こんな風にね、ブスッと」

 おどけながら言う星の骸を見て、月野の目があり得ないくらいに見開かれた。だが、それに構わず星の骸は続ける。

「この世界にとって人魚を殺したあの男は邪魔だったんだよ。生き物を殺し、暴力を振るい、世界の秩序を乱すあの男はいつか消さなきゃいけないと思ってた」

 人魚を刺し殺した父親は、今度は人魚の肉を貪り食い始める。

「だから、罰に人魚を使わせて貰った。君達が人魚に好意を向けるよう仕向け、月野ユキが恨みを持つ父親に人魚を食わせるよう、そそのかした」

 ああ、だからが八尾比丘尼だったのか。人魚の肉を食わせるよ、というヒントだったというわけだ。

「君達は僕の思い通りに動いてくれたよ」と、星の骸は手を叩いた。彼の両手の人魚と父親は用済みだとでも言わんばかりに弾けて消えた。

「貴方が……いや、お前が……人魚さんを殺したんですか……」

 月野のその言葉に、星の骸は心外だとでも言いたげに眉を寄せる。

「そんな言い方はよしてくれよ。人魚を殺したのは僕じゃない。君のお父さんだろ?」

「うるさい! お前が仕向けなければ、彼女は……」

 下唇を噛み締めた月野は、星の骸を睨み付ける。

「あの人は、私と同じだったんです……あの人と私は同じだった……」

 そこまで言って、彼女は「あれ?」と顔を上げた。

「私、なんでそんなことを……」

 月野は前にもこんな発言をしていた。数時間前、水族館で人魚を見た時だ。

「何が人魚と同じなんだ」

「いや、それが分からないんです。なんで私、そんなことを言ったんだろう」

 無意識で言っているとしても、何か理由があるはずなんだ。例えば――

「過去の出来事と関係してるとか。前の世界で人魚と自分を重ね合わせてしまうようなことがあったんじゃないのか?」

「まあまあ」と、僕の発言に横槍を入れたのは星の骸だった。

「前の世界の記憶なんてさ、そんなのは明日にでもなれば全部分かることだ」

 その言葉に、僕は黙っていられなかった。

「どういうことだ?」

 前の世界の記憶が明日になれば分かるだと。なぜそんなことが言い切れるんだ。その時だ。月野がハッと顔を上げた。「明日」という言葉に月野は反応したようだった。彼女は恐る恐る、星の骸を見る。

「なんで知ってるのかって目をしてるね。図星だろ?」

「見たんですか?」

「見たも見ていないも、この世界を作ったのは僕だ。だから知ってる」

 二人はいったい何の話をしているのだろう。

「見たって、なにをだよ? 勝手に話を進めないでくれよ」

 僕の発言を無視して、二人は睨み合っている。

 この会話に僕だけがついていけていない。なぜ月野は、明日記憶が蘇ることに驚きを覚えないんだ。なんで、それを受け入れてるんだよ。

 だって、記憶が蘇るってことは……。

「僕はね、全部知ってるんだよ――――」

 その続きを語ろうとした星の骸を「やめてください!」と月野は全力で止めた。

「やめてください……お願いします。サンタさんには、いや、三田さんの前で、それは言わないでください。だってまだ……私はヴァイキングに乗っていない……!」

「そうか……君は三田くんのことをサンタさんと呼んでいるんだね」

 素晴らしい。と、彼は瞼を押さえた。

「なあ、お前らはさっきから何を話しているんだよ。意味が分からない。前の世界のことが明日分かるとかって、なんでだよ。それに月野だって、何を見られてそんなに焦ってるんだよ」

 明日、記憶が戻る。それが現していることは――――

 嫌だった。僕は、その真実を受け入れたくない。だからこそ、星の骸の口から否定して欲しかった。

 星の骸は目元から手を離し「知りたいかい?」と僕を見た。赤い瞳が、僕を射抜くように捉えている。

 嫌な予感がする。これを聞いたら、もう、戻って来れないような、そんな感覚。でも、聞くしかない。

「やめてくださいよ……」

 月野が、震える声で訴えていた。その声は本当に怯えきっていて、星の骸の話に耳を傾けて良いのか分からなくなる。

「彼女はやめて欲しいと言っているけどね、僕はこの話はしておいた方がいいんじゃないかと思ってる。その方が君達のためになるはずだ。幸せに繋がるはずさ」

 だから、言うよ。そして、彼は続けた。

 月野が諦めたように「ああ……」と呟いたのとほとんど同時だった。

「つまりね、明日の深夜零時。日付が変わると同時にこの世界は滅びるんだ。だから、彼女も死ぬ。そして、前の世界の記憶が蘇る。単純な話さ」

 星の骸が手で指し示したその先には、月野が蹲っている。[彼女も死ぬ]その彼女に当たるのが月野であることは、もう、明白だった。

 やっぱり。でも、意味が分からない。理解が追いつかない。ただ、身体中の毛穴が開いて、背筋に冷たいものが走ったのは確かだ。

 数瞬遅れて「は?」と、掠れた声が出る。それから、ダムが決壊してしまったみたいに、言葉が濁流のように押し寄せてきた。

「月野が死ぬ? なんでだよ。どうしてだ? だってまだ、やることはいっぱいあるだろ」

 信じられなかった。いや、信じたくなかったという方が正しいだろう。どうしようもなく、受け入れ難い。

「やること? なんだいそれは」

「ノートに書かれている指令のことだ。それに、僕が月野のことを好きにならないとこの世界は壊れない。彼女はそう言っていた」

「あー、そっかそっか。そういえば君達はそんな契約を交わしていたね」

 彼は自分の赤い瞳を指差す。

「あれはね、月野ユキちゃんの真っ赤な嘘だよ三田くん」

 残念だったね。彼は少し、悲しそうな顔をしていた。

「まあ、僕はこんなことが言いたくて君達の前に現れたわけじゃないんだよ。僕が伝えたかったのはもっと単純なこと」

 彼は指を一つ立てたが、そんなことに興味は無かった。月野が死ぬ。その現実を、受け入れたくない。それだけだった。

「君達はあの邪魔な男を殺してくれた。だからご褒美をあげるよ。最後の一日だけだけどさ、楽しみにしといてよ」

 そう言い残し、彼は消えた。僕と月野は地面に崩れ落ち、しばらくの間動けなかった。