今すぐ来てくれと連絡すると、常田はすぐに僕の家にやって来た。スマホを確認すると、月野から大量のメッセージが入っている。寝る時に通知を切っていたのが良くなかったらしい。着信履歴を確認すると、案の定月野から何度も電話がかかってきていた。どうやら僕はこの電話で目覚めたらしい。だが、起きると同時に鳴り止んだのか気が付かなかった。

 常田は深刻そうな表情で椅子に腰掛け、コーヒーの入ったマグカップを両手で包み込んでいる。手に持っているだけで、口は付けなかった。

「それで、急用ってなんなんだよ」

 泣き腫らした月野の顔を見てから、常田は僕に視線を移した。

「良くないことが起こったんだろ」

「ああ、そうだよ。単刀直入に言うとだな――――」

「私が説明します」

 僕の言葉を遮って、月野が声を出した。彼女はそれから、機械のように平坦な声で話し出した。

 月野は僕と別れた後、家に帰らずに当てもなく歩いていたという。

 彼女の話によるとそれはいつものことで、大した問題じゃなかったらしい。だが、それがいけなかった。

 月野は図書館や飲食店で時間を潰した後、家に帰った。その頃には既に二十三時ごろだった。クリフ・エドワーズの『When You Wish Upon a Star』が流れていたことから、それは間違いない。彼女は、その曲が流れ出すと家に帰ると決めているらしい。

 そうして家に帰ったところで異変に気が付いた。家の中にいつも以上の異臭が漂っていたからだ。恐ろしくなった彼女は、初め自室にこもって毛布にくるまっていた。その際に、眼帯を外したらしい。

 その異臭は明らかに血液の匂いだった。なぜ血の匂いが自宅からするのか、彼女は考えたくもなかった。想像すらしたくなかった。

 やがてギィギィと階段の軋む音が聞こえてきた。それは父親か妹が月野の部屋に来る合図のようなものだという。ノックもせずに部屋が開けられ、血まみれの父親が口元を釣り上げて立っていた。

「お前に素晴らしいものを見せてやるよ」

 そう言って彼はベッドに座る彼女の髪を引っ張って無理やり風呂場へと連行した。そこに広がっていた光景を見て、月野は家を飛び出したらしい。

「そこには、無惨に殺された人魚さんの姿がありました。彼女は、私の父親に殺され、食われたんです」

 月野は涙ながらに語った。その話を、常田は目を瞑りながら聞いている。

「そうか」 

 言いながら、彼は指を一つ立てた。

「お前らに一つ聞きたい」

「なんだ?」

「お前ら、この世界を壊そうとしてるんだよな」 

 その質問に、僕は素直に頷けなかった。だって、この世界を壊すには月野の命を捧げなくてはいけない。その勇気が、今の僕の中では揺らいでいる。

「そうですね」

 僕の代わりに、月野が答えた。嫌にあっさりとした声だった。

「だったら、だ」 

 常田は考え込むように目を閉じ、覚悟を決めたのだろう。

「これから俺達がどんな罪を犯したとしても、この世界はいずれ無くなる。証拠もなければ何も残らない」

 彼は大きく息を吸い込んで、吐き出した。

「殺そう。その、親父ってやつを。復讐してやるんだ」

 常田のその発言に、月野は一度固まってしまった。

 常田はそんな彼女を眺めてからすくっと立ち上がる。台所へ向かい、戻ってきた。 

 彼の手には、刃渡り十五センチほどの包丁が握られている。月野はその刃物を見て、手を震わせた。足だって、心配になるくらい震えている。

 でも――――

「やってやりましょう」 

 そう言った彼女の右目は、爛々と美しく輝いていた。

 それからの行動は早かった。僕達は家を出て真夜中の静かな道を歩いた。

 常田が手を下すつもりなのだろう。彼は包丁を握り締めながら確かな足取りで進んでいく。

 僕はといえば、一応護身用にウィスキーのボトルを一本持ってきただけだ。いざ反撃されそうな時にはこれで殴る。

 先頭を歩く月野は、一度振り返り、常田の持っている包丁をぼんやりと眺めた。彼女の瞳に、その包丁はどのように映っているのだろう。 

 その心中を察することはできない。彼女の家族に対する憎しみの深さを、僕は推し量ることができなかつた。だって、月野がこれまでされてきたことを考えれば、それは当然のことだ。

 僕はさっき、月野の口から彼女の日常について聞いた。彼女の毎日は一言で言えば「地獄」だった。

 月野はそんな地獄のような日々を、常田を待っている間、僕に語り聞かせてくれたのだ。