あるところに、幸せの意味について考えている男がいたんだ。

 そいつはその半年くらい前から、全ての理想が叶う最高の世界に迷い込んでいた。何一つ不自由はなく、何の悲しみを背負うことの無くなった彼は、自分が酷く貧相な男になった気がした。

 得ていく幸せの価値が、日を追うごとに減っていったからだ。美味い飯を食っても、いい女を抱いても、どれだけ金を得ても、絵画で名声を得ても、何も感じなくなっていた。いつしか彼にとって、幸せが普通に変わっていた。つまり、幸せに慣れてしまったというわけなんだな。胸に穴が空いたように、虚しさを感じるだけの日々を送っていたんだ。満たされることが幸せに繋がるわけではない。彼はその真実に気がついてしまった。

 そんなわけで、彼は幸せの価値について考えるようになった。幸せについて考えて、天井を眺めていたら一日が終わる。そんな毎日。

 眠れない夜に、海辺を歩くようになった。明け方まで歩き続けて、疲労が溜まった頃に度数の高い酒を一気にあおり、そのまま弾けたように眠る。

 そんな生活を彼は送っていたんだ。

 空っぽの心を抱えて、なにもせずとも湧き上がってくる虚しさを背負って、その日も彼は海辺を歩いていた。淡い月明かりすら目に染みる。そんな時、ザブン、と静かな海から飛沫が上がった。

 音の方へ視線を向けると、そこには美しい人魚がいた。彼女は緩やかに泳いでいき、海の中にぽつんとある岩場に座った。彼女は憂いを帯びた目で、島の方を呆然と眺めている。

 彼女を見た男は、それはもう心を奪われたみたいなんだ。その日は帰ってから一睡もできなかった。いつものように酒を煽っても良かったのだが、それもしない。酒によって記憶の中の人魚が穢れることを恐れたのだ。

 次の日も、男は海辺を歩いた。久しぶりに気分が高揚していた彼は、瓶に詰まった手作りサルサソース片手に、トルティーヤチップスを持って出かけていた。

 桟橋付近を歩いている時に、声をかけられた。

「ねえ、お兄さん」

 そこにいたのは、昨日見かけた美しい人魚だった。緊張しているのだろうか、彼女の声は微かに震えている。それでも、驚いてしまうくらいに美しい声だった。

「お兄さんは、いつも浮かない顔をしてるよね」彼女はふふっと笑ってから「私と同じだ」と言った。

 どうやら人魚は、海の底で生活するのに飽き飽きしていたらしい。人魚には人魚の世界があるらしいが、一度海面に上がって外の世界を見たら、その世界に心を奪われたのだという。

 人魚は唇に指を当てて、物珍しそうに男の持つトルティーヤチップスを見る。

「食べたい?」

 男が聞くと、人魚はごくりと喉を鳴らした。

「食べたい、な」

「分かった」

 海にはきっと違う文化が広がっているんだろうな。そう思いながら、男はサルサソースの瓶を開けた。

「ちょっと辛いけど大丈夫?」

 人魚は頷いた。彼女は桟橋に腰掛けると、恐る恐るといった様子でトルティーヤチップスを受け取った。

 それを口へ運び「美味しい!」と叫んだ。

「ねえ。もし良かったらなんだけどさ」

 人魚は幸せそうにトルティーヤチップスを食べてからいった。

「私に外の世界を教えて欲しいんだ」

 その日から、男は幸せを取り戻した。男にとって、幸せの価値が再び上がった瞬間だった。

 彼は日中、画用紙と絵の具、筆を持って外に出かけた。

「君の目に映った世界が見たいな」

 人魚はそう言っていた。彼は一日中絵を描いていた。この世界に来て、才能を与えられて良かったと、初めて思った。

「うわあ。外の世界にはこんな景色があるんだね」

 彼女は男の描いた絵を何度も何度も見ていた。その絵が自分の力で描いたものじゃないことくらい男には分かってる。この世界から与えられた才能で描いたものだということは彼が一番理解していた。でも、それでも、人魚が笑ってくれるのが嬉しかった。

 人魚にとって、外の世界は新鮮そのものだった。どんなにつまらない景色でも、食事でも、その全てを楽しそうに受け取ってくれる。

 ああ、俺はきっと、彼女に会うために産まれてきたんだ。

 人魚と共に過ごす時間は、とても素敵なものだった。どれだけ一緒にいても、決して満たされることはない。幸せが底をつきない。幸せに慣れることがない。ああ、これが本当に心地よい生活なんだと、彼は思った。

 だが、そんな生活にも、終わりが訪れてしまう。