命の終わりとユートピア・ワンダーワールド

 カーテンの隙間から柔らかな陽光が差し込み、僕の頬を撫でた。

 朝だ。この陽気だと、どうやら今日は冬日ではないらしい。

「あー、あっぢぃ」

 かけていた羽毛布団を払い除け、のそのそとベットから這い出る。

 一人暮らしの部屋に、枕が二つ。僕はその誰の物かも分からない枕を横目で見て、窓を開いた。

 ふわりと、温かな風が部屋の空気をかき混ぜる。カーテンが踊るように波打っていた。

 今日は春日だ。部屋の中が、春の香りで満たされていく。

 僕は汗で湿った厚めの寝巻きを脱ぎ、洗濯カゴの中に投げ入れた。

 四季がめちゃくちゃになっているというのが、この世界のやっかいな所だ。そのせいか、この世界には暦がない。ただ、朝と夜を繰り返しているだけだ。

 前日の夜が凍えるような冬日だったかと思えば、次の日には燃えるような夏日だったなんてことが、この世界ではよく起こる。

 どういうわけかこの世界では昼と夜で四季が変わるのだ。お陰で、長い時間外にいる日には服を複数用意しておく必要がある。

 これらの現象には特に深い意味などなく、星の骸の趣味なのかもしれない。そう思うと、なんだか少しだけ腹が立つ。

 シャワーで汗を洗い流し、洗面台で体を拭く。その時に、嫌でも視界に入ってしまう。洗面台に二人分のコップが置かれていた。僕がいつも使っている青色のコップと、誰の物か分からない白いコップだ。それ以外にも、この部屋には身に覚えのない物が沢山ある。ベッドにある二つの枕。コップとセットになっている歯ブラシ。使ったことのない化粧棚にコスメ。タンスの中には女物の服まである。

 友人をこの部屋に招こう物なら、僕はとんでもない勘違いをされてしまうかもしれない。女装が趣味だと言われても弁明できない。

 そのくらいこの部屋には何者かの痕跡があった。かつて僕が誰かと一緒に暮らしていたという、確かな痕跡が残っている。

 捨てようと思えばいくらでも捨てることが出来た。特に女性用の物なんて使う機会がない。それに得体の知れない何かが部屋にあるなんて気味悪いと思うのが普通だろう。だが、どうしても捨てられなかった。それが記憶の奥底にある彼女の物であると本能的に分かっているからだ。

 これらの家具一つ一つに、きっとそれぞれの物語があったのだ。僕はもう、全てを忘れてしまっているけれど。

 心地良い風に運ばれて、桜の花びらが窓から入ってくる。僕のものではない枕に落ちたその桜を眺めて、どうしようもない孤独を感じた。

 今日も一人この部屋で暮らしていく。彼女が残していった物を見るたびに、胸が締め付けられた。
 夜になると、季節はすっかり秋になっていた。どうやら今日の秋日は少し夏日に近いらしく、生ぬるい夜だった。

 時刻は午前零時二十分。身支度を整え、余裕を持ってアパートを出る。外に出ると、体に薄い膜が張られたような気がした。ほんのりと暖かい空気の中を泳ぐようにして、約束の場所まで向かう。

 スズムシの鳴き声に背中を押されて商店街を抜けると、約束の場所が見える。時間を確認すると、時刻は午前零時四十八分だった。約束した時間までまだ時間はある。だが、静まり返った噴水広場の中央に、彼女はいた。

 深夜の噴水広場には、不思議な魅力があった。押し入れに放置されたおもちゃ箱みたいな、用済みにされた物の儚さのような雰囲気だ。そんな場所で、彼女は酷く浮いて見えた。

 彼女は紺色のキャップを目深に被り、ブカブカのパーカーに両手を突っ込んでベンチに座っていた。そんな彼女の横には四角いリュックが置かれており、中からは黒い棒状の袋が二本突き出している。

 彼女に声をかけようと歩み寄ると、彼女はおもむろに動き出した。どうやらまだ僕に気が付いていないようだ。

 彼女はパーカーのポケットからピンクの細長い箱を取り出した。それは煙草の箱だった。銘柄はピアニッシモ・ペティル・メンソール。

 彼女は細い指先に煙草を挟んで、ライターで火を付ける。その動作がなんだか美しくて、僕は思わず見惚れてしまった。でも、次の瞬間には思わず吹き出してしまうなんて、その時は思ってもいなかった。

 煙を吸い込んだ彼女が、盛大に咳き込み始めたからだ。ケホケホと、苦しそうに胸を押さえている。それでも彼女はもう一度煙草に口を付けた。

「辞めときなよ」

 そこで初めて、彼女は僕に気が付いたようだ。彼女は一度驚いたように肩を弾ませ、ギロッと僕を睨んだ。相変わらず、彼女の右目は長い前髪に隠れている。

「吸えないの?」

「また私を馬鹿にしてるんですか」

 少しからかってやりたい気持ちはあったが、これ以上彼女の機嫌を損ねるのは良くない。

「馬鹿になんかしてないよ。それで、こんな深夜に呼び出して何をしようっていうんだ」

 僕がそう聞くと、彼女は携帯用灰皿に煙草を捨ててから、バックの中から一冊のノートを取り出した。昨日、僕に見せてきたあのノートだ。

「これを見てください」

 彼女はノートをぱらぱらとめくり、あるページで止め、僕の前で広げてみせた。

 昨日はノートの中身は見せようとしなかったのに、どういう風の吹き回しなんだろう。

 そこには丸っこい文字でこう書かれていた。

 [夜の窓ガラスを壊して回りたい]

「なんだよこれ」

「今からこれをやります」

「……は?」

 意味が分からなかった。あまりに突拍子もない言葉に、思考が完全に停止する。

「ちゃんとした説明が欲しい。理解できないよ。

 彼女は「注文の多い奴隷は嫌われますよ」と吐き捨ててから「まずはこのノートについて説明した方が早いかもしれません」と、ノートの表紙を見せてきた。

 それはそこら辺の店に売っている何の変哲もないcampusノートだ。だが、その表紙には『Utopia Wonder World』と書かれていた。

「この本はユートピア・ワンダーワールドを考えた人の物です」

 大した驚きはなかった。昨日の会話から、大方そんなところだろうと予想はついていたからだ。このノートは恐らく、星の骸が作った物だろう。それをなぜ彼女が持っているのかは分からないが、何か理由があるはずだ。

 もしかすると、星の骸と彼女との間には何らかの関係があるのかもしれない。

 彼女は一番初めのページを開き、両手に持ってノートを差し出してきた。

 僕はノートを受け取ろうと手を伸ばしたが「このノートには触らないでください」とぴしゃりと言われてしまった。

 仕方なく彼女の横に座り、ノートに視線を落とす。そこには先程と同じ文字でユートピア・ワンダーワールドの設定が書き連ねられていた。

 1. 全ての人が願いを叶えられる理想的な世界であること

 2. サンタクロースや人魚姫、ペガサス、ユニコーン、ドラゴンなど、空想上の存在がいる世界であること

 3. 四季がめちゃくちゃで、短いスパンで春夏秋冬が巡ること

 そして、4.5.を飛ばした6。

 6.この世界の住民は記憶が曖昧で現実世界での出来事を忘れること

 ここまではどうでもいい。元々知っている内容だ。だが、問題はここから下にあった。

 続く4.と5.これは所々が黒く塗りつぶされており、虫食い問題のようになっていた。

 4.そんな世界で、■■■■■■■■■は■■■の■■■■れ■こと

 5.この世界■■■は■■■■■よる■■者であること

「ダメだな。いくら目を凝らしても読めない」

「無駄ですよ。私も何度も試しましたが、一文字だって読めませんでした」

 この黒く塗りつぶされたところには、何が入るのだろうか。

「なんて書いてあるか分かるか?」

「色々と言葉を当てはめてみましたが、結局分からずじまいです」

「そうだよな」

 何か僕達に知られちゃいけないことでもあるのだろうか。もしかすると、まだ僕の知らない何かがこの世界にはあるのかもしれない。

「他に何か情報は載ってないのか」

「次のページにはこの世界の地図が簡易的に載っていますよ。でも、落書きのようなものです」

 彼女がページを捲ると、そこには地図が載っていた。彼女の言う通り、それは落書きに近い物だ。

「そして最後に、この世界の壊し方が書かれているというわけです」

 彼女は最初に見せたページを開き、僕にもう一度見せた。

 そのページにはご丁寧に[ユートピア・ワンダーワールドの壊し方]と書かれている。文字の横には注意書きが書き込まれており、二人で行うこと、と強調されていた。

 そしてその下に大きな文字で[夜の窓ガラスを壊して回りたい]と願望が書き殴られていた。

「なんで願望系なんだよ」

「そんなの分かりませんよ。私に聞かないでください」

 僕はもう一度ノートをじっくりと見つめた。

 やっぱりだ。どうにも、違和感がある。

「おい。これは本当にユートピア・ワンダーワールドを作った人物の物なのか?」

 この世界を生み出したのは星の骸だ。だが、あいつがこのノートを作っているとは思えなかった。僕の知っている星の骸と、このノートの作者とでは、あまりに性格が違いすぎる。

「この世界を作った人? 私は最初からそんなことは言ってませんよ」

 彼女は平然とした様子でそう答えた。

「どういうことだよ」

「察しが悪いですね。だから、この世界を作った人ではなく、考えた人だと言ったでしょう?」

 そう言われて、彼女の言いたいことが分かった。

「そういうことか」

「はい。ようやく分かりましたか」

「この世界を生み出したのは星の骸だ。だが、考えたわけじゃない。この世界を考えて星の骸に願った人物がいる」

「そういうことです」

 彼女は大して感情のこもっていない声で「素晴らしい推理力ですね」と拍手していた。

 そこまで話して、昨日のことを思い出した。星の骸が言っていたことだ。

『僕と君は既に契約を交わしている』

 僕は寿命を五十年支払って、星の骸に何かを願っているらしい。もしかすると僕が、このユートピア・ワンダーワールドを作ってくれと願ったのか。一瞬そんな考えが浮かんだが、すぐに脳内から消しとばした。そんなの有り得るわけがない。

 僕はこんなお花畑のような文章は書かないし、何よりも筆跡が僕のものではない。じゃあ、僕は何を願ったのだろうか。

 そんなことを考えていると、もう一つの可能性に気が付いた。

「もしかしてこれ、君が書いたものなんじゃないのか?」

 そうすれば彼女がノートを持っていたというのにも説明がつく。

「そんなわけないじゃないですか」

「なんでそんなことが言えるんだよ」

「簡単なことですよ。いいですか? 私はこの世界を壊そうとしているんです。五十年もの寿命を払ってこの世界を作った人間が、そんなことをすると思いますか?」

 確かに、言われてみればその通りだ。

「ごもっともだな」

 反論の余地もない。

「でも、君はどうしてこのノートが星の骸の書いた物じゃないと分かったんだ?」

 僕がそう質問すると、彼女はしばらく黙ってから「そんなのはどうでもいいじゃないですか」とはぐらかした。

「貴方は黙って私の言うことを聞いていればいいんです。貴方は私の奴隷だって、約束したじゃないですか」

 あれは約束なんかじゃなかっただろうと思ったが、胸の中にしまっておいた。

 彼女はリュックを背負って「さあ、行きましょう」と手招きする。

 そこで僕は思い出したように口にした。

「そういえばあれはなんなんだよ」

「あれ、とは?」

「夜の窓ガラスを壊したいってやつだ」

 話が逸れていたが、元々はこれが聞きたかったのだ。だって、あまりにも意味が分からない。

「夜の窓ガラスを壊せば、この世界が滅ぼせるのかよ」

 そんなわけがあるかよ。

「私にも窓ガラスの破壊とこの世界に何の関係があるのかは分かりません」

 彼女はリュックからするするとバットを取り出して、続ける。

「でも、従うしかないじゃないですか。わざわざこの世界の壊し方って書いてあるんです。この世界を終わらせるなら、それに従うほかありません」

 腑に落ちないことはいくつかあった。気になることも多くあった。だが、それは結局はこちらの世界の問題だ。元の世界に戻りさえすれば、そんな問題はすぐに忘れられるだろう。だから僕は目の前のことにだけ集中すればいい。そう、思った。
「それにしても、なんでよりによって『卒業』なんでしょうね」

 僕達は広場を抜け、真夜中の商店街を歩いていた。広場には丁度東西南北の位置に出入り口があり、その四つの道がそれぞれ別の商店街に繋がっている。

 南口から外に出ると海へと繋がっており、東口から出ると僕の家の方へ繋がっている。

 僕達は今、西口にある商店街を歩いている。

「『卒業』っていうと、尾崎豊のこと」

 [夜の窓ガラスを壊して回りたい]というあの願望は、この『卒業』の歌詞から来ているという話だろう。

「ノートの作者は拗らせていたのかな」

「どうなんでしょう。でも、私は悪くないと思いますよ」

 そう言って彼女は、尾崎豊の『卒業』を口ずさみ始めた。

「私達はこの世界ではお行儀よく真面目ではいられなかったんです」

「確かに僕達はこの世界に逆らって足掻いてるとも言える」

「はい。だからノートの作者は『卒業』を選んだのかもしれません」

 そこで彼女は一度会話を区切り、思い出したように「そうだ」と呟いた。

「今更ですが、お名前を教えてもらってもいいですか?」

 一緒に世界を壊そうと契約を結んだパートナーだというのに、僕は彼女のことを何も知らない。深入りするのは良くないだろうが、名前くらい知っていても良いだろう。

「そうだね。これから長い付き合いになるだろうし、ここらで自己紹介でもしておこうか」

「長い付き合いですか」彼女は一度沈黙してから「そうですね」と無表情に言った。それはなんだか、努めて無表情を作っているような、そんな顔に見えた。

「じゃあまずは私からいきましょう」

 彼女は空へと視線を向け、満月を見てから
「私の名前は月野ユキといいます。漢字は満月の月に野原の野。ユキはカタカナです」

 次は貴方の番ですとでも言いたげに、彼女は僕を見た。

「僕の名前は三田真白って言うんだ。三月の三に、田んぼの田。真実の真に、色の白だ。親が馬鹿でも書けるようにと、小学校低学年で習う漢字を使ったみたいだ。

「ほうほう」と彼女はまじまじと僕を見てから「漢字は三に田ですか。それで下の名前がマシロと」

「そうだよ」

「なんだか冬っぽいですね。決めました。今日から私は貴方のことをサンタさんと呼びます」

「サンタさん? なんでだ?」

「三田の読み方を変えただけです。ミタという名字がなんだか呼びづらくて気持ち悪いからです」

 そんなに三田という名字は語感が悪いだろうか。だが、彼女の言いたいことは何となく分かった。

「サンタさんか。確かに凄く耳障りが良いな」

 サンタさんという響きは心地よく僕の鼓膜を打った。まるで、これこそが僕の本当の名前だったと錯覚してしまうくらいには、僕はその呼ばれ方を気に入ってしまった。

「でしょう?」

 月野は嬉しそうに口元を緩ませる。

「驚いた」

「何にですか?」

「君って、そんな風に笑えるんだな」

 機嫌良く笑っていた彼女に殴られた。


「ここら辺でいいでしょう」

 ふー、と息を吐きながら月野は満足そうに呟いた。時刻は午前二時を少し回ったところだ。辺りに人の気配は一切ない。

 僕は未だに赤く腫れている頬を押さえながら、辺りを見渡した。

 道はまだ先に続いており、花屋や服屋、居酒屋やファミレスなど多くの店が立ち並んでいる。

 その光景を見て、思いつくことがあった。

「もし仮にノートの作者が尾崎に影響を受けていたとして、なんで夜の校舎を破壊場所に指定しなかったんだろうな」

「それは私も考えました。恐らくですが、窓ガラスを破壊するという行為そのものが重要なんだと思います」

「そういうもんか」

 僕は思いつきで、どうせなら学校に行って夜の校舎の窓ガラスを壊して回らないかと提案した。

 しかし、月野は「はあ」とため息をついて、こいつ何にも分かってないとでも言いたげに肩をすくめて見せた。

 彼女は例のノートを取り出して、僕の前に差し出す。

「ここから歩いていけるような場所に窓ガラスを割れるような学校は有りませんよ」

 なんだか妙な言い回しだなと訝しんでいると、彼女は地図のページを開き、とある場所を指さした。そこには[隕石の跡地]と書かれていた。

 この世界の真ん中にある。隕石が落ちたと言われている場所だ。その中心部には大きなクレーターがあり、その周りは隕石による被害で崩壊した建物で埋め尽くされている。

「正確には、隕石の跡地にある廃校になら時間をかければ行けます。ですが、あそこにはもう割れる窓ガラスなんて一つも有りませんよ」

「確かにそうだろうな」

「ええ。なのでここの窓ガラスをぶち壊していきましょう」

 月野は黒のケースから金属バットを取り出し、僕に手渡した。

 僕は金属バットを掴んで、居酒屋の前に立った。

「じゃあ、やっちゃいましょうか」

「ああ、やっちまおうか」

 その声を合図に、僕達はバットを振り上げた。そして、勢いよく窓ガラス目掛けて振り落ろす。

 ガラスの弾ける心地良い音が夜の静寂を破壊した。この音に反応して誰かが観に来るだろうか。まあ、それはそれで面白いかもしれない。

 この世界でお花畑に脳味噌を侵されてしまった連中が、今の僕達見をてどんな反応をするのか、興味がないといえば嘘になるからだ。

 それから僕達はしばらくの間商店街の窓ガラスを壊して回った。

 白い月明かりに照らされて、辺りに散らばったガラスの破片が光り輝いている。そのガラスを踏みつけながら進み、また新たなガラスを割る。その繰り返しだ。それはなんだか、この世界を壊す予行演習をしているみたいに思えた。

 体が汗ばみ初めた頃、僕はとあるファミリーレストランの前に立っていた。道を挟んだ後ろでは、月野が本屋の窓ガラスを破壊している最中だった。

 どうしてだろう。やけにこのファミリーレストランが気にかかる。脈が暴れていた。心臓が激しく胸を叩いているのが分かる。

 このファミリーレストランに何かあるのだろうか。だが、なんの変哲もないただのファミレスだ。一瞬の気の迷いだろうと、バットを振り上げた――その時だった。

「やめてください!!!」

 金切り声が響き渡った。咄嗟に手を止めてしまう。月野が、震える手で僕の腕を掴んだ。

「どうしたんだよ」

「ダメなんですよ……そのお店はダメです」

 言いながら、彼女は店を守るように僕の前に立ちはだかった。

「どうして」

「このお店が壊れるのを見るのは、なんだか嫌なんです。やっちゃいけないって身体中が叫んでるみたいで……どうしても嫌なんです」

 彼女は荒い呼吸を必死に整えながら、ゆっくりと話した。そう語る彼女の表情は本当に悲しそうで、僕は振り上げていたバットを下ろした。

「すみません」

「ああ、別に問題ないよ」

「よかっ……た、です」

 そう言ったところで、月野は急にふらりと倒れた。

「は? おい!」

 慌てて彼女の体を受け止めるが、返事はない。

「月野? どうしたんだよ。起きろって」

 声をかけるが返事はない。彼女は荒い呼吸のまま、完全に意識を失ってしまったようだ。

 ガラス片の散らばる夜の商店街に、僕はぽつりと一人取り残された。先程まで鳴り響いていた破壊的な音は、もうどこからも聞こえない。

 聞こえるのは、月野の苦しそうな呼吸だけだ。
 その日僕は「きゃあ!!」という叫び声で目を覚ました。重たい瞼を擦って目を開けると、月野がゴミを見るような目で僕を見ている。

 彼女は僕のベッドの上で、身を守るように両肩を抱いていた。

「何もしてないよ」

 ソファで寝たせいだろう。身体中の関節が痛む。僕は凝り固まった肩をほぐしながら、ソファから起き上がった。

「本当ですか?」

 月野は疑い深い目のまま呟いた。

 僕は昨夜、いきなり倒れてしまった月野を背負ってここまで帰ってきたのだ。

「おいおい。感謝されることはあっても、睨まれるようなことはしてないぞ」

 事情を説明して、やっと思い出したのだろう。彼女はハッとした表情で「あれは失態でした」と顔をしかめた。

「おかげで腕や足が筋肉痛で大変だよ」

「それはサンタさんが運動不足だからです。私はそこまで重くありません」

 朝食の準備をしようとソファから立ち上がる。どうやら今日は冬日のようで、部屋の中は凍えるほど冷たい。月野が寒そうに両腕をさすって布団にくるまり出したので、ハンガーラックに掛けてあったカーディガンを投げてやった。

「随分と気の利く奴隷じゃないですか」

「奴隷じゃなくサンタさんからのプレゼントだ。有り難く着ておけ」

 バターを塗っただけのトーストに、塩と胡椒で味付けしただけのベーコン、インスタントのコーンポタージュ、簡易的な朝食が並んだテーブルに僕と月野は座った。

 テーブルの真横に置いた電気ストーブが、肌の水分を奪っていく。

 月野は特に何の感想も言うことなく、僕の用意した料理を淡々と食べていた。なぜかスプーンだけで料理を食べているのが気になったが、それより先に話したいことがある。

「ところでさ」

 僕がそう問いかけると、彼女はトーストを頬張ったまま目線をこちらに向けた。

「何ですか?」

 僕は自分の右目に手を当てながら、彼女の右に流れた前髪を見た。

「その眼帯は何なの?」

 昨日、彼女を寝かせる時に気付いてしまった。

「ああ、見たんですか」

 彼女は諦めたように息を吐いてから、右に流した前髪を耳にかけた。彼女の右目には、真っ黒な眼帯が付けられている。

「どうですか? 似合ってるでしょう」

 彼女の冗談を無視して僕は本題を切り出した。

「何でその眼帯を付けてるんだよ。別にファッションってわけじゃないんだろ」

 好きでやってるなら前髪で隠す必要はない。

 他人のファッションなんて、普段ならどうでもいいと一蹴するようなことだ。でも、なぜかこの眼帯は胸に引っかかった。知っておいた方がいいと思った。

「ご名答です。私はこの眼帯があまり好きではありません。だから、仕方なく付けているんです」

 それから彼女はおもむろにベットの方へ身体を向けた。

「この眼帯は昨日私が倒れてしまったのにも関係していますよ」

 言ってから、彼女は眼帯を取り外した。彼女の右目を見て、体が固まった。

「どうです? ギャップにやられちゃいました?」

 彼女の右目は夏の澄んだ空のように美しい青色をしている。

「あははっ。今、綺麗って思いましたよね?」

 これは傑作だとでも言いたげに、月野は笑っている。僕は正直に頷いた。だって、彼女の瞳は宝石だと言われれば信じてしまいそうなくらいには美しい。

「でも、私の話を聞いたらそんなことは言ってられませんよ」

「どういうことだ?」

 月野は何の躊躇もなく自分の右目に触れた。指さすとかそう言うことではなく、指先で直接眼球に触れたのだ。

「私のこれ、義眼なんですよ。青い義眼」

 彼女は震えた手でフォークを持った。そのまま、ベーコンにグサリと突き刺した。

「それで何が言いたいかと言うと、私、先端恐怖症なんですよね」

「それで君は昨日倒れたということなのか?」

「察しがいいですね。その通りです」

 床に散らばる無数の破片。窓ガラスを壊すたびに破片が自分に突き刺さるかもしれないという恐怖。気絶まで行くのかどうかは置いておいて、確かに、かなりのストレスがかかるだろう。

「でも、その義眼と先端恐怖症にどんな関係があるんだ」

 申しわけないが、繋がりが全く見えてこない。

「前言を撤回します。察しが悪いですね」

 月野はベーコンからフォークを抜き取り、もう一度深く突き刺した。そのままベーコンを持ち上げて「こういうことです」と言った。

「おい。無理するな」

 言いながら考えて、僕は察してしまった。それに気が付いた瞬間、背筋が凍った。思わず、僕は自分の右目を押さえてしまう。

「私は昔、刃物で眼球を突き刺されました。誰にだと思います?」

「家に押し入ってきた強盗、とかか?」

 僕の解答に月野は失望したようだった。

 彼女は項垂れて「それだったらどれだけ幸せだったでしょうか」と緩やかに首を振った。

「じゃあ誰なんだよ」

「父ですよ」

 あえて感情を押し殺しているのだろうか。つまらなそうに言って、彼女はベーコンを口に運ぶ。

「どういうわけか、覚えているんですよ。忘れたいことほど覚えていて、覚えていたくないことほど忘れてる。やはりこの世界はクソです」

「そんなことが、あったのか」

 平静を装って声を出してみたが、かすれきった弱々しい声が出ただけだった。指先が震えているのが、僕の情けなさを浮き彫りにしていた。

「ええ、私、日常的に虐待を受けているので」

 言いながら袖を纏り、彼女は右手を見せてきた。そこには赤黒いアザと、何かで斬りつけられたような跡があった。

「真新しい傷じゃないか」

「ええ、そうなんですよ。驚くべきことに、私はこの世界でも虐待を受け続けているんです」

「親もこの世界にいるのか?」

「そうですね。正確には、父と妹との三人暮らしですが、彼らは今でも私に暴力をふり続けています。恐らくですが、私を虐待することが彼らにとっての幸せなんでしょう」

「だから、この世界を壊したいのか?」

 自分を虐待することを許容しているこの世界が心底憎い。そう思っていても不思議ではない。命を賭けた復讐だと言われたら、それはそれで納得してしまう。

「あー、それも有りますね。でも、ちょっとだけ違います」

 そう言い残し、彼女は黙々と食事をとった。僕も同じようにして朝食を食べた。会話はない。それでいいような気がした。
「と、まあそんなことがあったんだよ」

 あれから五日が経過していた。あの日、月野は僕の連絡先を一方的に聞いてから家を出た。家に帰るのは危ないだろうと引き留めたが、彼女は無理やり帰った。それから、もう四回は呼び出されている。

「深夜徘徊と、深夜の野外飲み会、海辺で手持ち花火だっけ?」

 目の前で麻薬中毒者のようなしわがれた声で笑っているのは、僕の唯一の友人――常田真夏だ。

「ああ、そうだよ」

 二度目の呼び出しは、深夜徘徊だった。僕と月野の二人はヘトヘトになるまで夜道を歩き続けた。

 三度目の呼び出しでは、深夜のベンチで二人で酒を飲んだ。二人でこの世界の愚痴を言い合っていたら、すぐに時間が過ぎていった。

 四度目に連絡が来た時は、砂浜で手持ちを花火をやった。波の音に耳を傾けながら、僕らは静かに花火を眺めていた。

 世界を壊したいとか言っておきながら、月野は楽しそうにしていた。彼女も普通の女の子なんだなと、本当にギャップにやられそうになったのは内緒の話だ。

 そういった彼女の姿を見るたびに、彼女の日常が重力のように重く、僕の胸にのしかかった。

「なあ、それはあれだぜ。その女はお前に気がある」

 常田は茶色に染められた髪をくるくるといじくり回して笑いながら言った。

「気があるかどうかは置いておいて、間違いなくこの世界を壊すための行動ではないよな」

 あれから四回呼び出され、その全てがお遊びのような内容だった。そんなんで本当にこの世界が壊れるのかと不安になってしまう。

「ああ、そんなんで世界が壊せたら爆笑しちまう」

 常田はそう言っているが、僕としては彼女を信じて行動するしかないのだ。だが、現状では不安の方が大きい。

「だけど驚いたよ。俺達以外にもこの世界を恨んでいるやつがいるなんてな」

 常田はこの理想的で最低な世界を恨んでいる数少ない僕の理解者だ。真夜中の公園で、常田は酒を飲んでこの世界の悪口を叫んでいた。そこに僕も飛び込んで一緒になって愚痴を言い合ったのが始まりだ。

 彼はテーブルに肘をつき、道行く人々を眺めた。

 今僕達がいるのは、海沿いに建てられた廃れきった遊園地だ。その中にあるレストランのテラス席に、僕達は座っている。

 野郎二人で遊園地にいるなんて信じられないが、ここはどういうわけか常田のお気に入りの場所なのだ。彼曰く「ここは始まりの場所」なのだという。理解できずに何度か意味を尋ねてみたが「逆にお前には分からないのか?」の一点張りで一向に発言の意図が見えてこない。

 遊園地のスピーカーからは最近のヒットチャートが流れていた。

「だけどいいのか?」

 爽やかなリズムに乗りながら僕がそう聞くと「何がだよ」と常田イラついたような声を出した。恐らく、流れている曲が気に入らないのだろう。彼は流行というものをとことん毛嫌いしているひねくれた男だから。

「お前、この世界を恨んではいるが、別に壊したいわけではないんだろ?」

 常田は一度黙ってから「まあ、そうなるな」と呟いた。

 その時ちょうど曲が終わり、タイミングを狙ったかのように失恋を憂うもの悲しい曲が流れ始めた。

 僕は思わず吹き出してしまった。

「お前にぴったりの曲が流れ始めたぞ」

「うるせえよ」

 いったい誰に恋してるのかは知らないが、常田はこの世界で絶対に叶わない恋をしているという。

 だから彼はこの世界を恨んでいるのだ。理想的で誰もが幸せになれる世界で、自分は決して叶わない恋をしてしまった。そのことが許せないのだろう。

「なあ常田。僕がこの世界を壊したらその子には会えなくなるんだろ」

 本当に壊れるのかどうかは分からない。星の骸が関わっていることを考えれば壊れるような気がするし、月野ユキの意味不明な行動を考えれば壊れないような気もする。正直、現状では五分五分といったところだった。

「別に壊れようが構わないさ。どうせ、一生俺には手の届かない存在だ。だったら、こんな世界無くなっちまった方がいい」

 彼は不貞腐れたようにそっぽを向いた。もう少しこいつを虐めてやろうと思った。

「なあ、いい加減教えてくれよ。お前、いったいどんな奴に恋してるんだ?」

「嫌だね」

 彼はどういうわけか相手のことを頑なに教えてくれない。

 常田はそっぽを向いたまま、遊園地のアトラクションを眺めていた。

「そんなのを見てて楽しいか?」

 彼が見ていたのは既に運営が終了し、撤去されるのを待つだけのアトラクションだった。そのアトラクションの両隣にはジェットコースターやメリーゴーランドなどの花形アトラクションが稼働している。だが、彼はその終わってしまったアトラクションをじっと眺めていた。

「なあ三田。お前、このアトラクションを知ってるか?」

「あ? ヴァイキングだろ。それがどうした」

 そこにあったのは確かにヴァイキングだ。船の形をした乗り物が左右に揺れる、あのアトラクション。

「じゃあさ、これがなんで稼働停止になったか知ってるか?」

「知らないな」

「そうか。じゃあ、ちょっと待ってろ」

 そう言うと、常田立ち上がり、レストランの中へと消えていった。二、三分して戻ってきた彼は「これを見てみろ」と僕に紙切れを渡してきた。それは新聞の切り抜きだった。

「おい、これはどうなってんだよ」

 その新聞は月野ユキが持っていたノートのように、所々黒く塗りつぶされていた。だが、かろうじて内容は掴める。

 要約すると、こんな内容だった。

『ヴァイキングが落下し、運悪く近くにいた人物を押し潰して殺してしまった』

 遊園地で起こった事故死を取り扱った記事だ。

 だが、事故が起こった日付、事故で亡くなった人物名が、黒く塗りつぶされている。

 これはどういうことだろうか。なぜあのノートと同じように黒く塗り潰されているのだろう。

 新聞に記載されている写真は、間違いなくここにあるヴァイキングのものだ。

「ここを見ろ、おかしいと思わないか?」

 常田は新聞のとある一行を指差している。そこには、[運転中のヴァイキングが落下し]という文章が書かれていた。

 それから彼はもう一度、運営停止になったヴァイキングに目を向けた。

「そうか。落下したはずなのに、ここのヴァイキングはそのままだ」

「そういうことだ」

 ヴァイキングを見上げると、船の形をした乗り物はしっかりと鉄柱で繋がれていた。落下した形跡なんて、どこにもない。

「このヴァイキングは既に稼働が終了しているんだ。一度事故を起こしたアトラクションをもう一度そっくりそのまま同じ形で作り直すってのも、変な話だ」

「つまり、ここのヴァイキングは元々落ちてなんかいなかったってことになるのか」

「俺はそう考えてる」

「じゃあなんで、こんな新聞が発行されてるんだよ」

 新聞に載っている写真は、間違いなくここにあるヴァイキングのものだ。更には遊園地の名前も一致していた。

 この新聞は間違いなく、この遊園地で起きた事件を取り扱っている。だが、実際にはヴァイキングは落ちていない。これはどう考えても矛盾している。

「簡単なことだよ。この新聞は恐らく、向こうの世界での事件だ」

 その時だ。ずしんと、何か重たいものが脳に押し寄せて、僕の思考が妨げられた。それを振り払って、僕はノートを睨みつけるように見た。

「いいか。よく考えてみろ。この新聞には元々、日付が記入されているんだ」

 確かに、それはおかしなことだった。向こうの世界ではそれは当たり前のことだったが、四季がぐちゃぐちゃなこの世界には暦がない。

 それを踏まえて考えると――

「確かに。向こうの世界のものだという可能性は十分にある」

「そういうことだ」

「ところでお前、なんでこの新聞のことを知っていたんだ」

「家のポストに入ってたんだよ」

 あの時はびっくりしたさ、と常田は笑った。

「初めは所々黒く塗られた気持ち悪い新聞だと思っていただけなんだ。でも、すぐに気が付いた」

 常田はこの遊園地にあるヴァイキングを思い出したのだという。それが落下したという噂も聞いていなかった彼は、実際にこの遊園地にヴァイキングを確認しにきた。そうしたらヴァイキングは落ちていなかった。

「誰が入れたか分かるか?」

「分からない」

「そうか」

 項垂れてから、僕は思い出した。常田はさっき、この新聞をレストランの中まで取りに行っていた。あれはどういうことだろう。それについて尋ねると「ああ、それは俺がここのレストランに寄付したからだよ」とあっさりと答えた。

「このレストランはヴァイキングの目の前にあるだろ。だから、何か情報を知ってる奴がいるかもしれないと思ったんだ。客とか、店員とかな」

 不謹慎かもしれないが、確かにそれは効率がいいと思えた。

「で、結果はどうだったんだよ」

 常田はやれやれと言った風に肩をすくめてから口を開いた。

「結果、ねえ。まあ、何の成果も得られなかったよ」
 常田と会った翌日、月野から連絡が入った。

 いつもの場所に集合してください。

 それだけでどこが集合場所か分かる程度には、僕はもう月野と出かけている。指定された場所に向かうと、既に彼女が待っていた。

 今日は珍しく午前中から呼び出しがかかり、起きるのに一苦労した。月野は春日の心地よい日差しに照らされながら、ピアニッシモを咥えていた。相変わらず、煙草を持っている姿は美しい。でも、結局激しく咳き込んでしまった。

「いい加減やめたら?」

「私の勝手です」不愉快そうに言ってから、彼女はノートを開いた。

「今日はこれをやります」

 そこには[隕石の跡地でお酒を飲みたい]書かれている。相変わらず願望が書かれていた。そのことについて月野に尋ねてみたが、私に聞かれても分かりませんと一蹴されただけだ。

 これまた突拍子もない指令が来たものだと、僕は項垂れた。

「では、まずはコンビニに向かいましょう」

 すたすたと歩いて行く月野の背中を見て、思った。

 彼女の話していたことがどこまで本当なのかは分からない。本当にこの世界を壊せるのか、壊せないのか、それすら今の僕にはあやふやだ。

 でも、これが茶番だとしても、もう少し彼女に付き合うのも悪くないと思い始めていた。それがどこから生まれた感情なのかは知りたくなかった。彼女が虐待されているから同情しているのかもしれないし、彼女が弱みを見せてくれたことで僕自身が心を許し始めたのかもしれない。

 そんなことを考えながら、僕は彼女の後を追っていった。

 僕達はコンビニエンスストアで大量の酒とシャボン玉セットを二つ買うことにした。なんとも異色な組み合わせだったが仕方ない。コンビニ内を物色していた月野が、物欲しそうな目でシャボン玉を見ていたのだ。

 僕がシャボン玉をカゴの中に入れる時、月野が「あれ、サンタさんシャボン玉なんてやりたいんですか? ガキくさいですね」と煽ってきたが、心の中でそっくりそのままお返ししてやった。

 カゴをレジに持っていって、料金を払う。その時、僕はできるだけ店員を見ないようにしている。僕は会計や注文など、店員とやり取りする時間が苦手だ。

 この世界には二種類の人間がいる。労働を与えられた者と、僕達のように労働を与えられていない者。

 僕達のように労働を与えられていない者には、生活に困らないだけの金が定期的に送られてくる。

 どちらの人間が幸せなのか、それは分からない。労働を与えられていない者の中にも、働きたいと言って労働する人が一定数いるらしい。僕の友人の、画家になった男もその一例だろう。

 だが、最初から労働を与えられていた者とそうでない者とを見極めるのは案外簡単な作業だ。

 僕はちらりと視線を上に上げて、レジに立つ女性店員を見る。

 彼女は目と口を弓のように細く曲げ、貼り付けたような笑みを浮かべている。僕が店内に入ってから、彼女は一歩も動いていない。

 笑うことをプログラムされたような、笑顔という記号のような、笑うことしか知らないような、そんな笑みにも見える。それでも、幸せですというオーラを全身から放ちながら、業務に当たっている。そんな彼らを見ていると、人間というよりはロボットの相手をしている感覚になる。僕達とは全く異なる存在なのだと、心のどこかで思っていた。

 会計を終えてから外に出て、僕は目を細めた。この世界は、僕らに優しくない。

「かーねーしょんを、ひとつください」

 花屋の前で、五歳くらいの少女が二人、そう言っていた。彼女らは背伸びをして、握りしめていた硬貨を女性店員に渡している。

 月野はそんな彼らを見て、一瞬だけ固まった。それからすぐに「行きましょう」と呟いて足速にその場を去って行った。その光景は、月野の瞳にどう写ったのだろう。
 しばらく歩き続けて、足の痛みがそれなりに強くなってきた頃、隕石の跡地が見えきた。

 まず初めに見えてきたのは、アスファルトを突き破って立っている桜の数々。その桜達は既に廃墟と化した住宅街を弔っているかのように、街中のいたるところに乱立していた。

 その住宅街の更に奥に、直径二Kmほどのクレーターがある。ここら一帯は、隕石の落下により終わってしまった街なのだ。

 隕石の跡地へと足を踏み入れて、月野は「はあー」と間延びした声を出した。彼女は窓ガラスの割れた家々を眺めている。

「サンタさんは、ここに隕石が落ちたのがいつなのか知っていますか?」

「いや、知らないな」

「ですよね。私も知りません」

 そこまで言って、彼女は持っていた缶チューハイをプシュりと開けた。酒はまだまだ残っていて、彼女のリュックの中でガチャガチャと音を立てている。

「何が言いたいんだよ……また何かの皮肉か?」

 残念ながら今回は何が言いたいのかよく分からない。

「違いますよ。サンタさんは私をなんだと思っているんですか」

 性格の終わってる女だと思っている――なんて口が裂けても言えなかった。

「おかしいと思ったんですよ。これだけの被害が出ているんです。誰か一人くらい詳しい事情を知っていてもいいじゃないですか」

 確かに、約二kmのクレーターがあるのだ。隕石落下の衝撃は計り知れなかっただろう。それを誰も知らないというのはおかしな話だ。

「確かに、どうしてなんだろうな」

 言いながら、僕もハイボールのプルタブを開けた。

「はい。どうしてなんでしょう」

 月野はグビグビとまるでジュースでも飲むように酒をあおる。

「考えても分かりませんね。今、頭働いてませんから。酔っ払い二人が真剣に考察したところで、ゴミみたいな結論が出るだけです」

 月野はけらけら笑いながら、今度はバックから瓶を取り出した。それはマンゴーのリキュールで、二十度もある。

「確かにその通りだ」

「ええ、私は天才ですから。今の自分がどれくらいアホになってるか分かるんです」

 既に酔っ払っているのだろう。月野は上機嫌になり始めていた。月野は瓶のキャップを外し、そのまま口に付けた。リキュールをラッパ飲みしていく。上品さのかけらもないし、最低の飲みっぷりだった。

「いやあ、美味しいですねえ」

「その飲み方だと美味そうには見えないけどな」

 氷があった方が百倍美味いだろと思ったが月野の機嫌が良さそうだったので黙っておく。

 この酒は度数の割には甘くて飲みやすく、すいすいと飲んでしまう。飲み方を知らない奴が飲めば気が付いた時には出来上がっているという頭の悪い酒だ。

 機嫌がよくなった月野はけらけらと笑いながら、住宅街の奥へとズンズン進んでいく。

 彼女は楽しそうだった。悲しみも苦しみも、全部酒が洗い流してくれたようだった。だから、気が緩んでいたのかもしれない。滑るように、彼女は口を開いた。

「やっぱり、私はこの世界が嫌いです」

「ああ、僕もそう思う」

「ええ、貴方なら理解してくれると思いました。だって――――」

 そこまで言って、彼女は口をつぐんだ。

「だって?」

「忘れました。今、私は酔っ払いですから」

 あからさまに言って、彼女は更に歩くスピードを上げた。

「逃げるなよ」

 後ろから声をかけても、彼女は振り返らなかった。

 それからしばらく、僕らは道を歩き続けた。道を進んでいくに連れて、被害状況が酷くなっていく。初めは窓ガラスだけが割れていたが、次第に半壊した家が見え始めた。

 そんな風に景色が悪くなっていくのに比例して、僕達の酔いも回っていった。

 月野に至っては既にリキュールを飲み干しており、新しい缶チューハイを飲んでいるようだった。前に呼び出された野外飲み会の時もこのような感じだったのだが、彼女は酒を飲み慣れていないのかもしれない。

「あー、疲れました。少し休みましょう」

 言いながら、月野はどかっと瓦礫の上に腰を下ろした。僕も近くの瓦礫に腰を下ろして、新しいお酒に口をつける。

 そこはちょうど真後ろに桜の木が立っていて、心地よい木陰になっていた。春の生ぬるい風が、服の間を泳いでいく。

「わあ、桜の吹雪ですよ」

 月野の声に顔をあげると、ちょうど僕の額に桜の花びらが落ちた。もう一度吹いた風に、その桜は簡単に攫われていった。枝がしなり、春の吹雪は狂ったように舞っている。

「ねえ、シャボン玉をやりましょ」

 ひらひらと舞い落ちる桜を見ながら、月野は言った。

「そうだね。そろそろやろうか」

 僕は袋からシャボン玉セットを二つ取り出して、一つを月野に渡した。

「わあ、なんだか懐かしいです」

 彼女は早速シャボン液のキャップを開け、緑色の筒を中に入れた。

「私のことばかり見てないでサンタさんも早く入れてください」

 彼女に指摘されて気が付いた。僕はどういうわけか彼女に見惚れていた。きっと何かの気の迷いだろう。軽く頭を振って「ああ、分かった」と答えた。

 それからすぐに僕も緑の筒をシャボン液につける。「せーの」と互いに声を合わせて、ふーっとシャボン玉を押し出した。ぶくぶくと沢山のシャボン玉が宙に向かって飛んでいく。

「わっ、なんだか凄いことになってますよ」

 ひらりと舞い落ちる桜の間を縫うようにして、シャボン玉がふわふわと浮かんでいく。

 舞い落ちる桜と、空へと登っていくシャボン玉、その二つが、なんだかとても美しく見えた。隣にいる月野に何か声をかけようと思って、彼女の方へ視線を向けた――その時、開きかけていた口が閉じた。

 空へと伸びていくシャボン玉を見て、月野が涙を流していたからだ。彼女の左頬に、涙が伝っている。

「サンタさん。今、眠いですか?」

 一瞬何を言っているのか分からなかったが、すぐに彼女の言いたいことを察した。

「ああ、眠い。眠すぎてまぶたがくっつきそうだ」

「そうですか。ありがとうございます」

 僕は眠たそうに欠伸をして、まぶたを擦った。彼女も同じように欠伸をして、まぶたを擦った。

「サンタさん。私、今から独り言を喋ります。だから、寝ていてください」

 今度は質問の意図が読めず、一度固まってしまった。でも、すぐに僕は目を瞑った。

「さっき言いかけていたことです。それについて一人で喋りたくなりました」

 さっき言いかけていたこととはなんだろう。少し考えて、すぐに思いついた。

『ええ、貴方なら理解してくれると思いました。だって――――』

 きっと、あの言葉だ。なぜかは知らないが、恐らく彼女はあのシャボン玉を見てこれについて喋ろうと決心したのだろう。

 だから僕に眠ってくださいと頼んだ。独り言という体で、彼女はそれを喋ろうとしているのだ。

「私とサンタさんは同じなんですよ」

 彼女の独白は、その言葉から始まった。

「始めて会った時のことです。サンタさんは、向こうの世界に理想の人がいると言いました。あれ、実は私にもいるんですよ」

 彼女は一度そこで呼吸を落ち着かせ、続ける。

「症状はサンタさんとほとんど同じです。顔も名前も思い出せないんです。でも、私は彼のことが大好きでした。いや、今でも大好きです。会いたくて会いたくてどうにかなりそうなんです」

 それからしばらくの間沈黙があった。ちょっとしてから、シュボッとライターのつく音がした。

 おい。無理するな。心の中で言ったが、遅かった。案の定、月野はゲホゲホと咳き込んでいる。

「この煙草も、彼に近付きたい一心で彼の真似をして吸い始めたんです。馬鹿みたいですよね」

 彼女はいつも通り「あははっ」と、震えた声で笑った。

「シャボン玉を見て、少しだけ記憶が蘇りました。シャボン玉を吹く私を見て、彼が優しく笑いかけてくれているんです。それを思い出したら、なんだか涙が出てきて……」

 それから月野は消え入りそうな声で言った。

「せめて、死ぬ前にもう一度彼と会いたかった」

 その言葉に、思わず目を開けてしまった。

「約束は守ってくださいよ」

 彼女は赤く腫れた目で、諦めたように僕を見ていた。直後、彼女はふざけて買ったウィスキーのボトルを半分ほど一気に飲んだ。

「おい! 危ないぞ!」

 彼女からウィスキーを奪い取る。

「返してください! 飲んで全部忘れてやるんです!」

「馬鹿いうな。それ以上一気に飲んだら命に関わるぞ」

 月野は暴れて、僕からウィスキーを取り返そうとした。が、酔いが回った体が言うことを聞かなかったのだろう。体制を崩した月野は、僕に覆い被さるようにして倒れた。

 ガラガラとガラスの転がる音がして、ウィスキーのボトルが横滑りに転がっていった。幸い、割れることはなかった。

 僕に覆い被さったまま、月野は言った。

「いいですか。今のことは、忘れてください。貴方は私の奴隷なんですから。頼みますよ」

「分かったよ」

「はい。信じてますから」

 それから本当に力が抜けたのだろう。月野はぐったりとした様子で寝返りを打った。

 僕は彼女の背中をさすりながら、チェイサー用で買っていた水を彼女に飲ました。

 月野はしばらく苦しそうに唸っていたが、しばらくすると酔い潰れて眠ってしまった。僕は月野に回復体位を取らせてから彼女の煙草を拝借した。それから少しだけ迷って、煙草に火を付けた。今まで禁煙を続けていたが、なんだか吸ってもいいような気がした。

 久しぶりに吸った煙草は、物凄く美味しかった。
 それからしばらく、僕は月野のことを見守っていた。彼女は幸せそうな顔をして眠っている。命に別状は無さそうだし、吐く気配もない。そろそろ帰っていいだろう。

 僕は月野のリュックの中に余った酒を押し込み、胸の前にかけた。それから、眠ったままの彼女を背負う。ふわりとアルコールの匂いがした。

 この帰り道はきつい道のりになるぞ。そう思いながら、家を目指して一歩一歩進んでいく。

 その間、僕は月野が言っていた言葉の意味を考えていた。

『せめて、死ぬ前にもう一度彼に会いたかった』

 あんな言葉、これから死のうとしている人間は言わない。あれは死のうとしている人間の言葉じゃない。あの言葉は、これから死ぬ運命から逃げられない人間が発する言葉だ。

 そんなことを考えながら歩いていた時だ。僕は視界の端に灰色の紙切れを見つけた。それは倒れかけた家のポストの口から顔を覗かせている。こんな誰も住んでいない廃墟のような場所に、誰がこんなものを持ってきたのだろう。まさか、ずっと前からあのポストに挟まっているわけじゃあるまい。近づいてみると、その紙切れの正体が分かった。

 風にひらひらと揺れるその紙は、新聞の切り抜きだった。

 その時、僕は常田のことを思い出した。遊園地にあるヴァイキングについて書かれた新聞の切り抜きだ。

 あの時の会話が、僕の脳内で渦を巻いていた。嫌な予感がして、僕は月野を桜の木陰に座らせた。

「ここで少し待っていてくれ」

 眠り続ける月野に声をかけて、僕はそのポストの前まで向かった。そして恐る恐る、新聞を手に取る。

「ああ、やっぱり」

 それは確かに、新聞の切り抜きだった。そして常田の新聞と同じように、この新聞も所々黒く塗り潰されている。これも向こうの世界で発行された新聞だというのか? でも、いったいなぜここに?

 そう思い、僕は新聞記事に目を通していった。幸い、この記事も内容は掴めた。だが、やはり所々情報を消そうと塗り潰されている。

 内容はこうだ。

 ある日、直径約六十mの隕石がとある街に落下してきた。クレーターは二kmに達し、周辺の住宅は消し飛んだ。更には広範囲に渡り衝撃波が飛び、多くの建造物が破損。死者は五千人に及び、負傷者は更に多くいる。

 やはり、隕石衝突の日付が黒く塗り潰されていた。更に、落下した市町村にあたる所も黒く塗り潰されていた。

「やあ、また会ったね」

 背後からオルゴールの音色のような安らかな声がかけられる。ついさっきまで話していたかのようなその安心感が、余計に僕の心をかきむしった。振り返ると、そこには赤い瞳をした人物が立っていた。

「なんでお前がここにいるんだよ」

 僕がそう問いかけると、彼は信じられないとでも言いたげに顔をしかめた。

「それを言いたいのは僕の方だよ」

 星の骸はやれやれと肩をすくめて見せた。

「君こそ僕の住処で何を好き勝手にやってくれているんだ」

 ここが星の骸の住処だと? この隕石の跡地が?

「それはどういうことだよ」

「そのままの意味だよ。僕はここで産まれたんだ」

 星の骸は余裕のある笑みを浮かべている。

「もっと言えば、君と初めて会ったのもこの場所だ。と言っても、君は忘れているようだけどね」

 その時、ズキンッと脳が痛んだ。

「うっ」と呻き声を出して、僕は頭を押さえた。そうして、微かな記憶が脳裏を駆け抜ける。

 僕は絶望に近い感情に駆られながら、隕石が衝突した街へ向かっていた。警察や消防の静止を振り切り、燃え盛る街の中に向かって走り出していく。その時だ。赤黒く燃え続ける火炎の中から、誰かが現れた。その人物は確か、白髪で赤目をした――――あれは確かに、星の骸だった。

 僕はかつて、この場所に来たことがあるのかもしれない。あの時感じた絶望に似た思いというのは、まさか。最悪の想像が頭の中で暴れ回っていた。

「僕はそこで、君に何かを願ったのか?」 

 その隕石の衝突で、僕の理想の人は死んでしまったのだろうか。あの時の絶望は、焦りは、それに近いほど深いものだったはずだ。

 一度そう考えてしまうと、身体中の震えが止まらなかった。だって、そうしたら、この世界から抜け出す意味も無くなってしまう。

「色々と考えているようだけど、残念ながらそれは不正解だよ。君が僕に願ったのはその時じゃないな。もう少し後のことだ」

 星の骸は笑っていた。明らかに僕を嘲笑するように、腹すら抱えてしまいそうなくらいだった。

「少し落ち着いて冷静に考えてみなよ。その場所で君が願っていたら、理想の人は生き返ってるだろ? それか、隕石の衝突自体を無かったことにしてる」そこで星の骸は一度息をつき「まあ、隕石の衝突を無かったことにはしないけどね。僕が産まれなくなってしまうから」と語った。

 それは確かに、星の骸の言う通りだった。笑われたって仕方ないかもしれない。少し冷静さを取り戻した僕は、星の骸に向き直った。

 こいつに問いただしてやりたいことは沢山あった。月野のノートの作者、もといこの世界の考案者について、僕が願った内容について、新聞の切り抜について、そしてなぜ、月野ユキが死ななければならないのかについてだ。

「おい。少し良いか」

 そんな僕の発言を、星の骸は手を使って妨げた。

「いや、ダメだな。今回僕が君の前に現れたのには理由がある」

 そうして、星の骸はニヤリと口角を上げた。

「今回はね、罰について話すために君達を探していたんだ」

「罰?」

「ああ、罰だ。君達さあ、この前僕の世界を荒らしただろ?」

 世界を荒らした? 何のことだろうかと考えて、すぐに思い出した。

「七日くらい前かな、君達、商店街の窓ガラスを壊したよね」

 背筋が震えた。完全に、僕達の行動が星の骸に筒抜けになっている。

「だから残念だけど君達には罰を与えないといけないな。この世界の平穏を乱した罪だ」

 何をされるのだろうか。星の骸のことだ。本当に何らかの罰を下すだろう。それをできるだけの力が、こいつにはある。すぐに逃げないと。月野を背負って、今すぐにこの場から立ち去るべきだ。彼女を背負って、逃げ切れるだろうか? 一人でも逃げ切れる自信がない。いや、逃げ切るしかないんだよ。

「そんなに焦らなくていいよ。そんなに身構えることはない。むしろ、これは返って君達の道標になるかもしれないな」 

「道標?」

「そう。道標だ。これは君達の願いでもある」

 僕達の願い? そんなのが罰と呼べるのだろうか。そんな僕の思考を見透かしたように、星の骸は話した。

「ただ、これはあくまでも罰だ。君達は嘆き悲しむことになるだろう。そして、結果として行動を起こす。その結果に当たるところが、君達の願いに繋がっているというわけだ」 

 星の骸は楽しそうに両手を広げた。

「ここはユートピア・ワンダーワールドだ。罰を与えるといっても、救いの一つや二つくらいないとつまらないだろう」

 彼は指を一つ立てる。 

「ヒントは、そうだな。八尾比丘尼(やおびくに)だ」

「八尾比丘尼?」

 どこかで聞いたことのある言葉だ。だが、何のことかは忘れてしまった。僕の反応を見た星の骸は、少し寂しそうに目尻をさすった。

「もちろん忘れているよね。それは仕方ないことかもしれない。でも僕はね、君達の力を信じていたんだ。もう、時間は思ったよりも少ないんだよ」

 彼は心底失望したように、据わった目でこちらを見ている。

「伝えることはもうないよ。じゃあね」

 そう言い残し、星の骸は背を向けた。

 ダメだ、今こいつを逃してはならない。聞かなくちゃいけないことは沢山あるのだ。

「おい! 待てよ!」

 その叫びに星の骸は足を止め、こちらに振り返る。

 彼は思い出したように「ああ、そうだ」と顎に指を当てた。

「一つ言い忘れてたよ。君にこの世界の総人口を教えてあげよう」

 なぜそんなことを教えるんだという質問をする間も無く、彼は告げた。

「約七千人。この世界には約七千の人が住んでる」

「だからなんだって言うんだよ」

「話はまだ途中だよ。約七千人のうち、二千人が労働を義務付けられているんだ。この意味が、分かるかい?」

 僕は何も答えられなかった。色々なことが頭の中で渋滞していて、思考が追いついていない。

「仕方ないな。もう少しだけヒントをあげようか。この二千人の労働者は、僕が作った架空の人間だ。残った五千人の人間がこの世界で何不自由なく暮らせるように、労働を強いられることのないようにするために、僕がちょっとだけ願いに手を加えたんだ」

「五千人のために、手を加えた?」

「そうそう。五千人のために、というより誰もが幸せな、という願いを叶えるために手を加えたという感じだね。ユートピア・ワンダーワールドの作者は、労働のことまで頭が回らなかったみたいだよ。まあでも、仕方ないことのような気もするけどね」

 その時、真っ白な部屋が脳内にフラッシュバックした。でも、それ以上は何も思い出すことができず、その記憶は霧のように霞んで消えた。

「そうしてできたのがユートピア・ワンダーワールドなんだよ」

 そう言い残して、今度こそ星の骸は僕に背を向けた。そのまま、奴は桜の森の中へと消えていった。

 それからいくら頭を振り絞っても、真っ白な部屋についての記憶を思い出すことができなかった。

 そのかわり、はっと閃いた。僕はようやくそれに思い当たりむしるように新聞を開いた。食い入るように記事を読み、その一文を見つけた。

[今回の隕石による死者数は、約五千人に登ります]

「やっぱり」 

 その文章を読み、思わず声が出た。なんで忘れていたんだ。先程、新聞を読んだばかりじゃないか。

 五千人の人間が何不自由なく暮らせるように生み出したのが、二千人の労働者。

 あの機械的な労働者達は、星の骸が作った偽物の人間。じゃあ、逆に考えたらどうなるだろう。残りの五千人の人達は、本物の人間だ。

 この世界の本当の人口は約五千人。そして、隕石による死者数も約五千人。これは関係しているのだろうか。それとも、ただの偶然の一致だというのだろうか。

 わざわざ星の骸が言ってきたんだ。何か意味があるに決まってる。

 じゃあ、この世界に住んでいる住民というのは――

 ということは、僕も……月野も……

 そこまで考えて、頭を振った。それはあり得ない話だ。だって僕は、星の骸にまだ願う権利があると言われている。僕にはまだ、寿命が残っている。ということは、少なくとも僕はその被害を受けていない。

 じゃあ月野はどうなるのだろう。

 そこで、考えるのを辞めた。どうせ、月野はその命を終わらせるのだから。終わらせる必要があるのだから。

 それなら後の人間はどうなったっていい。

 そう思った時、乾いた笑いが込み上げてきた。それはあまりにも自己中心的な思想だったからだ。でも、世界を壊したいというのは究極的に自己中な願いなのだ。僕達がやろうとしていることはそういうことだ。

 ただ問題なのが、月野の死について考えている時に、胸の中で燻っている感情の正体に気づいてしまいそうなことだった。
 あの後、僕は月野を背負ってなんとか隕石の跡地から抜け出した。途中でタクシーを捕まえて、家まで向かった。

 タクシーの運転手は泥酔した月野を見ても嫌な顔一つしなかった。記号的な笑みを浮かべながら、一人でずっと喋っていた。

 アパートに着き、彼女をベッドに寝かせてからソファに沈み込む。頭の中は多くの情報が絡まったコードのようにぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。

 こんな時はすんなり眠りにつけないと覚悟しながらソファに倒れ込んだが、気が付いた時には眠っていた。

 程よく酔っていたのが良かったのかもしれない。

★☆★☆★☆

 翌日、僕は嘔吐の音で目を覚ました。

 二日酔いに悩まされてゲェゲェ吐いているどっかの誰かさんとは違い、僕の体調は好調だった。のそのそとソファから起き上がり、ベッドに誰もいないことを確認する。

 そのままリビングを出て廊下に向かうと、やはりというか、案の定というか、月野がトイレで嘔吐していた。昨日の出来事を忘れるように、自分の中にわだかまった思いを全て吐き出すように、彼女は何度も何度も吐いていた。

 トントン、とノックしてから反応を待つことなくトイレのドアを開けた。

「どうやら便器と親友になったみたいだね」

 便座に抱きつくようにして、月野はぐったりとしている。

「ええ、トイレが私に離れて欲しくないそうで、もう大変ですよ。ていうか、勝手に入らないでください。不法侵入で通報しますよ」

「できるもんなら通報してみろ。連行されるのは君の方だ」

 僕はトイレの扉を閉じた。どうやらそこまで深刻な二日酔いというわけではないようだ。ドア越しに「少し出掛けてくる。十五分くらいで帰るから」と伝えた。

 身支度を整えてから外に出る。どうやら今日は冬日のようで、いつも着ているロングコートを羽織った。近くのドラッグストアでロキソニンとポカリスエットを購入し、次にコンビニで朝食を買った。こいつらは人間じゃない、ロボットだと思うことで少しだけ買い物が楽になった。

 家に戻ると、月野は枕に顔を埋めて亡霊のように唸っていた。彼女が顔を押し当てているのは、僕の枕ではない。いつの間にか僕の家にあった、あの身に覚えのない枕だ。

「体調、大丈夫か?」

 彼女はのそりと顔をあげて、ゆるやかに首をふった。あまり強く頭を動かしたくないのだろう。

「大丈夫じゃありません」

 言ってから、彼女はまた枕に顔を埋めた。そんな彼女を横目に、朝食の準備をしようとキッチンへ向かう。インスタントのしじみ汁にお湯を入れ、リンゴの皮を剥いている最中に、くぐもった声が聞こえた。

「サンタさん。私、変態かもしれません」

 枕に顔を埋めたまま、月野がそんなことを口走った。

「どうして?」

「もうしばらく、こうしていてもいいでしょうか?」

 それは、枕に顔を埋めていても良いか? ということだろうか。 

「なんだかよく分からないんですけど」と前置きして「この枕、凄く気持ちがいいんです。これを使っていると、とても気分が落ち着くんです」

「そうか。なら良かった」

「ええ、人の枕を捕まえてそんなこと言うなんて気持ち悪いとは思うんですけどね」

 そんな弱気なことをほざいてる月野の前を通り過ぎて、テーブルに朝食を並べる。

「おら、元気出せ。君の大切な奴隷がクリスマスプレゼントを持ってきてやったぞ」

 月野は顔をあげてテーブルにおかれたロキソニンに目を輝かせる。

「おぉ、流石は私のサンタさんですね。奴隷とサンタの両立、ご苦労様です」

「サンタクロースは子どもの奴隷みたいなもんだ。大したことないよ」

「夢も希望もないことを言うんですね」月野はジッと、机に並べられた朝食を眺めながら「まあ実際に、夢も希望も私達の前には転がってませんからね」とため息をついた。

 それから彼女はふーふーとしじみのみそ汁を冷ましてから一口飲む。

「あー、二日酔いの体に染み渡ります」 

「今度からは酒の飲み方には気をつけろよ」

 その言葉に、彼女は表情を曇らせる。

「今度から……」そこで一度言葉を区切ってから、月野は努めて明るい表情を作ったようだった。

「ええ、そうですね。今度からは気を付けます」

 その表情を見て、僕は自分の失言に気が付いた。

『せめて、死ぬ前にもう一度彼と会いたかった』

 昨日のあの言葉が、脳内に反響する。彼女にとって、今度が本当に来るのかは分からない。恐らく、そういうことだろう。

 だが、僕は彼女のそんな些細な変化には気が付かないフリをした。それを月野は望んでいるようだったし、僕は彼女との「忘れてください」という約束を守りたかった。

 月野はシャリッとリンゴを齧りながら、棚に並べられたCDを見ていた。

「驚くほど音楽の趣味がいいんですね。私の好きな曲が沢山あります」

「どうも」

 褒められたところで、別に嬉しくともなんともない。これは僕のCDじゃないからだ。このCDだって、恐らくは理想の彼女が残していったものだ。

「何か聞く?」

 綺麗に並べられたCDに視線を向けながら、月野に聞いた。

 棚の中には、ヨルシカの『夏草が邪魔をする』『だから僕は音楽を辞めた』『エルマ』BUMP OF CHICKEN の『jupiter』『ユグドラシル』the pillowsの『Please Mr. Lostman』Mr.childrenの『深海』などのアルバムが入っている。

 月野は棚の中を見て「うーん」と首を捻ってから「Mr.Childrenの『新海』も捨てがたいですが、ここはthe pillowsの『Please Mr. Lostman』にしましょう。『ストレンジカメレオン』が聞きたいです」

 今時『ストレンジカメレオン』を聞きたがる女の子がいるなんて思ってもみなかった。

 ディスクをCDプレーヤーに入れて、スイッチを押す。少し音質の悪い、くぐもった音が流れはじめた。でも、僕はこの音が好きだった。スマホから流れる高音質な音よりも、断然良い。

 僕達はそれからしばらくの間、心地よい音楽に体を預けていた。昨日のことは詮索しなかったし、お互い完全に無かったことにした。

 月野にも僕にも、今は休息が必要な気がした。一度現実から目を逸らして音楽に没頭するべきだと思う。

 しばらくして、月野お待ちかねの『ストレンジカメレオン』が流れ出した。 

「とても健康的な歌です」

 月野はこの悲壮感漂うどこか優しいメロディーに体を揺らしながら、そう呟いた。

 それは恐らく、一般的な感覚ではないのだろう。でも、その気持ちは痛いほどよく分かる。

「確かに、僕達みたいな奴らにとっては健康的な歌かもしれないね」

「ですよね」彼女は笑ってから「君といるーのーが好きで」と歌い始めた。僕も彼女に続けて歌い出す。

「あとはほとんどー嫌いで」

 歌っていて、不思議な感覚に包まれた。

 音楽とは全く関係ないはずなのに、手持ち花火をやっているシーンが、頭の中に浮かんできた。

「まわりの色に馴染まない出来損ないのカメレオン」

「優しい歌を唄いたい」

「拍手は一人分でいいのさ」

 そこで僕達は一度お互いの顔を見た。なんだか照れ臭くて、それ以上は歌えなかった。