即答すると、エリオルは無言で頷いた。そして、おもむろに手を差し出してきた。
 内心首を傾げつつ、その手に自分の手を載せる。

「片付けは警備の者に任せよう」

 その意見には大賛成である。事情聴取などされようものなら、あっという間に噂好きの貴族の話のネタにされるに決まっている。レティシアたちは、その場をそそくさと後にした。
 帰りの馬車で揺られる中、ふと、その声は聞こえてきた。

《ここまで歩くのも支障なさそうだったし、怪我がなさそうで本当によかった。念のため、彼女のメイドに数日は気をつけてもらうように伝えておくか。……とはいえ、さすがはライセット辺境伯のご令嬢だ。護身術も見事だった。ならず者を捕らえる俊敏さは見習いたい。私も負けてはいられないな。結婚すれば二人で領地を守ることになる。実に頼もしいことだ》

 意外な反応にレティシアは目を丸くさせた。
 普通であれば、女は守られる立場だ。留守中の家を切り盛りし、戦地からは遠ざけられる。それなのに、彼は共に戦うのが当然だと考えている。

(わたくしの行動を非難しない方は、エリオル様ぐらいでしょう。もしこの方から愛想を尽かされてしまったら生きていけないかもしれません……)

 今までの頑張りを認めてもらえた気がして、レティシアは泣きそうになった。
 税を領民に還元せずに私腹を肥やしている中央貴族とは違い、国境に領地を構えるライセット家では考え方がまったく違う。
 内外にも示しがつく武力を正しく使ってこそ、平和が保たれる。
 戦いが起こったとき、まず犠牲になるのはライセットの領民だ。傷つくのは訓練された正規の兵士だけではない。徴兵された農民や留守を預かる妻子も含まれる。
 資源不足な隣国は、穀物が豊かな領地を狙っている。これまでに何度も国境付近で小競り合いが起きているのがその証拠だ。
 一見のどかな日常の裏では、いつも隣国の脅威にさらされている。
 もし戦場になれば、常に死と隣り合わせの生活になる。それを阻止するため、ライセットでは定期的に大規模な軍事演習を行っている。強さや練度を示すことで、抑止力につなげるためだ。

《いつか、本気の彼女とも手合わせしてみたいものだ……》

 冗談ではなく本心からの言葉だ。彼は性別に関わらず、対等に扱ってくれる。
 ここ最近の賛辞で、一番ときめいた気がした。

   ◆◇◆

《夕焼けに照らされると、レティシアの金髪は赤みが増して神々しいな。ふわふわと揺れる様子は見ていて飽きない。きっと絹糸のように滑らかに違いない。もし彼女の髪に触れたら嫌がられるだろうか……》
《君のほうが絶対に可愛い》
《こんなにも強くて美しい令嬢が私の婚約者だなんて夢のようだ。明日起きたら夢から覚めてしまうのでは?》

 毎回これだけ好意を向けられれば、そろそろ耐性がつくのではと思っていたが、考えが甘かった。無自覚のアプローチはどんどん美化された内容になり、うっかり否定しそうになる場面が何度もあった。
 微笑みをキープしながら聞こえないふりをするのも限界があり、レティシアは学園北棟の図書室に逃げ込むことが増えていた。
 エリオルの本音は威力がありすぎて、正直なところ、心臓がいくつあっても足りない。
 直接顔を合わせなくても近くにいるだけで心の声が聞こえてくるため、物理的に距離を取るしかなかったのだ。

(とはいえ、顔を見るたびに逃げ出すなんて、婚約者としても人としても失礼ですよね……。心の広いエリオル様はわたくしの非礼な態度を咎めることはありませんが、いつまでも逃げ回っているわけにもいきませんし……どうしましょう)

 エリオルのことを考えるだけで、心がそわそわして落ち着かない。
 露骨に避けている婚約者をどう思っているだろうか。不信感が積み重なっている頃合いかもしれない。だが普通にしようと思えば思うほど、ぎくしゃくとしてしまう。

(うう……婚約者の適切な距離感がわからなくなってしまいました。辺境伯の娘として何事にも動じないように心を鍛えたつもりでしたけど、不甲斐ない限りです……)

 試験前は利用者が増えるが、それ以外の図書室は閑散としている。
 時折ページが繰られる音が聞こえてくるぐらいで、足音も毛足の長い絨毯に吸い込まれていく。この神聖な空間に、読書を邪魔する者などいない。
 レティシアはため息を飲み込んで、他の利用者の迷惑にならないよう、物音を立てないよう慎重に本棚から目当ての本を抜き出す。読み途中だった革張りの装丁が美しい本を両手で抱え、奥のキャレルに向かった。
 お気に入りの場所は今日も空席だった。
 飴色のテーブルに本をそっと置き、窓の外を見やる。
 縦長の窓から差し込む光は大木の葉が遮ってくれているため、室内に入り込む光量はぐっと少ない。青空に届きそうなほど枝葉を伸ばした欅の向こうには、綿菓子のような雲。先日は枝にちょこんと小鳥が数羽並び、時折小首を傾げて羽を休む姿に癒やされた。
 何気なくそのまま視線を下に向けると、視界の端にダークブラウンの髪が見えた。
 遠目でもわかる。レティシアが婚約者の姿を見間違うわけがない。
 とそこに、上背のある男子生徒を追いかけるように、女子生徒が小走りで近づいていく。

(あの桃色の髪は……もしかして男爵家養女のバルバラ様? なぜエリオル様が彼女と……?)

 人目を忍んで会っている理由がわからず、二人の様子を見守る。
 一定の距離を保ちながら話しているようだが、ここからでは彼らの表情がわからない。
 三階にいるレティシアと地上にいるエリオルでは距離が離れすぎているらしく、彼の声を拾うこともできない。
 話している内容を知りたい思いと、知りたくない思いがぶつかり合う。
 もどかしい思いで彼らの動向を見守っていると、不意にバルバラがエリオルに抱きついた。二人の影が重なり合う。
 それ以上は見ていられなくて、レティシアはバッと背を向けた。
 心がざわつく。見てはいけないものを見てしまったような気分で、落ち着かない。
 不安はさざ波のように広がっていくばかりだ。

(どうして……? エリオル様の婚約者はわたくしなのに……)

 そのとき、唐突に感情の正体がわかった。これは嫉妬だ。
 エリオルの本音を知る前は、自分は恋愛には淡泊な性格だと思っていた。恋愛小説を読んでも心が揺れ動くことは少なく、婚約者のことで心乱される日が来るなんて露ほども想像していなかった。けれどもう、認めるしかない。
 レティシアにとって、エリオルはとっくに特別な存在になっている。
 それこそ、バルバラに取られたくないと強く思うぐらいには。

(明日、エリオル様に会って確かめましょう。心の声が聞こえるのですもの。もし誤魔化そうとすればすぐにわかります)

 自分に言い聞かせ、先ほどの光景を頭から振り払うように首を横に振る。
 その日は流星群が降った夜から数えて、ちょうど三ヶ月後。
 魔法の効果が切れたように、いくら念じても婚約者の心の声は聞こえなくなった。

   ◆◇◆

 それは秘密の逢瀬を目撃してから十日後のことだった。
 内密に話がしたい、と従僕を通してエリオルから面会の申し出があった。放課後、レティシアは学園内の最上級生が使える談話室の一室に向かった。
 エリオルはいつもの無表情で出迎え、扉をノックしたレティシアの手を恭しく取った。
 貸し切りにしているのか、指定された談話室には婚約者以外の姿はない。そのまま紳士的にエスコートされて奥のソファまで案内される。エリオルは真向かいの席に静かに座った。
 猫足の白テーブルには、温められたティーポットと茶器、スコーンとクロッテッドクリーム、ブルーベリージャムなどが用意されている。

「…………」
「………………」

 この沈黙も懐かしい。
 エリオルは口を閉じたまま、お茶の準備を始めた。
 王立学園に通う生徒は身分に関係なく、自分のことは自分でするルールだ。しかし、何事にも例外というものはある。
 たとえば学園に多額の寄付をしている上級貴族は、円滑な学園運営に貢献しているという功績から給仕用の従僕がついている。昼食時や放課後の談話室でお茶会をする際には、使用人の手を借りるのが普通だ。
 公爵家令息ともなれば給仕用の従僕にすべて任せるものだが、学園内の人目につかない場所に限り、エリオルは時々こうしてレティシアにお茶を振る舞ってくれる。
 心の声で知ったことだが、エリオルは二歳年下のレティシアが入学する際に、公爵家で茶葉の扱い方について猛練習したらしい。産地ごと茶葉の種類を飲み比べ、ミルクが合う茶葉などの基礎知識を学んだ彼は、さらに独自の配分を研究したようだ。
 執事直伝の紅茶の淹れ方は洗練され、今ではすっかり手慣れたものだ。

(最初は公爵家の方になんて恐れ多いのでしょうと思っていましたが、慣れとは怖いものですね……。残念ながら、わたくしにお茶を淹れる才能はなかったので、お礼を言うことしかできないのがもどかしいですけれど……)

 人には得手不得手がある。前に手伝いを申し出たところ、相当手つきが危うかったようで、火傷をしてはいけないからと即座に取り上げられた。
 砂時計で蒸らし時間を正確に計る作業は、どう考えても研究熱心なエリオルのほうが向いている。その日以来、レティシアはおとなしく座って待つのが仕事だ。
 ちょうどいい時間になったのだろう。
 ティーカップに砂糖漬けにされたオレンジを入れ、ティーストレーナーで茶殻を丁寧に漉しながら、茶葉が入ったポットから紅茶が注がれていく。
 ふわりと柑橘系の香りがしたかと思えば、輪切りにされたオレンジが取り出される。渋みが出る前に救出したのだろう。納得していると、今度は琥珀色の蜂蜜が垂らされていく。

(ああ、なんてこと。蜂蜜の瓶にあるのは王室御用達のラベルではありませんか……こんな贅沢をしてよいのでしょうか……)

 紅茶とオレンジだけでも心惹かれる組み合わせだというのに、高級蜂蜜まで加わったら。
 窓から差し込む陽光で、とろみがある蜂蜜がきらきらと輝く。
 エリオルはスプーンで軽く混ぜ合わせた後、レティシアの前にティーカップをそっと置いた。白磁のティーカップの中には大輪の花が描かれている。澄み切った紅い色に染まった花を見下ろし、レティシアは最大級の感謝の言葉を述べた。

「いつもありがとうございます。とても見事な手際でした。飲むのがもったいないぐらいです」
「……レティシアのために作ったから……」
「もちろん、いただきます。残すなんてもったいない真似はできません。わたくしのために作ってくださって本当にありがとうございます。……まあ、素晴らしい香りですね」

 波形のティーカップをソーサーごと持ち上げ、爽やかなオレンジの香りを堪能してから一口飲む。レティシアが好んでいる南部産のブレンド茶葉だ。蜂蜜のほどよい甘みを足したことで、喉にも優しい味になっている。
 飲むたびに、じんわり心が満たされていく。
 ほっと息をつくと、エリオルが安心したように自分の紅茶を口にした。その様子をしばらく眺め、レティシアはソーサーをテーブルに戻した。
 もとより会話が苦手な彼のことだ。余計な前置きはいらない。早速、本題に入ることにした。

「ところで、本日のご用件をお伺いしても?」
「…………」
「学園内でしか話せない、大切なお話があるのですよね。お聞かせくださいませ」
「……………………」
「さあ、どうぞ。遠慮なさらず」

 たたみかけるように言うと、エリオルはやっと口を開いた。

「レティシアさえよければ……その、婚約を解消しようと思っている」
「……っ……!?」

 衝撃のあまり、そのまま凍り付く。
 この部屋に入ってきたときから嫌な予感はしていた。しかしながら、これは想定外だ。いくらなんでも展開が速すぎる。あのエリオルがこうも簡単にレティシアとの縁を切るなんて、にわかには信じられなかった。
 
(……婚約……解消……?)

 二つの単語が頭の中をぐるぐると回る。