一目惚れだった。

初めてその子を見たとき、なんて美しいんだろうと思わずにはいられなかった。

窓から差しこむ淡い光に包まれたその子はあまりにも綺麗で、周りに天使の羽根がふわふわと舞っているような錯覚を受けてしまう。

この子は誰なんだろう。

どこに住んでいて、何が好きなんだろう。

一瞬にしてその子を知りたいという気持ちに囚われる。

——それが君との、いわば運命的な出会いだった。
「お父さん、荷物ここに置いておくね」

「悪いな、乃愛(のあ)。そんな重いもん運ばせちまって」

「これくらいなんてことないよ。そのかわり次からはちゃんと気をつけてよね」

夏休みも残り半分となってしまった8月中旬のこと。

今日から入院するお父さんに生活用品などの必要な荷物を届けるため、私は市内の病院へと足を運んだ。

原因は食中毒。

お酒に酔いすぎてほとんど生の状態の肉をいくらか食べてしまったらしい。

本当に手のかかるお父さんだな、とつくづく思う。

「そういや夏休みの宿題ちゃんと進んでるのか?」

「もちろん!1週間前には終わらせる予定だから期待してくれてていいよ」

少し心配そうに聞いてきたお父さんに対し、私は腰に手をあてて渾身のドヤ顔をキメてみせた。

余裕を持って終わらせるなんて、我ながら本当に偉いと思う。

これが漫画だったらきっと「えっへん」というような文字がついていることだろう。

「おっ、それは頼もしいなぁ。にしても1週間前に終わらせるのか、相変わらず真面目なとこは母さん譲りだな」

「ふふ、でしょ」

真面目なところはお母さん譲り。

その言葉に思わず自分の口元が綻ぶのを感じた。

「じゃあ私はそろそろ帰るよ」

「おう、ありがとな」

「うん、また明日」

少し他愛ない会話を交わしたあと、私はお父さんに別れを告げて病院をあとにした。

家に帰ったらやるべきことがたくさんある。

残りの宿題、夕飯の準備、家の中の簡単な掃除。

あとは……そう、毎日欠かすことのないあれも。
そうしているうちに私は目的地である自分の家の前へとたどり着いた。

表にかかっている「雨夜(あまや)」の表札にちらりと目をやると、ホコリをかぶって少し汚れているように見える。

あとで払っておこう。

「ただいま……お母さん」

玄関のドアを開けて中に入り、そばに置かれている一枚の写真をそっと手に取った。

まだ小学生だった頃の私と、お父さんとお母さんと。満面の笑みを浮かべた私たちの姿がおさめられている。

見ていると今にもキャッキャと笑い声が聞こえてきそうなほど私は幸せそうに、楽しそうに笑っていた。

……今はもう、そんな光景は見れない。

写真をしばらく見つめた後、私はいつもしているように静かに口を開いた。

「今日ね、お父さんが酔っ払いまくって生肉いっぱい食べちゃったせいで食中毒なって、それで入院することになったの。ほんとにバカだよね」

これは私が毎日欠かさずやっていること。

亡くなったお母さんにその日の出来事を話すようにしている。

ぽつりぽつりと話していると思わず涙がこみ上げてきそうになった。

それを私は必死に抑え、にこりと笑みを浮かべる。

こんなことで天国のお母さんを心配させるなんてできるわけがない。

「あ、でもねお医者さんによると数日で退院できるんだって。だから安心してね、お母さん。私たちは今日も元気だよ」

お父さんも、私も今日まで2人で仲良く元気に過ごしている。

お母さんもきっと喜んでくれているはずだ。

少しして私は写真を元の位置に丁寧に戻し、靴を脱いだ。

……と同時にカバンの中でスマホが震えていることに気づく。

急いで取り出して確認すると、メッセージが届いていた。

『乃愛、明日ってあいてる?』

幼馴染で、1番の親友でもある美久(みく)からのものだった。

突然どうしたのだろうか、と頭にハテナマークを浮かべつつ急いで予定を確認する。

『どうしたの?』

『駅前にこの前話した新しいカフェがオープンしたから一緒にどうかな〜って思って!』

新しくできたカフェ。そういえば、少し前に美久が目をキラキラさせながら話していたっけ。

『病院寄ってからでも大丈夫?』

『もちろん!じゃあ15時に駅前集合ね!』

『うん、楽しみにしてる』

最後にそう返して、私はスマホを再びカバンの中へとしまう。

(……明日、楽しみだな)

こういう小さな楽しみが1つ増えただけでも毎日がキラキラと輝くような気がした。

特別なことが起きなくたっていい。

何気ない日常が私にとっての幸せで、これからもずっと続いてほしいと時々願う。

「よーし、それなら早くやること終わらせないとね。ファイト、オー!」

カフェを最大限に楽しむためにタスクは残さないようにしなきゃ。

誰もいない家の中、私は少し大きめの声を出して自分に喝を入れた。
私の朝は、けたたましいアラームの音と共に始まる。

「んん……うるさ」

うめき声を上げながらどうにか重い身体を動かし、音を止めた。

朝はそんなに強い方じゃないからいつも数分おきにアラームが鳴るように設定している。

……おかげさまで私の耳は毎日悲鳴を上げているけれど。

すっと起きれる人間になりたかったな、なんて思いながらのそのそと朝の支度を始めた。

今日は美久とカフェに行く予定もあるし少しおしゃれしていこう。

洗顔と歯磨き、朝ごはんを済ませてお父さんのお見舞いに持っていく荷物を準備する。

服は何を着て行こうか。

クローゼットやタンスを一通り見たあと、何着かに絞ってさらに思考を重ねる。

「よしっ、決めた」

今日はこれで行こう。

シンプルな白のワンピースと白のサンダル。暑い時期には最適な格好だろう。

最後に軽くメイクを施し、主張の激しすぎないネックレスをつけて。

……これで完璧。

鏡の前でくるりと回って変なところがないか最終確認をする。

腰のあたりまで伸ばした髪の毛がふわりと舞い、どこかの映画に出てきそうなワンシーンが完成した。

もしかして、私ってば映画のヒロインになれちゃったりして?

うそうそ、さすがに冗談。

調子に乗るのもそこそこに、お気に入りのカバンを肩にかけて私は病院へと向かう。

——今日はなんだかいい日になりそうな予感がした。
お父さんのいる入院病棟は小児科の入院病棟を通り抜けた先にある。

ここはつい最近建物の改修工事を行ったらしく、すごく綺麗だなというのが私がここにきて最初に抱いた感想だ。

古めな病院は少し怖くて抵抗があるから新築なのかというほど綺麗な病院で良かったとつくづく思う。

「それじゃあ、私はこれで帰るね」

「気をつけて帰れよ……っと、お前にいいこと教えてやるよ」

数十分後。そろそろ帰ろうと立ち上がったところをお父さんに引きとめられ、思わず動きを止めた。

それにしてもその怪しげな不審者みたいなセリフはどうにかならないのだろうか。

「ここに来るまでに小児科か?の入院病棟通るだろ?そこにな、ピアノがすげーやつがいるんだ」

「ピアノ?」

「おう、多分乃愛と同い年くらいの子なんじゃないか?それくらいの少年が昨日弾いてるのをたまたま聴いてな。それがめちゃくちゃすごかったんだよ。とにかくすごいから……まぁ、運が良ければ帰りに聴けるかもな」

「ふふっ……わかった、頭の片隅に置いておくね」

お父さんの語彙力のなさに私は思わず笑みをこぼす。

それと同時に私の頭は自然とその子のことを考えて始めていた。

ピアノが上手な同い年くらいの男の子。そんな人がこの病院にいたんだ。

私は弾いたことがないから、弾ける人が少し羨ましいと思ってしまう。

正確に言うとせいぜい鍵盤に触れて音を鳴らしたことしかない。

美久の家にお邪魔するたびに、よくピアノに触って遊んでいたものだ。

彼女は中学3年生までピアノを習っていて家には立派なグランドピアノが置いてある。

今は習い事をやめてしまったけれど、時間があるときに軽く弾いているそうだ。

最近は2人とも忙しくてお互いの家に遊びに行くことがあまりないから、今度またお邪魔してピアノに触れてみようか。

楽しくて懐かしい思い出に思わず頬が緩んでしまったのは内緒の話。
コツ、コツ、コツ……

偶然にも入院病棟の中は驚くほど静かで、ゆっくりめに歩いている私の足音だけが薄暗い空間に響いていた。

お父さんの病室を離れ、いくつかの病室の側を通り過ぎ、少しずつ小児科のフロアへと近づいていく。

そのうち、一歩踏み出すごとに段々と私の足音以外の音が耳に入ってきた。

「こーら、廊下は走っちゃダメって言ったでしょう!」

「ごめんなさーい!」

「ねーえー、はやくはやくー!」

小さな子たちがバタバタと騒ぐ音。それを叱る看護師さんの声。

——そして。

「……♪、〜♪〜〜♪」

ピアノの音が、かすかに聴こえてきた。

「あ、ピアノ……」

きっとこれがお父さんの言っていたものだろう。

どうやら私は運良くその現場に居合わせることができたらしい。

せっかくなら少し聴いてみたいなと思い、どこから聴こえているのか確かめるために耳をすませる。

すると目の前で子供たちが騒ぎながら1つの部屋に入っていくのが見えた。

「はやくはやく!天音(あまね)にーちゃんのピアノはじまったよ!」

「まってー、いまいくー!」

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