「やあやあ、環さん。本日も息災のようでなによりですね」
「うう……こ、こんにちは」
帝都の西の外れにある古民家に、この日は珍しく来客があった。戸を開けるやいなや飛び込んでくるうさんくさい笑みを前にして、やはり居留守を使えばよかった、と環は猛烈に後悔をした。
「そろそろ口入れ屋をお求めである頃合いかと思いまして。ええ、そうでしょう。わたくし、とても気がききますでしょう?」
「え、ええ……そう、ですね」
皺ひとつない燕尾服。光沢のあるシルクハット。細く釣り上がった目。萎縮するほどに明るい声色。
特徴的な亜麻色の髪は、顎の上あたりで綺麗に切りそろえられていて、まるで異国人のようだ。
このどことなくうさんくさい男は、口入れ屋として帝都市民を相手に仕事のあっせんをしている。
縁あって環もこれまでに何度も仕事をもらっているのだが、本音をいえば、仕事などせずに家にずっと引きこもっていたいところだった。
(生活に困ってはいるけれど、できればはやく帰ってほしい……)
環は極度の人見知りだ。会話すら億劫である。
生きてゆくうえで避けられないことだとはいえ、積極的に関わり合いになりたくないほどには、苦手意識があった。
叶うのなら、人と関わらず、家の中に閉じこもってただただひたすらに学術書を読みふけっていたいものだ。
(今回も内職であるとありがたいのだけど……)
そんな願いとは裏腹に、口入れ屋は意気揚々としているではないか。
どうやら手ぶらでは帰るつもりはないらしい。
「実はですねぇ、今回はほんっとうにあなたにぴったりな案件がありましてねぇ! それになにより、お給金もかなり弾みますよ」
環は、はあ、とため息をつくと、しぶしぶ口入れ屋を家の中へ通した。
茶のひとつでも出さなくては、いよいよ仕事のあっせんをしてくれなくなってしまうかもしれない。
仕事をしなくてよくなるのだから願ったり叶ったりなような気がしたが、それはそれで死活問題でもあった。お金がなくては生活もままならないとは、世知辛い。
環は台所に立って、いそいそと湯を沸かした。
「ど、どうぞ……」
「これはこれはかたじけない」
口入れ屋を居間に案内し、ちゃぶ台の上に湯呑を置く。環は視線のやり場に困った。人と目を合わせて会話をすることが苦手なため、しきりにそわそわしてしまう。口入れ屋は茶を一口含むと、さっそく本題だとばかりに切り出した。
「環さんは上野に門をかまえる九條家をご存じですかな」
「……く、九條家ですか?」
ちゃぶ台の上に両肘をつき、手を組み合わせて環を見つめる。いくら社交にうとい環でもその名は聞いたことがあった。九條家とはたしか、江戸初期から続く由緒ある名家だ。地主として代々栄華を築いていたが、今は当主一人のみが屋敷に身を置いているのだったか。
(どうしてそんな家の名前が出てくるんだろう)
環は猛烈に嫌な予感がした。口入れ屋の含みのある笑みを前にして、さああと血の気が引いていく。この男がこの表情を浮かべる時、いつも環は散々な目にあっている。それなりに付き合いは長い方だが、どうしたものか。環が内気な性格であることをよいことに、やっかいな仕事ばかり押し付けられている気配がある。
「その九條家が当主、周氏が契約上の婚約者をお求めであるようなのですよ」
「お……お断り、させてください」
ほらみろ、いろいろと破綻している案件ではないか。環は詳細を聞くことなく頭を下げたが、口入れ屋はころころと笑うだけで引いてくれる様子はない。
(それって仕事っていうの……? そもそも愚鈍な私に婚約者なんて大役……つとまらないと思う……)
「ただでさえ、その、人と、まっ……まともに会話ができない私が、できるわけ、ない、です」
「いいえいいえ、きっと環さんが適任でしょう。なんせ、九條周氏はとりわけ聡い女性をお求めであるようなのですから。ええ、わたくし、環さんほど賢い方にこれまでお目にかかったことがありませんので!」
「で、でも、む、むりです……。それにきっと、すぐに、契約破棄されるんじゃ……」
内気で人見知りな環は、幼い頃から家の中に引きこもって学術書を読みふけっていた。学術書は環を傷つけることはない。読めば読むほどに謎が広がり、それを解き明かしていく過程に病みつきになった。
環は女学校に通ったことはなかったが、数えで十九となった今、帝国大学の学生をも優に超えた学識を身に着けていた。
口入れ屋は環の賢さを見込んで、これまでに多くの仕事をあっせんした。おかげで高価な学術書を購入できているのだが、環にもできることとできないことくらいある。
「そうでしょうか、わたくし、目ききだけはよいのです。環さんは引っ込み思案でいるようで、案外肝が据わっておられる」
「ひいっ……」
「――なんでも、九條家のお屋敷では不吉な物音が聞こえるようでして、逃げ出してしまう婚約者があとを立たないようなのでございます」
口入れ屋はにっこりと笑みを作ったまま、態度を崩さない。
(‟不吉な物音″?)
環はごくりと生唾をのむ。肝が据わっているなどととんでもない大ほら吹きだ。これのどこに度胸があるというのか。
『不吉な物音……ねえ。そいつ、結構訳ありなんじゃねえのか?』
押し黙っていると、いつのまにか口入れ屋の隣にずんぐりむっくりな猫が座っていた。人の言葉を話す猫がいるものか、といったところだが、環は驚きもせずその生物を視界に入れる。しっぽが二つに分かれているそれは、人でも動物でもない存在。
――妖だ。
それは環だけでなく、口入れ屋にも見えている。いつものことだと言わんばかりに、にっこりと目を細めたまま、両手を顎の下で合わせていた。
「おやおやこんにちは、マダラさんも息災でなによりです」
『けっ……、いつもこいつに仕事くれるのはいいけどよ、マタタビのひとつくらい持ってこいってもんだよ』
「わたくしとしたことが気が回らず申し訳ございません。ですが、いくら猫又といえど、あまり食べすぎはよくないですよ」
『おまえにだけは言われたくないね、化け狐』
マダラはぴょんと飛び跳ねると、口入れ屋が被っていたシルクハットを奪い取ってしまう。
帽子で隠れていた頭部からは、ふっさりとした獣耳が現れた。
口入れ屋はとくに慌てる素振りもなく、優雅に茶を飲んでいる。また、差し向かいに座っている環も驚く様子はなかった。
口入れ屋が“人ならざる者”だということを環はあらかじめ認識している。もちろん、妖であると知っていながら仕事をあっせんしてもらっている。
どういうわけか環の周りには、妖が集まってくる傾向にあるらしい。
幼少時代からそうであったが、彼らは環の読書の邪魔をしてきたり、勝手につきまとってきたり、無視をしてもしつこく話しかけてきたりした。
迷惑を被ることがほとんどではあったが、慣れてくると、人間よりも単純明快で接しやすいと感じるようになった。
今となっては仕事のあっせんをもしてくれるようになるほど。人見知りな環にとっては、妖の方が身近な存在だった。
「しょうがないでしょう。腹が減ったらつい魔がさしてしまうこともあるのですよ」
「……うっ」
魔がさす――。いったい口入れ屋がなにを食べているのかは考えないことにする。
『おまえ、そうやっていい顔しておいて、いつか環を食うつもりじゃねえだろうな?』
「まさかまさか! 環さんはたしかにおいしそうな匂いがしますが、大切なお得意様です。それに、猫又のマダラさんがはりついているのに、手なんで出せるわけがないでしょう」
「お……おいしそう……」
(私、匂うのかな……)
冗談だとは分かっていながらも、心臓が変な音を立てた。この口入れ屋――もとい化け狐や、猫又のマダラは善良な妖だ。だが、すべての妖が理性を持っているわけではないことを環は知っている。だからといって、妖よりも人の方が恐ろしいと思うことに変わりはないのだが。
「ああ、わたくしとしたことが失敬。話が脱線してしまいました。先ほどの案件についてですが……」
「だ、だから、私にはむり……です」
「お給金がかなり弾むとしても……?」
身を乗り出した口入れ屋は、環の耳元に顔を寄せると小さな声で報酬金額を告げる。
「……な、なっ‼」
聞いたこともないような破格の報酬に環はふるふると震える。その金でいったい何冊の学術書が買えるのだろうか。断固として断る意気込みでいたが、その決心はいとも簡単に揺らいでしまう。
『まあ、賢さでいえばこいつの右に出るもんはいねえと思うし、陰気だけど‟不吉な物音″とやらにも耐性があるのは間違いねえしな……。なあ環! オレはもうひもじい生活はこりごりだぜ。たんまり稼いで、マタタビを山ほど食わせてくれよ!』
「ま、マダラまで……。だから、む、むりだってば……」
マダラはぴょんぴょんと居間を走り回り、最終的に環の頭の上に着地をした。
「け、契約とはいえ、こ、婚約者になるんだよ? わ、私むりだよ、まともに人と会話もできないのに」
『そんなもん妖どもだと思えばなんとかなるんじゃねえか? こんやくしゃってのがいったいなにするもんなのかは知らないけどね』
呑気に毛づくろいをしているマダラを心底羨ましく思う。自分もいっそ妖であったらどんなによかったか。
とはいえ、食い口を繋がなくてはならないのはたしかだ。
新しい学術書もほしいと思っていたところだったし、破格の給金にもうまみがある。もし万が一役不足であると判断されれば、むしろ先方から暇を出してくれるだろう。
そうなってしまったら、それはそれでよいかもしれない。
「ああそうそう。言い忘れておりましたが、婚約者を引き受けていただけた暁には、九條家での衣食住の保証、そして、屋敷内の図書室を好きなだけ使用していただいてかまわないということです」
「いっ……衣食住……それに、とっ、図書室……ですか⁉」
ここまでうまい話だとむしろ恐ろしさを抱くところだが、環の目は不覚にも輝いてしまった。
好きなだけ本が読める。歴史のある九條家の図書室となれば、きっと年代物の古書も保管されているかもしれない。
「どうです? お引き受けされますか?」
結局のところ、環は誘惑負けしてしまった。こくりと頷くと、口入れ屋は満足げに目を細めたのだった。
「うう……こ、こんにちは」
帝都の西の外れにある古民家に、この日は珍しく来客があった。戸を開けるやいなや飛び込んでくるうさんくさい笑みを前にして、やはり居留守を使えばよかった、と環は猛烈に後悔をした。
「そろそろ口入れ屋をお求めである頃合いかと思いまして。ええ、そうでしょう。わたくし、とても気がききますでしょう?」
「え、ええ……そう、ですね」
皺ひとつない燕尾服。光沢のあるシルクハット。細く釣り上がった目。萎縮するほどに明るい声色。
特徴的な亜麻色の髪は、顎の上あたりで綺麗に切りそろえられていて、まるで異国人のようだ。
このどことなくうさんくさい男は、口入れ屋として帝都市民を相手に仕事のあっせんをしている。
縁あって環もこれまでに何度も仕事をもらっているのだが、本音をいえば、仕事などせずに家にずっと引きこもっていたいところだった。
(生活に困ってはいるけれど、できればはやく帰ってほしい……)
環は極度の人見知りだ。会話すら億劫である。
生きてゆくうえで避けられないことだとはいえ、積極的に関わり合いになりたくないほどには、苦手意識があった。
叶うのなら、人と関わらず、家の中に閉じこもってただただひたすらに学術書を読みふけっていたいものだ。
(今回も内職であるとありがたいのだけど……)
そんな願いとは裏腹に、口入れ屋は意気揚々としているではないか。
どうやら手ぶらでは帰るつもりはないらしい。
「実はですねぇ、今回はほんっとうにあなたにぴったりな案件がありましてねぇ! それになにより、お給金もかなり弾みますよ」
環は、はあ、とため息をつくと、しぶしぶ口入れ屋を家の中へ通した。
茶のひとつでも出さなくては、いよいよ仕事のあっせんをしてくれなくなってしまうかもしれない。
仕事をしなくてよくなるのだから願ったり叶ったりなような気がしたが、それはそれで死活問題でもあった。お金がなくては生活もままならないとは、世知辛い。
環は台所に立って、いそいそと湯を沸かした。
「ど、どうぞ……」
「これはこれはかたじけない」
口入れ屋を居間に案内し、ちゃぶ台の上に湯呑を置く。環は視線のやり場に困った。人と目を合わせて会話をすることが苦手なため、しきりにそわそわしてしまう。口入れ屋は茶を一口含むと、さっそく本題だとばかりに切り出した。
「環さんは上野に門をかまえる九條家をご存じですかな」
「……く、九條家ですか?」
ちゃぶ台の上に両肘をつき、手を組み合わせて環を見つめる。いくら社交にうとい環でもその名は聞いたことがあった。九條家とはたしか、江戸初期から続く由緒ある名家だ。地主として代々栄華を築いていたが、今は当主一人のみが屋敷に身を置いているのだったか。
(どうしてそんな家の名前が出てくるんだろう)
環は猛烈に嫌な予感がした。口入れ屋の含みのある笑みを前にして、さああと血の気が引いていく。この男がこの表情を浮かべる時、いつも環は散々な目にあっている。それなりに付き合いは長い方だが、どうしたものか。環が内気な性格であることをよいことに、やっかいな仕事ばかり押し付けられている気配がある。
「その九條家が当主、周氏が契約上の婚約者をお求めであるようなのですよ」
「お……お断り、させてください」
ほらみろ、いろいろと破綻している案件ではないか。環は詳細を聞くことなく頭を下げたが、口入れ屋はころころと笑うだけで引いてくれる様子はない。
(それって仕事っていうの……? そもそも愚鈍な私に婚約者なんて大役……つとまらないと思う……)
「ただでさえ、その、人と、まっ……まともに会話ができない私が、できるわけ、ない、です」
「いいえいいえ、きっと環さんが適任でしょう。なんせ、九條周氏はとりわけ聡い女性をお求めであるようなのですから。ええ、わたくし、環さんほど賢い方にこれまでお目にかかったことがありませんので!」
「で、でも、む、むりです……。それにきっと、すぐに、契約破棄されるんじゃ……」
内気で人見知りな環は、幼い頃から家の中に引きこもって学術書を読みふけっていた。学術書は環を傷つけることはない。読めば読むほどに謎が広がり、それを解き明かしていく過程に病みつきになった。
環は女学校に通ったことはなかったが、数えで十九となった今、帝国大学の学生をも優に超えた学識を身に着けていた。
口入れ屋は環の賢さを見込んで、これまでに多くの仕事をあっせんした。おかげで高価な学術書を購入できているのだが、環にもできることとできないことくらいある。
「そうでしょうか、わたくし、目ききだけはよいのです。環さんは引っ込み思案でいるようで、案外肝が据わっておられる」
「ひいっ……」
「――なんでも、九條家のお屋敷では不吉な物音が聞こえるようでして、逃げ出してしまう婚約者があとを立たないようなのでございます」
口入れ屋はにっこりと笑みを作ったまま、態度を崩さない。
(‟不吉な物音″?)
環はごくりと生唾をのむ。肝が据わっているなどととんでもない大ほら吹きだ。これのどこに度胸があるというのか。
『不吉な物音……ねえ。そいつ、結構訳ありなんじゃねえのか?』
押し黙っていると、いつのまにか口入れ屋の隣にずんぐりむっくりな猫が座っていた。人の言葉を話す猫がいるものか、といったところだが、環は驚きもせずその生物を視界に入れる。しっぽが二つに分かれているそれは、人でも動物でもない存在。
――妖だ。
それは環だけでなく、口入れ屋にも見えている。いつものことだと言わんばかりに、にっこりと目を細めたまま、両手を顎の下で合わせていた。
「おやおやこんにちは、マダラさんも息災でなによりです」
『けっ……、いつもこいつに仕事くれるのはいいけどよ、マタタビのひとつくらい持ってこいってもんだよ』
「わたくしとしたことが気が回らず申し訳ございません。ですが、いくら猫又といえど、あまり食べすぎはよくないですよ」
『おまえにだけは言われたくないね、化け狐』
マダラはぴょんと飛び跳ねると、口入れ屋が被っていたシルクハットを奪い取ってしまう。
帽子で隠れていた頭部からは、ふっさりとした獣耳が現れた。
口入れ屋はとくに慌てる素振りもなく、優雅に茶を飲んでいる。また、差し向かいに座っている環も驚く様子はなかった。
口入れ屋が“人ならざる者”だということを環はあらかじめ認識している。もちろん、妖であると知っていながら仕事をあっせんしてもらっている。
どういうわけか環の周りには、妖が集まってくる傾向にあるらしい。
幼少時代からそうであったが、彼らは環の読書の邪魔をしてきたり、勝手につきまとってきたり、無視をしてもしつこく話しかけてきたりした。
迷惑を被ることがほとんどではあったが、慣れてくると、人間よりも単純明快で接しやすいと感じるようになった。
今となっては仕事のあっせんをもしてくれるようになるほど。人見知りな環にとっては、妖の方が身近な存在だった。
「しょうがないでしょう。腹が減ったらつい魔がさしてしまうこともあるのですよ」
「……うっ」
魔がさす――。いったい口入れ屋がなにを食べているのかは考えないことにする。
『おまえ、そうやっていい顔しておいて、いつか環を食うつもりじゃねえだろうな?』
「まさかまさか! 環さんはたしかにおいしそうな匂いがしますが、大切なお得意様です。それに、猫又のマダラさんがはりついているのに、手なんで出せるわけがないでしょう」
「お……おいしそう……」
(私、匂うのかな……)
冗談だとは分かっていながらも、心臓が変な音を立てた。この口入れ屋――もとい化け狐や、猫又のマダラは善良な妖だ。だが、すべての妖が理性を持っているわけではないことを環は知っている。だからといって、妖よりも人の方が恐ろしいと思うことに変わりはないのだが。
「ああ、わたくしとしたことが失敬。話が脱線してしまいました。先ほどの案件についてですが……」
「だ、だから、私にはむり……です」
「お給金がかなり弾むとしても……?」
身を乗り出した口入れ屋は、環の耳元に顔を寄せると小さな声で報酬金額を告げる。
「……な、なっ‼」
聞いたこともないような破格の報酬に環はふるふると震える。その金でいったい何冊の学術書が買えるのだろうか。断固として断る意気込みでいたが、その決心はいとも簡単に揺らいでしまう。
『まあ、賢さでいえばこいつの右に出るもんはいねえと思うし、陰気だけど‟不吉な物音″とやらにも耐性があるのは間違いねえしな……。なあ環! オレはもうひもじい生活はこりごりだぜ。たんまり稼いで、マタタビを山ほど食わせてくれよ!』
「ま、マダラまで……。だから、む、むりだってば……」
マダラはぴょんぴょんと居間を走り回り、最終的に環の頭の上に着地をした。
「け、契約とはいえ、こ、婚約者になるんだよ? わ、私むりだよ、まともに人と会話もできないのに」
『そんなもん妖どもだと思えばなんとかなるんじゃねえか? こんやくしゃってのがいったいなにするもんなのかは知らないけどね』
呑気に毛づくろいをしているマダラを心底羨ましく思う。自分もいっそ妖であったらどんなによかったか。
とはいえ、食い口を繋がなくてはならないのはたしかだ。
新しい学術書もほしいと思っていたところだったし、破格の給金にもうまみがある。もし万が一役不足であると判断されれば、むしろ先方から暇を出してくれるだろう。
そうなってしまったら、それはそれでよいかもしれない。
「ああそうそう。言い忘れておりましたが、婚約者を引き受けていただけた暁には、九條家での衣食住の保証、そして、屋敷内の図書室を好きなだけ使用していただいてかまわないということです」
「いっ……衣食住……それに、とっ、図書室……ですか⁉」
ここまでうまい話だとむしろ恐ろしさを抱くところだが、環の目は不覚にも輝いてしまった。
好きなだけ本が読める。歴史のある九條家の図書室となれば、きっと年代物の古書も保管されているかもしれない。
「どうです? お引き受けされますか?」
結局のところ、環は誘惑負けしてしまった。こくりと頷くと、口入れ屋は満足げに目を細めたのだった。