ジャンがいなくなってから、もうすぐ二年の月日が経とうとしていた。


「千夜子。レッスン行くついでに、これポストに出してきてくれない?」

 家を出ようとしたら母親に封筒を手渡された。ポストは道中にあるから特に問題はない。チャコは「わかった」と言い、素直にそれを受け取った。

「今日も帰りは夜?」
「うん。天気いいし、外で練習してから帰る」
「帰り、気をつけなさいね」
「はーい。行ってきます」

 チャコは駅前のポストに封筒を入れると、そのまま駅の改札を通り、目的の場所へと向かった。

 夢を見つけたあの日、チャコはすぐに両親にも話をした。そんなに簡単な道ではないときついことも言われたが、チャコが初めて見つけた夢を最終的には応援してくれた。金銭面でのサポートはなしという条件だったから、チャコは働きながらその夢を追っている。

 今向かおうとしているのも夢の実現のために通っている場所だ。チャコはそこでギターの弾き語りのレッスンを受けている。初めはボイストレーニングだけ受けていたのだが、半年前に両親について引っ越しをしたのを機に、ギターの弾き語りのレッスンを受けるようになった。チャコにはどうしてもギターの音が必要だったから。

 あれからジャンには一度も会っていない。河川敷に、『Joy』に、あの丘に何度も行った。けれど、ジャンがその姿を現すことは決してなかった。しげさんたちも何も聞いていなかったらしく、ジャンのことをとても心配していた。ジャンを見つけたときには必ず連絡すると言ってくれたが、その連絡はまだない。代わりにチャコを励ますように『Joy』の様子を教えてくれたりしている。

 今、チャコは生まれ育った場所からは随分と離れたところで暮らしている。半年前に両親の都合で関東に引っ越したのだ。今の場所からだと新幹線で二時間はかかるから、もうジャンとの想い出の場所にも簡単には行けない。引っ越し後に一度だけ恵と由香に会いに地元を訪れたが、そのときもジャンに会えることはなかった。会えないままもう二年が経とうとしているが、それでもジャンとの日々は今も色褪せることはなく、恋しさは募るばかりだ。


 あのとき。ジャンがいなくなったとわかったあのとき、チャコは心が張り裂けそうなくらい痛くてたまらなかった。毎日のように泣いていた。でも、どんなにつらくともあの日見つけた夢を追うことだけはやめなかった。だって、最後の日に交わした、一緒に夢を追うという約束とあのキスが嘘だとは思えなかったから。だから、今日もチャコは夢に向けて歩みを進めている。


 その日のレッスンを終えた帰り、チャコはこっちに越してから見つけた河川敷にやってきた。ここで練習するのがチャコのお決まりになっている。

「チャコ、お前上手くなったな」

 チャコの演奏に随分と上から目線で物を言うこの人物は、その物言いとは反対にとてもかわいらしい背格好の少年だった。少年は家がこの近所らしく、チャコの姿を見つけるといつも遊びに来る。小学二年生というから走り回って遊びたい盛りのはずだが、なぜかチャコに懐いていて、すぐにチャコのそばにやってくるのだ。

「ははっ。ありがとう、たけるくん。でもねー、私の大好きな人はもっと上手なんだよねー」
「そいつ天使なんだろ? 人間が天使に勝てるわけねーだろ」

 チャコはジャンとのことをこの少年によく話して聞かせていた。何でもストレートに受け取るから、とても話しやすかったのだ。変に勘繰ったりしないで、聞いたものを聞いたままに理解し、言いたいことをそのまま言うから、少年との会話はとても気が楽だった。

「あはは。そうだね。しかも、その人本当はギターの神様だからなー」
「え、神様なのか? すげーな。神様なら上手にしてくださいって、お願いすればいいんじゃね?」
「たけるくん、天才! お願いします! どうかもっと上達させてください! ははっ。これで上手くなるかな?」
「それは日ごろの行い次第だぞ」

 時々こういう小学二年生とは思えないワードを言ってくるからびっくりする。

「たけるくん……ませてるね」

 少年はその言葉の意味がわからなかったのか首を傾げていた。

「ギターはまだだけど、俺、チャコの歌は宇宙で一番好きだ」
「たけるくんー、ありがとう! そう言ってくれるたけるくんが大好きだよ」

 チャコは思わず少年の頭をよしよしと撫でていた。

「お、俺もチャコが好きだぞ。俺と結婚するか?」

 かわいい人物からのプロポーズに思わず笑いがこぼれた。

「ふふっ、ありがとう。でも、ごめんね。私は天使と約束してるんだ」
「天使と結婚できるわけないだろ」

 チャコが最初に天使と言ったものだから、ジャンはすっかり天使扱いだ。

「そうだねー。でも天使と一緒にいるって約束してるから」
「でも、天使いなくなったって……」

 なぜか少年のほうが淋しそうな表情を浮かべていた。チャコが淋しい想いをしているのを感じ取っているのだろう。

「うん。でも、私は諦めてないよ。ほら、ギターの神様でもあるし。ギターが上手くなったらきっと会える」
「じゃあ、チャコがさぼらないように俺が見張っててやる!」
「あはは、ありがとう。じゃあ、もう一曲やろうかな」

 チャコは少年のために、少年が気に入っている曲をギターを弾きながら歌って聴かせた。