「ふんふんふ~ん」

 自転車で風を切って走る中、チャコはお気に入りの曲を鼻歌で歌っていた。

 本当は大きな声を出して思いきり歌いたいけれど、さすがに通りすがりの人たちに聞かれるのは恥ずかしくて、周りに聞こえない程度に歌う。でも、段々と調子づいてきて、気づけばその鼻歌も随分大きなものに変わっていた。それは周囲の人たちに気づかれるほどに。

 だが、もはやチャコはそんなことなど気にしていない。ただただお気に入りの曲を歌うのが楽しかった。


 そんな楽しい気持ちで家までの帰り道を走っていれば、河川敷でギターを弾く人物がふと目に留まった。この河川敷で楽器を弾く人は珍しくも何ともない。よくある光景だ。それなのに、なぜかチャコの目はその人物に引きつけられてしまった。いや、引きつけられたのは耳だったのかもしれない。はっきりとは聞こえていなかったのに、どうしようもなくそのギターを聴いてみたい衝動に駆られたのだ。


 チャコは土手の上に自転車を止め、そっとその人物に近づいてみる。遠くからではわからなかったが、近づいてみればどうやらその人物は随分と若い人のようだった。

 ある程度距離を保ったまま後ろからそっと回り込む。そして、正面からその人物を見みてれば、そこにはなんと―――天使がいた。

「……きれい……」

 中性的で、どこか儚げで、少しあどけなさのある顔立ちの少年だった。中学生にも見えるが、きれいな顔立ちだからそう見えるのかもしれない。チャコと同じでもしかしたら高校生かもしれない。それより上ということはおそらくないだろう。

 なんだか少年の周囲には神聖な空気が満ちているような気がして、近づくのが恐れ多い。そのまま少し離れた位置で、ぼーっと少年を眺めていたら、こちらに気づいたらしい少年がチャコに視線を合わせてにこっと微笑んだ。

 天使の微笑みだった。

「っ!? 無理っ! しんじゃう!」

 チャコは胸を押さえてその場に蹲った。あまりにきれいな微笑みがチャコにクリーンヒットしていた。その場ではぁはぁと言いながら、浅い呼吸を繰り返す。周りを気にする余裕もなくそうしていれば、視界の外から、人の気配が迫ってくるのがわかった。チャコは恐る恐るそちらに目を向けてみる。すると、先ほど目にした天使の微笑みが間近から攻撃を仕掛けてきた。完全なるオーバーキルだ。

「ひっ!?」

 チャコは咄嗟に持っていた鞄で顔を隠して、その場を凌ぐ。十秒くらいだろうか。そうやって耐えていれば、人の去る気配を感じ、そっと鞄を外して周囲に目を向けてみれば、すでに少年は元の位置に戻っていた。もうチャコには目もくれず、ギターを奏ではじめる。

「……うわー、きれい」

 天使が奏でるギターの音色はとてもとても美しかった。柔らかくて、優しくて、温かくて、それはチャコが知っているものとはまったく違っていた。チャコの中では、歌に合わせてジャカジャカと鳴らすイメージだったそれは、きれいなメロディーを奏でていて、もうそれだけで完成されたものだった。

 少年は天使のような見た目だが、もしかしたら神様かもしれないとチャコは思った。ギターの神様だ。そのくらい少年のギターの音はチャコを惹いて止まない。チャコは吸い寄せられるように少年に近づいていく。その距離一メートル。つい先ほどまで近づくのが恐れ多いと思っていたはずなのに、今はもう近づかずにはいられなかった。

 そのまま美しい演奏に耳を傾ける。知らない曲だが、その旋律がどうしようもなくチャコの胸を締めつける。全身でその曲に浸っていたくて、チャコは目を閉じて少年の演奏を聴いていた。


 やがて音が止まり、チャコはそっとその目を開いた。二人の目が合う。少年はチャコを指さしたあとに、自分の目尻に指を持ってくると、そこから下に頬をなぞるように下ろしていった。チャコも同じようにして自分の頬に触れてみれば、そこが濡れているのに気づいた。泣いていたらしい。少年の演奏に感動して、涙をこぼしていたのだ。チャコは慌てて涙を拭うと、それをごまかすように少年に話しかけた。

「きれいだね、ギター。そのギターの音好き。ねー、近くで聴いててもいい?」

 少年は微笑むだけで何も言わなかった。だから、チャコはその微笑みを肯定と受け取り、一メートルの距離を保ったまま、少年の横に腰を下ろした。

 少年はその様子を黙って見ていたが、チャコが座るのを見届けたら、またすぐに演奏を始めた。


 どのくらい聴いていたのだろう。辺りを見れば徐々に日が落ちようとしているところだった。いつまで弾いているのだろうと思えば、タイミングよく立ち上がる少年。彼はそのまま土手を上り、帰っていこうとする。

「え、ちょっと待って!」

 チャコは慌てて呼び止めた。だが、少年はそれに応えずそのまま歩いていく。

「え!? ねー、ちょっと待ってって!」

 その二回目の呼び止めで少年は振り返った。周囲を見渡したあと、チャコのほうを向いて首を傾げている。

「明日も来る?」

 その問いかけに、少年はにこっと微笑むと今度こそ振り返らずに帰ってしまった。

「えー、今のどっち……」


 その日、チャコはなかなか眠れなかった。少年のギターの音がこびりついて離れない。チャコはその心をすっかり鷲掴みにされていた。


(もっと聴きたいな……)