新年度を迎え、チャコは高校三年生になった。今もジャンとは毎週水曜と金曜に会っている。春になって暖かくなると、二人はまた河川敷で過ごすようになったが、ときどきは『Joy』にも顔を出している。
天気のいい今日は河川敷で過ごしていた。ぽかぽか陽気が心地よくて、チャコはその場に寝そべって、ジャンの演奏を聴く。何とも贅沢な時間だ。
「やっぱり春って好きだなー。気持ちいい。このまま寝ちゃいそう」
目をつむって、春の空気を楽しむ。本当にそのまま眠ってしまいそうになっていたら、頬をつつかれる感触がして慌てて目を開けた。
「っ!? びっくりしたー。もう近いって」
ジャンがチャコを真上から見下ろしていた。その状況にチャコの心臓はバクバクいっている。すぐに耐えられなくなって、ジャンを押しのけるようにしながら起き上がった。ジャンは何か言いたげな顔でじっとチャコを見つめてくる。
「もう、ちゃんと聴いてるからそんな目で見ないでよ……」
チャコがそんなふうに小さく文句を言うと、ジャンはチャコの唇を指先で叩いた。
「何歌う?」
ジャンは何も言わずにもう一度唇を叩く。これは何でもいいから歌えということだ。歌ってほしいものがあるときはギターを弾いてくれる。だが今はギターには触れずにただチャコの唇に触れるだけだった。
「わかった。じゃあ適当に歌うね」
最初に頭に浮かんだ曲をアカペラで歌う。ワンコーラスだけ歌って、これで満足かとジャンに目を向ければ、ジャンは突然ギターをしまい、その場に立ち上がってしまった。
「ジャン?」
どうしたのかという意味で呼びかければ、目の前に手を差し出された。
「え?」
ジャンはにこにことしたまま、その姿勢を崩さない。チャコが恐る恐るその手に自分の手を重ねてみれば、グイっと引っ張られて、立ち上がらされた。そして、ジャンは地面に置いていたチャコの鞄を持ち上げるとチャコの手をしっかりと握り、土手を上りはじめた。
(え、何? なんで手つなぐの……はずかしい……)
男の子からこんなことをされたことなんてなくて、チャコはその顔を赤く染めていた。ジャンはこうやって急に距離を詰めてくることがあるから、チャコはいつもどうしていいかわからなくなる。それでもジャンが構ってくれるのが嬉しくて、結局いつも受け入れてしまうのだ。
チャコは大人しくジャンに従い土手を上る。チャコの自転車の前まで来るとジャンはそれを指さした。鍵を外せと言っているのだろうと思い、大人しく外してやれば、ジャンはそれを押して歩きはじめてしまった。
「え? 帰るんじゃないの?」
チャコがそう問えば、おいでおいでと手招きしてくる。こうなったらもう大人しくついていくしかない。チャコは黙ってついていった。
向かった先は『Joy』だった。
「こんばんはー」
「お? いらっしゃい。この時間から来るのは珍しいな」
「ジャンに連れてこられて……あ、山さんと真澄さんだ! こんばんは!」
「「こんばんは」」
真澄さん―――川越真澄もあのときセッションしていた一人だ。真澄はバイオリンを弾いている。今日はセッションのある日だから集まっているのだろう。
「ん? なんだよ、ぼうず」
ジャンは店のカウンターにあったチラシを一枚取り、それをしげさんの顔にグイっと近づけた。
「参加する気になったのか?」
しげさんがその言葉を発したあと、ジャンはなぜかチャコをしげさんに向かって差し出した。
「え? 何? ジャン?」
「あ? チャコちゃんがどうしたんだよ?」
チャコは何が起きているのかさっぱりわからない。ただただ戸惑っているとジャンに肩をつかまれ、椅子に座らされた。ジャンも椅子に座るとギターを取りだし、そしてチャコの唇に触れてきた。二回トントンと叩かれる。歌っての合図だ。
「え? ここで?」
ジャンが『Joy』でそれを求めてくることは一度もなかったし、なんなら素人がここで歌ったりしてはだめなのかと思っていた。だから、突然歌ってと言われてもチャコは素直に応じられなかった。ジャンはそんなチャコの唇をもう一度叩いてくる。
「えー……あの、ジャンが歌えって……」
「は?」
しげさんに告げれば、怪訝な顔をしている。山さんも真澄も不思議そうな顔でこちらを見ている。チャコだって今の状況がよくわからない。でも、ジャンがここまで望むならやるしかないだろう。
「歌ってもいいですか?」
「あー……まあ、いいけど」
「ありがとうございます。ジャン、何歌うの?」
ジャンが曲のイントロを演奏しはじめた。それはここ最近河川敷で歌っていた曲だった。チャコの親世代の曲だが、母親がよく歌っていたからいつの間にかチャコも歌えるようになっていた。ちょっと切ない春の曲だ。
歌いはじめれば、そこはもう二人の世界だった。ジャンの音に自分の声を重ねる。いつもと違う場所だったけれど、チャコには関係なかった。ジャンの音があれば、二人は二人の音楽を奏でられた。
ワンコーラスを歌い上げて、二人はその音楽を止めた。誰も何も言わなくて、しばしの静寂が訪れる。
「……いや、驚いた。そうか、そういうことか……ぼうず、お前今まで隠してただろ。わざとチャコちゃんに歌わせなかったな?」
ジャンは何かを訴えるようにしげさんを見つめ、その目をそらさなかった。
「はあー。まあ、言いたいことはわかった。お前も参加してくれるんだろ?」
ジャンはその問いに軽く頷いてみせた。
「わかったよ。チャコちゃん、音楽祭に参加してみる気はないかい?」
「音楽祭?」
「あー。今の歌、本当に素晴らしかった。おじさん感動したよ。だから、一緒にこの音楽祭に出てみないか? ボーカリストとして」
先ほどジャンが持ってきたチラシを渡された。それはこの地域で来月開かれる音楽祭のチラシだった。なんとなく話は見えてきたが、突然のことでまだちゃんとは思考が追いつかない。チャコが戸惑う中、しげさんは山さんと真澄に話を振っていた。
「山さんと真澄はどう思う?」
「いいと思います。今の歌ですっかりチャコちゃんのファンになってしまいました」
「同じく。彼女の声には独特の響きがある。とても繊細に聞こえるのに、芯が通っていて、人の心を打つ魅力がある。ぼうやが隠したくなるのもわかるよ」
「よし。あとは野中だけど、まあ、あいつも賛成するだろう。さて、チャコちゃんどうかな? 俺らの演奏で歌ってみない?」
「えぇ?」
「ごめん、ごめん。突然こんな迫られても戸惑うよな。順を追って話そうか」
しげさんがこれまでのことをわかりやすく説明してくれた。元々しげさんたちは音楽祭に演奏者として参加予定だったらしい。せっかくだからジャンも一緒に参加しないかと誘っていたところに今日の出来事が起こった。ジャンはチャコにも一緒に参加してほしいと思って連れてきたのだろうと言われた。
「本当に私が出てもいいんですか?」
「あー、いいよ。音楽祭といってもプロが出演するような本格的なものじゃなくて、地域密着型のお祭りだから、心配しなくて大丈夫だよ。それにチャコちゃんが出てくれたら、ぼうずも喜ぶぞ」
ジャンに目を向ければ、にこっと微笑まれた。しげさんの言葉を肯定しているのだろう。ステージで歌うなんて怖い気もするが、ジャンが望むのならチャコはそれに応えたかった。
「わかりました。よろしくお願いします!」
こうしてチャコのボーカリストとしての音楽祭への参加が決定した。
天気のいい今日は河川敷で過ごしていた。ぽかぽか陽気が心地よくて、チャコはその場に寝そべって、ジャンの演奏を聴く。何とも贅沢な時間だ。
「やっぱり春って好きだなー。気持ちいい。このまま寝ちゃいそう」
目をつむって、春の空気を楽しむ。本当にそのまま眠ってしまいそうになっていたら、頬をつつかれる感触がして慌てて目を開けた。
「っ!? びっくりしたー。もう近いって」
ジャンがチャコを真上から見下ろしていた。その状況にチャコの心臓はバクバクいっている。すぐに耐えられなくなって、ジャンを押しのけるようにしながら起き上がった。ジャンは何か言いたげな顔でじっとチャコを見つめてくる。
「もう、ちゃんと聴いてるからそんな目で見ないでよ……」
チャコがそんなふうに小さく文句を言うと、ジャンはチャコの唇を指先で叩いた。
「何歌う?」
ジャンは何も言わずにもう一度唇を叩く。これは何でもいいから歌えということだ。歌ってほしいものがあるときはギターを弾いてくれる。だが今はギターには触れずにただチャコの唇に触れるだけだった。
「わかった。じゃあ適当に歌うね」
最初に頭に浮かんだ曲をアカペラで歌う。ワンコーラスだけ歌って、これで満足かとジャンに目を向ければ、ジャンは突然ギターをしまい、その場に立ち上がってしまった。
「ジャン?」
どうしたのかという意味で呼びかければ、目の前に手を差し出された。
「え?」
ジャンはにこにことしたまま、その姿勢を崩さない。チャコが恐る恐るその手に自分の手を重ねてみれば、グイっと引っ張られて、立ち上がらされた。そして、ジャンは地面に置いていたチャコの鞄を持ち上げるとチャコの手をしっかりと握り、土手を上りはじめた。
(え、何? なんで手つなぐの……はずかしい……)
男の子からこんなことをされたことなんてなくて、チャコはその顔を赤く染めていた。ジャンはこうやって急に距離を詰めてくることがあるから、チャコはいつもどうしていいかわからなくなる。それでもジャンが構ってくれるのが嬉しくて、結局いつも受け入れてしまうのだ。
チャコは大人しくジャンに従い土手を上る。チャコの自転車の前まで来るとジャンはそれを指さした。鍵を外せと言っているのだろうと思い、大人しく外してやれば、ジャンはそれを押して歩きはじめてしまった。
「え? 帰るんじゃないの?」
チャコがそう問えば、おいでおいでと手招きしてくる。こうなったらもう大人しくついていくしかない。チャコは黙ってついていった。
向かった先は『Joy』だった。
「こんばんはー」
「お? いらっしゃい。この時間から来るのは珍しいな」
「ジャンに連れてこられて……あ、山さんと真澄さんだ! こんばんは!」
「「こんばんは」」
真澄さん―――川越真澄もあのときセッションしていた一人だ。真澄はバイオリンを弾いている。今日はセッションのある日だから集まっているのだろう。
「ん? なんだよ、ぼうず」
ジャンは店のカウンターにあったチラシを一枚取り、それをしげさんの顔にグイっと近づけた。
「参加する気になったのか?」
しげさんがその言葉を発したあと、ジャンはなぜかチャコをしげさんに向かって差し出した。
「え? 何? ジャン?」
「あ? チャコちゃんがどうしたんだよ?」
チャコは何が起きているのかさっぱりわからない。ただただ戸惑っているとジャンに肩をつかまれ、椅子に座らされた。ジャンも椅子に座るとギターを取りだし、そしてチャコの唇に触れてきた。二回トントンと叩かれる。歌っての合図だ。
「え? ここで?」
ジャンが『Joy』でそれを求めてくることは一度もなかったし、なんなら素人がここで歌ったりしてはだめなのかと思っていた。だから、突然歌ってと言われてもチャコは素直に応じられなかった。ジャンはそんなチャコの唇をもう一度叩いてくる。
「えー……あの、ジャンが歌えって……」
「は?」
しげさんに告げれば、怪訝な顔をしている。山さんも真澄も不思議そうな顔でこちらを見ている。チャコだって今の状況がよくわからない。でも、ジャンがここまで望むならやるしかないだろう。
「歌ってもいいですか?」
「あー……まあ、いいけど」
「ありがとうございます。ジャン、何歌うの?」
ジャンが曲のイントロを演奏しはじめた。それはここ最近河川敷で歌っていた曲だった。チャコの親世代の曲だが、母親がよく歌っていたからいつの間にかチャコも歌えるようになっていた。ちょっと切ない春の曲だ。
歌いはじめれば、そこはもう二人の世界だった。ジャンの音に自分の声を重ねる。いつもと違う場所だったけれど、チャコには関係なかった。ジャンの音があれば、二人は二人の音楽を奏でられた。
ワンコーラスを歌い上げて、二人はその音楽を止めた。誰も何も言わなくて、しばしの静寂が訪れる。
「……いや、驚いた。そうか、そういうことか……ぼうず、お前今まで隠してただろ。わざとチャコちゃんに歌わせなかったな?」
ジャンは何かを訴えるようにしげさんを見つめ、その目をそらさなかった。
「はあー。まあ、言いたいことはわかった。お前も参加してくれるんだろ?」
ジャンはその問いに軽く頷いてみせた。
「わかったよ。チャコちゃん、音楽祭に参加してみる気はないかい?」
「音楽祭?」
「あー。今の歌、本当に素晴らしかった。おじさん感動したよ。だから、一緒にこの音楽祭に出てみないか? ボーカリストとして」
先ほどジャンが持ってきたチラシを渡された。それはこの地域で来月開かれる音楽祭のチラシだった。なんとなく話は見えてきたが、突然のことでまだちゃんとは思考が追いつかない。チャコが戸惑う中、しげさんは山さんと真澄に話を振っていた。
「山さんと真澄はどう思う?」
「いいと思います。今の歌ですっかりチャコちゃんのファンになってしまいました」
「同じく。彼女の声には独特の響きがある。とても繊細に聞こえるのに、芯が通っていて、人の心を打つ魅力がある。ぼうやが隠したくなるのもわかるよ」
「よし。あとは野中だけど、まあ、あいつも賛成するだろう。さて、チャコちゃんどうかな? 俺らの演奏で歌ってみない?」
「えぇ?」
「ごめん、ごめん。突然こんな迫られても戸惑うよな。順を追って話そうか」
しげさんがこれまでのことをわかりやすく説明してくれた。元々しげさんたちは音楽祭に演奏者として参加予定だったらしい。せっかくだからジャンも一緒に参加しないかと誘っていたところに今日の出来事が起こった。ジャンはチャコにも一緒に参加してほしいと思って連れてきたのだろうと言われた。
「本当に私が出てもいいんですか?」
「あー、いいよ。音楽祭といってもプロが出演するような本格的なものじゃなくて、地域密着型のお祭りだから、心配しなくて大丈夫だよ。それにチャコちゃんが出てくれたら、ぼうずも喜ぶぞ」
ジャンに目を向ければ、にこっと微笑まれた。しげさんの言葉を肯定しているのだろう。ステージで歌うなんて怖い気もするが、ジャンが望むのならチャコはそれに応えたかった。
「わかりました。よろしくお願いします!」
こうしてチャコのボーカリストとしての音楽祭への参加が決定した。